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鬼藤千春の小説 「タコとり」 短編

  タコとり
     鬼藤千春

 洋平は堤防によじ登り、ぼんやりと腰をかけていた。洋平は小学三年生で、さっきカバンを縁側に投げ出して、ここにやってきたばかりである。
 濃い磯の香りが身体を包んでくる。洋平はこの香りが好きで、ふと振り向いて海を眺めた。遠浅の海は、小島のほうまで潮が引いて霞んでいる。翼を広げたとんびが、磯の上空をゆったりと、風に乗って舞っていた。東西にちょっと突き出た岬があり、半農半漁のこの村は、入江に寄り添うように、軒の低い家家が佇んでいる。
 ――いい潮だな、と洋平は思った。けれど、上げ潮に変わると、遠浅の海底を舐めるように潮は満ちてくる。そうなると、みるみるうちにこの磯まで辿りつくのだ。そして、岸辺に波が打ち寄せる。
 しかし、彼らの姿はまだ見えなかった。これから、鉄屑拾いにゆく約束である。昨日、雨が降った。そのあとがいいのだ。この村には小さな川が数本流れている。雨のあとには、いろんなものが上流から吐き出される。それに混じって、鉄屑も河口に集まってくるのだ。
 洋平は堤防に坐って、苛立つように足をぶらぶらさせている。西の家の角を曲がって伸吾が、東の角を曲がって源太がやって来る筈なのだ。東西の家の角をちらりとみたが、二人の姿は見えない。
 英雄の家はここから見えていたが、しんと静まり返っている。英雄は三つ年上の六年生である。それは、小さな家だった。六畳と四畳半のふた間きりである。それに、下屋を出し東側に狭い台所、西側に便所があった。風呂はない。それがうずくまるように建っていた。
 英雄の父は太平洋戦争で死んで、家には盲目の老婆と母だけである。十年前に戦争が終わり、その年の初めに、英雄の父は南方の島で戦死したといわれていた。が、まだ遺骨は還っていない。白木の箱が届けられたが、その中には、名前が刻印された薄い板だけが入っていたそうだ。
 丘の上の墓地には形ばかりの、木の墓標が立てられているだけだった。一度風雨で朽ちて、二、三年前に新しい墓標に遣り替えられている。墓標は石のように沈黙して、身じろぎもしないで立ち尽くしている。ときどき、英雄と母がうつむき加減に坂道を登って、墓参りにゆく姿をみかけることがあった。
 英雄はタコとりの名人である。でも、洋平がいくら頼んでも、決してタコのいる棲み家を教えてくれなかった。たぶん今日もタコとりに出かけているに違いないのだ。沖には数人の黒い人影がうごめいていた。タコの棲み家を捜すのはとても難しく、洋平にはまったく解らなかった。けれど、英雄は潮の引いた海底を、目を凝らして歩きながら、容易に巣穴を探り当てるのだ。洋平たちは英雄のことを、かげでケチ野郎と呼んでいた。
 洋平は眼を上げて山々に視線を送った。小高い稜線が低く高く流れている。が、ひときわ高い峰が天を突いていた。竜王山である。青い空をくっきりと切り取って聳えていた。洋平はまだこの山に登ったことがなかった。竜王山には大人たちがメジロを取りに行ったり、松茸をひきに入ったりする。けれども、洋平にはまだ無理だった。小学生でこの山に登ることが出来るのはごく稀である。洋平は竜王山に憧れをいだいていた。
 山の尾根から視線を下げると、山の裾野にみかん畑が広がっている。あれは魚問屋をやっている、健介の家の畑だった。もともと、洋平の家の畑もあの一角にあったのだ。さつま芋やカボチャや大根を作っていた。しかし、父が仕事で膝をいため、歩くのも叶わなくなった。そして、膝の手術をし、治療費と生活費を健介の家から借りた。が、返済期限までに払えなくて、あの畑を手放したのだ。
 その夜、母は悔し涙を流し、しきりにタオルで眼をぬぐっていた。まだ働きに出ることができなかった、大工の父が酒を呑んでいると、母は非難がましく、くどくどと責め立てるのだった。無口な父は、しばらく黙って聴いていたが、そのうち怒りを抑えきれず、食卓をひっくり返し、茶碗や箸が乱れ飛んだ。洋平はいたたまれず、涙ぐんで、自分の屋根裏部屋に駆け上がってゆくのだった。
 秋の陽が少し西に傾いて、みかん畑を明るく照らしていた。みかん畑は遠くて、濃い緑の木々しか見えなかったが、オレンジ色に染まったみかんが、陽射しを照り返しているように思えた。
 まもなく伸吾が、県道に面して建つ家の角を曲がって姿を現した。彼は歩くたびに身体が大きく傾き、揺れる。右足を一歩踏み出すと右側に傾き、左足を踏み出すと元に戻るのだ。まるで踊っているように右左に揺れる。幼児の頃、小児麻痺に罹り右足の甲が外側に曲がり、直立の姿勢をとっても、足裏が見えるのだった。
 伸吾は身体を踊るように揺らしながら、広場をゆっくり歩いてくる。洋平に近づくと伸吾の白い歯がこぼれた。
「どうしたんじゃ、遅かったのぅ」
 洋平は伸吾を睨んで、言った。
「うん、母ちゃんに叱られてたんじゃ。紙ストローを巻けと言われてなァ、――」
 伸吾は鼻水を袖でなでながら応えた。
 じつは、洋平もストロー巻きの仕事があったのだ。飲み物を吸って呑むストローは、はじめ麦わらで作られていたが、最近は紙を巻いて細長いくだに加工したものになっていた。
洋平は母に見つからないように、逃げ出してきたのだった。
 伸吾は堤防をよじ登ろうとして、滑って転んだ。――伸ちゃん、大丈夫か? と思わず声をかけたが、伸吾は転んだ姿勢のまま苦笑いを返してきた。左足でコンクリートをつかまえても、右足が踏ん張れないのだ。右足が氷の上のようにズルズルと滑るのだった。
 洋平は右手を差し伸べた。が、起き上がった伸吾は、いやだ! というようにその手を払い、堤防に手をかけて、登ろうとするのだった。両手で鉄棒の懸垂をするように身体を引き上げ、右肘を堤防の上にのせ、それを支えにして左足でコンクリートを蹴り、ようやく堤防の上に登った。伸吾の額は汗で光り、洋平の顔を見て、にっ、と笑った。――お前は頑固な奴だな、と洋平は言った。伸吾は洋平の横に並んで坐ったが、荒い呼吸をととのえていた。
 やがて、源太が東の角を曲がって、いきなり飛び出してきた。広場を疾走してやってくる。彼は堤防に坐っている洋平と伸吾の前までくると、息を弾ませながら二人を見上げた。
 源太は肩で息をしながら、顔を赤く染め鋭い眼を光らせていた。
「どうしたんじゃ?」
 洋平は源太の高ぶった様子に、思わず身を乗り出して訊いた。
 源太は唇を歪めて、
「チクショウ!」
 と叫んで、左手を右の拳で打った。
「来る途中、健介に会ったんじゃ。『どこにゆくんじゃ』と言うから、鉄じゃ、鉄を拾いに河口へ、と応えたら、『乞食のようなマネをするな』といいやがった、くそッ!」
 源太は、腹立たしげに唾を吐いた。
「ぼくらは、物貰いじゃねぇ!」
 伸吾が語気を強めて言った。
「そうなんじゃ。バカにしやがって、――」
 チクショウ! といって、源太は丘の方へ振り返った。
 源太の睨む視線の先には健介の家があった。この村をみおろす丘の上に、白亜の洋風の建物が、陽を浴びて輝いている。健介の家は村一番の分限者であった。魚問屋をし、広大な畑も持っている。健介はそれを笠に着て、いつも威張っていた。
「さあ、いこうぜ!」
 源太は気を取り直したように、威勢よく言って二人の膝を叩いた。
 洋平は、堤防の脇をしばらく歩いて、海苔の貼りついた階段を降り、海に出た。海は岸辺から十メートルほど砂地だったが、その先はぬかるんでいる。その砂地に沿って歩き、河口まで辿りついた。
 洋平は河口までくると、腰を曲げ、眼を凝らして行きつ戻りつしたが、目当てのものが見つからなかった。洋平は川をさかのぼっていって、ようやく錆びた船釘を数本みつけた。なおも上流へと足を踏み出したとき、不意に伸吾の叫び声が聞こえた。
「洋ちゃん、アカ、アカじゃ!」
 伸吾は右に身体を傾けて、左手を大きく振っている。
 源太がすぐに駆けより、洋平も河口へと走った。が、伸吾のもっているものは、コイル状をした合成樹脂で、ぬれた表面はつるりとして黒く光っているだけだった。
「伸ちゃん、それがアカ?」
 洋平はがっかりした口調で言った。
「洋ちゃん、アカじゃ、本当にアカだよ」
 コイル状のものを手にした源太は、その先端を覗き込んで、声を躍らせている。
 それは電線だった。洋平もぐるぐる巻きにされたものを手にとり、先端を覗いた。真っ黒の絶縁物におおわれたなかで、それは赤く鋭く、光っていた。
「伸ちゃん、やったなァ。アカ、たしかにアカじゃ」
 洋平は伸吾の方へ向き直り、笑顔を送った。伸吾は白い歯を覗かせて、はにかんでいた。
 アカ(銅)は、鉄類の数倍の値段で、屑屋が引き取ってくれるのだ。洋平は、紙グライダーを買うつもりで、鉄屑を拾い集めているのだった。それは出来合いのものではなく、木の部品を組み立て、紙を貼って作るのだ。そして、山の中腹から海に向かって飛ばすのである。彼らも、風に乗り翼を広げて滑空する、グライダーを夢見ていた。
「おい、もう少し捜そうぜ!」
 源太が二人の顔を交互に見て、言った。
 三人は伸吾が見つけた辺りを丹念に捜して歩いたが、もう何も見つからなかった。西の山に陽は落ち、空は茜色に染め上げられている。潮もすぐそばまで押し寄せてきていた。
「今日はこれまでじゃ。もう帰ろうやァ、――」
 源太が大きな声を張り上げた。
 三人は陸に上がろうとして、階段まで来たとき、英雄に出くわした。
「英ちゃん、どうじゃった?」
 と言いながら、源太はバケツの中を覗き込んだ。
「わッ、すげえ。こりゃ大漁じゃ」
 源太は英雄の顔を見上げて言った。英雄の顔に笑みがこぼれている。
 洋平と伸吾もバケツを覗き込んだ。タコがバケツの中でもつれあって、足をバケツの縁まで延ばして這い上がろうとしている。七、八匹以上いるに違いない。やはり、英雄はタコとりの名人だ、と洋平は思った。
「英ちゃん、タコの棲み家を教えてよ。なァ、頼むからさァ。頼む、頼むよ、このとおりじゃ」
 源太は拝むように手を合わせて、ちらと英雄を見た。
「うん、そうじゃなァ、……」
 英雄は、しばらく深い想いに沈んでいたが、
「そうじゃなァ……、良かったら、明日、一緒にいってみるか?」
 英雄はしんみりとした口調で、三人の顔に眼を走らせた。
 洋平は意外に思った。英雄はいままでぼくたちの頼みをかたくなに拒んできた。潮の引いた海に出るときは、いつも独りだった。唇をかたく結んで、ひとを寄せ付けない、厳しい表情を顔に刻んでいた。
「でも、伸ちゃんはちょっとなァ。ちょっと無理じゃろう?」
 英雄は伸吾の足元をみて言った。
 伸吾の長靴は、足首の辺りで折れたように曲がっている。
「大丈夫だよ。英ちゃん、ぼくも連れてってくれよ!」
 伸吾は口を尖らせて言った。
「でもなァ、――」
 英雄はしばらく考え込んでいたが、
「伸ちゃん、やっぱり無理じゃ。左足が沼地に沈んだら、右足の支えがきかんじゃろう。もうアウトだよ。タコとりはあきらめぇ、そんなに、甘うねえよ」
 英雄は諭すように言った。伸吾は悔しそうにうつむいて、唇を噛んでいた。
「ようし、明日は土曜日じゃから、二時にしよう。この階段の下じゃ、いいな」
 英雄は洋平と源太の顔に視線を走らせて、階段を駆け上がった。

