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鬼藤千春の小説 「ビー玉」 短編

     ビー玉
            鬼藤千春

     (一)

 二学期の始業式が終わると、耕作は校門の傍にあるクスノキの下で、友だちが教室から出てくるのを待った。西地区の小学六年生は四人である。彼らは昭和十六年生まれで、終戦から八年が経っていた。小学校は小高い丘の上にあり、瀬戸内海がよく見渡せる。この村は海をふところに抱き込んだ、半農半漁の村である。
 耕作は視線を移して、沖の方を眺めた。東と西には牛の角のように突き出た岬があり、それが弧を描いて入江となっている。その入江に沿って、うずくまるように軒の低い家々が佇んでいた。水平線は空と海が鉛色に溶け合って、ぼうっと霞んでいる。海に浮かぶ島々は紫色に滲んでいた。陽射しをはねかえして、蝶が乱舞するように海面は輝いている。
「耕、耕ちゃん」
 と叫びながら、カバンを揺らしてやってくるのは鉄雄だった。
 耕作は振り向いて、右手を挙げ手のひらを振った。鉄雄は教室を飛び出して、一目散に駈けてくる。そのあとを追ってくるのは圭介だった。鉄雄と圭介はB組で耕作はA組だった。鉄雄は日焼けした顔を振りながらやってきた。
「耕ちゃん、早かったんじゃのう。うちのクラスは夏休みの宿題ができとらんいうてのう。ライオンが烈しく吠えて、なかなか帰らせてくれんかったんじゃ。なあ、圭ちゃん」
 圭介を振り向いて、鉄雄は言った。
 ライオンというのはB組の先生の綽名で、髪が長くて乱れており、よく怒るというところから、そう呼ばれるようになった。
「そうじゃ、工作をしてきてないのが七人もおってのう。それでガミガミうるさく言うんじゃ。たまったもんじゃないぜ」
 圭介は頬をふくらまして、口を尖らした。
「靖志はどうしたんじゃ。あの父(てて)無し(なし)子(ご)はノロマじゃからのう。何をやっとんじゃ。遅(おせ)えのう」
 鉄雄は教室の入口の方に、すばやく視線を走らせた。
 鉄雄は靖志のことを「父無し子」と呼ぶが、それは太平洋戦争で、父を亡くしているからだった。西地区の六年生は耕作と鉄雄、それに圭介と靖志の四人だった。それで耕作たちは、クスノキの下で靖志を待っているのだった。
 このクスノキは子ども六、七人が手をつないで、やっと取り囲むことができるほどの大樹である。このおばけクスは耕作たちの誇りでもあり、敬愛の念も抱いていた。ずいぶん待ったが、靖志はおばけクスの下にやってこなかった。
「圭ちゃん、靖志の教室へ呼びに行ってみようやあ。あんまりじゃ。遅すぎらあのう。耕ちゃん、ここで待ちょうてくれえ。ちょっと行ってくらあ」
 鉄雄は圭介と一緒に駈け出して行った。
 しばらくして、鉄雄と圭介は息を弾ませながら帰ってきた。
「耕ちゃん、靖志はとっくに帰ったらしいぞ。C組は最初にホームルームが終わったということじゃ。靖志の奴はわしらをほっといて、一人で帰ったんじゃのう」
 頬を紅潮させて、鉄雄は言った。
「そうか、もう帰っとんか。鉄ちゃん、なんか急ぐ用があったんかも知れんなあ。仕方がねえじゃろう。じゃあ、ぼくらも帰るとしようやあ」
 鉄雄をとりなすように、耕作は言った。
「チェッ、あいつは勝手なことをする奴じゃのう」
 鉄雄は怒ったように、足元の小石を蹴った。
 西地区の三人は、おばけクスに祀られている祠に向かって、手のひらを二回打ち帰って行った。彼らは入江のほとりを走る県道ではなく、山道を通って帰ることにした。赤松の林をぬけたり、田圃の畦道を駈けたりしながら帰った。
 彼らは西地区の地蔵堂まで帰り着いて、そこでひと休みすることにした。地蔵堂の中を覗くと、線香の煙がただよい、その匂いが鼻を突いてくる。地蔵堂はなにかしら神秘的で、畏怖すべき対象だった。濡れ縁に坐って沖の方に視線を投げると、四国山脈の稜線がかすかに望まれた。
「耕ちゃん、これからビーダンをやろうやあ。家に帰りカバンを置いて、神社の境内に集まろうやあ」
