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エッセー【ジャズを聴く】

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2018年1月31日(水)曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

  夕さりて
   介護疲れの
   吾ひとり
   喫茶店にて
   ジャズを聴きおり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 妻が左手首を骨折して手術をし、入院しました。入院はわずかな日数だったのですが、退院してからが大変でした。家に帰ったからといっても、何も出来ないのですから、介護や家事はわたしにすべてかかってきたのです。

 わたしは殆んど家事というものをしたことがありません。いわゆる亭主関白というのに当たっています。ですから妻が何もできなくなって、家のことはすべてわたしにかかってきたのです。

 買い物、炊事、洗濯などがいきなりわたしの仕事になってしまい、うろたえてしまいました。しかし、今までしたことがないといっても、放っておくことは出来ません。

 生きてゆくためには、それなりのことをしなければなりません。買い物、炊事、洗濯、妻の介護と一気にわたしの仕事は増えてゆきました。もともと家事に疎(うと)いわたしはお手上げです。

 しかし妻に教えられながら、家事、介護をやってきたのです。今更ながら主婦の仕事の大変さが実感できました。そんな日々が長い間続きました。わたしもいい加減疲れてしまいました。

 そうして思いついたのが喫茶店です。家の仕事をして、夕刻に喫茶店に行ってのんびりすることにしたのです。家のことをすっかり忘れて、ひとときを過ごします。

 コーヒーを飲みながら、雑誌に目を通しているとジャズが聴こえてきます。なんて心を癒してくれることでしょう。コーヒーの香りが漂い、ジャズが流れる喫茶店、心の疲れが溶けてゆくようです。

 一杯のコーヒーは決して安くはありませんが、喫茶店の何とも言えない空間は、人の心を癒してくれるのです。わたしはこれからも、日々の生活に疲れたら、喫茶店へと足を運ぶことになるでしょう。



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エッセー【寺 の 鐘】

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2018年1月30日(火)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

  夕さりて
   峠の寺の
   鐘が鳴る
   少年少女が
   家路を急ぐ


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの家の近くに小さな峠があります。不思議なものでこの峠のこちら側と、その向こうとでは気象がずいぶん違います。こちら側は瀬戸内海に面した南の村落です。その向こうは内陸側になっています。

 峠の向こうは雪が降ったり、霜がおりたりしていても、こちら側は何ともないのですから不思議なものです。わたしの家は瀬戸の海側にありますから、冬はとても助かっています。

 その峠に寺があります。ずいぶん檀家の多い寺で、檀家は1500軒近くあるでしょうか。わたしの書斎から寺の本堂や大イチョウなども、望むことができます。大イチョウの黄葉に染まった大木は見事です。

 その寺の朝6時と夕刻の6時に、鐘が厳(おごそ)かに打ち鳴らされます。わたしはその寺の鐘を聞くと、なぜか心が落ち着き癒されます。どことなく心の奥深くに染(しみ)みわたってゆくようです。

 いまの時期はもう夕刻の5時といえば、薄暗くなって子どもたちは、外で遊んでいるということは殆んどありません。しかし、春から秋にかけては、6時から7時といえば子どもたちは外遊びをしています。

 寺の境内で遊んでいることもあれば、近くの公園で遊んでいることもあります。そして、夕さりて寺の鐘が打ち鳴らされると、少年少女は遊びを切り上げて、家路へと急ぐのです。

 こういう光景は都会では見ることはできないでしょうが、わたしの村ではまだまだ残っているのです。峠の鐘が鳴り、少年少女が遊びを切り上げ「また明日!」と言って家路を急ぐ光景は、どことなく郷愁を誘います。



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エッセー【カーテンを開く】

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2018年1月29日(月)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 目覚ましの
  時計が鳴りて
  二度とない
  今日が始まり
  カーテン開く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 考えてみればわたしたちは、絶えず未知なる時間を生きているのですね。一秒経(た)てばそれはもう過去の時間です。一秒一秒が未知の時間であると同時に、一秒一秒が流れゆく過去のものです。

 ところがわたしたちは、普通そのように考えて生活をしているわけではありませんね。たいていの場合、のんべんだらりと過ごすことが多いと思います。わたしはもう仕事に就いていませんから、ずいぶんいい加減な時間の使い方をしています。

 ドブに捨てるように、時間が無駄に流れてゆき過去になっている情況です。部屋の時計がコチ、コチとなって、時間が過ぎてゆきます。よく考えれば怖ろしいことですね。自身の命の時間が消えていっているわけですからね。

 しかしそんなことを真面目に考えていては生きていけませんね。一秒一秒が貴重な時間だとは分かりますが、それに囚われることはないように思います。一日を大雑把に捉(とら)えることも必要です。

 よく言われるように、教育、教養が必要です。教育とは「今日行く」ところがあるということ。そして教養とは「今日用」があるということです。若い人たちには当てはまりませんが、お年寄りにはこの言葉がとりわけ求められているように思います。

 朝目覚めたら教育、教養の言葉を思い出して欲しいものです。わたしは、「しんぶん」の配達のない時は、だいたい午前7時に起床するのですが、パジャマを脱いで着替えたら、一番にカーテンを開きます。

 そして空を見上げて、空模様を確認します。そうして新しい一日が始まります。二度とやってこない新しい朝です。カーテンを開いて、「さあ! 今日も生きるぞ」という思いが湧いてきます。新しい一日の始まりです。



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エッセー【儚(はかな)い恋】

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2018年1月28日(日)曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

  海に降る
   雪のごとくに
   消えてゆく
   儚い恋よ
   晩鐘が鳴る


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 いくつになっても人は異性に対して好意を寄せるもののようです。わたしにも折々にそんな経験があります。それはあるいは人間の普遍的なものかも知れません。

 誰でもそうでしょうが、わたしもいくつかの恋を経験して今日に至っています。小、中学生の頃の淡い異性への憧れ、青春時代のいくつかの烈(はげ)しい恋、そして出逢いと別れがあったのです。

 それはとても片手では足らないような出逢いと別れでした。普段は思い出すことは殆んどありませんが、不意に甦(よみがえ)ってくることがあります。

 一緒にクラシック音楽を聴きにいったり、演劇を観に行ったりしたことが思い出されます。または、コンビナートの夜景を見にスカイラインを走ったり、横丁の風呂屋へ一緒に出かけたりもしたものです。

 それはまるで南こうせつの「神田川」の世界でした。わたしは6畳ひと間の、階段がギシギシいうような古ぼけたアパートに住んでいたのです。そして夜になると彼女が訪ねてきました。それはもっとも輝いていた青春のひとコマだと言えるかも知れません。

 ところが今になっても異性への憧れは断ちがたいものがあります。それはある意味自然な人間の感情だと言えるでしょう。市民道徳や社会的な道義に反しない限り、それは許されるものでしょう。

