‘14年夢日記 「6月を回顧する」

2014(H26)年6月30日(月) 晴れのち曇り

   タイトル 「6月を回顧する」

 6月はどんな日々を過ごしてきたのだろうか。私にとっては、暑いというよりも好きな季節なので、自然と親しみながら暮らしてきたといえると思う。田圃に水が引かれ、田植えが行われた。木々には果実が実り、枇杷(びわ)や梅の実の収穫があった。立葵(たちあおい)や合歓(ねむ)の花が開いた。散歩の道々でこれらの花々や果樹と触れ合ったことが印象的である。

 「自分で自分をほめたいと思います」と言ったのは、マラソン選手の有森裕子だったけれど、その言葉を私にも贈りたい。もちろん彼女の言葉と私のそれとは、重さが全然違うけれども、が、あえて「自分を褒めてあげたい」と思う。それは、「コーヒー革命」が成功したということである。

 私はコーヒー依存症に陥っていた。アルコール、煙草、ギャンブルと同様な依存症である。終日、コーヒーがなければ過ごせなかったので、「コーヒー革命」に挑戦したのだった。それは何よりも、歯の健康と身体の健康を案じてのものである。つらい一カ月であった。禁断症状も出てきた。本を読んでも集中できない。精神が宙を漂っているようだった。それを克服して、一日一本の缶コーヒーで済ますことができるようになったのである。

 倉敷民商事件の小原、須増さんの第二回公判に傍聴に出掛け、「民商弾圧」の本質がますますはっきりと浮き彫りにされた。それは、ふたりの勾留が逮捕・起訴されて四カ月になるというのに、いまだに釈放がなされないということだ。ふたりは、黙秘・否認でたたかっている。それを「みせしめ的な勾留」によって、身柄を拘束されている。一日も早い釈放が求められている。

 6月でブログの記事が、四百字詰め原稿用紙にして約500枚に達したということも忘れ難いことだ。一日三枚、180日で約500枚になる。500枚といえば、一冊の本が十分創れるということである。私の「磯の光景」という短編小説集が約四百枚だったので、それ以上の厚い本ができる。ブログの記事のモチーフに困ることがあるけれども、現在のところ愉しみながら、原稿用紙に向かっている。

 読書は十冊以上読むことができた。「書くことと読むこと」は私の愉しみなので、それをやれたことはこのうえないことだった。年間百冊くらい読むことができれば、私の願いに叶う。が、それはいま小説を書いていないから読めるのであって、小説を書き始めたら、基本的に本から離れることになる。はやく、小説のテーマと題材を見つけて、書き始めなければと気持は焦っている。

 最後に記したいと思うのは、ゴルフの練習である。ゴルフを5月に再開して、週一回、打ちっ放しのゴルフ練習場に通っている。これがじつに愉しい。週一回のビールの日と週一回のゴルフの日は、私の人生に彩りを添えるものである。ゴルフの練習は毎回、その日の課題をもってやっている。空に向かって飛んでゆく白球をみていると、心のもやもやが解けてゆく。しばらくゴルフとつきあってゆきたい。

 このように6月も大過なく過ごすことができた。ただ、社会の動きは憂うつなことが多い。「消費税は上げます。法人税は下げましょう。年金支給額は下げます。受け取り開始年齢は上げます。残業代は払わないですむようにします。不安定雇用は拡大します」という、「骨太の方針」と新成長戦略には、心が痛む。が、いつまでも国民は沈黙しているだけで終わらない。いつか必ずその怒りが噴き上げるときがくるに違いない。



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‘14年夢日記 「2014年上半期について」

2014(H26)年6月29日(日) 晴れ時々曇り

   タイトル 「2014年上半期について」

 2014年の上半期もまもなく終わろうとしている。が、それはどんな日々で、どんな半年だったのだろうか。パソコンを立ち上げて、原稿用紙の前に座っても何も浮かんでこない。それだけ印象の薄い半年だったのかも知れない。そこで、デスクトップの「出来事」というフォルダーを開いてみたら、決してそんなことはなかった。

 半年の間にさまざまなことが起こっていた。ファイルを眺めていたら、そのときの事件や現象が鮮やかに甦ってくる。まず思い出されるのは、何といっても「倉敷民商事件」である。1月に倉敷民商事務局員の禰屋(ねや)町子さんが、法人税法違反で逮捕される。2月には、小原淳事務局長と須増和悦事務局次長のふたりが、税理士法違反で逮捕された。

 それぞれ起訴され公判が始まっているが、三人はいまだに勾留されて岡山刑務所に拘束されている。この事件の本質は、禰屋さんは冤罪(えんざい)、そして税理士法違反というのは、倉敷民商への弾圧である。このたたかいは、長期にわたると思われるが、民主主義を守るという視座をもって支援をしてゆきたい。

 ふたつには、4月から消費税が5%から8%へと増税されたことである。私たち年金生活者にとっては、これからも収入が減りつづける傾向がある中での増税なので、財布は悲鳴を上げている。来年には10%への増税が予定されているだけではなく、将来的には10%後半の税率がもくろまれている。いま、怒りの声を挙げなければ、大増税時代が到来するだろう。

 みっつには、私の歯が溶けるという事態が発生したことである。歯茎が腫(は)れてきたので、歯科医院へ出向くと、医師が「鬼藤さん、歯が溶けてるよ」と告げた。いささか衝撃だった。それが原因で歯茎が炎症を起こしている。歯茎の膿(うみ)と腫れは2回の治療でおさまったけれど、根本的に治癒したというわけではない。

 歯が溶けるのは、私が終日コーヒーを飲んでいるためである。そこで、「コーヒー革命」を行うことを決めて、いまもそのさなかにある。つまり、コーヒーを飲むのは、朝、新聞を読むときと、ものを書くときだけにしたのである。ものごとに集中できないという禁断症状が出ているが、なんとか「コーヒー革命」を遂行している。

 その他にも、さまざまなことがあった。人間が半年生きるというのは大変なことなのだな、という感慨がある。寝込みはしなかったけれど、一週間ほど風邪を引いたし、電子レンジが壊れて新しいのを求めた。2月には、寄島でも大雪となって、約10センチ積もった。その雪が屋根から落下してカーポートが破損するということもあった。

 浅口市会議員選挙では、私の応援する桑野和夫さんが第5位で当選を果たした。5月からはゴルフを再開し、3、4年ぶりにクラブを握った。私の人生において小さくない愉しみが増えたといえるだろう。このように半年だけでも、いろんなことが生起している。さて、下半期の半年は、果たしてどんなことが待ち受けているだろうか。愉しみでもあり、また畏(おそ)れもある。



‘14年夢日記 「父の日に」

2014(H26)年6月28日(土) 曇り時々雨

   タイトル 「父の日に」

 父の日は母の日と違って、うとましく思われている感がある。わが家でも母の日には、子どもたちから花束などが贈られてくるが、父の日に贈り物が届くということはほとんどなくなった。ただ、孫たちからは可愛い贈り物が毎年届いている。

 が、今年は長女から素敵な贈り物が届いた。梱包を解くと中にはポロシャツが入っていた。その辺の事情を訊いてみると、今年初めに義父を亡くしたことで、娘の心になにがしかの変化をもたらしたようだ。期待していなかったので、思いがけないことだった。今年の夏は、このポロシャツを着て外出することが多くなることだろう。

 長女から贈り物をもらったことで、私は父についての想いが湧いてきた。「私の父」は、いったいどんな父だったのだろうか、という想いである。父が生まれたのは、1904(明治37)年で、他界してかれこれ16、7年になる。92年の生涯だった。

 父はとなり町で生まれ、尋常高等小学校を卒業すると、14歳で大工の丁稚奉公に出されたようである。おそらく苛酷な修行時代だったことが察せられる。その後父は、鬼藤の家に婿養子として入った。が、婿養子としての父は、母が強かったために、決していい思いをして暮らすことはなかったようだ。

 家庭でも影の薄かった父は、時代の波にも呑まれていった。父の青春時代は戦争の時代であった。1945年の終戦までに3度徴兵されている。どこでどんな軍隊生活を送ったのか聞くことはなかったが、厳しい時代をくぐりぬけてきたに違いない。父はほとんど軍隊生活について語るということはなかった。

 父は日本家屋の大工であったが、戦後、昭和30年ごろからコンクリートの建築物が建つようになってから、型枠大工に変身した。型枠大工というのは、コンクリートの枠をつくる仕事である。柱、梁、壁、天井などを木の枠でつくり、それにコンクリートを流し込み、それが固まったら型枠をはずす。鋳型と同じようなものである。

 父は型枠技術の腕がよかったようである。岡山県庁、岡山会館、農業会館、川崎医大病院などの棟梁をやっていたらしい。父はとにかく寡黙であった。私は父とほとんど会話をしたことはなく、叱られたことも一度もなかった。が、父は酒がこのうえなく好きであった。毎日3合の酒を舐めるように飲むのが唯一の愉しみだった。

 父の時代には、父の日というのが一般的ではなかった。だから、私は父に贈り物をしたという覚えがない。しかし、父の日とは関係なく、私は父の晩年には時折、酒の一升瓶を持って実家を訪ねることがあった。そのときは、顔をほころばせて迎えてくれた。

 父の手帳を今でも私は持っているが、色あせたその手帳には、晩年の金の使い道などが記されている。それを丁寧に読んでゆくと、「千春、酒一本」と、何カ所かにわたって書かれてある。それは、鉛筆を舐め舐め書かれたような字である。

 長女と孫からの贈り物は、私の心をほっこりとさせる。私も父と同じように、手帳に娘と孫からの贈り物を書きつけておきたいと思う。



‘14年夢日記 「名文を読む」

2014(H26)年6月27日(金) 曇り

   タイトル 「名文を読む」

 ――虎斑(とらふ)の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから摩(すり)抜けて出ると、一ト先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で丁寧に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へシッカリと張ってぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなって飛んで行く。

 これは、志賀直哉の短篇「城の崎にて」の中の一節である。
 作者はこの作品の冒頭に「山の手線の電車に跳(はね)飛ばされて怪我をした。其(その)後養生に、一人で但馬(たじま)の城崎(きのさき)温泉へ出掛けた」と簡単に書いている。しかし実際は、ひとつまちがえば即死したかもしれない事故だったのを、ほんのわずかの偶然から、あやうく命を助かったのだ。つまり作者は、生から死へ、死から生へ、という回路をほとんど一瞬のうちに経験したことになる。

 読者はこの文章を読んで、忙しく精一杯に生きている蜂の姿態や動作が、まるで眼に見えるような感じを持たないだろうか。

 ――何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗(のぞ)いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵(ひまわり)があったりカンナが咲いていたりする。

 これは、梶井基次郎の短篇「檸檬(れもん)」のなかの一節である。

 そして、作中の「私」は、ある日、京都の町の果物屋で一個のれもんを買い、丸善という洋書の専門店に入って、そこらじゅうの本を高く積みかさねた上にそのれもんをそっと載せ、何食わぬ顔をして外に出る。

 ――変にくすぐったい気持が街の上の私を頬笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善もこっぱみじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩(いろど)っている京極を下って行った。

 梶井基次郎は、昭和七年三月、肺結核で死んだ。享年三十一歳。歿後三巻の全集(うち一巻は書簡集)を遺したが、そのころ文科の学生であった私(八木義德)たちは、当代の最も新鮮な詩人的作家として、彼の作品を競って愛読したものである。

 「城の崎にて」と「檸檬」は、八木義德の「文章教室」という本に収載されている。この本には、72の作品が名文として紹介されているが、二つの作品に触れることができただけである。(前に川端康成の「雪国」について、紹介したことがある)
 この本に紹介されている作品は、今後文章を書いてゆくうえで、大いに触発される名文ぞろいである。



