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‘14年夢日記 「3月を回顧する」

2014(H26)年3月31日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ストップ消費税増税 現場からの告発 
 愛知 下請け中小企業 3割が「価格転嫁できず」

     タイトル 「3月を回顧する」

 3月は「冬から春へ」と季節が進んだ月であり、そのために生活の仕方も大きく変わった。12月、1月、2月と今冬はとても寒かったので、私は「冬ごもり」状態であった。3月はそれから解放されて「外へ出る」ことも多くなった。

 3月に外へ出た内容を挙げると、まず「クラシックコンサート」の鑑賞に足を運んだことである。「春」というテーマで演奏され、心が弾み気持ちが明るくなる催しだった。次は「岡山弁再発見」という講演で、文字通り再発見をした楽しい会だった。

 もっとも私の心をときめかせたのは、「ちいさな旅」だった。倉敷市児島へでかけ、旧野崎家住宅、鷲羽山、渋川海岸、王子が岳めぐりは心に残る旅だった。そして、笠岡市干拓地の菜の花、1000万本が咲き誇っていたのは壮観であった。

 生活の変化は、石油ストーブの使用をやめたことと、ウオーキングを外で始めたことである。散歩をしていると、ウグイスやヒバリ、スズメその他の名も知らぬ小鳥たちの鳴き声が聴こえてきて心地よい。まだ風は少し冷たいと感じるが、それが身体をかすめて流れてゆくと、気持ちを引き立ててくれる。

 彼岸を迎え、書斎のカーテンを開いて、外の世界の風景を眺めて春の趣を感じている。朝日が裏山を金色に染めてゆくさまは、眺めていて心を爽やかにする。村の寺の本堂や庫裏、境内の銀杏の大木も見ることができる。朝の6時には寺の鐘が打たれて、それが聴こえてくると、心が清らかになるような気がする。

 読書はあまり進まなかった。「前衛」の4月臨時増刊号と「民主文学」4月号、それに小説を少しばかり読んだに過ぎなかった。が、3月から変わったことがひとつある。それは、新聞を見出しだけではなく、内容まで突っ込んで、深く読むようになったということである。

 これからは、読書はもう乱読はしないでおこうというのが、現在の心境である。あれもこれもという風に読んできたが、今後は厳選したものだけを読みたい、というように変わってきている。今、岡山県立図書館に、インターネット予約をしているのも「これは」と思う本だけである。

 ブログを開設して今日で、ちょうど6カ月である。3月も欠かすことなく、夢日記を綴ってくることができた。が、決して容易なことではなかった。しかし、夢日記を書くのが、私の大きな日課になっており、ひとつの喜びでもある。

 なにはともあれ、3月は「冬から春へ」と季節が移行した月であり、私の心の在り方も水がぬるむような感じをもたらしている。4月はさらに季節が進む。「3月から4月へ」、さらに胸をときめかせて、生きてゆきたいと思う。



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‘14年夢日記 「鶴竜 横綱に」

2014(H26)年3月30日(日) 雨のち曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 安倍「改革」から子ども守ろう
 憲法の大切さ伝えたい 全国の教職員集う

     タイトル 「鶴竜 横綱に」

 「謹んでお受けします。これから、より一層稽古に精進し、横綱の名を汚さぬよう、一生懸命努力します」
 これは、横綱伝達式で述べた鶴竜の口上である。四字熟語を使わずに平易な言葉で語っており、この方が鶴竜の気持ちが伝わってきて好感が持てる。

 私は相撲が好きである。もう50年以上にもなるが、私たちの小中学校の時代は、スポーツといえば相撲とソフトボールであった。地域の友達や級友たちとちょっとした時間があれば、広場に円を描いて相撲をとって遊んでいた。

 その頃は栃若時代で、栃錦と若乃花の取り組みをテレビでよく観戦した。まだテレビがあまり普及していなくて、村の有力者の家に行って観ていた。その家の座敷は子どもたちや大人で溢れるようだった。セピア色をしたその頃の思い出が甦ってくる。

 貧しい時代であった。子どもたちは膝に穴の空いたズボンと、袖に鼻汁をつけた服を着て学校に行ったり、地域で遊んだりしていた。貧困な暮らしの中でも相撲は子どもたちを熱狂させた。テレビを観るのも自分たちで取るのも、相撲はその時代のひとつの象徴であった。

 鶴竜は地味な力士だ。しかし、私は好きな相撲取りのひとりである。彼の表情や相撲の取り口も決して派手ではない。だから、決して人気のある力士とは言えない。が、相撲はうまくて、技能賞7回というのがそれを物語っている。

 鶴竜は、モンゴル出身で大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時には、テニス、バスケットボール、レスリングにも励んだ。そして、親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生といわれていた。

 その彼が日本の相撲に魅せられたのは、中学の頃、当時活躍していた旭鷲山によってである。そして、日本の相撲の世界に憧れて、モンゴルで行われた花籠部屋の選考会に臨んだが不合格になった。

 しかし、彼は諦め切れず、日本相撲振興会に手紙を送り、その熱意が認められて井筒部屋に入門することが決まった。2001年5月、16歳で来日し11月に初土俵を踏むに至った。その頃の体重はわずか65キログラムしかなかった。

 井筒親方は最初、床山にでもするかと思ったという。とても相撲をとれるような身体ではなかったのである。しかし、彼は嫌いだった魚料理も克服し、食べられるようになり、今では154キログラムまで体重を増やすことができた。

 週3回の筋力トレーニングも地道に続け、その努力が花開いたのである。横綱審議委員会の評価は、「真面目な人柄とひた向きな姿勢」ということで、横綱への推挙が決まった。16歳で来日し、それから12年の努力が実を結んだのである。

 これからも、派手でなくてもひた向きに稽古をし、できるだけ長く綱をはって、若い力士から慕われるような横綱になるように、願っている。



‘14年夢日記 「里海 SATOUMI」

2014(H26)年3月29日(土) 曇りのち雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 「原発ゼロ」官邸前行動2年 
 「川内」再稼動はダメ

     タイトル 「里海 SATOUMI」

 NHKスペシャル「里海 SATOUMI 瀬戸内海」という番組を観た。瀬戸内海というのに惹かれて、テレビのスイッチを久し振りに入れたのだが、いろんな発見をさせてくれる内容であった。里山というのは、聞き慣れていたが、里海というのはめずらしい言葉である。

 里山というのは、住民が森や畑、田圃と共生する地域のことである。里山もずいぶん衰弱してきているが、それを再生する試みもなされており、それが一定成功している地域もある。

 里山の森には、ひとつは災害を防ぐ役目がある。高い木々が台風などをやわらげてくれたり、木々が根を張る大地は、スポンジのように水を蓄え、土砂崩れや洪水を防いでくれたりする。

 また、森は空気を浄化する役目ももっている。植物は光合成によって、二酸化炭素を吸って酸素を供給する。これらの役割を再認識して、森や畑、田圃とともに暮らすことが里山とともに生きることである。

 里海というのは、里山の沿岸海域版ともいえるものである。私が子どもの頃は、まさに瀬戸内海は里海であった。水質もきれいで豊富な魚介類が生息しており、沿岸住民は海を慈しみ、海と共生してきたのである。

 漁師たちは海の恵みによって、生かされ生活してきた。私たち子どもも学校から帰ると、いち早く海に入り、魚やシャコ、カニ、エビ、タイラギ、モガイなどを獲って、夕食の食卓を彩らせた。漁師たちや子どもも海とともに生きてきたのである。

 ところが1970年代になり、コンビナートの建設などによって工場廃液が垂れ流され、そして経済の発展にともない、洗剤などの有害な生活排水が海へと流入していったのである。そのために、瀬戸内海は「死の海」と化しつつあった。

 そして、赤潮の発生によって、魚の養殖やノリの養殖などに甚大な被害をもたらした。もちろん、魚介類も激減していったのである。まさに、瀬戸内海は「瀕死の海」と言われるようになった。船から降りる漁師たちも少なからず出た。

 その「瀕死の海」を甦らしたのが、カキの養殖や漁師たちの地道な努力であった。カキの養殖や海草のアマモを育てることによって、水質が浄化されていったのである。カキが赤潮の原因となるプランクトンを食べ、透明度が増した海域では光合成がすすみ、アマモが酸素を供給する役目を果たした。

 そこには、さまざまな魚が集まり、漁場が復活しつつある。里海をSATOUMIと表現するのは、海外で日本の経験が広がりつつあるということである。アメリカやインドネシアでも、日本の里海の経験から学び、新しい試みがされている。

 海は自然のままにまかせておけばいい、という「常識」があったが、そうではなくて、海とともに生きる人々のたゆまぬ努力が、里海を甦らせたのである。



‘14年夢日記 「ささやかな抵抗」

2014(H26)年3月28日(金) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 NHK予算案 異例の6党反対〝会長発言に国民の批判〟 
 2万3300件 「偏った放送心配」

     タイトル 「ささやかな抵抗」

 歴史的に大きな汚点の日がまもなくやってくる。それは、歴史に刻まれることになる、消費税増税の日である。4月1日から消費税が5%から8%になる。最悪の庶民増税であり、逆累進性の不公平税制である。

 ほとんどの消費にすべての人々が同じ税率で課税されるから、平等・公正な税制だという人がいるが、それはいささか違っている。これは裕福な大金持ちの人も、生活がギリギリの人も同じ税率が課せられる。

 例えば、所得が3000万の人と200万の人を比較すれば、それはよく分かる。これをすべて消費に遣ったとして、考えてみよう。3000万の人の8%の消費税は240万で、200万の人は16万である。

