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夜明け

2015年7月1日(水) 雨のち曇り

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「夜明け」

 わたしは「しんぶん」を週2~3回配達しているが、天気のいい日には闇が溶けて、明るくなってゆく瞬間に巡り合うことがある。まだ、島影に沈んでいる太陽だが、もう空は紅色に染まりはじめる。もっとも美しいと思うのは、島影から太陽が昇りくるときである。空は虹色に染まりゆき、広い海も橙色に染まりたゆたうのだった。

短歌

遠き島紅い日輪昇りくるふるさとの村染まりゆくなり

闇が溶けわがふるさとは目覚めゆく聳え立つ山シルエットなり


 紅い陽が島影から昇り出すと、わが村は眠りから覚めてゆく。山の頂が金色に染まりやがて村の畑、家々が浮かび上がってくる。そして寺の鐘が聴こえてくる。寺は村の峠にあって、闇が明けるころ打ち鳴らされる。おごそかな鐘の音だ。村の夜明けとともに、村の平穏と平和を祈る鐘である。



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潮騒の村

2015年6月30日(火) 曇りのち雨

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「潮騒の村」

 わたしの村は潮騒の村である。海を抱き込んだ入江の村に、ひたひたと波が打ち寄せてくる。東西に牛の角のような岬があって、そこから弧を描いている。青年時代、わたしはこの村が閉鎖的、保守的なのが厭で、村を捨てるようにして出ていった。が、わたしは街に出て挫折し、ふたたびこの村に帰ってきた。身体も心も疲れ果てていた。

短歌

差し潮の寄せくる波が砕け散る岬に立ちて潮騒を聴く

上げ潮の波迫りきて海峡は白く泡立ち海走るなり


 潮騒の村は、わたしを快く迎え入れてくれた。しばらくすると、心も身体もふたたび甦ってきた。いまわたしはこの村をこよなく愛している。パソコンの作業や読書に疲れると、海が見たくなる。すると、パソコンのスイッチを落として、あるいは本を投げ出し、岬や丘に登って海を眺める。青く広い海は心を癒やしてくれる。



まぼろしの声

2015年6月29日(月) 晴れ

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「まぼろしの声」

 父と母が亡くなって久しい。ところが、ふとふたりのことが甦ってくることがある。いまわたしがこうしてあるのは、やはり父と母の生き方が大きく反映しているように思えてならない。ふたりが生きた時代は、民草にとって厳しく生きづらい社会だった。父は戦前3回も徴兵されて、中国大陸などに赴いている。母はその銃後を守って懸命に働き生きてきた。

短歌

いまだから許せる父と母の生社会の渦に呑まれたふたり

母父の眠れる墓に酒菊をまぼろしの声耳澄ましおり


 戦後は貧しさとのたたかいだった。それは社会の貧しさでもあり、ふたりの所為(せい)ばかりとはいえなかった。社会と我が家の貧しさゆえに、いさかいは絶えることがなかった。それを思うと母父に憎しみさえ抱くことがある。が、父と母はいま山ふところに抱かれて、朝日を浴びうぐいすの鳴き声を聴きながら、静かに眠っている。白菊と酒を手向けるわたしである。



蝶のように

2015年6月28日(日) 晴れ時々曇り

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「蝶のように」

 紫陽花の種類は多数にのぼるらしいが、わたしはそのほとんどを知らない。眺めても同じように見えて素通りしてしまう有様である。先日、我が家の裏山を散策しているときだった。竹の葉や雑草に埋もれるようにして咲いている花に出遭った。わたしは近視なので、目を細めて見ると、それが紫陽花であることに気づいた。雑草に埋もれたその花は、わたしの心をとらえて放さなかった。

短歌

狭庭辺のガク紫陽花は蜜を吸う蝶のごとくに咲き出ずるなり

弔いの黒き列つづく寺苑なりガク紫陽花は蝶のごと咲く


 その花はガク紫陽花だった。山道に咲く痛々しい花は、ほんとうに美しいと思った。雑草に覆われたなかで、懸命に咲いていた。そのあと、「しんぶん」の集金に立ち寄った読者の家でも、2~3軒でガク紫陽花に出会った。集金を済ませて、しばしその花を眺めていた。ガク紫陽花は、わたしの知る数少ない種類のうちのひとつである。