 しかし、そんな淡い憧れは海に降る雪のように、とても儚いものです。海に降る雪は、降れども降れども積もるということはありません。儚く消えてゆきます。そんな折、寺の晩鐘が淋しく鳴って、儚い恋の終りを告げるのです。



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エッセー【懸命に生く】

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2018年1月27日(土)晴れ時々曇り

  ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 ♪ いつしかに
   心を病みし
   吾なれど
   錠剤呑みつつ
   懸命に生く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしは30歳前後に不可解な病気にかかりました。耳鳴りがしたり、鉛のようなひどい倦怠感がしたり、新聞や本が3行と読めないような状態になったのです。

 そこでわたしは危機感をいだいて、耳鼻科医院やいくつかの総合病院を訪ねて、診察を受けました。ところが、どこの病院も内科的な異常は認められないとのことでした。そこで思い切ってメンタルクリニックに足を運びました。

 そのクリニックでは病名は教えられませんでしたが、くすりを処方されることになったのです。わたしが病名を尋ねると、「具体的な症状に対して、具体的な処置をするのが医師の務めです」と言って、病名は告げられませんでした。

 しかし医師の言うように、わたしの症状はみるみるうちに軽くなってゆきました。倦怠感もとれ、新聞や本も読めるようになったのです。が、耳鳴りだけは今でも続いており、くすりもずっと呑んでいます。

 もう治っているように思うのですが、くすりを中断すると、ずいぶん体調が悪くなります。したがって、くすりはおそらく生涯にわたって呑み続けることになるのでしょう。

 このくすりはわたしの症状によく効くのですが、副作用をもたらしています。便秘になったり睡魔が襲ったりするのです。車の運転は気を付けなければなりません。くすりというものは副作用がつきもののようです。

 わたしは30歳前後に心を病んで、今もなおくすりが手放すことができないのです。わたしがごく普通の日常生活を送れているのも、くすりのおかげということがいえるでしょう。くすりを呑みつつわたしは毎日、懸命に生きています。



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エッセー【ちちははを想う】

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2018年1月26日(金)曇り

  ご訪問いただき誠に有り難うございます。

  奥津城の
   白磁の壷に
   眠りたる
   ちちはは想い
   花を手向ける


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 ちちははの墓は、我が家の菩提寺の寺墓地の中にあります。山に囲まれた静かなところです。父は養子でしたから、寺のすぐとなりに生家があります。

 春には桜の花が咲き、ウグイスが鳴く山ふところに抱かれた墓地です。秋には山が色鮮やかに染まってゆきます。朝夕の6時には寺の鐘が厳(おごそ)かに鳴り響きます。

 その墓をわたしは折々に訪ねてゆきます。わたしはなぜか祖父母を知らないのですが、ちちははへの想いは深く心に刻まれています。ともに貧しい暮らしをしてきたためでしょうか、その絆はとても強いものがあります。


  ちちははよ
   坂道のぼり
   また来たよ
   お墓の中は
   寒くないかい


 お墓を訪ねてはさまざまな短歌が想い浮かびます。もう何首ちちははの歌を詠んだことでしょう。それだけちちははへの思い入れは深く強いものがあります。

 ちちははのお墓は、父が生前に建立したものです。五輪塔と先祖墓の2基を建て、大層立派なお墓がそびえています。五輪塔などは柄杓(ひしゃく)で水をやるのがやっとという感じなのです。

 墓地への坂道を登ってゆくと、夏には夾竹桃が続いており、ピンク色に染まっています。ちちははは、生前ずいぶん貧しい暮らしを余儀なくされてきましたが、それはひとえに戦争のためだったように思います。わたしはお墓の前で、二度と戦争のない世界をと願っています。



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エッセー【友人の最後の言葉】

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2018年1月25日(木)曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 「う、う」という
   言葉を残し
   君は逝く
   車椅子での
   半世紀を生き 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 青春時代から一緒に文学活動を続けてきた友人が一昨年、黄泉(よみ)の国に旅立ってゆきました。誠に残念に思うしだいです。わたしは彼から文学作法など、多くのことを学んできました。

 彼は多才で、小説、エッセー、詩、短歌などを創り、それぞれに出版をしています。わたしはそれらの本から多くの刺激を受け、今日まで文学活動を続けてくることができました。

 その彼は18歳の時、体育祭のムカデ競争で将棋倒しになり、首の骨を折ったのです。それ以来、車椅子の生活となり最初は自宅で母の介護を受けていましたが、その母が弱くなり福祉施設にやむなく移ったのです。

 その施設に移ってからも、八人部屋、四人部屋と変わりながら文学活動を続けていました。しばらく彼は右手にグルグル巻きにした太い鉛筆で書いていましたが、晩年はパソコンを使うようになりました。

 彼とは東京へ文学の旅に一緒に行ったり、地方の文学集会などにも一緒に行ったりしました。駅の階段を駅員さんに手伝ってもらい、引き上げたことなどが思い出されます。彼は意欲的に外に出ることを望んでいました。

 その彼が75歳で亡くなってしまいました。18歳から亡くなるまで車椅子の生活でした。彼はブログを開設していましたが、そのブログの最後の言葉が「う、う」という言葉だけなのです。

 「う、う」というたったそれだけの言葉が、ブログに残されて彼は逝ってしまったのです。この時、彼に急変が起こったのでしょうか。わたしはそれを知る由もありませんが、「う、う」という痛切な言葉は、わたしの胸を強く打ちます。わたしは彼のご冥福をただ祈るのみです。



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エッセー【裸足の少女】

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2018年1月24日(水)曇り時々晴れ

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 砂浜を
  裸足で少女が
  駈けてゆく
  小島の果ての
  虹に向かいて 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの町の沖に小島があったのですが、今は埋め立てられて陸続きになっています。その小島には100人~200人の人が暮らしていて、漁を生業(なりわい)としていました。

 こちらの町にやってくるのは船を利用していました。小、中学校の友だちも船でやってきます。わたしたちはこちらの町からその小島まで泳いでゆくことが夢でした。そして島まで泳ぐことが出来れば、一人前と言われたものです。

 その島の南側には長い砂浜が続いています。100メートルもあるような綺麗な砂浜なのです。海水浴にやってくる人も少なからずいますが、砂浜からすぐに深くなっているために、あまり海水浴には適していないようです。

 今ではその小島までは埋め立てられて、車でゆくことができるのです。観光客が車でやってきて、砂浜を歩いている光景をよく目にします。渚を歩いたり貝を拾ったりして楽しんでいます。

 ある時、その砂浜を裸足の少女が腕を前に突き出して、駈けてゆくのに出くわしました。懸命に渚を駈けてゆくのです。そのようすをしばらく眺めていました。

 すると、その小島の果てに虹が立っていたのです。裸足の少女はその虹に向かって、懸命に駈けてゆくのです。その虹をつかもうとするかのように、砂浜を少女はゆきます。それはまるで映画のワンシーンのように、美しいものでした。



