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鬼藤千春の小説 「チューリップの花束」 短編

チューリップの花束

          鬼藤千春


 花曇りだった。外の風景が四角いブラウンの窓枠によって、切り取られている。山の稜線は牛の背のように、ゆったりと逞しく流れていた。空はうすぼんやりと霞んでいる。山の中腹には、山桜が綿菓子のようにふんわりと、いくつも浮かんでいる。哲也は、あの山の向こうに広がる海を、連絡線が白い波の尾を引いて、ゆききしている情景を思い浮かべていた。
 ここは、石材会社の本社三階の会議室である。各地にある十一の支店の責任者が集う、店長会議であった。哲也は会議に倦んでぼんやりと窓外の風景を眺めていた。その時である。マナーモード設定の携帯電話がいきなり震えだし、机の上でカタカタと小さく鳴った。彼は議長に軽く手を上げて、会議室を抜け出した。
「あ、沙知子さんのお父さんですか」
 ワンルームマンションの管理人だった。
 二年前、沙知子が短大を卒業し、M市のカナリア保育園へ就職が決まった折、部屋探しで世話になった人だ。五十代の美しく優しい女性だったが、声が潰れたように太く低い声である。
「あの、沙知子さんの先月の家賃が入らないんですが――。会って催促しても、もう少し待ってくれというばかりで――」
 困惑した様子が伝わってきた。
 哲也は階段の踊り場で、外の景色を見遣りながら聞いていたが、緑色の山並みが急に色を失くしてゆくように思った。
 家賃が払えない――。なぜ、そんなことが
――。哲也は冷静さを装うように、階段をゆっくり降りていったが、いささか狼狽していた。階段を踏み外しそうになり、足元がふらついた。彼は沙知子の生活の異変を感じた。
 就職して初めての正月に帰った時、いくらか化粧が濃くなっていたのを感じたが、沙知子は甥や姪と神社や寺を巡り、とても楽しそうに見えた。訊ねると、少しはにかんで、六十万円貯まった、といっていた。だから、保育士になって三年目の春、今ではもう百万円くらいの預貯金があるだろう、くらいに哲也は考えていたのだった。
「あ、そうですか。それは申し訳ありません。沙知子に連絡をとってみますので、少し待って下さい――」
 哲也は沈んだ気持ちになって、携帯電話のスイッチを切った。
 彼は階段を一段、一段昇っていったが、暗澹たる気持ちだった。

 その夜、哲也は長男の直樹を伴ってM市へ飛んだ。M市は県庁所在地の中都市で、彼の住む町から車で一時間ほどのところにある。沙知子のマンションは国道の脇を走る側道に面して建っている。駐車場から見上げると黒いコンクリートの塊が屹立していた。沙知子の部屋は四階の西端である。その部屋からはカーテンを透かして淡い光が洩れていた。
 エレベーターが体を震わして、四階に停まった。すぐ前が沙知子の部屋である。エレベーターの前から東に廊下が延びており、蛍光灯がぼんやりと照らしていた。
 チャイムを押す。呼び出しのメロディがかすかに外に響いてくる。反応がない。下から見上げたとき、部屋の灯りは点いていた。もう一度チャイムを押した。メロディが流れてくる。やはり反応がない。息を殺したような気色である。いらだって哲也は二度、三度、強く押して、「沙知子!」と叫んだ。
「待って――」
 しばらくして、慌てたような沙知子の声が聞こえた。
 ロックが解除され、ドアはわずかに開き、沙知子の怪訝そうな顔が覗いた。哲也はドアを大きく開いて中に入ろうとしたが、沙知子の抵抗にあった。内側からノブを懸命に引いている。哲也は「沙知子!」と怒鳴って、強引にドアを開いた。
 部屋はいくぶん、乱れていた。パソコンからテレビの画面が流れている。沙知子は上がり框に佇んでいた。部屋の奥に眼を遣ると、若い男がベッドの隅に腰掛けている。哲也は不意をつかれたように、どぎまぎした。男は身体を小さく折って「どうも――」と、頭をさげた。哲也は醜悪なものを見たように思った。この部屋に、けがれた不浄な空気が漂っているのを感じた。
