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エッセー(ゆく年くる年)

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2017年12月31日(日)曇り時々雨

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 「新日本歌人」1月号に、わたしの短歌が注目歌として掲載されたので、ここにご紹介させて貰いたい。短歌を始めて3年にも満たないが、この欄(「月集」と呼びその月の注目歌)に掲載されるのは、これで3~4回になる。身に余る光栄である。

晩年を勁(つよ)く烈(はげ)しく生きぬいて言葉を紡ぎ歌を詠(よ)まんとす 

自らの心と真向かい偽りのなきありようを歌に刻まん
 
抒情詩は情(こころ)を抒(の)ぶることなりき三十一文字(みそひともじ)に刻まんとせし
 
新しく文語文法学びたり「ぬ」と「つ」の違いようやく理解す

短歌とは抒情詩ゆえに読む人の心に何かを残しゆくべし
 
明けぐれの始発電車で去りゆけば君の残り香かすかに匂う
 
坂道を登りてゆけばちちははの眠れる墓地に曼珠沙華さく
 
海(み)の見える書斎に立ちて瀬戸内の島々を見ゆ心疲れて

 今日は、ゆく年くる年を迎える一日である。我が家でもすっかりゆく年くる年の準備を終えて、峠の寺の除夜の鐘を待つばかりである。わたしにとって今年は、新しい生き方を模索し、自らその道を切り開いた年であると自負している。

 もちろん困難なこともあったけれども、時間というものは、その悩みや苦しみを遠くへと押しやってくれるものである。そして、光と影があるとすれば、光の部分をわが身に引き寄せて、生きてゆくのが人間というものである。

 さあ! 2017年も暮れようとしている。さあ! 新しい年が音を響かせてやってくる。さあ! 新年に真向かって大きく足を踏み出してゆこう。そんな心持ちで新年を迎えたいものである。

 最後に、わたしのブログにご訪問いただいた皆様に深く感謝を申し上げます。くる年も、どうかどうかくれぐれもよろしくお願い致します。皆様にとってくる年が希望あふれる年になりますように、お祈り申し上げます。



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エッセー(「朝日のあたる家」)

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2017年12月30日(土)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


私が着いたのはニューオーリンズの
 朝日楼という名の女郎屋だった

 愛した男が帰らなかった
 あの時私は故郷(くに)を出たのさ
 汽車に乗ってまた汽車に乗って
 貧しい私に変わりはないが
 時々想うのはふるさとの
 あのプラットホームの薄暗さ

 誰か言っとくれ妹に
 こんなになったらおしまいだってね

 私が着いたのはニューオーリンズの
 朝日楼という名の女郎屋だった

 これは、アメリカ民謡で浅川マキが訳詞をし、ちあきなおみが歌っている。わたしはいまこの歌にハマっており、ショートカットを作成して、書き物をしたりパソコンの作業をしたりする時に聴いている。

 この歌は、朝日楼で売春をしていた娼婦が、妹に自分のようになるな、と言い聞かせている歌である。ただ、色々の解釈がなされて、色々に訳詞されており、次のような解釈もある。

 孤児院か施設で育てられた少年が、長じて他の町で罪を犯し、ニューオーリンズの刑務所に戻るという訳詞もある。が、元々は娼婦を歌ったアメリカの民謡である、というのが妥当だと思えるのだがいかがだろうか。

 この歌がなぜこれほどにわたしの心を捉(とら)えるのかということになると、わたしにも解からない。偶然の出遭いによって一目惚れしたとしか言いようがない。芸術作品との出遭いはそういうものではないだろうか。

 テレビ東京でカラオケバトルが行われており、わたしも好きな番組だが、おそらくちあきなおみが出場したら、初戦敗退だろう。ちあきなおみの歌は、決してキカイで判定を下すような歌ではない。もっともっと人間臭い歌で、だからこそ人の心を捉えて離さない、歌なのである。



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エッセー(元気はつらつ・90歳)

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2017年12月29日(金)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 12月27日で、スポーツジムも閉館となり、正月休みに入った。わたしは最終日にもゆき、最後のトレーニングをした。このジムは1日にだいたい120人がやってくる。

 今年の6月まではシニアは無料だったのだが、春の市議会で1日100円と決められた。市民の福祉向上・健康増進のために開設しているのに、一部議員の発案で有料となってしまった。

 ジムの壁には、「無理せず楽しく行いましょう」と書かれているが、ここにやってくる人々は、健康づくりのために楽しくトレーニングをしている。中には強靭(きょうじん)な身体づくりを目指している人もいるが、たいていは自身の身体のメンテナンスのためにやってくる。

 わたしも強靭な身体づくりではなく、身体のメンテナンスのためだ。だからあまり無理はしない。楽しく1時間30分を過ごしている。わたしが重きをおいているのは、ストレッチである。身体の柔軟性を高めるように心がけている。

 そうしたジムだが、ほとんど毎日「右手を上げて、おはよう!」と、ジム全体に響き渡る声を発してやってくる、90歳の男性がいる。元気そのもので、みんなの人気者である。彼がくるとジムがいっぺんに明るくなる。

 みんなは、その男性のように健康で長生きしたい、と口々に言っている。彼は遠藤さんと言うが、「遠藤さんのように!」というのが合言葉になっている。「元気はつらつ・90歳」である。まさに、スポーツジムの星として輝いている。わたしもまた、遠藤さんのように生きたいと願っている。



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エッセー(憧れの人)

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2017年12月28日(木)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 全国にわたしの憧れの人はいっぱいいるけれど、わたしの住む町や周辺にも少なくない「憧れの人」がいて、わたしを限りなく励ましている。

 80歳の元市会議員で、議員を退いたあとも、多忙な毎日を送っている女性がいる。わたしの町のすぐ隣の街の人である。彼女はブログもフェイスブックもやっていて、わたしは毎日訪問をして、躍動する彼女の姿に触れて、力を貰っている。

 先日は日中友好協会の役員として、会員のみなさんと一緒に中国を訪問してきた。また、「おしゃべりカフェ」を開き、みなさんの悩みを聞いたり、暮らしや政治の話をしたりして、みなさんを勇気づけている。

 そして、年金者組合の女性部長を引き受けて、みなさんのお世話をしている。さらに、自分史教室に通い、優れたエッセーを発表している。一日として家にいるようなことはなく、「教育・教養」をモットーに日々を送っている。

 「教育・教養」というのは、「今日行くところがあり」、「今日用がある」ということである。みなさんの輪の中に入って、みなさんの色々な相談に乗って、みなさんを勇気づけ励ましている。

