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鬼藤千春の小説 「文学教室」 短編

文学教室
        鬼藤 千春

 岡山駅に新幹線「ひかり」が滑り込んできた。その時風が舞った。緑の風だった。あの二月の裸木を吹き抜ける乾いた風でなく、潤いのある風だった。
 緒方雄介は、ホームに投げ出していたバッグを拾い上げ、大きく息を吸い込んだ。「ひかり」の乗降口から人が吐き出されると、蛇のように延びた列は、生き返ったかのように動き出した。
 自由席の箱は人で埋め尽くされ、雄介はかろうじて自分の席を探し当ててもぐりこんだ。
まもなく「ひかり」はぶるっと身体を震わせて、窓外の風景をゆっくりと後ろへ捨てていった。
 しばらく雄介は四角に切り取られた外の風景に目を泳がせていた。市街地を抜けると、朝もやに霞んだ山々や田畑が、千切れるように後方に飛んでいった。おそらくあの山の桜の木は、乳首のような硬い蕾をつけ始めた頃だろう。
 ようやく落ち着いた雄介は、バッグを開き一冊の単行本を引き抜き、膝の上にのせた。しかし、開かなかった。と、いうより開けなかったというほうが、当たっているだろう。雄介はその単行本をぎゅっと両手で硬く握り締めて、静かに目を閉じた。

 本を開くのが怖かった――。そんな時があり、そんな時代がかれこれ二十数年続いてきた。気がつくと、六十歳の定年まであと四年というところに、差し掛かっている。
「いまさら文学なんて……」という想いがなくはない。その想いは、文学の扉の前で逡巡し、戸惑い、荒波にもまれる木の葉のように揺れた。しかしまた、文学の扉を叩こうとしているのだった。未踏の地が甘い人間を寄せ付けないように、その道は険しく、厳しいものだと知らない訳ではないけれど……。
 なんとなく、正月休みに、ある文学雑誌をめくっていると、「文学教室」の案内の記事が目に留まった。何ページか遣り過ごし、また案内の記事に戻った。日程、場所、講師陣、参加費など、ひととおり目を通して雑誌を閉じた。心がすこし騒いだ。
「行ってみようかな……」
 雄介は小さく呟いた。
「いや、そんなことが出来るか、出来る訳がない。いまさら文学なんて……」
 すぐさま、それを否定した。
 一ヶ月に一回、三月から十二月まで計十回の講座である。しかも日曜日である。石材会社の次長である彼は、土、日、祝日は休めないことになっている。
 最大の問題は開催地が名古屋ということだ。行き来にそれなりの金がかかる。妻にお伺いを立てるということは、とうてい出来そうもない。論外だ、として一蹴されることはまず間違いない。
 会社と家庭に高いハードルがあり、それを越えなければ名古屋は月よりも遠い。雄介は文学雑誌を取り上げ本棚の隅に押し込んだ。
 しかし、忘れようとしても「文学教室」のことは、ふっと頭をよぎるのだった。その度ごとに、その思いをねじ伏せて、遣り過ごそうとするのだが、またふっと、時、所を構わず頭をもたげてくる。
 雄介は思い立って、香川県の友人に電話をかけた。昔、一緒に同人誌をやったことのある女性である。彼女は今でも小説を書いているらしい。お互いに近況報告を済ませて、
「『文学教室』のことで迷っているのだが……」
 と、雄介は声を落として言った。
「あら、それだったら私も行ったことがあるわ」
 弾んだ彼女の声が受話器に響いた。
「その時は京都だった。とっても良かったわ。ぜひ行ったらどう……」
 と、迷っている雄介の背中を押してくれた。
「ああ、そう。だったら考えてみようかな……」
 雄介はその時、行くとは言わなかったけれども、心の内ではもうなかば決まっていた。

 翌日彼は、三月から月一回、日曜日に休みを取らせてくれるように部長に頼んだ。あれこれ訊かれたが、私用でどうしても休暇が欲しい旨を告げて、ようやくの思いで許可をもらった。じっとりと冷や汗が脇の下に滲み出ていた。