 あとに残る可処分所得は、3000万の人は、2760万で、200万の人は184万となる。しかしこれは、税負担は「平等」かもしれないが、公正では決してない。一方は、2760万の可処分所得で、一方は184万で暮らしていかなければならない。

 しかも、3000万の人の生活費が3000万というわけではないから、所得に占める消費税の割合はずいぶん小さくなる。それに引き替え、200万の人は所得に占める消費税の割合は極めて高くなる。まさに、逆累進性である。

 やはり、「生活費には税金をかけない」ということと、負担に十分耐えうる人に課す「応能負担」というのを、税の原則とすべきである。その原則からいって、この消費税は庶民泣かせの、理不尽な税制だといわなければならない。

 2014年度の予算が20日成立したが、その内容は消費税増税と社会保障改悪を合わせ、10兆円という負担増を国民に押し付けるものである。国民には消費税増税、社会保障バッサリ、軍事費の大幅増となっている。

 この予算は決して容認できるものではないが、一方で生活を守るという観点から、私は生活必需品を買い求めにでかけた。消費税増税前にという心理が働いているのか、店の中はいつになく賑わっていた。

 一方で消費税中止の署名もするし、一方で消費税が上がる前に買い物もする。これは、庶民の「ささやかな抵抗」である。いま、「揺りかごから墓場まで」という商品が、駆け込みで求められている。

 赤ちゃんのミルクから、墓石までが駆け込み需要として求められているのだ。墓石なども例年の5割増し、あるいはそれ以上の需要があるという。これらの庶民の消費行動を「浅はか」だとみてはいけない。

 この庶民の「ささやかな抵抗」は、いつか大きなうねりとなって、政治を変える力に転化する時が必ず訪れるだろう。時の権力者は、決して庶民をあなどってはいけない。

 彼らには、あるいは庶民が愚鈍に映るかもしれないが、庶民はきっと聡明さと行動に目覚める時がくる。私もそのひとりである。



‘14年夢日記 「菜の花と海」

2014(H26)年3月27日(木) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 消費税5%増税から17年 進む貧困化に大増税が直撃 
 「貯蓄なし」3倍 賃金70万円減

     タイトル 「菜の花と海」

 菜の花や 月は東に 日は西に

 菜の花を 墓に手向けん 金福寺

 菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる    与謝蕪村

 菜の花の 遥かに黄なり 筑後川    夏目漱石

 岡山県笠岡市の干拓地に、1000万本の菜の花が咲き誇っているというので、出かけることにした。加藤登紀子の「100万本のバラ」というのは好きな歌だが、その10倍の1000万本というのだから、それに惹かれて車を走らせた。

 私の村から、右に左にうねった海岸線を通ってゆくことにして、しばらくその道を駆けた。

 春の海 ひねもすのたり のたりかな    与謝蕪村

 瀬戸内海を左に見て、海岸線をゆくと青い海に白波が立っている。与謝蕪村の詠った春の海ではなかったが、しかし、春の陽光が降り注ぎ海は万華鏡のように色彩を変え、きらめいていた。

 私は何度も道の脇に車を停め、海を眺めた。岸辺に打ち寄せ、波が白く砕けている。遠く瀬戸の島々が浮かんで、霞んでいた。白と緑色のフェリーが、白い尾を引いて遠ざかってゆく。少し風があって、「のたりのたりかな」という風情ではなかったが、春の海に感動して、思わず声を挙げずにおられなかった。

 1000万本の菜の花は、壮観であり圧倒された。まさに菜の花の黄色い絨毯である。今冬は寒かったので、花が開くのが1カ月遅れたそうだが、ようやく見ごろになったようだ。

 若いカップルや幼い子どもたちが菜の花畑に入って、その花を満喫していた。まだ7分咲きだということなので、まだまだ美しくなってゆくだろう。菜の花畑をそぞろ歩きをしていると、その花の香りが漂ってきて、その匂いに包まれる。感動の一瞬である。

 多くの人が、菜の花の観賞にきていて、菜の花畑を散策したり、カメラのシャッターを切ったりしている。私も遊歩道をゆっくり歩いて、菜の花畑を見渡して黄色の鮮やかさに見とれていた。見ごろは4月いっぱいなので、もう一度来てみようと思った。

 が、違和感を覚えないわけではなかった。与謝蕪村の詠った菜の花とは少し違うように思った。どこか、人工的なのである。情緒にどこか欠けている。小さい畑にひっそりと、そして鮮やかに咲く菜の花とは趣が少し違うのである。

 しかし、「菜の花と海」に魅せられた一日であった。風は少しあったが、春の陽光が海と菜の花に降り注ぎ、きらめいていた。この感動は忘れられないものとして、心に刻まれることになった。



‘14年夢日記 「カーテンを開いて」

2014(H26)年3月26日(水) 雨時々曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 消費税増税 中止を 共産党が連続街頭宣伝 
 中小企業・暮らし守る政治に

     タイトル 「カーテンを開いて」

 「カーテンを引く」というと、開くことなのか閉じることなのか、どちらでも用いられる言葉である。「幕を引く」といえば、劇が終わり閉じられることを意味するのだが、カーテンの場合ははっきりしていない。

 だから、「カーテンを引く」という言葉を使う場合は、前後の言葉でそのようすを理解することになる。たとえば、「カーテンを引くと、遠くに光る海がみえた」とか、「カーテンを引くと、部屋は鮮やかな水玉模様の色彩に変わった」というふうに使えば、意味が通じる。

 それはともかく、私は北東の隅にある書斎のカーテンを、3カ月振りに開いた。1月から彼岸過ぎまでの3カ月である。レースのカーテンとドレープのカーテン(厚手の生地のカーテン)を開いた。

 3カ月もカーテンを閉じていたのは、窓の結露を防ぐためである。1月から彼岸過ぎまで石油ストーブを使っていた。すると、窓に水滴がついて、窓の下の方が濡れてしまうのだ。そこで、二重のカーテンを閉じていたのである。

 カーテンを閉じた書斎は、それはそれで小宇宙のような世界ができて、困りはしなかったけれど、しかしカーテンを開いてみると、世界が広がったようで心も何かから解き放たれたような心持ちになった。

 窓枠で切り取られた風景は、いろんな世界を見せてくれる。右左の山と山の間の谷が峠になっていて、それを越えれば隣の町である。峠には古刹があって、本堂や庫裏が見える。あの高い樹木は境内にある銀杏である。

 朝食はパンと牛乳、ヨーグルトと青汁なので、私は書斎で摂ることにしている。パソコンからは、山崎ハコ、中島みゆき、井上陽水、ばんばんなどの楽曲が流れている。それを聴きながら、外の風景を眺めてパンをかじるのである。

 すると、山の頂が陽射しで金色に染められてゆくのがわかる。その陽射しは、しだいに山の裾のほうに下がって、浅緑をした竹林などを浮かび上がらせる。まだ、山は枯色だが常緑樹などが、緑の葉を広げている。

 カーテンを開くことで、大きく世界が開かれたような心持ちになるから不思議である。あの峠の向こうには、国道がありJRの電車が行き交っているようすが浮かんでくる。この小さな村から窓を通して世界が見える。

 ロシアの理不尽なクリミア併合などの世界情勢なども、より一層リアルに映し出される。また、大増税・社会保障削減・軍拡予算の成立なども、明瞭に浮かび上がってくる。この窓は世界に開かれた窓である。

 「カーテンを開いて」みると、小宇宙から大きな世界へと通じてゆくような心持ちになる。青空が広がり、白い雲がゆっくり流れゆくさまを見ていると、心が広く豊かになってゆくようである。



‘14年夢日記 「坪井あき子さんのように」

2014(H26)年3月25日(火) 曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 4月消費税増税を正当化 
 政府広報の偽り

     タイトル 「坪井あき子さんのように」

 「赤旗」日曜版に、次のような詩が掲載されている。

 「まひるの星座」

 山里の枯れ草の道を
 ひとりで歩く
 見上げると
 澄みきった冬空に
 せんだんの木が
 大きく枝をひろげている
 細い枝先に
 うす黄色の実をとまらせて
 小さな宇宙 まひるの銀河

 この道を ふたりで歩いた日
 いっしょに見上げた
 せんだんの実の星座
 ひろがる枝々の向こうをゆびさして
 あなたは言った

  ――空の奥に
    北極星は
    いつもある――

 ひとりで歩く 山里の道

 これは岡山県の文学者、坪井あき子さんの詩である。ちなみに選者は柴田三吉さんで、その評についても記しておきたい。

 「まひるの星座」。 見上げた<せんだん>はそれなり樹高があったのでしょうね。枝いっぱいについた実を<まひるの銀河>と見た、坪井さんの目は新鮮です。かつてともに歩いた人の言葉もすてきです。日中は見えなくとも、空の奥にある北極星。それこそが希望の象徴ですね。

 詩もすぐれているが、選評も正鵠を得ている。もっといえば、「あなた」は坪井宗康が偲ばれるし、北極星は共産党の暗喩であるように思う。

 鶴見俊輔ら知識人が、共産党の揺るがない社会的信頼と道徳的権威について、北斗七星にたとえている。戦前、知識人が共産党をそのように見て、自己の流されっぷりを推し量る尺度にしていたという話である。

 この詩の北極星もまた、揺るぎない共産党の姿を謳ったものに違いないと思われる。「まひるの星座」は短い詩だけれど、このように広く深い内容をもったものである。ここに、坪井あき子のしなやかで、強靭な詩精神が息づいている。