‘14年夢日記 「『近藤勝重の本』を読む」

2014(H26)年6月26日(木) 曇り時々晴れ

   タイトル 「『近藤勝重の本』を読む」

 近藤勝重の「早大院生と考えた文章がうまくなる13の秘訣」という本を読んだ。彼の本は以前にも読んで惹かれたことがあるので、図書館から借りてきた。やはりこの本にも魅了された。期待にたがわず、文章に触れたり、書いたりすることが愉しくなるような本であった。いまでも、その余韻が心を満たしている。

 文章を書いていると、「大変悲しいとか淋しい」あるいは「非常に美しいとか楽しい」という言葉をよく使う。が、それだけでは読む側には、どう悲しいのかどう美しいのかが伝わらない。そこで、近藤勝重は「事物をして語らしめよ」、分かりやすく言うと、「物に託して文章を書こう」と語っている。

 俳人の金子兜太(とうた)は、「感情は象徴的な物に託せば、句に深みも出る」として次の句を挙げている。
 ――クリスマスたった一つのグラスかな
 これは、「さびしい」を表現しているが、よく分かる句で、「心を伝えたいのなら、事物をして語らしめよ」である。

 次に川柳を一句みてみたい。
 ――幸せはこんなものかなかき氷
 幸福感が物によって具象化されている。
 そして、文章は「人プラス物」で書くべしだ。人と物がもたらす文章上の化学反応は強力である、として次の句を挙げている。
 ――退院の翌日レンジ磨く母
 お母さんの姿とその胸中がイメージできる句である。

 「心情は描写せよ、説明するな」と言ってきたが、文章は描写文と説明文、そして会話文と地の文がそれぞれの役割をいかんなく発揮し、たがいに補いあえれば、その表現力は映像より勝るのではないだろうか。そこで、神吉拓郎の「鮭」という作品を取り上げてみようと思う。

 こんなストーリーである。
 ある日突然、夫の清治が蒸発する。妻喜久子も同僚も心当たりがない。訳のわからないまま四年の歳月が過ぎてまた突然のごとく夫が帰ってくる。当然妻には言いたいことが胸にいっぱいある。しかしひどく疲れた感じの夫を見てこんな言葉を口にする。「ご飯、すんだんですか」

 神吉拓郎は「ご飯、すんだんですか」を受けて次のように書いている。
 ――何年間か使わなかったけれど、以前は口にした言葉である。それが突然自分の口から出たとき、喜久子は自分ながら意外だった。不意をつかれて、思わず口走ったという感もあった。
 あとで考えれば、喜久子のそのときの言葉次第では、清治も諦めてまた出て行ったかもしれないのである。ただでさえ、敷居が高かった筈だ。

 ――清治の顔に、安心の色が浮んだ。
 そして、照れたように目をぱちぱちさせながら、彼は、
「いや、まだだ」
 と答えた。
 喜久子は風呂を沸かし、食事の用意を調えた。落ちついている積もりだったが、やはり気持は宙に浮いていて、台所で庖丁を使っていると慄(ふる)えが来た。何度か指を切りそうになった。

 近藤勝重は、妻には思考も空転するような驚き、当惑があったのではないでしょうか。庖丁で何度か指を切りそうになったという描写が、効いていますよね。と、書いている。まだまだこの本について触れたいことはあるが、ひとまずこのあたりで筆を置きたいと思う。この本は、「文章に親しみ、書くことへの意欲が沸くすぐれた本」である。



‘14年夢日記 「『しあわせの六十越え』を読む」

2014(H26)年6月25日(水) 晴れのち曇り

   タイトル 「『しあわせの六十越え』を読む」

 他人(ひと)は、定年退職をして仕事から離れたらどんな過ごし方、生き方をしているのだろうか。たいていは60歳定年だが、まだまだ働いている人も少なくない。

 仕事が生き甲斐という人もなくはないが、そのほとんどは生活のためのように思われる。国民年金の人は満額支給になったとしても、それだけでは暮らしていけない。厚生年金の人でも60歳からは満額支給されず、働からずをえない。

 が、おおよその人は60歳を越えると、仕事の第一線から退き第二の人生を歩むようになる。人は第二の人生をどのように過ごすものなのか、それに私は少なからず興味をもっている。

 私はいま66歳である。63歳で仕事から離れ、「サンデー毎日」の日々を送っている。つまり、毎日が日曜日なのである。人は仕事という座標軸を失ってしまうと、とたんに何かしら心もとなさと、戸惑いを感じてしまう。

 「さあ、毎日が日曜日だよ、お好きなように生きて下さい」と言われても、どうも突き放されたように思ってしまう。果たして自分の行き場はどこなのだろう、立ち位置をどこに定めたらいいのだろう、となんとも頼りない心持ちになってしまう。

 いまも私は「生き方探し」をしているような日々である。それなりに規則正しい生活リズムを保って、日々を送っているつもりなのだが、「果たしてこんな生き方でいいのだろうか?」という疑問が消えることはない。

 そんな問題意識を持って、近藤勝重の「しあわせの六十越え」という本を見つけ、図書館から借りてきた。副題に「いい気分で生きる48のヒント」となっているが、いくつかの点で触発される言葉に出合うことができた。

 まず、スイスの心理学者、ユングの提唱した「幸福の五条件」というものである。

1、 心身ともに健康であること
2、 美しいものに感動する能力を持つこと
3、 幅広く豊かな人間関係を有すること
4、 朝起きた時、その日にやるべき仕事があること
5、 自分で程よいと思う程度のお金を持っていること

 私は3と5、つまり「幅広い人間関係」と「程よいお金」ということが欠落している。「幅広い人間関係」をつくろうとは思わないけれど、「程よいお金」というのは切実である。

 「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう」

 これは作家の城山三郎の言葉である。この言葉はもっともだけれども、「深く生きる」ということは、いったいどういうことなのかとなると、首をかしげてしまう。

 城山三郎は、だから、「あえて挑む、打って出る」という生き方を薦めている。受身ではない、時間に流されることなく、みずから人生を創造してゆくような生き方を唱えている。

 人生80年の時代である。まだまだこれからだ。怠惰に生きることもできるし、「何をするにも遅すぎるということはない」と心に決めて、新しいことに挑戦することもできる。なにはともあれ、「しあわせの六十越え」でありたい、と切に願っている。



‘14年夢日記 「許されない! 集団的自衛権」

2014(H26)年6月24日(火) 晴れ時々曇り

   タイトル 「許されない! 集団的自衛権」

 6月19日(木)の正午のニュースで、7月4日(金)にも、「集団的自衛権行使容認」の閣議決定がされるような報道がなされた。これは由々しき事態である。

 が、日本国憲法は、その前文で次のように謳(うた)っている。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、――」

 憲法9条第一項では、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

 第二項では、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記されている。

 ところが、政府与党は、「政府の行為によって」再び、「戦争ができる国」にしようとするのが、「集団的自衛権行使容認」の閣議決定である。

 これは、憲法前文にも、憲法9条にも反するものである。一内閣が、憲法解釈の変更によって、憲法を破壊するということがあってはならない。立憲主義にも背くものだ。

 「集団的自衛権の行使容認」というのは、アフガン戦争、イラク戦争のように、日本が攻撃されていないにもかかわらず、海外に行ってアメリカとともに戦争行為をするということである。

 政府は、国会答弁などで、さまざまな条件や限定論を持ち出して、戦闘行為はしないというようなことを言っている。が、アフガン戦争、イラク戦争のような場合でも、戦闘地域へ自衛隊を派遣しないということを明言していない。

 つまり、日本が他国から攻撃されていなくても、アメリカの仕掛ける戦争に、自衛隊がいつでも、どこへでも出かけて、戦闘行為をするということである。

 そもそも、「憲法9条のもとで集団的自衛権を行使してはならない」という政府見解によって、いままで自衛隊が海外へ派遣されても、戦闘地域へは行くことはできなかった。

 それは、憲法によって、自衛隊が戦闘地域に行くことの歯止めがなされていた。しかし、今回の閣議決定は、憲法解釈の変更によって、その歯止めをはずそうというものに他ならない。

 2010年発行の「日本近現代史を読む」という本には次のように書かれている。「こうして世界的規模をめざす日米軍事協力の体制が強化されていますが、そこには依然として大きな壁がありました。それは、集団的自衛権の行使は憲法上(憲法9条による)できないというそれまでの政府解釈の存在です」

 「集団的自衛権とは、直接自分の国に関係なくとも、同盟国のために海外に軍事出動することです。言い換えれば、この政府解釈のもとになる憲法9条の存在が自衛隊の海外での武力行使の壁になっているのです」

 「こうして集団的自衛権にかんする政府解釈の変更と憲法9条の改定の動きが本格化していきます」。この本は4年半前に書かれたものですが、現在の状況を的確に予見したものになっている。

 7月4日(金)にも、閣議決定がなされようとしているが、断じてそれを容認することはできない。もちろん明文改憲もゆるされないが、この閣議決定は「密室での非合法的手法によって、憲法を破壊するクーデター的暴挙と言わなければならない」



‘14年夢日記 「ホタル」

2014(H26)年6月23日(月) 晴れ時々曇り

   タイトル 「ホタル」

 わが家の裏の小川で、ホタルが見られなくなって久しい。その小川は、わが家からほんの15メートルほどのところにある。何年くらい前になるだろうか。長男が小学生の頃だったから、かれこれ30年になる。

 その頃は、ホタルが乱舞して川は光に彩られていた。手でホタルを掬(すく)いとることができるくらいだった。子どもたちは嬉々として、ホタルを追い川の畔を駆け回っていた。

 掬いとったホタルは、そっと虫かごに入れ、家に持ち帰って、光を放つのを楽しんでいた。それほどホタルは、人間にとって身近な存在だった。村のあちこちの小川でホタルを見ることができた。

 が、裏の小川もいつのまにか、コンクリートが張られ、ホタルの産卵や幼虫の棲むところがなくなった。村々の小川が同じようになって、ホタルは棲むところを失った。

 私はホタルが見たくて、役場へ電話してみた。すると、車で15分くらいのところに、ホタルが生息しているというのを教えてもらった。となり町の小川である。

 昼、私はその小川を下見に行った。暗くなってからでは、その場所を探すのが難しいと思ったからである。その近くへ行って、3軒、4軒と訪ね、やっとその川を探し出すことができた。

 「まだ、ホタルは飛んでいるじゃろうか。5月下旬から6月初めがいいんじゃがのう」、と訪ねた家の奥さんが、顔を曇らせて言った。私が訪ねたのは6月17日だった。

 奥さんから、夜8時30分くらいがいいと聞いていたので、私は家を8時に出発した。小川の近くに車を停めて、半信半疑で川の上流に向かって歩いて行った。

 すると、数匹のホタルが光を放って、小川の上を飛び交っていた。私の胸に迫ってくるものがあった。それは感動と呼んでもいいような心持ちであった。懐かしいものに出遭ったような、いとしい想いが湧いてきた。

 さらに上流へ足を踏み入れると、藪(やぶ)の茂みや、小川の上で少なくないホタルが光っている。私は立ち止まって、そのようすをじっと眺めていた。心が澄んでゆくような、そんな感じが胸にきた。