 哲也はここで沙知子と話すつもりだった。が、男がいる。ここでという訳にはいかない。直樹が、
「外に行こう。近くにファミレスがあるから
――」
 と、哲也にも沙知子にも受け取れるような
言い方をした。
 直樹は子どもを連れてよく来ていたから、
この街のことは詳しいようだ。最初、沙知子は外に出てゆくのを渋った。「行きたくない
」と、框に突っ立ったままだった。
「沙知子、早く支度をしろ」
 直樹が鋭い声でいった。
 沙知子は、身体を揺すって後退りをした。
「沙知! ぐずぐずするな!」
 直樹は前に一歩進んで、叫んだ。
 午後十時を過ぎたファミリーレストランは、
照明ばかりが眩くて、人影はまばらだった。
哲也はできるだけ人目につき難い、奥まった席を探した。哲也と直樹が並んで席をとり、沙知子とは対面する恰好になった。       
 雨が急に降り出したようだ。道路を走りぬける車のヘッドライトに照射され、雨粒がきらめきながら落ちてゆく。
 沙知子はただ黙って俯いていた。時折、雨に濡れた街に視線を投げ、不機嫌な横顔を見せている。二人が訪ねた理由が解っているのか、いないのか、沙知子の様子からは判断できなかった。ただ、硬い表情を顔に刻んでいる。ジーパンを穿き、赤と黒のチェックのシャツを、腰のところで結んでいた。唇を紅く染め、付け睫毛が異様に長く、厚化粧の沙知子の顔が醜い、と哲也は思った。
「管理人から……、管理人のおばさんから……、デ、デンワがあったんだ」
 哲也はおもむろに、口を開いた。
「沙知子、何故だか解る? 思い当たるフシは?」
 回りくどい、と哲也は話しながら思った。もっと率直に言えないものか、と自問していた。
「沙知、家賃はどうなっているんだ。先月のをまだ払ってないんだろ。家賃は引き落としだな、ということは、つまり、預金残高がないということだ。どうなっているんだ、いったい」
 直樹は、逡巡している哲也に異を唱えるというふうに、直截にいった。
 哲也は直樹を連れてきて良かった、と思った。哲也は沙知子の生活のありようや生き方、家賃滞納の背景などに想いをめぐらせ、あるいは、彼女を傷つけないように、などと腐心するあまり、率直な言葉にならないのだった。が、やはり兄妹である。直樹は兄として、遠慮なく核心に迫ってゆくことができるのだ。直樹は沙知子より十一歳上だった。
「………」
 沙知子の眼が一瞬光り、紅い唇が歪んだ。
「………」
 沙知子は唇をかたく噛み、身じろぎもしない。
「保母になって初めての正月、帰ってきて六十万円貯まった、と言ってたな。なのに、家賃が払えなくなるなんて、何に使ったんだ」
 直樹は沙知子を睨んでいった。
「………」
 沙知子は何も応えず、視線を外に投げた。
 車がザァー、ザァーと水しぶきを上げて走り抜ける音が、やけに響いてくる。その後、深い静寂が訪れる。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ。
沙知、いったい何に使ったんだ!」
 直樹はテーブルに身を乗り出して、怒鳴った。
「………」
 奈落の底のような沈黙、そのあと、沙知子の瞳がうるんで、ひと粒の涙が頬を伝って落ちた。
「……エ、エステ!」
 沙知子は吐き捨てるようにいった。
「何、エステ? エステにいくら使ったんだ。それで家賃が払えなくなったのか!」
 哲也は、頭に血が昇るのを感じていた。
「………」
 沙知子は、横を向き雨に濡れた街を睨んでいた。   
 もう涙は乾き、二人を寄せ付けない、かたくなな表情を顔に刻んでいた。しばらく沈黙した、無意味な時間が流れた。
「もう駄目だ。なんにも言わないんだから……、沙知、自分でカタがつけられるんだな。
もう、子どもじゃないんだ。しっかりしろ!