 いきなり鉄雄が声を挙げた。
 ビーダンというのはビー玉のことで、山陽方面ではそう呼ばれていた。
「うーん、そうじゃなあ。家で仕事を言い付けられるか分からんけど、やることにしようかのう」
 耕作は一瞬考えて、うなずいた。
「耕ちゃん、靖志を誘って来てくれんか。神社に来るときに、家に寄ってみてくれえ」
 耕作の顔を覗き込んで、鉄雄は言った。
「そうじゃなあ、靖ちゃんが家にいたら誘って神社にいかあ」
 了解という意味を込めて、耕作は右手の親指を立てた。
「よーし。それじゃ、圭ちゃんもカバンを置いたら、すぐに神社へ来てくれえ。ええのう」
 鉄雄は念を押すように、圭介の顔を見た。
 耕作はカバンを置いて家を出ようとすると、母とひと悶着あった。庭の掃き掃除や風呂の水汲みを言い付けられたのである。
「遊びほうけてばかりおって、ちいたあ、家の手伝いをせにゃいけまあが――」
 母はかん高い声を挙げた。
「友だちとの約束じゃけん、手伝いは帰ってするけん」
 その言葉を残して、耕作は家を出ようとした。
「耕作、そりゃ逆さまじゃ。きちんと自分の仕事をしてから遊ぶんじゃ。遊びはあとにせえ」
 麦わら真田編みの内職の手を止めて、母は耕作を睨んだ。
「明日からそうするけん、今日はいかにゃおえんのじゃ」
 耕作はそう言い捨てて、玄関を飛び出した。
「耕、耕作ッ」
 母の叫び声が耕作の背中の方でした。
 耕作は靖志の家に寄って行くことにして、坂道を上って行った。この村は坂道の多い村である。背後の山のゆるやかな斜面が、海まで続いているのだった。靖志の家は坂道のなかほどの、家々が軒を連ねた一角にあった。
 靖志のうちはほんに小さな家だった。それがうずくまるように建っていた。東西と南は隣家の軒が迫っていて、陽がほとんど射さない家である。
「靖ちゃん」
 耕作は北側の路地から玄関の方に回り、声をかけた。
 が、返事がなかった。玄関の右の柱には、「英霊の家」という札が貼りつけられていた。
「靖ちゃん、靖ちゃんいる?」
 耕作は立て付けの悪い、玄関の引き戸を軋ませながら呼んだ。
 耕作は玄関に入って部屋を覗いたが、誰もいる様子はなかった。玄関の右手が六畳とその奥が納戸、そしてその左手に台所と便所という造りの家だった。何度か遊びに来ていたので、耕作はだいたい分かっていた。六畳間の畳は色褪せてほつれている。薄暗い家である。
「靖、靖ちゃん」
 耕作はいらだって、大きな声を挙げた。
「耕ちゃん、どうしたん」
 靖志は納戸の方から、怪訝そうな顔をして出てきた。
「どうしたんじゃなかろうが。それはこっちの言う科白じゃ。みんなおばけクスの下で待ちょうたんで。教室まで迎えに行ったら、とっくに帰ったということじゃったんじゃ」
 不満な気持ちをあらわにして、耕作は靖志を睨んだ。
「……」
 靖志は眼をそらして、うつむいた。
「靖ちゃん、これから神社の境内でビーダンをやるんじゃ。一緒にやろうやあ。それでぼくが迎えに来たんじゃ」
「……」
 靖志は沈黙して、うつむいたままだった。
「靖ちゃん、どうしたんじゃ。黙ってしもうて。なんかあるんか」
「うーん、なんでもねえ。潮が満ちて海にゃいけんから、いまストロー巻きの仕事をしとんじゃ。じゃから、学校から早う帰ったんじゃ」
 心持ち顔を上げて、靖志はぼそぼそと言った。
「じゃったら、ビーダンはもう駄目か? 遊びから帰ってからじゃおえんのか」
「……」
 靖志はまた沈黙して、眼を宙に泳がせていた。
「耕ちゃん、そうじゃなあ。じゃ、そうしょうか。夜にストローを巻くけん、ビーダンをしにいかあ」
 靖志はそう言って、納戸に入りビー玉を持って出てきた。
 神社に着くと、鉄雄と圭介が待っていた。
「なにゅうしょうたんなら、遅えのう。えっと待たされたぞ。のう圭ちゃん」
 鉄雄は圭介の方へ振り向いた。
「そりゃ悪かったのう。おかあに叱られて、すぐに出られんかったんじゃ。鉄ちゃん、わりいのう」
 両手を合わせる仕草をして、耕作は謝った。
