‘14年ささやき日記 「8月を回顧する」

2014(H26)年8月31日(日) 曇り

   タイトル 「8月を回顧する」

 8月は、異常気象という印象が強い。私も「太陽のない夏」という文章を書いたが、おそらく例年の三分の一くらいの日照時間しかなかったのではないだろうか。

 それをよく物語っているのは、稲にイモチ病が発生したり、ほうれん草、ゴーヤ、きゅうりなどの収穫量が落ちたりしている。また、ジャガイモやミカンにも被害が出ている。

 私は、ホームシアターで、山田洋次監督の映画を10本観賞した。「寅さん」をはじめ、「学校」、「息子」、「同胞(はらから)」、「キネマの天地」などを観て、感動した。

 笠岡市の干拓地に、「100万本のひまわり」を観にいったことも忘れられない。ここでは、イタリア映画の「ひまわり」の音楽と映像が甦ってきた。

 わが家の1階の畳にダニが発生し、私は2階へ避難した。2階には畳の室はなく、すべてフローリングなので、ダニの心配はない。今も私は嫁いでいった娘のベッドで寝ている。

 このように、私にとって8月はいろんなことがあり、忘れ難い月日となった。幸い台風の予想進路もはずれて、被害に遭うということもなく、平穏な日々を送ることができた。ただ、広島の土砂災害を思うと胸が痛い、そんな8月だった。



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‘14年ささやき日記 「原発事故の悲劇」

2014(H26)年8月30日(土) 曇り

   タイトル 「原発事故の悲劇」

 東京電力福島第一原発事故後の避難中に自殺したのは、原発事故が原因だとして、福島地裁は東電に賠償命令の判決を言い渡した。

 訴えていたのは、亡くなった渡辺はま子さん(当時58歳)の夫・幹夫さん(64歳)と子ども3人で、東電に約9116万円の損害賠償を求めていた。

 26日に判決があり、潮見直之裁判長は、「避難生活と自殺には相当因果関係がある」として、遺族の主張を認め、約4900万円の賠償を東電に命じた。

 はま子さんは、2011年7月1日朝、自宅の庭に自生する柳の下でガソリンをかぶって焼身自殺をした。同地区は計画的避難区域に指定され、自殺の半月前、福島市のアパートに避難していた。

 夫婦は自宅のある川俣町の農場に勤めていたが、原発事故によって職を失っていた。避難先では知人も仕事もなく、はま子さんは精神的にも肉体的にも追い詰められていた。

 潮見裁判長は、「古里での生活ができず、帰還の見通しがもてないなど、強いストレスを感じる出来事に短期間で次々と遭遇した」と指摘している。

 原発と自殺についての因果関係、精神的被害について認めた画期的な判決だ。しかし、渡辺はま子さんが帰ってくるわけではない。これは、原発事故のもたらした悲劇である。



‘14年ささやき日記 「ブログについて」

2014(H26)年8月29日(金) 曇り

   タイトル 「ブログについて」

 先日、「民主文学会」の全国文学研究集会があった。私は参加できなかったが、その分散会の中で、少し面白いことが話題になった、ということを聞いた。

 ある人から小説の主権者は作者だという発言があった。それに対して、主権者は読者ではないのかという意見が出たらしい。

 小説を作り上げるのは読者だ、活字には活字の黒い形があるだけで、物の色も形も無い、小説の世界を創るのは読者の想像力のほかにはないという意味で、反論を試みたということらしい。

 ひるがえって、ブログの文章についてはどういうことが言えるのだろうか。主権は発信者にあるのか、読者にあるのかということである。

 ブログの定義も一応あるにはあるが、明確になっているわけではない。自身の主義主張を発信するのが目的というのもあるし、読者との交流を目的としたものもある。つまり、当初からいえば、使われ方もずいぶん多様に広がり、定義が様相を変えつつあるということだ。

 私の考えるブログは、当初は自身の考えを主張するだけのものだったが、いまは「主権者(主人公)は、読者である」というふうに、思いはじめている。読者のみなさん、今後ともよろしくお願いします。



‘14年ささやき日記 「庶民のささやかな抵抗!」

2014(H26)年8月28日(木) 曇りのち晴れ

   タイトル 「庶民のささやかな抵抗!」

 4月に消費税が5%から8%に増税された。また、今年中に10%にするかどうかの方向性が出されるようである。消費税というのは、所得の低い人ほど負担率が高くなる。

 つまり、逆進性というものだが、私などの低所得者は、その影響が大である。社会保障のためといいながら、医療や介護、社会保険などは大きく後退しているのが現実だ。

 消費税に頼らなくてもいい別の道は、応能負担といって、所得の高さに応じて税を負担することである。そういう方向へ歩み出すことを期待している。

 しかし、一方庶民は自分の生活は自分で守らなければならない。庶民は知恵や工夫を働かせて、ディスカウントショップを利用したり、ポイント制の店を見つけたりしている。

 私もディスカウントショップとポイント制の店を利用している。私は月に1、2回ドラッグストアーにゆき、まとめ買いをする。

 そのドラッグストアーは、土、日が7倍ポイントになる。つまり、消費税に匹敵する7%の割引である。このように、私たち庶民は「ささやかな抵抗」をして生活を守っている。



‘14年ささやき日記 「介護施設は今?」

2014(H26)年8月27日(水) 曇り時々晴れ

   タイトル 「介護施設は今?」

 文学仲間の先輩は、重度の障害者で車イス生活を余儀なくされ、いま介護施設に入っている。しかし、施設の対応に頭をかかえている。彼自身のことではなく、施設仲間のことである。

 「何べん同じことを言うんなら」と、施設の職員が頭ごなしに怒鳴りつけるというのだ。認知力がないか、それが弱っている利用者に、そんなことを言っていいものだろうか。

 「さっき言うたばっかしじゃろう」と言って、重度の障害を負っている者に向かって吐く言葉だろうか。私などは現場にいないので、とても理解などできない。

 この介護施設は、岡山県でももっとも大きいし、よく知られた施設である。昭和37年10月には、昭和天皇皇后が視察に来たこともある。

 そんな施設で、重度の障害者に向かって、介護職員の一部が怒鳴り散らすということは、どういうことだろうか。介護職員一人ひとりの資質の問題もあるが、それだけではないような気がする。

 近年、医療や介護政策の後退で、人が減らされ、施設の職員も多忙をきわめ、忙殺されているのではないのだろうか。が、介護施設がこうであっていい筈はない。施設の主人公は、「利用者である」という原点に立ち返るべきだろう。



‘14年ささやき日記 「希有(けう)な人」

2014(H26)年8月26日(火) 曇り時々雨

   タイトル 「希有(けう)な人」

 希有というのは、「めったにないこと。まれにあること」というふうに、辞書に記されている。その「希有な人」が、私の町内会にいる。

 町内会といっても、せいぜい10軒ほどの住宅団地だが、その中に私などとても「真似のできない人」がいる。

 だいたい70歳くらいの人だが、とにかく人の面倒をみるのが苦にならないらしい。高齢者の家のゴミ出しなども手伝っている。月、金曜日には必ずその家に立ち寄って、ゴミステーションへ行く。

 住宅団地の中にある駐車場の草刈などもすすんでやる。もちろん自分の家の駐車場ではない。持ち主に告げることもなく、また、知られないのに黙々とやっている。

 住宅団地の裏山に竹林がある。竹が折れて道の上によりかかっていたら、それを伐採しに竹林に入る。また、子どもの通学路の草刈を300mほどにわたってやる。しかも、雨が降っているのも構わずやってのける。