ひらりひらりと

2015年6月27日(土) 曇りのち晴れ

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「ひらりひらりと」

 合歓(ねむ)は不思議な木ですね。夜になると葉を閉じて、眠ったようになるんですね。木の名称もそれに由来しているということだ。恥ずかしながら、まったく知らなかった。
 昨年は合歓の花を探して、わたしの町をぐるぐると回った。が、全然見つけることができなかった。もうあきらめてしまって、日常の生活に戻っていた時だった。いつもウオーキングをしている、我が家の裏の山道でそれを見つけた。ふと見上げると合歓の花が咲いていた。


短歌

青空の高き枝えだ合歓が咲く蝶が舞うごとひらりひらりと

疲れたる心を癒す合歓が咲く扇舞うごとひらりひらりと


 我が家からわずか100mほどのところに、合歓の花は文字通り眠っていた。先日、その山道へ行ってみたら、幻のような花が咲いていた。手にとってみたいけれど、高枝なのでそれは叶わない。これから夏になると、日かげになるその道がウオーキングの場所になるので、日ごと見上げて歩くことになる。



父の日

2015年6月26日(金) 雨

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「父の日」

 わたしはおおよそ「何々の日」というのに無頓着である。「バレンタインデー」や「ホワイトデー」などといったものは、どうも商業主義的で本来の意味を喪失しているように思う。「母の日」や「父の日」も同じように、百貨店やスーパーがあおりたてているように思えてならない。したがって、「父の日」などという日も当然知らなかったし、知ろうともしなかった。

短歌

父の日に梅酒と肴たずさえてふたりの息子訪ねくるなり

父の日に遠くの街の娘より魚のひもの送りくるなり


 しかし、「父の日」は向こうからやってきた。息子や娘の来訪や宅配で初めて知らされた。が、彼らの贈り物は決して厭ではなかったし、当然嬉しくもあった。感謝の気持ちでいっぱいだ。ところが、本当は贈られた側よりも贈った側の方が、幸せなのかも知れない。親に対して、それだけの心配りができるということは、彼らが幸せだという証明のように思う。彼らが今後とも何事もなく、平らかに暮らすことができるように祈っている。



黄泉の国へ

2015年6月25日(木) 晴れのち雨

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「黄泉の国へ」

 わたしの町は人口6000人ほどのごく小さな町である。しかし高齢化がすすみ、毎日のように「黄泉(よみ)の国」へ旅立つ人がいる。午後5時前になると、役所からスピーカーを通して伝えられる。その音声を聞くと決していい気持ちにはならない。よくないのは、人間の死というものに対して、その重さ、深さに慣らされるということである。つまり人間の死、命に鈍感になることが怖い。役所からの伝達は功罪の両面がある。

短歌

弔いの深夜に点る部屋明かりただに黙って座しているなり

蛙鳴く深夜に点る部屋明かり死者を囲んで泣き濡れている


 初夏の深夜に部屋の明かりが点っている家がある。どことなく悲しげで、通夜なのだろうかと想像する。寒い夜、家に帰るとぽっとした明かりが迎えてくれる、その温かさとは違う趣なのだ。ひとつの命の終焉をその明かりは漂わせている。



水平線の果てに

2015年6月24日(水) 晴れ時々曇り

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「水平線の果てに」

 彼女とは一緒に小説を勉強し、少なくない小説を書いてきました。彼女は高校を卒業してすぐに岡山にやってきました。そして、手記や詩を書くようになったのです。青年雑誌の文学コンクールに応募し、受賞したり掲載されたりすることもありました。そして、いつからか小説を書くようになりました。わたしも小説を書いていたので、すぐに文学仲間になりました。

短歌

君はいま本に埋もれた日々という現実に触れず悲しく想う

君はいま瀬戸内海の果ての町本に埋もれた日々も悲しい


 彼女は結婚し海を渡って四国へいってしまいましたが、しばらく岡山の文学の会に出てきていました。彼女の小説はふたつ、みっつと全国的な文学誌に載って、紹介もされました。しかし、いつの頃からか、岡山に出ることがなくなりました。水平線の果ての町で、いまは本を読むことに明け暮れているようです。もう書かなくなってしまっているようですが、ふたたびペンをとることを願っています。