 洋平は昨日、散々、母に叱られた。ストロー巻きの仕事を放り出して、鉄屑拾いに行ったからである。夕食のあと、洋平は母に言い付けられて、夜遅くまでストロー巻きをやらされた。
 ストローは幅三センチ、長さ二十センチくらいの、純白の紙を真鍮の棒で巻いてゆく。座卓の上に古新聞紙を敷き、十枚程度紙を重ね、それを三十センチほどの真鍮の棒の先で延ばしてゆき、糊代をつくる。そこに糊をつけて真鍮の棒で巻いてゆくのだ。最初、真鍮の棒に紙をのぞかせ、両掌で一気に押して巻き上げる。そして、右手で棒の右端を持ち、左手で引き抜いてゆくのだ。
 巻かれたストローは、元締め会社に集められ、蝋で皮膜されて製品として出荷される。大きな釜で蝋が煮えたぎっている。その中に直径十センチほどの紙ストローの束を半分くらいの長さまで浸けて、さっと引き出しストローを幾度も振って蝋のしずくをきる。次は片方の束を蝋釜に浸けて同じ作業を繰り返す。そうして、ようやくストローが出来上がるのだ。
 洋平は堤防の階段の下で、右掌をじっと見つめていた。皮膚が血で滲んでいる。昨夜のストロー巻きでマメが潰れたのである。その傷口がひりひりと痛んだ。洋平には今日もストロー巻きの仕事があった。が、学校から帰ると、そうっとカバンを縁側の端に滑り込ませて、母に見つからないように、一目散に逃げ出してきたのだ。おそらく今夜は、母の容赦のない叱責が待っているに違いない。――かまうものか、と洋平は思っていた。
 洋平は眼を上げて沖合いを眺めた。潮は遠くまでしりぞき、遠浅の海底が秋の陽射しにきらめいていた。この瀬戸内の岡山側の、入江の村からは四国山脈が望めるのだが、いまは刷毛を引いたような薄い雲に霞んで、ぼんやりとしている。
 いきなり源太の声が、堤防の上から降ってきた。
「おう、洋ちゃん早えなァ。母ちゃんに叱られなんだか。それにしてもいい潮じゃなァ、こりゃタコとりにもってこいじゃ」
 源太は長靴を履き、右手に鍬、左手にバケツを提げ、堤防の上で笑みをこぼしている。
 源太は三クラスある学年でも一番身体が大きかった。もう中学生並みの体格をしている。洋平は源太の首あたりしか背丈がなく、話すときはいつも見上げる恰好になった。源太は喧嘩をしても誰にも負けることはなかった。が、健介だけは違っていた。健介は小柄だが、兄からボクシングを習っていて、喧嘩が強かった。それにくわえて、村一番の分限者だったので、暗黙のうちにみんなが避けており、逆らうものがいなかった。だから、いつも威張っている。しかし、まだ源太と健介は衝突したことがない。互いに、それぞれの力を認め合っているからだった。
 源太が階段を降りてくると、すぐに英雄がやってきた。
「やァ、お揃いじゃなァ。伸ちゃんには悪いが、仕方ねぇ。そろそろゆくか、――」
 英雄はちらと二人に視線を送り、すぐに沖合いを眺め、潮加減を見るように眼を細めた。
 遠浅の海へ足を踏み出し、砂地からぬかるみの泥地に入り込んだ頃、
「おーい、おぅーい、待ってくれ―ぇ」
 と、甲高く叫ぶ声が聞こえた。
 階段の上に右肩を下げて立っているのは、伸吾だった。洋平たちは驚いて互いに顔を見合わせた。彼はひときわ身体を右左に大きく揺らしながら、階段を降りてくる。唇を噛み真剣な表情で、砂地を蹴りいっさんにやってきた。
「伸ちゃん、大丈夫? 陸とは訳が違うぜ、ぬかるみの中をゆくんじゃからなァ、――」
 源太がいくらか怒ったように、言った。
「ううん、平気さ。大丈夫じゃ、へっちゃらだよ」
 伸吾は少し強がって応えた。
「伸ちゃんには負けたよ。ようし、じゃ、いざ出陣じゃ」
 英雄は苦笑いを浮かべていた。
 伸吾は右足の長靴の足首と中ほどを、紐でぐるぐると固く縛りつけていた。四人はゆっくりと、ぬかるみの泥地へと踏み出していった。
 突然、洋平の足元で潮が噴きあがり、驚くと同時に、しめたと思った。
「源ちゃん、シャコじゃ、シャコだよ」
 洋平は小躍りして叫んだ。
 源太は振り向いて、泥を跳ね上げないように、摺り足で近づいてきた。
「洋ちゃん、もう一度、押してみい、な」
 源太は洋平の足元を指差して言った。
 洋平は右足にかえて、強く踏み込んだ。すると、五、六十センチ先から、また潮が噴きあがった。
「洋ちゃん、たしかにシャコの穴じゃ。もっと、もっと強く押してみい!」
 源太は気炎をあげた。
 洋平は右足を泥にめりこませるように、幾度か押した。そのたびに潮が噴いた。
「洋ちゃん、顔がのぞいたよ。あと少しじゃ、がんばれ!」
 源太は向こう側の穴を覗き込んで、さかんに囃し立てた。
 洋平が力を入れて踏み込むと、シャコが躍り出た。シャコは泥地に押し出されて、身体をくねらせている。
「洋ちゃん、やったぜ! 一丁あがりじゃ」
 源太は跳ねるシャコの背を折るようにつまんで、バケツに放り込んだ。十五センチもある大きい奴だった。洋平は腰を折りバケツを覗き込んで、源太の顔を見上げた。洋平は誇らしい気持ちが湧いてきた。源太も自分のことのように喜んだ。
 シャコは穴をつくって棲んでいる。穴にはふたつの口があって、それが繋がっている。その間隔は五、六十センチ、深さ四、五十センチの巣穴である。潮が引くとその巣穴のなかに身をひそめているのだ。潮が噴きあげたのは、洋平が一方の穴の上を踏んだからだった。子どものシャコとりは、とにかく泥地を歩いてあるいて、潮が噴きあがるのを待つのである。
 源太がひとつの石を見つけた。石のある水溜りは、恰好の魚介類の棲み家なのだ。源太が両手を結んで抱えられるくらいの大きさである。が、持ち上げるには重すぎた。それは泥地に水溜りをつくっており、表面にはカキの殻や海苔が貼りついている。伸吾もやってきた。
「あッ、魚がいるぞ!」
 伸吾がいきなり声をあげた。
 伸吾は膝を折り、水溜りの中に両手を差し入れて、魚を追った。不安定に伸吾の身体が揺れている。
「源ちゃん、つかまえたぞ。そら!」
 伸吾は叫んで、嬉々として立ち上がった。
 そのとき、伸吾の左足が泥地に沈み、身体が大きく傾いて転んだ。
「伸ちゃん、大丈夫? あァ、あ、ズボンが泥まみれじゃ」
 源太が駆け寄った。
 伸吾は仕舞った、というふうに苦笑いを浮かべた。魚は両手から放さず、固く握りしめている。ハゼだった。洋平はハゼを受け取り、源太は泥まみれの伸吾を抱き起こした。
「ありがとう。やっちゃったよ。でも、へっちゃらじゃ、こんくらい」
 伸吾は泥を払いながら、言った。
 源太はまた水溜りの魚を追って、石の底を手探りしている。
「洋ちゃん、まだいるぞ! いいカタのカレイじゃ」
 源太は石を抱くようにして、水溜りを探っていた。
「痛ッ、――」
 源太は悲鳴を上げて、石の底から手を引き抜いた。
「カニじゃ、カニの鋏で噛まれた、――」
 源太は右手を痛そうに振っていた。が、彼の右手首から血が噴きだしている。
「源ちゃん、血、血じゃ」
 洋平は源太の手首を押さえながら、言った。
 押さえても血は止まらず、ほとばしるように血が噴きだしている。カニに噛まれ、すばやく手を引いたとき、石についたカキ殻で手首を切ったようだった。洋平は上着を脱ぎ、肌着を引き裂いて、源太の手首をぐるぐると巻きつけた。
「おぅーい、何をやっとんじゃ。早くせんと、上げ潮になるぞォ―」
 英雄の少し怒ったような声が、遠くから聞こえてきた。
「おい、早ういこうやァ。英ちゃん怒ってるよ。でもなァ、伸ちゃんはこれより先はちょっと無理じゃ。伸ちゃんこの辺におれよ。また、タコの巣穴は教えちゃるけん」
 源太は歩き出しながら、言った。
 洋平と源太は、そこに伸吾を残して立ち去った。水平線に紫がかった青色の島々が浮かんでいる。海面はさざなみが立ち、秋の陽を照り返して光っている。東の岬の坂道をバスが揺れながら登ってゆくのが見える。
 英雄は鍬でしきりに泥を掻き出していた。
不意に英雄が振り向いて、
「何をやっとんじゃ。遅いぞ、もう、上げ潮に変わったぞ」
 と、ふたりを睨んだ。
 英雄のバケツを覗き込むと、タコが三匹いた。タコはバケツのなかで、もつれ合い、長い足を伸ばしたり縮めたりして、絶えずうごめいている。
「あッ、タコじゃ。英ちゃん、もう三匹も獲ったんだね。やっぱり名人じゃ。スゴイなァ、――」
 源太がびっくりしたように声を上げた。
 英雄は穴を四、五十センチ掘って、鍬を放り出し、右手で穴を探っている。袖を肘の上までまくりあげ、眼を細めて指先に神経を集中させているようだった。顔を横にむけ、唇を固く結んで、手をさらに突っ込んだ。彼の顔が一瞬ゆるんだ。穴から手を抜くと、手首にタコが絡みついていた。英雄は立ち上がると、ふたりを見て、にっと笑った。
「英ちゃん、すげえなァ、ぼくらにもタコの巣穴を教えてよ」
 源太はバケツに放り込まれた、タコに触りながら言った。
「源ちゃん、タコとりはそんなに甘うないぜ。まァ、ついてきてみい、な」
 英雄はバケツと鍬を提げて歩き出した。
 上げ潮に変わって波がすぐそこまできている。泡だった潮がひたひたと押し寄せてくる。
英雄は腰をおり、首を突き出して、泥地の表面を舐めるように視線を這わせるのだった。
泥地は傾いた陽に照らされて光っている。蛇の肌のようにぬめぬめとしており、海の生き物たちの恰好の棲み家のように思えた。しばらく歩きまわった。が、タコの巣穴はみつからない。英雄は同じ姿勢で泥地を睨みながら、歩いてゆくのだった。一瞬、英雄の足が止まった。膝を折って、周りの泥地をじっと眺めている。
「あった、これがタコの巣穴じゃ」
 英雄は振り向いて、その巣穴を指差した。
 洋平と源太は伸吾の指先の泥地を覗き込んだ。が、洋平には他の泥地となんら変わらないように見えるだけだった。じっと眼を凝らしてみても解らない。
 不意に、泥地を歩く足音を聞いた。振り返ると、伸吾が右の足を引き摺り、身体を右左に大きく傾かせながら近づいてくる。傍までくると、彼は白い歯をこぼしてはにかんでいた。洋平は驚いて一種の感動をさえ覚えた。
「解らないか、そうじゃろうなァ、いいか、泥地がわずかに盛り上がっているじゃろう。洋ちゃん、解るか。それだけじゃないんだ。その上に砂をまぶしたようになっているじゃろう。これがタコの棲み家なんじゃ。洋ちゃん、掘ってみるか、――」
 英雄は洋平に鍬を渡した。
 洋平は両掌に唾を吐き、鍬の柄を固く握り締めて、泥地に一撃を加えた。泥を掬い上げながら洋平は掘り進んだ。深くなるにつれて両足を広げ、背を低くして穴を掘った。が、英雄は、――まだ、まだじゃ、と言った。洋平の腰にしびれが走った。が、洋平は泥と格闘するように、鍬をしきりに打ち下ろした。
「洋ちゃん、そのくらいでいいぞ。今度は腕を突っ込んで、タコの穴を探るんじゃ。いいか、横に穴を掘っていることもあるから、ぬめぬめしたところを捜すんじゃ」
 英雄は洋平の前で膝を折って、声をかけた。
 洋平は袖をまくりあげ、右膝を泥地につけて、腕を穴の中に差し込んだ。けれど、タコはいなかった。英雄がやっていたように、顔を横に向け、眼を細めて指先に神経を集中させた。上げ潮の波がひたひたと寄せてきて、すぐそこまで潮はきている。洋平は焦った。が、掘り進んだ大きい穴の壁にぬめりのある小さい穴がある。――しめた、と洋平は思った。その穴に指先を差し入れ、奥へ奥へと腕を伸ばした。その指先にタコの足がからんできた。タコの吸盤が洋平の手首を這い上がってくる。足を引っ張ったら、切って逃げられてしまう。洋平は、右肩を穴に突っ込み、さらに手を奥まで差し入れて、ついにタコの頭をつかんだ。
「英ちゃん、タコじゃ、タコだよ」
 洋平はタコを持ち上げて、叫んだ。
 洋平は初めてタコを獲った。持ち上げていたタコは勢いよくスミをとばし、洋平の服を黒く染めた。潮が押し寄せてきて、洋平の長靴は波の中にあった。
「洋ちゃん、良かったなァ。タコとりは面白いじゃろう。洋ちゃん、泥まみれじゃなァ。おまけにスミまで吐かれて、でも、良かったよ。さあ、もう帰ろうやァ」
 英雄はみんなを促した。
 秋の陽はもう落ちて、島々がシルエットになって浮かび上がっている。足元から、夕闇が這い上がってきていた。磯まで辿りつくと、英雄はバケツからタコをとりだし、みんなのバケツに一匹ずつ投げ入れた。
「では、みんな、さよなら、――」
 英雄は手を振って、夕闇のなかに溶けていった。