 私はいままでの人生の中で、こういう人に出会ったことがない。誰でもができるというものではない。まさに、「希有な人」である。



‘14年ささやき日記 「2階へ避難」

2014(H26)年8月25日(月) 曇り時々雨

   タイトル 「2階へ避難」

 わが家はまだ比較的新しい「家」である。畳や壁、フローリングなども、さほど傷んではいない。ゴキブリもあまりみかけないほどには清潔にしている。

 「2階へ避難」というのは、高潮や豪雨によって、床下あるいは床上浸水が迫っているというわけではない。それは、1階にダニかもしくは目に見えない害虫が出るからである。

 しかも、冬季には出ないで夏だけに出てくる。そして、人間を刺すか咬むかする。その虫に咬まれると、非常に痒く、10日以上にわたって悩まされる。

 畳のうえで昼寝などしようものなら、たちまち咬まれてしまう。多分、畳の中にひそんでいるのだろう。駆除の方法をネットで調べたり、害虫の駆除会社に電話をかけたりしても要領をえない。

 それで、思いあまって「2階へ避難」しているというわけである。2階には畳の部屋がないので、害虫に咬まれるということは起きていない。私は嫁いでいった娘のベッドで休んでいる。

 夏はとても好きな季節であるが、この害虫には頭を悩ましている。梅雨明けから秋彼岸くらいまでは、2階への避難が求められる。厄介な虫である。



‘14年ささやき日記 「広島土砂災害」

2014(H26)年8月24日(日) 曇り時々晴れ

   タイトル 「広島土砂災害」

 記録的な豪雨で、甚大な被害が出た広島は、わが県の隣である。非常に身近に感じるところで起きた災害で、他人事(ひとごと)とは思えない。

 8月22日現在、死者40人、行方不明者47人といわれている。広島では土石流が、50カ所以上で発生し、90棟以上の建物が全半壊しているということである。

 いまただちに求められていることは、行方不明者の捜索と、第二次災害を起こさないことだ。それらのことをしながら、被災者への手厚い救援の手を差し伸べることである。

 この災害の原因は、記録的な豪雨、深夜の出来事、地質のもろさなどが指摘されているが、それだけにとどまるものではないように思う。

 山を切り開く乱開発による住宅団地の建設、果ては地球温暖化にまで視野を広げて、考えなくてはならないだろう。いま日本列島は、災害におびやかされているといわなければならない。

 国民の命と財産を守る使命が国にはあるはずだ。大型開発だけにとらわれず、災害に強い日本列島をつくることが急務ではないだろうか。



‘14年ささやき日記 「平和の鐘」

2014(H26)年8月23日(土) 曇りのち雨

   タイトル 「平和の鐘」

 私の友人で倉敷市議会議員のブログには、次のように記されている。「昨年、9月9日9時9分、お寺の梵鐘をお借りし9回の鐘撞きを行いました」

 「あの大戦では、戦争のためと供出され、その後再建された鐘、梵鐘です。全国のお寺の鐘、9条を守ろう、その波紋世界に届けと。今年も実施します」

 「9条の会」の呼びかけ人は、作家の大江健三郎、澤地久枝、憲法学者の奥平康弘、哲学者の梅原猛、鶴見俊輔たちだ。故人では、井上ひさし、小田実なども呼びかけ人である。

 いま、憲法9条があやういところに立たされている。戦争を永久に放棄し、戦力を保持しないと定めた第9条を含む憲法の改定を阻止するために、「9条の会」はつくられた。

 岡山県では、複数の寺院で9月9日9時9分に鐘がつかれる。倉敷市、高梁市などの寺院である。宗教者も、憲法にたいする危機意識は高く、平和憲法を守ろう、と立ち上がっている。

 私は「平和の鐘つき」には参加できないが、その成功を心から祈っている。全国のお寺の鐘が打ち鳴らされる日がくることを願ってやまない。



‘14年ささやき日記 「神田川」

2014(H26)年8月22日(金) 曇り時々雨

   タイトル 「神田川」

 南こうせつの「神田川」を、最近毎日聴いている。この曲は、1973年9月20日にシングルが発売された。私がまだ25歳のときだった。

 この歌詞は、女性の視点で書かれているが、喜多条忠が自身の学生時代の思い出をもとに、新聞の折り込みチラシの裏に書いたものである。

 喜多条は、出来上がった作品を電話口で伝えたところ、南こうせつは聞いた瞬間に、メロディが浮かんできたと言う。

 ♪ 若かったあの頃 何も恐くなかった
 ♪ ただ貴方のやさしさが 恐かった

 私の青春時代、このフレーズを何回となく口ずさんだことを憶えている。まさに若さの為せるわざだろうか、生活も仕事も恋も何も恐いものがなかった。

 私も横丁の銭湯に、彼女とよくいったものだった。私のアパートは三畳一間ではなく六畳一間の2階で、窓の下には川ではなく線路が走っていた。

 列車が通るたびに、裸電球は大きく揺れ、窓ガラスは震えていた。彼女とは結局別れることになったが、青春時代のほろ苦い想い出である。



‘14年ささやき日記 「高校野球が面白い!」

2014(H26)年8月21日(木) 曇りのち晴れ

   タイトル 「高校野球が面白い!」

 高校野球の甲子園大会が面白い。何よりも高校生の一生懸命さが見る者の心を打つ。白球を追って飛びついて捕球する姿や、一塁にヘッドスライディングする姿は、そのあらわれである。

 8月19日をもって、ベスト16が出揃った。私が応援しているのは、北海道、東北、北陸そして沖縄である。ベスト16の中に、これらの高校が9校入っている。

 私が北の国を応援するのは、野球をするうえでハンディをもっているからだ。冬には雪に閉ざされて、グラウンドでの練習が十分できないからである。それを克服しての活躍は、胸を熱くさせる。

 沖縄を応援するのは、戦後の苦難の歴史があったからである。1958年の夏、沖縄がまだアメリカ統治下にあったとき、40周年記念として沖縄代表チーム(首里高)が初めて招かれた。

 3回戦からは、東北、北陸、沖縄勢同士つぶしあいになるが、なんとかして私の応援する高校が、深紅の優勝旗を郷里へ持ち帰って欲しいと願っている。いつもながら、高校野球は熱く燃え、見る者に感動・感銘を与えるスポーツである。



‘14年ささやき日記 「ウオーキング」

2014(H26)年8月20日(水) 曇り

   タイトル 「ウオーキング」

 一週間ほど雨模様だったので、ウオーキングができずにいた。私は週4、5日約3キロ、ぶらぶら歩くことにしている。ところが天候の不順のためできなかった。

 久し振りにウオーキングをしてみると、やはり気持がいい。ウオーキングといっても、私の場合は散策である。道のほとりの草花や果樹を眺めながら、ゆっくり歩いている。

 今日は百日紅(さるすべり)の純白の花に出会うことができた。ピンクの花も咲くが、今日出会ったのは白だった。枝々に純白の花が群がって咲いていた。

 百日紅は、文字通り樹皮が滑らかで、木登りの得意な猿さえ滑り落ちて、登れないということから、名づけられたといわれている。樹皮に触ってみたが、たしかにすべすべとした樹皮だった。

 少し歩くと、田んぼの脇の道に出た。梅雨の時期に植えられた稲が、もう穂を出している。稲などが穂を出すことを出穂(しゅっすい)というらしいが、稲の成長は著しい。

 このように、私のウオーキングは、厳密な意味でのウオーキングではなく、ぶらりぶらりと歩く散歩である。自然と触れ合う散策は、新しい発見や季節の移ろいを感じて、とても楽しい。