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エッセー【海走る】

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2018年1月23日(火)曇りのち晴れ

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 上げ潮の
  波迫りきて
  海峡は
  白く泡立ち
  海走るなり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの町のちょっとした岬の先に、小さな島がみっつあります。その島は三ツ山と呼ばれ、多くの人に親しまれています。その近くの大きな公園も「三ツ山スポーツ公園」と名付けられているくらいです。

 その三ツ山と岬の間は海峡となって、満潮の時などは、ゆったりとたゆたっています。ところが潮が満ちてくるときなどは、流れがとても速くなります。潮が白く泡立ち烈しく流れます。

 まさに「海が走る」という形容がぴったりなのです。その光景を眺めていると、自然の力強さをひしひしと感じます。そして、魚が銀鱗を光らせて飛び跳ねるのです。

 この岬には近隣の町からも遊びにやってきます。この岬から釣り糸を垂れてのんびりと、釣りを楽しんでいる人がいたり、瀬戸の海を眺めていたりします。ここはちょっとした観光地になっているのです。

 上げ潮には海峡は、烈しく流れ海は走るのです。その走る海の上を黄蝶が羽根を震わせて三ツ山に向かって飛んでゆきます。銀鱗が跳ね、蝶が舞います。わたしはいつまでもそこに立ち尽くして、その情景を眺めていることがあります。わたしの故里はそんなところです。



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エッセー【寒 椿】

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2018年1月22日(月)曇り時々雨

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

 「一筋に
   生きる君あり
   寒椿」
   贈られし句に
   凜とするなり

 
 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 一筋に
  生きる君あり
  寒椿


 この俳句はわたしの町に住む俳人が、わたしのために詠(よ)んで下さったものです。それをわたしに贈って下さいました。わたしをモチーフにして詠まれたものです。

 モデルのわたしはともかくとして、とても優れた俳句だと思います。「一筋に生きる君なり」というのは、とても恐縮してしまいます。この俳句を贈られて、わたしは背筋を伸ばさざるを得ませんでした。

 わたしは数年前に、「鬼藤千春短編集『磯の光景』」という本を、自費出版いたしました。青春時代から始めた小説を一冊にまとめたものです。それを俳人に読んで頂いたのです。そして、前記の俳句が贈られてきました。

 わたしは高校時代に文芸部に入り、初めは詩を創っていました。そして社会に出て、小説を書くようになりました。さらに最近になって短歌を詠むようになったのです。そして社会的な活動、ボランティアの活動を今まで続けてきました。

 社会的なボランティア活動や文学活動は高校時代からのものです。それを俳人は、「一筋に生きる君なり」と詠んで下さったのです。そのように詠われて初めて、「ああ、わたしはそのように生きてきたんだなあ!」と、改めて気づかされたような次第です。

 わたしはこれからも社会的なボランティア活動や文学活動を、ひきつづきやってゆくことになるでしょう。俳人の詠んで下さったような生き方をこれからも、「一筋に!」やってゆきたいと思っています。



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エッセー【瀬戸の海】

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2018年1月21日(日)晴れのち曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


  瀬戸の海
   滑るごとくに
   走りゆく
   白き漁船が
   岬に消ゆる


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。わたしの町は背後に山があり、前には瀬戸内海が広がっています。町の先にあるちょっとした岬に出ると、四国山脈までも見渡せます。

 そこに立つと、水平線が弧を描き島々がぽっかりと浮かんでいます。その海をオレンジ色をしたタンカーや褐色の貨物船が行き交っています。水島コンビナートに行きつ戻りつする船です。

 その海を眺めていると、松任谷由実の「海を見ていた午後」という楽曲が甦(よみがえ)ってきます。

 
  ソーダ水の中を貨物船がとおる
  小さなアワも恋のように消えていった


 わたしは日常生活にちょっと疲れたり、または、ちょっといい事があったりしたら、海を見に出かけてゆきます。それは岬であったり、山の中腹を走るスカイラインだったりします。

 そして海を眺めるのです。海を眺めていると、心の疲れも少し癒されて元気になります。また、いい事があったりすると、よりいっそう心は晴れやかになります。

 最初に上げた短歌は、そんな時に丘から瀬戸内海を眺めた時の短歌です。瀬戸内海を滑るように白い漁船が、波を切って走ってゆきます。白い尾を曳きながら岬の先に消えてゆく光景を眺めるのは楽しいものです。

 このように、わたしの町の前に広がる瀬戸内海は、わたしの暮らしになくてはならないものです。これからもわたしは、海に癒され、また励まされながら海とともに生きてゆくことになるでしょう。



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エッセー【エアコンがついにダウン】

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2018年1月20日(土)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 テレビ、電気冷蔵庫などの家電を新しく求めたのは、家を新築した時でした。たしか100万くらい要したように覚えています。それはもう20年も前のことになります。

 しかし我が家の家電は幸運にも寿命がながく今まで健在でした。ただ、2011年にアナログ放送終了に際して、テレビを2台新しく求めました。そして家電ではありませんが、2~3年前に灯油ボイラーが猛烈な寒波のために毀(こわ)れて、買い替えています。

 ところがエアコンや冷蔵庫、洗濯機は20年経(た)っても、順調に動いていたのですが、先日ついにエアコンがダウンしてしまいました。わたしの部屋のエアコンにエラーの表示が出て、電気屋さんに見てもらいました。

 するともう部品がなく、修理は不可能だと言われました。そこでエアコンを新しく求めることにしました。わたしの部屋のエアコンと同時期に求めたダイニングルームのエアコンも、この際買い替えることにしました。

 ささやかな年金暮らしの身には、痛い痛い出費になります。2018年の予算にはなかったものなので頭の痛いことです。しかし考えてみれば、よくぞここまで働いてくれたという実感があります。寿命が尽きたということでしょう。

 次には洗濯機と冷蔵庫が待っています。それらも、もう寿命の時期を迎えています。いつ毀れてもおかしくないでしょう。そんなことを考えていると、石川啄木の短歌が甦(よみがえ)ってきます。

 はたらけど

  はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり

  ぢっと手を見る


 しかし、この思いがけない出費が、新年で良かったと思っています。その出費によって、2018年を乗り越えてゆく心構えも違ってくるからです。新しく生活の知恵と工夫をして暮らしてゆきたいと思っています。さあ! 心を新たにして歩み始めよう。



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エッセー【「まり姫」さんの回復を切に祈る】

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2018年1月19日(金)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 ブロ友の「まり姫」さんが、16日(火)にがんの大手術をしました。叔父さんによると、午後1時に病室を出て手術室に向かい、手術の終わったのは10時過ぎだったようです。

 「まり姫」さんとの出会いは3年ほど前だったでしょうか。偶然、ほんとうに偶然に「まり姫」さんのブログに出会ったのでした。そのブログをひと目観て、わたしの心をとらえました。その内容に共感したのです。

 それ以来、お互いに訪問し合うようになり、お互いに励まし合ってきました。「まり姫」さんは、わたしがブログの記事を出版して、一時ブログを閉鎖したあとも、毎日のように訪問をして下さったのです。