 翌日は日曜日だった。洋平はストロー巻きの仕事を終えて、昼食にさつま芋の沢山入ったお粥を食べていると、母がぽつりぽつりと話し出した。
「英ちゃんは、偉かったなァ、毎日のようにタコとりにでかけていたけれど、あれは遊びじゃなかったんじゃ。獲ってきたタコは全部魚売りのところへ持っていっとった。その金はかあちゃんに渡していたそうじゃ」
 母は洋平の突き出す茶碗にお粥をつぎたしながら、優しく言った。
「そうじゃ、洋平、英ちゃんは今日、かあちゃんの里へゆくそうじゃ。もう、この村では暮らせなくなったというて、――」
 母は箸を置いて、遠くを眺めるような眼をして言った。
「えっ、英ちゃんが、……」
 洋平はしばらく沈黙していたが、茶碗と箸を投げ出すようにして立ち上がり、玄関の戸を荒々しく曳いて飛び出して行った。背中で「洋平ーッ」という母の声が聴こえた。
 洋平は源太と伸吾の家をまわり、三人で英雄の家に向かった。途中、洋平たちは健介の家に立ち寄って、みかんを七、八個手にいれた。グライダーのために鉄屑を拾って貯めていた金で、みかんを求めたのだった。
 健介の家を出ると、洋平たちは英雄の家に向かって急いだ。脇目もふらずに坂道を駆け降りた。周りの風景がうしろへ、うしろへ飛んでいった。
 洋平たちは、荒々しい呼吸を鎮めながら、英雄の家の前に立った。が、英雄の家は息を殺したように、ひっそりとしていた。洋平は二人にちらと視線を投げて、玄関の戸を曳いた。立て付けが悪く、引き戸は軋んで鳴った。
家の中にはもう何もなかった。薄暗い空間が、ぽっかり口を広げているだけだった。取り去られた戸棚の下の畳の色だけが、白っぽく浮いていた。
 洋平は玄関に足を踏み入れて、呆然と立ち竦み、畳の上にみかんを投げ出した。わけもなく、哀しみが込み上げて、涙があふれてくるのだった。新聞紙からみかんが一個こぼれて、畳の上をころころと転がっていった。
 みかんは黄金色の光を放っていた。