‘14年夢日記 「『四十年後の通夜』を読む」

2014(H26)年8月20日(水) 曇り

   タイトル 「『四十年後の通夜』を読む」

 この作品は、「民主文学」9月号に掲載された、仙洞田一彦の短編小説である。彼は作品の冒頭で、この小説のモチーフについて記している。家の本を整理しているとき、二十数年前に書いた「通夜」という小説が目に留まった。主人公の「わたし」は、68歳だから、43歳前後の作品ということになる。

 「通夜」には、「生活保護は打ち切られたのでなく、父が打ち切ったのだ。生活保護は受給者に徹底的に屈辱感を味わわせるように運用されているという。それに負けて父は自分で自分の首を絞めたのだ。無理矢理退院して来たのだから、具合が悪くなっても病院に行かなかった。行けば入院を命じられる」と書いてあった。

 その部分から余白に線が引いてあり「これは父の誇りではなかったか」と記されていた。そのメモは批判一辺倒のわたしの作品への批判だったのだろう、としている。そして、わたしは「通夜」の内容について、もう一度父の人生によりそってみようという気にさせたのである。これが、「四十年後の通夜」のモチーフである。

 生活保護をみずから打ち切ったことに対して、「父の誇りではなかったか」という点についていえば、私(評者)は同意することはできない。それでは、生活保護を受給している人は、誇りをもって生きてゆけないのか、ということになる。それは生活保護だけに限らない。

 障害者年金や遺族年金、その他の年金についても、それを受給することは、人間の誇りを失うことになるというのだろうか。障害者年金にしても生活保護にしても、その性格がどれほど違うというのだろうか。ではいったい、人間裁判をたたかった朝日茂はどういうことになるのだろうか。彼は人間の誇りを失うどころか、人間の尊厳、誇りをかけてたたかい、生き抜いてきたのではないのだろうか。

 この作品にはこうした問題をかかえているとしても、父の人間像を深く掘り下げた作品として評価できる。「民主文学」9月号には、6編の短編小説が掲載されているが、この作品がもっとも印象に残る作品である。6編の最後に、小説らしい小説に出会えたという感じがする。それぞれに、人間に迫ろうと努力しているが、この作品のような深さはみられなかった。

 「子供たちに会わせておいた方が良い」、医者から言われたと、母から電話があった。父の心臓は階段を上れないくらいに弱ってしまっていた。それでも、父は医者にかかろうとしなかった。売薬の「救心」を飲んでいた。わたしが実家に駆けつけたときには、父は6畳間に横になっていた。しかし、わたしは父の布団のわきに胡坐をかいて、父と向かい合っても一言もしゃべらなかった。ここに、主人公と父の距離、確執というようなものがあらわれている。

 父は「兵隊に取られて『満州』で肋膜、そして結核」になり、日本に帰還させられたのであった。父は高等小学校を出て上京し、神田で洋服仕立の弟子になり修行を積んで、洋服仕立職人になったのである。当時の父は四十歳前後で働き盛り。これからというとき、血を吐き入院を余儀なくされ、生活保護を受ける生活になった。

 弟は学校で草履袋をもらってきたが、それは生活保護家庭だけに支給されたのだ。父はそれに屈辱を感じたと、言葉がもつれるほどに力を入れて話す。それで、父は「これじゃいかん」と思って病院を出てきたのだ。そして、生活保護を返上したのである。わたしは、「これは父の誇りではなかったか」というメモを読み直し、小説を読み直してみると父の受けた「屈辱」の深さに、わたしの目が届いていないことを感じる、と作者は書いている。

 見舞った日の翌日、父の危篤の電話が母からあって、わたしは家族とともに、実家に戻った。が、臨終には間に合わなかった。父は布団の上ではなく、六畳と四畳の敷居の上に突っ伏して亡くなっていたそうだ。生活保護を返上した父を、私(評者)はせめるわけではない。それも、父という人間像を浮かび上がらせるうえで、大きな役割を負っている。

 この小説で、少し物足りないのは、わたしと父の距離、確執といったものがどこから生まれたのかということである。それが描かれていなくて、惜しまれる作品である。



‘14年ささやき日記 「太陽のない夏」

2014(H26)年8月19日(火) 曇り時々晴れ

   タイトル 「太陽のない夏」

 8月に入って、ほとんど陽射しというものを見たことがない。毎日、曇りか雨の日が連続している。今週の末までの予報を見ても、晴れマークはついていない。

 したがって、私は今月になって一度もゴルフの練習に行っていない。ゴルフの練習といえども、青い空が欲しい。その中を白いゴルフボールが飛ぶ爽快感を味わいたいと思う。

 戦前、徳永直の「太陽のない街」という小説が話題になったが、今年の夏は、まさに「太陽のない夏」である。異常気象というほかない天候がつづいている。

 気象予報士の話によると、すでに日本列島の上空に秋雨前線がかかっているということだ。前線は、北からの冷たい空気と南からの暖かい空気が、ぶつかったところにできる。

 暖かい空気は、冷たい空気より軽いので、二つがぶつかると上昇気流が発生して、雲ができ雨を降らすということである。今年は「太陽のない街」ならぬ「太陽のない夏」になりそうな気配である。



‘14年夢日記 「『ポスター』を読む」

2014(H26)年8月19日(火) 曇り時々晴れ

   タイトル 「『ポスター』を読む」

 「ポスター」は、「民主文学」9月号に載っている短編小説で、加藤節子の作品である。ポスターというのは、2011年3月下旬、東日本大震災支援活動の支援物資として、百台の自転車を積み込んだときの記念に撮った写真である。そのポスターには、主人公の香川直子、吉岡光子をはじめ、男女9名が写っている。

 この小説は、視点をもった香川直子の心理や行動を描くことではなく、吉岡光子の行動や性格を描くことで、その人間像に迫るというテーマである。直子は光子の人間像を浮き彫りにするという、視点を与えられているに過ぎない。光子は、京都南部の民主商工会の婦人部副部長を務めている。直子が婦人部長である。

 光子は、ポスターの左端に立って写っている。背が高く男性たちに引けをとらないので、目立っている。彼女は唇をきゅっと引き締め前方を見つめていた。真剣そのものの表情は、写真全体をも引き締めている。2011年3月26日土曜日に、支援物資搬送の準備に集まった。山積みされている自転車の中から、百台を選び東北へ送ろう、という活動である。

 左官業の夫の仕事を手伝っている光子は、自動車の運転も、荷物運びもなんでもこなすのだった。「一般道が通行可能になったら、東北へなと行けるわな。私らみたいな建設業者の手伝いが必要やと思うけどな。困っている時は、だれでもお互い助け合わなあかん」と、光子は言った。直子たちは自転車をトラックに積み込む作業に移った。

 直子は小柄で力仕事が苦手である。そのうえ、持病のリュウマチがあり、自転車1台運ぶのが精一杯だった。が、光子は大柄で背も高く、自転車を両脇に1台ずつ抱えて、さっさと運んでゆく。そして、作業は小一時間で終り、記念写真を撮ることになった。そのときに撮った写真が、ポスターになったのである。

 「私な、結婚する時に、両親に言い聞かされたんや。職人の嫁になるんやさかい、どんなにしんどうても、体を使うて、なんでもせんとあかん」と、光子はそれを心得ていて、よく働くのである。5月の連休明けに第2次の支援活動を行うと決め、野菜を送ることになった。その作業には、直子と光子たち6名の婦人部員が参加した。

 野菜は畑から収穫し、集荷場で洗って支援物資として送るのである。しかし、その作業が大変だった。直子たちは疲れてしまって、思うように動けない。が、光子だけは違った。野菜を誰よりも早く洗い、トレーに積み込むのもひょいひょいとやってのけた。「私な、新幹線の工事現場に、子どもを背負って、ひとりは手えを繋いでな、行ってたんや」と、光子は言った。

