‘14年夢日記 「『エッセイの書き方』を読む」

2014(H26)年6月11日(水) 曇り時々雨

   タイトル 「『エッセイの書き方』を読む」

 これは、日本エッセイスト・クラブが編んだ本である。元新聞記者や指揮者、元アナウンサーや歌人・作家13人が、思いおもいに「エッセイ」について論じている。

 「エッセイの書き方」となっているが、いわゆる「ハウツー」本ではない。13人の人々が、「そもそもエッセイとは何か」という「根っこ」の問題に触れたり、エッセイにまつわることどもについて語ったりしている。

 増田れい子(住井すゑの次女)は、このように語っている。「エッセイはもとより小説とは異なる。詩でもないし、また純粋な記録とも違う。だがそのいずれにも共通するのはそこに『真実』が底光りしていること」だ。

 「エッセイや自分史は何を書くことか、といったらそれは『真実』を探りあててそれに言葉を与え、文章に組み立てることだ」。「真実を書くのだ」といえば、私(鬼藤)はちょっとたじろいでしまう。

 そこで彼女は、「ウソは書かない」ことだ、と救いの手を差し伸べる。「ウソを書かない」ためには、「意識的な観察」をせよ、とのべている。これが、「真実を探るための、入り口である」

 そして、「観察の延長としての調査」を求めており、さらに、「調査の延長としての取材と思考」に筆を延ばしている。つまり、ウソを書かないためには、観察、調査、取材、思考が欠かせない。

 つまり、いいエッセイを書こうと思えば、ものの見方、感じ方、考え方、それがエッセイの根幹である。それがなければ、エッセイそのものが成り立たない。

 「結局は自分のいまの生活、暮らしを意識的に生きる、働く、過ごす、言えば日々のいとなみを深くすること以外にないように思う」として、深く生きることが、いいエッセイを書かせる、としている。

 山川静夫は、戸板康二の言葉として次のように書いている。「普通の人がエッセイを書くと、どうも最後の二、三行は必要ないことが多いね」。最後のまとめとして、教訓とか自戒、決意を書くことは慎まなければならない、としている。

 林望は、辛辣(しんらつ)なエッセイ論を展開している。彼は「まずは『書く』ということ以前に、自分のなかに、『書くべきこと』を、観察し、考察し、分析し、蓄積していくという『仕込み』の過程がなくてはならない」としている。

 「ともかく、私の考える『エッセイ』というものは、要するに、『論理的文章』ということで、まったくそれに尽きるのである」。さて、ところが、論理だけでは人はそれを喜んでは読んでくれない。

 「人が読んでくれない文章は、素人天狗の写真と同じ事で、『文章のわざ』として独立している力がない。『読ませる』という技術は、またただの論理的整合性ということとは別の『なにか』に属するであろう」

 「まずはなにごとも日ごろからの旺盛な好奇心、精緻な観察力、それに論理的に分析する思考法を養うことが大緊要事である。ぼんやりしていてはエッセイなど書けるものではない」

 辰濃和男は、こう述べている。「書きたいことを書く。書きたいから書く。これが文章の出発点です。何を書きたいのか、読む人に何を伝えたいのか、その点があいまいでは、いい作品は生まれません」

「誰もが自分の前を見つめるが、わたしのほうは自分のなかを見つめる。わたしは自分にしか用がない。自分をたえず考え、検討し、吟味する」(モンテーニュ)

 「自分のおろかさ、自分のいい加減さ、自分の志、自分の寄る辺を探るためには、はてしない修行の旅を続けるほかはありません。己を深く見極める力をもった文章は熟成した香りを放つ、と信じたい」



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