鬼藤千春の小説 「風花の中へ」 短編

 風花の中へ
             鬼藤 千春

 立春を迎えたが、震えるような寒い日だった。哲也は二階のアトリエで、インターホンの鳴るのを聞いた。窓から覗くと、中年の女と若い女が玄関の前に立っていた。彼は受話器の内線のボタンを押して、耳に当てた。
「どちら様でしょうか」
「あのう、シャホキョウのものですけど――」
「シャホキョウ? どんな御用件ですか」
「じつは、署名のお願いに伺ったんですが、よろしくお願いします」
「署名? 関係ないよ。うちは署名なんかしない流儀なんだよ。玄関の横に札を貼ってある通りだよ。寄付、押し売り一切お断りっていう札があるでしょう」
「でも、寄付や押し売りとはちょっと違うんですが――」
「まあ、似たようなもんだよ。寒いのにご苦労さんでした。なにか資料のようなものがあれば、ポストに入れといてくれてもいいよ。気が向いたら読んでみるよ。それに暇があったらな、――」
 哲也は苛立ったような声を挙げて、受話器を置いた。
 二階から見下ろすと、チラシのようなものをポストに差し込み、二人はとなりの家に向かって歩いて行った。中年の女が哲也の玄関の方を振り返り、「チエッ」と呟いて、唇を歪めているように見えた。二人は顔を見合わせて、何か囁いていた。――偏屈な人だわね、などと言い合っているように思えて、哲也は
レースのカーテンを勢いよく引いた。
 彼は三年前に、小さな建築会社を定年退職した。その会社に中途入社して、二十年余り現場監督をしてきた。が、定年後の生活設計は何も考えていなかったから、当初は途方に暮れて、日々をもてあそんでいた。
 しばらく図書館通いに明け暮れたこともあった。午前九時の開館にきっちり間に合うように出掛け、昼食を摂って、また午後五時まで時間を潰すというふうだった。図書館では、新聞や週刊誌に眼を通したり、ソファーに座り込んで、居眠りをしたりして過ごした。
 が、哲也の心はなぜか満たされなかった。半年ばかり続いただろうか、それに飽きて彼は何か趣味を見つけたいと思うようになった。そして、ふと思いついたのが、絵を描くということだった。
 哲也は四十年以上も前、高校の時代に美術部に入って絵を描いていたのだった。卒業以来、絵筆を握ったことがなかったのだが、図書館通いに倦んで、それを思い出したのである。
 彼は何事も思いついたら前にすすむ性質(たち)なので、アトリエの手配にすぐかかった。ちょうど具合がよかったのは、長男夫婦が家を新築し、出ていったばかりだった。彼らの寝室は十二畳もあり、アトリエにするには格好の室だった。が、その室は妻が使用していたので、ひと悶着あった。
「何を言い出すの。あんたの部屋は、一階にあるじゃありませんか」
 妻はキッチンで振り向き、英治を睨んだ。
「絵をやりたいんだよ。和室で絵というわけにもいかないじゃないか」
 哲也はカップのコーヒーをかき混ぜながら、妻の方に視線を投げた。
「あんたは、思い立ったが吉日とばかり突っ走るけど、三日坊主が殆どよ。ウオーキング・マシン然り、釣り然りだわ。それらの道具は、倉庫でほこりを被って眠っているのよ。絵だってそうに決まってるわ」
 妻は苛立つように、食器をぶつける音をさせている。その背中は明らかに怒りの感情が表れていた。
 しばらく妻の愚痴を聞いていたが、結局哲也は二階の室に移ることになった。その室を彼はアトリエにすることにした。
 それからというもの、哲也は絵にはまってしまった。妻の心配していた三日坊主になることもなく、三月(みつき)たち一年が過ぎて、まもなく三年になろうとしている。
 しかし、彼は近所付き合いをまったくしなくなったばかりか、アトリエから出るということも殆どなくなってしまった。彼が家を出るといえば、週に二日、朝食のパンと牛乳を買いに、町のコンビニに行くくらいのことである。そして、月に一度、所属する美術会の会合と二月(ふたつき)に一度、病院へ胃腸の薬を貰いに行くだけだ。
 彼はいつのまにか、周りの人々から「寄島の仙人」と揶揄されるようになっていた。寄島というのは、彼の暮らす小さな町のことである。
「哲ちゃんは、何をしよんじゃ。定年になって、仕事もやめたんじゃから、もっと町内のことをしてもらわにゃおえん。町内の草刈やゴミステーションの清掃にも、まったく出てこんのう。草刈や清掃ならまだええけど、裏の銀次郎さんが死んだいうても顔も覗けんのじゃからのう。ちいたあ、町内のことも手伝うように、よう言うといてくれえ」
 そういう苦情を、妻は聞いて帰るのだった。
「そりゃ、一軒のうちから一人出りゃええいうても、わたしばかりじゃなく、お父さんも時々ゃ顔を覗けてくれにゃあ。わたしも白い眼で見られて、辛いんよ」
 妻が草刈から帰るなり、アトリエに上がってきて哲也を睨むのだった。
 彼はアトリエにいて、音楽を聴きながら絵を描いたり、本を読んだりする時間が至福の時だった。近所の人たちのところへ出て行って、人々や町の噂話などするのは、てんで苦手だった。そんな厄介なことに関わりたくなかったのだ。
「わたしは寄島の仙人でいい」と彼は思っていた。七時に起床して午後九時頃まで、終日家の内におり、その殆どをアトリエで過ごす生活は彼によく合っており、捨て難いものだった。
 哲也はきりのついたところで、キャンバスを眺め、絵筆を置いて、アトリエを出て行った。
「シャホキョウ? 天理教、黒住教、シャホキョウ――。どんな宗教なのだろうか。宗教団体が署名を集めるものだろうか」
 哲也は呟きながら、階段を下りて行った。
 彼は玄関のドアを開き、ポストを覗き込んだ。ポストにはパンフやチラシが丁寧に差し込まれていた。ポストの蓋を開きそれらの資料を摑んで、ざっと眼を通した。
 哲也はアトリエに戻って、コーヒーを沸かして淹れた。それを飲みながら、デスクの椅子に座って資料を眺めていると、彼はとんだ誤解をしていることに気づかされた。
「シャホキョウ」というのは、宗教でもなんでもなく、「社保協」のことであり、正式には社会保障推進協議会だということを初めて知った。還暦を過ぎて、「社保協」という団体に初めて御眼にかかった。署名というのは、「社会保障と税の一体改革」に反対する署名であった。
 いくら「寄島の仙人」と言えども、「社会保障と税の一体改革」という言葉を知らないというわけではなかった。テレビをつければ、決まってそのことが話題になっており、心の片隅に引っ掛かっているのだった。が、その中味については、殆ど分かっていなかった。パンフを読んでゆくうちに、哲也は背中をさっと、寒気がつらぬいてゆくのを感ずるのだった。
 ――政府・民主党政権は、二〇一五年までに消費税を五%から十%に増税するとしている。夫婦二人の世帯で月二十万の年金の場合、現在十万の税金が二十万になる、というのである。年金は、二〇一五年までに、七万三千円の減額となり、介護保険料は二〇一二年十月より、一万五千八百円の増額になる、というものだった。
 パンフには、棒グラフを使って分かりやすく示されていた。
 哲也は思い立ってパソコンを立ち上げた。彼は家計簿をパソコンで作成しており、家の経済状況がひと眼で分かるようになっていた。データファイルを開くと、収入の部と支出の部のページが表示された。
 それを覗き込んで彼は、「うっ」と一瞬声を挙げそうになった。我が家の家計が「社保協」のグラフと殆ど一致しているからだった。年金収入は夫婦合わせて二百八十万、この中から国民健康保健税が三十万と固定資産税が十万で、可処分所得は二百四十万で月二十万ということになる。
 彼はパソコンの前で腕を組み、ひとしきり唸っていた。二百四十万から年金の減額七万三千円、消費税十万、介護保険料一万五千八百円の増額になったら、我が家の経済はピンチである。今でさえ我が家の収支のバランスはとんとんなのだ。これが実施されたら赤字になってしまうことは明らかである。何が「社会保障と税の一体改革」だというのだろうか。社会保障を削り、消費税を増税するというシナリオに過ぎないのではないだろうか。
 哲也はしばらく考えていたが、このアトリエに引きこもっている場合ではないような気がしてきた。いつか「社保協」の署名用紙をもって、近所を回ってみたいと思うようになった。
 その日、北の空は鉛色に沈んでいたが、上空はいくらか青空がのぞいていた。が、冷たい北風が吹き、風花の舞う、凍えるような寒い日だった。彼は首にマフラーを巻き、コートを着込んでアトリエを出た。
 哲也は玄関を出ると、肌を刺すような風にぶるっと震えた。が、それはただ単に寒さだけのものではなかった。三年間もアトリエに引きこもり、近所付き合いもしてこなかったことが、緊張をもたらしているのだった。
 彼はそこで一瞬ためらい、足がすくんでしまって、ポーチに留まっていた。が、彼は左手のパンフとチラシ、署名用紙の入ったファイルを覗き込むと、ためらう気持ちが少しずつ溶けてゆくのが分かった。パンフの色刷りのグラフが鮮明に甦ってきたのだった。
 ――そんな生き方でいいのか、という自問が胸をせり上がってきた。いや、こんな生き方でいいわけはない、と呟いて、哲也は風花の中へ踏み出して行った。

鬼藤千春の小説 「赤い傘」 短編

  赤い傘

           鬼藤 千春


 高野哲矢は、深い眠りからふと目覚めた。となりの蒲団には兄と妹が眠っていて、軽い寝息を立てている。部屋は闇に包まれていた。が、襖の隙間からかすかな光が洩れている。彼は闇の中でぼんやりとしていたが、また眠りに引き戻されそうだった。そんな折、襖の向こうから声が聞こえてきた。
「あなた、亜希ちゃんのおっかあは、寝る時、蒲団の中に草刈鎌を持って入るそうよ」
 母のささやくような声だった。
「亜希ちゃんといやあ、哲矢の同級生の子じゃのう。そのおっかあがなんでまた、物騒な鎌なんか蒲団の中に持って入るんじゃ」
 野太い父の声が聞こえた。
「亜希ちゃんのおとうは、戦争で死んだでしょう。それで源爺が酔っ払って、嫁の蒲団にもぐり込もうとするらしいわ。おっかあは、いつも亜希ちゃんを抱いて、寝るんじゃそうよ。そして、鎌を蒲団の中に入れとくらしいわ」
 声を殺して母は言った。
「源爺はよく酒を飲むからのう。亜希子のおとうは、岡山の歩兵第十連隊じゃったんじゃ。昭和二十年の春に、ルソン島で連隊のほとんどがやられてのう。源爺は息子の戦死の公報と、遺骨も遺品もなんにも入ってない、白木の箱を役場から受け取ったんじゃ。それからおかしゅうなったらしいのう」
 咳をひとつして、父は言った。
「それに源爺は、最近出るようになった遺族年金を、亜希ちゃんのおっかあに渡さずに、みんな飲んでしまうらしいよ。おっかあは、バンコック帽子の、機織りの内職をしてるんじゃけど、満足に喰うていけんらしいわ。だから、亜希ちゃんの雨傘や雨靴も、買うてやれんそうよ」
 溜め息をつくように、母は言った。
 やがて、となりの部屋から声が途絶え、明かりが消えた。が、哲矢は眼が冴えて、なかなか眠ることができなかった。彼は闇の中でまんじりともせず、眼を見開いて天井を睨んでいた。
 銀色に光る鎌の刃が、鮮やかに哲矢の脳裡に浮かんでくる。その鎌が亜希子の蒲団の中に、ひそかに隠されているのかと思うと、鳥肌が立つ思いだった。彼女はその蒲団の中で、母に抱かれ毎夜身体を縮めて、眠っているのだろうか。彼女のおっかあはそうして、源爺から身を守っているのだろうか。
 戦争が終わって、もう八年が経とうとしていた。だが、源爺は昼間から酒を飲んで、海辺や小高い山を彷徨っているのを、哲矢は見かけることがあった。
 その源爺が亜希子のおっかあを、夜襲うというのを聞いて、哲矢は俄かに信じることができなかった。源爺は蒲団にもぐり込んで、何をしようというのだろうか。あの濁った眼を鋭く光らせて、彼女のおっかあに抱きつくのを想像すると、哲矢はぞっとするような、おぞましさを感ずるのだった。
 それに哲矢は、雨の日に亜希子が学校を欠席する理由について、初めて分かったような気がした。それが彼には深い疑問として、今まで胸にわだかまっていたのだった。彼女は雨が小降りの時は、深く帽子を被って、濡れながらでも学校にきていた。が、本降りの雨の日には、たいてい学校を欠席するのだった。小学六年生の彼女は梅雨を迎えて、学校を休むことが多くなっていた。哲矢はやっと疑問が解けたように思えた。
 いつのまに降り出したのだろうか、庇のトタンを叩く雨の音が聞こえてくる。間断なく降り注ぐ雨の音を、哲矢はしばらく聞いていた。朝までに雨が止むように、彼は祈るような心持ちだった。その雨だれは、心なしか憂いを帯びているように響いている。彼は雨音に誘われるように、また眠りに落ちていった。