 ホタルが光を放つのは、求愛行動である。オスは小川の上を飛び交っている。メスのホタルは、弱い光を発して、草や木の葉の上でじっと止まり、オスが来るのを待っている。

 オスはメスの光を見つけると、強い光を出してメスにシグナルを送る。メスもそれに応えるように、強い光をオスに送る。そうして、オスはメスのところに飛んでゆく。

 このように、ホタルが光を放つのは、子孫を残すための懸命な求愛に他ならない。だから、ホタルの光は美しいし、妖艶(ようえん)なのだろう。人間の心をも魅了する。

 この小川はコンクリートを張らずに、いつまでも、今のままで在り続けて欲しいと願うばかりである。



‘14年夢日記 「合歓の木を探して」

2014(H26)年6月22日(日) 雨のち曇り

   タイトル 「合歓の木を探して」

 私が自然と親しんできたというのは、66年の半生の中でごくわずかの期間に過ぎない。おおよそ小学・中学時代の9年間である。
 が、この9年間というのは、自然との関わりは濃密であった。いや、自然との関わりというものではなくて、私自身が自然に溶け込み、自然そのものであったような気がする。

 学校から帰ると、潮が引いているときは海に入り、シャコやタコ、モガイやアサリ、ハゼやカレイといった魚介類を獲(と)った。
 夏、潮が満ちているときは、夕闇に包まれるまで海で泳いでいた。唇が紫色に変わるくらいまで海とたわむれるのだった。

 また、海だけではなく、山野をよく駆け回った。春には、シャッポン(いたどり)やツクシ、ワラビなどを採った。秋には、アケビや木の実、いたずらで柿やミカンなどもこっそりいただいたりした。茸や松茸引きに夢中になって、山を這ったり、登ったりの日々だった。

 このように、小学・中学時代は、私自身が自然であった。ところが、高校時代から今日まで、自然とともに暮らすということが、ほとんどなくなってしまった。
 高校を卒業すると、仕事といろんなことに忙殺されて、自然と触れ合うことがなくなった。うたごえ運動や演劇活動、青年運動や組合活動に懸命だった。

 自然に触れることを取り戻しつつあるのは、ごく最近のことである。ウオーキングというか、散歩というか、それをするようになって、自然との関わりを持つことができるようになった。
 草花や野菜が、日々成長するのを目にするのはとても愉しい。散歩の途中でしばし足を止めて、花々に見とれたり、野菜の実がふくらむのを見たりすることが多くなった。

 先日は、合歓(ねむ)の花を探して、3キロほど散歩をした。私の好きなブログを覗いたら、合歓の花の写真が載っていた。そこで、わが村にも合歓の木があるものと思って、歩いたのである。
 サルビアやタチアオイ、バラやアマリリスは咲き誇っていたが、合歓の木が見つからない。私はいままで合歓の木を見た覚えがない。あるいは、見ていても遣り過ごしてきたのかも知れない。

 櫛のような、筆が開いたような花と聞いていたので、それを手がかりに村を歩き回ったけれど、見つからない。しかし、その途中で、トマトやイチジク、ザクロの実を見ることができた。
 ザクロはようやく実をつけた幼いものだったが、トマトとイチジクは青い実がふくらんで、光っていた。このような実を発見するのも心躍るような気がする。

 わが村の田植えもほとんど終わり、小さい苗が、張られた水の中で、風にそよいでいる。まだ勢いは弱くこれから青々と、そして葉先は鋭く育ってゆくのだろう。
 田圃の水面には、山が映し出され、曇天の空が灰色に映っていた。やがて稲は力強く田圃を一面、緑色に染めるだろう。また、その清々しさが人の心を打つに違いない。
                       
 ついに、合歓の木に出遭えることはできなかった。けれども、わが村の自然と触れ合うことのできた散歩であった。いずれ、合歓の木に遭えるのを愉しみに、日々を過ごしてゆきたいと思う。後半生は、自然との共生を意識的にして、有意義な人生としたい。



‘14年夢日記 「名文を読む」

2014(H26)年6月21日(土) 曇りのち雨

   タイトル 「名文を読む」

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻きで鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

 川端康成の小説「雪国」の書き出しの文章である。
 私(八木義德)がこの小説をはじめて読んだのは、まだ早稲田の学生のころであったが、「夜の底が白くなった」という文章に出会ったとき、あ、しまった、と思ったことを今も忘れずにおぼえている。

 私は北海道に生まれ育った人間である。だから、深い雪の積もった夜、という情景は何百回どころか何千回となく見てきているはずだ。

 それなのに私は、その情景に対して、「夜の底が白くなった」などという言葉を、ついに一度も思いつくことができなかった。もし当時の私が、この情景を文章にしろといわれたら、たぶんこんなぐあいに書くだろう。

 夜の空は暗かったが、地面は雪明りでほの白かった。

 だが、これでは単なる説明にすぎない。そして単に説明されただけの文章から、われわれはある情緒なり、ある感情なり、ある想像力なりを喚起されるということはほとんどない。

 私のこの説明的文章に比べて、川端康成の「夜の底が白くなった」という文章は、字数にしてわずか九字である。しかもこのわずか九字の文章によって、深い雪の積もった夜、という情景があざやかに、しかも生き生きと感じられる。これは説明ではない。表現である。

 これは、八木義德の「文章教室」という本の中の一部分を引用したものである。じつは「文章の書き方」のノウハウを記した本だと思って手にしたのだが、しかし、そうしたものではなく、「名文鑑賞」の本であった。

 が、私(鬼藤)はこの本に出合えて幸運だったと思っている。文章の書き方のノウハウ本ではなく、名文を紹介することによって、そのなかから読者自身が何かをつかみとるようになっている。

 この本では名文と称される文章が、72作品紹介されている。一つひとつの文章に触れるたびに、その名文にため息が出るほどである。感動でしばし天井を見上げてしまう。

 「雪国」の「夜の底が白くなった」という表現は、私も八木義德と同じような思いを抱いた。紹介されている文章の中でも、この部分はとりわけきわだっている。印象的で心に残る表現である。

 こうした名文が沢山紹介されているので、いくつか触れることができればいいな、と思っている。この本はノウハウ本を超えた、すぐれた「文章教室」である。



‘14年夢日記 「あわただしくなる日」

2014(H26)年6月20日(金) 晴れのち曇り

   タイトル 「あわただしくなる日」

 わが村が、慌しくなる日が年6回ある。わが村は普段は穏やかで静かな村である。前には瀬戸内の海が広がっており、背後には低い山が連なっている。

 信号機も4カ所あるだけで、交通事故もさして起こらない比較的安全な村である。片田舎という趣きではなく、JRの駅は車で5分ほど走ればいきつける。

 倉敷市や福山市という中都市も、車を30分も走らせば容易にゆける。が、わが村でたいていのことは「事足れる」。コンビニもあり、スーパーマーケットもある。

 人口は減りつづけ、高齢化の波がおしよせているが、限界集落になるということはないだろう。役場の支所もあり、郵便局もある。図書館もあり、喫茶店もみっつある。

 そんな静かな村だが、年6回村は慌しくなる。それは年金が支給される日だ。村には金融機関が3カ所あるが、午前9時にはATMのコーナーには列ができる。

 町内会で会費を集金に行っても、「年金がおりるまで待って」といわれることがある。つまり、年金生活者は、ぎりぎりの精一杯の生活を余儀なくされている。

 そういう人たちが、年金支給日には金融機関に駆け込むのだ。私もそのひとりである。私は年金の振り込まれる銀行に行って、定期預金をしている額だけ残し、すべて引き出す。

 そして、ふたつ目の銀行にも「定期預金」の額だけ入れて、次の銀行に回る。みっつ目の銀行は、生活費を預け、日常生活の遣り繰りはこの銀行でしている。

 このように、私はみっつの銀行を回って、生活の計画を立て、遣り繰りしている。私が訪れる銀行のどこも列をつくって人々が待っている。庶民の生活の在りようがうかがえる。

 「この4月から消費税が8%に上がった。……例えばモヤシのような安価な食材も、工夫次第では立派な主菜になる。節約は実は生活を豊かにするものだと気づけば、増税もまた楽しからずやだ」

 これは、「日経」4月23日付に掲載されたトヨタの広告である。これほど庶民を莫迦にした広告はない。まず、消費税増税を楽しいとしていることである。

 庶民は買い物をするたびに、8%の消費税に胸を痛め、怒りを禁じえないのに、「楽しからずや」とはどういうことか。庶民との生活感覚がきわめて乖離(かいり)しているといわなければならない。

 ふたつ目は、庶民にモヤシを主菜にして暮らせと押し付けていることである。モヤシばかり食って生きてゆけるわけがない。庶民はトヨタに言われるまでもなく、節約、節約の日々なのだ。

 これが庶民の言葉なら、生活の知恵として受け止めることもできるかもしれない。が、世界のトヨタ、内部留保を何兆円も隠し持っているトヨタの広告だから許しがたい。

 年金の支給日は「あわただしくなる日」だ。それが庶民の暮らしである。そういう庶民の苦しく切実な悩みがトヨタには分からないし、分かるわけがないだろう。

 それは、トヨタが労働者を搾取し、大企業優遇の政治の恩恵を受けているからである。「モヤシを食ってみろ」とトヨタの経営陣にいいたい。そして、トヨタから多額の政治献金を受け取っている、政府与党も「同じ穴のむじな」である。



‘14年夢日記 「サッカー観戦」

2014(H26)年6月19日(木) 晴れ

   タイトル 「サッカー観戦」

 サッカー・ワールドカップの予選リーグ、日本対コートジボワール戦をテレビ観戦した。結果は1対2で日本が敗れた。これで、日本は決勝トーナメントにすすむ公算が、きわめて難しくなったといえよう。

 ある大会の統計によると、初戦に敗退したチームが決勝トーナメントに進める確立は、10%にも満たないという結果が出ている。が、スポーツは何が起こるかわからないので、あと二つを勝ちにゆかなければならない。

 コートジボワール戦は、試合開始から日本が押されぎみであったが、前半にいい時間帯で本田のシュートが決まり、「勝てるかも知れない」という雰囲気になった。

 が、前後半を通じて日本は、ボールをコートジボワールに支配されていた。「攻撃は最大の防御」といわれるが、その攻撃面がうまくゆかず、終始、防御を強いられていた。

 防御に回るということは、ペナルティエリアでの反則や、その周辺での反則を犯すことが多くなり、きわめて危険である。この試合でもゴール前の反則を重ね、相手にフリーキックを与えることになった。

 幸い失点には結びつかなかったが、ひやりとする場面が2回もあった。そのように綱渡りの試合運びで、見るほうはハラハラドキドキである。やはり相手陣地でたたかわなければならない。

 もともと、FIFAランキングによると日本は46位、コートジボワールは23位で、格上の相手だった。それを裏付けるような、試合内容だったのではないだろうか。

 当初の予想では、選手個人の身体能力はコートジボワールのほうが上で、日本はチームとしての組織力があるといわれていた。しかし、この試合では、身体能力も組織力も相手のほうが勝(まさ)っていた。

 失点をしたツーゴールも、相手方の組織戦についてゆくことができなかった。2失点とも左サイドからクロスを上げられ、ヘッディングでゴールに押し込まれたものである。

 この試合では、日本のいいところがほとんど見られなかった。いつもは、日本がボールを支配し、ピッチ全体を使って展開するのだが、それができなかった。

 戦前の予想である、日本のチーム力・組織戦がほとんど見られなかった。日本は体力的に劣るので、チーム力を最大限発揮して、相手を翻弄(ほんろう)してゆかなければならない。