 岡山県立図書館に所蔵されている、彼女の書籍は10冊にのぼる。詩、童話、創作、詩文集と旺盛に書き続けてきて、今でも創作意欲は衰えることがない。

 彼女は私の憧れの人であり、「坪井あき子さんのように」生きたいというのが、私の願いである。



‘14年夢日記 「失敗の中に発見がある」

2014(H26)年3月24日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 暮らし危機クライシス 
 生活・営業を増税が直撃

     タイトル 「失敗の中に発見がある」

 「赤旗」日曜版に竜王・名人の森内俊之さんが登場し、次のように語っている。「負けには理由があります。負けた理由を考えていけば発見がある。将棋でずっと勝ち続けることはできません。大事なのは、負けから学び次につなげることです」

 また、日曜版の同じ号の、「未来を耕せ 20代 新規就農で奮闘中」という記事のなかで、若者が登場し「失敗もすべてがいい経験になっています。手を掛けただけ応えてくれるトマト。今年はもっとおいしくつくります」と述べている。

 これは棋界最高位とされる竜王・名人の2冠をもつ最強の棋士であっても、農業を始めたばかりの青年であっても、「失敗の中に発見がある」ということを語っているように思う。「そして、大事なのは、負けから学び次につなげる」ことが大切だと述べている。

 私もそろそろ老境に入りつつあるけれども、人生を振り返ってみれば、失敗を限りなく積み重ねてきたように思う。もう一度人生をやり直せるなら、このように生きたいという思いがないわけではないが、しかしそのような人生はつまらないように思える。

 私の歩んできた人生は、毎日が新しい時空との出会いであり、毎日が新しい挑戦であった。新規就農の若者たちもそれと同じではないだろうか。毎日、毎日が心を震わすような新しい日々であり、挑戦の日々に違いない。

 トマトひとつ作るのも、試行錯誤の連続であり、失敗の連続であるような気がする。私もまた同じような人生を送ってきたのである。「ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」というのは、限りなくあるような気がする。

 それは、見方をかえれば、毎日新しい世界のなかで挑戦を続けてきたということでもある。「何もしなければ失敗というものはない」けれど、失敗を重ねてきたということは、それがひとつの生きた証ではないだろうか。

 若いときは特にそうである。老境に入りつつある私は、もう大きな失敗はないような気がする。ということは、新しい冒険や挑戦に向かってゆくということが少なくなっているということでもある。若い人たちは、これから巣立ちをして、新しい世界へ飛翔してゆくのだから、当然そこには失敗がつきものである。

 「失敗の中に発見がある」というのは、真理だろうと思う。失敗があるということは、生きているということの証左であり、それを重ねる中で人間として成長してゆけるように思う。人間はやはり失敗の中から学び、それを生きた教訓として、次への歩みを開始する。それがまぎれもなく人間というものだろう。

 私も今から悟りを開くのは早いような気がする。まだまだ人生の挑戦をつづけ、「失敗の中に発見がある」ような生き方をしたいと願っている。



‘14年夢日記 「暑さ寒さも彼岸まで」

2014(H26)年3月23日(日) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 原発低レベル廃棄物 56基で49.6万立方メートル 
 再稼動・新設でさらに増 原発推進の矛盾深刻

     タイトル 「暑さ寒さも彼岸まで」

 「暑さ寒さも彼岸まで」というけれど、その言葉通り最高気温の予報では、23日16度、24日18度、25日18度となっている。いよいよ春の到来である。18日には高知でサクラの開花宣言がなされた。この調子でいくと、サクラ前線は一週間余で東京までたどりつくらしい。

 そもそも、春分というのは二十四節気のひとつで、3月21日は彼岸の中日にあたり、この日、太陽は真東から昇り真西に沈み、昼と夜の時間がほぼ等しくなる。この日を境に、次第に昼が長く夜が短くなってゆく。寒さも峠を越して、温和な季候になっていくことだろう。

 私も墓参りを済ませたが、なぜ彼岸に花や線香を手向け、先祖の供養をするのだろうか。

 少しく調べてみたら、彼岸とはサンスクリット語の「paramita(波羅密多)」の漢訳である「到彼岸」の略語だそうだ。波羅密多の意味は、悟りの世界「彼岸」に達成することや、そのための修行のことをいうらしい。

 西方に極楽浄土があると考えている人々(仏教)は、真西に沈んでいく太陽をみて、極楽に旅立った故人に思いをはせ、仏壇やお墓に手を合わせるようになったといわれている。

 私は彼岸の入りの翌日19日に、菩提寺にある墓所を訪れ、お墓を水洗いし清浄にして、花と線香を手向けた。この墓所にはお墓が2基あって、両親と兄が眠っている。

 私が墓参をするのは年4回である。正月、春彼岸、お盆、秋彼岸という具合である。それぞれ早朝に出かけて行って、たっぷりと水を含ませたタオルで、お墓を隅から隅まで洗浄するというのが私の役目である。そして、お供えものをして先祖の供養をする。

 先祖の供養といっても、この墓に眠っているのは父と母、そして兄で、墓参をすれば3人の生前の姿が甦ってきて、いろいろな情景が浮かび上がり故人が偲ばれる。

 父は生前に、亡くなる前だったが、自分が入ることになる墓を建立した。父は養子縁組で生家を出ることになったが、その生家は菩提寺のすぐ隣に位置するところにあった。それでとりわけその墓に愛着をいだいていた。

 だから、生前墓が完成したときは、このうえもない悦びようだった。兄が撮った墓の写真に額縁をつけて、枕許に置いていた。大工だった父は自分で額縁を造ってその写真を大事にしていたのである。

 「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、これからは私の好きな春、夏がやってくる。冬とはまた違った暮らし方、生き方を探ってゆきたい、と思っている。



‘14年夢日記 「人間とは」

2014(H26)年3月22日(土) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ストップ消費税増税 現場からの告発 
 千葉・松戸市で「会」結成 飲食店・書店組合も共同

     タイトル 「人間とは」

 約50年前のことである。高校2年か、3年の頃だったが、その時代、「人間とは何か、人間らしく生きるとは」ということで、ずいぶん悩んだことを憶えている。その頃の生き方、暮らしぶりの情景も鮮明に甦ってくる。

 私にとって、高校時代というのは、文芸復興・人間復興という、ルネッサンスの時代であった。それまで、幼・小・中といろんな悩みに囚われて生きてきた。ルネッサンスは、神中心の中世文化から人間中心の近代文化への端緒をなした、といわれている。

 私もまた、いろんな悩み、呪縛に囚われていたが、「人間とは、人間らしく生きるとは」を考える中で、ある高校教師に出会った。そして、自身の生き方と社会変革の事業を、結びつけて生きることへの示唆を受けて、新しい歩みを開始したのである。

 その時代は、私の飛躍の時代であった。それまでの呪縛から解き放たれて、自由に飛翔する翼を自らのものにしたように思う。が、「人間とは、人間らしく生きるとは」、という命題が解決されたわけではなかった。

 その命題は決して解決されるわけではなく、老境にさしかかった今も、その問題は私の追求すべき課題である。高校時代から今日まで私はそれを、文学を通して考えてきたように思う。

 私は「詩作から小説へ」と文学のジャンルは変わったけれど、いずれも人間について、人間の在りようについて考えるということについては、いささかも変わっていない。人間について考えてゆくという営為は、広く深い世界に足を踏み入れてゆくことである。

 小説は、人間を描くことである。私がめざしているのは、「時代と社会と人間」ということだ。時代の中における人間の在りようを追求してゆきたい、と願ってきたしこれからもそうである。

 したがって、時代は不変ではなく、絶えず動いてゆくものであるから、人間をその中で捉えようとすると、決して追求する課題が枯渇するということはない。

 「文学あるいは人間を追求する生き方をしたい。そのために自分の一生を棒に振っても悔いはない」、という作家がいたが、彼はこの世にいい仕事を残して永遠の人になった。

 高校時代に「人間とは」という哲学的な自問をして、やがて50年である。もちろん、その自問から離れて、目の前の生活と仕事に忙殺されてきたこともあったが、しかし私の心の奥からその火種が消えることはなかった。

 これから時代は、ますます激動の時代に入ってゆく予感がする。そういう中で、人間はどのように生きるのか、その人間の在りようから眼を離すことができない。人間への興味は尽きることがないのである。「人間とは」は、永遠の命題である。



‘14年夢日記 「岡山弁再発見」

2014(H26)年3月21日(金) 曇り時々晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 安倍〝暴走予算〟成立 大増税・社会保障削減・軍拡 
 田村議員が反対討論 審議尽くさず戦後3番目の早さ

     タイトル 「岡山弁再発見」

 「岡山弁再発見」という講座が、浅口市かもがた町家公園交流館であった。講師は、岡山弁協会特別顧問、雑誌「オセラ」編集顧問の青山融氏である。青山氏は山陽放送ラジオでもおなじみの方で、広く活躍されている。

 交流館には100名ほどの方が集まり、会場はいっぱいの盛況であった。終始、笑いが絶えない講演で、2時間があっという間に過ぎてゆくほど楽しく、充実したひとときだった。ここで、岡山弁の代表的なものを紹介しておきたいと思う。

でーれー(ものすごい) ぼっけー(ものすごい)

おえん(駄目)  しうぇー(繊維質で噛み切れない)

きょーてー(恐ろしい) みてる(なくなる)

てご(手伝い)     もげる(音程が外れる)

やっちもねー(しょうもない) あんごー(馬鹿者)

きゃーくそがわりー(非常に不愉快だ)

