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‘14年夢日記 「『小さな戦争遺跡』を読む」

2014(H26)年7月18日(金) 曇り

   タイトル 「『小さな戦争遺跡』を読む」

 「民主文学」8月号に掲載されている短編小説で、神林規子の作品である。彼女の作品は何作か読んできて、筆力のある作家だという印象がある。この作品もまた一定の水準を保っており、文章のそつのなさが読者に伝わってくる。が、小説というよりも随筆のような趣きの作品である。随筆として読者の前に提示しても何ら違和感はなく、むしろその方がふさわしいように思われる。

 主人公の捷子(しょうこ)は、俳句仲間と興福寺宝物殿の特別展を観たあと、彼女の母校である奈良女子大学を訪ねた。すると、仲間のひとりが「あの倉庫みたいな建物はなんですか」と、指差した。捷子は「あぁ、あれは奉安殿です」と答えた。彼女はそう答えて、自身の奉安殿との関わりをふと思い出した。昭和二十年、国民学校へ入学した時のことだ。

 先生も生徒も奉安殿の前を通る時、脱帽と最敬礼が強制された。奉安殿は、天皇・皇后の写真と教育勅語を保管していた建物である。教育勅語を読み間違えた校長が辞任させられたり、奉安殿が焼けて、責任を感じて自害した校長がいた。このようにして、天皇崇拝と軍国少国民が作り上げられていったのである。奉安殿は軍国日本の象徴だった。

 敗戦後、GHQの神道指令によって、全国の奉安殿は撤去されたり、地中に埋められたりした。それなのに、奈良女子大学にいまもあるのはなぜか。絶対命令だったのに従わなかったのはなぜか。そこに何があったのだろう。捷子はふとそんな疑問が湧いた。それは謎ともいっていいものである。それから彼女はその謎を追い始めた。

 捷子は何人かの先生が思い浮かんだが、もう鬼籍に入っている人もいたり、連絡が取れた先生も分からないという。図書館で調べてみたらという助言をもらって、彼女は奈良女子大学の図書館を訪ねた。しかし、奉安殿のことはなかなか分からなかった。が、佐保会(同窓会)の「佐保会報」にそれに触れた部分があった。奉安殿は佐保会が寄贈したものだった。いまは、倉庫として使っているということである。

 しかし、なぜ奉安殿がいまも残されているのかということは、分からなかった。そして、年が新しくなって、電話があった。戦後、奉安殿は「キイロショウジョウバエの飼育室だった」という報せである。しかし、なぜ奉安殿がハエの飼育室になったのかは、分からなかった。

 後日、また連絡が入った。そこで分かったことは、生物博士の稲葉文枝先生が、GHQ長官のヘンダーソンとかけあって、奉安殿をキイロショウジョウバエの実験室にする許可を取った、ということだった。捷子は色んな人の力を借りて、ようやく奉安殿がいまも残っているという謎を解くことができた。

 そして、二年後パンフレットが捷子のところに届けられた。発行は「奈良女子大学広報企画室」だった。「一説によれば、本学の生物学教員が当時日本を占領していたGHQと交渉し、遺伝の研究用にキイロショウジョウバエの飼育室としてこの奉安殿を使用する許可を得たため、破壊を免れたとも言われています。時代の変遷を物語る貴重な歴史の証人」ですと記されていた。

 天皇という神と、ハエがなんとも奇妙な取り合わせのように思える。が、それは戦後、日本人の価値観が百八十度変わったということに他ならない。この「小さな戦争遺跡」が、私たちや子どもたちに、正しく伝えられることを祈らずにはいられない。再び軍国主義への道へ踏み出そうという動きが強まっているいまこそ、奉安殿の負の遺産を見つめることが求められている。



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 1947年生まれの68歳で、
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