 直樹は、椅子をガタゴトいわせて立ち上がった。
「沙、沙知子、お父さんは、もう帰るよ。生活が乱れたら、いい保育はできないよ、な、解るだろう」
 哲也は立ち上がりながら、いった。
「………」
 沙知子はフンと軽くあしらうように、眼を逸らした。
 このままでは駄目だ、沙知子の心の闇、閉ざされたままの心、哲也は深い虚しさに包まれて、降りしきる雨の中へ走り出た。

 一週間ほどのちに、また管理人から電話があった。まだ家賃が入らない、と言ってきた。
哲也は賃貸契約の保証人である。管理人から連絡があるのは当然といえば、当然のことなのだ。が、哲也は家賃そのものよりも、沙知子の生活のありようが案じられて仕方がない。
 あの日から、哲也は夜、眠れなくなった。日頃から、自律神経失調症の薬を飲んでいる哲也にとっては、決して軽くない事件として
自身に突き付けられたのである。だから、深い眠りに落ちることがなく、浅い眠りに悩まされるのだ。雀のチ、チ、チィッというさえずりにも神経が敏感に反応して、朝早く目覚める。
 これは、何かのサインだ、と哲也は感じないわけにはいかなかった。管理人がそれを発している。いや、管理人を介して沙知子が、絹を裂くような悲鳴を挙げているのかも知れなかった。
 沙知子は無口な子だった。恐ろしく無口な子である。今まで哲也と、会話らしい会話を交わしたことがない。会話ではなく単語を呟いて、意思の疎通がかろうじてはかられてきたのだった。その無口は、沙知子の祖父に通じるものがある。祖父は、腕のいい大工の職人であった。必要なこと以外喋らない。嘘のつけない誠実で実直な祖父だった。                   
 哲也は、俗受けする人間よりも、貧しくて無口な沙知子の祖父、つまり、哲也の父に畏敬の念をいだいていた。その血を沙知子は否応なく受け継いでいるように思われた。濃い祖父の血が沙知子の内に流れている。が、沙知子の無口を好ましい、とは哲也は考えていなかった。けれども、沙知子は真面目で健気だった。
 小学校から高校まで、そして、短大卒業まで、彼女が休んだという記憶は、哲也にはない。ひたすらにというよりか、たんたんと日日を過ごしてきたように思う。喜怒哀楽もほとんど表さない。可愛くない、それでいて、いとおしいといった子どもであった。勉学ができるというふうではなかったが、問題らしい問題を起こしたことがなかった。哲也はそれが問題だと感じていた。         
 哲也は沙知子の他に三人の子どもを育ててきていたから、それがよく解った。長男は高校の折、万引きで補導され、二男は中学校で授業中に火災報知器を鳴らすという、大胆ないたずらをしたことがある。長女は家で数学の問題集をやらしていたら、哲也の眼を盗んで回答集を丸写しにしたことがあった。
 思春期の三人の子どもは、それぞれに悩み、葛藤し、揺れながら生きてきていた。問題を引き起こすことで、より自身の生と濃密に向き合い、成長への糧となってきたような気がするのだった。
 沙知子にはそれがなかった。問題を起こせ、とは思わなかったけれども、中学、高校、短大を通じて、もっと遊べ、と願わずにはいられなかった。沙知子は世間で言われるところの、いい子であったような気がする。哲也は決してそれを求めたことがない、と思うけれども、果たして沙知子にとっては、どうだったのだろうか。
 その夜、哲也は、妻と長女の葉子を伴ってふたたび、沙知子のマンションを訪ねた。
 葉子は沙知子よりも八歳上で、看護師をしていた。三人の子どももいて、沙知子はその甥や姪たちと盆休みや正月休みには、楽しく過ごすのだった。沙知子は甥や姪たちから慕われ「サッちゃん、サッちゃん」と、まつわりつかれるのである。葉子は屈託がなく、おおらかな性格で、沙知子にとっても気心の知れた姉である。
「サッちゃん元気?」
 玄関のドアを開けると、葉子は明るい声で呼びかけた。
 沙知子は苦笑いを浮かべて、葉子たちを招き入れた。彼女はテーブルの上で、書き物をしていたようだった。保育園の資料をテーブルの上にいっぱい広げている。沙知子はそれらを片隅に押しやって、ベッドに腰掛けた。
 電子ピアノの表面がうっすらとほこりで白く汚れている。洗濯機の上には、男物の衣類が乱雑に投げ出されていた。ベッドの横のカラーボックスの上では、ハムスターがせわしなく動き廻っている。
「サッちゃん、管理人さんから、電話があったそうよ。家賃どうなってんの」
 葉子がハムスターの籠に手を延ばしながらいった。
「………」
 沙知子は何も言わなかったが、苦渋に満ちた顔をした。