 次は金だった。手ごわい妻を説得するために、彼は煙草を止めることにした。三十六年間、喫い続けた煙草であり、一度ならず禁煙の挫折を重ねていたが、やむをえない。そして、「ツキイチ」、つまり月に一度のゴルフを半分にすることに決めた。これでだいたい「文学教室」の資金は捻出することが出来るはずだ。
「煙草、本当に止められるの」
 妻は台所で食器を洗いながら、やや高い声を挙げた。振り向きもせず、食器を荒々しくぶつけていた。
「ゴルフだって、言うだけなら風呂屋の湯よ。
湯(言う)だけなんだから」
 硬い背中は明らかに雄介の打診を拒否していた。
「まあいいわ。二つの約束を破ったら、そこで尾張(終わり)名古屋ね。これは私からの約束よ」
 いきなり振り向いて、きっと雄介を睨んだ。

 雄介はそっと目を開け、ぼんやりと視線を窓外に投げた。四角に切り取られた風景は、色彩さえ消して急流のように流れていく。近いほどその流れは速かった。遠くになればなるほど、ゆっくり回転するように動いてゆくのだった。飛行機が鋭角に四角のスクリーンを上昇してゆく。飛行機雲が青いキャンバスに筆をさっと引いたように、長く尾を延ばしていた。「ひかり」は新大阪を過ぎたところだった。
「なぜ私はここに居るのか、なぜ私はこの『
ひかり』に乗っているのか、私はどこへ向かおうとしているのか」
 一瞬、自分の存在が現実でなく、夢のように危ういものに感じられた。雄介は身体をひねって座席に坐りなおした。現実という座席に自分を鉄の鎖で縛りつけるように……。
 そしてまた雄介は、目を閉じ遠い日々に想いを馳せた。

 朝、目覚めると、何かしら耳がおかしい。違和感があり、ふと左手で耳を押さえた。ジィーと耳の奥が鳴っている。掌で耳を包んでやると、ジィー、 ジィー、ジィーとよけいに反響した。耳の内からというよりも、遠いところから聞こえてくるような感じだった。潮騒のような耳鳴りだった。
 布団を蹴って雄介は、出勤の身支度をそそくさとやり、コーヒーを沸かした。そしてトースト、それが彼の朝食だった。部屋を見渡してみた。大きなオーディオセットが、南の掃きだし窓を塞ぐように置かれている。ここへ来てから、一度も干されたことのない、万年床が乱れていた。北側には、鴨居まで届く背の高い本棚がふたつ、襖をさえぎっていた。
 彼は雇用促進住宅にひとりで住んでいた。そこから、峠をひとつ越えたところにある、K市の建築会社に勤めている。設計や工事管理を担当していた。
 相変わらず耳は鳴っている。彼は郵便受けから新聞を引き抜いてきて、机の前に坐った。
机の上は乱雑きわまりなかった。大学の通信教育部から送られてくる、テキストが積まれている。読みさしの小説が投げ出され、新聞やカップラーメンが転がっていた。
 トーストをかじりながら、新聞の社会面を開き、記事の文字を拾おうとしたが、
「あっ、新聞が読めない……」
 雄介は小さく声を挙げた。
 いや、読める、三行までは読める。しかし、そこから先に進むことが出来ない。三行まで読み進むと頭が混濁し、くらくらした。少し休み、また新聞を開いて、今度は意識的に挑戦してみた、やはり三行までだった。脇の下から冷たい液が流れ落ちた。ジィー、ジィーと間断なく耳は鳴っていた。何故だ、雄介は立ち竦み、凍りついた。
 身体がだるく、鉛のように重かった。休みたいと思った、しかし今日は休めない、休めない日だった。墨出しの日である。昨日、二階のコンクリートを打ち、今日は三階の墨出しをしなければならなかった。
 雄介は三階のフロアに駆け登り、トランシットのレンズを覗き込んだ。十字に刻まれたレンズの、黒い目盛りが揺れているように見えた。向こうで定規を持った男に、彼は右手を振って合図を送った。なかなかレンズの十字と定規が、ぴたりと合わなかった。次に彼は左手を大きく振った。「もっと左だ――」と怒鳴っていた。「もっともっと左だ――」と、怒鳴りながらレンズから目を離し、男のそばに行こうとした。