 わたしは小説や短歌をブログにUPしていましたから、以前の記事にも目を通して下さっていたのかと思うと、誠に恐縮してしまいます。そんな交流が3年ほど続いてきたのです。

 「まり姫」さんのブログはとても充実しています。多くの方のブログも共感を持って読ませて頂いていますが、彼女のブログは稀有(けう)な存在です。内容も情報量も、つまり、量も質もとても優れています。

 少し紹介すると、まず辛辣(しんらつ)な、社会、政治のコラムが目を引きます。そして、「今日の音楽」が視聴できるようになっています。洋楽やクラシックが中心です。次に「今日のお気に入りの写真」が貼り付けられています。

 さらに、「歴史に残る名言」です。井上ひさし、石川啄木、ベートーヴェンなどの言葉が取り上げられています。そして、「今日は何の日?」、「今日のトップニュース」と続きます。

 次に、「ちょっと前のトップニュース」、「もう少し前のトップニュース」と続き、「今日の記念日」、「今日の誕生花」、「歴史上の出来事」、そして最後に「著名人の誕生日と忌日」となっており、内容はきわめて豊富です。

 そんな彼女のブログですが、がんの治療をしなければ、余命6カ月と宣告されているのです。手術は成功したらしいのですが、転移なども懸念されます。これからも長いたたかいが続きますが、必ず元気に生還してきて欲しいと祈っています。

そしてまた、豊かなブログにお目にかかれることを願っています。「まり姫」さん! 不死鳥のごとく甦(よみがえ)れ! わたしはそれを祈るばかりです。



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エッセー【『キミの目が覚めたなら』を読む】

シクラメン・11~3月



2018年1月18日(木)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 『キミの目が覚めたなら 8年越しの花嫁』という本を読みました。作者はこの本の主人公である中原尚志と麻衣の共同執筆です。この本はノンフィクションで、尚志と麻衣が8年越しの結婚に至る道程を描いたものです。

 中原尚志と麻衣は、結婚式を2007年3月に行う予定でした。ところが、2006年末に麻衣を原因不明の病気が襲います。それは、あとで分かったことですが、300万人にひとりがかかるという難病でした。

 その病気は、抗NMDA受容体脳炎という急性型脳炎でした。3カ月後に控えた結婚式はもちろん上げることは出来ませんでした。それどころか結婚にいたる道のりは、8年という歳月を待たなければなりませんでした。

 この物語にはふたつの奇跡があります。ひとつは、麻衣が医療スタッフや家族、尚志などに支えられて、300万人にひとりという難病から生還したということです。

 もうひとつは、婚約者の尚志が麻衣を支えながら、8年ものあいだ純愛をつらぬいたということです。ごく普通に考えれば、8年もの間、難病の女性を待つことはとても難しいことです。それを尚志は麻衣の生還を信じて献身的に尽くします。

 尚志は次のように記(しる)しています。

「とにかくいろいろあったね。命が助かった。目が開いた。自発呼吸ができた。外に出られた。追視した。HCU(高度治療室)を出られた。腕が上がった。バレーができた(病室でビニールボールで遊んだこと)。笑った。泣いた。足が動いた。一時帰宅できた。」

 「口からごはんを食べられた。声が聞けた。会話ができた。立った。歩行器を使って自分の足で歩けた。退院できた。手料理が食べられた。買い物に出られた。」

 このように、麻衣は脳炎にかかってから、昏睡状態がしばらく続き、心肺停止も起こし、意識が回復したのはずっとあとのことだったのです。それから尚志が書いているように、半歩、一歩と回復していったのです。

 こんな情況におかれたとき、普通、人はどんな生き方を選択するのでしょうか。わたしにはとても尚志のようには生きていけないのではないかと思えてしまいます。このふたりの物語は、わたしの心に深く刻まれることになりました。読む者に感動、感銘を与えずにはおかない優れた本だと思います。



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エッセー【動き出した新年】

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2018年1月17日(水)雨のち曇り

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 わたしは新年の抱負として、3つ上げて2018年を意義あるものにしたいと願ったところです。ひとつは、健康で過ごしたいということ。ふたつには、わたしの知人を選挙で市議会に送るということ。みっつには、読書や映画に親しむということです。

 もう新年も1月の半ばを過ぎ、わたしもその抱負に向かって少しずつ動き出しています。健康については、メタボ状態を解消するために、唯一のお八つをきっぱりとやめました。そして、ジムには週4回通ってトレーニングをしています。

 健康増進のために、79.7キロの体重をとりあえず75キロに減量したいと思っています。昨日(きのう)の計量では、79.4キロと0.3キロの減量です。さっそく減量の兆しが現われ、喜んでいます。

 知人の選挙は少数激戦の様相です。定数16に対して、18人の立候補が予想されています。わたしの知人は、シングルマザーで39歳の新人です。何しろ新人ですから知名度が低く、名前の浸透が大きく遅れています。

 今日も友人とふたりで地域を回る予定です。「母と子の願いを市政に!」を合言葉にして、1人でも多くの人に政策と人柄を知らせることが求められています。わたしは4月15日の投票日まで、電話や訪問を通じてそれをやってゆく予定です。

 読書もすでに一冊読んで、県立図書館より6冊借りてきています。これも暇を見つけて、読んでゆきたいと思っています。映画はDVDのレンタルも活用して、楽しんでゆくつもりです。趣味を生かした1年をと願っています。

 このように、わたしの2018年は少しずつ動き始めています。ただ、その動きもようやくといったところです。きりっと前を見つめて、半歩、一歩と歩みを進めてゆきたいと思っています。1ミリでも2ミリでも、前へ前へと踏み出してゆきたいものです。



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エッセー【嫉 妬】

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2018年1月16日(火)晴れのち曇り

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 嫉妬(しっと)とは、広辞苑によると、「自分よりすぐれた者をねたみそねむこと」また、「自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと」とあります。

 この項では、愛情のありようではなく、前者の方の「嫉妬」を考えてみたいと思います。最近、わたしの身辺に起こったことなので、整理しておきたいと思ったからです。

 わたしは昨年の10月まである短歌会に所属して、歌の勉強をしていました。その短歌会には、2年余加入していたことになります。わたしが短歌を始めたのとほぼ重なっています。

 短歌を始めてわたしはすぐに、ある短歌誌に投稿するようになりました。そして今月の注目歌として、7~8首が二度、三度と選歌されて掲載された時のことです。

 すると短歌会の主宰者が、「新入会員には辞められたら困るから掲載されるんだ!」というふうなことを言うのです。それを周りの会員にも吹聴するのです。「わたしは変なことを言うなあ!」と黙って聞いていました。

 その主宰者はもう20年も短歌をやっている人です。毎月の歌誌に掲載される歌もわたしのほうが多いということが度々ありました。2年余の累計でも掲載の短歌数はわたしのほうが多かったのです。