 限りなくウーマンパワーを発揮して、社会的な貢献をしている。「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という精神で、活動的な日々を送っている。その彼女はわたしの「憧れの人」である。


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エッセー(ものの見方・考え方)

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2017年12月27日(水)晴れ時々曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 現代の世界と日本の情況は複雑で、なかなか本当の姿が見えにくくなっている。わたしたち庶民は日々の生活に追われ、そこまで立ち入ってものごとを考えることが難しい。

 わたし自身もメディアから流される情報にとらわれて、何が真実で何がそうでないのかということがなかなか分かりにくい。したがって、日々の生活のなかで、やり過ごすということが少なくない。

 そこで、今年の春に友人に誘われて、ものの見方や考え方を学ぶ学習会に参加するようになった。すでに9カ月か10カ月になる。DVDを1時間ほど視聴し、そのあと話し合って、問題点を深めるようにしている。

 12月からは、新しいテーマが始まって、これから2年かけて、「ものの見方・考え方」を学んでゆく予定だ。今からワクワク感いっぱいである。まさに青年のような心持ちであり、大いに若返ったような思いだ。

 この学習会では、もちろん現代のこの社会の在り方を学ぶことになるが、決してそれだけにはとどまらない。世界と日本、とりわけ日本の未来社会の在り方を学ぶことになる。

 日本の社会というのは、いったいこのままの体制がいつまでも続くのだろうか、という問題意識をもって、未来社会を探求する学習会である。わたしはこの2年間の学習会を大いに楽しみたい、と思っている。



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エッセー(『二十四の瞳』を読む)

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2017年12月26日(火)晴れ時々曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 みなさんは、「二十四の瞳」は、映画それとも、小説のどちらが印象に残っているのだろうか。わたしはどちらとも甲乙つけ難い芸術作品だと思っている。

 映画は、1954(昭和29)年、木下恵介監督、主演高峰秀子で制作され、大評判を呼んだと言われている。

 原作はもちろん、壺井栄の『二十四の瞳』である。小説は最初、キリスト教系の雑誌に、昭和27年2月から11月まで連載され、同年12月に一冊の本にまとめられた。

 夫で詩人の壷井繁治はこのように語っている。「小説は連載中、とくべつに評判となったわけでなく、本が出版されてからも、それなりの売れ行きを示したが、それほど大評判となったわけでもない」

 しかし、映画が大評判になるにつれて、小説の方も多くの読者の間に広がっていったのである。この作品はもちろん壺井栄の代表作である。

 この映画と小説の輪が広がり、支持されたのは、平和と戦争の問題を広い視野でとらえ、12人の子どもたちと大石先生(あだ名は、小石先生、泣きみそ先生)が、戦争の大きなうねりの中で、翻弄(ほんろう)される様子を、リアルに生き生きと描いているからである。

 この小説は、戦争の悲劇や貧困を描きながら、子どもたちと大石先生とのヒューマニズム(人間的なことを尊重する思想)に溢れる絆、交流が、読者の心をとらえて離さない。この作品は、人間と人間の温かくやさしい心の触れ合いを描いた、優れた作品である。



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エッセー(あと5キロ落としたい)

シクラメン・11~3月

2017年12月25日(月)曇り時々晴れ

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 標準体重の目安は、色々の計算方法がある。ひとつは、身長(m)×身長(m)×22という方法だ。また、簡易方法は身長(㎝)から110を引く方法である。

 この方法をわたしに当てはめると、わたしの標準体重は、1、77m×1、77m×22で68・9㎏となる。簡易方法でやると、177㎝―110で67㎏が標準体重だ。

 わたしの身体は、身長177㎝、体重80㎏で、標準体重より10㎏余オーバーしている。そこで、ダイエットを実行しているが、なかなか減量できないで困惑している。

 わたしのダイエットは、昼食をうどんと決めて実行している。毎日うどんというのは、飽きるのではないかと思われるが、決して辛いということはなく、美味しく頂いている。

 夕食は木曜日がカレー、日曜日が親子丼と決めている。これがわたしのダイエットのルーチン(決まりごと)である。間食は殆んどなしで、酒もビールも飲まない。そして、スポーツジムにも通っている。

 しかし、一向に体重が減らなくて困っている。どうしたらいいものか悩んでいるが、まず5キロ落としたい、というのがわたしの希望だ。来年はそれに挑戦する年にしたい、と思っている。とくに腹部と胸に脂肪がついているので、それを改善したい。さて1年後にはどうなっているだろうか、楽しみである。



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エッセー(映画「8年越しの花嫁・奇跡の実話」を観る)

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2017年12月24日(日)曇りのち雨

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 いま話題の「8年越しの花嫁・奇跡の実話」という映画を観にいった。モデルの地元(わたしの住む岡山県)では先行上映されていたが、全国公開は12月16日であった。

 全国週末興行成績では、観客動員が20万人余と好評を博している。この映画の原作は、中原尚志(ひさし)と麻衣夫婦の共著である「キミの目が覚めたなら 8年越しの花嫁」(主婦の友社)である。

 ふたりの出会いは2006年の年末である。そして翌07年3月11日に結婚式を挙げることが決まっていた。しかし幸せな2人を襲ったのは、麻衣が罹(かか)った抗NMDA受容体脳炎という難病だった。

 麻衣は6年にわたる昏睡状態を経て、徐々に意識を取り戻し、意識回復後の長いリハビリを経て、2014年12月21日に改めて入籍・挙式をした。

 映画館の大きなポスターに、「君は8年間待てるか」と記(しる)され、観客への問いかけがなされていた。その問いかけに、イエスと答える人は決して多くはないだろう。わたし自身にしても安易な答えを簡単に導きだすことはできない。

 わたしのブロ友の記事に、女性ががんに罹ったと知った男性は、病院に見舞いに来なくなり去っていった、という話が紹介されていた。

 この映画の題名が「奇跡の実話」となっているが、彼女の病気からの生還が奇跡だといえなくもないが、むしろ尚志が8年間も愛を貫いたことが奇跡なのだと思う。

 麻衣は記憶障害に陥っており、尚志がいったい誰なのかも思い出せない。しかし麻衣は、少しずつ記憶を取り戻すが心もとない。そして彼女は、「もう一度愛します」というが、尚志は「ぼくはずっと愛していた」と語る。これが「奇跡」であり、テーマなのだとわたしは思う。そしてふたりは困難を乗り越えて結ばれるのである。奇跡的で感動的な映画である。