 哲矢は教室に入って椅子に坐り、斜め後ろの亜希子の席を振り向いた。いつもなら、哲矢が振り向いて微笑むと、彼女も恥らうような笑みを返してくるのだった。だが、亜希子はその席にいなかった。机だけが淋しそうに、ぽつんと取り残されていた。
 窓の外に眼をやると、深夜から降り出した雨はいっこうに衰えず、斜めに降り注いでいた。台風といえばだいたい夏から初秋のもので、梅雨の季節に日本列島に近づくというのは、めずらしいことだった。その台風が梅雨前線を刺激して、猛烈な勢いで雨が降っている。
 哲矢はその雨を、恨めしい思いで眺めていた。亜希子はどんな思いで、この雨を見つめているのだろうか。それを思うと、彼の心は棘が刺さったように痛むのだった。そこへ猛雄と清志がやってきた。
「哲ちゃん、ぼんやり外を眺めて、何を考えとんじゃ。しっかりせにゃあ、元気がねえのう」
 哲矢の肩を叩いて、猛雄が言った。
「うん、なんでもねえ。流れる雲をみょうたんじゃ。すげえよ、雲がとぶように流されとるじゃろう」
 哲矢は不意を突かれたようで、どぎまぎして答えた。
「ほんまじゃなあ、黒い雲が千切れて飛んどるのう。台風の眼の方へ引き寄せられとんじゃろう」
 空を見上げて、清志は言った。
「哲ちゃん、亜希子はまたきとらんのう。よう休む奴じゃ。運動もようできて、賢けえいうてものう。これじゃマドンナも形無しじゃ。もっとしっかりせにゃ、おえんじゃろう」
 亜希子の机を振り返って、猛雄は言った。
「……」
 哲矢は鳩尾を突かれたような心持ちがした。
「風邪でも引いたんじゃろう。蒸し暑いけえのう、ちょっと油断しとったら、夏風邪にかかるんじゃ」
 とっさに思いついたことを、哲矢は言葉にした。
「そうかのう、信じられんわ。怠けとんじゃねえんか。なんか雨が降りゃ、出てこんみてえじゃのう」
 不審そうに、猛雄は言った。
「猛ちゃん、そう心配せんでもよかろう。すぐにようなって、出てくるじゃろう」
 哲矢は懸命になって言った。
 亜希子がいつものように、顔に笑窪をつくって、爽やかに登校してくるのを哲矢は願った。
「哲ちゃん、今日、放課後うちでパッチンをやろうやあ。雨も降っとるし、外じゃ遊べんじゃろう。どんなかのう」
 パッチンを投げる仕草をしながら、猛雄は言った。
 パッチンというのは、めんこのことで、小学生の間で流行って、盛んに行われていた。めんこは円形や長方形をした厚紙で作られており、地上に置かれた相手のものに打ち当てて、裏返せば勝ちとなり、それを貰えるという遊びだった。
「そうじゃなあ。雨じゃけん、外でビー玉もできんしのう。じゃあ放課後、猛ちゃんとこへ遊びに行こうか」
 猛雄を見上げて、哲矢は言った。
「それじゃ、哲ちゃんも清ちゃんも、家にカバンを置いてから、うちにすぐけえよ。じゃあな」
 猛雄は念を押すように言って、清志とともに自分の席に戻って行った。
 その日は六時限だったが、哲矢にとっては永い一日のように感じられた。強い風にあおられて、窓が軋んで鳴るし、亜希子の不在がなぜか彼の心を虚ろにしていた。授業に集中することができず、先生の話をぼんやりと聞いていたような気がする。
 哲矢は授業が終わると、猛雄や清志と途中まで一緒に帰った。彼は家に帰ってカバンを置くと、すぐに出かけようとした。
「哲矢、この雨風の中をどこへ行くんじゃ。網の修繕や片付けもあるちゅうのに、ちいたあ手伝わにゃおえんじゃろう。また、父ちゃんに叱られるよ」
 母がいきなり大きな声を挙げた。
 哲矢のうちは漁師だった。この村は瀬戸内の海を抱き込んだ入江の村である。東の岬と西の岬を結ぶように弧を描いていた。その入江に沿って、軒の低い家々がうずくまるように佇んでいる。村人は半農半漁で暮らしを立てていた。
 だから、哲矢の手伝う仕事はいくらでもあった。前の井戸から水を汲み上げて、風呂に入れることや七輪の火をおこすことは、子どもたちの仕事と決まっていた。網の片付けや土間の掃き掃除なども、彼らの仕事のうちだった。
「ちょっと、猛ちゃんのとこへ行くんじゃ。すぐに帰るけん、行ってくるわ。じゃあな」
 そう言って、哲矢は玄関を飛び出した。
「哲矢、哲矢ッ」
 背中で母の叫ぶ声がした。
 猛雄の家に行くと、もう清志は来ていて二階の子ども部屋へ入っていた。
「猛ちゃん、すげえ雨じゃ。風に傘が飛ばされそうじゃったわ。足もとの方が濡れて大変じゃ」
 部屋のドアを開けて、哲矢は言った。
「哲ちゃん、よう濡れとるのう。ほら、これでしっかり拭いとかにゃ、風邪を引くぞ」
 そう言いながら、猛雄はタオルを投げて寄越した。
「それじゃ、やるか。まずジャンケンで順番を決めようやあ。ええか、最初はグウ、ジャンケンポン」
 三人は腕を前に突き出して、大きな声を挙げた。
 小さい台の上に、それぞれ自分のめんこを置いていった。相手のめんこを裏返すか、台から落とせば勝ちとなる。めんこの表面には写真や絵が描かれていて、気にいったものを狙って投げつけるのである。プロ野球の川上哲治、大相撲の千代の山、歌手の美空ひばりなどは人気が高く、それが彼らの狙い目だった。
「哲ちゃん、この美空ひばりはいただきじゃ。ええか、いくぞ。えいッ」
 猛雄は勢いよくめんこを叩きつけた。
 すると、哲矢の美空ひばりは、難なく引っ繰り返ってしまった。猛雄はめんこでもビー玉でも、ほとんど負けるということがなかった。喧嘩は強いし、運動でも鉄棒や徒競走など、なんでも得意だった。
「猛ちゃん、そう旨いことばあはないぜ。この川上哲治は、有り難うさんじゃ」
 猛雄のめんこをめがけて、清志は思いっ切り投げつけた。が、清志のめんこは空を切り、
台の上から落下した。
「清ちゃん、なにゅうやっとんじゃ。しっかりせにゃ、自滅じゃのう。可哀相にご愁傷さまじゃのう」
 清志の顔を覗き込んで、哲矢は笑った。
「よし、今度はぼくの番じゃのう。猛ちゃん、もうこのめんこはお陀仏じゃ。覚悟をしとかにゃおえんよ」
 哲矢は力まかせではなく、より風圧が強く働くように心がけて投げた。すると、猛雄のめんこがふわりと宙に浮き、気持ちよく裏返った。
「わあ、やられてしもうたのう。この川上哲治は、わしの助っ人じゃったけえなあ。打撃の神様じゃいうだけあって、よう稼いでくれたんじゃ。残念じゃけえど、献上じゃのう」
 猛雄はさも口惜しそうに、めんこを哲矢に渡した。
「哲ちゃん、明日は天気はどんなかのう。台風一過で、からりと晴れりゃええんじゃけえどなあ。雨のようだったら、亜希子があやしいもんじゃ。また怠けて学校を休むんじゃろう。いい加減な奴じゃけえのう。学級委員の名がすたるじゃろう」
 めんこの道具を片付けながら、猛雄は言った。
「今夜、四国沖を通過するいう話じゃけえなあ。たぶん大丈夫じゃ。明日にゃ、雨も上がるじゃろう。猛ちゃん、外が薄暗うなったけえ、もう帰らにゃおえんわ。また遊ぼうやあ。今度晴れたら、浜辺へ潮干狩りにゆこう。亜希ちゃんも、誘うちゃろうやあ」
 亜希子の名前を出して、哲矢は心臓がどきどき打つのを感じていた。
「亜希子かあ。潮干狩りはええけど、おなごはどうも厭じゃのう。亜希子が来るいうじゃろうか。まあ、わしは知らんけえど、哲ちゃんにまかさあ」
 気乗りしない様子で、猛雄は渋々肯いた。

 一週間ほどのちのことだった。また本降りの雨で、亜希子はやはり学校を欠席した。ぽっかり穴の開いたような心持ちで、哲矢は一日を過ごした。
「哲矢くん。悪いけれど、これを亜希子さんのところに届けてくれる。宿題と連絡事項のプリントが入っているのよ。よろしく頼むわね」
 哲矢の席に近づいてきて、おなご先生は大きな茶封筒を差し出した。
「は、はい。亜希ちゃんのとこですね。帰り道ですからいいですよ」
 先生を見上げて、哲矢は言った。
 哲矢の家からは、すぐ近くの路地を上りつめたところに、亜希子の家がある。哲矢は急ぎ足で坂道を上って行った。
 哲矢は門の前に立って、亜希子の家を見回した。板塀は少し傾いて、羽目板が朽ち剥がれ落ちているところもある。庭の隅には井戸があり、そのほとりに大きい松の木が植わっていた。穴のあいた板塀の傍には、紫陽花の花弁が雨に打たれ、艶やかに光を放っている。家は平屋でうずくまるように建っていた。
 哲矢は玄関の引き戸を開いて、
「こんにちは。亜希ちゃんはいますか」
 と、そっと声をかけた。
 すると、何か黒い影が動いて、奥の方に消えてゆくのが分かった。玄関の土間右手に六畳間があり、次の部屋の襖は開け放たれていた。その部屋も六畳間のようであった。所々に洗面器や薬缶が置かれている。時折雫がぽつりぽつりと落ちてくる。小母さんは縁側で巧みに織機をあやつり、バンコック帽子を編んでいた。
「あら、哲ちゃん。いらっしゃい。こう雨が降ったんじゃ、たまんないわ。哲ちゃん、この通りよ。雨漏りがしてねえ。困っているのよ」
 小母さんは機織りの手を止めて、部屋を見回した。
「小母さん、亜希ちゃんはいますか。先生からの預かり物があるので、渡したいんです」
 哲矢は茶封筒をカバンから出した。
「ああ、そうなの。朝は頭が痛いと言って蒲団の中にいたんじゃけど、今は起きているのよ。奥の部屋じゃから、呼んできて上げようね」
 糸くずのついた前掛けを払って、小母さんは奥の部屋へ入っていった。
 小母さんはなかなか戻ってこなかった。奥の部屋で、何やら言い争っているような声が、途切れとぎれに聞こえていた。しばらくすると、押し殺したような、亜希子の嗚咽が洩れてくる。やがて小母さんが戻ってきた。
「強情なんだからもう。哲ちゃん、亜希子は厭じゃと言って出てこんわ。じゃ、小母さんが受け取っとくわ」
 奥の部屋を振り返って、小母さんは言った。
「はい、それじゃ、これが先生からの預かり物です。亜希ちゃんに渡して下さい。それと……」
 哲矢は言いよどんで、次の言葉が出てこなかった。
「……それと、今度晴れたら、潮干狩りに行こうと、亜希ちゃんに伝えて下さい。いま、アサリがよく取れるらしいんです。よろしくお願いします」
 はにかんで、哲矢は頭を下げた。
「潮干狩りねえ。亜希子は外で遊ぶのが好きじゃけど、どうするかねえ。まあ、伝えておくわ。哲ちゃん、行くと言ったら、仲良くしてやってちょうだい」
 小母さんは白い歯を見せて言った。