せられー(しなさい)  しねー(しなさい)

ちばける(ふざける)  がめる(やつれる)

けなりー(羨ましい) すばろーしー(不景気だ。貧相だ)

おんびん(臆病者)   けっぱんづく(つまづく)

 岡山弁はまだまだあるが、代表的なものを挙げてみた。ここで、岡山弁の会話文の傑作をみてみよう。

 「けーここけーけー」

 翻訳(ケイ子、こちらへ、来なさい)

 「けーちもーめーでー」

 翻訳(これを、小銭に、替えて下さい)

 「でーどけーでーてーたでーこーでーかてーてーてーゆーてーてー」

 これは少し分かり難いので、まず句読点をつけてみたい。

 「でーどけー、でーてーた、でーこー、でーか、てーてーてー、ゆーてーてー。」

 翻訳(台所へ、出しておいた、大根を、誰か、炊いといてと、言っておいて下さい)

 このように、岡山弁は単語としてでなく、会話として遣うと、その本領を発揮してくる。が、この岡山弁も次第に衰退してきつつある。私などもほとんど使用しなくなったが、しかし青山氏の喋ることは全部といっていいほど理解できる。

 今の若い人たちはどうなのだろうか。先にあげた岡山弁の単語も理解できない人たちが大半ではないだろうか。しかし、備前、備中、美作の国で遣われてきた歴史的遺産を、後世に残したいものである。



‘14年夢日記 「小さな旅」

2014(H26)年3月20日(木) 雨のち曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ロシアはクリミア併合を撤回せよ 志位委員長が声明 
 世界の平和秩序を覆す覇権主義は許されない

     タイトル 「小さな旅」

 暖かくなり過ごしやすくなったので、ちょっと出かけることにした。これからは、時々こういう機会を設けていきたいと思っているが、今回は倉敷市児島へ足を延ばすことにして、ちょっとした旅気分を味わった。

 児島では、まず以前から気になっていた「旧野崎家住宅」に立ち寄った。この住宅はやはり「聞きしに勝る」ものであった。敷地面積約3000坪・建物延べ面積1000坪というのだから、壮観である。

 この住宅は、塩田王といわれた野崎武左衛門が、幕末に建てたもので、長屋門、表書院、中座敷、茶室、土蔵群からなるもので、なかでも中座敷は9つの座敷が連なっており、その全長は23間(42m)にものぼるものである。

 野崎武左衛門は、文政9(1826)年頃、塩田開発を決意し、文政11(1828)年、味野村と赤崎村に約48haの元野崎浜を完成させた。ちなみに、野崎というのは、味野の野と赤崎の崎をとったということだ。旧姓は昆陽野だったが、自らも野崎姓に改名したそうである。

 私はこの住宅を巡りながら、この塩田王の「光と影」を考えないわけにはいかなかった。台所や風呂のある建物を眺めながら、私はテレビの連続テレビ小説「おしん」を思いだした。

 この住宅には何人の奉公人が雇われていただろうか。「おしん」のように、2人や3人では決して切り盛りすることができなかったに違いない。その奉公人たちは、どんな辛い思いで働いていただろうか、ということが頭をよぎった。

 また、塩田で働く人々は、どんな条件のもとで働いていたのだろうか、ということが私の心をとらえた。この塩田では、「当作歩方制」というのが採用されていたということである。

 「当作歩方制」とは、幕末から明治期にかけて、1塩戸(1軒前)に3種類の当作人が存在し、それぞれの権利を意味する歩方が付与されていた。つまり、第一は直接生産者の歩方、第二は野崎家の親類などに対し、恩恵的に与えられていた歩方、第三は地主である野崎家自身の歩方である。

 その歩方は、たとえばそれぞれ、5歩、4歩、1歩の歩方であった場合、直接生産者は収穫の半分を年貢と同じように納めていたということになる。この方式は、小作農民と同様な搾取形態である。ただ単に、住宅の大きさに圧倒されていたのでは、この影の部分を見落とすことになってしまう。

 この塩田王を見る場合、このように「光と影」をみる視点が必要ではないだろうか。直接生産者は、過酷で厳しい労働と年貢に、唇を嚙んでいたように思われて仕方がない。塩田王を支えていたものは、この直接生産者なのであり、これらの人々を忘れることはできない。

 旧野崎家住宅をあとにして、鷲羽山、渋川海水浴場、王子ヶ岳を巡って、爽やかな風と春の光をいっぱい浴びることができた。天候もよくて、愉しい素敵な小さな旅であった。



‘14年夢日記 「卒業ソング」

2014(H26)年3月19日(水) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 クリミア編入を表明 ロシア大統領 
 米・EUは制裁措置決める

     タイトル 「卒業ソング」

 心温まる朗報が私のもとにもたらされた。それは山陽新聞で報道されたものらしいが、私はその新聞を購読していないので、住寄善志倉敷市会議員のブログでそれを報らされた。

 それは、倉敷市立玉島西中学校の3年生の生徒たちが協力して、「卒業ソング」を作詞・作曲して、3月15日の卒業式で、発表・披露されるということである。

 はじめ、「卒業にあたって何かやれないか」、という先生の助言があって、この話が始まったということである。学級委員たちが色々相談するなかで、ピアノの得意なひとりの女生徒が、この話をすすめるために、まず自分が作曲してみよう、ということになったらしい。

 そして、女生徒が作曲してから、この話は大きく進むことになった。歌詞をアンケートで募り、集まった言葉を組み合わせて、詞が生まれたというのである。ここに、その歌詞を紹介してみたいと思う。

 「らしさ」

 みんなと過ごした教室 潮風波がひかる

 悔しくて泣いたあのとき 笑い合ったあの日

 つらいとき 涙こらえて 空を見上げたら

 あの歌が聞こえた

 いくつも 壁を仲間と 乗り越えて

 今までのすべてが つながってる

 僕らしさを 胸に抱き 今進んで 行くんだ

 歩き出そう 前に向かい この先 待つ未来に

 さみしいとき 涙こらえて 空を見上げたら

 この歌を歌おう

 いくつも 壁を仲間と 乗り越えて

 今までのすべてが つながってる

 あふれだす さみしさを 笑顔に変えて

 僕らなら どこまでも 歩いて行ける

 ラララー ララー ラララー ありがとう

 私は時々、西中の前を通ることがあるが、中学校のすぐ傍には海があり、彼ら彼女たちは、その潮風の匂いを肌に感じながら、勉学と心と身体の成長を育んできたに違いない。だから、「潮風波がひかる」という言葉に結実したのだろう。

 この詞には、自分たちの前に立ちふさがっていたいくつもの壁を、仲間たちとともに乗り越えてきたことが表現されている。それは、「いくつも壁を仲間と乗り越えて、今までのすべてがつながってる」という、リフレインの言葉となって生きている。

 私はこの歌詞を読んで感銘をうけ、生徒たちの爽やかさと、熱情に心を打たれた。旅立ちにあたって、素晴らしい「卒業ソング」を残すことになった、彼ら彼女たちに心から拍手を贈りたいと思う。



‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(5)」

2014(H26)年3月18日(火) 曇り時々雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 暮らし危機クライシス 
 消費税増税 負担感だけ

     タイトル 「忘れ得ぬ人(5)」

 2007年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した、有坂初江の「麦秋」という作品の冒頭部分を引いてみたいと思う。

 キッチンでガラスコップの曇りを磨いていると、次子の背後で電話が鳴った。夫の久が受話器をとり、「やめたんか」という声が聞こえてきた。長男の克人からの電話だった。

 「克人がまた仕事を辞めたそうや。次の仕事は決めとるそうや」と久が言った。「14年間に、4へん目の失業や」、「どうなっとんかなあ」

 克人は高等専門学校電子工学科を卒業し、東京のソフトウェア会社に就職した。現在33歳で独身である。

 この物語は、このような書き出しで始まり、克人の生活の在りよう、次子の家庭の在りようが丁寧に描写されてゆく。特に克人は、サプリメントの茶色い瓶と白い錠剤の入った瓶をもっており、それを呑んでいるのだった。

 白い錠剤は胃薬である。33歳という若さで胃が悪いのだ。医者に行くと、不規則な労働が原因だと言われたそうである。次子は克人の、きつい労働と生活ぶりが思いやられるのだった。

 この作品は、共産党員を父親にもつ息子の生き方を掬いとった佳作である。貧しくも慎ましく暮らす家族の在りようを描くとともに、息子の克人を通して、生き難い社会と時代の実相を映しとっている。

 何よりも主人公次子の、息子に注ぐ眼差しが温かくて、しかもその視座は広くて深いところが優れている。

 有坂初江は、青年時代から文学的才能を開花させた人である。青年運動の機関誌などに、詩を発表したり、手記が青年文学コンクールに選ばれたりした。それ以後、小説を書くようになったのである。

 その彼女が、私たちの前から去っていったのは、いつのことだったろうか。かれこれ4、5年前にもなるだろうか。丸亀市の空の下に棲んでいるらしいが、どんな暮らしをしているのか、その委細は承知していない。やはり、文学から離れることなく、読書やものを書いているらしいということを、風の便りで聞くだけである。

 有坂初江の文学と生き方の芯にあるのは、彼女の生育暦と関係があるのだろうか、ある点について極めて鋭い感性をもっている。それは、「人権と民主主義」といったらいいのだろうか、それが文学と生き方に通奏低音のように流れている。

 しばらく彼女の作品を読んでいないけれど、もう一度触れてみたいと思っている。丸亀市の空の下で、つましく生き、暮らしていると思うけれど、私にとって有坂初江は「忘れ得ぬ人」である。



