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‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(3)」

2014(H26)年3月8日(土)  曇り時々晴れ 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 解釈改憲 与党に異論 
 米国のための戦争「必要わからない」「おごりだ」

     タイトル 「忘れ得ぬ人(3)」

 日本民主主義文学会(当時、文学同盟)岡山支部が再建されたのは、1976年5月であった。この再建にあたっては、三宅陽介、東田一雄、浜野博の3人が骨を折り、無事再建を果たした。支部誌「まがね」が創刊されたのは、翌年の3月である。

 支部長に浜野博、事務局長に東田一雄、編集長に三宅陽介という役割分担が決められた。この3人は、いずれも私にとって「忘れ得ぬ人」であるけれど、今回はすでに鬼籍に入っている、東田一雄について記してみたいと思う。

 私はもともと詩人をめざしていた。高校の文芸部に所属して、詩を書いていたのである。私の文学的出発は詩であり、高校を卒業して倉敷市役所に入ったあとも、ひとりで詩を書いていた。うたごえ運動のなかで、いくらか作詞を手がけたこともある。

 私の青年時代は、さまざまなジャンルの活動に携わっていた。うたごえ、演劇、労働組合青年部、青年運動での文化部、中小業者運動などなどである。そういう活動のなかで、東田一雄との接点ができるようになった。

 そしてある時、彼から「鬼藤君、小説を書いてみないか?」と誘われたのである。いままで、詩とはいくらか関わりがあったけれども、小説を書くことは遠い世界のことだったので、その誘いに驚いたことを憶えている。

 彼から誘いを受けたのは、私が30歳前後だったように思う。私が「まがね」第3号に、処女作「彼が死んだ」を書いたのは、まもなく31歳になろうかという頃であった。だから、30歳になるかならないうちに、誘いを受けたものと思われる。

 そして、私は小説作法の手ほどきを受けないまま、「彼が死んだ」を夢中で書いたのだった。モチーフ、テーマ、プロット、視点、書き出しと結末の処理など、ほとんど何も知らずに書き進めたのである。題名のつけ方も知らずに、「彼が死んだ」というのは、東田一雄の助言によるものだった。

 こうして、彼との交流が始まるようになったのだが、その中で少しずつ小説作法について教えてもらったように思う。が、それよりも、彼とは史跡めぐりをしたり、観劇をしたり、クラシックコンサートなどに行ったりということが多かったような気がする。

 彼は、小さな声でとつとつと語るほうであったが、文学のみでなく、他の芸術分野について教えを乞うということも少なくなかった。彼との付き合いは何年くらい続いたのだろうか。10年ほどになるだろうか。そのうち彼は入院をして、それから疎遠になってしまった。

 そして「彼は死んだ」のだ。私の生き方、人生を変えた人が早世してしまって、惜しまれてならない。私は、自費出版で「磯の光景」を上梓したけれど、真っ先に捧げたいのは、東田一雄である。彼は私の心の内にいつまでも存在する「忘れ得ぬ人」である。



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 1947年生まれの68歳で、
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 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
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