 次の土曜日の午後であった。朝から晴れたり曇ったりしていたが、雨の降る様子はなかった。哲矢と亜希子が浜辺に着いた時には、もう猛雄と清志は来ていた。
「なんじゃ哲ちゃん、おせえのう。早うせにゃあ、すぐに満ち潮に変わってしまうんじゃが」
 猛雄は頬をふくらませて、哲矢を睨んだ。
「わりい、わりい。待たせてしもうて、すまんかったのう。猛ちゃん、こらえてくれえ」
 合掌の恰好をして、哲矢は謝った。
「哲ちゃんも亜希ちゃんも、どうしたんじゃ。海へ入るっちゅうのに、二人とも長靴じゃないんか」
 二人の足もとをしげしげと眺めながら、猛雄は言った。
「猛ちゃん、二人は裸足のつもりじゃ。長靴じゃねえけえ、水の入る心配もいらんけえのう。それに裸足も気持ちがええもんじゃ」
 そう言いながら、哲矢は運動靴を脱いだ。
「哲ちゃん、気をつけにゃ危ねえぞ。ときにゃ、瓶の破片などもあるけえのう」
 優しい心遣いを示して、清志は言った。
「それじゃ、哲ちゃん。ぼくらは先に行っとくけえ、準備ができたら来いのう」
 バケツと鍬を持って、猛雄はすたすたと歩いて行った。
 アサリの棲み家は、砂地のところでもなく、泥地のところでもなかった。いないというわけではなかったが、多く生息しているのは、砂地と泥地のちょうど交わる辺りである。潮干狩りの人々が、その辺りで腰をかがめて懸命に掘っていた。
 猛雄と清志はもうその場所にたどり着いて、掘り始めている。哲矢と亜希子はズボンをたくしあげて、ゆっくりと彼らの方に向かった。二人はふざけることもなく、黙々と掘り進んでいる。猛雄のバケツの中には、もう幾つものアサリが転がって、時折潮を噴き上げていた。
「猛ちゃん、もうこんなに掘ったの。どうしてアサリのいるところが分かるの」
 猛雄のバケツを覗き込んで、亜希子が言った。
「亜希ちゃん、どこでもいいんじゃ。手当たり次第に掘ってゆくことじゃのう。そうすりゃ、アサリがころんと出てくるんじゃ。犬も歩けば棒に当る、いうことじゃのう」
 猛雄は手を止めて、にやりと笑った。
「猛ちゃん、ほんとう? どこでも掘ったらいいの。わたしでも取れるかしら」
 亜希子が怪訝そうに、猛雄の顔を見つめた。
「亜希ちゃん、嘘じゃよ。やみくもに掘っても、取れるなあ、たかが知れとんじゃ。まず、アサリの眼を捜すことじゃのう。ちょっと、やってみようか。最初に表面の土をさらうんじゃ、こうしてのう。そうしたら、眼が出てくるんじゃ。ほら、亜希ちゃん。これがアサリの眼じゃ。細くて小さい穴が見えるじゃろう。ここを掘りゃ確実にアサリがおるんじゃ。ほら、この通りじゃ」
 猛雄は得意そうにアサリを摑んで、亜希子の眼の前で手のひらを広げた。
「わあ、ほんとうだわ。猛ちゃん、上手いんだね。わたしもやってみるわ」
 猛雄の手のひらのアサリをつまんで、亜希子は言った。
 亜希子は猛雄から教わったように、まず表面の土を三、四センチ鍬で掘って、眼をこらしていた。
「ほら、亜希ちゃん。ここにも、あそこにも、小さな細い穴が見えるじゃろう。それがアサリの眼じゃ、掘ってごらん」
 長細い穴を指差しながら、哲矢は言った。
「わあ、アサリだわ。アサリが取れたわ。わあい、やったあ」
 手のひらにアサリを載せて、亜希子は嬉々とした声を挙げた。
 しばらく四人は、夢中になってアサリを掘っていた。その周りから、時々驚きの声や歓声が挙がって、楽しい潮干狩りだった。それぞれバケツに三分の一くらいずつ、アサリが取れた。哲矢は立ち上がって腰を伸ばし、四囲を見渡していたが、砂浜の向うに源爺がいるのに気がついた。
「清ちゃん、亜希ちゃんとここで掘りょうてくれんか。猛ちゃんとちょっと、行くとこがあるけえ」
 腰をかがめて鍬を動かしている清志に向かって、哲矢は言った。
 哲矢と猛雄は砂浜の端にいる、源爺の方に向かって歩いた。太陽は西に傾き、二人の影は長く伸びている。その影を踏みながら、二人は足早に砂浜を蹴って進んだ。
 西の空と海面は茜色に染まり、やがて西の島影に夕陽が落ちようとしていた。瀬戸内の島々は、黄金色に染まって浮かんでいる。
 源爺は砂浜にへたり込んでいた。また酒を飲んでいるのだろうか、赤く顔を染め濁った虚ろな眼をしている。彼はぼんやりと、宙を見つめているふうだった。焦点のぼけた源爺の眼は、尋常ではない異様な雰囲気を放っている。
「源さん、なにゅうしょうるん。遠くを眺めて、なにゅう考えとん」
 こわごわと源爺に近づいて、哲矢は言った。
「わりゃ、どこの倅じゃ。なにゅうしに来たんじゃ。早う帰らにゃあ、陽がじきに落ちるぞ」
 源爺は濁った眼を哲矢に向けて言った。
「ぼかあ、漁師の高野の息子でなあ。源さんとこの亜希ちゃんと同級生じゃ。潮干狩りに一緒にきて、もうそろそろ帰ろうと思うとんじゃ」
 源さんの傍に坐って、哲矢は言った。
「わりゃ、運が良かったのう。おとうは支那じゃったろう。よう助かって帰ってきたもんじゃのう。亜希子は不憫な子じゃ。おとうが死んでしもうてのう」
 源爺は視線を宙に泳がせた。
「亜希ちゃんのおとうはどこで死んだん。そのおとうは、源さんの息子じゃろう」
 源爺の顔を見つめて、哲矢が言った。
「そうよ。わしの一人息子で跡継ぎじゃったんじゃ。わしと一緒に漁に出とったけんのう。生きて帰っとりゃ、おめえのとこと同じ漁師じゃ。わしは跡継ぎが死んでしもうて、さっぱり駄目になってのう。身体も心も萎えてしもうてのう、なんもする気がおきんのじゃ」
 鼻を啜って、源爺は言った。
 夕陽が島影に落ちて、西空に浮ぶ雲は鮮やかな紅色に染まっていた。西の島々はシルエットとなって、黒々と浮かび上がっている。
「わしの倅はフィリピンのルソン島じゃ。昭和二十年の一月に、アメリカが上陸してきてのう。春ごろにゃ、もう追いつめられてなあ。倅は敵の陣地への斬り込み隊にさせられてのう。爆薬を身体にくくりつけて、突撃したんじゃ。陣地に突っ込む前に、機関銃でやられてしもうてのう。むごいことじゃ」
 源爺は小石を摑んで、怒ったように沖へ投げた。
 哲矢と猛雄は息を呑んで、源爺の話を聞いていた。
「わしはのう、時々ここへ来るんじゃ。酒を飲んでのう。村のもんは、わしを大酒飲みじゃいうて、相手にせんけえどのう。じゃけえど、酒を飲まずにここへ来られるもんじゃねえ。わしの眼と心は、ここにゃありゃせん。あの四国山脈の彼方、遠いとおい世界じゃ。ルソン島の空の下に倅はまだ眠っとんじゃけえのう。遺骨もまだ還っとらんしのう」
 虚空を見つめるように、源爺は顔を上げた。
「そうじゃったん。哀しいことじゃのう。じゃけえど、源さん。亜希ちゃんも辛い目におうとんじゃけえなあ。雨傘や雨靴がのうて、雨の日にゃ、亜希ちゃんは学校を休んどるんよ。死んだおとうは、きっとあの世で悲しんどるじゃろうなあ」
 恐るおそる哲矢は言った。
「哲ちゃん、そうじゃったんか。雨の日にばあ休むけん、おかしいなあと思ようたんじゃ
 驚いたように哲矢を見つめて、猛雄は言った。
「そうなんか。そりゃ知らんかったのう。雨の日にゃ、頭がいてえ、腹がいてえゆうとったけえ、そうなんじゃろうとばあ、思うとったんじゃ」
 哲矢の顔を見つめて、源爺は言った。
「どうにかならんのかのう。亜希ちゃんが可哀相じゃ」
 猛雄は勢いよく立ち上がって、砂浜を蹴った。
「もうすぐ暗うなるけんのう。気をつけて帰れえよ。まあ、これからも亜希子と仲ようしてやってくれえのう」
 哲矢と猛雄を交互に見ながら、源爺は言った。その時、源爺の濁った眼がかすかに光ったように思えた。
 清志と亜希子は黄昏の浜辺で、アサリを綺麗に洗っていた。清志は腰を伸ばして、
「二人ともなにゅうしょうたん。遅かったのう。あれから、亜希ちゃんとぎょうさん掘ったんじゃから。こりょう見てみい」
 清志はバケツを傾けて見せた。
「悪かったのう。えろう待たしたなあ。清ちゃん、アサリを同じように分けて、バケツに潮を汲んで帰ろうやあ」
 アサリを等分にしながら、猛雄が言った。
「さあ、帰ろうぜ。大漁じゃ。また潮干狩りにこようなあ。亜希ちゃん、どうじゃった」
 振り向いて、哲矢が訊いた。
「うん、とっても楽しかったわ。こんなにアサリを取ったのは初めてよ。アサリの眼も教えて貰ったしね」
 亜希子はそう言って、にっこり笑った。