‘14年夢日記 「リストラについて」

2014(H26)年3月17日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 福島原発全基廃炉 
 全59市町村が議決 「オール福島」前進

     タイトル 「リストラについて」

 いま、社会問題になっているのは、リストラである。大企業をはじめとして、多くの企業が安易にリストラと称して、従業員を退職に追い込むということがやられている。果たしてそのリストラに正当性があるのかどうか、疑問視されている。

 まず判例で確立した「整理解雇4要件」というのをみておきたいと思う。第一は、企業の維持・存続ができないほどさし迫っているかどうか、ということである。ただ、「経営が苦しい」というだけでは、リストラの必要は認められないということだ。

 第二は、解雇を回避するあらゆる努力が尽くされたかどうかということである。たとえば、配転・出向・希望退職の募集など雇用調整手段を講ずるといった努力をしないで、いきなり整理解雇をするのは許されないということである。

 第三は、解雇対象となる労働者の選定基準、人選が合理的でなければならないということである。選定基準を明示しないで、恣意的になされてはならないということだ。

 第四は、以上について、労働者個人や労働組合に納得をうる努力が尽くされていなければならないということである。

 このように、「整理解雇4要件」は、労働者を安易にリストラすることを戒めている。しかし、このリストラは、社会問題になるほど広範囲に、安易に行われているのが実態である。

 私の勤めていた会社においても、猛烈なリストラが実施され、幾人もの労働者が辛い思いをさせられ、泣かされてきた。私はその実態を目の当たりにしてきたが、「整理解雇4要件」が満たされているとは決していえないものであった。

 リストラされた人たちはその後どうなったか。その人は50歳前後であったが、営業実績が振るわないことを理由にして、リストラされたのである。彼はその解雇に決して納得することはなかったが、やむなく退職していった。

 大学進学の男の子と高校進学の女の子を持っており、多額の費用が予想されていたにも関わらず、退職に追い込まれたのである。そして彼はすぐに他の会社の営業職を探して、その職に就いたというので、私はひとまず安堵していた。

 ところがしばらくして、ある深夜、午前二時頃であったと思うが、彼から電話があった。相当酒に酔っているようすで、「今、M町にいる。すぐ出て来い。もう仕事はやめる」というような内容であった。私は、「これはやばいな、仕事がうまくいってないな」と直感した。

 その後、彼の携帯に電話を入れると、それはもう使用されていなかった。彼の生活に何か異変があったというのは間違いない。このようにリストラは、その人の生活と人生を変えてしまう、というのを実感したしだいである。

 この社会が、働く人々を尊重し、思いやりのある職場・社会になっていないのを痛感する。もっと労働者は、かけがえのないものとして、大切にされるべきではないだろうか。



‘14年夢日記 「小説のある暮らし」

2014(H26)年3月16日(日) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ストップ消費税増税 現場からの告発
 大型店開店と二重の打撃
     タイトル 「小説のある暮らし」

 私の友人に俳人がいる。その彼は次のように言っている。「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」

 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。

 私たち創作を志している人たちは、どうだろうか。私たちも一日一句に対して、一日一枚を提唱したいと思う。それは私自身が、仕事に就いていたときに、書いておけばよかった、という痛切な思いに駆られているからである。しかし、書くという営為は、なぜこうも難しいのだろうか。

 「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」。――小林秀雄はこのように語っている。

「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」。――ある詩人の言葉である。

「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」。――こう語るのは、竹西寛子である。

 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを思いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになる。

 「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」。――ある作家の言葉である。

 「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」。――これは、ある同人誌の主宰者の言葉である。

 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶される。が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂が待っている。頂に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられない。

 俳句の一日一句に対して、散文の一日一枚をめざしたい。そして「小説のある暮らし」をしてゆきたい、と願っている。



‘14年夢日記 「私と戦争」

2014(H26)年3月15日(土) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 歴史の偽造は許されない 志位委員長が見解 
 「河野談話」と日本軍「慰安婦」問題の真実

     タイトル 「私と戦争」

 最近私は、「磯の光景」という短編小説集を上梓したが、その中には短編小説が12編収載されている。そのうち、「戦争と人間の生き方・在りよう」をテーマにしたものを、ちょうど半分の6編収めてある。

 私は1947(昭和22)年の生まれである。つまり、戦後2年を経て誕生したので、直接戦争には関わっていない。なのになぜ、戦争にこだわりつづけて小説を書いてきたのだろうか。

 その理由にはふたつある。それは戦後政治が一貫して、戦前への回帰を志向してきたからである。政治、経済、文化、教育、軍事などなどが、戦前・戦中への「夢よふたたび」とばかりに、その歩みをすすめてきたからである。

 アジアの人民2000万人、日本の人民310万人が、犠牲をこうむったのが、先の戦争であった。その戦争の本質は、日本の侵略戦争であり、アジアと日本の人民に多大な苦難をもたらした。

 にもかかわらず、時の政権は、その戦争から教訓を引き出すことをしないばかりか、戦前の暗黒政治へと回帰することを志向するようになった。まさに「仮のねむり」から眼を醒まし、国民を戦前の悪夢へと導こうとしてきたのである。

 私が「戦争にかかわる」小説を書いたのは、それらの動きに対する「異議申立て書」である。私の小説にはその意味合いが色濃く反映している。戦後、人間はどのような心の在りようで生きてきたのか、をテーマにして書いてきたつもりである。

 もうひとつの理由は、私の戦後の生活の在りようがモチーフになっているということである。私の幼少時代から小学時代は、わが家は貧窮の底にあった。たとえば、雨靴や傘が買って貰えないために、私は雨が降ったら学校を休まざるを得なかった。

 そのような、貧窮をもたらしたのは何であったのだろうか。もちろんそれは戦争の故であった。先の15年戦争で、父は3度徴兵され、各地を転戦させられたのである。それで母や兄たちの戦中の暮らしは、無残なものだったに違いない。

 では、戦後はどうだっただろうか。父の職業は大工だった。あの荒廃し、食料もままならなかった時代に父の仕事はあっただろうか。幸いにわが家の周辺は田舎であり、空襲には遭っていない。だから、当然大工仕事もなかったに違いない。そういう時代と事情から、わが家の収入は極めて限られたものだったろう。

 こうして、わが家の暮らしは貧しさの極にあった。その貧しさの「辛さや痛み」は、今でも身体に刻まれている。それをもたらしたのは、まぎれもなく戦争である。その庶民の暮らしの在りようと、生き方を掬い取ったのが私の小説である。

 以上のような、戦争への回帰現象への「異議申し立て」と、戦争による貧窮の告発が、私のモチーフでありテーマとなっている。これが、「私の戦争」である。



‘14年夢日記 「人生を愉しく」

2014(H26)年3月14日(金) 曇り時々晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 消費税増税ノー各地で 国民大行動 
 「くらし・営業・雇用守れ」36万人

     タイトル 「人生を愉しく」

 ダ・ラ・リにムを冠すると、「ムダ・ムラ・ムリ」ということになる。これは、ビジネス用語だが、私の職場でもよく唱えられていた。つまり、仕事のうえで、「ムダ・ムラ・ムリ」をなくそう、ということだった。

 ムリというのは、キャパシティーを超えて行う営為であり、ムダというのはキャパシティーに満たない営為である。ムラというのは、ムリとムダが混在している状態をいう。

 この言葉を不意に思い出したのだが、人生の後半生を生きてゆくうえで、特に留意していきたいと思うのは、「ムリをしない」ということである。私は、もうひと通りのことはやってきたのであり、この期に及んで「アクセク」することはないように思う。

 「ムリをしないで」、ゆっくり、ゆったり生きたいと思っている。つまり、スローライフである。自然と社会の風の流れを感じながら、怒らず、急がず、慌てず、ゆっくりと生きてゆきたい。

 とくに心がけたいのは、人との比較をやめることと、自身の価値観に合わない人との付き合いは、ムリしてしないことである。若い頃なら、そういう人のなかに飛び込んで、芋を洗うように揉まれることが、人生の成長につながるけれど、今さらそんな苦行を求めなくてもいいだろう。

 老境の域にさしかかっている私は、あえて価値観の違う人の中に身をおくこともないだろうと思う。同じような価値観を共有する人々とともに生きることが、自身の人生をストレスから解放することになる。

 「ムリをしないで」、私はブログを毎日更新し、優れた文章に毎日触れ、少しずつ小説を書いてゆくことが、私の後半生の生き方である。これが私のスローライフであり、ゆっくり、ゆったり生きることだ。

 文章を書くことは、このうえなく愉しいことである。ブログを書いたり、小説を書いたりすることは、自身の生き甲斐であり、これを自身の人生からとり去ることは考えられない。それは、一日三度の食事を摂ることと同じようなことである。

 また、優れた文章に毎日触れることは、私にとって小さくない悦びである。今も名作短編集を読んでいるが、私の心を震わせるような感動が私を包んでいる。これも私にはなくてはならないものであり、人生を豊かにする、かけがえのないものである。

 もう、損得など考えて生きる必要などない。スローライフを心がけて、人生を愉しく生きたい、と願うばかりだ。自身の人生を顧みれば、後悔がないとは言えないけれども、「覆水盆に返らず」である。後半生の「人生を愉しく」生きれば、それで「良し」としよう。



‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(4)」

2014(H26)年3月13日(木) 雨のち曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 首相先頭に武器売り込み 軍需企業のべ32社 外遊に同行 
 参院予算委で井上議員追及 三原則「廃止」を批判