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日記(今年の仕事を終えて)

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2017年12月23日(土)晴れのち曇り

 ♪ ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 昨日(きのう)は二十四節気のひとつ、冬至であった。広辞苑によると、「北半球では正午における太陽の高度は最も低く、また昼が最も短い」と記(しる)されている。

 ということは、つまり今日から次第に夜が短くなり、昼が長くなってゆくということである。なんと希望の湧く話ではないだろうか。午後5時前にはもう薄暗くなって、なんとなく家路を急ぐというふうな暮らしだったのが、だんだんと変わってゆくのだから~~。

 昨日は難行苦行(大いに苦労すること)の1日だった。朝から「しんぶん」を配り、それが済んだら厄介な集金に取り掛かったのである。集金は毎月1回、年12回あり、決して放置できない仕事だ。朝から始めて午後6時30分に終えることができた。

 昨日の集金は、比較的スムーズにいったけれど、留守が多くて2回、3回と足を運ぶ家もあり、最高は5回も足を運んだ。集金の難しい家は、あらかじめ携帯電話に登録して、電話してゆくのだが、それでも留守の場合がある。

 ある時、午後9時に電話して、了解を得たうえで家に伺ったのに、いきなり「非常識だ!」と非難されたことがある。いったいその行為が非常識なことだろうか。夜遅いということは、わたしも認識しているので、わざわざ電話して、お邪魔したのだった。

 あるいは、あなたは「我が家の都合の悪い時を狙ってきているのですか!」と、不機嫌にいうご婦人がいた。このように「しんぶん」の集金は、難行苦行なのである。そして、決して怒らしてはならないので、ひたすら謝って事を収めなければならない。

 その集金もつつがなく終わり、今年の仕事も無事終えることができた。最後の集金を終えて、わたしは思わず「ヤッター」と、心の中で叫んでいた。まだ「しんぶん」の配達はあるが、それは一定の時間までに届けさえすればよいので、比較的楽なものである。そして集金のあとの夕食は、刺身とはり込んで自身をねぎらった次第である。



エッセー(新年の抱負)

2017年12月22日(金)晴れ時々曇り

 ♪ ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 あと10日で新しい年がやってくる。年末の準備も着々と進んでいる。お飾りを求めたり餅(もち)を頼んだり、少しずつ掃除をしたりしている。

 新しい年を迎える準備と合わせてやらなければならないことは、「新年の抱負」を考えることである。そこで、2018(平成30)年のわたしの抱負を記(しる)しておきたいと思う。

 「新年の抱負」の第一は、健康で元気に過ごすことである。わたしは幾つかの持病をもっている。不眠症、便秘症、痔疾(じしつ)、腰痛などがあり、さらに精神安定剤も服用している。

 病人というわけではないが、健康体というわけでもない。したがって、スポーツジムをできるだけサボらないで、週3~4日通って健康増進に努めたいと思っている。

 第二は、わたしの知人が来春の市議選に立候補する予定なので、その当選を勝ち取ることである。彼女はシングルマザーの39歳で、「母と子の願いを市政に!」と頑張っている。

 この市議選に勝利するために、わたしは微力ながら、大いに力を発揮したいと思っている。抱負の第二に上げているが、ほんとうは新年の最大の願いである。

 第三は、趣味に生きることである。わたしの趣味は多様であるが、新年はとりわけ読書と映画に親しみたいと思っている。読書会にも参加しているので、取り上げられる本は深く理解しようと思っている。

 趣味を楽しみながら、楽しい人生になるように新年を過ごしてゆきたい。そして、ちょっぴり預金もしつつ、小旅行なども楽しみたいと思っている。



エッセー(映画「青い山脈」)

2017年12月21日(木)晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 先日、BSプレミアムで、映画「青い山脈」が放映された。多くの人は映画よりも、この映画の主題歌、「青い山脈」の方が親しみがあるかも知れないが、かく言うわたしも主題歌の方に親しみを持っている。

 この映画は、石坂洋次郎の小説「青い山脈」が原作となっている。監督は今井正で主演は原節子(島崎雪子役)で、名監督、名女優の組み合わせである。

 この映画の制作に当たってはこんな話がある。東宝の組合が、「プチブル(ブルジョア的な)作家の石坂がブルジョア(資本家階級に属する人)新聞に連載した作品をなぜ東宝がやる必要があるのか」と猛反対した。

 それに対して今井正監督は、「戦時中抑圧されていた若い男女が一緒に町を歩く、それを描くだけでも意味がある」と反論し自身の意思を貫いたのである。

 そうした心意気で制作しただけにこの作品は、原節子の好演と相まって、すぐれた映画に仕上がっている。

 ひとりの女生徒のもとへ嫌がらせの手紙が届く。その生徒が男性と一緒にいたというだけのことなのだが、それを揶揄(やゆ)したものだった。

 それを打ち明けられた、原節子演ずる新任教師、島崎雪子は、授業を早目に切り上げて、恋愛について討論させるという、新しい考えを持っている。

 しかし、問題は解決するどころか、教育関係者のみならず、町の古い体質と新しい気風をもった雪子などの側の対立が表面化する。そうした対立の中で、新しいものと古いものが入り乱れて物語は展開する。

 この映画は、戦後の封建性の残る保守の町での、雪子の新しい生き方、理想を追求してゆく姿を生き生きと描いたものである。彼女の生き方は、多くの人の心を捉えて離さないし、古い体質の封建性を告発している。



エッセー(えん罪・奪われた人生)

2017年12月20日(水)晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 一昨日NHKで、「えん罪・奪われた人生」という、ドキュメンタリー番組が放映され、わたしは興味を持って、その番組を観た。

 この番組のもとになったのは、東住吉事件である。それは1995年7月22日に、大阪市東住吉区で発生した事故・えん罪事件のことである。

 民家で火災が発生し女児が死亡した。内縁の夫と女児の母親の犯行として、無期懲役刑が確定した。

 犯人とされた青木恵子さんは、獄中から無実を訴え続け、再審の結果2016年8月10日に大阪地裁で無罪判決が出された。

 青木恵子さんは、無実でありながら20年余に渡って、獄中に囚われていたが、ドキュメンタリーは出所後の彼女の生き方を描いたものである。

 無実・無罪といって獄中から出所しても、彼女の生きる道はとても険しく、世間も偏見の目で見るし、実家の両親や息子とも心を打ち解けて付き合うことが出来なかった。

 出所して両親と一緒に暮らしていたが、喧嘩(けんか)が絶えず、彼女は実家を出てマンションで一人暮らしを始める。息子とも意思疎通ができず、家族の絆は破綻する。

 ところが、認知症の母親がふらりと家を出て、行方不明となる。一週間、二週間経っても母親は見つからない。母親の捜索の中で、父や息子、息子の嫁が協力してゆくのである。

 結局、母親は川に落ちて死んでおり、1カ月後に発見される。「母親がわたしたち家族を結び付けてくれたに違いない」と、青木恵子さんは述懐するが、父親、息子、息子の嫁と、絆が取り戻されるのである。