「耕ちゃん、今日は三角出しというゲームをやろうやあ」
 耕作の顔を覗き込んで、鉄雄は言った。
 三角出しというのは、三メートルほど先の地面に、一辺が三、四十センチの三角形を描き、その中に自分のビー玉をそれぞれ一個ずつ置いてゆく。それが自分の持ち玉である。こちら側の仕切り線から、相手のビー玉を狙って玉を投げて、三角形から玉を出せば、相手のビー玉が貰えるのである。
「圭ちゃん、靖ちゃん、三角出しでええかのう」
 耕作は二人の顔を交互に見て、様子をうかがった。
「耕ちゃん、三角出しでええよ。早うやろうやあ」
 圭介は両手でビー玉をくるんで打ち鳴らし、靖志は白い歯をこぼしてうなずいていた。
 鉄雄はさっそく仕切り線と三角形を描いて、ビー玉を置くように言った。みんなは玉を一個ずつ三角形の枠の中に並べた。
「ようし、それじゃ、順番を決めよう。ジャンケンじゃ」
 鉄雄の周りにみんな集まって、
「じゃあいくぞ、ええなァ、ジャンケンポン」
 みんなの大きな声が弾けた。
 ジャンケンに勝ったのは、靖志である。最初に彼が投げたが、的をはずして失敗だった。
「靖志、何をやっとんじゃ。どんくせえのう。眼をつむっとっても当たろうがあ」
 鉄雄が鋭いヤジを飛ばした。
「よおし、見とけえ。ええか」
 狙いを定めて、鉄雄は勢いよく投げた。
 すると、靖志の玉が弾かれて、三角形の枠から飛び出ていった。
「靖志、よう見たか。このようにやるんじゃ」
 靖志を振り向いて、鉄雄はにやりと笑みを浮かべた。鉄雄は靖志のビー玉を拾って、ポケットにねじ込んだ。
 持ち玉を失った靖志は、新しい玉を追加するか、もしくはこのゲームの終了まで休むか選択する。靖志はためらわずに持ち玉を三角形の最も遠い場所に置いた。
「靖志のビー玉は目障りじゃ。もうひとつ、いただくことにするかのう」
 成功すれば、続けて投げることができる。
鉄雄は二回目も靖志のビー玉を狙って投げたが、今度は失敗した。鉄雄は靖志のビー玉を標的にしているのだった。次は圭介の番である。
「鉄ちゃん、残念じゃったのう。その敵はぼくが討っちゃろう」
 勇ましく、圭介は仕切り線に立った。
 圭介は腕をまっすぐ伸ばして、片目をつむり、狙いを定めて慎重に投げた。カチンと音を立てて、靖志のビー玉が三角形の枠から弾き飛ばされた。
「あーあ、可哀相に、靖志のビー玉がまたやられたのう。靖志どうするんじゃ。」
 靖志をちらっと見て、鉄雄は厭味たっぷりの顔をした。
 靖志は今度は新しい玉を追加せず、休みを宣言した。靖志のビー玉は鉄雄と圭介の標的にされ、ふたりに二個とも三角形から弾き出されてしまった。靖志はしょんぼりとうなだれた。
「靖ちゃん、口惜しいじゃろう。よーし、靖ちゃんの敵討ちじゃ」
 ビー玉を持って、耕作は立ち上がった。
 耕作は鉄雄のビー玉に狙いを定めて、思い切り腕を振った。鉄雄のビー玉は弾かれて、三角形から飛び出していった。
「鉄ちゃん、一丁あがりじゃ。悪いけえど、このビー玉はいただきじゃ」
 鉄雄のビー玉を摑んで、耕作は言った。
「耕ちゃん、覚えとけえよ。敵はきっと討つからのう」
 鉄雄は唇を硬く結んで耕作を睨んだ。
 こうして、一ゲームを終えて、最もビー玉を獲得したのは鉄雄だった。
「よーし、耕ちゃん、もう一回やろう」
 鉄雄は仕切り線と三角形をもう一度地面に描いた。
「圭ちゃん、靖志のビー玉を狙えェ。わしらを待たせて、ひとり勝手に帰るような奴じゃけんのう。こらしめとかにゃおえん。父無し子のくせに、なまいきじゃ」
 鉄雄はあからさまに囃し立てた。
 二ゲーム目も、標的にされたのは、やはり靖志のビー玉だった。鉄雄と圭介によって、靖志のビー玉はあっけなく、三角形の枠から弾き飛ばされて、手持ちのビー玉を奪われてしまった。
「インチキじゃ。みんなしてぼくのビー玉を狙い撃ちにするんじゃのう。もう厭じゃ。もうやめじゃ」
 靖志はいきなり、かん高い声を挙げた。
 靖志は勢いよく神社の境内を駈けぬけて、軒を連ねた路地へ向かった。
「靖ちゃん、靖ちゃんッ」