     タイトル 「忘れ得ぬ人(4)」

 短編小説集「埴生の宿」のあとがきで、実盛和子は次のように書いている。「そんな環境のなかで誰に邪魔されることもなく小説を書き、短歌を詠んだ。家事育児は手抜きをしても平気だが、一日たりとも文字を読み書く生活から離れること出来ない」

 そんな彼女が、私たちの前から姿を消したのはいつ頃のことだったろうか。もうかれこれ4、5年になるだろうか。いまでも元気にしているだろうか。それが想いやられて、白髪の彼女の笑顔が甦ってくる。彼女は短歌を詠み、小説を書いてきたが、ここでは短歌を紹介してみたいと思う。

 六月の風吹き通る街道に
             朝立ち宣伝はじまらんとす

 下腹に力を入れてマイク持つ
             日本共産党を押し出すために

 宣伝カーの窓を圧しくる青嵐の
             くるめく如き若葉のうねり

 スポットは短く的確なるがよし
             アナウンスの声山路を透る

 幾曲がり辿り着きたる山頂に
             家あればビラを配り始めぬ

 いつの間に廃墟となりし山の家
             牛舎も農具もそのままに在る

 人よりも牛が多いと五年前に
             いいし老爺も居らずなりたり

 地に深く根を張り幹のふてぶてし
             花序つぎつぎに咲く立葵

 ひとときの驟雨はさりて吹く風に
             立葵の花雫をはらう

 心緊めて踏み出す一歩立葵の
             花群に眩しき陽の照り返す

 この短歌は、「立葵」という、日本共産党創立七十周年記念文芸作品入選作の中から、私が抜粋したものである。この作品には、彼女の「風吹き通る街道に」、「窓を圧しくる青嵐の」風に真向かって、党活動を展開する姿が生き生きと映しとられている。

 また、「廃墟となりし山の家」、「老爺も居らずなりたり」と、農村がさびれてゆく光景を見逃さない観察眼が生きている。そして、地に深く根を張った立葵が、風や強い陽射しの中に毅然と立ち、つぎつぎに花を咲かせてゆく姿をしなやかに詠んでいる歌人、実盛和子の強靭な精神が躍動している。

 実盛和子は、歌人としてだけではなく、作家としても、いい仕事を残している。1992年には「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に、「英ちゃん」という作品が入選している。そして、何作か「民主文学」に掲載されており、私たち後輩を励まし導いてくれた人である。

 彼女は、「カミソリで切れば、血が噴き出すような作品を書かなければならない」と常々言っていたし、それが持論だった。それは、文学作品というものは、血と肉をもった、リアリティーに満ちたものを書くということである。

 「よく観、よく感じ、よく表現する」という言葉を私に贈ってくれたのは、実盛和子であり、私にとって「忘れ得ぬ人」である。



‘14年夢日記 「ささやかな贅沢」

2014(H26)年3月12日(水) 晴れのち雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 悲しみと怒りの中 3年 東日本大震災 
 「被災地を忘れないで」 復興へ公的支援もっと

     タイトル 「ささやかな贅沢」

 私の趣味は、読書やものを書くこと、映画観賞や絵画の鑑賞、音楽鑑賞などなどだが、しかしこの頃、経費のかかる趣味は、一つひとつ削ってきたというのが実情である。

 経費のかかることは、でき得る限り抑えているといえるだろう。例えば、読書にしても、その本はほとんど求めるということがなくて、図書館で借りている。映画もDVDをレンタルして、ホームシアターで観賞する。

 絵画や音楽鑑賞の機会は極端に減って、めったに足を運ばなくなっている。喫茶店は読書をしたり、思考したりするのに格好の場所だったけれど、今はほとんど利用しない。やはり経費がかかるからである。

 ゴルフは、月2、3度コースに出ていたこともあったが、それもほとんどなくなった。打ちっ放しの練習場にもほとんど行かない。ゴルフは、無性にプレイしたくなることがあるが、それを強く抑え込んでいる。

 このようにみてくると、あとに残るのは週一回、木曜日にビールを飲むことくらいである。私はアルコールが強くないので、さして欲しいとは思わないが、週一回のビールは愉しみにしている。漁村に棲んでいるので、肴は豊富である。

 カキ、シャコ、カニ、貝柱、刺身など、新鮮な魚介類があるので、肴には事欠かない。それらの中からひとつ選んで肴にする。今、旬のものといえば、カキと貝柱なので、それを食卓に載せてビールを愉しんでいる。

 もともと私は、アルコール類は好きでなかった。それは、父がひとつの反面教師となっているような気がする。父は唯ひとつの愉しみが酒であったが、それは母とのいさかいのもとになっていた。

 いさかいが起これば、家の中が暗くなり、子どもたちにとっては、夕食の団欒の場が、修羅場に変わることが耐えられなかった。それを見て育ってきたものだから、おのずとアルコール類は自制するようになったのだろう。

 しかし今は、木曜日が愉しみである。ビールを飲むといっても、多量に飲むわけではない。手のひらサイズの缶ビールを一本飲むだけである。一気飲みをするわけではなく、猪口で酒でも飲むように、急がず、慌てず、ゆっくりと飲む。

 ゴルフもパチンコもしないようになったのだから、これくらいの愉しみはあってもいいだろう。それが、人生にひとつの色を添えるとしたら、結構なことである。これが、私のほとんど唯一ともいえる、「ささやかな贅沢」である。



‘14年夢日記 「詩のちから」

2014(H26)年3月11日(火) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 きょう東日本大震災3年 被災者環境深刻な悪化 
 本紙「300人実態調査」「仮設から移れない」57%・生業の再建困難63%

     タイトル 「詩のちから」

 ここに、小学生の詩を紹介するので、まず読んでみたいと思う。

「やけど」       木村とし子(小一)

 かあちゃんが
 うちをほったらかして
 あらい炭のじょお行くき

 うちが顔にやけどした
 ようちえんもやらんで
 ほったらかしちょくき
 うちが湯をひっかぶってやけどした

 とうちゃんが
 あとがのうなるまで
 びょういんへ行かしてくれんき
 顔のしわがようならん

 くすりをうんとこうてぬったら
 こげな顔にならんとに
 学校で、みんなうちにおばけチ言う


 「どろぼう」      深川 九州男(小五)

 父ちゃん
 何し僕をどろぼうに行かするトか
 悪いチ知っちょって
 何し行かするトか

 待っちょってやるき
 いもをほって来いチいうたり
 どう線をぬすんで来いチいう

 僕、おとろしいトばい
 見つかったら
 僕、どげんするとかい
 
 けいさつにつれて行かれるトばい
 そしたら僕どげんするとか
 父ちゃんがぬすんで来いチいうたチ
 いうたら困ろうも

 よそのいもをほって食わんだチ
 小使いげなくれんだチいいき 父ちゃん
 もう、どろぼうせんごとしょう

 この詩は、「小さな胸は燃えている――産炭地児童の生活記録集」に収載されているものである。これは、炭鉱の操業短縮や閉山が進む、筑豊炭鉱の子どもたちの詩や作文を集めたものである。

 これは、少し時代が遡るけれど、子どもの率直な、うそ偽りのない言葉が綴られている。決して美辞麗句はないけれど、真っ直ぐ読者の胸を叩くのはなぜだろう。

 これらの詩は、筑豊炭鉱での操業短縮や閉山という、厳しい現実が横たわっているのがよくわかる。そんな中で、生き暮らす子どもたちの、腹の底から絞り出された言葉である。その重く深い言葉が、読者の胸を打たずにはおかない。これが「詩のちから」ではないだろうか。



‘14年夢日記 「早春賦」

2014(H26)年3月10日(月) 曇り時々晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 原発ゼロ 大統一行動 再稼動ノー 
 安倍政権に突きつける 3万2000人熱気

     タイトル 「早春賦」

 先日のクラシックコンサートのアンコールで、「早春賦」が演奏された。私は心持ちよく聴くことができた。そこで家に帰り、「早春賦」の歌詞を確認してみたので、ここに記しておきたいと思う。

 「早春賦」

 春は名のみの風の寒さや
 谷の鶯歌は思えど
 時にあらずと声も立てず
 時にあらずと声も立てず

 氷解け去り葦は角ぐむ
 さては時ぞと思うあやくに
 今日もきのうも雪の空
 今日もきのうも雪の空

 春と聞かねば知らでありしを
 聞けば急かるる胸の思いを
 いかにせよとのこの頃か
 いかにせよとのこの頃か

 第3連の意味が少しく分かり難い。そこで調べてみたのでそれを次に書いてみたいと思う。

 暦は春だと聞いていなければ、
          知らないでいたのに、
 春と聞いたからこそ、
        待ち焦がれてしまう。
 この胸の春を待つ思いを
         いったいどう晴らせという、
 今日この頃の季節の
        進みのじれったさだろうか!