 決勝トーナメントに進めるのは、4チームのうち上位2チームだけである。したがって、日本は残された2試合を勝利しなければ、その道が絶たれてしまうだろう。

 が、初戦が終わったばかりである。あと2試合残っている。これに勝って、必ず決勝トーナメントに進出して欲しいと願っている。まだ、下を向いているときではない。

 日本の持ち味である、チーム力・組織戦をいかんなく発揮して、自分たちの試合をしてもらいたい。それができれば、決勝トーナメント進出も決して夢ではない。



‘14年夢日記 「『浜野博の短歌』を読む」

2014(H26)年6月18日(水) 雨のち曇り

   タイトル 「『浜野博の短歌』を読む」

 浜野博の歌集、「今を生きて在り」を読んだ。彼の主たる仕事は創作(小説)だが、少し前に詩集を編んで、今回歌集を上梓した。その創作意欲を喜びたいと思う。

 私はこの歌集を読みすすむうちに、多くの短歌をいくつかの分野にくくることができるように思えてきた。それは後半になって初めて気づいたしだいである。

 1、自己の生き方 2、自身の身体のこと 3、外へ出ること 4、家・家族のこと 5、旧友たちのこと 6、季節のこと 7、僚友たちのこと 8、障がいのこと 9、施設のこと 10、社会のこと 11、ふる里のこと、に分類することができるように思う。

 もちろん、季節を詠っているものでも、そこには浜野博という人間がおり、その息遣いが聴こえてくるので、単純には分けることは妥当ではないように思えるが、しかしあえてそれを試みてみたい。

 「自己の生き方」
 深呼吸してからものを言えと思うできたためしのないこの我は
 われここに生きて在りとの旗印おずおず掲げ起ちつづけたく

 「自身の身体のこと」
 買い物にくつろぎ戻り来し夕べまた床擦れの再発を知る
 骨にまたひびの入れりと告げられてよそ事を聞くごと遠き声

 「外へ出ること」
 刺すほどの痛みなき東風(こち)やや強き午後おずおずと外に出てみる
 冷え残る外へ出たそれだけの今日抱き締めるごと日記へ書き留む

 「家・家族のこと」
 ふた親に先立つ不孝だけはせず今在るを言い訳として生きる
 夕餉には必ず箸と茶碗持ち居眠りしわれと母は言いたり

 「旧友たちのこと」
 「ちょっと寄った」旧き友人来て語る束の間施設暮らしを忘れ
 半世紀隔てて旧友と並ぶとき打ち消しようもなき老い二人

 「季節のこと」
 散り急ぐ桜間近に見つめおりわれは散る日を急くこともなく
 もう春が来たと緩みしこの胸の隙間を狙うごとき遅霜

 「僚友たちのこと」
 冬景色への幾度目の揺り戻し歌の仲間と過ごす昼過ぎ
 言葉出せぬ者ら芯からカラオケを愉しむを見る今日の幸い

 「障がいのこと」
 動かぬと動けぬの違い身に沁みて思い知る日の午後の鬱屈
 素直には医師の指示にも従わず重度障害もつ身は生きる

 「施設のこと」
 まだ散らぬ桜あるらし後ろ向きの姿しか見せぬ施設重たし
 また一人人として信じ得ぬ者の出でて施設を生き難くする

 「社会のこと」
 焦らされて来ぬ春を待つ障害者われらをいたぶる為政者の業
 原発で死者出ずと代議士の言い加害者はなおのさばり続く

 「ふる里のこと」
 出漁をすれば損失増すのみのイカ漁の痛苦もろに聞く今日
 ふるさとに大雨洪水警報が出て事もなく過ぎる危うさ

 このように見てくると、この歌集の題材が多岐にわたり、多彩であることが分かる。が、それらのことどもも、ひとつところへ収斂(しゅうれん)している。それは、歌集の表題にもなっている「今を生きて在り」ということである。

 浜野博は、激流の魚のように、流れに逆らってのぼっている。高校3年のとき、首の骨を折って車イスの生活になった。が、彼は半世紀以上「前へ前へ」、「上へ上へ」と向かって生きてきた。その結晶ともいえるものが、この歌集である。



‘14年夢日記 「『コーヒー革命』その後」

2014(H26)年6月17日(火) 曇りのち雨

   タイトル 「『コーヒー革命』その後」

 「コーヒー革命」とは何か。それは私のコーヒー依存症からぬけだすことである。それを思いついたのは、歯科医師の、「鬼藤さん、歯が溶けてるよ」という一言だった。

 私はコーヒーが好きで、30缶入り缶コーヒーを3箱も4箱もストックしている。しかも、そのコーヒーは、無糖ではなく、たっぷりと砂糖の入ったものである。

 その缶コーヒーを2階の書斎、1階の和室、ダイニングルーム、そして車にまで常備している。つまり、私の行動範囲には常に缶コーヒーがあって、いつでも、どこでも手にするができる。

 朝起きてから床に就くまで、コーヒーを舐めているという情況だった。そして、コーヒーがなければ、何をするにしても集中することができなくなっていた。

 書きものをしたり、本を読んだりするにもそれは欠かすことはできなかった。ホームシアターで、映画を観賞するにも、あるいは、サッカーをテレビ観戦するときにも手元にコーヒーがなければならなかった。

 そのコーヒーが切れれば、精神的に不安定になり、集中力が切れる。つまり、これはギャンブルや酒、煙草と同様な依存症にほかならない。それだけ、私のコーヒー好きというのは、深刻な問題である。

 そこで、先月21日に「コーヒー革命」を誓ったのである。それから、まもなく1カ月が経とうとしている。その後「コーヒー革命」はどうなったのだろうか。

 コーヒーを飲むのは、朝、新聞を読むときと、書きものをするとき、そしてゴルフの練習をするときに限るとしていた。果たしてそれは守られているのだろうか。

 車で飲むこととホームシアターで映画を観賞したり、スポーツ観戦をしたりというときは、きっぱりやめることができた。しかし、読書をするときはそうはいかない。

 コーヒーがないと、本に集中できないのである。それは、「禁断症状」といってもいいだろう。コーヒーがないと、そわそわしたり、本の内容が頭に入ってこなかったりする。

 だから、ついついコーヒーに手を出してしまう。したがって、「コーヒー革命」は不徹底だといわなければならない。まだまだ、7割方しか実行できてないといってもいいだろう。

 これでは、歯科医師の警告も自身の誓いも守られていない。このままずるずると推移すれば、歯の健康や糖尿病などの内臓疾患に影響を及ぼすことになるに違いない。

 「コーヒー革命」を誓って、まもなく1カ月である。ここで改めて、新たな誓いをしてコーヒー依存症から解き放たれるようにしたいと思う。その道は険しいが、その坂道をのぼってゆきたい。

 何よりも、「健康で文化的な生活」をするためである。願わくは、70歳、80歳代と健康で暮らしたい。そのために、「コーヒー革命」を成功裡に終わらせたいと願っている。



‘14年夢日記 「『岬叙景』を読む」

2014(H26)年6月16日(月) 晴れのち曇り

   タイトル 「『岬叙景』を読む」

 これは、「民主文学」7月号の短編小説で、野里征彦の作品である。東日本大震災から3年目、岬に住む人々の人間模様を巧みに描き出している。

 私(鬼藤)は、分譲地を求めて家を新築し住んでいる。そういう家10数軒が小さな団地を構成している。そんな小さな団地でも、それぞれの家にはなんらかの問題をかかえている。

 離婚して実家に帰ってきた娘さんやオートバイを改造し、爆音を立てて走り回る少年がいる。また、主人が脳梗塞で倒れ、今もリハビリをつづけている家もある。

 あるいは、パチンコ依存症になっている奥さんがいたり、腰痛で歩くのが困難になったりしている家がある。また、娘が多重債務を負って、自己破産の選択を迫られている家もある。

 このように、10数軒の家が集合している団地でも、それぞれの家、家庭にはさまざまな人間がおり、さまざまな人間模様がある。人生は決して平坦ではないことを物語っている。

 「岬叙景」は、震災3年目という背景の中で、人間の在り方、人間の生き方、家庭というもの、人間模様を描いたものである。ストーリーといったものは特にないけれど、人間の在りようを巧みに掬(すく)い上げている。

 鳥澤さんは、かつて水産工場を営み、商工会の会長まで務めた名士であった。ところが、認知症に罹(かか)って、自分の土地でもないところに、家を建てると言って歩いている。

 亀岡さんの息子の寛治朗君は、他人の女房を寝取ったという。水産加工場で、隣町の女の人と仲良くなってしまった。彼女には、夫と子どもがいたけれど、夫の暴力から逃げるように、寛治朗と付き合っているのだった。

 高木さんの娘さん(40近い大人だが)は、うつ病に罹っており、毎日ただぶらぶらしている。それで、元大工の高木さんが、怒鳴り散らし暴力を振るうというのだった。

 叙景というのは、「風景を書きあらわすこと」である。岬の村のようすを、人間のさまざまの在りようを描くことで、浮かびあがらせようとしている。

 この小説は、特に物語はないけれど、様々な人物を登場させ、震災3年目の岬の村の人間の在りように迫っている。ごく普通の地域でも現代社会の疲弊を反映して、現代の家、家庭では、さまざまな問題を内包している。

 が、この岬の村は、大きな震災に遭わなかったとはいえ、3.11後3年目という背景があり、それを小説の舞台にしている。したがって、否応なく震災の後遺症が、一人ひとりの人間を包み込んでいる。

 この作者は、鳥澤さん、亀岡さんの息子の寛治朗君、高木さんの娘さんを象徴的な人物として登場させている。ごく普通の地域でも生きがたいのに、震災の影響を受けてなおさら難しい人間の生き方を描いている。

 岬の人間の風景が浮き彫りにされており、まさに「岬叙景」である。



‘14年夢日記 「『雨上がり』を読む」

2014(H26)年6月15日(日) 晴れ時々曇り

   タイトル 「『雨上がり』を読む」

 これは、有田博の作品で、「民主文学」7月号に収載されている短編小説である。比較的短く、さして葛藤もないスケッチ風の作品となっている。

 この作品は、現在、過去、現在というふうに、サンドイッチの構成となっている。が、現在の部分はプロローグもエピローグも非常に短く、過去がほとんどの内容である。

 2013年の夏の朝、主人公のわたしは、新聞の見出しを見て驚いた。「生活保護基準引き下げ」という記事が目に飛び込んできた。そして、考え込んでいるわたしの脳裏に、ある記憶が浮かび上がった。

 これは、小説のプロローグではあるが、作者・有田博のモチーフともいえるものだ。この記事に触発され、小説を書く動機になって、「雨上がり」という作品が生み出されたのだろう。

 過去というのは、40年ほど前の話である。その頃、主人公は中学校の新米教師であった。そのエピソードがふたつ描かれ、それによってテーマに迫ろうとした作品である。

 そのひとつのエピソードというのは、主人公のクラスの生徒が、生徒指導主任の大石先生の授業のとき、寺本という生徒を殴って、辻野が教室を出ていったことである。

 主人公は中学2年生の担任をしていた。辻野はそのクラスの生徒であった。辻野は問題行動をよく起こしていた。万引きをしたり単車に乗ったり、授業中に突然出て行って、校内を徘徊するような生徒である。

 わたしは教室を出て行った辻野を捜して、校内を一巡した。が、見つからず自転車で校外へと捜しに行った。すると、辻野は海岸にいた。しかし、彼は辻野を学校へ連れて帰ることはできなかった。反発し、逃げ出したのである。

 辻野の家庭は、生活保護を受給していた。両親とも揃っていたが、父親は糖尿病で働けない身体だった。ふたつ目のエピソードというのは、辻野の家を訪問するということである。

 辻野の家は、ひと間きりの粗末な家だった。天井もない、風呂や洗面所もない家だった。そのようすを作者は、詳しく描写しており、生活保護家庭の在りようを浮かび上がらせている。