 耕作は靖志の背中に向かって叫んだ。
「耕ちゃん、ほっとけ。あいつは変わりもんじゃけえ。ちいたあ、痛い目に合わせとかにゃおえんのじゃ」
 路地の方に視線を投げて、鉄雄は言った。
 靖志は振り向くこともなく、路地の奥へ消えていった。

     (二)

 耕作たちは神社の境内で、しばらく缶けり遊びをしていた。次に圭介が鬼になって、鉄雄が勢いよく缶を蹴った。
「それ、逃げろ。わーッ」
 一斉に歓声が挙がった。
 それと同時にみんなは駈けだし、樹木や塀の蔭、そして小川の中に飛び込んで、身を隠した。圭介は遠くまで蹴られた缶を拾って、地面に描かれた丸印の中に置くと、みんなを捜しにかかった。
 耕作は塀の蔭に隠れて、圭介の動きをさぐっていた。鉄雄は小川の中に飛び込んで、身をひそめている。靖志はカイヅカイブキの蔭に隠れていた。最初に見つかったのは、靖志だった。カイヅカに寄り添いすぎて、枝が揺れていたのである。
「靖ちゃん、みっけ」
 圭介は大きな声を張り上げた。
 靖志はカイヅカの蔭から身体を現して、すごすごと缶の傍に引き返していった。圭介が捜しに行っている間に、缶を蹴れば靖志は助かる。が、誰も缶を蹴ることなく全員が見つかれば、次の鬼は靖志になる。
「耕ちゃん、靖志が最初に見つかったら、助けに行くなよ。あいつを鬼にしてやろうぜ」
 鉄雄は逃げるとき、耕作にささやいた。
 小川の土手から顔を覗けた鉄雄は、あっけなく見つかった。
「鉄ちゃん、みっけ、みっけ」
 小川まで駈けてゆき、圭介は叫んだ。
 耕作はそのすきに、缶を蹴りに行こうと思えば、行けた筈だった。が、鉄雄に指示されていたので、彼はためらっていた。そんな卑怯なことは許されないと思った。耕作の心は、遣り切れない気持でいっぱいだった。
「耕ちゃん、みっけ。やったあ」
 圭介は全員見つけて、嬉々とした声を挙げた。
 靖志は最初に見つかり捕らえられたが、誰も助けに行かなかったので、次の鬼になった。
「靖志、おまえが鬼じゃ。みんな見つかりにくいところに隠れるから、しっかり捜せえよ。耕ちゃん、缶を思い切り蹴ってくれえ」
 鉄雄は振り向いて、缶を蹴る仕草をしてみせた。
 そして、鉄雄は「ちょっとタイム」と言って、耕作と圭介を呼び寄せた。
「ええか。もう缶けりも終わりじゃ。耕ちゃんが缶を蹴ったら、靖志の奴をほっといて、海岸へ逃げるんじゃ。あいつは誰もいないのに、捜し回るじゃろう。おもしれえぞ、ええな」
 ふたりの顔を交互に見ながら、鉄雄は念を押した。
「鉄ちゃん、そりゃ無茶じゃ。靖ちゃんが可哀相じゃ」
 鉄雄の顔を見つめて、耕作は首を振った。
「靖志は風呂にも入らず、不潔な奴じゃけんのう。仲間はずれにされてもしようがねかろうが――」
 鉄雄はクサイッと言って、鼻に手をやった。
「でも、靖ちゃんは誰も見つからんで、途方に暮れるじゃろう。鉄ちゃん、もう一回ちゃんとやろうやあ。それで終わりにしようやあ」
 耕作は、ちょっと反発して鉄雄を睨んだ。
「それじゃ、耕ちゃん。ひとりだけ残ってやるか。靖志の肩を持つんじゃったら、それでもええ。じゃけえど、あとのことは知らんぞ。どうなってもええいうんじゃったら、ここへ残りゃええぞ」
「……」
 耕作はしばらく沈黙して、言葉が出なかった。
 棘が刺さったように、きりりと心が痛んだが、耕作は鉄雄の言葉に従うほかなかった。心ならずも耕作はうなずいていた。
「よっしゃ、耕ちゃん。思い切り遠くへ缶を蹴飛ばしてくれえ。圭ちゃんええか、始まりじゃ」
 四人は缶の周りに集まってきた。
 耕作が助走をつけて缶を勢いよく蹴り、みんなは脇目もふらずに駈けだした。缶は高い響きをたて、からころと転がっていった。振り向くと、靖志があわてて缶を拾う仕草をしていた。
 耕作たち三人は息を弾ませて、神社の境内から海岸の堤防まで走ってきた。堤防は彼らの胸くらいまでの高さがあって、それを背にしてみんな神社の方角に眼を注いだ。