 支援活動は、第12次、13次と回を重ねていた。ところが、そんな光子だったが、2013年7月直子に電話が入った。光子の長男、光信からであった。「今朝、4時半に息を引き取りました」という、電話である。直子は言うべき言葉を失った。しばらく呼吸ができなかった。光子は、くも膜下出血で、救急車で病院に運ばれたが、駄目だったそうである。

 民主商工会の事務所には、入って左側のすぐ目につく所のホワイトボードに、あのポスターが貼ってある。それには、口をきゅっと結んで正面をまっすぐ見つめる光子の姿が写っていた。この小説では、光子の在りようが描かれているが、しかし光子の心の葛藤がないために、光子の人間像が平板になっているきらいがある。もっともっと深く、人間は描かれるべきだろうと思う。



‘14年ささやき日記 「孫たちの来訪」

2014(H26)年8月18日(月) 曇りのち晴れ

   タイトル 「孫たちの来訪」

 お盆に孫たちがやってきた。初日は、この村に最近できた、「喫茶店に行って見たい」というので、妻が連れて行った。レモンスカッシュとケーキを注文したということだった。

 この孫は長男の長女と二女のふたりである。長女は中学三年生、二女は一年生だ。わが家から歩いて10分ほどのところに住んでいるのに、なかなか会うことができない。

 わが家は二世帯住宅のつくりで、以前はこの孫たちも一緒に住んでいた。が、5、6年前に新たに家を建てて長男たちは出ていった。いまは妻と私が暮らしているだけである。

 孫たちは一泊して帰っていったが、やはり若いということはいいことである。中学生になっているので、幼い時のような遊びも騒ぐということもなかったけれど、若い息吹を感じることができた。

 長女はもう高校の受験であり、自身の生き方を懸命に探している。保育士の夢をもっているようで、それに向かって歩みつつある。孫たちの夢が叶うように、祈らずにはいられない。



‘14年夢日記 「『ポニー教室』を読む」

2014(H26)年8月18日(月) 曇りのち晴れ

  タイトル 「『ポニー教室』を読む」

 「ポニー教室」は、「民主文学」9月号に掲載された短編小説で、東喜啓の作品である。ポニー教室を運営する会社は、封建的な職場で、そのなかで子どもたちの成長と、生き甲斐を求めて働く職員の姿を描いている。こんなひどい職場があるのか、という疑問が浮ばないわけではないが、そこを舞台にして話は展開される。

 ポニー教室といっても、私もすぐには理解できなかったけれど、読み進んでゆくうちに明らかになってくる。辞書で調べてみると、「ポニー」とは、小形のウマの総称とある。作品の中でも、ポニーの定義がされている。つまり、「ポニーとは」体高147センチ以下の小型馬のことである、と記されている。

 教室では、六頭のポニーを飼育しながら、七人の職員が勤務し、50人ほどの子どもたちを指導している。主人公は、木村智弘で社会人になって三年目の22歳である。小学生、中学生を対象にした「ポニー教室」の指導員だ。ポニー乗馬を通して、動物を愛する優しい心を育ててほしい、というのが教室の理念である。

 木村は小学二年生の笹山剛の指導を終えると、次は前島優太であった。剛はうまくポニーを乗りこなすが、優太はなかなか上達しなかった。小学校三年生の優太は、教室に通い始めて二カ月がたとうとしているが、未だに自力でポニーに乗れないでいる。その指導に、今日は木村が当たったが、いつもは松本善二が指導している。優太は今日も自力でポニーに乗れなかった。

 木村と松本は気が合う職員仲間である。松本は二歳上だが、ともに動物好きで子どもの頃、互いにリスを飼育していたというのも共通している。木村は実直で思ったことは口に出すタイプである。一方松本は温厚で口数も少なく、性格も正反対だ、それがふたりを結びつけているようだった。

 この会社は、十年前に起業して着実に実績を伸ばし、今では関東地方に十数の教室をもつにいたっている。会社は、「ある程度の乗馬技術が身につけば、必ず正職員になれる」と、明言してきた。ところが、木村は会社の定める乗馬技術六つを習得していたが、依然として契約職員のままだ。契約更新のたびに、正職員にするように要求するのだが、それは認められないでいる。

 同期の十数人は、全員契約職員で入ったが、乗馬技術を習得しても正職員になれないので、木村を残して全員辞めていった。松本も正職員をめざして、木村に乗馬技術を教わっていた。そんな折、所長の山沢が松本を呼んだ。そして、「これから腕立て伏せを50回やろうぜ。できなければ坊主な」と言った。教育係の木村も一緒にやれという指示が出た。木村は50回できたが、松本はできなかった。

 松本は坊主になることになったが、木村も抗議すると、「お前も坊主になるか」といわれて、彼は「おう、そうしてくれ」と、言い放った。このような、封建的な態度を取るのは、二人を契約職員のまま退職に追い込むことだ、と木村は理解していた。このことで、松本は心も身体も大きな痛手を受けていた。帰りに居酒屋に寄ったとき、松本は顔をテーブルに伏せて「助けて、助けて」と、声をあげるのだった。

 ポニー教室で、あれだけ苦労していた優太が、自力で馬に乗れるようになった。優太は、松本に「ありがとう」と伝えて欲しい、と木村に言った。木村は松本を励ます一心で、彼にメールを送った。松本は、それがきっかけだったのだろうか、意欲的に乗馬技術の習得に励むようになった。

 振り落とされても振り落とされても、松本は懸命に、練習に取り組んだ。木村は、その姿に何かが変わったと思った。この作品は、いわゆるブラック企業といわれるような職場であるけれども、子どもたちの成長を見守るなかで、職員自身が「生きる力」を得て、ふたたび歩み出すという姿を描いている。そこに、若者たちの希望を見出す作品となっている。



‘14年ささやき日記 「年金生活者の悲哀」

2014(H26)年8月17日(日) 曇り時々雨

   タイトル 「年金生活者の悲哀」

 8月15日は、年金支給日であった。2カ月に1回、偶数月に支給される。わが家では夫婦の年金を合わせて、やっとの生活で、綱渡りのような日々である。

 その中から、わずかな貯金はしているが、それは病気や家財道具の消耗に備えてのものだ。エアコン、ガスコンロ、風呂のボイラー、車などの故障を考慮しているからである。

 年金収入は、減ることはあっても増えることはない。実際、去年と今年、合わせて1.7%の減額となった。さらに、来年4月に0.5%の減額が予定されている。

 物価スライドのためというけれど、今年4月からの消費税増税や物価の値上げは、ほんとうに年金に反映されるのだろうか。容易に年金への上乗せはされないに違いない。

 年金生活者で、余裕を持って暮らしている人がいないわけではない。しかし、大半の人は、薄氷をふむような思いで暮らしている。まさに、「悲哀」を味わいながらの日々である。



‘14年夢日記 「『掲示板』を読む」

2014(H26)年8月17日(日) 曇り時々雨

   タイトル 「『掲示板』を読む」

 この短編小説は、「民主文学」9月号に掲載された、里村徹の作品である。彼は作品の末尾に、作者紹介が出ているので「民主文学」初登場の新人である。新人と言っても、1938年生まれなので今年76歳だ。文学をやるのに年齢は関係ない。この作品も内容、文章とも若々しくて、「いい仕事をしたなァ」という思いである。

 この作品は、この時代の諸相を鋭く切り取っており、今日的テーマに迫っている。掲示板というのは、日本共産党の掲示板のことである。主人公の相生(あいおい)進は、自宅の家の壁に掲示板を設置し、ポスターや写真ニュースを貼っている。ところが、二男の純二が正月に帰省してきて、「親父、あの掲示板そろそろ外してもいいのやないか」といったのである。