サルビアの花

2015年6月23日(火) 曇りのち晴れ

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「サルビアの花」

 10数年前のことでした。仕事で寺を訪ねたとき、寺の前の歌壇に真紅の花が咲いているのを目にしました。それまで何度か見たことのある花でしたが、花の名前さえ知りませんでした。が、その歌壇の花は一面に咲き誇っていて、思わずわたしは足を留めて眺めてしまいました。立ち尽くすといった感じでした。それがサルビアの花だったのです。それからその花が好きになりました。

短歌

情熱のサルビアの花深紅なり捧げる女(ひと)がおらず悲しい

深紅なるブラジルの花サルビアよ戦争法案許さじと咲け


 もとまろの「サルビアの花」という歌も、幾度となく聞いてきました。この曲も好きな歌でふと思い出したときに聴いています。サルビアの季節になりましたね。先日、図書館にゆく道の傍でこの花を偶然、目にしました。小さくない花壇一面に、いっせいにサルビアが咲いていました。自転車を停めて、しばらく眺めていました。サルビアはわたしの心をなぜか打つ不思議な花です。



若き日の詩人

2015年6月22日(月) 曇り時々晴れ

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「若き日の詩人」

 遠きあの街にいまもなお君は棲んでいるのだろうか。彼女は若き日に、さびれた港町で酒場を開いていました。ママでした。わたしはその酒場によく通いました。ママは芸術家です。油絵を描き、詩を創り、短歌を詠んでいました。

 どの作品も怜悧(れいり)さが横溢(おういつ)していました。いまその作品のいくつかに触れることができるのですが、怜悧というより、鋭利という方が当たっているように思います。カミソリのような鋭い感性を持っているのです。


短歌

スモッグの空の下に棲むという心を病んだ君が悲しい

 その彼女が、心を病んでスモッグのただよう街に、棲んでいるというのを聞きました。一度会いたいと思って、あちこち当たりましたが、残念ながら彼女の居所にたどりつくはできませんでした。彼女が心の病から解放されていることを願うばかりです。



遠き日

2015年6月21日(日) 曇り時々雨

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「遠き日」

 誰にでもあるのではないでしょうか。若き日の友人や恋人をふと想い出すことが、そんなことはありませんか。想い出すとすれば、秋や冬の夜がふさわしいように思いますが、しかしこの想いはいつとはなしにやってきます。その想いは不意にやってくるから不思議です。そして、遠い日のことを想い出していたりします。

君はいま幸せなのか問うてみる知らない街の暮らしを想う

 そして、遠い日のことだけではなくて、いまの暮らしなどにも想いが及びます。幸せであって欲しいという想いと、それとは逆の残酷な想いが起こることもあります。そんな折り、自身が冷たい人間に思えますが、それは半分本当の心かも知れませんね。いずれにせよ、そんな遠い日に想いを馳せることができるのは、幸せと言えるかも知れません。きっと人間は誰でもロマンチストなのでしょう。



希望の灯

2015年6月20日(土) 曇り

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「希望の灯」

 わたしの村(町)は過疎の村になってしまいました。1950年には1万人いた人口が、いまでは、6000人を切っています。65年の間に、4割もの人口が減りました。まもなく半減するに違いありません。わたしの棲む住宅団地も14軒あったのですが、5軒が廃屋になっています。わが町は劇場やパチンコ屋、小学校も二校あり、大相撲の巡業もやられるほど活気に満ちていました。それが、いまでは廃屋がよく目につきます。

廃屋の
増えゆく村に
家が建つ
はしゃぐ子どもら
希望となりぬ


 わたしの棲む団地、わが家のすぐ裏に新しく家が建ちました。そこから子どもらの嬉々とした声が聞こえてきます。若い夫婦と子ども三人です。この団地ができた頃は、子どもたちの元気のいい声に満ち溢れていました。ところが、その泣き笑いも消えて久しくなります。その団地に数十年ぶりに家が建ち、子どもたちが棲むようになったのです。それはわが団地の光りとなっています。



短歌とエッセイ

2015年6月19日(金) 曇り時々雨

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「短歌とエッセイ」

 先日、わたしの町の短歌会に出席しました。この短歌会には、六、七、八、九十、百歳代の歌友が参加しています。六十代はわたしですが、この短歌会のなかでは最年少です。その中に、百歳の歌人がいます。彼女が短歌を創るのも驚きですが、生活も自立してやっています。それも驚きです。彼女はひとり暮らしですが、2階に住み掃除、洗濯、買い物などひとりでやってしまうのです。