 真っ直ぐに歩けない。コンクリートのフロアが揺れているのか、自分が揺れているのか分からなかった。しかし彼は、「もっとしっかりしろ」と、男を睨んできつく叱った。男は怪訝そうな顔で、雄介を見上げていた。屈んでいた男は立ち上がり、「緒方さん、顔色が良くないですよ。どこか悪いんじゃないんですか」と訊いてきた。いや、と彼は答えたが、耳鳴りがして、頭は混濁していた。
 雄介は仕事を投げ出し、アパートへ帰り、作業着のままで布団にもぐりこんだ。全身倦怠感に包まれている。鉛のように重い身体は、布団を破って、地の底に落ちてゆくような錯覚に囚われた。彼はそのまま深い眠りに落ちた。
 それから、病院通いが始まった、まず耳鼻科だった。いくつかの検査をした。しかし、耳鳴りに結びつくような原因は見つからなかった。頭が重く曇っている状態で、新聞を読むと頭がくらくらした。脳神経外科へ回され、CTスキャンや脳波をとられた。内科的にはどこも異常はない、と言われた。
 新聞が三行しか読めない、そんな病気は聞いたことがない。もちろんビジネス書でも文学書でも新聞と同じで三行までだった。活字を拾って読むということは、けっして嫌いではなかった。高校時代は文芸部に入り詩を書き、文集づくりに夢中だった。それから十数年間、仕事の合間に書物を読んだり、数編の小説も同人誌に発表したりした。
 読むことと同時に、話すということも、自然にできなくなってしまった。そして、夜眠れなくなり、身体がだるく、その倦怠感は雄介の全身包み込んでいた。いくつかの病院を巡ってみたが、内科的にはどこにも異常は認められない、とのことだった。処方がないということで薬さえ貰えなかった。えたいの知れない、奇異な病気としか言いようがなかった。
 たとえ、えたいの知れない病気だとしても、それを放置しておくわけには行かなかった。抵抗はなくはなかったが、最後に思いついたのは精神病院だった。もしかしたら、自律神経失調症か、メニエール症候群かもしれない、と思ったりした。
 精神病院で雄介は、執拗に医師に病名を訊いたが、それには答えてもらえなかった。
「診断するのは、病名をつけるのが目的ではないんですよ。具体的な症状に対して、具体的な処置をするのが医師の役目なんです」
 白髪の医師は、真っ直ぐに雄介を見つめて、優しくそう言った。帰りに、ピンクとグリーンの錠剤を渡された。三十一歳の時だった。
 あれから二十五年が経つ、雄介はもう五十六歳になっていた。随分、遠回りして来たように思う。しかし、彼はまだ精神病院の門をくぐり続けている。なんと頑固な病気なのだろうか、二十五年経った今でも月一回、ピンクとグリーンの錠剤を貰いに行っている。前世に呪われているのかもしれない、という思いもなくはないが、それは違うだろうと思う。
彼自身の行きこし方の如実な、まぎれもない反映に過ぎない、と雄介は思っている。これもひとりの人間の有りようであり、ひとつの人生に違いなかった。
 しかし今では、日常生活や社会生活を営むうえで、何ら支障をきたすことはなくなっている。数年前からは本も少しずつ読めるようになってきた。それはおもに仕事に関するビジネス書のたぐいのものだった。感情移入が求められ、状況描写をイメージしながら読み進む小説は、やっと昨年の夏頃から手にすることが出来るようになった。
 あの、えたいのしれない病気に罹ってから、雄介は郷里の海の町へ帰ってきた。
 あの閉鎖的で保守的な、やけに沈鬱な雰囲気になじめず、高校を卒業すると同時に、いたたまれず漁師町を捨てて都会へ出た。自分が生まれ育ったあの忌まわしい、そして呪わしいあの家も捨てたのだった。