 進は、掲示板を設置してもう5年になる。それを、いま何故外さなければならないのか、という疑念をもった。しかしそれは、純二の仕事と大きく関係していた。彼は三星重工業の関連会社に勤めている。三星重工業は、武器もつくっている会社である。その三星からの指示があって、社員の適正評価調査が強まるということだ。

 それは、特定秘密保護法の影響であるらしい。この法律が施行されたら、社員の身辺の思想調査まで行われる、と純二はいうのである。それで、掲示板の撤去を進に打診してきたのだ。「親父のやってきたことが間違っているとは思っていない。でも、俺ら子どもはずいぶんいやな目にもあってきた。だから、今度は子どもの言うことを聞いて欲しい」という、純二の思いであった。

 進は、県立高校の工業科の教師を37年間勤めてきた。正月にその同窓会に招かれた。二次会の席で、自衛隊に勤める青木正一の話が出た。自衛隊はいま隊員に身上明細書を出させている、とのことである。交友関係の調査欄もあって、高校時代の友人のところに、地元の自動車販売会社に勤める川出の名前を書いたと言った。

 「さっき、俺の席に青木が来て、思いつめたような顔で、そやからお前、変なことに染まるなよ」と、川出は青木から言われた。また、この地域の「九条の会」が開かれ、その事務局長の新藤が次のように発言した。「うちの息子は国家公務員です。この法律が施行されると、国の秘密と特定された事柄を国家公務員が漏らすと逮捕・起訴されます」

 そして、息子は「お父さん、僕に変なことを聞くなよ、もし自分が秘密事項をしゃべると、大変なことになる、家族にだって駄目だからね」と、言うのだった。一方、純二は、4月から新しい部署に替わったということだった。戦車部門から自動車部品の製造部門になったのだ。が、彼は管理職を外されてしまった。しかし、妻の増美は、純二は「意外なくらいサバサバしていたわ」と言った。

 しばらくして、純二が夜、家に寄った。進が彼の気持ちを聞いてみたいと思ったから、誘ったのだった。「俺もよく考えたよ。戦車でなく自動車づくりに関わることが俺には一番向いていると気がついたんや。そう思うと管理職のことはどうでもよくなったよ。二月の終りに信頼している上司に申し出てようやく認めてもらった」、「まあ、自分本位なことで、小さな抵抗かもしれんけど、それが俺の選んだ道だよ」と、純二は言った。

 この小説は、政治小説の趣があるかもしれないが、しかし、現代という時代の在りようを真っ直ぐにみつめて、ひとつの文学世界を構築している。秘密保護法や集団的自衛権行使の問題が、一人ひとりの人間に影を落としているようすを、掬い上げて書いている。また、一人の人間の生き方として、純二の選び取った道は読者に爽やかな風を感じさせるものである。



‘14年ささやき日記 「墓参り」

2014(H26)年8月16日(土) 雨時々曇り

   タイトル 「墓参り」

 8月13日早朝、墓参りに出かけた。わが家から車で5分くらいのところに墓所がある。菩提寺の前に造成された霊園の中である。比較的大きな墓石を2基建立している。

 その墓には、両親と兄が眠っている。私は、それほど信仰心が厚いほうではなく、年4回墓参りをするだけである。春彼岸、お盆、秋彼岸、正月の計4回である。

 墓参りをすれば、やはり両親と兄のことが思い出される。両親は、戦中、戦後と貧困と食糧難に苦しんだようである。とくに父は、戦中に3度も徴兵されて、戦地に赴いていた。

 父の人生とはいったい何だったのだろうか。戦争で自由の身を奪われて、生きてきたような気がする。父は、92歳まで生きたが、「冬のひだまり」のような小さな幸せを感じたのは、晩年になってからのように思う。

 墓所にゆくと、タオルを濡らして、綺麗に墓石の汚れを落としてやる。そして、花を手向け、供物を供えて線香を焚く。父と母、兄に思いを馳せながら、手を合わす。それが、私の墓参りである。



‘14年夢日記 「『倉庫番』を読む」

2014(H26)年8月16日(土) 雨時々曇り

   タイトル 「『倉庫番』を読む」

 「倉庫番」は、「民主文学」9月号に掲載された短編小説だ。作者は、意欲的に小説を書きつづけている石井斉である。石井斉の作品は好きで、いままでほとんど読んできている。その作品のどれもが、統合失調症を患っている人物が主人公である。彼は根気強く統合失調症をモチーフ・テーマにして書いている。

 「倉庫番」も例にもれず、統合失調症の「僕」が主人公である。私も若い時、統合失調症のような症状が出たことがあるので、そのようすは少し分かる。また、いまブログで毎日、統合失調症の方の記事を読んでいるので、私にとっては比較的身近な問題である。だから、この「倉庫番」も興味を持って読むことができた。

 まず、作品の創り方からいうと、巧くなったなあという印象がある。「『青ちゃあん、元気』女性が、二十メートル先から僕の隣に座る青田昇一に手を振った」と、冒頭に書いている。そして、作品の結末近くで、「『青ちゃあん、元気』二十メートル先から紫色の女性がペンギンのように歩いてくるのが見えた」と書いている。

 これは、恋なのか友情なのかよく分からないが、最初と最後に、この「紫色の女性」を配している。また、「統合失調症を患う僕と青田は、仕事の昼休みに、百日紅がある道路の端の地面に座るのが習慣だった」と、小説の初めに書いている。そして、小説の結末はこうだ。「道路の端の百日紅が桃色に咲き誇っていた」、と結んでいる。

 このふたつの記述は、最初から計算されていたものかどうかは分からないが、これが小説の中で生きている。「巧い」と感ずるところである。さて、主人公の僕は、障害者の職場適応訓練制度で、青田と倉庫の整理や搬出、搬入の仕事をしている。厚生労働省の就労支援で一日2500円支給され、それとは別に南光製袋工業から2000円上乗せされる。つまり、一日4500円である。

 作品は、倉庫番の仕事を、リアルに描出しており、その仕事の在りようが非常によくわかる。ここで、その一つひとつを述べなくてもいいが、読者によく分かるように仕事の内容を、描き出す力量を感ずることができる。読者によく分からない職場風景を描いている作品もあるが、これは適切に書かれているということができるだろう。

 またこの作品は、人物の描き分け方がすぐれた小説である。とくに、僕と青田の人物像をくっきりと描き分けている。「青ちゃんはな、喋るのが苦手だけど、仕事はできるよ」と、営業の岩山がいうように、その人物像を浮き彫りにしている。「お、俺、喋るの苦手だろ。病気する前から人前だとあがっちゃって、まともに会話できないんだ。でも、よ、横山さんは何か弟みたいなんだ。お、俺、高校中退だし、家は貧乏だし、か、かっこいいわけでもない」と、みずから語っている。

 一方、僕(横山)は、喋るのにそんなに苦労するわけではないが、仕事では出社がいつも青田よりも遅い。仕事ができないというわけではないが、青田のほうが生真面目に仕事に取り組んでいる。しかし、精神障害者への差別や偏見に対しては、鋭い感覚を持ち合わせている。あるとき、大濃運輸の運転手が、青田を馬鹿にして、指示したところに荷物をおろさないことがあった。

 すると、横山(僕)は、烈しく憤って、大濃運輸の営業課長が会社にやってきた時、「あんた、あんたの会社の運転手は何だ。全然教育できてないじゃないか」と詰め寄った。「精神障害者を馬鹿にしやがって」という言葉は呑みこんだけれど、思いはその通りであった。これが、この小説の山場であり、テーマとも関わるところである。