百歳の
老女凛とし
歌を詠む
「百歳百首」の
歌集上梓す


 「百歳の詩人~柴田トヨ~」と、テレビで紹介され話題になりましたが、「百歳の歌人」は、トヨさんに「勝るとも劣らない」、暮らしぶり、創作ぶりです。「泉のごとく言の葉が湧き出る」というのですから、ただただ感心するばかりです。歌会での発言でも、毅然とし溌剌としています。彼女に励まされながら、わたしも歌づくりをしています。



短歌とエッセイ

2015年6月18日(木) 曇り時々雨

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「短歌とエッセイ」

 我が家は年金暮らしです。夫婦ふたりの年金を合わせて、やっとの生活です。一家の暮らし向きは、とても厳しいものがあります。ぎりぎり、かつかつの生活ぶりです。わたしも妻も、ほとんど贅沢というものをしていませんが、家計簿はいつもとんとんです。なのに、なのに、年金は減額されつづけています。一方、消費税や物価は上げられ、家計のやりくりは大変です。

活気づく
偶数月の
十五日
ATMの
窓口に列


 それはひとり我が家だけの、嘆き、怒りではありません。たいていの家が余裕ある暮らしをしていません。町内会で集金などがあると、「年金がおりるまで待って!」という声がよく聞かれます。わたしはゴルフと酒(ビール)をやめましたし、いまの政治は庶民のささやかな楽しみさえも奪っています。



短歌とエッセイ

2015年6月17日(水) 曇り

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「短歌とエッセイ」

 先日、歌会が倉敷市水島であり、出かけてきました。月一回の歌会ですが、とても待ち遠しく感じられる集いです。わたしは、二つの短歌会に入っており、どちらも楽しい歌会です。歌会では二~三の歌稿を出し、歌友に批評して貰います。辛辣な批評にいくぶん感情を害することもありますが、家に帰ってその歌をよく検討してみると、他者の指摘が的を射ていることに気づかされます。

吾の想い
歌で伝える
難しさ
まだまだ足りぬ
他者への思い


 いまわたしが最も強く想うのは、自分の感じたこと、思いが読者に伝わらないということです。短歌もひとつの芸術作品ですから、他者に伝わらなければ意味をなしません。他者に分かるように、表現することの難しさをいま痛感しています。わたしの先輩は「よく観、よく感じ、よく表現する」という言葉を贈ってくれました。その言葉から学んで、日々歌づくりに励みたいと思います。



短歌とエッセイ

2015年6月16日(火) 曇り

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「短歌とエッセイ」

 我が家の庭は狭いので、紫陽花が少しばかり植わっている程度で、花々にはあまり縁がありません。そこで、わたしは自転車に乗って、花々を見つけによくいきます。よその畑や庭に咲いている花を捜して、自転車を走らせるのです。いま目を引く花といえば、紫陽花とタチアオイなどですね。タチアオイは、歌友が「立葵」という歌集を編んだので、強く印象に残る花です。

タチアオイ
根を深く張り
伸びてゆく
真紅の花びら
光りを返す


 わたしの町でも、タチアオイは真紅や白、ピンク色をした花を、あちこちで見ることができます。タチアオイは背丈が高いので、深く根を張るということを聞いたことがあります。深く根を張り、高く伸びるのです。憂うつな梅雨の季節ですが、タチアオイを見ると、心が清々しくなります。



短歌とエッセイ

2015年6月15日(月) 晴れ時々曇り

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「短歌とエッセイ」

 いま、蛙は夜が更けてくると、一斉に鳴きだします。わたしは持病として、耳鳴りをもっており、一瞬、蛙の鳴き声が耳鳴りではないか、と疑うほど近くで聞こえてきます。蛙は不思議ですね。昼間はもちろん、黄昏の時間になっても、鳴かないのです。まさに、野山が闇に包まれないと鳴きません。

 一説には、昼鳴くと外敵に自分の居場所を知らせることになる、という話も聞きます。また、大声で鳴くのは求愛行動だともいわれています。綺麗な大きな高い声で鳴くのは、そのためだというのです。そして、自分の縄張りを懸命に主張しているともいわれています。


さんざめく
蛙の鳴き声
求愛の
喉震わせて
夜の闇裂く


 田んぼに、水が張られるのと軌を一にして、蛙が鳴くというのも、面白い現象です。しかし、わたしには求愛行動としての、鳴き声がどこか哀しみを帯びて聞こえてきます。が、種の保存のためには、精一杯生命を燃焼させているということなのでしょう。