 父親は、辻野を高校へはやれない、中学校を出たら働いてもらう、と言うのだった。わたしは、高校へ行くのもいろんな方法があることを告げたが、「この子には少しでも早く稼いでほしい」と言う。

 わたしは「辻野が貧しさの中で手段を奪われて、将来を描くことができなくて苦悩している」のが分かるような気がした。そのとき、辻野はテレビに夢中でわたしの方を見向きしなかった。

 この作品は、問題行動を起こす生徒の視線まで主人公が降りていって、それに寄り添おうとする姿を描いている。と、同時に貧困の連鎖、教育格差の問題、希望を失った生徒の在りようを探っている作品である。

 が、今日の「生活保護基準の引き下げ」と、辻野の問題がどう関わっているのか、そこにまで筆は延びていない。弱者の在りようを掬(すく)い上げようとした作者の意図は分からないわけではないが、もっと掘り下げて欲しいと願うものである。



‘14年夢日記 「『村の墓』を読む」

2014(H26)年6月14日(土) 曇り時々晴れ

   タイトル 「『村の墓』を読む」

 これは、「民主文学」7月号の巻頭小説で、作者は井上通泰である。今月号は短編小説が3編と少ない。全国文学研究集会の特集を組んでいるためだろう。

 この「村の墓」は、今日的テーマを扱っている。つまり、田舎の墓を誰が引き継ぎ、守ってゆくのかということを問いながら、故郷(ふるさと)とは何かに迫ろうとしている。

 主人公は井村裕治である。その妻、芳江は小説の冒頭でこんな風に言っている。「私は、あなたの実家のお墓に入りたくありませんからね。実家の墓守をするなんて、絶対言わないでよ……」

 私(鬼藤)は、定年まで墓石店に勤めていたので、このような話はよく聞いていた。「あの姑(しゅうとめ)と一緒の墓に入りたくない」、ここには、嫁姑の人間関係がその底にある。

 また、田舎の墓守を墓石店に頼んだり、シルバー人材センターに任せたりということも少なくない。それは子どもたちが都会へ出て、墓守が困難になっているという情況が背景にある。

 この小説もそれと同様な背景をもっている。もっといえば、日本の社会の歩んできた歴史や、その在り方まで視野に入れて考えなければならない問題でもある。

 裕治の実家には、継母がひとり住んでいる。継母、ハルは80歳である。病院に行くにもひとりでは駄目で、裕治が時折ハルの面倒をみに帰っている。

 村の墓には、裕治の両親と兄、それに異母弟の武雄が埋葬されている。武雄が死んだ今となっては、武雄の妻、佳子とその子どもたちが、墓守をしてゆくべきだろう、と裕治も思っていた。

 しかし、佳子は村の家を出ており、墓守はしないという。子どもたちにも遺産相続を放棄させて、村の家とは縁を切るというのだった。すると、父松造と先妻の子の二男、裕治がおもてに出ざるをえない格好になる。

 しかし、妻芳江は墓守をしない、という。そこには、嫁姑の関係もあったが、村のこと、家のこと、墓のことは、自分はもちろん、子どもたちにも引き継がせないで下さい、と固い意思を示している。

 しかし裕治は、継母が亡くなった後のことについて、村の家をどうするのか、村に住みつづけるか、別々の家に別れて暮らすか、について結論が出せないでいる。

 芳江の考え方もひとつの見識であるだろうと思う。「かつては、引き継ぐべき家というものがあったかも知れない。が、新しい住宅団地で、いわば都会で、核家族として暮らしてきた私たちに、引き継ぐべきものがあるのか」と疑問を投げかけている。

 あるいは、芳江の考え方は、一般的で合理的な思考であるかも知れない。世間ではそういう風潮になっており、彼女の考えが特異で不条理だとは思えない。

 が、裕治はその芳江の考えに、すぐに同意することはできない。村って何? 家って何? と考える。文学というのは、いっけん不合理とも思えることを、掬(すく)いあげて、読者に提示する役割をももっている。

 この小説は、ただ単に墓守を誰がするか、というように思える。だが、日本の歴史の在り方や現代社会の在り方にまで触れる、底の深い問題に迫ろうとしている。作者はそれを、自身と読者に突きつけている。



‘14年夢日記 「倉敷民商事件第2回公判(2)」

2014(H26)年6月13日(金) 晴れ時々曇り

   タイトル 「倉敷民商事件第2回公判(2)」

 倉敷民商の小原事務局長、須増事務局次長が税理士法違反とされている、第2回公判が岡山地方裁判所で開かれた。この裁判所でもっとも広い傍聴席は埋め尽くされて、支援の輪の広がりをうかがわせた。

 小原、須増さんが、税理士法違反の容疑で逮捕されたのは2月13日である。それ以来、勾留され続けており、すでに4カ月になる。これは、否認・黙秘をつらぬいているからで、それをもって、長期の拘束はきわめて不当だといわなければならない。

 ふたりが勾留されているのは、岡山刑務所である。食事は麦飯で、妻や家族の面会も許されていない。これは、「人質司法」といわれているもので、容疑を認めなければ、釈放しないという冤罪(えんざい)を生む温床にもなっている。ふたりとも体の具合がよくないそうだ。

 傍聴席から見ると、右側の席に弁護団、左側に検察官の席がある。それぞれ席に座ると、後部の扉が開いて裁判官が入ってくる。そうすると、傍聴席も含めて全員が立ち上がって、礼をする。

 裁判官は3人。検察官は2人、弁護士は8名である。弁護団が8名というのは異例のことで、弁護士はこの事件の重要性を認識して、国家権力に立ち向かっている。「倉敷民商を支える会」の並々ならぬ決意もまた示されている。

 弁護団が8名というのは、禰屋(ねや)さんの、法人税違反(ほう助)が冤罪(えんざい)であり、三人の税理士法違反というのが、倉敷民商への弾圧であるという、事件の本質と性格からくるものである。

 この冤罪と弾圧から三人の被告を守るというのは、ただ単にそれだけにとどまらず、日本の民主主義を守るというたたかいでもある。だからこそ、岡山県だけでなく、全国から支援の手が差し伸べられている。

 裁判官、検察官、弁護士が全員揃うと、小原、須増さんは、腰縄、手錠という痛々しい姿で入廷してきた。これが「人質司法」の不当な象徴である。(小原さんは3時、須増さんは4時からの公判だった)

 私はこの光景をみて、戦前の治安維持法による逮捕・勾留・裁判のようすが甦(よみがえ)ってきた。もちろん、私は戦後生まれなので、戦前のそれを経験しているわけではない。

 が、書籍や映像によって、その光景は私の脳裏に刻まれている。もとより、この事件と戦前の治安維持法を同一視するわけではない。おのずから、事件の本質と性格は違うけれども、腰縄、手錠によって入廷してくるふたりのようすをみると、それが思い出される。

 したがって、日本の民主主義を守るたたかいである、倉敷民商事件の冤罪と弾圧に勝利してゆかなければならない。そのための鍵は「本人と家族、弁護団、支援者」のたたかいにかかっている。

 第2回公判では、公訴事実に対する弁護団の意見陳述と検察官の冒頭陳述がおこなわれた。弁護団は、この事件の本質と性格を述べ、争点を明らかにした。

 弁護団は、民商の誕生から今日までの歴史に触れ、その運動の理念を述べた。そして、民商活動の原点は、自主記帳・自主計算・自主申告であり、それにもとづいて運動を展開していることを主張した。

 だから民商活動は、税理士、商工会や農協や漁協のようにすべて請け負って申告する(臨時税理士制度)という立場とは、その理念を異にしている。自主記帳・自主計算・自主申告をすすめることで、日本の税制についてまで理解を深めてゆくことをめざしている。

 弁護団の主張・論理は道理にあっており、これから法廷外での運動の広がりを強めることによって、裁判闘争を有利に展開できることを確信させる第2回公判であった。

 小原、須増さんのふたりは、傍聴席の奥さんや母親とアイコンタクトをとっていた。心の底ではどれだけ声をかけかっただろうか、ということが思いやられる。しかし、ふたりの表情はゆるみ、瞳は光って無言の言葉を交わしていたのが印象的である。



‘14年夢日記 「耐えがたい庶民の暮らし」

2014(H26)年6月12日(木) 曇り時々雨

   タイトル 「耐えがたい庶民の暮らし」

 先日、日本年金機構から、「年金額改定通知書」が届いた。それによると、物価スライドと称して、0.7%の減額が、2014年4月分より行われている。

 昨年の10月分と合わせると、1.7%の減額ということになる。わが家は年金収入の標準世帯である。1.7%の減額によって、47,600円が引き下げられることになる。

 減額はこれで終わりというわけではない。来年4月には、さらに0.5%が減額される予定である。それが実施されると、わが家の年金収入の減額は、合計で61,600円となる。

 これは、明らかに国民からの「収奪」に他ならない。それだけ庶民の暮らしは圧迫されることになる。生活アンケートによっても「生活が苦しくなった」という人がほとんどである。

 もちろんわが家も、「生活が苦しくなった」という人々のなかに入る。庶民への暮らしの圧迫は、年金だけにとどまらない。4月からは消費税が5%から8%へと増税された。

 わが家の消費税の額は、8%で計算すると、224,000円である。これは単純な計算で、いくらか誤差はあるだろうが、だいたいの目安としてこれだけの消費税を納めていることになる。

 さらに、来年の10月からは、消費税が10%に増税されようとしている。そうなると、わが家の消費税負担分は、単純計算で280,000円ということになる。

 また、軽自動車税の増税、固定資産税の増税が行われた。わが家の経済はピンチである。「これは国民が痛みを分かち合う」というようなものではない。国家による「収奪」に他ならない。

 これを、「社会保障のため」というのだから、国民を欺(あざむ)くものに他ならない。社会保障はことごとく削られている。年金の減額、生活保護費の減額、医療・介護の値上げやサービスの切捨てなど、枚挙にいとまがない。

 これだけでも、怒りが抑えられないというのに、財界・大企業にはじつに甘い。法人復興特別税の廃止、投資減税、さらに法人税の引き下げなどによって、財界・大企業へのバラマキ政策が行なわれている。

 さらに、それだけではない。「国土強靭化政策」といって、財界・大企業のための公共工事をやろうとしている。その政策によって、中小企業が恩恵を受けるのはごく一部である。

 このように、国民から「収奪」したものを、財界・大企業への減税の穴埋めに使い、不要不急の公共工事に湯水のごとく使うのだから、許しがたい政治だといわなければならない。

 原始共産制社会をのぞいて、国民・庶民はいっかんして時の権力者によって収奪されてきた。それが、21世紀の現代までつづいている。「国民が主人公」といわれる政治がおこなわれてこなかった。

 しかし、資本主義社会が未来永劫つづくわけではない。人類の未来社会は、資本主義社会を乗り越えて、新しい社会へと必ず向かう。ただ、今日の政治的課題は「アメリカいいなり、財界・大企業奉仕」の社会から脱することである。

 当面、社会主義社会をめざすというものではなく、国民が主人公の社会へという、民主主義的な課題である。「アメリカいいなり、財界・大企業本位」の政治から脱し、「国民が主人公」になる社会をめざさなければならない。

 「庶民の暮らし」は、耐えがたいものになっているが、国民も日々の生活や現実を見るなかで、「学習」を積み重ねてきている。国民も目覚めて、やがて必ず「国民が主人公」の社会へと踏み出してゆくに違いない。