 精神障害者への差別と偏見、それに対する横山(ぼく)の怒り、それを描いたところにこの小説の意義がある。そして、この小説に感心したのは、五感をよく働かせて書いていることだ。音、臭い、色彩、味覚などを描いて、リアリティーを膨らませている。今後が期待される若い作家である。



‘14年ささやき日記 「どことなく不安な時代」

2014(H26)年8月15日(金) 雨時々曇り

   タイトル 「どことなく不安な時代」

 8月15日は、69回目の終戦記念日である。私は戦争の体験はないが、その2年後に生まれており、いわゆる団塊の世代である。

 戦争は知らないが、戦後の貧困と食糧難の時代はよく憶えている。それが、自身の生き方のうえで、大きな影響を及ぼしているのを痛切に感じている。

 「八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁をめくったのであった」。これは、宮本百合子の「播州平野」の一節である。

 その頁とは、「戦争から平和へと向かう」という、歴史的瞬間を、百合子は見事に表現している。ところが、いまの社会と政治は、果たして平和への歩みをすすめているのだろうか。

 「秘密保護法」、「集団的自衛権行使」の問題など、戦争か平和の岐路に、いま日本は立たされているのではないのだろうか。「どことなく不安な時代」に、私たちは生きているように思う。



‘14年夢日記 「『チェルノブイリ・ヒロシマ』を読む」

2014(H26)年8月15日(金) 雨時々曇り

   タイトル 「『チェルノブイリ・ヒロシマ』を読む」

 これは、「民主文学」9月号の巻頭小説で、室崎和佳子の作品である。作品の最後に、作者紹介が載っているので、「民主文学」初登場の新人である。新人といっても、1948年生まれだから今年66歳だ。いわゆる団塊の世代である。民主文学会の札幌支部に所属しており、活発な創造・批評活動を展開している支部活動のなかで、有力な新人が生み出されたように思う。

 黒豚が道路に飛び出し、「運動会をしていたりする」とか、「地味な家屋にカラフルな塀が、最初はミスマッチにも見えた」とか、「はらわたが煮えくりかえった」という表現は、ありふれた言葉を使っていると思えたが、全体としては文章はたしかで、その力量がうかがえる作品である。

 2013年9月中旬、私(主人公)たち、つまり、女性3人と男性4人の一行7人は、チェルノブイリを訪ねた。それは、「チェルノブイリの子供を救おう会」の活動の一環であった。村の子どもたちに、セシウム137の排出促進剤である、ビタミネペクトを配るためである。

 この作品の重要な問題は、チェルノブイリとヒロシマがどう結びつくか、それが文学としてどのように描かれるかということである。私(評者)もそこに大きな関心をもって読み進んでいった。しかし、作者はその問題をモチーフ・テーマとしていたためか、その二つの街を巧みに関連づけて、読者にチェルノブイリの問題を日本人の問題として考えさせることに成功している。

 とかく、チェルノブイリというと、外国のこと、ロシアのこととして、関心が薄いという傾向がある。私も例にもれず、チェルノブイリというと、どこか他人事(ひとごと)、他所事(よそごと)という、意識が少なからずある。そのチエルのブイリを、ぐっと引き寄せ、日本人、わが事の問題として描き出した点に、この作品の大きな意味がある。

 主人公には、父が違う妹弟がいるが、その弟である誠は、50歳で脳梗塞の発作を起こし、翌年2度目の発作を起こし、自立した生活が困難になっている。また、妹は子宮体ガンに罹り、手術をして一時回復したように見えたが、その後全身に転移して、5カ月前に亡くなった。

 「姉ちゃんだけだね、元気なの。私も誠も、こんなになってしまって」と、妹は繰り返し私に言っていた。実は、ここで、チェルノブイリとヒロシマが結びつくのである。つまり、義父は被爆者であり、彼女たちは被爆2世なのだ。義父は勤め先の造船所へ行こうとして、下宿の部屋から玄関に向かっていた。そのとき、被爆したのである。

 ただ、この作品の中で、「壊れた下宿の下敷きになって身動きできなかった。下敷きになったから、ピカの光が当たらなかったんだと思う」という表現があるが、これはほうとうに正しいのだろうか。家が壊れるのが先で、それからピカの光がくるものだろうか。光の方が先で、それから家が崩れるのではないのか。これは大きな疑問であるし、作者の認識が違っているように思えてならない。

 それはさておき、被爆2世で妹はガンになった。そして死んだ。が、医学的に妹のガンが被爆2世によるものであるかどうかは、解明されないけれども、その可能性は否定できない。それによって、チェルノブイリを、この作品はぐっと読者の側に引き寄せているのである。「フクシマ」のことは、この作品で触れられていないけれども、放射能の恐ろしさをこの作品は告発している。

 それは、チェルノブイリの実態を克明に、この作品は描いているので、その恐ろしさがリアルに伝わってくる。リアルすぎて私は、その模様をふたたびここで再現することをしなかった。しかし、チェルノブイリは、いまもなお苦しみの渦中にある。放射能の時間的・空間的・社会的な広がりと深さ、その恐ろしさを文学的に表現した作品である。



‘14年ささやき日記 「なくてはならない音楽!」

2014(H26)年8月14日(木) 曇り

   タイトル 「なくてはならない音楽!」

 私の人生の今までも、これからもなくてはならないものは、「音楽と小説」である。私はほとんどテレビを観ない。それに替わるものが、「音楽と小説」である。

 本もそうだが、音楽がなければ、「夜も日も明けず」という日常を過ごしている。が、クラシックを聴くように、かしこまって聴くわけではない。

 私の「人生のとなり」にあってくれればいいので、朝食を摂るときとか、書きものをしているときとかにそれが流れていて欲しい。寝る前の歯磨きのときなどにも音楽が欲しい。

 音楽と言ったって、いろいろあるが私は、日常はクラシックや演歌はほとんど聴かない。聴くのは、フォークソングとポップスである。

 ちょっと挙げてみると、松任谷由美、中島みゆき、山崎ハコ、南こうせつ、伊勢正三、さだまさし、イルカ、沢田知可子、夏川りみ、斉藤由貴などである。音楽もまた、「わが人生の伴侶」である。



‘14年夢日記 「『寅次郎と殿様』を観る」

2014(H26)年8月14日(木) 曇り

   タイトル 「『寅次郎と殿様』を観る」

 「寅次郎と殿様」は、「男はつらいよ」シリーズの19作目である。今回はとくに、嵐寛寿郎を迎え個性の強い人間像(老人)を描き出しているのが印象的である。その老人というのは、伊予大洲の殿様の子孫で、藤堂久宗という。マドンナは鞠子(まりこ・真野響子)といって、殿様の末の息子と結婚していた。が、その息子は亡くなって、いま鞠子は独り身である。

 さて、寅さんは久し振りに「とらや」へ帰ってくる。甥の満男にといって、みやげにおもちゃの鯉のぼりを買ってくる。しかし、「とらや」の人たちは大慌てである。それは、本物の鯉のぼりを裏に上げて泳がせているからだ。寅さんの心持ちを考えると、なんとしても本物の鯉のぼりを見せるわけにはいかない。

 博は、慌てて鯉のぼりを柱から降ろす。他のみんなは寅さんが裏庭にいかないように、何かと気をつかう。寅さんは「なんかおかしいなあ」と感じている。そして、鯉のぼりを降ろしたもののそれを見つかってしまう。「なんで鯉のぼりを買っていると言ってくれなかったんだ」と怒り出す。