 そして主宰者は、「新入会員には甘いんだよ!」と言い放って平気な顔をしています。この時もわたしは「変なことを言う人だなあ!」と黙って聞いていました。

 しかし、その時はわたしにも確信がなく、編集部に電話して編集方針を聞いてみました。すると、注目歌にしても毎月の選歌にしても、新入会員ということで、特別な扱いはしていないということが分かりました。

 なぜ主宰者は、誰にでも分かるような嘘をついて平気なのでしょう。これは多分、嫉妬からきているのでしょう。主宰者は「民主的な人」と言われているような人なのです。

 嫉妬は人の人格を変えてしまいます。シェイクスピアの劇で、嫉妬によって妻を殺すという物語がありますが、それほどに嫉妬は怖ろしいものです。

 嫉妬というのは、誰にでも起こる感情です。わたしにしても、そういう感情は起こりうるものです。だからこそ自戒が必要です。嫉妬によって人を貶(おとし)めるということは、自身をも貶めていることを知るべきでしょう。

 嫉妬という感情は生きている限りなくなりませんが、それでもわたしは自戒しつつ、自らの人格を守って生きてゆきたいと願っています。



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エッセー【うららかな春】

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2018年1月15日(月)晴れ時々曇り

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うららかな春は

 きびしい冬のあとに来る

 可愛い蕗(ふき)のとうは

 霜の下で用意された


 これは宮本百合子の言葉です。彼女は1899(明治32)年に生れ、1951(昭和26)年に惜しまれて、亡くなっています。まだ52歳の働き盛りでした。

 彼女は、まだ女学生だった17歳の時に、「貧しき人々の群」で鮮烈的なデビューを果たします。天才少女の出現として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、評論家として活躍しました。

 主な作品は、「伸子」、「道標」、「風知草」、「播州平野」などで、わたしはそれらの小説を青春時代に読み、彼女のファンになりました。

 最初に上げた言葉はわたしの大好きな言葉です。この言葉は単に自然の姿、ありようを述べたものではなく、戦前のきびしい社会にあって、それは決していつまでも続くものではなく、やがて希望に満ちた社会がやってくることを暗示しているのです。

 そして希望というものは、困難な情況の中にあっても、その中で耐えて耐えて、準備されるものだと語っているように思います。この言葉は、きびしい社会や人生を生きている誰にも当てはまる普遍的なものです。

 だからこそ、彼女が亡くなって65年以上経っても、人々の心に残っているのです。それだけ生命力のある言葉として、今でも人々を励まし続けているのでしょう。

 わたしも青春時代から今日まで、どれだけこの言葉に励まされてきたことでしょう。人生の歩みの中で、きびしい情況に立ち入ったとき、この言葉が脳裏に自然に立ち上がってくるのです。

 これからもわたしはこの言葉とともに、歩むことになるでしょう。 ♪うららかな春は きびしい冬のあとに来る ♪可愛い蕗のとうは 霜の下で用意された   宮本百合子



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エッセー【種田山頭火】

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2018年1月14日(日)晴れ時々曇り

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 毎週木曜日に放映されているTBSの「プレバト」は人気番組です。わたしの周りの知人や友人もよく観ているようです。時々、その番組のことが話題になったりします。

 わたしたちがよく話題にするのは、「プレバト」のなかの、夏井いつきの俳句査定です。夏井先生の毒舌査定が視聴者を惹きつけているようです。

 梅沢富美男や中田喜子などの芸能人が、兼題写真にもとづいて俳句をつくり、夏井先生が批評をし、添削をしてゆきます。その批評や添削が的確で、出演者や視聴者をうならせます。

 この番組によって、俳句愛好者がいくらか増えたのではないでしょうか。わたしも俳句とは疎遠でしたが、この番組によって俳句に親しみを持つようになったのです。

 しかし、それまで俳句とまったく関わりがなかったというわけではなくて、芭蕉や子規、その他の俳人の句を折々に読んできました。とくにわたしの好きな俳人は、種田山頭火です。

 ここに山頭火の句をいくつか上げてみたいと思います。これらの句は、彼の代表句の中でもわたしがとりわけ好きな句です。


 うしろすがたのしぐれてゆくか

  どうしようもない私が歩いている

  鴉啼いてわたしも一人

  まっすぐな道でさみしい

  分け入っても分け入っても青い山


 これらの句はご存知のように、五、七、五という定型ではなく、自由律俳句です。定型ではないけれども、彼の心情をよく表しており、読者の心の中に深く分け入ってきます。

 山頭火は「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と日記に書いています。酒好きで酒におぼれて放浪の旅をつづけた俳人だったようです。

 けれども、虚無的とも言える山頭火の句がわたしの心をとらえるのはなぜだろうか。それは人間の普遍的な、孤独や淋しさをよく捉(とら)えているからではないでしょうか。わたしは折々に彼の句に接してゆきたいと思っています。



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エッセー【失敗は成功の母】

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2018年1月13日(土)晴れ時々曇り

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 どうしたわけか、わたしは好き嫌いが烈(はげ)しいようです。たとえば、缶コーヒーやお八つなどにしても、「これ!」と思ったら、それひとすじになってしまいます。

 また、ルーチン(いつもの手順・決まりごと)を定めてものごとを進める性質(たち)のようです。ルーチンにもとづいて、日常生活を送っています。

 それは誰でもそうなのだろうと思いますが、とりわけわたしはルーチンにこだわって日々の暮らしを行っています。その手順を守って守って、過ごしています。

 そのことが日々の生活を滑らかに、スムーズに進めていけているように思います。それでこそ、自身の生活が成り立っているように思うのです。

 ところが、そのルーチンが何かの拍子(ひょうし)に狂うことがあるのです。「何かの拍子!」というのは、つまり失敗です。失敗をすると、いつもの手順が狂ってしまいます。

 しかし、失敗をしてやむを得ず「こと」を進めると、その方が良かったりするのです。これは何を意味するのでしょう。それは固定観念にとらわれて、周りが見えなくなっていた状態なのだろうと思います。

 つまり、失敗をすることによって、新たな発見があるのです。そのルーチンよりも優れた発見があるのです。「失敗は成功の母」というのは、この場合少しオーバーのようにも思えるのですが、失敗によって「よりよい方法」を発見することになるのです。

 わたしはこのような失敗をよくして、その中から新たな発見をして、新たなルーチンを構築するのです。これじゃないといけないという缶コーヒーでも、商店が取り扱わなくなって、「チェッ」と舌打ちして仕方なく違うのを求めると、その方が良かったりすることがあるのです。

 このように、わたしは失敗を繰り返し、繰り返ししながら、生きています。まさに「失敗は成功の母」と言えるでしょう。その失敗の繰り返しが、今の自分を存在させているように思います。



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エッセー【岡山弁】

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2018年1月12日(金)晴れ時々曇り

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 岡山県はほぼ正方形のような形をしています。わたしの住む町はその南西部に位置し、瀬戸内海に面しています。重箱でいえば、左下の隅っこです。