 潮干狩りから四、五日のちのことであった。哲矢は早く床に就いたが、蒸し暑くてなかなか眠れずにいた。床の中でぐずぐずしていると、外からかすかな音が響いてくる。その気配に耳を澄ますと、それは雨だれの音だった。九州南部はもう梅雨が明けていたが、瀬戸内はまだすっきりしない空模様がつづいていた。
 哲矢は雨の気配に心が塞がれてゆくようだった。潮干狩りでの亜希子の笑顔が甦ってくる。この雨は明日の朝までに止むだろうか。降りつづくようなら、また亜希子の笑顔は曇ってしまうだろう。あの雨漏りのする家で、終日切ない想いで過ごさなければならないのだ。
 源爺はどうしているのだろうか。今も亜希子のおっかあは、蒲団の中に鎌をひそましているのだろうか。もしそうなら、源爺の生き方は赦しがたく醜い、そして憎い、と哲矢は思った。そんな想いをめぐらせているうちに、哲矢はいつのまにか眠りに落ちていた。
 哲矢が目覚めた時、しらじらと夜は明けていた。とっさに耳を澄ませてみたが、やはり雨だれの音が響いている。哲矢は暗澹とした思いに包まれた。
 哲矢は黒い雨傘をさして家を出た。学校へとつづく道を東へ向かって歩いていた。右手には瀬戸の海が広がり、島影は雨にぼうっと霞んでいる。水平線は空と海が溶け合って、鉛色にぼやけていた。
 猛雄と清志の家へ寄って、哲矢は行くことにしていた。猛雄の家は県道から少し坂道を上ったところにあった。猛雄の家は大工をしていて、倉庫には柱や梁の材料が窮屈に立て掛けられていた。哲矢が玄関の前で呼びかけると、猛雄はすぐに玄関から出てきた。
「哲ちゃん、お早う。また雨じゃなあ、よう降ってかなわんのう。亜希子は今日も駄目じゃろうか」
 傘を開きながら、猛雄は言った。
「今日は修学旅行の説明会じゃけんのう。出てくりゃええんじゃが、心配じゃ。猛ちゃん、今年の旅行はどこへ行くんじゃろうか」
 猛雄の傘の中を、哲矢は覗き込んだ。
「哲ちゃん、そりゃもう決まっとるじゃろう。去年とおんなじじゃ。京都の金閣寺と銀閣寺、それに嵐山と清水寺じゃろう」
 自信ありげに猛雄は言った。
「そうじゃろうか。まあぼくらあ、どこでもええんじゃ。修学旅行は旅館が一番楽しい、言うからのう。じゃが亜希ちゃんが心配じゃ。雨具も買うて貰えんのじゃけん、旅行などとても無理じゃのう」
 猛雄の横に並んで、哲矢は不安そうに言った。
 二人は県道に出て、追いかけっこをしたり、水溜りに入って遊んだりしながら、学校に向かっていた。雨は勢いよく降って、止む気配はいっこうになかった。
 ふと前方を見ると、白い雨靴を履き、真っ赤な雨傘をさした少女がいた。哲矢は、はっと息を呑んで立ち尽くした。
 少女は雨傘をくるくると回しながら、跳ねるような軽快なリズムで駈けて行った。厚い雲が垂れ込めて、村は灰色の風景の中に沈み込んでいたが、亜希子の赤い雨傘がきらりと光った。

鬼藤千春の小説 「カミソリ」 短編

  カミソリ

            鬼藤 千春

 裏山の枯れ葉がはらはらと舞い落ちる、晩秋のある日のことである。芳雄は床の間があり、仏壇を安置している座敷に、電気ゴタツを出して、そこを書斎とすることにした。
 いつもは二階の東北に位置する、六畳の洋間を書斎として使っているのだが、寒くなってくると、一階の座敷に降りるのである。二階にはパソコンもあって便利なのだが、芳雄は異常な寒がりやなので、コタツを愛用することにしている。石油ストーブよりもコタツのほうが好きなのである。
 コタツは長方形の比較的大きめのものである。書籍や辞書、電気スタンドやラジカセなども置ける大きさが必要なのである。それを芳雄は、部屋の中央に据えつけてみる。晩秋のやわらかい陽射しが斜めに射し込み、コタツの上の書籍を、明るく浮かび上がらせている。
 芳雄は書籍を開いて、近現代日本史に眼を通していた。彼は歴史が好きで、近代国家の成立から今日までの、日本の歩みに興味をもっている。彼は今春、市役所を定年退職となり、耕す田畑もないので、たいていは書斎で過ごしていた。
 が、本に集中しようと試みると、折々に家が軋むのである。まだ新築して十二、三年なので、古くなってというわけでもないが、みしみしというような厭な音がするのである。
 おそらく、木材が収縮したり、弛緩したりする時に発生する音なのであろう。それで、芳雄の集中力は散漫になり、不審に思って、部屋の天井を見上げたり、後ろを振り向いたりするのである。そして、ひと通り部屋を見渡して、正面を向くと仏壇がある。彼は仏壇と対峙するような恰好で、座っているのだった。
 この仏壇には、次兄の恭二が祀られている。恭二はかれこれ三十年前に、三十六歳で他界した。芳雄はその兄嫁と結婚し、恭二の子どもを養子、養女として育ててきた。養子縁組をしたのは双子で、その妹を養女としたわけである。その兄嫁との間には女の子が誕生した。今ではそれぞれが独立し、この家は彼と妻の二人暮らしである。
 恭二は型枠の大工をしていた。滅法酒が強くて、仕事場へいく道中のマイクロバスの中で、朝から酒を呑んでいる。夜にはカラオケスナックへ入り浸って、呑みながら歌い、歌いながら呑んでいた。芳雄も一時期アルバイトで、兄の仕事を手伝ったことがあり、大工の労働の厳しさや、彼等の生活のありようをつぶさに見てきた。
 芳雄は少し離れた街に住み、高校を卒業し市役所の建築課に勤めていた。それでその街に移り住んでいたのである。三十を過ぎていたがまだ独身であった。
 緊急な連絡があったのは深夜だった。急いで帰ったが、その時にはもう恭二は意識がなかった。救急車がやってきたが、病院への搬送も行われなかった。隣町の医院から医師がやってきたが、それは死亡診断書を書くためであった。
 芳雄が家に着いた時には、恭二は蒲団に寝かされ、顔にはすでに白い布が掛けられていた。死亡診断書には、肝臓の衰弱による、と記されていた。恭二は死の直前まで酒を呑んでいたのである。
 秋の長雨で、しばらく仕事が休みということもあって、恭二は終日酒を呑んで過ごしていたに違いない。枕元には一升瓶があったというのだから、急に病勢は悪化したように思われるのだった。
 通夜は翌日行われた。親戚の人たちや町内会の人たちがやってきて、僧侶が読経を唱えた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんどまじーんばら。はらばりたやうむ。
おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 僧侶の低く太い声が、部屋の中に流れていった。
 襖を取り払い二間つづきにしたが、人々は廊下にまで溢れた。三十六歳という若さに、参列者は驚きを隠しきれないようすであった。死を悼んで部屋のあちこちで、人々のささやく声が聞こえていた。
 通夜の看経がようやく終わり、明日は告別式である。町内会の人たちはそれぞれに帰り、親戚の一部の人たちが残った。柩に納まった恭二は、白い経帷子に包まれていた。それだけに、いっそう顔色が青黒く見えた。肝臓を病んでいたためだろう、痛ましい顔色をしていた。
「だれか、剃刀を持ってない? 髭を剃ってやりたいんだけど――」
 親戚の人が柩から顔を上げて、周りを見渡した。親戚の人は数人残っていたが、お互いに顔を見合わせている。
「そうじゃなあ、これじゃいけんわ。綺麗に剃ってやらにゃ」
 他の親戚の人が応えた。
「節ちゃん、剃刀はない?」
 恭二の妻、節子に声をかけた。
 節子は俯いて、ただ嗚咽を洩らしているばかりで、なんの反応も示さなかった。
「これじゃ、可哀相じゃ。なんとかしてやらにゃ――」
 と、また親戚の人が声を上げた。
 しばらく沈黙がつづいた――
 そして、親戚の人はもう何も言わなくなった。親戚の人々はしきみの葉で恭二の唇を、代わるがわる水でしめらせている。
 剃刀はなかった。が、芳雄はショルダーバッグに、電気カミソリをひそませていた。数日泊まる予定で来ていたので、カミソリを準備していたのである。が、彼は沈黙したまま、親戚の人の言葉に、声を上げることはなかった。
 しかし、芳雄は決して平気でいられたわけではない。胸を衝くものがあったし、いつ声を上げようか、と考えないわけではなかったが、いつのまにか遣り過ごしてしまったのである。
 深夜になって、親戚の人たちも一人去り、二人去りして、恭二の兄弟と家族の者だけになった。芳雄はしきみの葉で恭二の唇をしめらせた。彼の顔は青黒く、やはり無精ひげが口の周りや顎に伸びて、見苦しかった。彼はバッグの底のカミソリが頭を過ぎった。しかし、それを彼は取り出そうとはしなかった。
 芳雄は線香とロウソクの火を絶やさぬように、祭壇の前に座っていた。秋彼岸も過ぎた頃で、気候のいい時だった。まだ家の前の田圃の畦には曼殊沙華が咲いている。毒々しいまでに紅い色をしていた。
 今年の夏はとても暑かった。けれど彼岸をすぎて、随分過ごしやすくなっている。彼はそんなしのぎやすい部屋の中で、恭二の遺体の傍に寄り添い、終夜見守るつもりでいた。
 線香の煙はかすかに揺れながら昇っていって、天井をたゆたっている。ロウソクの火は揺らぎながら、ちらちらと懸命に光を放っていた。
 恭二は二男で、長兄と違って勉強嫌いで成績は良くなかったが、人付き合いもよくさっぱりとした気性で、誰にでも愛された。
「恭ちゃん、恭ちゃん――」
 と、呼ばれ、仕事でも地域でも慕われていた。ただ、酒を呑むというより、酒に呑まれるほうだった。だから、それによる失敗の噂は、芳雄の耳にもちらりほらりと聞こえてきていた。
 外がしらじらと明けてきた。しかし、まだ明けきらず、しかも小雨が降っていて薄暗かった。いよいよ、恭二の告別式である。家の中には親族関係の人々でいっぱいになった。友人や知人は庭や道路まで溢れていた。喪服と黒い傘の参列者が家の周りを取り囲んだ。
 家の中では恭二の柩の前で、僧侶が経を唱え、外には焼香台がしつらえられて、次々に香を焚いてゆく参列者が跡を絶たなかった。やがて僧侶の読経も終わり、柩に花や恭二の好きだった釣道具などが納められた。花は柩を埋め尽くし、花の香りが部屋いちめんに漂っている。節子や三人の子どもたちは、柩に取りすがって、慟哭していた。
 が、花に埋もれた恭二の無精ひげは見苦しかった。もう誰もそのことを気にかける人はいなかったけれども、芳雄はそれにこだわっていた。恭二と繋がりの濃い人たちによって柩の蓋が塞がれ、釘が打ち込まれた。そして、柩は霊柩車に運び込まれ、クラクションが長く尾を引いて鳴りひびき、家を後にした。
 霊柩車は火葬場へ向かった。芳雄は長兄と一緒の車に乗り、霊柩車の後を追った。まだ小雨が降っていた。雨は小止みなく静かに降りつづけている。しとしとと降る雨は、死者を送るのにふさわしいように思われた。
 火葬場に着くと、高い煙突からかすかに鉛色をした煙が立ち昇っていた。焼香台の前で僧侶が最後の経を唱え、参列者は手を合わせた。すると、火葬場の係りの人がやってきて、恭二の柩が運ばれていった。
 鉄製の厚くて重い扉が開かれて、恭二の柩は狭い空間に滑り込んでいった。恭二の身体は、まもなく重油の熱い炎に包まれて焼かれるのだろう。無精ひげをはやしたまま恭二は焼かれるのだ。芳雄は胸が痛んだ。
 一時間ばかりのちに、アナウンスがあり親族の人々は、骨拾いにいった。芳雄は長い竹の箸を渡されて、身体の下部の方から順次骨を拾っていった。骨はまだ熱かった。顔面の骨を最後にひろい、頭蓋骨を骨壷の最上部に納めて、骨揚げは終わった。無精ひげは跡形もなく焼かれていた。が、彼はそれで、安堵するわけにはいかなかった。
 やはり、霧のような雨が静かに降っていた。芳雄は長兄の運転する車に乗って、帰途についた。
「ええ葬儀じゃったのう。これで恭二も無事あの世へいけるじゃろう」
 長兄が芳雄をちらっと見て言った。
「いや、そうじゃない。きっと恭二は、心をあとに残して、旅立ったに違いないのだ」
 芳雄は心の中で、呟いた。
 彼は押し黙ったままだった。雨に打たれた窓外の景色に眼をやっていた。景色が後ろへうしろへと飛んでゆくのを、見るともなく見ていた。
「おまえは、冷酷なのか、吝嗇なのか」
 何処かでそんな声がするのを、芳雄は聞いた。
 それは何処かではなく、芳雄の肉体の奥深くから涌き出づるものであった。しかし、彼はその声を容易に受け入れ難く、強く反発していた。
 ――わたしが冷酷? 吝嗇? と、烈しく否定する声があった。が、それなら何故、バッグの中にカミソリをひそめていたのか。そして、恭二の顔にカミソリをあて、死化粧をほどこさなかったのか――
 芳雄は火葬場から恭二の家への帰途、そんな想いにずっと囚われていた。そのうち、長兄の車は恭二の家の駐車場に乗り入れた。