 また、悪いことに、犬をもらって飼っていたのだが、その犬の名前に「トラ」とつけていた。社長が、犬に向かって「トラ、トラ」と叱りつけている。それを聞いた寅さんは、怒り出す。社長と寅さんの喧嘩が始まる。すると、おいちゃんが、「お前はまるで野良犬じゃないか」という言葉を投げつける。寅さんは、「それをいっちゃおしめえよ」と言って、旅へ出てゆく。

 寅さんは、伊予大洲の旅館に泊まっている。そこへ鞠子が現れる。鞠子はひとり旅でどこか淋しげな雰囲気を漂わせている。寅さんは鞠子に鮎をご馳走する。そして、寅さんがホタルを見つけて、隣の鞠子に声をかける。鞠子もホタルを眺める、そんな出会いだった。翌朝、寅さんはひとりの老人と出会う。寅さんが落とした500円を拾ってくれたのである。それが殿様であった。町の人が丁寧にあいさつを交わすのを、寅さんは不思議がっていたのである。

 殿様はすっかり寅さんを気に入り「粗餐(そさん)」を差し上げたい」と言って、わが家に招くのである。殿様は、大きな屋敷に住んでいた。執事(三木のり平)もかかえている。寅さんが東京の人間だと知ると、鞠子を知らんかね、という。鞠子は末の息子の嫁だった。その結婚に殿様は、身分が違うと言って反対したのである。しかし、殿様は鞠子に会ってみたいという。

 寅さんに探してくれるように依頼する。寅さんは東京に帰って、鞠子探しをするが見つからない。ほとほと弱っていたところへ鞠子が現れる。寅さんは鞠子に招かれて、彼女の家にゆく。公団住宅の2DKだった。そこには、死んだ夫の写真が飾ってあった。そんな折、大洲から藤堂家の執事がやってくる。手には殿様の手紙を携えていた。その手紙は文語調で書かれており、博が読んでその内容を「とらや」のみんなに伝える。

 その手紙には、二つの用件が綴られていた。一つは、鞠子に大洲へ来て欲しい。二つは、鞠子と寅さんが結婚して欲しい、旨が書かれていた。さくらはその用件を持って、鞠子を訪ねる。しかし、鞠子は、「私、会社の人と結婚しようと思っているの」と言って、父に断って欲しい旨をさくらに伝える。

 それを聞いた寅さんは、傷心のため2階で横になる。また、寅さんは振られたのである。殿様の夢も寅さんの夢も、一瞬にしてパアーと消えてしまった。寅さんは、鞠子にひとめ惚れしたが、振られてしまう。なんともの哀しいことだろう。失恋とは切ないものである。この映画は、その人間の哀しさを描いている。寅さんは、また傷心の旅に出るのである。



‘14年ささやき日記 「映画っていいなあ!」

2014(H26)年8月13日(水) 晴れ時々曇り

   タイトル 「映画っていいなあ!」

 山田洋次監督の映画10本を、ホームシアターで観た。「男はつらいよ」シリーズを6本と、あとは、「息子」、「学校」、「同胞(はらから)」、「キネマの天地」である。

 私は「小津安二郎」、「黒澤明」、「野村芳太郎」、「木下恵介」の作品も好きだが、「山田洋次」の作品もまた、負けず劣らず好きである。

 洋画もまたいい。「自転車泥棒」、「鉄道員」、「ひまわり」、「カサブランカ」、「ローマの休日」「チャップリンの作品」などなど、が印象に残っているし、何回も観ている。

 これらの作品がいいと思うのは、時代背景や社会背景をきちんと描いていることである。が、それだけでは芸術作品にはならない。そこに、生きた人間が描かれていなければならない。

 いま挙げた監督や作品は、時代と社会背景をきちんと描いており、なおかつ人間をリアルに描いている。そして観るものに、「生きるとは、人生とは?」を鋭く問いかけている。「映画っていいなあ!」と思う。



‘14年夢日記 「『寅次郎紅の花』を観る」

2014(H26)年8月13日(水) 晴れ時々曇り

   タイトル 「『寅次郎紅の花』を観る」

 「寅次郎紅の花」は、「男はつらいよ」シリーズの第48作目であり、最終作となった作品である。この作品を観て、まず感じることは、いままでの寅さんと違って、勢いというか覇気が伝わってこないということだ。どこか痛々しいというのを痛切に感じる作品である。あとで調べたら、この頃渥美清は肝臓の「がん」が、肺にまで転移していたということである。

 たしかに、寅さんはほとんど座ったり、横になったりする場面が多く、そのことがうなずける。また、あれほど歯切れのよいセリフも弱々しく、どこか影の薄い寅さんであったような気がする。「もう出演は不可能」と診断されていたが、無理を押して出演していたらしい。主治医によると、出演できたのは「奇跡に近い」とのことである。

 この映画は、寅さんだけではなく、「寅さんとリリー(浅丘ルリ子)」、「満男と泉(後藤久美子)」のふたつの恋に焦点をあてている作品である。さて冒頭、「寅 みんな心配しています。連絡下さい。 さくら」という、新聞の尋ね人欄に広告が出た場面から始まる。ところが、「くるまや」の面々が、心配しながら何気なくテレビを見ていると、阪神・淡路大震災の模様が映し出される。

 そのボランティアの中に寅さんがいたのである。やがて、神戸から客(パン屋)がやってきて、あのときには寅さんにえらい世話になった、というのである。やはり、テレビに映っていたのは、寅さんに間違いないということが分かった。そんなとき、満男の恋人だった泉が現れる。さくらの家に泊まることになり、その夜は夕食を共にし、満男と泉はサイクリングに出かける。

 泉は、満男に「結婚しようかと思っている」と告げるのである。泉はそこで何か満男に言って欲しいというのがよく分かるが、満男は素っ気ない。泉は医者の卵と見合いをし、将来は岡山県の津山市で医院を継ぐことになるというが、満男は「良かったじゃないか、何も僕に気をつかわなくてもいいのに」と、寅さんを彷彿とさせる。

 しかし、満男は違っていた。泉の結婚式の当日、津山に出向き、花嫁行列の車の列に車を乗り入れる。津山では、花嫁の乗る車は、1センチでも後退したら「出戻りといって、縁起が悪い」とされている。が、満男は、花嫁の車にぶつけ、車を後退させて大騒ぎになる。それで、結婚式も披露宴も中止になる。泉の結婚は白紙に戻るのだ。

 満男は、津山から鹿児島県奄美群島加計呂麻島へと旅をつづけ、偶然リリーと会う。リリーは、幼いときの満男は知っているが、大人になった満男の判別はつかない。しょげた顔をしている満男を、リリーはほっておくわけにはいかない。そこで、自分の家へ満男を連れて帰る。すると、なんとそこには、寅さんがいるではないか。ふたりともびっくりする。

 満男はこの島にきたいきさつを語り、「今の自分がみじめになって、後悔している」と話す。そこで、寅さんとリリーの意見が対立する。寅さんは「男っていうものは、引き際が肝心なんだよ」と満男を諭す。が、リリーは、「恋なんてきれいごとじゃない。カッコ悪くても想いを伝えるべきだ」という。それは、満男への励ましの言葉であると同時に、「きれいごとで恋を済まそうとする」寅さんへの怒りでもある。

 やがて、泉が島にやってくる。満男は砂浜で遊んでいた。泉は砂浜を歩んでいって、「なぜ、あんなことをしたの。訳を言ってよ」と詰め寄る。満男は、はっきりと、「愛しているからだよ」と、泉に告げる。そのあと、寅さんとリリーは「くるまや」に帰ってくる。満男は、名古屋へ泉を送っていった。