 このドキュメンタリー番組は、えん罪(無実の罪)によって、20年余にわたり獄中に繋がれた青木恵子さんの家族の再生の物語である。わたしはこれを観て、複雑な心境になったが、彼女の生き方に心を打たれた。



エッセー(映画「わが青春に悔いなし」)

2017年12月19日(火)曇り時々晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 昨日(きのう)、BSプレミアムで、黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」の放映があり、わたしはそれを観た。

 黒澤監督はいうまでもなく、日本の映画史上に残る名監督である。「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」などの、名画を残している。わたしは代表的な作品は殆んど観ているが、「わが青春に悔いなし」だけは記憶から抜け落ちている。

 それでこの作品の放映があることを新聞で知り、朝から心待ちにしていたのである。原節子が主演するというのも、さらに興味を惹いた。

 この映画は1946年、つまり終戦の翌年10月に公開されている。戦後の民主主義を求める民衆、社会の声を反映して創られたように思う。

 日本がアジアに向けて侵略を始め、1945年に敗戦を迎えるという、戦前戦後の社会の在りようが背景としてある。また、京大事件もモデルのひとつになっている。

 原節子は八木原幸枝(ゆきえ)として、登場する。京大の八木原教授の娘である。彼女は良家に生れ、何不自由なく暮らしていたが、自らの生き方を烈しく模索していた。

 そして、自由、平等、反戦の志を持つ野毛(のげ)と結婚するが、彼は戦争妨害者として捕えられ、獄中で亡くなってしまう。

 幸枝は野毛の遺志を受け継いで、平和、民主主義、自由のために生きることを選び取るのである。彼女は野毛の実家に入り、農業を営むことを決心する。

 幸枝の農業に携わる演技、畑を耕し稲を植える姿は、鬼気迫る迫真の演技である。まさに、田んぼを這いずりまわりながら、稲を植えるのだった。

 この映画は、1人の女性の自我の確立、女性の自立を描いたもので、原節子がそれを見事に好演して、観る者の心を打たずにはおかない、優れた映画である。



エッセー(今年の三大ニュース)

2017年12月18日(月)晴れ時々曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 2017年という年は、わたしにとってどんな年だったのだろうか?。いったい幸運な年だったのだろうか、それとも不運な年だったのだろうか。それを探る意味で「今年の三大ニュース」を考えてみたいと思う。

 最大のニュースは、やはり本を自費出版したことである。この本は2017年の1月1日付けで初版を発行した。「海を抱く村」という、「歌集とエッセイ」を編集したものである。

 わたしにとっては、2冊目の本の出版である。第1号は「磯の光景」という、「鬼藤千春短編小説集」であった。「海を抱く村」は、短歌を始めて、2年を満たずに上梓(じょうし)したもので、歌集というよりはエッセーが主体になっている。わたしにとっては幸運な出来事である。

 二つ目は、スポーツジムに入会したことである。今年の2月だった。知人に紹介されて、即座に入会を決めた。ジムといっても、民間のものではなくて、我が街が健康増進のために開設しているものである。

 入会してすでに10カ月が経った。三日坊主にならずに、今も続いている。だいたい週、3~4日通っている。ジムにゆくと、わたしのルーチンがあって、自転車とウオーキングを30分、筋トレを30分、そしてストレッチを30分の、合計1時間30分のトレーニングである。これもわたしにとっては、幸運の出会いだった。

 三つ目は、ブログの再開である。ブログはずっと続けてきたが、「海を抱く村」を上梓したのを契機として、お休みさせていただいたのだった。しかし、どこか空虚感がおそってきて、それを埋めるために始めたのである。

 こうして見てくると、わたしの2017年は、まんざらでもないように思えてくる。ある意味では、幸運な年だったと言えるかも知れない。これをベースにして新年はさらに佳き年となるように、祈るばかりである。



エッセー(三浦綾子の「母」)

2017年12月17日(日)曇りのち晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 三浦綾子は1963年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に応募し「氷点」で入選を果たした。それから数々の名作を発表し、わたしの好きな作家のひとりである。

 とくに「母」と「銃口」という作品は、極めて優れた小説である。わたしは彼女の作品はかなり読んでいるが、どの作品もヒユーマニズムに溢れ、読者の心を温かくさせる。

 それはクリスチャン作家ということもあるけれども、戦前教師として、軍国主義教育の一端を担ったという反省から、みずからの生き方を探求したことによるものである。

 わたしはここ2、3日かけて彼女の「母」を夢中で読んだ。この作品は一度読んだことがあり、再読ということになる。わたしは感動に打たれて、何度も声を上げるほどだった。

 「母」というのは、小林多喜二の母のことである。小林多喜二はご存知のように、「蟹工船」「1928年3月15日」「防雪林」「党生活者」などを書いた作家として知られている。

 その多喜二は、これらの作品を書いたというだけで、1933年2月20日に特高の手によって殺された。わずか29歳であった。その母、セキを描いたのが、三浦綾子の「母」である。

 この小説は、母、セキの問わず語りのようなあるいは、三浦綾子や読者に語っているような趣のある手法で描かれている。その小説方法が、ずいぶん効果的な小説となっている。

 何と言っても、多喜二の家はすごく貧しい家であったけれども、明るく優しさに満ち満ちた家であった。それを三浦綾子は、数々のエピソードを盛り込んで、リアルに描いていて読む者の心を打たずにはおかない。

 もし、ある人が「どんな本を読んだらいいだろうか?」と聞いたらわたしは、真っ先に三浦綾子の「母」と「銃口」を上げたいと思う。それほどに優れた小説である。



自分史(少年時代【10】)

2017年12月16日(土)曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 おかげさまで自分史、「少年時代」の第10回を迎えることができた。これで「少年時代」は一区切りさせて頂いて、次に進んでゆきたいと思っている。