 わたしは殆んど2階で過ごしていますが、ベランダの先には瀬戸内海が広がっています。時々立ち上がって、その海を眺めることがあります。瀬戸の海は島が多いので、その島が紫色に染まって見える時があります。

 わたしの住む町は漁師町ですから、言葉が荒っぽく岡山弁が色濃く残っています。漁師のみなさんは、岡山弁がぴったりのようです。意思疎通には岡山弁が適しているようです。そこでいくつか岡山弁をご紹介させていただきます。

 でーれー  (ものすごい)
  ぼっけー  (ものすごい)
  みてる  (次第に減って最後になくなる)
  てご  (手伝い)
  やっちもねー  (しょうもない)

 おえん  (駄目)
  きょーてー  (恐ろしい)
  もげる  (音程がはずれる)
  あんごー  (馬鹿者)
  しうぇー  (噛み切れない)

 岡山弁はこの他にもいっぱいありますが、これらは岡山弁番付の上位に位置するものです。わたしは殆んど使わなくなりましたが、漁師のみなさんや老人のみなさんは使っているようです。

 わたしが中学生くらいまでは、殆んど岡山弁で話していました。その方がよく分かり合えたし、親密感があってよかったように思います。岡山弁が少なくなっていったのは、テレビの普及とも関係があるように思います。

 岡山弁はわたしの住む漁師町には合っているように思います。「板子一枚下は地獄」という、危険な仕事に就いている漁師さんたちに、標準語は似合わないし、心が通じ合えないでしょう。

 わたしも小、中学生のころの友人に会うと、自然と岡山弁が口をついて出てきます。かなりすたれてきましたが、岡山弁がいつまでも語り継がれることを願っています。



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エッセー【不思議な病気】

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2018年1月11日(木)曇り時々晴れ

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 それは突然やってきました。30歳のころのことです。わたしが朝食を終え、新聞を開いて読もうとした時です。新聞が3行までは読めるのですが、それ以上は読めなくなってしまったのです。

 それは新聞だけにとどまりませんでした。本や仕事の資料なども読めなくなったのです。わたしは本が好きで、日本文学全集や世界文学全集を求めて、読んでいたのです。ところが、3行まで読み進めると、頭ががんがんして、それ以上読めなくなったのです。

 その兆しはいくつかありました。まず耳鳴りが始まり、わたしは耳鼻科医院を2~3軒回りました。ところがどこの医院も原因を特定することはできませんでした。

 そして、身体の倦怠感です。身体が鉛のように重いのです。布団に横になっていたりすると、地の底に落ち込んでゆくような錯覚にとらわれてしまうのです。立って用事をしていると、すぐに横になりたくなってしまいます。

 さらに、人との会話が苦痛になってしまいました。人の話が頭脳に入って来ないのです。わたしの感じから言うと、脳が鉄板のようになって、外部からの情報を吸収できなくなってしまったようです。

 わたしはこれらの症状のために、いくつの病院を回ったことでしょう。しかし、どこの病院でも内科的には異常は認められないというのです。そこで思いついたのが、メンタルクリニックでした。医師にわたしの症状を伝えると、病名は伝えられずに薬だけを処方してくれたのです。

 その薬を1週間ほど飲むと、身体は見違えるように改善してゆきました。耳鳴りも身体の倦怠感も和らぎ、読書も少しずつ出来るようになったのです。しかし、今でもその後遺症はいくらか残っています。

 昨日(きのう)は、その薬を貰いに病院にゆきました。今では医師の診察は半年に一度、薬だけ貰いにゆくのです。もう完治したというわけではありませんが、ごく普通に暮らしています。不思議な病気にかかってしまいましたが、4人の子どもを育て、家も建てることが出来たのですから、良しとすべきでしょう。



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エッセー【初めてのジム】

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2018年1月10日(水)曇り時々雨

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 わたしの今年の抱負の第一は、「1年を通して健康で過ごす」ということです。昨年は、胃カメラを呑んでピロリ菌の存在が明らかになり、その除菌をしました。また、風邪を引き咳がひと月も続いて、病院通いを余儀なくされました。

 そして、精神安定剤の処方を2カ月に1回受けにゆきました。それぞれ大病というわけではありませんが、病院というところはもうこりごりです。そのために健康を願って抱負の第一に上げたのです。

 新年を迎え、初めてスポーツジムに行きました。そこで健康チェックをしましたが、まずまずというところです。血圧は上が112、下が68でした。血圧は適というところでしょう。体重がかなり問題でした。

 身長は177㎝ですから、わたしの標準体重は約70キロです。ところが、体重計に乗ったら、79.7キロありました。10キロのオーバーというところです。お腹が出てメタボ状態です。

 そこで、とりあえず今年は5キロの減量に挑戦です。ジムをさぼらずに、週3~4回は通いたいと思っています。また、保健師さんに、メタボの解消のためお八つのピーナッツを減らすように言われています。

 「50粒のところを半減しなさい!」と指摘を受けているので、1日20粒にしたいと思っています。ピーナッツの他はいっさい間食しないので、20粒くらいは許してほしいものです。

 ジムでは、自転車とウオーキングを合わせて30分、筋トレを30分、そしてストレッチを30分の、都合1時間30分の運動をしました。正月のため12日ぶりのトレーニングとなったのです。

 今年初めてのトレーニングを終えて部屋を出ると、心と身体が軽くなったのが実感できました。心と身体がとても爽やかなのです。身体が気持いいだけではなく、心も前向きになってゆくのが分かります。ジム通いをさぼらずに、心身の健康をめざしてやってゆこうと思っています。




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エッセー【雨の日の配達】

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2018年1月9日(火)曇りのち晴れ

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 「しんぶん」を配りて磯に立ち尽くし朱に染まりたる初日の出見る

 凍りつくフロントガラスに湯をかけて吾は出でゆく「しんぶん」配り

 「しんぶん」を配りて空を見上ぐれば凛とかがやく明けの明星

 これはわたしが「しんぶん」配達に寄せて詠んだ短歌です。たかが「しんぶん」の配達ですが、この行為の中にはいろんなドラマを孕(はら)んでいます。初日の出を見たり、明けの明星を眺めたりすることが出来るのです。

 しかし、決していいことばかりに出会うということはなく、少なくない苦労にでくわします。雪の日もあれば、フロントガラスが凍りついて、まず氷を溶かす作業をするということもあります。

 昨日(きのう)はあいにくの雨でした。前日の天気予報では、弱い雨ということで、「たいしたことはないな!」と思って床に就いたのですが、朝目を覚ましたら烈しい雨音がしています。いっぺんに憂うつな気分になりました。

 わたしは洗顔をして麦わら帽子をかぶり、傘を差して外へ出てゆきました。弱い雨ではなく、本降りの雨が地面を叩きつけています。新聞を包むビニール袋も用意して出かけてゆきました。