‘14年夢日記 「『エッセイの書き方』を読む」

2014(H26)年6月11日(水) 曇り時々雨

   タイトル 「『エッセイの書き方』を読む」

 これは、日本エッセイスト・クラブが編んだ本である。元新聞記者や指揮者、元アナウンサーや歌人・作家13人が、思いおもいに「エッセイ」について論じている。

 「エッセイの書き方」となっているが、いわゆる「ハウツー」本ではない。13人の人々が、「そもそもエッセイとは何か」という「根っこ」の問題に触れたり、エッセイにまつわることどもについて語ったりしている。

 増田れい子(住井すゑの次女)は、このように語っている。「エッセイはもとより小説とは異なる。詩でもないし、また純粋な記録とも違う。だがそのいずれにも共通するのはそこに『真実』が底光りしていること」だ。

 「エッセイや自分史は何を書くことか、といったらそれは『真実』を探りあててそれに言葉を与え、文章に組み立てることだ」。「真実を書くのだ」といえば、私(鬼藤)はちょっとたじろいでしまう。

 そこで彼女は、「ウソは書かない」ことだ、と救いの手を差し伸べる。「ウソを書かない」ためには、「意識的な観察」をせよ、とのべている。これが、「真実を探るための、入り口である」

 そして、「観察の延長としての調査」を求めており、さらに、「調査の延長としての取材と思考」に筆を延ばしている。つまり、ウソを書かないためには、観察、調査、取材、思考が欠かせない。

 つまり、いいエッセイを書こうと思えば、ものの見方、感じ方、考え方、それがエッセイの根幹である。それがなければ、エッセイそのものが成り立たない。

 「結局は自分のいまの生活、暮らしを意識的に生きる、働く、過ごす、言えば日々のいとなみを深くすること以外にないように思う」として、深く生きることが、いいエッセイを書かせる、としている。

 山川静夫は、戸板康二の言葉として次のように書いている。「普通の人がエッセイを書くと、どうも最後の二、三行は必要ないことが多いね」。最後のまとめとして、教訓とか自戒、決意を書くことは慎まなければならない、としている。

 林望は、辛辣(しんらつ)なエッセイ論を展開している。彼は「まずは『書く』ということ以前に、自分のなかに、『書くべきこと』を、観察し、考察し、分析し、蓄積していくという『仕込み』の過程がなくてはならない」としている。

 「ともかく、私の考える『エッセイ』というものは、要するに、『論理的文章』ということで、まったくそれに尽きるのである」。さて、ところが、論理だけでは人はそれを喜んでは読んでくれない。

 「人が読んでくれない文章は、素人天狗の写真と同じ事で、『文章のわざ』として独立している力がない。『読ませる』という技術は、またただの論理的整合性ということとは別の『なにか』に属するであろう」

 「まずはなにごとも日ごろからの旺盛な好奇心、精緻な観察力、それに論理的に分析する思考法を養うことが大緊要事である。ぼんやりしていてはエッセイなど書けるものではない」

 辰濃和男は、こう述べている。「書きたいことを書く。書きたいから書く。これが文章の出発点です。何を書きたいのか、読む人に何を伝えたいのか、その点があいまいでは、いい作品は生まれません」

「誰もが自分の前を見つめるが、わたしのほうは自分のなかを見つめる。わたしは自分にしか用がない。自分をたえず考え、検討し、吟味する」(モンテーニュ)

 「自分のおろかさ、自分のいい加減さ、自分の志、自分の寄る辺を探るためには、はてしない修行の旅を続けるほかはありません。己を深く見極める力をもった文章は熟成した香りを放つ、と信じたい」



‘14年夢日記 「ビールの日」

2014(H26)年6月10日(火) 曇り

   タイトル 「ビールの日」

 アルコール類は、あまり好きではない。清酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ブランディ、ワインなど色々あるが、アルコールは私の嗜好品とはいえない。が、永い人生の中で、ひと通りそれらのものは口にしている。

 一時期、ブランディやワインに凝ったこともあるが、それも長続きしなかった。つまり、根っからのサケ好きではないのだ。嗜好品といえば、私の場合、煙草とコーヒーである。

 このふたつは、たしなむと言うのを遥かに超えて、依存症といってもいい状態に陥っていた。煙草は60歳できっぱりやめたけれど、コーヒーはまだやめられない。

 煙草は、ひどい時は一日3箱60本吸っていた。身体に悪いということは、分かっていたから禁煙に何度も挑戦したが、すべて失敗だった。その挑戦は数え切れないほどしてきたが、その都度、挫折に終わった。

 60歳でやめることができたのは、「禁煙パッチ」のおかげである。もしこれがなかったら、今も吸っているかも知れない。禁煙パッチを身体に貼ると、そこからニコチンを吸収するので、煙草が欲しいとは思わなくなる。

 禁煙パッチが昔からあったなら、もっと早く煙草がやめられていたかも知れない。そうすれば、私の人生も違ったものになっていたような気がする。それほどまでに、煙草は私の精神を蝕んでいた。

 が、60歳で煙草をやめたといっても、その後遺症はついてまわる。病院で検査してもらったら、私の肺年齢は90歳以上だ、というのである。だから、急な坂道を登ると、すぐに息切れがする。

 もうひとつの依存症は、コーヒーである。いま、「コーヒー革命」をやっているところだが、禁断症状が出て困っている。「コーヒーで禁断症状?」と不思議に思われるかもしれないが、それがあるのだ。

 「コーヒー革命」は、歯科医師に「歯が溶けてるよ」と言われて、始めたものだけれど、何か始めようと思っても、思い切りが悪く、何事も始められない。また、本を読んだり、書きものをしたりしても、集中力に欠ける。

 が、「コーヒー革命」は進行中だ。ふんぎりがつかなくても、集中力に欠けても、これはやりとげなければならない。そうしないと、歯が溶けてしまい、その先には入れ歯が待っているに違いない。

 煙草はやめる、コーヒーはやめるということになれば、私の嗜好品は何も残らなくなる。そこで唯一のものが、ビールである。嗜好品をすべてなくしたら、人生は味気ないものになってしまう。

 身体に害を及ぼさないものであれば、摂取しても構わないと思う。人生の愉しみというものもまた、みずから手に入れることが必要だろう。「禁欲生活」をみずから望んですることもないと思う。

 週一回、木曜日、それが私の「ビールの日」である。手のひらサイズ、250mlの缶ビールを1本飲むのが私の愉しみだ。それは、「人生の愉しみ」でもある。

 これがなければ、人生は味気ないし、つまらないと思う。私は僧侶でもないし、また他の宗教者でもない。「人生は愉しく過ごす」べきものだろう。そう思って、「ビールの日」を愉しみにしている。



‘14年夢日記 「『エッセイ脳』を読む」

2014(H26)年6月9日(月) 曇り

   タイトル 「『エッセイ脳』を読む」

 「800字から始まる文章読本」という副題のついた、「エッセイ脳」の本を書いたのは、岸本葉子である。彼女は1961年生まれ、53歳のエッセイストだ。

 彼女の本を手にとるのは初めてだし、そもそもエッセイの書き方という本に触れるのも初めてだ。私はエッセイストになろうというわけではないし、「文章の書き方」のひとつとして読んだしだいである。

 彼女は20年以上エッセイを書いてきており、その中で彼女がどのようなことを心がけて書いてきたかが、この本にまとめられている。そんなエッセイストの文章読本に惹かれて、この本を手にとった。

 この本のテーマは明確に示されている。それは、「自分の書きたいこと」を、「他者が読みたくなるように」書くというということである。これが主旋律で最後までつらぬかれている。

 岸本葉子は、徹底的に読者を意識して、エッセイを書いてきたことが分かる。「自分の書きたいことを、自分が書きたいように書く」のでは、エッセイにはならないと主張している。

 この中で、私の心を惹きつけたのは、起承転結の話である。彼女はよくつかわれる、この文章の構成の在り方を、独自な考え方で論を展開しており、興味深い。

 彼女は、起承転結を分かりやすくこのように分析している。「ある、ある、へえーっ、そうなんだ」という風にとらえることを提唱する。非常に分かりやすい話で、しかも的を射ている。

 「ある、(起句)」、「ある、(承句)」、「へえーっ、(転句)」、「そうなんだ(結句)」というように、定義づけをしている。素人の私にも、よく分かる説明である。

 そして、彼女がもっとも重要だとしているのが、「へえーっ、(転句)」というところだ。つまり、「転」が書きたいことの中心だとしている。読者が、エッセイを読んで「あ、そう」で終わるのは、この転に工夫がないからである。

 これは、エッセイに限らず、小説、作文、シナリオなどにも言えることである。それを彼女は、20年以上の仕事のなかから掴んだということだろう。とくに、エッセイでは、この方法を駆使することの必要性を説いている。

 この本の中で、もうひとつ私の心を惹いたのは、テーマということである。「エッセイは題材から発想する、テーマとは題材を思いつかせるきっかけ、連想の始動装置ととらえる」ということだ。

 小説に手をつけようとするとき、「テーマと題材」の関係性に頭を悩ましてきたが、彼女のテーマの考え方に、私はその呪縛から解き放たれたような心持ちである。ずいぶんスッキリした。

 テーマをおろそかにするわけではないが、テーマを具現化するのは「題材」であるので、その「題材」を発掘し、それを描くことで、テーマを浮かび上がらせるというわけである。

 まだまだ、触れなければならないことがいっぱいあるが、このへんでひとまず筆を置きたい。この本を読んで、エッセイストの「ものの考え方」、「文章の考え方」に触れたことは大きな収穫である。



‘14年夢日記 「寺の鐘」

2014(H26)年6月8日(日) 曇り

   タイトル 「寺の鐘」

 午前6時に目覚まし時計のチャイムが鳴る。布団をけって、私は起き上がる。こういう習慣になって、かれこれ数年が経つ。それから2階のトイレへ上がってゆく。

 1階にもトイレがあるのだが、便座の保温やシャワーの温水のスイッチを切ってある。節約のためである。1階は来客がある時にのみスイッチを入れる。

 2階に上がると、寺の鐘が聴こえてくる。わが家の裏の峠にその寺はある。6時から鐘を打つ。低く太い、おごそかな鐘の音が朝を告げる。一日も欠かすことはない。

 一日の始まりを報せるものである。今日もまた、おだやかな一日の始まりだ。66歳の、変化にとぼしい暮らし。が、それが何にもまして、かけがえのない倖せの日々である。

 海があり、山がある田舎暮らしはおだやかに過ぎてゆく。おそらくこの村は終(つい)の棲家となる故郷(ふるさと)だろう。それでいい、何の不足もない、と私は思う。

 けれど、都落ちという想いがないわけではない。高校を卒業すると、中都市の市役所に勤めるようになった。その市役所を数年で辞め、いくつかの仕事についた。

 その間(かん)、いくつもの恋をして、いくつもの別れがあった。スナックのママとも恋をした。彼女は深夜にアパートへやってきた。ところが私はこわかった。

 結婚という言葉が浮かんだ。しかし、結婚はとても考えられなかった。彼女の求めに対して、私は烈しく忌避した。彼女は私を残してアパートを出て行った。玄関のドアの音が高く鳴って響いた。

 保母さんとも恋をした。彼女はクッションをつくってくれたり、弁当を用意してくれたりした。心づくしの品々を贈ってくれた。彼女の想いが負担になることもあった。

 朝、ジョギングでアパートを出ていると、彼女がやってきて、ドアのノブに手づくり弁当をぶらさげて帰っていた。ピアノの上手な素敵な保母さんだった。

 が、その街に飽き、仕事と恋に疲れ、私はその街から逃げ出すようにして、故郷に帰ってきた。つまり、それは青春の挫折だった。心の病にもかかって、死のうとしたこともあった。