短歌とエッセイ

2015年6月14日(日) 曇りのち晴れ

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「短歌とエッセイ」

 県北ではもう田植えはほとんど終わっていますが、海に接するわたしの県南の町ではこれからです。しかし、田植えはまだですが、田んぼに水が入りました。田んぼの水面は鏡面のように、空や山を映しています。時折り、風が渡って空や山が揺れています。その風景を眺めていると、とても美しく感じます。

さみどりの
早苗は育ち
田植え待つ
一枚二枚と
田に水入る


 まもなく、わたしの町でも田植えが行われることでしょう。梅雨の季節のひとつの光景です。いまは、苗代の早苗が勢いよく伸びています。そのさみどりの早苗に生命力を感じます。ふと、日本の稲作の歴史に思いを馳せたりしています。



短歌とエッセイ

2015年6月13日(土) 晴れのち曇り

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「短歌とエッセイ」

 遠い日のことです。かぐや姫の「神田川」と同じような青春を送っていました。わがアパートの下には川ではなく、ひっきりなしに電車が流れていました。「神田川」は「三畳一間の小さな下宿」だったけれど、わたしは「六畳一間」の古いアパートでした。電車が通るたびに、アパートは大きく揺れていました。夜、電車の音に慣れるのにしばらくかかったことを覚えています。

歯ブラシと
カップ残して
君は去る
始発電車は
コスモス揺らす


 わが青春の一ページです。わたしの人生の中でも、忘れることのできない「ひとつの風景」です。いまでも心に深く刻まれています。「若かったあの頃 何も怖くなかった」青春でした。あのような青春がなかったら、わたしの人生もつまらないように思えてきます。



短歌とエッセイ

2015年6月12日(金) 曇りのち晴れ

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「短歌とエッセイ」

 わたしの人生を振り返ってみるとき、大きな誤りはないように思えるけれど、その折々の生き方の選択は後悔することが、あまりにも多いのに気づかされます。特に青年時代のその生のありようは、深く恥じ入ることがあります。
 とくに恋愛や仕事などは、「若気の至り」で、思慮分別を失って行動してきたように思います。それを顧みると、恥ずかしくて身体がほてってくるのを感じます。まさに「身が焼かれる」ような思いなのです。


悔いもなく
生きてきたかと
問わるれば
恥じ入ることに
身を焦がすなり


 しかし、ここにあるいまの自分の生は、そんな過ちをも肯定してゆかなければなりません。その恥じ入るような生き方があってこそ、いまがあるというものです。
 「つまづきつわが人生はここにあり」ということだろうと思います。後半生は新たなる地平をめざして、半歩、一歩と足を踏み出してゆきたいものです。



短歌とエッセイ

2015年6月11日(木) 曇り時々雨

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「短歌とエッセイ」

 わたしはよく海を見に出かけます。本を読んだりパソコンの作業に疲れたりしたら、家を出ていくのです。海を見る場所は何カ所か決めています。海の見える図書館であったり、牛の角のように突き出た岬であったりします。その中のひとつに山の中腹にある墓地があります。この墓地からは瀬戸内海が一望できるのです。海を眺めるにはとてもいい場所です。しかし、その墓地に行って、心が痛むのは戦死墓が幾つもいくつもあることです。

戦死墓
何も語らず
立ち尽くす
はるかルソンを
見つめる如く


 わたしは戦死墓をよく見て廻ります。中国大陸で亡くなった人や南方で亡くなった人たちのようすが、墓に刻まれています。わたしの町は小さな町ですが、その町で日清戦争から太平洋戦争が終わるまでに、実に335人もの若者たちが戦死しています。そのほとんどは先の戦争です。
 いま、国会で「安保法制」という「戦争法案」が審議されていますが、ふたたび日本の国が戦争に関わることは許されません。二度とこの墓地にあるような、戦死墓を建立することのないようにしなければなりません。戦死墓はそのことを無言で語っています。



短歌とエッセイ

2015年6月10日(水) 晴れ

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「短歌とエッセイ」

 アマリリスという花は、いまあちこちで見ることができます。この花は茎が太くて、背すじをぴんと伸ばして咲いています。花言葉の「誇り」にふさわしいところがあります。さて、「アマリリス」という花の名前の由来ですが、ギリシャ神話にもとづいているといわれます。