 バルコニーの南の空に、星が貼りつき、冴え冴えとした光りを放っていた。
「沙知子、この前、ファミレスで話したけれど、あれから何にも変わっていない。家賃が払えないなんて、どうなっているんだ」
 哲也は俯いている沙知子に、鋭く、大きな声でいった。
「………」
 沙知子は、しばらく黙っていたが、不意に立ち上がって、カーテンを苛立たしく引いた。
瞬いていた星影が見えなくなった。
「………」
 また、しんとした淋しさが訪れた。
 夜のしじまを引き裂いて、救急車のサイレンが不気味に響いてきた。遠くからだんだんと近づいてきて、また遠ざかっていった。前よりも深い静寂が訪れた。
「こんな乱れた生活をしていたら、子どもたちに信頼されるような、いい保育はできないよ。沙知子、真面目にやってるのか!」
 哲也は尖った、刺すような声でいった。
 沙知子はいきなり、ベッドの上にあった週刊誌を、思いきり床に叩きつけ、
「きちんと仕事はしてるし、子どもたちにも好かれているわッ」
 といって、瞳に涙をいっぱいためて、部屋の外に出て行った。
 妻と葉子はすぐに沙知子を追った。また、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響き、近づき、遠ざかっていった。その音は哲也の心をいっそう不安にした。生活については、彼女自身それを認めざるを得ないのだ。が、保育という仕事については、いくばくかの自信と誇りをもっているのだろう。だから、その自尊心を傷つけられたと思って、他人の干渉を排除しようとして、いたたまれず部屋の外に飛び出したのだろう、と思われた。しばらくして、妻と葉子が帰ってきた。暗くて沙知子を見失ってしまった、ということだった。妻は沙知子の行動におろおろしていた。
 三人は沙知子を待つことにした。が、沙知子は帰ってこなかった。長い夜となった。哲也はひどい疲労におそわれていた。ハムスターだけが、何事もなかったように、輪をくるくる廻して遊んでいる。
 哲也はテーブルの隅に押しやられた、保育園の資料をなにげなく手にとって、眺めていた。沙知子の保育日誌や職員会議のレポートである。それは寡黙な沙知子の心のありようを知る上で、ひとつの大切な材料のように思われた。                 
 この落差は何だろう、と哲也は思った。家賃が払えずきゅうきゅうとし、いま、哲也たちの前から姿を消し、夜の街を彷徨している沙知子である。が、彼女のレポートには眼を瞠るものがあった。哲也はそれを食い入るように見詰めた。字は丁寧で文章も内容も優れたものであった。この落差、つまり、仕事と私生活の落差、これはいったい何だろう、と哲也を悩ますのである。
 ほこりを被った電子ピアノの上に、無造作に投げ出された紙片をみつけた。手にとって見ると、ガス代の請求書である。三ヶ月の滞納をしている。滞納はまだあった。インターネットの接続料二ヶ月分と、自動車税などである。
 沙知子の私生活、それは闇に包まれている。
請求書の紙片をみても、何も感じないのだろうか。その感覚は麻痺しているのか、あるいは無視しているのだろうか。
 沙知子は一向に帰る気配がない。カーテンを引き、外を見遣ると、家々は闇に溶けている。空にはちりばめられた星が瞬いていた。沙知子は星の下をさまよっているのか、あるいは、うずくまっているのだろうか。
 哲也はベッドのサイドボードの引き出しから、沙知子の預金通帳をみつけた。六ヶ月ほど前の記帳だったが、哲也はその通帳に釘付けになり、心が凍ってゆくのが解った。なんと、ローン会社の名前が四社も載り、毎月の支払い額が印字されていた。しかも、テレビコマーシャルなどでよく見聞きする、消費者金融の名前も刻まれており、哲也は怖くなった。沙知子は多重債務者ではないか、まぎれもなくそうである。
 家賃の滞納は、氷山の一角であった。その心配をしないわけではなかったけれども、その思いをはるかに超えていた。借り入れ残高がどのくらいになるのか、通帳から推し量ることはできなかった。いったい何に使ったというのだろうか。
 哲也は立ち上がって、沙知子の部屋の中を見回した。パソコンは新しく求めたようである。エステの美容器具は、部屋の隅でほこりを被っていた。ブランドもののバッグは高い棚の上で眠っている。それに軽四の新車だ。あと、何に使ったのだろう。
 沙知子は、いままで欲しいと思ったものはほとんど手に入っていた。ピアノ、振袖、車、