 しかし書き足りないことはいっぱいある。例えば、勉強のことや遊びのこと、父や母のことなどである。そして兄や弟のことなども殆んど触れることができなかった。

 したがって、それらは今後の自分史の展開のなかで描いてゆきたいと思っている。これから、中学時代、高校時代へと筆を伸ばしてゆくつもりだ。

 ここまで書いてきて思い当たるのは、戦後の我が家の暮らしがいかに貧しかったかということである。しかしこの貧しさはひとり我が家だけのものではなかった。多くの子どもたちもまた、我が家と同じような貧困に苦しんできたように思う。

 それは1931年の中国東北部への侵略から始まって、1945年8月15日の敗戦までの15年戦争が、わたしたちの戦後の生活を苦難におとしいれたのである。

 わたしは自身の厳しい生活から、多くのことを学び取ることができたと思っている。その少年時代の貧困は、その後の生き方を決める大きなモメントになっている。その生き方は今も続けているし、生涯に渡って倦(う)まず弛(たゆ)まず歩んでゆくに違いない。

 「少年時代」を書いてきて、もっと書き込めば良かったと思うのは、子どもとしての生き生きとした生活のことである。貧困に苦しんできたけれども、わたしは家の仕事を手伝いつつよく遊びもした。

 その遊びをもっともっと描くことができれば良かったと反省している。わたしの「少年時代」は、決して暗いことばかりではなかった。海に入ったり山に入ったりしてよく遊んだ。その遊びはわたしの人生の中できらりと光っている。それではこれから「中学時代」へと、筆を進めてゆきたい。



自分史(少年時代【9】)

2017年12月15日(金)晴れ時々曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 誰でもそうだろうが、わたしも雨の日というのは嫌いである。もちろん、農家の方や水道の使用制限が出るような日照りが続くと、雨は待ち焦がれる。

 しかし、わたしの少年時代はふたつの意味で雨の日が厭(いや)だった。ひとつは、雨が降ると我が家は雨漏りがした。

 雨が降ると、我が家の座敷には洗面器やバケツが所せましと並べられたものである。八畳と六畳の二間続きの部屋は、それらによって占領された。しかし、いつもというわけではなく、烈しく雨の降る日に限られていたので、それが救いだった。木造大工をしていた父がその修理ができないほどに、貧しい暮らしをしていた。

 もうひとつ雨の日が厭だったのは、わたしの雨具がなかったことである。貧しくてゴム長靴や傘が買えなかった。

♪ したがって、強い雨の日にはわたしは学校を休まざるをえなかった。そんな日は本当に悔しかった。わたしの家の前を登校する友達の姿を眺めるのは、とても辛いことだった。

 いまビニール傘などがコンビニなどで安く売られていて、それが粗末に扱われているのを見るとたまらない。

 わたしは傘に対する特別の思い入れがあって、粗雑に扱ったり放置したりすることなどとてもできない。一本の傘を長くながく使い続けている。

 そんなことが少年時代にあって、わたしはとりわけ晴れの日が恋しい。朝目覚めると、わたしはすぐに寝室のカーテンを開いて空を見上げる。

 空が晴れていると、とても清々しい気持が沸き上がる。なんとなく今日いちにち、佳いことがありそうな気持になるのである。



自分史(少年時代【8】)

2017年12月14日(木)晴れ時々曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 わたしの父も母も真面目で働き者だった。とくに母はいつ寝ているのかと思うほど、「朝は朝星、夜は夜星」で働いていた。

 わたしが目覚めると、台所でトントンとまな板を叩く音が聞こえてきたし、その音が聞こえないときは、山の中腹にある畑にいって、農作業をしていた。

 夜はわたしが床に就いても、まだ母は内職をしたり縫い物をしたりしていた。つまり、朝はまだ星が出ているうちから働き、夜は星が出るまで働いていた。

そんなにしてまで働きに働いても、我が家の暮らしは厳しいものだった。食うにも事欠くような生活を余儀なくされていた。

 そんな暮らしをしていたのに、わたしが学校から帰ると、タンスや自転車に貼り紙が付けられていた。母は「もう自転車に乗ったらおえんよ」とわたしに言った。

 その貼り紙は、差し押さえの紙だったのである。わずかばかりの税金を滞納したということで、差し押さえをされたのである。我が家は、わずかの税金を払うこともできないほど困窮していた。

 この事件はわたしの心に深く刻まれ、のちのちまで忘れることのできない出来事になって、わたしの人生の方向を決めたと言ってもいいかも知れない。

 わたしは高校時代になって、文芸部に入るのだが、そこで「この社会にはなぜ富める者と貧しい者がいるのか」ということを考えるようになった。

 貧しさは単に自己責任によるものだろうかと考え、社会の在りようそのものに目がゆくようになった。「ものの見方、考え方」を学ぶようになったのは、そうしたわたしの少年時代の貧困が根底にある。

 そうしてわたしは高校時代から、新しい生き方の探求を始めるようになるのである。



日記(厳しい冬の到来)

2017年12月13日(水)晴れ時々曇り

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 わたしの短歌をご紹介します。

やすやすと叶わざりしと覚悟せし短歌の道は険しく遠い 

 厳しい寒さが続いていますが、昨日は滅多に雪の降らない山陽地方のわたしの町でも雪が降った。

朝目覚めると、気温は室内で2度だった。「しんぶん」配達のボランティアの日で、これはヤバイと思いながら玄関の戸を開けると、前の道路に雪が積もっていた。

 家の西側の駐車場にゆくと、車を雪が覆っていて、フロントガラスも2センチくらい積もっていた。手袋をトランクから出し、払い除けようとしたが、凍っていてどうにもならない。

 もう一度家に入って、魔法瓶に湯を入れ、フロントガラスに湯をかけてようやく溶かした。そして、ドアを開けようとしたのだが、雪が凍っていて開かない。力いっぱいに引いて、やっと開けることができた。

 「しんぶん」配達は何年もやっているが、12月にこんなことが起こったのは、例のないことだった。魔法瓶に湯を入れて「しんぶん」配達の支度をするのは、年明けからだろうと思っていたのに、思いがけないことだった。

 今年はラニーニャ現象が発生しているらしいと気象庁が発表した。その現象とは、赤道付近のペルー沖から中部太平洋にかけて、海水温が平年より低くなる現象のことである。

 ラニーニャ現象が発生すると、日本の冬は寒さが強まり、雪が多くなる恐れがあると言われている。昨日の雪もこの現象がもたらしたようだ。

 「しんぶん」配達には困難な季節がやってきた。しかも今冬はさらに厳しい寒さになりそうだ。しかし、寒さに負けないで、凛としてこの冬に真向かってゆきたいと思っている。



自分史(少年時代【7】)