 車で走っていると、窓は曇ってくるし、道路が光って視界がぼんやりとしてきます。エアコンの風向を上向きにし、風量を全開にして車を走らせました。ようやく窓ガラスの曇りが晴れて、視界が開けてきました。

 各家への配達は、傘を差さずに濡れながら配りました。氷雨(ひさめ)なので、身体が冷えてきます。ただ、大きい麦わら帽子を被っているので、大分助かります。強い雨の日は苦労しながら配達することになります。

 しかし読者の方に「ご苦労さま!」と声を掛けられたり、晴れた日に東の空から昇る太陽に出会ったりすると、感動してしまいます。「しんぶん」配達には、そんなドラマが待っているのです。



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エッセー【年賀状に想う】

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2018年1月8日(月)雨

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 年賀状を差し出す人は年々減少しているようです。携帯機やスマートフォンが普及して、それで年始の挨拶を交わすことが多くなってきたのでしょう。若い人の間で年賀状を出し合うことが少なくなってきているようです。

 それに危機感をもった郵便局は、いろんなイベント会場などに出向いて、懸命に売り込みをしています。わたしの町で「海と魚の祭典」が行われましたが、そこにも出かけてきて年賀状の普及に努めていました。

 年賀状の内容も随分変わってきました。自筆で書かれたものは殆んどなくなって、色鮮やかな絵やパソコンで写真を貼り付けたものが多くなっています。どこか画一的なところが感じられます。

 そんな中で印象に残る年賀状がいくつかありました。わたしの心を打ったのは、オリジナリティのある賀状です。既成のものではなく、工夫をこらしたものが印象に残りました。

 もっともわたしの心を打ったのは、小学2年生の孫の賀状でした。宛名も全部ひらがなで、書かれていました。いまは宛名もパソコンで打ち出すことが殆んどですが、自筆の宛名は新鮮です。

 母親に聞きながら住所を書いたのでしょう。そこに小学2年生の一生懸命さが伝わってきます。そして「きとうちはるさま」と記(しる)されているのが、愛らしく心に伝わってきます。本文には「またあそびにいきます」と書かれています。心のこもった賀状だと思いました。

 ちなみに、わたしも今年の賀状はひと工夫して、絵や写真は挿入しないで、すべて活字で埋め尽くしました。すると、長男がやってきて、「なんだ、あの年賀状は?」と言っていましたので、いくらかインパクトがあったのでしょう。わたしは成功したと思ったしだいです。

 絵や写真入りの賀状でも、一行でもいいですから、自筆の言葉が入れば、心のこもった賀状になるように思います。わたしもこれからは、そのように心がけてゆきたいと思います。



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エッセー【2017年度の決算】

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2018年1月7日(日)晴れのち曇り

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 わたしは日頃から家計簿をつけていますが、新年になったので昨年の収支決算をしてみました。決算内容はプラスマイナスゼロのとんとんでした。赤字、黒字にもならず、ぎりぎりの生活です。

 収支決算書をみると、薄氷を踏むような生活ぶりが伺えます。我が家の収入は、わたしと妻のささやかな年金のみです。その年金から国保税、介護保険料が引かれて振り込まれます。

 その実収入をベースに、支出の予算を組んでゆきます。そして、年50万の預金を計画していたのですが、残念ながらとんとんの収支のため、それは叶いませんでした。最低年50万の預金をしてゆかなければ、不意の出費があったらお手上げになるからです。

 昨年はいくつかの大きな出費がありました。もっとも大きかったのは妻の手首の骨折です。これがかなりの負担になりました。2月に骨折して、未だ完治していないのです。入院、そして通院とそれなりの出費を余儀なくされました。

 そして、エアコンの買い替え、ノートパソコンの購入が家計を圧迫して、預金までに至らなかった要因です。思いがけない出費が3つも重なり、厳しい1年となってしまったのです。

 節約、節約の暮らしを余儀なくされていますが、まだまだ無駄な出費がないわけではありません。わたしは節約家を自称しているわりには、衝動買いをよくします。たとえば、石油ストーブは3台もあるのですが、今は1台も使っていません。

 また、3万もした電気ストーブを2台求め、1台は遊んでいます。このように、わたしは衝動買い、無駄遣いが多いので反省しています。もう少しじっくり考えて、買い物をする必要がありそうです。

 しかし、昨年の収支がとんとんで終わったことは良しとすべきでしょう。妻の骨折など、不意な出費がなければ預金もできたのです。今年も薄氷を踏むような生活が始まりますが、節約を心がけながら、楽しく大らかな気持で生きてゆきたいものです。




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エッセー【感動したこと】

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2018年1月6日(土)晴れ時々曇り

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 「徹子の部屋」は好きで良く観るのですが、昨日(きのう)は出演者にカードを引かせ、そこに書かれている問いに答えて貰うという趣向でした。

 その中の1枚に「最近、感動したこと」というのがありました。そこでわたしに引き寄せて考えてみたのが今日のテーマです。わたしは最近ではなくちょっと前のことですが、少し書いてみます。

 ある時、買い物に出かけ車の油が少なくなっているのに気づきました。油量計の針があと少しのところを指しています。わたしは国道を走っていたのですが、ガソリンスタンドを探して、急いでそこへ入りました。

 給油を終えてガソリンスタンドを出ようと思って、アウトの線のところで待っていました。ところが国道は渋滞していて、なかなか道路に出ることができません。

 わたしはウインカーを出して、イライラしながら待っていました。ある車などは、「入れてやるか」と言わんばかりに、わたしの前を通り過ぎてゆきます。

 わたしはもう諦めて、いつかはアクだろうと思って、車内で携帯機をいじっていました。すると突然クラクションが鳴りました。わたしがその方に顔を向けると、大型トラックの運転手が手を振っています。

 見上げるとイカツイ顔の運転手です。その運転手がわたしの前でトラックを止めて、手を振り「早く出ろ!」とばかりに手を振っていたのです。わたしは小さくクラクションを鳴らし、手を上げて国道に出ました。

 このトラック運転手に感謝するとともに、わたしは感動しました。なかなかこういう風にはできないものです。わたし自身もこのように譲り合うということができません。

 この運転手の行為は、わたしの心を爽やかにしてくれました。こうしたちょっとした行為が人を幸せにさせるのです。わたしの心に爽やかな一陣の風が吹き抜けてゆきました。これがわたしの感動したことです。



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日記【長女の帰省】

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2018年1月5日(金)曇り時々雨

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 1月4日と言えば、仕事始めの職場が多いと思います。ところが長女は看護師のため三が日は仕事でした。昨日(きのう)初めて休みがとれたようです。

 そこで家族5人で帰省してきました。昨日は準夜勤で寝不足で疲れていたにもかかわらず、夫婦と子ども3人で帰ってきてくれたのです。わたしはウキウキしながら、ダイニングルームのセッティングをして待っていました。