 靖志が誰もいない神社の周りを捜し回っているのかと思うと、耕作は哀れでならなかった。なぜ、彼がこんな仕打ちをされなければならないのか、耕作には理解できなかった。鉄雄は父無し子といって、彼を疎んじているけれど、それは不条理のように思えて仕方なかった。
 が、そうは思っていても、鉄雄の言うことに逆らえず、それに従っている自分が情けなかった。それは鉄雄よりも貧しい心のように思えて胸が疼いた。
 振り向くと、瀬戸の海は西に傾いた陽を斜めに受けて、橙色に染まっていた。磯の香りがただよって、耕作を柔らかく包み込んでくる。沖の方では貨物船がゆっくりと視界をよぎってゆく。潮はひたひたと岸辺に押し寄せてきていた。時折ザッ、ザーッと潮が捨て石に打ちつけ、波が白く砕けて泡だっている。
 なんとなく入江に眼を巡らせていると、危なっかしく捨て石の上を渡っている女の人がいた。捨て石にはノリが付着していて、滑りやすいのだが、左手にバケツを提げて海面に近づいてゆく。女はもんぺを穿いてそろりそろりと、裸足で捨て石を歩いている。
「耕ちゃん、ありゃ、靖志のおかあじゃないんか」
 腕を突き出して、鉄雄が言った。
「……」
 眼を凝らしてみたが、耕作にはよく分からなかった。
「ほんまか、靖ちゃんのおかあじゃろうか」
 圭介は堤防の上にのぼりながら、息を弾ませていた。
「耕ちゃん、ほんまじゃ。靖ちゃんのおかあに間違いねえ」
 圭介は堤防の上に立ち、右手を庇のようにしてじっと見つめていた。
「そうじゃなあ、靖ちゃんのおかあのようじゃのう。じゃけえど、おかあは何をしにいきょんじゃろうか。ノリが濡れていて滑りやすいのにのう」
 怪訝そうに、耕作は沖を眺めていた。
 いつのまにか、近所の小父さんが耕作たちの傍にやってきて、やはり捨て石を渡る女を眺めていた。小父さんは、みんなから銀爺といわれている漁師だった。いつも酒を飲んでおり、赫い顔をして無精ひげをはやしていた。彼の本当の名前は銀次郎だった。
「耕ちゃん、靖志のおかあはアサリの潮でも汲みにいきょんじゃろう」
 鉄雄は爪先立ち、靖志のおかあを見つめていた。
 靖志のおかあは、リヤカーを曳いて魚売りの行商をしていた。それで、鉄雄は靖志のおかあがアサリの潮を汲みにいっているものと、思いついたのだろう。
「違う、そうじゃねえ。お前らはなんにも知らんのじゃのう。まだまだひよっこじゃのう。人生の甘いも辛いもよう分かっとらんのう。今日は九月二十三日じゃろう。二十三日は、靖志のおとうの月命日なんじゃ。それで、おかあが潮を汲みにきとんじゃ」
 すかさず銀爺が、鋭く眼を光らせて言った。
「小父さん、靖ちゃんのおかあは潮を汲んでなにゅうするん。あんな危ないとこまで行って――」
 耕作は銀爺の顔を見上げた。
「そりゃのう、仏壇に潮をお供えするためなんじゃ。潮を汲んで帰ってのう、仏壇にお供えして、般若心経を唱えるんじゃ」
 銀爺の吐く息は、酒の匂いがした。
「昭和十九年じゃったのう。靖志のおとうは十二月二十三日、ルソン島に輸送船で上陸直前じゃったんじゃ。それがアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて、沈没したんじゃ」
 銀爺は三人の顔を見渡した。
「……」
 耕作は息を呑んで、銀爺の話に耳を傾けていた。
 鉄雄や圭介も言葉を失って、神妙な顔をして聞いていた。
「その折りにのう、靖志のおとうは死んだんじゃ。骨はまだその海に眠ったままなんじゃ。その海と瀬戸の海はつながっとるいうてのう。靖志のおかあは、おとうの骨が洗われた潮を汲みにくるんじゃ」
 銀爺は煙草を出して火を点け、煙をふーっと吐き出した。銀爺の黄色に染まった歯が見えた。
「小父さん、ルソン島いうたらどこにあるん。ぼくらあ、さっぱりわからん。九州よりずっと遠いんじゃろう」
 耕作は背伸びをして、銀爺を見上げた。
「そうよ、ずっとずっと遠いんじゃ。フィリピン諸島の北の大きな島でのう。沖縄、台湾のずっと南の方じゃ」
 銀爺は遠くを見るような眼つきをした。
「ルソン島でおとうが死んだばあにのう。靖志も苦労せにゃおえんのじゃ。おかあも月命日にゃ、ああしてせっせと潮汲みじゃけんのう」