2017年12月12日(火)晴れ

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 わたしの町は東学区と西学区とがあり、東小学校、西小学校というふうに分かれていた。わたしは東小学校に通っていた。

 東学区は漁師の町で、3つの漁港を持ち漁業に携わる人々が、たくさんいた。東学区の方が活気に満ち、荒くれの人も多かった。

 町長選挙になると、いつも東学区と西学区に分かれてたたかわれた。この選挙は町を二分しての烈しいものだった。子どもも自ずと自分の属する学区の候補を、応援していた。

 このように、日頃から東学区と西学区は対抗心があり、あまり仲がよくなかった。それが下地としてあったのだろうか、わたしが6年生のとき大事件が起きた。

 東小学校の生徒5、6人が、西小学校に乗り込んで、殴り込みをかけたのである。西小学校に、「生意気な奴がいる」というただそれだけのことだった。

 西小学校に行って、その「生意気な奴」を、階段周辺で袋叩きにして帰ってきたのだった。わたしもその仲間に加わっていた。どんないきさつでわたしが加わったのか、いまも思い出すことはできない。

 その事件は大変な騒ぎとなった。先生にはひどく叱られ、竹の物差しで烈しく叩かれた。

 また、わたしの母が学校にきて、教室のみんながいる前で、引き倒され烈しくなぐられた。わたしの母は、子どもが悪いことをすると、見境がなくなるのだった。

 そうしてこの事件は一件落着したが、東学区と西学区のにらみ合いは、大人の世界でもずっとあとまで続くのだった。町長選挙はのちのちまで、町を二分した烈しいたたかいが繰り広げられた。

 この暴力事件はわたしの人生でも最初で最後のものだった。それからは、人を傷つけなぐるということはまったくなかった。それは母の必死な思いが、わたしの胸に刻まれることになったためだろう。



自分史(少年時代【6】)

2017年12月11日(月)晴れ

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 人間はいつごろから異性に対して、いとしい感情を持つのだろうか。わたしは少年時代にふたりのマドンナ(あこがれの女性)に出会った。それは初恋といってもいい感情だったような気がする。

 ひとりは小学2年生に出会った若くて美しい女教師だった。わたしのクラスの担任で、その先生に会えば心がなんとなくトキメクのである。

 平野さんという名前で、60年余を経ても、その名前は忘れることがない。その先生がいるだけで、学校にいくのが楽しくなって、わたしの心はつやめくのである。

 少年時代を回顧するとき、平野先生は鮮明に思い出され、色に例えればやはり暖色系で染められているのだった。あえて言えば、淡いピンク色のような気がする。

 そしてもうひとりのマドンナは、同じクラスの女生徒だった。この子は頭が良くて、美しい子だった。家は商売をしていて、身なりもあか抜けていた。

 わたしはいま身長177センチ、80キロの大きな身体だが、少年時代は背丈はもっとも小さかった。だから、教室の机も前の方だった。

 教室の前の席に座っていたわたしは、授業中も時々うしろの席のマドンナを、振り返ってよく見た。しかし彼女の反応は何もなくて、真っ直ぐ黒板を見ているだけだった。それはわたしがただ、あこがれていただけだったのだろう。

 貧しく辛い少年時代だったが、このふたりのマドンナの存在は、どれだけわたしの心を引き立ててくれたことだろうか。そして何よりも、数十年経てもマドンナはわたしの心に、深く刻まれ生き続けている。



自分史(少年時代【5】)

2017年12月10日(日)曇りのち雨

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 小年時代はよく遊んだが、それに劣らずよく働いた。勉強を家でしたことは殆んど覚えていないが、家の手伝いや仕事をしたことは鮮明に記憶に残っている。

 まず、山に入って焚(た)き木取りをした。七輪やカマド、風呂の焚き木を山で集めてくるのだ。熊手で落ち葉を集めたり枯れ木の枝を切ったりして、山でよく働いた。

 七輪の火を起こすのはわたしの役目だった。焚き木を燃やし、炭に火をつけるまでがわたしの仕事で、その後は母が炊事をした。庭先に七輪を持ち出し、ウチワでパタパタと扇(あお)いで、火を起こした。

 我が家の井戸は前庭にあって、裏庭にある風呂に水を汲み入れるのも、子どもの仕事だった。ロープのついたバケツを井戸に放り込み、それを汲み上げ裏の風呂まで運んでいった。それはたいそう骨の折れることだったが、毎日それをやっていた。

 そんな仕事のなかでも、もっとも良くやったのは、ストロー巻きであった。今のストローはビニール製だが、その頃は紙だった。紙を巻いて蝋(ろう)で仕上げるのだが、わたしの仕事は、紙を巻くまでだった。

 幅4センチ、長さ20センチくらいの紙に糊をつけ、5ミリくらいの真鍮(しんちゅう)の棒で巻き付けてゆく。紙の端を棒に少し巻き、そして一気に押して巻き上げてゆく。巻いたら棒からストローを引き抜き、また同じ作業を延々と続けてゆく。

 その紙ストローが一定の量出来ると、蝋(ろう)付け工場に集められて、製品として出来上がる。棒で巻いた紙ストローを、直径10センチくらいにまとめて、煮えたぎる蝋釜に、片方ずつ浸けて仕上げてゆく。

 このストロー巻きは、近所の子どもも我が家に集まって、一緒にやった。これで小銭が幾らか稼げるのだった。この頃のわたしたちは、「よく学びよく遊べ」ではなく、「よく働きよく遊べ」だった。



自分史(少年時代【4】)

2017年12月9日(土)曇りのち晴れ

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 わたしの小学時代には、小遣いというものを殆んど貰えなかった。というよりも我が家は、子どもに小遣いをやるような余裕はまったくなかった。家族が食うて生きてゆくのが精いっぱいだった。

 町に紙芝居屋さんがやってきて、子どもたちがそれに群がっても、わたしはその輪の中に入ってゆくことができなかった。その光景を遠くから眺めているだけだった。

 しかし、たまにその輪の中に入って、紙芝居を観てその終わりに、水飴や菓子を買って食べることがあった。が、それは親からの小遣いではなく、自分で稼いだものだった。

 なんで稼いだかというと、くず鉄を拾い集めて、それを売って金を得ていたのである。廃品回収業のおじさんが、時々やってくるので、その時に買って貰うのだ。

 くず鉄をどのように集めていたかというと、雨が降った後などに、川の下(しも)に出かけてゆくのである。町には小さな川が数本あって、引き潮の時に海に入って、河口周辺でくず鉄を探すのだ。