 高校を卒業して、逃げるようにふるさとを脱出したのに、その街からもまた逃げ帰ったのである。街に飽き、疲れて帰ってくると、わが村は温かく迎えてくれた。

 ふるさとは、都会で挫折した人間のいやしの場所だった。心の病もしだいに快方に向かった。新たな仕事も捜して、懸命に働いた。そのおかげで、貧しくとも今の年金生活がある。

 ふるさとの寺の鐘は、今日も静かに鳴っている。



‘14年夢日記 「『近藤勝重の本』を読む」

2014(H26)年6月7日(土) 曇り

   タイトル 「『近藤勝重の本』を読む」

 「書くことが思いつかない人のための文章教室」という本を書いたのは、近藤勝重である。その本に目を通したので、感想を述べておきたい。本を読んだら、できるだけ読みっ放しにならないように、心がけたいものだ。

 いま私は、文章を書くうえで悩んだり、迷ったりしていることがあるので、まずそれを掬いとっておきたい。その問題意識を明らかにしたうえで、近藤勝重の本に触れようと思う。

 まず、「描写と説明」ということである。このブログの文章には、ほとんど描写というものがない。描写がなくて、説明によって文章を成り立たせている。

 もちろん、この文章は徒然(つれづれ)に自分の想いを綴るもので、特に描写が必要だと思わない。が、説明だけでは面白くないのである。読者に与える印象も薄い。

 やはり、描写は読者の心に残る。説明文は読者の心をすりぬけてゆくが、描写文は読者の心にイメージを浮かび上がらせる。読者はそういう文章が読みたいのである。

 ふたつ目は、文末の処理である。私は「です。ます調」ではなく、「だ。である調」で書くタイプである。それは、いくらか小説を書いているので、そこからきている。

 「だ。である調」は、読者に硬い印象を与える。そして、読者に押し付けがましい主張になりやすい。やはり、やさしい感じを与えるのは「です。ます調」である。

 また、文末が、「である。のである」、「だ。のだ」とつづくことがある。同じような文末がつづくと文章を読んだときの、リズムがおもわしくない。このように文末の処理で迷っている。

 もうひとつは、文章の構成の問題である。「序・破・急」や「起・承・転・結」、「現在・過去・未来」など、文章の構成にはいろいろあるが、私はほとんどそれを意識しないで書いてゆく。

 つまり、構成力が弱いのである。書く前に私はほとんど準備しない。いきなり、原稿用紙(パソコン)に向かって書き出す。文章の構成、メモ書きの活用もあまりしない。

 文章を書くにあたって、このような悩みや迷いや問題意識をもって、私は書いている。それで、近藤勝重の「文章教室」の本を手にとったというわけである。

 この本は、私の問題意識に十分応えてくれた、すぐれた「文章教室の本」だった。「描写と説明」、「文末の処理」、「文章の構成」などの疑問が解けていった。

 また、「観察力をどう養うか」や「伝わる文章を書くには?」、「そもそも書く手順とは?」や「推敲(すいこう)」についてなど、分かりやすく書いている。

 この「文章教室」は、すぐれた内容の本だが、しかし、それを一度読んだからと言って、「いい文章」がすぐに書けるわけではない。

 やはり、文章を書くということも、スポーツや音楽や絵画と同じように、それなりの修練が必要である。ときどき、この本をひもときながら、文章を書くことを愉しみつつ、生きてゆきたいものだ、と思っている。

 ちなみに、この本では「結句で決意を書いたり、思う、考える、感じる」という言葉を使ったりすることを戒めている。が、私の文章はそれに反している。「いい文章」を書くことは、難しいということの証左である。



‘14年夢日記 「『清川妙の本』を読む」

2014(H26)年6月6日(金) 雨

   タイトル 「『清川 妙の本』を読む」

 「学んで楽しんで 86歳、こころ若く生きる」という、ちょっと長いタイトルの本を著したのは、清川妙(たえ)である。1921年生まれだから、今年93歳になる。

 先日は「96歳いまがいちばん幸せ」という、吉沢久子の本を読んだ。なぜ、こういう年齢の人の著書に惹かれるかというと、私の年齢と関係がある。

 私は今年67歳になる。70歳に手が届く年齢である。その私に、今をどう生きたらいいか、という問題意識があって、93歳や96歳の人の生き方に興味がある。

 彼女たちの本を手にとってみれば、今の自分というものが、否応なく照らし出される。彼女たちの生き方に、感動をしたり嫉妬(しっと)したりしながら、本のページを開いている。

 彼女たちの生き方を眺めているつもりが、じつは自分の生き方を鋭く問い、見つめている。もちろん彼女たちの生き方にも興味があるが、ほんとうは自分の「生き方探し」なのである。

 清川妙の本を読んでいると、今までの自分の生き方が照射されるから、愉しいばかりでなく怖いという想いにかられることがある。ああ、自分の人生はいったいなんだったのだろうか、と溜息がもれる。

 今まで自分はいったい何をしてきたのか、という悔恨(かいこん)の念におそわれる。今までの人生の道々での生き方が思い出されて、身体が縮む想いがする。

 そこで、清川妙は救いの手を差し伸べてくれる。「大間に合い」という文章のなかで、「何歳でも思い立ったが吉日」として、「大事なのは『いまこのとき』を充実させること」だと綴っている。

 58歳でバイオリンを習い始め、82歳でルーマニアの名曲「バラーダ」を弾き、聴衆を酔わせた女性の話が出てくる。そして、「60歳くらいで志をたてても大間に合いなのだ」と記している。

 清川妙自身、英語の勉強を思い立ったのが53歳。20年間熱心に習いつづけたそうである。そして、イギリスひとり旅を敢行したのが64歳のときだ。以来、ほとんど毎年、彼の地を訪ねはや15回になる。

 これらは、私に対する限りない励ましである。自分の人生を後悔しているヒマなんかないよ。67歳といえば、まだまだこれからじゃないか、と温かく呼びかけている。

 この本のすぐれたところは、やさしい言葉で語りながら、人生の重さ、深さを感じとらせてくれるところである。彼女のやさしさ、豊かさが読者の心を倖せの想いにいざなう。

 人生の深さ、という点でいえば、彼女の古典への興味、教養、知的好奇心などによって、深い人間の営みを心得ていることである。それらの言葉が、この本の随所にちりばめられている。

 古事記、万葉集、枕草子などなどの日本の古典の魅力を語るとともに、古典がいまも生きていることをやさしく語りかけている。その歴史の深さが、読むものの心を深くする。

 なんて豊かな人生を歩んできたのだろうか。いやその人生は過去形ではなく、93歳の今もさわやかに豊かに生きている。まさに、「学んで楽しんで、こころ若く生きて」ゆく清川妙がそこにいる。



‘14年夢日記 「『ETV特集』を観る」

2014(H26)年6月5日(木) 雨

   タイトル 「『ETV特集』を観る」

 NHK、ETV特集「学ぶことの意味を探して」という番組を観た。胸に迫りくるものがあり、いつのまにか、テレビに身体を乗り出して観ていた。

 ふたりの主人公、峯永昭子(まさこ)さんと宮城正吉さんの人生について考える時、その人生はじつに重く、胸を焦がさずに観ることができなかった。

 東京の神田一橋中学校に、通信制教育課程があり、そこの生徒が峯永さんであり、宮城さんだ。そのふたりが、この3月に中学校の卒業を果たしたのである。

 ふたりはともに72歳である。ふたりは諸事情によって、義務教育を受けることができず、中学校の教育課程を終えていなかった。これは、ふたりの人生と「学ぶことの意味」を探ってゆく良質な番組である。

 峯永さんは、昭和29年12歳のとき、蕎麦屋へ奉公に出された。働きながら中学校へ通学させてもらっていたが、奉公という身でその両立は叶わなかった。

 彼女は働きづめの人生だった。23歳のとき結婚し、子どもも授かった。が、中学校で学ぶということは諦めて、生きてきた。そして、通信制教育課程に出遭って入学したのである。

 いっぽう宮城さんは、8人兄弟の5男で、12歳のとき奉公に出され、中学校への道は閉ざされた。彼の人生は苛酷で、よく今まで生き抜いてきたと思えるほどである。

 奉公先ではよく叱られ叩かれた。彼は4年後に奉公先を飛び出し、それ以来30以上の仕事に就いたという。塗装工、タイル工などさまざまな仕事であった。

 中学校を出ていないということで卑屈になり、酒に溺れるということも少なくなかった。そして彼もまた、通信制教育課程に出遭い、入学したのである。

 ふたりの中学校生活は、新しいことの発見と出会いの連続である。方程式が苦手という峯永さんが、それを解いたときの喜びが、画面を通じて伝わってくる。

 宮城さんが、理科の授業で顕微鏡を覗き込む姿は、まさに中学生である。顕微鏡に映し出される木の葉の真の姿に感動する場面は、学ぶことの喜びが伝わってくる。

 英語の授業で、マララさんの言葉を訳す場面も印象的である。マララさんは、パキスタン北部で女の子が教育を受ける機会を奪われたことに対して、異議を唱えた少女である。

 ふたりは、英語教師とともに彼女の言葉を、辞書を引きながら訳す。「私が欲しいすべてのことは教育です」。教育を受ける権利を訴え続けてきた少女の言葉である。

 この言葉は、ふたりにも通じる言葉であった。峯永さんは、「学校に行くと青春になっちゃう」、「学ぶと目の前が開けてくる」と学校生活に目を輝かせる。

 宮城さんは、「今がいちばん幸せ」といい、「学校へ行くと楽しい」と、笑顔で答える。妻は、「学校に行って変わりましたよ」、「優しくなり、丸くなった」と語っていた。

 ふたりは、高校の通信教育課程の受験に合格し、晴れ晴れとした顔が喜びで溢れていた。峯永さんは、「挑戦しないとつまんないじゃない」と学習への意欲をみせている。

 この番組は、今日の学校教育「愛国心」と「競争主義」をおしつけることへの、アンチテーゼでもある。学ぶ喜び、新しい発見の驚き、世界が広がるという「教育の原点」を問うもので、すぐれた内容であった。



‘14年夢日記 「『残った松笠』を読む」

2014(H26)年6月4日(水) 曇りのち雨

   タイトル 「『残った松笠』を読む」

 「残った松笠」は、右遠俊郎の短編小説だ。これは、「民主文学」5月号で、評論家の小林昭が「人間を描く、ということ」と題して、触れているものである。

 これは、右遠俊郎の「告別の秋」の続編ともいえるものだ。いずれも朝日茂を主人公にして、「人間裁判」に踏み込む前の、序章という位置づけができるだろう。

 小林昭は、このふたつの作品について、こう語っている。「この小説は、事柄を背景にして、事件ではなく人間を描いている」

 「ほんとうの敵を見抜いていた朝日茂の心の葛藤とたたかいを描いて、当時の国の非情な政治のありかたと対峙する仮借のない批評になっている」

 この小説は、人はどう生きるのか、人が『にもかかわらず、あえて』なぜ選んだのかを描いている。小説が、人間を描くということは、こういうことだろうと私は思う。

 「残った松笠」とはいったいなんだろう。「残った松笠」とは、おそらく主人公の朝日茂自身に違いない。右遠俊郎は、その松笠を次のように描いている。

 「あ」
 とつぜん彼は、唇の形だけで、声にならぬ叫びをあげる。仰臥したままぼんやりと眺める窓を、黒い糸のようなものが流れたのだ。それは上から下へ垂直に走って、一瞬に消える。