 銀爺は靖志のおかあの方を見つめて、顎をしゃくった。
「靖志は漁の名人じゃけえのう。遠浅の海が三郎島の方まで引いたら、必ず海に入ってのう。シャコや蟹、カレイや蛸をぎょうさん取ってくるんじゃ」
 沖の方に視線を投げて、銀爺は言った。
「……」
 鉄雄は靖志のことを、ノロマだと烙印を押しているけれど、いったん海に入れば彼は生き生きと振舞うことを、耕作も知っている。しかし、靖志はソフトボールや鉄棒、徒競走など苦手で、運動は何をさせてもうまくやれなかった。それで、鉄雄は靖志のことをノロマと呼ぶのだった。
「それでのう。靖志が取ってきた魚は、翌日おかあが他の魚と一緒に売りに行くんじゃ。靖志はお前らみたいに、遊ぶばあしとるわけじゃないんぞ」
 銀爺はゆっくり身体をひねって、西の空を見上げた。
 島影に陽がかかり、耕作の足元から夕闇がかすかに立ち昇ってくるようになった。靖志のおかあは、紐をくくりつけたバケツを沖に投げ込んだ。バケツはくるっと回って、海に落ちていった。しばらく浮かんでいたが、靖志のおかあは紐を上手にあやつってバケツを沈め、その紐をたぐり寄せた。
 捨て石の上で足を踏ん張り、潮を汲み上げた靖志のおかあは、バケツを脇に置いた。そして、沖に向かい手のひらを合わせて、深く頭を下げている。何かを唱えているように、しばらく動かなかった。そこだけに光が集まったように、靖志のおかあは淡い橙色に染まっていた。
 ようやく靖志のおかあは、バケツを持って捨て石の上をゆっくり渡り、堤防の下までやってきた。堤防の階段をのぼると、靖志のおかあは、バケツを提げてそそくさと帰途についた。やがて、靖志のおかあは夕闇の中に溶けていった。

     (三)

 十月に入って、修学旅行の説明会の日だった。耕作は神社の石段に坐って、みんなが来るのを待っていた。旅行は三週間先で、説明会では行き先や注意事項、小遣いの額や旅行代金などの話があるというのを聞いていた。
 最初にやってきたのは圭介だった。
「耕ちゃん、早いんじゃのう。ぼかあ、おかあに起こされて、やっと眼が醒めたとこじゃ」
 圭介は石段に近づいてきて言った。
 次にやってきたのは鉄雄だった。家の角を曲がって、勢いよく飛び出してきた。
「わりい、わりい。遅うなってしもうたのう。親父が網の片付けを手伝えいうて、それで遅うなったんじゃ。じゃが、靖志の顔も見えんのう。あいつはどうしたんじゃろうか。いっつも遅えのう。ノロマな奴じゃ」
 鉄雄は靖志の家の方角に、視線を鋭く走らせた。
 耕作もそちらに向かって、眼を凝らしたが人の気配はなかった。みんなは石けりなどしてしばらく待っていたが、やはり靖志はこなかった。
「耕ちゃん、もう行かにゃ遅刻になるでえ。靖志の奴はもうほっときゃえかろうが。会(お)うたらゲンコツじゃ」
 鉄雄は左の手のひらを右のコブシで二、三度叩いた。
「鉄ちゃん、ぼかあ、もうちょっと待って見るけん、先に行っといてくれんか」
 耕作は石段から立ち上がり、鉄雄を見つめて言った。
「おまえも辛抱のええ奴じゃのう。あいつはひとりで学校へ行っとるかもしれんぞ。莫迦をみるのは耕ちゃんじゃけえのう。遅れるけん、わしらは先に行っとくぞ」
 カバンを揺すり上げながら、鉄雄は足を一歩踏み出した。
 靖志の家の方角を見遣りながら、耕作は神社の石段に坐って待っていた。しばらく待っていたが靖志はこなかった。が、村道をリヤカーを曳いてゆく、靖志のおかあの姿が見えた。これから魚の行商にゆくのだろう。
 靖志のおかあは、唇を嚙みうつむき加減に歩いて、黙々とリヤカーを曳いている。朝日が斜めに射し込んで、彼女を光が包んでいたが、なんとなく覇気がないように見えた。村道の東の角から出てきて、西の家の角へ消えて行った。耕作は彼女が消えるのを見届けてから、慌てて石段から立ち上がり、学校へ向かった。
 授業を終えるといつものように、耕作はおばけクスの下で鉄雄と圭介を待っていた。
「耕、耕ちゃん」