 かれこれ三十年前のできごとに、芳雄の想いは深くからめとられていた。コタツの正面には、仏壇と位牌がひっそりと安置されている。金箔にほどこされた恭二の位牌は、電灯の明かりを受けて、不気味に光っていた。彼はその位牌に、心を射すくらめているように思った。やはり怖くて神妙な心持ちになるのだった。
 芳雄は神も仏も信じているわけではなかった。しかし、亡き人を悼み、亡き人への思い入れは決して小さいものではなかった。遠く霞むような歳月を経ても、彼の心の疼きは消えることがなかった。
 一瞬心を空白にして、本を取り上げ読みはじめるのだが、やはり集中して読みすすむことができない。仏壇と位牌に、鋭く睨まれているような気がするのだった。
 芳雄は歴史書を投げ出して、恭二が眠っている墓地へ出かけることにした。線香とライターを用意し、花屋に寄って純白の菊を求めた。そして、恭二が好きだった酒を忘れないように、間違いなく酒屋にも立ち寄った。
 墓地は龍城院が檀家のために造成したものだった。本堂の南にそれは広がっていた。さまざまな形や大きさの墓石が、墓地を埋め尽くしていた。晩秋で、すでに紅葉は終わったところもあったが、寺の周辺の紅葉は見ごろだった。木々は真紅や黄色に色づき、晩秋のやわらかい陽射しを受けて輝いていた。
 芳雄は恭二の眠っている、墓の納骨室の蓋をあけ、腰を折って中を覗いた。納骨室の中はやや湿っており、蜘蛛が巣を張っていた。恭二の骨壷は納骨室の右隅に、ひっそりと納められていた。白磁の骨壷が陽射しを受けてキラリと光った。
 芳雄は蜘蛛の巣を払って、恭二の骨壷を取り出した。蓋をとると、水が中ほどまで溜まっていた。骨壷はたいてい結露によって水が溜まる、ということを彼は耳にしていた。彼は骨をこぼさないように、左手で骨を押さえながら、骨壷を傾けて水を流した。
 骨壷を元の位置に戻し、納骨室の蓋をした。花や酒を供えて、芳雄は線香に火を点けた。線香の煙はたゆたいながら真っ直ぐ昇り、途中から風に吹かれて、横に流されてゆくのだった。
「かんじーざいぼーさつ。ぎょうじんはんにゃーはーらーみったじー。しょうけんごううんかいくう。どーいっさいくーやく。しゃーりーしー。しきふーいーくう。くうふーいーしきそくぜーくう……」
 芳雄は繰り返し繰り返し、懺悔するような思いで般若心経を唱えた。
 彼は墓参りを終え、帰途についた。車を運転しながら、少しだけほっとするような気持ちを覚えた。が、芳雄の心から、カミソリへのわだかまりは消えることがないだろう、と思われた。
 ――わたしは、冷酷で冷淡だった。剃刀の、鋭く尖った冷たい刃のように――
 そんな想いが涌いてきて、芳雄は思わず身震いをした。

鬼藤千春の小説 「捜し物」 短編

  捜し物
              鬼藤千春

 立秋は過ぎていたけれど、炎暑の日だった。
道々、灼けつく陽射しを避けながら、恭平は岡山市へ出かけた。映画「悪人」を観るためだ。
 ビルの日蔭を見つけては小走りを繰り返して、映画館のエントランスへ入った。冷やされた心地よい風が恭平の身体を包み込んだ。上映までにはしばらくの時間があった。彼はチケットを求めて、ホールの椅子に腰を掛け、ちらほらする人影をぼんやりと眺めていた。
 一瞬、恭平の胸が騒いだ。椅子の前をよぎっていったのが、布由子のように思えたからだ。鼻梁が高く、眼が青みを帯びているように見えた。視線を走らせてあとを追ったが、人込みにまぎれて見失ってしまった。しかし、彼は椅子を立ち上がってゆく勇気を持ち合わせてはいなかった。
 布由子と別れたのは、もう三十五年も前のことだ。線路のほとりに建つ、六畳一間の二階建てアパートから、彼女の乗った電車を見送ったのである。
「煙草ひと箱も溶かして飲むなんて、何を考えているの。もう私は知らない――」
 青みを帯びた眼をうるませて、布由子は言った。そして、彼女は階段をけたたましく駆け下りて行ったのである。
 人生の前途に絶望し、恭平は急須に煙草を溶かして飲んだのだ。が、彼は深夜にそのほとんどを吐き出して、一命を取り留めたのである。布由子はその朝アパートへやってきて、立ち竦んでいた。彼女の乗った電車は、線路脇の赤いコスモスを揺らして、岡山市へ去って行った。
 布由子からは、いくつかのプレゼントを貰ったが、最も心に残っているのは、栞だった。彼女が教員の研修で京都へ赴いたときに、土産として買って帰ったものだ。その栞は人形で出来ており、緋色や藍色の着物を身にまとった、愛らしいものだった。恭平は文学書や哲学書に挟んで愛用していた。
 「悪人」が終わって、会場の照明がともされた。恭平は後ろの席に坐っていたので、立ち上がって会場を見回した。彼は退場する列に並び、少しずつ前に進みながら、前を覗いたり振り返ったりして、彼女を見つけようと懸命だった。が、ホールで見かけた布由子らしき人物は見当たらなかった。恭平の心に、もの淋しさがふっと忍びこんできた。
 家へ帰って、恭平は書斎に入り机の抽斗を開け、布由子の栞を捜そうと思った。乱雑きわまりない抽斗は、容易に手がつけられそうになかった。が、抽斗をはずし机の上に置いて、中の物をひとつずつ調べていった。上部の平たい抽斗と右側の三段の抽斗を片付け、脇机の抽斗も調べた。
 しかし、栞を見つけることはできなかった。脇机の抽斗の底には、布由子の手紙や写真が入っている筈だった。それを捜しているうちに、記憶が甦ってきた。家を建て替えた折り机を片付けて、手紙や写真を焼いたのを思い出したのである。
 布由子は恭平が初めて深く愛した女だった。彼が二十七歳、彼女が二十五歳だった。彼はその手紙と写真を暮れなずむ庭で焼いたのである。その炎は赤く燃え上がるのではなく、死骸を焼く時のような青白い炎が、風に揺れて立ち昇っていた。
 恭平は煙草から搾り取った汁を飲んで、布由子を裏切ろうとしたのだ。が、死の淵から生還した折り、彼は布由子から手厳しい答えを突きつけられた。逆に恭平は布由子から捨てられたのである。
 まだ、布由子を深く愛していたのだ。けれど、その未練を断ち切るために、手紙と写真を焼いたのである。が、青白い炎は、恭平の心のわだかまりそのものだったに違いない。その炎は不安定に大きく揺れながら、燃えていた。
 机の抽斗に栞はなかった。が、恭平はそれで諦めるということはなかった。抽斗の中にないのだったら、本棚にあるかも知れない。新築した家には比較的新しい本ばかりである。もしあるとすれば、実家の誰も住んでいない二階の部屋に違いない。古い本はその部屋に持ち込んでいるのである。
 恭平は陽の射さぬ薄暗い階段を上っていった。踊り場に立って、彼は引き戸の前で一瞬とまどった。この部屋は高校生まで彼が暮らしたところである。ここには愉しい思い出などなく、思春期の悩みのつまった修羅の世界なのだった。
 引き戸を開いて部屋を覗き込むと、小さな窓から弱い夕暮れの光が射し込んでいた。眼が慣れるまでに、しばらくの時間が必要だった。六畳間の部屋に図書館の書架のように、本棚がぎっしり並んでいた。恭平は部屋に入って、一つひとつの本棚を調べていった。
 本を引き出すたびに、降り積もった灰色のほこりが舞い上がってゆくのだった。一つ、二つ、三つと本棚を調べていったけれど、栞は見つからない。
 ――今さら、布由子の栞を捜し出してどうしようというのだろうか。どうなるものでもないではないか。手紙と写真を焼いた折り、彼女への未練は断ち切ったのではなかったのか。
 そんな思いで最後の本棚の前に立った。その棚には世界文学全集が整然と並べられていた。上段から下段まで眼を走らせていったけれど、それらしきものは見当たらない。恭平は自身の好んだ作家の本を引き出していった。ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキーなどを手にとって、ぱらぱらと頁をめくっていった。が、栞は挟まれていなかった。
 恭平はトルストイの本を引き出した。ほこりが舞い上がって、彼は思わず口を押さえた。本を繰ると「アンナ・カレーニナ」の頁が、思いがけず開かれた。
 ――幸福の家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである――
 冒頭部分のその言葉が甦ってきた。恭平はその言葉が好きだったし、なるほど現実生活の在りようは、その通りだと思われた。
 恭平は頁を少し繰ってみた。四、五頁めくると、彼はその頁に釘づけになった。布由子の栞が挟まれていたのである。
 手にとって見ると、緋色の着物をまとった人形の栞は色褪せていたが、薄暗い空間の中で、その顔はかすかに微笑んで、恭平を見つめていた。
 恭平はその布由子の優しい心を、裏切ったのである。彼は暗い部屋の中で、呆然と立ち尽くしていた。
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プロフィール

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 「人生七十古来稀なり」の古希です。
 日々の暮らし・想いを自由に 綴って
 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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