 ギリシャにアマリリスという羊飼いの少女が暮らしていました。ある日、彼女は羊飼いの少年・アルテオに恋をしました。が、アルテオは花がとても好きで、花にしか興味がありません。なので、アマリリスには関心を抱かず、彼に花を届けてくれる別の少女に好意を抱きます。

 これに絶望したアマリリスは神に祈りを捧げました。すると、お告げと共に一本の矢を受け取りました。そしてその矢でお告げ通りに、アマリリスは自分自身を傷つけました。そうしたら、傷から流れた血からとても美しい花が咲きました。それでアルテオはひざをついて、アマリリスに愛を告げました。そして、この花はのちにアマリリスと呼ばれるようになったということです。


アマリリス
花言葉は
誇りとう
さみだれ強し
凜と咲きおり


 この短歌の「誇りとう」の「とう」は「と言う」の意味です。梅雨の強い雨の中でも、アマリリスは、自身の誇り、プライドを失わずに真っ直ぐ伸び、深紅の花(いろんな色の花があります)を咲かせています。それが、この花の魅力ですし、わたしの生き方もこうでありたいと願うばかりです。



短歌とエッセイ

2015年6月9日(火) 曇り時々雨

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「短歌とエッセイ」

 雨にもっともよく似合う花と言えば、やはり紫陽花(あじさい)でしょう。中国地方も梅雨入りをして、空は雨模様の日がつづいています。自転車で村を走っていると、あちこちに紫陽花をみることができます。思わず立ち止まって、その花をじっと眺める自分がいたりします。気持ちがふっとやわらいでくるのが分かります。とても心地よいものです。

雨にぬれ
不思議なりしも
あじさいの
花移ろいて
七変化する


 それにしても、紫陽花の花はなぜ色変わりするのでしょう。花が退化して、色素が変わるといわれていますが、それにしても不思議です。水色の花が淡いピンクに変わったりします。それを指して、紫陽花の七変化ということも言われています。梅雨でうっとうしい日々がつづきますが、紫陽花が人間の心をやさしく包んでくれます。



短歌とエッセイ

2015年6月8日(月) 曇りのち雨

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「短歌とエッセイ」

 いま、村を散策していて気づくのは、苗代のみどりです。まだ、田んぼに水は張られていません。苗床の早苗が「さみどり」でとても美しい。大地に根を張って、勢いよく早苗が伸びています。田んぼは耕されて黒い土をみせています。まるで稲の苗が植え付けられるのを待っているようです。農民は田んぼの手入れに余念がありません。

苗代の
さみどり清く
目に沁みる
若苗の芽が
鋭く伸びる


 わたしの村の田植えは、もうまもなく行われることでしょう。池にはたっぷり水が蓄えられており、田植えの準備はすっかりととのえられています。中国地方も梅雨に入りいよいよ田植えの時を迎えています。



歌とエッセイ

2015年6月7日(日) 晴れ

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「短歌とエッセイ」

悲しみの涙をふいて新たなる
     地平に出でて凜として立つ
           「新日本歌人」掲載


 わたしはコーヒーが大好きです。街に住んでいた若い頃には、一日に何度も喫茶店に入って、本を読んだり人生について考えたりしていたものです。その頃の喫茶店のコーヒーは、とても美味しかったのを覚えています。ジャズを聴きながら、あるいは映画音楽を聴きながら飲むコーヒーのひとときは、ずいぶん幸せでした。

ささやかな
年金暮らし
やっぱり
自販機探し
缶コーヒーに

 私の住む村にも二カ所喫茶店があります。しかし、ほとんど入ったことがありません。年金生活者だということもありますが、ほんとうのところは、昔のようにコーヒーが美味しくないのです。また、昔のような喫茶店の雰囲気がありません。若い頃のような喫茶店なら、たとえ年金暮らしだとしても、毎日コーヒーを飲みに立ち寄ることでしょう。吉永小百合が演じた「ふしぎな岬の物語」のような喫茶店なら、わたしをとりこにすると思います。