 鉄雄がかん高い声を挙げながら、駈けてくる。
 圭介もそのあとを追ってきていた。鉄雄が息を弾ませながら、おばけクスまでやってきた。
「耕ちゃん、靖志の奴はやっぱり学校を休んどるのう。休憩時間にあいつのクラスに行ってみたけえど、おらんかったんじゃ。大事な日に休むんじゃけんのう。しようがねえ奴じゃ」
 鉄雄は肩で息をしていた。
「鉄ちゃん、ぼくも気になって、靖ちゃんのクラスを覗いたんじゃ。やはりいなかったのう。どうしたんじゃろうか」
「耕ちゃん、あいつのことはもうほっとけ。あいつはちょっとへそ曲がりじゃけんのう。まともに相手にできん」
 おばけクスに背中をあずけて、鉄雄は耕作を見つめた。
「じゃけえど、修学旅行が楽しみじゃのう。去年とだいたい同じとこらしいのう。金閣寺と銀閣寺、それに清水寺と知恩院、そして嵐山じゃ」
 圭介が話題を変えて、旅行の話をした。
「そうじゃのう。汽車に乗ることもめったにねえし、旅館も楽しみじゃ。旅館じゃ枕投げなんかやって騒ぐらしいぞ」
 鉄雄は枕投げに興味を示して、心を弾ませているようだった。
「旅行代金は一週間後に集金じゃのう。またうちのおかあが愚痴をこぼすじゃろうのう。鉄ちゃんとこは漁師じゃけえ、心配いらんじゃろう。圭ちゃんとこは役場へ勤めとるけんえかろう。うちは大工じゃけんのう、仕事がのうて大変なんじゃ」
 耕作は嘆息して言った。
「戦争が終わって、まだ八年じゃもんのう。旅行代金じゃいうて莫迦にならんけえのう。靖志の奴は明日出てくるじゃろうか。あてにならんのう。耕ちゃん、もう帰ろうやあ」
 鉄雄はおばけクスから離れて、耕作と圭介に帰るように促した。
 靖志は次の日に学校を休まなかったが、しかし耕作たちと行動をともにすることを、拒んでいるようだった。登下校も一緒でなく、ひとりで行動していた。放課後も耕作たちの遊びの輪に加わることがなかった。
 耕作は放課後、風呂の焚き木を取りに山に入ろうと思って家を出た。彼の家は県道に面した所にあって、家を出て少し東へ歩くと、坂道になっている細い道がある。彼はノコギリや斧を持って、その道を上って行った。
 家が立て込んでいる辺りまでは、比較的なだらかな坂道だったが、そこを抜けると急に勾配がきつくなる。耕作は息を弾ませながら坂道を上り、地蔵堂までたどりついた。彼は地蔵堂の外の板敷きに坐って、休憩をとることにした。
 地蔵堂からの眺めは絶景だった。耕作の眼前に瀬戸の海が大きく広がっていた。遠く四国山脈が霞んで見え、その手前には島々が浮かんでいる。漁船が白い波の尾を曳いて、往き交っていた。
 ふと地蔵堂の左手の墓地に眼をやると、女の人と男児が墓標の前に坐っているのが見えた。眼を凝らして見ると、墓標の前で合掌しているのは靖志のおかあだった。その後ろで手を合わせているのは靖志である。
 靖志のおかあの読経が風に乗って耕作の耳まで届いてくる。おとうの墓標はまだ新しく、木肌はまだつやつやとしていた。以前の墓標は灰色に朽ちていたので、最近遣り変えたようだった。この墓地には幾本もの墓標が風雨に晒されており、斜めの西日を浴びている。どれも先の戦争で亡くなった人の墓標である。靖志のおかあの読経は、いつ果てるともなく続いていた。
 靖志の家には風呂もなく、首の辺りに垢をつけたまま、学校に来ることもある。めったに風呂屋に行くということがなかったのだ。みんなに「クサイ、不潔じゃ」と厭がられることもあった。おかあの行商だけで靖志は修学旅行へ行くことができるのだろうか。そんな思いをいだきながら、耕作は山に入って行った。
 耕作が焚き木を背負って、地蔵堂まで来ると、もう靖志もおかあもいなかった。耕作は四国山脈の方に眼をやって、遠くを眺めていた。靖志のおとうが死んだというルソン島はどの辺りなのだろう、と耕作は遠い世界に思いを馳せた。

 修学旅行の帰途の汽車の中だった。耕作はなんとなく憂鬱な気持ちで車窓を眺めていた。やはり靖志は修学旅行へこなかった。