 すると思いがけず、上流からくず鉄などが、流れてきたりするのだった。時にはアカ(銅)や真鍮(しんちゅう)を見つけることができた。それらは、くず鉄に比べてずいぶん高く買い取ってくれるのだった。

 そうして集めたくず鉄は、森の中に作った隠れ家(基地)に集めておくのだった。仲間と集めたくず鉄などは、基地の隅に大事に隠しておいたのである。

 廃品回収のおじさんに、くず鉄やアカ(銅)を売って得た金は、飴玉を買ったり、紙芝居を観たりするのに使った。このように、親から小遣いを貰わなくても、子どもたちは知恵を絞って、たくましく生きていた。



自分史(少年時代【3】)

2017年12月8日(金)曇り時々晴れ

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 昨日は戦後の貧しさの中でも、子どもたちは山野に出かけて、野草や木の実を採り、空腹を満たして逞しく生きぬいたことを書いた。

 今日は海の話である。わたしの町は、海の波が岸辺にひたひたと寄せてくるような町だった。わたしの家は海から10メートルほどのところに建っていた。だから、井戸水は塩水を含んでおり、それを飲み暮らしていた。

 わたしの町は海に恵まれていたので、漁師たちがたくさんいた。その頃は魚が豊富にいて、漁師町は活気に満ちていた。人口1万の町に、劇場やパチンコ店もあり、大相撲の巡業なども行われるような町であった。

 しかし、多くの子どもたちは戦後の食糧難にあえいでいた。わたしの町の忠魂碑に刻まれている戦死者は335人であり、父親を亡くした子どもたちも少なくなかった。

 そういう子どもたちを含めて、わたしたち子どもは、食料の足しにしたいと引き潮の時には海に入り、満ち潮の時には魚釣りをして、夕食のオカズにした。

 学校から帰ると、わたしはカバンを放り出して、一目散に海に入っていった。わが町の海は遠浅で、引き潮の時には1キロも沖へ潮は引いて、格好の漁場となる。

 海は豊かで、つぶ貝やタイラギなどもたくさん採れた。カニやシャコも海を歩き廻り、見つけては歓声を上げた。水たまりには、カレイやハゼもおり、その中に手を入れて捕まえた。

 父を戦争で亡くした友人は、タコ採りの名人だった。タコは素人ではなかなか採ることは難しかったが、その友人はタコの棲みかを見つけることも上手かったし、掘り出すのも得意だった。

 戦争の影を引き、貧窮の中にあっても、わたしたち子どもは、海に入ってなかば遊びつつ、夕食のオカズを採って逞しく生きていた。



自分史(少年時代【2】)

2017年12月7日(木)晴れのち曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 戦後の貧しい暮らしを送っていたわたしたちは、それでもその貧しさに負けないで、山や海に入って、食べるものを探してたくましく生きていた。

 海のことは、また明日書くこととして、今日は山野のことについて記しておきたいと思う。わたしは学校から帰ると、近所の子どもたちと一緒に、よく山野に入っていった。

 もちろんチャンバラごっこや隠れ家つくりをして遊んだが、もうひとつの目的は、空腹を満たすために、食べ物を探して駆けずり廻ったことである。

 山野に入ってよく採ったのは、イタドリやスイバ、野イチゴ、山ぶどう、アケビなどであった。そして、大木に登って木の実などを採って食べた。

 とくにイタドリとスイバはよく採ったものだ。今の子どもたちは、これらのものに見向きもしないが、わたしはイタドリとスイバをよく食べた。

 家から塩をこっそり持ち出してポケットに入れ、山野に出かけるのである。イタドリやスイバをとると、薄い皮をむいて塩を付けてよく食べた。

 イタドリやスイバを手に余るほど採ると、丘の上にあるお地蔵様の小屋に座って、目の前に広がる瀬戸の海を眺めながら、貴重な塩を付けて食べるのである。

 いくら貧しく空腹だからと言って、よその家のミカンやビワ、柿や苺に手を出すということはなかった。が、1、2度ミカンや苺をこっそり失敬して見つかり、おじさんに追われたことがある。

 貧しい暮らしをしていたわたしは、こうして山野の恵みを手に入れて、空腹をしのいでいたのである。しかし、こうした営みは、多くの子どもたちがやっていた。皆いちように、貧しく空腹だったのである。



自分史(少年時代【1】)

2017年12月6日(水)晴れ

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 「誕生」からいきなり小学時代に飛ぶことになるが、それはわたしの記憶はそこから始まっていると言ってもいいからである。幼稚園時代は、いくらか記憶に残っているが、殆んど覚えていない。

 したがって、「誕生」から「小学時代」へと話は飛ぶことになる。わたしの小学時代の我が家は貧窮にあえいでいた。どこの家も戦後の食糧難に苦しんでいたが、とりわけ我が家は貧しかった。

 それはひとり我が家の「自己責任」ということではなく、15年戦争がもたらしたものに他ならない。父は15年戦争に三度も駆り出され、母が小さな畑を耕しながら兄たちを育て、家庭を必死で守ってきたのである。

 戦後になって父は帰還したが、我が家には小さな畑があるのみだった。父は木造大工だったが、戦後の田舎で家を新築する人もなく、大工の腕は生かされなかったようだ。

 したがって、我が家は食うに事欠くような暮らしぶりだった。食事は殆んど米を口にすることができなかった。米といえば、水のようなお粥に芋をたくさん入れたものを食べていた。いわゆる芋粥である。

 芋粥の他はメリケン粉を溶いて、フライパンで焼いたお好み焼きの具のないようなものを食べた。そして、麦飯のうえに削りカツオを振って、醤油をかけて食べたものである。また、サツマイモも主要な食べ物だった。

 わたしの小学時代は、殆んど腹をすかして日々を送っていた。ミカンや卵などといったものは、病気になった時くらいしか食べることができなかった。やはり、この貧しさは、無謀な15年戦争に起因していると言わざるをえない。



自分史(誕生)

2017年12月5日(火)

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 わたしは、1947年10月26日に、この世に生を受けた。大工の父、重雄と代用教員の母、夏子との間に生まれた。わたしの上には、ふたりの兄がおり、わたしは三番目の子だった。