歌とエッセイ

2015年6月6日(土) 晴れ

「短歌とエッセイ」

目覚むれば耳鳴りがする錠剤を
     今朝も飲むなり三十五年
           「新日本歌人」掲載


 隣町の川にいって、観察していると、笹や木の陰でひっそりと光りを出しているホタルがいるのに気づきます。このホタルは滅多に飛ぶようなことをしません。じっと葉陰で光りを明滅させています。これはほとんどがメスのホタルだといわれています。一方、川の上を飛び交って強い光りを出しているのは、オスだそうです。

ひそやかに
葉陰で光る
雌ほたる
雄はするどき
光りを放つ

 ホタルはなぜ光るのでしょうか。ひとつは求愛のシグナルだということです。ふたつには、刺激を受けたときに思わず光るそうです。みっつには、敵を威嚇するためだそうです。しかし、まだはっきりとホタルの光る目的が分かっているわけではありません。目的は分からなくても、わたしはホタルの光りをそっと楽しみたいと思います。



短歌を詠む

2015年6月5日(金) 曇りのち雨

「短歌を詠む」

青いうみ鷗が数羽舞っている
       白い翼をひらりと返す
           「新日本歌人」掲載


 わたしの村でも30~40年前までは、どこにでもホタルは飛び交っていました。乱舞するホタルをつかまえて、子どもたちは家に持ち帰っていたものです。わが家の横を流れている川にも、たくさん棲んでいました。ところが、川底にコンクリートを打ってしまい、ホタルが棲めなくなってしまいました。わたしの村には、もう一カ所か二カ所しか棲んでいません。そこでわたしは隣町の川にホタルを見にゆきました。

さらさらと
流れる川に
ほたる飛び
幽玄なりし
光りを放つ

 その川にはまだたくさんのホタルが成育していて、光りを放ちながら飛び交っていました。わたしが行った時には何組もの人たちがきていました。どうか、川にコンクリートを張ったりせずに、ホタルの棲める環境を残してほしいと思います。



短歌を詠む

2015年6月4日(木) 晴れ

「短歌を詠む」

枝の先冬芽するどく光ってる
      明るい方へまっすぐ伸びる
              「新日本歌人」掲載


 図書館で本を読んでいました。瀬戸内海はたいてい穏やかな海で、鏡面のような姿を見せています。しかし、そんな海も空も荒れることがあります。先ほどまで空は晴れていたのに、急に様相が変わるのです。やはり自然の営みは予測がつきません。不意に本の手元が暗くなってきました。

青い空
たちまちにして
鉛色
雲の一群
動きは疾し

 空が一瞬にして灰色になって、雲は速く動いてゆきます。その雲の流れを、目を凝らして見ます。映画のスクリーンを観るように、図書館の窓枠から眺めます。図書館から見る風景は、一日として同じということはありません。日々、刻々と空も海も変わってゆきます。



短歌を詠む

2015年6月3日(水) 雨のち曇り

「短歌を詠む」

図書館で消しゴムのかす残したる
        黒髪の乙女われ忘られず
                「新日本歌人」掲載


 わたしの村を散策していると、いま気づくのは青い果実がふくらんできていることです。梅、桃、いちじくなどの実が葉陰に息づいています。これらは初夏から秋にかけて収穫する果実です。桃はもう袋かけが終わっています。袋のなかで実をふとらせていることでしょう。

梅、桃の
青い果実が
ふくらみて
葉陰の下に
息づいている

 果実が葉陰で息づいているのを見るのは、ひとつの感動です。思わず身体を乗り出して、葉陰の実を見つめてしまいます。村のあちこちの畑で見ることができます。季節は確実に動いてゆきます。



短歌を詠む

2015年6月2日(火) 曇り時々晴れ

「短歌を詠む」

図書館の窓から望む瀬戸の海
      乱舞する蝶の如く光りおり
               「新日本歌人」掲載


 夜明けに起床すると、裏山からうぐいすやほととぎすの鳴き声が聴こえてきます。まだすっきりと目覚めていないとき、その鳴き声を聴くと、気持ちが引き立ちます。「ああ、今日が始まる!」という思いになります。うぐいすとほととぎすの鳴き声は、とても爽やかで好きです。

あかつきに
うぐいすが鳴き
新しき
一日始まり
背すじを伸ばす

 うぐいすは春告げ鳥ですが、ほととぎすはいわば、夏告げ鳥ですね。南の国で越冬したほととぎすは、初夏に日本列島へと渡ってきます。その列島で「トッキョキョカキョク」としきりに鳴いています。その鳥からわたしは生きる力を貰っています。



プロフィール

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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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