 靖志はどんな気持ちでこの二日間を家で過ごしていたのだろうか。ひとり海に入って、得意な漁でもしていたのだろうか。それとも、京都の観光名所に思いを馳せていただろうか。そんな思いにふけっていた折り、鉄雄と圭介がやってきた。
「耕ちゃん、何をやっとんじゃ。渋い顔をして、なんかつまらなさそうじゃのう。耕ちゃん、ちょっとデッキへ出てこんか。この車両にわしらは入れんけんのう」
 鉄雄のかん高い声が降ってきた。
「そうじゃなあ。いま退屈しとるとこじゃったんじゃ。先に行っといてくれえ。あとから行くけん」
 耕作は顔を横に向けて答えた。
 耕作はリュックサックの中から土産を取り出して、汽車の揺れに足をとられながら、デッキまで出て行った。
「耕ちゃん、修学旅行は楽しかったのう。まあ、一番は旅館じゃったのう。うちのクラスは枕投げでえろう盛り上がったんじゃ。そのかわりライオンにぼっこう絞られたけどのう」
 鉄雄は苦笑いをしながら、耕作と圭介の顔に視線を走らせた。
「ぼかあ、知恩院のうぐいす張りがえかったのう。キュ、キュッという音が響いて、不思議じゃったのう」
 圭介はキュ、キュッと唇を鳴らした。
「ぼかあ、清水の舞台じゃったのう。舞台は一本も釘を使わず造られていて、下を覗き込むとちょっと怖かったのう」
 耕作は上から下を覗き込むような恰好をした。
「耕ちゃん、それで土産に何を買(こ)うたんじゃ。小遣いが少ねえけえ、ろくなもんは買えんかったろう」
「ぼくはめんこと八つ橋じゃ」
 耕作は握っていた手のひらを開いて、めんこを出した。
「鉄ちゃん、このめんこを見てみい。ホームラン王の藤村富美男じゃ。それに大関の栃錦じゃ。かっこよかろう」
 耕作はめんこを広げて見せた。
「圭ちゃんは、何を買うたんじゃ」
 鉄雄は圭介を見つめて言った。
「ぼかあ、これじゃ」
 そう言って、圭介は短刀を出して、耕作の腹を突いた。
 すると、刃が引っ込んで、まるで身体に突き刺さったように見えた。
「圭ちゃん、びっくりしたのう。ほんまに刃が身体に刺さったんかと思うたが。おもしれえものをみつけたのう」
 鉄雄は口を開けて、びっくりしたような表情をした。
「鉄ちゃんは土産に何を買うたんじゃ。見せてくれえ。ええもんがあったんか」
 耕作は鉄雄の顔を覗き込んで言った。
「わしはのう、これじゃ。やっぱり都会じゃのう。ええのがあったんじゃ」
 鉄雄がポケットから取り出したのは、ビー玉だった。
 そのビー玉は網の袋に入っており、鉄雄はいくつか取り出して、手のひらを開いて転がした。ビー玉の中に立体の星が入っていたり、バラの花が埋め込まれていた。
「鉄ちゃん、めずらしいビー玉じゃのう。田舎にゃ、ねえようなものばかりじゃのう。鉄ちゃん、ええのう見つけたのう。さすがじゃ」
 耕作は鉄雄の手のひらを、食い入るように見つめていた。
「よかろうがのう。耕ちゃん、このビー玉は靖志の土産に買うたんじゃ。あいつはたぶん、淋しい思いをしとるからのう。わしも銀爺の話を聞いてから、ちょっと考えたんじゃ。おとうが戦争で死んで、あいつも辛い思いをしとんじゃ思うてのう。それがわしにもようわかったんじゃ。靖志にゃ悪いことばあしてきたからのう。せめてもの罪ほろぼしじゃ」
 耕作を覗き込んで、鉄雄は言った。
「……」
 耕作は鉄雄の顔をちらっと見て、言葉を失ってしまった。鉄雄の心の在りように耕作の胸は強く打たれ、呆然と立ち尽くしていた。
 耕作は鉄雄の手のひらからビー玉を摑みとって、手のひらの上に載せた。すると、ビー玉は一瞬きらめいて、鋭く光を放った。
 汽車は烈しく汽笛を鳴らして、一路岡山に向かって走り続けていた。
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 「人生七十古来稀なり」の古希です。
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 住所は岡山県浅口市寄島町です。
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