 3年後に弟が生まれ、我が家の子どもは、男ばかりの4人兄弟である。わたしはひとりでもいいから、姉か妹か、女の子が欲しかったと、のちに思うようになった。4人兄弟では、やはりどことなく潤いのない生活だったような気がする。

 わたしの父は、3度に渡って徴兵され、中国などの戦地に出征している。など、というのは、父がどこへ出征し、兵隊としてどんな生活をしていたのかが不明なのである。3回に渡って徴兵されているというのは、調べてようやく分かった。生前、父に訊いておけば良かったと、残念でならない。

 わたしは昭和22年生まれだから、団塊の世代である。昭和22、23、24年に生れた子どもたちを団塊の世代というが、戦地から帰還した男たちの子どもとして、わたしたちは誕生したのである。

 戦後で疲弊した社会、食べるもの、着るもののない社会、貧窮の底であえいでいた鬼藤家に、わたしは生まれたのである。この時代は、どこの家々も貧しかったが、我が家はとりわけ貧しかったようである。

 しかし、わたしの生まれた10月26日の天気は、文句なしの秋晴れだったということだ。岡山気象台で聞いてみたのだが、快晴で気温20度という、快適な日だったようである。その日にわたしは産声を上げたのである。

 だが、ずいぶん恵まれた日に誕生したのだったが、それからのわたしの歩みは、山あり谷ありの紆余曲折の人生を送ることになる。その人生を縷々(るる)綴ってゆきたいと思っている。



自分史を書くにあたって

2017年12月4日(月)曇り

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 今日から自分史の断片のようなエピソードを、綴ってゆきたいと思っている。この世に生を受けてから古希までの、生き来し方を描いてゆくつもりである。

 ただここで描くのは、純粋な自分史ではありません。自分史を描くためには、原稿用紙で300枚くらい書かなければなりません。

 それはブログの性格上無理なことである。したがって、一話完結のエピソードを、その断片を短く描いてゆくつもりだ。

 わたしは以前から自分史を書く夢をもっていた。それを本格的に取り組もうと思って、倉敷の自分史教室にも入ったことがある。

 しかし、その自分史教室は、自分史の会ではなく、エッセーを学び、実際に書いて批評し合うというものだった。

わたしの希望する自分史教室でなかったために、2、3回出席しただけで、退会を余儀なくされたのである。

 だから、わたしは自分史の書き方を学んでいるわけではないけれども、小説やエッセーはずっと書いてきているので、自分史のエピソードはいくらか綴ってゆけるように思っている。

 この自分史のエピソードは、一話完結である。決して連続ものではなく、時代、時代の生き来し方を描くものだ。

 将来的には、この自分史のエピソードを種として、300枚くらいの自分史を書いてゆきたいと思っている。

 しかし、自分史のエピソードを描きながら、日記やエッセーも、その時々に書いてゆくつもりである。今後ともよろしくお願いします。



海と魚の祭典

2017年12月3日(日)晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


 わたしの短歌をご紹介します。

恋人を「自転車泥棒」に誘いて切なき思いに寡黙になりしか 

 わたしの住む町は、「海を抱く村」である。東西に牛のツノのような岬があって、それが海を抱くような格好になっている。言い方を替えれば、入り江の町である。

 わたしが小、中学生の頃は、遠浅の海は沖に1キロくらい潮が引き、子どもたちはその海に入ってよく遊んだものだ。その海は魚介類の宝庫だった。

 カニやタコ、タイラギやつぶ貝、そして水たまりに潜むカレイやハゼなどを獲って、よく遊んだものである。今とは違って、海は魚介類が豊富に棲んでいたし、よく獲れたものだ。

 しかし、今は魚介類が少なくなって、漁師さんたちの生業は、決して楽ではない。燃料がたくさん掛かるので、生活も厳しくなっている。

 けれども、漁師さんたちは、懸命に瀬戸の海で、漁を続けている。わたしの町は漁師の町でもある。それが昔から今日まで営々と、引き継がれてきている。

 その町で今日、「海と魚の祭典」が催された。わたしもその会場に足を運んでみたが、人と車が溢れるほどに盛況だった。会場は人でごった返していた。

 まず、焼き牡蠣(かき)の匂いが、鼻にきた。そして、カニ汁の匂いが会場に漂っていた。このコーナーは大人気で、長い列が続いていた。また、マグロの解体ショーも人だかりの山だった。

 この祭典には、遠くの街々からやってきて、手には魚介類の入った袋をぶら下げて、大いに楽しんでいた。わたしの町がこんなに賑わうのは、秋祭りとこの祭典をおいて他にはない。

 わたしは、広い会場を2回、3回と廻って、楽しいひと時を過ごした。



岡山県立図書館

2017年12月2日(土)晴れ

 ♪ご訪問いただき誠に有り難うございます。


♪ わたしの短歌をご紹介します。

いつの日かヒラメの刺身を食(は)みたしと夢にまでみる乏しき暮らし 

 岡山県立図書館は、貸し出し冊数において、日本一を誇っている。岡山県は「晴れの国岡山」といって、内外に宣伝しているが、この県立図書館の貸し出し数もまた、意義のあることである。

 岡山県は瀬戸内海に面し、島根や鳥取の山陰に比べ、冬でもよく晴れることで知られている。中国山脈があるため、冬の寒波がそこでさえぎられるのだ。

 岡山県は気候が温暖で、災害が少なく果樹王国でもある。そんな岡山県は「教育県」として、名をはせてきていたが、いまはもう「教育県」の名を返上しなければならなくなっている。

 わたしは「全国一斉学力テスト」に否定的だが、そのテストでも下位から数える方が早い。このテストは、子どもたちの選別や競争をしいるもので、決して好ましいものではない。

 また、子どもの非行や不登校などにおいても、下位にランクされている。したがって、「教育県」とはとても言えない状況である。そういう中にあって、県立図書館の貸し出し冊数日本一は、よく健闘している。

 実はわたしも、県立図書館のよき利用者である。わたしは今では、殆んど本を買うということがない。以前は毎月、1万円くらいの書籍代を使っていたが、今は殆んど図書館で借りている。

 県立図書館のいいところは、インターネット予約をすれば、最寄りの図書館まで配達してくれることである。今も県立図書館から取り寄せて、田島一の「争議生活者」という本を読んでいるところだ。

 わたしは、子どもたちが図書館をもっと利用し、選別や競争の教育から脱し、自主性や豊かな心を育む本に触れて欲しいと願うばかりである。


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 「人生七十古来稀なり」の古希です。
 日々の暮らし・想いを自由に 綴って
 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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