 しかし、寅さんとリリーは喧嘩をし、リリーは帰ると言い出した。リリーは寅さんのもとを去る。が、寅さんはリリーを送ってゆくという。「どこまで送ってくれるんですか」と、リリーが尋ねると、「男が送るってことは、家まで送ることだ」と、寅さんは言って、奄美大島まで送ることになる。

 が、リリーから手紙がき、寅さんと喧嘩をして、彼は置手紙をしていなくなった、と書いてあった。リリーは「振られたの」と言った。寅さんは、神戸に降り立ち、パン屋の夫婦に会うところでこの物語は閉じられている。この映画は、寅さんの恋の別れ際のいさぎよさと、満男の多少カッコ悪くても、自身の想いを通す、ふたつの恋が描かれている。

 どちらの恋がいいかという問題ではない。男と女の恋の在りようの複雑さを、この映画は描いたのではないのだろうか。満男の恋の在りようは、はっきりしているが、寅さんの恋は、余韻がある。そこはかとない、もの哀しさがある。そこで観客は、自身を寅さんに寄り添わして、恋を、人生を考えることになる。それが「男はつらいよ」シリーズのテーマだったはずだ。寅さんは、最終作まで、その生き方をつらぬいたのである。



‘14年ささやき日記 「忘れ得ぬ人」

2014(H26)年8月12日(火) 晴れ時々曇り

   タイトル 「忘れ得ぬ人」

 現在の私をもっとも見てもらいたい人は、すでに鬼籍に入っている。彼がいなかったら、多分いまの自分はないだろう。

 私を小説の世界へと導いてくれた人である。それまで、私は詩を書いていた。あるとき、私に「小説を書いてみないか」と、声をかけてくれたのである。

 それから私は小説を書くようになった。まったくの素人だった。原稿用紙の使い方も知らないほどだった。それが、「短編小説集」を出すことができるまでになった。

 彼のおかげである。彼はアルコール依存症だった。昼ひなかでも、酒が手放せなかった。が、いい人だった。優しくて、教養の高い人だった。彼が早世しなければ、私はもっと違った生き方をしていたかも知れない。私にとって、「忘れ得ぬ人」である。



‘14年夢日記 「『寅次郎サラダ記念日』を観る」

2014(H26)年8月12日(火) 晴れ時々曇り

   タイトル 「『寅次郎サラダ記念日』を観る」

 「寅次郎サラダ記念日」は、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズの第40作目である。俵万智のベストセラー「サラダ記念日」を原作としている。随所に、短歌がスクリーンに映し出され、短歌文学の香りを味わうことができる。「『愛してる』なんてカンチューハイ2本で言えるならこんなに苦労しねってことよ」。この短歌はポスターに刷り込まれている。

 また、「寅さんが『この味いいね』と言ったから師走六日はサラダ記念日」と、映し出される。まさに、寅さんにしてみれば、「カンチューハイ2本」で、「愛してる」なんて言えたなら、こんなに苦労しないですむ。今回もまた、マドンナの真知子(三田佳子)に恋をしながら、その想いを伝えられない寅さんがいる。

 私はこの映画を観終わったあと、その余韻にひたりながら、なんとなく「よりよく生きたいなァ」という想いが沸いてきた。随所で私は大声で笑いながらこの映画を観た。そこに喜劇としての面目躍如といった感があるが、しかしこの映画は、単なる喜劇で終わることがない。つまり、人生について、人の生き方について、考えさせる力をこの映画は持っているのだ。

 すぐれた芸術作品が、「人の人生を変えてしまう」ほどの力をもっていることは、よく知られたことである。この「寅次郎サラダ記念日」もまた、人に人生を考えさせる、そんな魅力ある作品である。山田監督にしても、映画を観ることによって、「よーし、明日からよりよく生きてみたい」と思ってもらえたら、これに勝るものはないだろう。

 この映画は、寅さんが婆ちゃん(鈴木光枝)に出会うところから始まる。婆ちゃんは、「あんたおかしな人だねえ」といって、「オラのうちさ、泊まってゆきねえ」ということになる。翌朝、真知子が婆ちゃんを迎えにくる。真知子は小諸病院の女医である。ここで、寅さんはマドンナに会うことになる。婆ちゃんは入院などしたくない、死ぬならわが家でと言い張る。

 真知子がいくらいっても、納得しなかったが、寅さんの勧めでやっと婆ちゃんは病院へいくことを承諾する。婆ちゃんは入院するが、もう末期である。真知子は、ほんとうに末期患者を入院させることが、正しい医療のあり方だろうか、と悩んでいる。真知子は、旦那と死に別れている。寅さんと話していて、「面白い方」、「うちへいらっしゃいません?」と真知子は誘う。

 寅さんは、もちろん真知子に一目ぼれだが、真知子もまた、「気の置けない寅さん」に想いを寄せる。寅さんは、女のひとり暮らしだからと言って、早々に真知子の家を辞す。真知子は「あなたのような方に会えて良かったわ」と言って、送り出す。姪の由紀(三田寛子)は、真知子が「寅さんに恋してるのよ」と、寅さんに告げる。

 寅さんが「くるまや」へ帰っていると、東京の実家へ帰っていた真知子はそれを知って、「お会いしたいわ」という。そして、日曜日に真知子は「くるまや」へやってくる。そこで、真知子は、「寅さんといると、どうしてこんなに楽しいのかなァ」、「寅さんといると、ひとりの女だということを思い出すの」と、繰り返し、寅さんに恋心を伝える。

 しばらくして、小諸から婆さん危篤という知らせが入る。真知子からの電話だった。「婆ちゃんがしきりに寅さんに会いたがってる」と伝える。寅さんは急ぎ信州へと旅立ったが、間に合わなかった。寅さんが病院へついたときには、婆ちゃんは亡くなっていた。真知子は、ずいぶん落ち込んでいる。

 婆ちゃんが、あれほど「家で死なせて欲しい」と言っていたのに、無理やり病院へ入院させたことを後悔していた。病院の廊下で、真知子は涙を流すのだった。しかし、寅さんは葬儀を終えると、そそくさと帰るという。真知子の想いを振り切るように寅さんは、旅立ってゆく。

 真知子の悩みを受けとめることのできない自分、真知子には、そんな悩みに答えられる人が必要だ、と寅さんは思いこみ、みずから身を引く。お互いに好きなのに一緒になれない、哀しい恋である。喜劇でありながら、喜劇でない奥の深さがこの映画にはある。まさに「ものの哀れ」である。この映画もまた、もの哀しい余韻を残す、すぐれた映画である。



‘14年ささやき日記 「ちょっといい話」

2014(H26)年8月11日(月) 晴れ時々曇り

   タイトル 「ちょっといい話」

 ガソリンスタンドに入って給油した。ガソリンが高い。私は割引のカードをもっているので、少し安くなる。それでも、1リットル当たり163円である。

 昨年は、1リットル当たり147円だった。16円も高くなっている。すこし、イライラした気分で、国道に出ようと思ったら、車が渋滞してまったく出られない。

 スキを見て出ようと思うのだが、軽自動車や乗用車は、「入れてやるものか」とばかりに、突っ込んでくる。私のイライラはつのる一方である。

 そんな折、大型トラックの運転手が車を停めて、右手を盛んに振っている。顔を見ると、無精ひげをはやして、怖そうな顔をしている。「早く出ろ!」という合図である。私は右手をあげ、頭をさげて国道に出た。

 一見、怖そうな大型トラックの運転手の、優しい心に触れて、私の胸は一陣の風が吹いたように、さわやかな心持ちになった。



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 1947年生まれの70歳で、
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 ゆきたいと思います。
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 名前は「千春」ですが、男性です。

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