 この「早春賦」は、1913(大正2)年に発表されたものである。作詞は吉丸一昌、作曲は中田章で、この詩に歌われたのは、長野県安曇野の早春だということである。

 暦のうえでは立春を過ぎ、3月前後の季節だろうか、「氷は解け去り、葦は芽をふくらませる」そんな時候であり、「この胸の春を待つ切実な想い」。だが、鶯はまだその時季でないと思って、声も立てない。そんな安曇野の早春を巧みに表現している。

 私も外でウオーキングをしているが、風の寒さが身にしみるこの頃である。北風がまだ吹きつけてくる。手袋をはめていないと、指先が冷たくなってしまう。が、瀬戸内ではしきりに鶯が声を立てているので、この「早春賦」は、もう少し前の季節を詩っているのだろう。

 私も春を待ち焦がれているが、やがてさまざまな花をともなって、春は訪れて来るだろう。梅林は咲き誇っているし、河津サクラも一輪一輪とつぼみを開きはじめている。瀬戸内の「早春賦」である。



‘14年夢日記 「小説を書きたい」

2014(H26)年3月9日(日) 晴れ時々曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 女性の地位向上を 
 国際女性デー 東京で集会

     タイトル 「小説を書きたい」

 昨年末、「まがね」に「母の潮汲み」という小説を発表したが、しかしそれは、一年以上の前に書いたものだった。したがって、私はそれ以上の期間、小説を書いていないことになる。文章はブログに書いているが、それだけではどこか物足らない。

 最近、私は小説を書きたくなってきている。ブログの文章だけでは、心が満たされないでいる。ブログの文章をおろそかにしているわけではないけれど、やはり小説やエッセーの文章とはどこかが違う。そこに一種の違和感を覚えている。

 ブログの文章は、初稿でほとんど完成させるようにして、あとは「テニヲハ」をチェックして脱稿という具合である。題材探しに苦労するのと、どのような文章になっていくかは五里霧中で、そのような中で書き進んでゆく苦労がある。

 私の文章作法は、「書けば書ける」という思いでいるから、最初の一行でだいたい文章はできあがってくる。「書けば書ける」というのは、たとえば、「今朝はいつものように、起床できなかった。昼前までぐずぐずと床の中にいた」

 このような書き出しがあったとすると、次に書くのは、なぜ床の中でぐずぐずしていたのか、を書かなければならない。それは、昨夜酒を飲んで、二日酔いになったからなのか、あるいは、風邪を引いて熱があり、身体がだるいためなのか、を書かなければならない。

 そして、その次にくる文章は、なぜ二日酔いになるまで酒を飲んだのか、あるいは、なぜ風邪を引いてしまったのか、について記述していかなければならない。このようにしていけば、文章というのは「書けば――書ける」のである。

 とにかく、「書けば――」というのが大切であり、「書くことによって、次の文章はおのずと引き出されてくる」ということだ。ある先生が、生徒たちを10人ずつのグループに分けて、最初の生徒が一行分の文を書き、次の人が前の人の文を受けて書くというふうに、「文章書きゲーム」をしているというのを聞いたことがある。

 これが「書けば――書ける」ということである。私は、そのことを意識して文章を書くようにしている。できるだけ、前の文と矛盾を起こさないように、つまり、整合性のある文をつないでゆくことだ。これが、私の文章作法であるが、うまく機能しているかどうかは不明である。ただ、自身はそれを信じているしだいである。

 さて、文章についてはそれくらいにして、問題は小説である。小説の文章とブログの文章は、やはり異なっているし、今私は小説を書くことへの願望が強くなっている。そろそろ、小説にもかからなければならないだろう。「小説を書きたい」という思い、希求は日に日に高まっている。



‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(3)」

2014(H26)年3月8日(土)  曇り時々晴れ 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 解釈改憲 与党に異論 
 米国のための戦争「必要わからない」「おごりだ」

     タイトル 「忘れ得ぬ人(3)」

 日本民主主義文学会(当時、文学同盟)岡山支部が再建されたのは、1976年5月であった。この再建にあたっては、三宅陽介、東田一雄、浜野博の3人が骨を折り、無事再建を果たした。支部誌「まがね」が創刊されたのは、翌年の3月である。

 支部長に浜野博、事務局長に東田一雄、編集長に三宅陽介という役割分担が決められた。この3人は、いずれも私にとって「忘れ得ぬ人」であるけれど、今回はすでに鬼籍に入っている、東田一雄について記してみたいと思う。

 私はもともと詩人をめざしていた。高校の文芸部に所属して、詩を書いていたのである。私の文学的出発は詩であり、高校を卒業して倉敷市役所に入ったあとも、ひとりで詩を書いていた。うたごえ運動のなかで、いくらか作詞を手がけたこともある。

 私の青年時代は、さまざまなジャンルの活動に携わっていた。うたごえ、演劇、労働組合青年部、青年運動での文化部、中小業者運動などなどである。そういう活動のなかで、東田一雄との接点ができるようになった。

 そしてある時、彼から「鬼藤君、小説を書いてみないか?」と誘われたのである。いままで、詩とはいくらか関わりがあったけれども、小説を書くことは遠い世界のことだったので、その誘いに驚いたことを憶えている。

 彼から誘いを受けたのは、私が30歳前後だったように思う。私が「まがね」第3号に、処女作「彼が死んだ」を書いたのは、まもなく31歳になろうかという頃であった。だから、30歳になるかならないうちに、誘いを受けたものと思われる。

 そして、私は小説作法の手ほどきを受けないまま、「彼が死んだ」を夢中で書いたのだった。モチーフ、テーマ、プロット、視点、書き出しと結末の処理など、ほとんど何も知らずに書き進めたのである。題名のつけ方も知らずに、「彼が死んだ」というのは、東田一雄の助言によるものだった。

 こうして、彼との交流が始まるようになったのだが、その中で少しずつ小説作法について教えてもらったように思う。が、それよりも、彼とは史跡めぐりをしたり、観劇をしたり、クラシックコンサートなどに行ったりということが多かったような気がする。

 彼は、小さな声でとつとつと語るほうであったが、文学のみでなく、他の芸術分野について教えを乞うということも少なくなかった。彼との付き合いは何年くらい続いたのだろうか。10年ほどになるだろうか。そのうち彼は入院をして、それから疎遠になってしまった。

 そして「彼は死んだ」のだ。私の生き方、人生を変えた人が早世してしまって、惜しまれてならない。私は、自費出版で「磯の光景」を上梓したけれど、真っ先に捧げたいのは、東田一雄である。彼は私の心の内にいつまでも存在する「忘れ得ぬ人」である。



‘14年夢日記 「政党助成金の罪悪」

2014(H26)年3月7日(金) 晴れ時々曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 賃上げ・増税中止必ず 全国から4000人 
 春闘 全労連・国民春闘が中央行動

     タイトル 「政党助成金の罪悪」

 そもそも政党とはいったいどういうもので、どういう性格をもっているのだろうか。政党は、綱領をもち政治理念、政策をもって、その事業の実現のために活動する組織である。したがって、その組織や政治資金は主権者である国民に依拠してなされなければならない。

 ところが、そうはなっていないのが日本の政治、日本の政党の実態である。そのもっとも不合理な制度が「政党助成金」なるものである。政党助成金は、赤ちゃんからお年寄りまで、国民ひとりあたり250円の税金でまかなわれている。つまり、国民への強制献金なのである。

 国民の一人ひとりは、思想信条、良心の自由が憲法で保障されている。したがって、自身の支持する政治理念、政策も自由である。ところが、政党助成金は、自身の支持しない政党にも自身の税金が投入されるという制度である。明らかに憲法違反だといわざるをえない。

 ちなみに、1995年の制度が発足してから2013年までに、各政党が受け取った政党助成金は次のようになっている。

 自民党 2716.6億円
 民主党 1790.1億円
 公明党 445.5億円
 社民党 342.9億円
 みんなの党 50.5億円
 日本維新の会 29.6億円 以下略

 そして、政党の収入に占める政党助成金の割合を、直近の統計でみてみたい。

 自民党 63.9%
 民主党 84.4%
 公明党 16.5%
 社民党 41.5%
 みんなの党 79.4%

 このようにみてくると、国民政党ではなく、「国営政党」だということがよくわかる。

 共産党は、政党の存在の在り方、政党助成金が憲法に反する制度であるという見地から、その受取りを拒否している日本でただひとつの政党である。日本の政治の中で、健全な政党が存在しているということは、ひとつの希望である。

 なにはともあれ、自分の納めた税金が、自分の支持していない政党に、強制的にまわされるということは許されざることだといわなければならない。憲法の保障する思想、良心の自由をふみにじるものである。



‘14年夢日記 「輝ける女性たち」

2014(H26)年3月6日(木) 曇り時々晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 大震災から3年 被災地は今  
 住まい 仮設から出られない

     タイトル 「輝ける女性たち」

 最近、私の目に映る現象で印象的なことは、女性たちが輝いているということである。なかでも私と同世代の女性たち、つまり仕事の第一線から離れ、その束縛から解放された女性たちである。その女性たちが輝いている。

 それにひきかえ、私と同世代の男性の影の薄さを感じることが多い。図書館へ足を運んでみるとよく分かるのだが、彼らは開館前に図書館の玄関に並んで待っている。玄関のドアが開くと先を争って入館する。

 図書館を訪ねるというのは、決して悪いことではないし、奨励されるべきことであろう。が、この男性たちの場合はちょっと違うのである。彼らが競ってめざすところは、新聞や雑誌のコーナーである。

 そこで彼らのようすを眺めていると、教養や知識を学びとるというより、暇つぶしのために、雑誌を開いたり新聞のページを繰ったりしている。なかには、イビキをかいて眠っている人も少なくない。どうみても、輝いているようには見えないのである。

 一方女性はどうかというと、先日浅口市「かもがた町家公園」の、江戸時代の町家で「クラシックコンサート」が開かれたのだけれど、その会場に集まったのはほとんどが女性であった。100人のうち男性は4、5人だったろうか。