 長男とその子どももやってくるので、総勢9人です。2階から椅子を下ろしたり納戸から出したりして、椅子を揃えました。日ごろは夫婦2人だけですから、9人にもなるとてんやわんやです。

 長女の夫も看護師で息子も看護学校に通っています。看護師一家です。最近、家を求めて、家族は楽しく元気にやっているようです。9人でお寿司の昼食をして、近くの神社に出かけました。

 しばらくして、映画「8年越しの花嫁・奇跡の実話」のロケ地へゆきました。この映画は実話をもとにしていますから、彼氏と彼女は、わが町の遥照山という山に来たようです。

 その場所からは、岡山県の三大河川のひとつ、高梁川の河口と水島コンビナートが見えるのです。ここで映画の主人公たちは何を語り合ったのでしょうか。大変見晴らしのいい丘です。

 長女家族とはロケ地を楽しみ、山を下りて別れました。このように長女と会えるのは1年ぶりで、楽しいひとときとなりました。何よりも子どもたち3人の成長ぶりには驚かされます。

 子どもたちをみていると、わたしたちも元気になってきます。やはり子どもたちには、限りない未来があり、希望があります。彼らが健やかに育つことを願いながら別れました。また来年、会えるのを楽しみにしながら別れたのです。



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エッセー【父 の 人 生】

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2018年1月4日(木)曇り時々晴れ

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 父は1904(明治37)年に隣町で生まれ、1996(平成8)年に、92歳で亡くなりました。今は菩提寺の墓地に安らかに眠っています。生前に自分で建立した大きな墓の中です。

 父の青壮年期は戦争のただなかにあって、過酷な人生を送っています。父は21歳から41歳までの20年間に3度徴兵され、兵役についています。

 最初に徴兵されたのは21歳の時です。1925(大正14)年に、野砲兵として韓国の連隊に入営しています。それから2年間韓国で兵役に就いています。韓国併合の時代です。

 2度目は1938(昭和13)年、34歳の時中国へ派遣されています。1937年には、盧溝橋(ろこうきょう)事件を契機として、日本の全面的な中国への侵略戦争が始まりました。それに父は派遣されたのです。

 3度目は終戦の年、1945(昭和20)年5月、41歳の時です。福岡の連隊に入営し終戦までそこで兵役についていました。

 このように父は20年間に3度徴兵され、都合5年間兵役に就いていました。父からは戦争のことは殆んど聞いていないので、どんな状況だったのか知る由もありませんが、書物や映像によって想像することはできます。

 父の軍歴が分かったのは、わたしが県庁に問い合わせをして、資料を送ってもらったからです。その資料のコピーには、父の厳格な署名、捺印がくっきりと刻まれていました。几帳面な父の面影が偲ばれます。

 我が家は戦前、戦後きびしい貧窮のなかの暮らしを余儀なくされますが、父のこの軍歴をみれば納得がゆきます。やはり戦争は決してあってはならないとつくづく思います。憲法を守って、平和な日本、世界をと願わずにはおれません。

 父は菩提寺の墓地に眠っていますが、わたしは花を手向け、父の過酷な人生に想いを馳せています。どうか「安らかに眠って下さい」と、手を合わせるのです。



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エッセー(南 天)

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2018年1月3日(水)曇りのち晴れ

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 「しんぶん」を配達したり集金をしたりして各家を訪問すると、南天の実が真紅に色づいています。南天の実が朝日を受けて鮮やかに輝いており、思わず立ち止まってしまいます。

 南天は「南(難)を天(転)ずる」といわれています。江戸時代には、「南天を庭に植えれば火災を避けられる」と言われ、どの家も「火災除け」として、玄関先に植えられたそうです。

 わたしの長い人生の過程で、大きな難はいくつかありました。そのとき、絶望の縁(ふち)に立たされたものです。しかしその都度、難を転ずるべく光を求めて足を踏み出してきました。

 最大の危機は20代の半ばに、人生に絶望してクスリを呑んだことがありました。幸か不幸か、眠っている間に嘔吐をして、一命をとりとめたことがあります。

 また、30歳前後には、不可解な病気にかかりました。新聞や本が3行以上読めなくなったのです。そして、人と話がするのが苦痛になりました。幾つもの病院に足を運びましたが、内科的にはどこにも異常がなかったのです。まさに奇病と言えるような厄介な病気になってしまいました。

 そしてメンタルクリニックにいって、薬を処方して貰いその症状は、みるみるうちに改善していきました。今もその症状は幾らか残っていますが、日常生活はごく普通に送っています。

 このように、わたしは「難を転じ」ながら、生きてきたように思います。そしていまのわたしがあるのです。これからも小さな難に会いながら、そしてそれを転じながら生きてゆくことになるのでしょう。

 人生はまさに「南天」です。難を転じながら、転じながら生きてゆくのが人生なのでしょう。困難にぶつかったとき、南天の枝を切り取って、花瓶に活けてみたいように思うわたしです。南天は今朝も朝日を浴びて真紅に輝いています。



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日記(賑やかな正月)

シクラメン・11~3月



2018年1月2日(火)晴れ時々曇り

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 元日には午前七時に起床して、布団を上げカーテンをサッと引くと、青い空がいっぱいに広がっていました。昨日(きのう)書いた啄木の歌が、鮮やかに甦(よみがえ)ってきます。

 何となく 今年はよい事 あるごとし 元日の朝 晴れて風無し……  そんな朝でした。わたしの心も今年は何となくよい事がありそうな気持になりました。2階の寝室からは、瀬戸内海を望むことができ、紫色の島々が浮かんでいます。穏やかな元日の朝です。

 午前10時ころには長男が孫娘を連れてやってきました。初詣を済ませてやってきたようです。今年初めての来訪者です。孫娘にお年玉をやると、長男が私たち夫婦にお年玉をくれました。毎年のことですが、その心遣いには心が温まります。

 しばらくすると次男が、やはり孫娘を連れてやってきました。その孫は初め恥ずかしがっていましたが、慣れてくると、「きらきらぼし」や「かえるのうた」を歌って、楽しませてくれました。孫は2歳と5カ月です。タッチというと、駈け寄ってきてわたしの手のひらにタッチをします。わたしの心を和(なご)ませます。

 午後からは次女が小学二年生の男の子を連れてきました。幼い時は異常なほど恥ずかしがりやだった孫が、得意気に九九を唱えるようになっていました。ちょっと不安に思うのは、旦那が転職して広島県から群馬県にゆくということです。もう簡単に会うことができなくなってしまいます。群馬で幸せな家庭をつくって欲しいと願うばかりです。

 こうして、2018年の元日は暮れてゆきました。とても賑やかな正月となりました。これらの家族の笑顔が消えないようにと、わたしは心秘かに祈っています。4日には長女の家族がやってきます。厳しい社会、生きづらい世の中ですが、子どもたちや孫の幸せを祈っているわたしです。



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 「人生七十古来稀なり」の古希です。
 日々の暮らし・想いを自由に 綴って
 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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