パソコンなどを要求されても、哲也はほとんど異議を唱えたことはなかったのだ。沙知子は、欲しいと思うものは簡単に手に入ると考えてきたのだろう。忍耐と我慢が沙知子の内に育ってないのは、哲也自身の問題なのだ。が、そうだとしても、収支のバランスは解る筈ではないか、哲也は沙知子への信頼と愛情が音を立てて崩れてゆくのを感じていた。けれども、子どもに、耐えしのぶことを体験させなかったことは、哲也にとって不覚だった、と思わざるを得なかった。
 深夜を過ぎても、沙知子は帰ってこなかった。妻はなすすべもなく、何かに憑かれたように、部屋の片付けに余念がなかった。葉子は時々、外へ出て沙知子を捜しにいった。哲也は、沙知子の私生活がぼんやりと解りかけてきた。が、それはまだ、生活の現実が仄白く浮かび上がってきたに過ぎないものだった。沙知子の心のありようは、依然として闇に閉ざされたままである。
 哲也と妻、そして葉子の三人は、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、マンションを引き上げることにした。照明は沙知子のために、点けておくことにしたが、返り際になって、ハムスターが烈しく鳴き、床に敷かれた藁がしきりに弾き飛ばされていた。
 三人は疲れきっていた。ぐったり車のシートにもたれ込んで、無言だった。
「流れ星だ!」
 哲也は不意に叫んだ。
 西の空に斜めに走る流れ星を見つけて、哲也は沙知子の幸せを祈らずにはいられなかった。不意に込み上げるものがあって、哲也の頬を涙が伝って落ちた。沙知子が不憫だった。

 しばらくといっても、二、三日のことだったけれど、哲也にとっては気の遠くなるような時間に思えた。それは、沙知子の債務をどうするか、だけでなく、彼女の生き方、生活のあり方について、哲也は煩悶し、夜も眠れなかったのである。
 これはいったいなんだ。哲也は沙知子に自身の生き方や、価値観を押し付けたことはなかった、ように思う。いままで叱ったことも一度きりである。たしか、中学生の折、哲也の質問に対して、何の反応もなく無視したことがあった。その時、哲也は激昂し、沙知子を畳に坐らせて、烈しく叱責したのである。その一度きりなのである。が、なんと希薄な父子関係を続けてきたことだろうか。もっと叱責もし、反抗も受けて、人間臭い交流や関係を築けなかったものだろうか。むろん、沙知子は問題らしい問題を起こしたことがなかった。で、あっても、沙知子とはそれなりの濃密な父子関係を構築できたのではないだろうか。哲也は自身が汚れるのを畏れて、それを避けてきたのではないだろうか。いずれにしても、沙知子の反逆だ。洪水は牙をむいて哲也に襲いかかってきたのだ。
 苦しい決断であった。が、その決断は、真理に叶っているのかどうか、皆目解らなかった。それが、沙知子の救出になるのか、いや、かえって、彼女の自立の阻害になるのではないのか、と苦悶した。けれども、哲也の決断は、沙知子の債務をすべて消すことだった。
 哲也に金銭的余裕はなかった。彼は定年まであと三年の五十七歳である。それまでに、家のローンの一括返済をめざして、貧しい生活を送っていた。好きな本などもここ二、三年買ったことがない。それまでは、書籍代として月一万円は予算として、とっていたのである。が、いまは、町の図書館が我が書斎となっている。このような、切り詰めた生活のなかで、沙知子の債務を肩代わりすることも、ためらわれた。そのうえ、どれだけの借り入れ残高があるかも不明だった。が、彼は決断したのである。
 ある日、哲也と妻は沙知子のマンションを訪ね、まずガス会社に連絡をとって来てもらい、三ヶ月分の支払いを済ませた。ガスの使用は風呂用給湯器のみで、台所には電気こんろが備えられている。沙知子の生活の異変を知らせることになった家賃は、一階の管理人室である。謝るのは哲也と妻だけだった。沙知子は親の影で不機嫌に立っているのみだ。彼女に羞恥心はあるのか、心をきりりと刺すような痛みはないのか、哲也は財布を開きながら虚しい想いに駆られていた。
 ローン会社とサラ金の支店は、すべてM市にあり、その所在地は、あらかじめ哲也が調べていた。一軒、一軒訪ね、借入残高と一括弁済の額を訊き、支払いを済ませていった。が、最後の額は持ち合わせた金額ではとうてい足りなかった。最寄りの郵便局で借り入れを起こし、またローン会社に取って返した。
 ローン会社とサラ金の一括弁済の額は、三百万円を超えていた。予想をはるかに超えた金額に哲也は唖然とし、空を見上げた。陽はすでに落ち西の空は紅く燃え、中空に浮かんだ雲は橙色に染め上げられていた。暮色が街に降りようとしている。哲也は沙知子の銀行にゆき、生活再建費として、十万円の預け入れをし、通帳を渡してやった。