 彼は郷里に帰って二、三ヶ月何もしないでぶらぶらと過ごした。ぶらぶら、というと暢気で気楽そうに思えるけれど、鬼畜なごとき日々にさいなまれた。相変わらず不眠は続き、鉛をひこずっているような身体と倦怠感に、もがき苦しんだ。むろん本を読めるというような「しあわせ」はなかった。
 その後、雄介は仕事を探すことになった。
 新聞も書物も読めない、まして、人と関わって喋ることが出来ない。いったいどんな仕事があるというのか。彼は職業安定所にいくたびか足を運び、新聞の求人広告やチラシをなんとなく眺めたりした。
 雄介が選択したのはガス屋だった。プロパンガスのボンベを家庭や商店に届ける仕事である。この仕事なら、ガスの容器置き場に黙ってゆき、カラのボンベと新しい奴を交換してくればそれでよかった。この仕事を数年やり、腰を痛めて今の仕事に入ったのだった。
 まず、食わねばならぬ、子供たちを育て、自身も生き抜かなければならぬ。そのためには、意に染まない仕事であっても、たとえ、泣きながらでも、飯の糧を稼がなければならなかった。
 本を読めないということが、そしてものが書けないということが、どんなに辛いことだったろう。しかし、本に触れなくても、ものが書けなくても生活は出来る、何が不満で何が不足だというのだろう。が、彼にはその生活が我慢ならなかった。けれど、思い通りに、望んだ通りに生きられないのもまた、まぎれもない現実であり、その葛藤こそが人生であるともいえた。しかし彼は、読むこと、書くことに渇望していた。このままでは自分が駄目になる――。
 雄介はひとりで、ふらりと夜の街を彷徨うことがある。淋しい、無性に淋しい、荒涼とした原野にひとり置き去りにされて、木枯らしに吹き煽られている、そんな心の風景だ。
 極彩色のネオンがきらめく夜の街を、なんのあてもなく彷徨い歩く。するといきなり辻から厚化粧の女が、雄介の前を横切ったりする。作業着のまま酔い潰れた男が、道の傍らに雑巾のように転がったりしている。また、年取った男の腕にしがみついて、若い女が何か悲鳴を挙げながら、暗い闇に消えていく。
 ネオンの残影が幽かに届く場末の通りをゆくと、ふいに雄介の前に男が現れて、「お兄さん、いい娘がいるよ。これでどう?」と、二本の指を立てて見せた。雄介は素っ気なく右手を振って通り過ぎた。振り向くと、男は所在なげに建物の陰に立ち、闇に溶けていた。
 また雄介は原色のネオンの街に戻り、そぞろ歩いた。突然、救急車とパトカーが甲高いサイレンを鳴らして街に入ってきた。大通りの交差点あたりが騒然としている。喧嘩だった。彼は人だかりのする輪を割って、女の肩越しに内を覗き込んだ。どす黒い血がアスファルトを濡らし、傾斜に沿って流れている。下腹部を刺された男は、口から泡を吹いていた。救急隊員が人の輪を崩して内にはいり、泡を吹いている男を担架に転がした。
 サイレンがしだいに遠のいていくのを聞きながら、雄介はもう一度場末の通りを彷徨った。闇からすっと男が出てきて、「お兄さん、いい娘がいるよ。これでどう?」と、同じせりふで、やはり二本の指を立てた。雄介はうなずいた。男はホテルの名前とありかを教え、背伸びまでして、あっちの方角だと指を差した。
 雄介はホテルで待つことにした。十七号室、と呟きながら、扉に刻まれた部屋番号を探した。廊下の突き当たりのふたつ手前の部屋だった。重い扉を開き、内に入るとそこは闇だった。かすかな光をたよりに、電燈のスイッチを押すと、思いがけず部屋は広く明るかった。
 まずソファに坐り彼は煙草に火をつけた。少し緊張しているな、と呟いた。そして部屋をおもむろに見回した。玄関、ソファ、洗面所、広い曇りガラスの浴室、そして大きなベッド、赤い絨毯。ベッドの側面の壁は総ガラス張りで、鏡になっており、天井のシャンデリアの光を怪しく跳ね返していた。
 しばらくしてチャイムが鳴った。「こんばんは」と言って女が入ってきた。女と目が合い、雄介は少したじろいだ、そしてちょっぴり安心した。若い、健康そうな女だった。
「ちょっと待ったァ?」