 この黒い糸のようなものとは、松笠である。松笠が落ちる情景を、このように象徴的に表現する右遠の腕は冴えている。この小説の核ともいえる松笠を鋭く描写している。

 「松笠じゃ」と彼は声に出して言ってみた。
 「昨夜は風が烈しゅう吹いたけん」
 彼は優しい気持に浸されながら、松笠の形や色、感触、手の平の上の頼りない重さなどを思い出してみる。

 が、松笠はだれからも相手にされず、一人で黙って落ちてゆく。だれからも相手にされないでひっそりと死んでゆく重症患者のように。

 実際、もっとも信頼し、慕っていた僚友でもあり、患者自治会や細胞でともにたたかってきた、榊が死んだのだ。それを聴いた朝日茂の描写は、息詰まるような、リアリティーに満ちている。

 朝日茂は、厚生大臣に生活保護患者の不服申し立てをしていた。日用品費600円以内ということだが、重症患者の場合、それではやってゆけない、1000円に増額してくれるようにというものであった。

 月400円(内訳、果物甘味料200円、卵十ケ110円、バター四分の一ポンド90円)を日用品費の追加として支給してくれ、というものである。

 それが、却下されたのである。患者自治会の同志、吉行も先月末、医療券を打ち切られて退所していた。また、兄のように慕ってきた榊も死んだ。朝日茂は「残った松笠」である。

 榊が死んで茫然としていた朝日茂であったが、(厚生大臣が何と言おうと、月600円では生きてゆけんのじゃ。それは真実じゃ)その真実を、彼は重症になって初めて、身にしみて知ったのである。

 榊や吉行がいなくても、彼のまわりには多くの生活保護患者たちがいた。吉行が去ったあとの患者自治会にも、新しい活動家が生まれつつあった。坂田がいた。広子もいた。そして、共産党王山細胞の同志がいた。

 朝日茂は孤独ではなかった。孤独ではありえなかった。朝日茂は、生活保護行政訴訟に踏み切ろうとする心持ちを、自身の胸の内側と対峙して問いかけるのだった。決して、「孤独な、残った松笠」ではない。

 この作品は、朝日茂を描きながら、右遠俊郎自身を描いている。朝日茂に自身を投影させ、その中で自身を生き切っているのである。ゆえに、カミソリのように鋭く、濃密な短編小説として屹立している。



‘14年夢日記 「倉敷民商事件第2回公判(1)」

2014(H26)年6月3日(火) 曇りのち雨

   タイトル 「倉敷民商事件第2回公判(1)」

 この事件で、私が不思議だと思っていることを考えてみたい。そのひとつは、倉敷民商の事務局員、禰屋(ねや)町子さんの逮捕・勾留がすでに4カ月を超えていることである。

 禰屋さんは、1月21日に法人税法違反(正犯)の容疑で逮捕された。2月10日には、法人税法違反(ほう助)で起訴される。また、3月5日には税理士法違反で起訴された。

 1月21日に逮捕・勾留されて、すでに4カ月を超え、6月21日には5カ月になる。なぜ、これまで拘束期間が長いのか、不思議でならない。

 禰屋さんが相談に乗っていた、五輪建設は6400万円もの脱税をしておきながら、逮捕も勾留もないという異常な事態が生まれている。五輪建設は法人税違反の正犯である。

 にもかかわらず、ほう助の容疑である禰屋さんとの対比でみるならば、不可解としか言いようがない。検察・裁判所の禰屋さんへの扱いは、不当だといわざるをえない。

 これは、「人質司法」とよばれるもので、日本の司法制度による、身柄拘束における問題点である。これは、禰屋さんが「黙秘」あるいは「否認」をしているからにほかならない。

 黙秘や否認は当然の権利である。それを検察も裁判所も、容疑者や被告人に告げなければならないとされている。じっさい、裁判所も初公判の時、黙秘によって不利益をこうむることはない、と告げた。憲法第38条で、基本的人権として黙秘権が保障されているのである。

 その第2項で、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」と、謳っている。

 身柄の長期拘束によって、自白や警察、検察の意に沿った供述を得ようとしているとして、その問題点が指摘されている。このような「人質司法」が、冤罪(えんざい)を生む温床になっているのである。

 ふたつめに不思議に思うのは、禰屋さんの夫であっても面会が許されないことである。手紙であっても、禰屋さんには直接渡らず、弁護士が窓口で読み上げることしか許されていない。

 なぜこうしたことが起きるのだろうか。それは、「接見交通権制限制度」といって、やはり「黙秘」や「否認」をしているからにほかならない。家族の面会拒否もまた異常というほかないものである。

 だが、禰屋さんは、「人質司法」に対しても毅然とした態度をつらぬいている。倉敷民商弾圧事件として、法人税違反(ほう助)と税理士法違反の容疑に対して、きっぱりと無罪を主張しているのである。

 第2回公判では、検察側の冒頭陳述が行われた。冒頭陳述とは、辞書によると、刑事訴訟において、証拠調べ手続きのはじめに、検察官が証拠により証明しようとする具体的事実を明らかにすること、とある。

 その冒頭陳述に対して、弁護団は(8名で構成)、①膨大な押収資料の証拠が提示されず、証拠隠しが行われていること。 ②国税査察官の上澄み(うわずみ)の資料のみであること。

 ③どんな工事で、何をどれだけ売り上げ除外しているのか。 ④莫大な証拠収集をしているが、検察の都合のいい証拠だけを提示している、として証拠の開示を要求した。

 それに対して、裁判所は休憩をとって、裁判官の合議をおこない、検察官に事実上の証拠開示を行うように勧告した。この裁定は、弁護団の主張が認められたという点で、大きな意味を持つものである。

 第2回公判の傍聴は、前回を大きく上回り傍聴席に入れない人々が多数に及んだ。支援の輪が次第に広がっていることを、伺わせるものである。次回の公判を7月10日にすることを決めて、第2回公判を終えた。



‘14年夢日記 「ゴルフ開眼」

2014(H26)年6月2日(月) 晴れのち曇り

     タイトル 「ゴルフ開眼」

 開眼(かいげん)とは、慧眼を開くこと。仏教の真理を悟ること。また、一般に芸道などでさとりを開くこと、とある。ここでいう、「ゴルフ開眼」とは、後者のことをさす。

 私が初めてゴルフに接したのは、20年ほど前のことである。職場で仲間とコースに出たり、大会に出場したりするようになった。そのために、初めてゴルフクラブを握り、ゴルフ練習場に出かけたのである。

 私はゴルフに夢中になった。練習場に通って、両手の豆がつぶれるまで、クラブを振りつづけたことも少なからずあった。その練習ぶりは徹底していて、職場でも話題になるほどだった。

 ゴルフ教室にも入門した。数カ月教室で学んで、ホームの基本やグリップの握り方などを教えられた。ゴルフ教室は、愉しくてその日が待ち遠しいほどだった。

 が、ゴルフは思ったよりも難しかった。人はよく言ったものだ。「野球のボールは動いて変化するけれど、ゴルフは止まったボールを打つのだから、たいしたことはないだろう」

 私もはじめはそう思った。けれど、止まったボールを打つということが、どれほど大変かということがすぐにわかった。ボールの手前の芝生を叩く「ダフリ」やボールの頭を叩く「トップ」などがある。

 それだけではない。次はボールが真っ直ぐに飛ばない。つまり、フックやスライスになるのである。ゴルフ場では、ボールが林の中に消えていく。ボールを捜して林の中を這うことも少なくない。

 そんな私であったが、定年退職になってからは、ほとんどクラブを握るということがなくなった。もう数年、ゴルフからはなれていた。玄関のゴルフバッグは白いほこりをかぶっている。

 それが、どういうわけか自身でも分からないのだけれど、ゴルフが無性(むしょう)にしたくなった。青い芝生、青い空、その中をボールが飛んでゆくイメージが湧いてきたのである。

 そして、5月13日にゴルフ練習場にゆき、メンバーになったのである。それから、4回練習場に足を運んだ。数年、クラブを握っていなかったけれど、比較的ボールを真っ直ぐ飛ばすことができた。

 3回、4回目から、私はいままでの打ち方を少し変えてみた。つまり、ホームの基本を守りつつ、比較的自由なホームで、クラブを振るということだ。

 今までは、ホームの基本に縛られすぎて、身体は固まったような状態でクラブを振っていたのだ。そのホームの基本を解いて、自由にクラブを振ると、いい球が出るようになった。

 私は「ゴルフ開眼」だと思った。バックスイングはこのようにして、フォロースルーはこうしてというような縛りから「解放」してやると、ボールが勢いよく真っ直ぐ飛ぶようになったのである。

 何事も基本は大切だけれど、それを基礎にしつつ自身のオリジナルな方法でやることが、求められるということだ。これからは、「縛りから解放して」自身の独自なホームで、ゴルフを愉しみたいと思う。



‘14年夢日記 「6月をデザインする」

2014(H26)年6月1日(日) 晴れ

     タイトル 「6月をデザインする」

 6月11日は入梅である。梅雨に入れば、湿度と気温が高くなり、一般的には「厭な季節」というところであるが、私にとっては必ずしもそうとはいえない。

 どちらかというと、私は汗をかくような、暖かいというか、暑い季節が体質に合っているので、「厭な季節」とは思っていない。が、長雨だけは憂うつで陽射しのあるほうがいい。

 暑い季節は、「私の季節」であり、身体を縮めて暮らすよりは、身体を伸ばして生きてゆくほうが好きである。だから、幾日も降りつづく雨は厭だけれど、暑いのは一向に構わない。

 裏山では、ウグイスとホトトギスが啼き交わし、村の田圃では田植えが始まることだろう。もう田圃の一画では、苗が勢いよく芽をだし、育っている。まもなく、田圃に水が引かれることだろう。

 6月10日には、倉敷民商事件の小原淳さんと須増和悦さんの、第2回公判が開かれる。もちろん私は傍聴に出かけるつもりである。岡山市まで往復3時間かかるけれど、傍聴には必ず出向いてゆきたいと思っている。

 それにしても、この事件は異常である。禰屋(さん)は、1月21に逮捕・勾留されていまだにそれが続いている。今月には勾留が5カ月にもなるのである。

 小原さんと須増さんは、2月13日の逮捕・勾留だから、今月で4カ月にのぼる。理由は「証拠隠滅の恐れあり」ということだが、そんなものは、自宅にも事務所にも残っていない。

 トラック1台では足りないほどの、「証拠物件」といわれるパソコンや資料を押収していったのだから、もう「証拠隠滅」するものは何もないのが実情である。

 保釈請求はしているのだが、それを認めようとしない。これは、人質司法といわれているもので、この不当な勾留を一刻も早くやめさせ、釈放を勝ちとらなければならない。

 6月の読書は、藤沢周平のものを中心に読んでゆくつもりである。いま、藤沢周平の評論を読んでいるので、それが終わったら全集にかかってゆこうと思っている。

 彼の作品はかなり読んでいるが、もう一歩踏み込んでゆきたい。彼の底辺に流れる思想に惹かれるし、読み物としても優れているので、愉しみながら本に触れてゆくつもりだ。

 「書くこと」は、毎日机に向かい原稿用紙に紡いでゆくことをやってゆきたい。私の愛読している作家のブログが、5月27日で3806回目の更新だということである。

 3806回といえば10年という歳月、毎日ブログを更新したことになる。私もそれをめざしてゆきたいものだ。それを続けるということは、つまるところ、「考える力」を養うということである。

 最後に、6月に愉しみにしていることは、ゴルフである。ゴルフ練習場での打ちっ放しのゴルフだが、それがとても愉しい。「ゴルフ開眼」をめざして週一回足を運ぶつもりである。



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 1947年生まれの70歳で、
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 住所は岡山県浅口市寄島町です。
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 名前は「千春」ですが、男性です。

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