 これからだ、沙知子と生活と生き方について語り合うのは、そう思っていた矢先、通帳を受け取ると、彼女は黄昏の街へ消えていってしまった。「沙知子!」と、叫ぼうとしたが、言葉が咽喉に引っ掛かって、出てこなかった。哲也は呆然と立ち尽くしていた。
 甘い、と哲也は自問せざるを得なかった。沙知子はもう成人である。短大を卒業し保育士になって三度目の春なのだ。彼女自身に決着をつけさせるべきではなかったのだろうか。
別に彼女が、助けてくれと懇願してきたわけではないのだ。が、彼女の生活は破綻している。そこから、這い出す気力も知恵も方法も知らないとしたら、哲也はどうすればいいというのだろう。哲也が肩代わりした金は、沙知子が、年二回、ボーナス時に哲也に支払うということを約束させていた。六年は掛かる計算である。
 西の空は紺碧に変容し、哲也の足元から暮色が這い上がってくる。哲也は、沙知子を心底憎いと思った。そして、哀しさが、暮色とともに這い上がってくるのだった。

 沙知子が産まれたのは、隣町の産院だった。
台風の近づく夕方である。哲也は嵐の中、車を走らせデパートへいった。名もない我が子への誕生祝いとして、フランス人形を買い、彼女の枕元に坐らせたのである。産院の前にある高い樹木は大きく揺れ、南の窓にまるで人間の黒い手が爪を立てて襲いかかるように、不気味に映しだされていた。哲也はカーテンを引き、黒い手の爪から沙知子を守ろうとした。
 一年後の誕生日の黎明には、大きな地震に遭遇した。沙知子の誕生日には天変地異が起こる不思議さを感じた。哲也の横で彼女は安らかに眠っている。その上の壁面にはエアコンが付いており、それがガタガタ震えていた。哲也は思わず沙知子を大きな身体で包み込み、地震の揺れの収まるのを、息をつめて待った。
 それから、二十年余、哲也は沙知子がいとおしく、愛してきたといっていいだろう。哲也が三十四歳のときの、遅い子であったことや、葉子の誕生から八年も経ていたということもあったのだろう。が、哲也は沙知子に裏切られた。それがもしも、哲也への子育てへの反逆だとしても、それは許すことができない。愛の形がたとえ歪んでいたとしても、彼女にとって、その愛が大きな負荷となっていたとしても、洪水が牙をむいて襲いかかるのを、哲也は甘んじて受けるわけにはいかない。あるいは、忍耐や我慢を体験させなかった、としても、沙知子の放埓は許しがたいのだ。
 沙知子へのいとおしさや愛情、信頼といったものは、一夜にして崩れていった。まさに、音を立てて、地に堕ちたのである。
 哲也は沙知子を怨むようになり、憎むようになった。沙知子から可憐さは消えた。男の存在も、哲也を苛立たせ不愉快にさせる。仕事に対しての誇りと自信、そして、自尊心というけれど、決して仕事と私生活が区別できるわけもない。乱脈な私生活と良い保育が両立しうるはずもない。
 哲也は沙知子の勘当についても頭をよぎった。もう一切関わりたくない、縁を切りたいと思った。肩代わりした借金について、哲也の手元に戻るとは決して思えなかった。また、同じような過ちを引き起こしかねない、という憂いを払拭することができないのだ。また、胸の奥深くに沈んではいたが、沙知子へのどす黒い殺意も眠っていた。
 沙知子の借金にケリをつけたといっても、彼女の心にケリがつかなければ、なんの意味もないのだ。哲也はあれ以来眠れなくなった。精神科で睡眠薬を貰ってきて、床に就くまえに、二錠服用するようになった。
 生活も変わった。晩酌のビールもやめ、昼食は百円で済ますようになった。むろん、身体にいい事はない、と解っていても、昼食はインスタントラーメンを摂るようになったのだ。哲也は急がなければならない。定年まであと三年、その時、家のローンの一括返済をめざしているのである。沙知子の行為は哲也のそうした人生設計までも、狂わそうとするものなのだ。哲也は沙知子を怨み、憎んだ――。

 哲也は憂鬱な日々を送っていた。あれから、旬日を経た頃だったろうか、チューリップの花束が宅配便で我が家に届いた。赤、黄、白色などをあしらった、鮮やかな色彩の花束である。
 沙知子からであった。何の伝言もなかった。が、何の言葉もいらない、と哲也は思った。言葉以上にこの花束は、何かを語っているではないか、哲也の心の奥深くから、烈しく突き上げるものがあった。沙知子の心が、動き始めたのだ。哲也はそう確信した
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