 女はソファに身を投げ出しながら、少し鼻にかかった声で訊いた。
「ちょっとじゃないよ。火星に行って帰れるくらい待ったさ」
 雄介は煙草のけむりを、天井に向かって吹き出しながら、物憂げに答えた。
「またァ、そんなことをいってェ。これが鳴ってすぐ支度をしてきたのよォ」
 女は携帯を取り出して見せた。
「ところで、あんた何歳?あたしは二十一になったばかりってとこ。あたしいくつにみえるゥ?」
 女は雄介のソファに移ってきて、肩にもたれ掛かってきた。
 彼は上半身を捻って、女の頭をかわした。
「あらァ、冷たいのねェ、お兄さん」
 女は左の腕に抱きついてきた。
「お風呂に入ってきたらどォ?」
 女は煙草のけむりを、雄介の耳元に優しく吹きかけながら、言った。
 馴れなれしい奴だ、そしてよく喋る女だなと思いながら、雄介はシャワーを浴びた。だいたい、こんなところではキャバクラみたいに、愛想はいらないのだ。だいたいこちらが白けて、ついていけやぁしない。しかし、あれも女の、哀しく淋しい演技なのかもしれない。
 雄介は風呂から上がり、バスタオルを腰に巻きつけてベッドに横たわった。
「ちょっと待ってて、すぐ上がるからネ」
 女は掌をひらひらさせて浴室に消えた。
 雄介はベッド横の鏡にカーテンを引き、ベッドにもぐり込んだ。
「なぜ私はここにいるのか、なぜ私はこのホテルのベッドにいるのか」
 雄介は自問しながら、天井を睨んでいた。
「あらまァ、怖い顔、どうしたのォ」
 と言って、女がベッドに滑り込んできた。
 そして短く、そして長い、そして炎のように熱く燃え上がった、ひとつの世界は終わった。
 女は「じゃァねェ――」と言って、また掌をひらひらさせて、扉の向こうに消えた。
 淋しい、淋しい、この虚しさはいったい何なのか、胸を吹き抜けてゆく風。雄介は頭を枕に沈めて慟哭した。なぜ本が読めないのか、
なぜものが書けないのか、雄介はこの病気を呪い、シーツを掴んでまた激しく慟哭した。無性に虚しく淋しい思いは、より深くより強く、彼を呑み込み、ぽっかりと開いた、暗闇の地底に逆さまに落ちていった。
 このままでは自分が駄目になる――。

「まもなく名古屋、名古屋、お降りの方はご支度ねがいます」
 車内にアナウンスが流れた。
 雄介は遠い日々の想いから、一瞬のうちに現実に引き戻された。しばたいて目を開けると、車窓の風景が飛び込んできた。田園風景から次第に建物が乱立しだし、だんだんと高いコンクリートが屹立した街に、変わっていった。あのしっとりと、ゆたかな三月の風のおもむきはなく、埃っぽい灰色の街が窓外に流れていた。
 彼は読もうとして読めなかった単行本を手にして、バッグの中に押し込んだ。パスカルの『パンセ』だった。彼は今になっても人間というものがよく分からなかった。そしてまた、人間が「ものを書く」ということも、よく分からないのだった。
 ただ、雄介にとっては「ものが読めなくて、ものが書けないこと」は、ただただ虚しく、ただただ淋しいことだった。それが、くる日もくる日も濁流のように彼を呑み込んで、かれこれ二十五年になる。もし、「ものを読み、ものを書くこと」が、雄介の虚しさや淋しさを、解き放つことになるならば、パスカルの『パンセ』も焼却場に送り込まれることは、まず間違いないだろう。
 新幹線「ひかり」は滑るように名古屋駅に乗り入れた。「文学教室」は、午後二時からだったな、と雄介は呟いて、床を蹴って起ち上がった
。                               
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 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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