 「クラシックコンサート」では、ブリデン作曲の「シンプル・シンホニー」、ハイドン作曲の弦楽四重奏曲第67番「ひばり」、モーツアルト作曲の弦楽四重奏曲第14番「春」が奏でられた。いずれも、春を感じさせる、春を謳歌する演奏だった。

 それを聞く女性たちの瞳は輝き、表情が生き生きとしていた。また、山田洋次監督の映画「小さいおうち」の鑑賞で映画館の座席はほとんど埋まっていたが、その大半は女性だった。彼女たちの姿は活気に満ち満ちており、生気が伝わってくる。

 また、先日確定申告にいってきたが、その会場には10人ほどいたけれど、男性はひとりもいなかった。いたのは、僅かに私ひとりだった。重要な確定申告でさえ、男性は顔をみせず、女性にまかせっきりである。彼女たちは懸命に医療費の領収書を広げて、計算にいそしんでいた。

 私は男性と女性の対立をあおるつもりはないが、いったい男性はどうなってしまったのだろうか。どこへいってしまったのだろうか。私の見た現象はたぶんひとつの光景にしか過ぎないと思うけれど、しかし、女性の存在が大きく見えてしようがない。

 「輝ける女性たち」が増えることは、日本の未来にとって決して憂えることではなくて、好ましい現象である。日本社会を前に推し進めるのは、あるいはこうした女性たちであるかも知れない。



‘14年夢日記 「石も叫ぶ」

2014(H26)年3月5日(水) 雨時々曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 日本が攻撃受けなくても 海外で武力行使可能 参院予算委 
 集団的自衛権「そういう定義」と首相 小池氏 憲法解釈の変更許されず

     タイトル 「石も叫ぶ」

 私が暮らす浅口市の共産党市議団が、「市民アンケート」を実施して、その結果が集計されているので、それをもとに市民の生活の在りようや、意識について考えてみたいと思う。問題を分かりやすくするために、割合が10%未満の項目と、分からないという回答は除外して、その傾向を探ってみたい。

 「あなたの日々のくらしは以前に比べてどうですか?」

 変わらない 27.44%
 苦しくなった 69.31%

 「苦しくなった原因は何ですか?」

 退職して年金生活 14.31%
 年金が目減りした 18.43%
 国民健康保険税・介護保険料増 19.86%
 医療費の支出増 11.81%
 物価の上昇 11.63%

 「いま浅口市政で、特に力を入れて取り組んでほしい事は何ですか?」

 国保税の引き下げ 12.28%
 介護保険料・利用料の軽減 13.22%
 医療費の軽減 10.76%
 高齢者福祉の充実 11.70%

 「4月からの消費税増税について?」

 賛成 13.79%
 反対 68.58%

 その他、子育てや教育、高齢者や障がい者などの福祉の施策、原発や憲法の改正問題について尋ねているが、ここでは生活・暮らしに限って考えてみたい。

 くらしが苦しくなったという人が、7割近くいるということは、象徴的な市民の声である。これは、ここ1年とかのことを考えている人もいるし、ここ数年という人もいると思うが、これが庶民の生活実態であり、生活実感である。

 苦しくなった原因は、年金の目減り、国保税・介護保険料増、医療費の支出増、物価の上昇を挙げている人が多い。これは直近のことかも知れないし、少し長いスパンで考えている人もいるだろう。

 このように、市民の声を集めてみれば、年金や賃金の減少によって、収入が減り続けている実態が浮き彫りになってくる。アベノミクスという幻想を振りまいてきたけれども、庶民の生活実態とその意識は、すでにその幻想を見破っているのがよく分かる。

 消費税に反対する人も圧倒的に多い。くらしが苦しくなった原因に、物価の上昇を挙げている人も多いが、これが実施されれば、さらにその声は高まることだろう。

 消費税の増税で8兆円、年金等の社会保障の減額や負担増によって2兆円、合計10兆円にものぼる収奪が、庶民からなされようとしている。今でさえ、約7割の人が、生活が苦しくなったと訴えているのに、これが実施されたら、庶民の悲鳴は叫びに変わるだろう。

 アベノミクスの破綻は、すでに証明されつつあり、今年の予算案が実施されるようなことになれば、庶民も黙ってはいない。沈黙している路傍の石も声を挙げるに違いない。まさに「石も叫ぶ」だろう。



‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(2)」

2014(H26)年3月4日(火) 晴れ時々雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ロシアによるウクライナへの軍事介入の中止を求める 
 志位委員長が会見 志位委員長ロシア大使と会談

     タイトル 「忘れ得ぬ人(2)」

 中田しづは、詩や短歌の他に油絵を描いていた。たしか、20代の終わり頃か30代の初め頃であったように思うが、二科展に何度か入選したことがあり、漁村の小さい酒場の壁に、色彩豊かな絵を掛けてあった。彼女は詩・短歌・絵画と、芸術的に多彩な人である。今回は彼女の短歌を紹介してみたいと思う。

 花

 花屑を拾い集めて火を放つ
          つつじは燃えずただけぶるのみ
 朝露草の花摘みて
          夜白粉のにほいのする指酒を注ぐ
 この一瞬も又夢とならむ
          蝶型の衿のボタンをひきちぎりつつ
 水がめの水に映りし灯は
          ヘチマの花かちらりほらりと
 夢色の紅さす時に僅かにも
          唇ひらき口づけするが如く
 災いを遠くのがれて
          野仏のかたわらに露草の咲く
 潰瘍の青き粉薬飲むに疲れ
          炎天の下に蟻を追う
 今朝死のうか明日死のうか
          儚くも落葉の柩に身を横たえて
 白きシーツに止まらば一匹の
          虻も命の黒点落とせり
 濃く描かば露草色の粉シャドウ
          春のまぶたの疲れて寒し

 この短歌は、やはり彼女の代表作ではないし、私の手元にある作品を映しとったに過ぎない。もっともっと、彼女にはいい歌が残されているはずである。が、この10編の短歌にも、彼女の才能の片鱗をうかがうことができる。

 花屑を拾い集めて火を放つ

 夜白粉のにほいのする指酒を注ぐ

 蝶型の衿のボタンをひきちぎりつつ

 唇ひらきくちづけするが如く

 潰瘍の青き粉薬飲むに疲れ

 今朝死のうか明日死のうか

 虻も命の黒点落とせり

 濃く描かば露草色の粉シャドウ

 これらの言葉は、カミソリのように鋭く私に迫ってくる。情念の烈しさ、そして、そこはかとなく漂う色香が匂ってくる。生と死のぎりぎりにある命が、この歌にはある。生きることの淋しさ、辛さ、厳しさ、危うさがこの歌には宿っている。

 彼女はどうして、40代半ばで詩や短歌、絵を絶つことになってしまったのだろうか。40代半ばでその才能が突然折れてしまったのだ。生木を裂くようにという言葉がぴったりの、折れ方なのである。

 彼女はいまどうしているだろうか。逢いたい逢いたいと痛切に思う。彼女は再生しているだろうか。私の「忘れ得ぬ人」である。



‘14年夢日記 「忘れ得ぬ人(1)」

2014(H26)年3月3日(月) 曇りのち晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ウクライナ緊迫 ロシア軍事介入の動き 
 国連総長懸念 主権と領土損ねる

     タイトル 「忘れ得ぬ人(1)」

 「忘れ得ぬ人」は、十指に余るほどもいるが、それらの人たちについて、除々に触れてゆきたいと思う。真っ先に思い浮かぶのは、詩人であり歌人でもあった友人の「中田しづ」である。彼女は鋭い感性で詩を創り、短歌を詠んでいた。まず彼女の詩を紹介してみたい。

 十一月

 塞いだ空の下
 眠り始めた森がある丘がある
 イタドリの群生に覆われた小道がある
 冬への身支度は整ったか
 さびれた漁村に暮らす人々よ

 堅い梅のつぼみを
 春の拳が叩くまで
 私もこの村で暮らさねばならない
 友を失い
 たった一人の息子と離れ
 肉親と引き裂かれても
 容赦なく
 天からみぞれは落ちてくる

 水色の夢をつめて
 今日もアパートの一部屋に灯をともした
 冷たい箸を鳴らし
 白いお鍋に向かうひとりの夕餉
 背に負ぶさってくる
 冬の気配は
 まるで幼い日のあの子のようだ

 この詩は彼女の才能の片鱗をうかがうことができるが、代表作でもないし、彼女の多くの詩のなかで選ぶとすれば、もっと他に優れた詩があるはずである。というのは、彼女の詩集を失っていて、わずかにこの一編の詩が私の手元にあるだけだ。

 彼女は小さな漁村の小さな酒場のママをしていた。ママといっても、他に従業員はひとりもいなくて、彼女がすべて店の切り盛りをしていた。たったひとりで、漁師たちやコンビナートの出稼ぎ労働者たちを相手に、徳利を傾けていたのである。

 この詩に出てくる「友を失い」というのは、あるいは私かも知れない。私も時々、この酒場に通っていたのである。通ううちに親密になり、親しい友人になった。そこで、詩や文学の話を語りあったりした。が、私は彼女に逆らって、故郷へと帰ってきたのである。この詩は彼女の40歳前後の作品であるが、どこか哀愁がただよってはいないだろうか。

 アパートの一部屋に灯をともし、冷たい箸を鳴らし、ひとりで白い鍋に向かう夕餉――アパートの灯は蛍光灯ではなく、くすんだ橙色をした裸電球である。その下で女がひとり淋しく鍋をつついている。彼女の痛切な哀しみがこの詩にはやどっている。

 今私は、この彼女を捜しているけれど、たどりつけないでいる。水島の空の下に住んでいるらしいが、彼女の消息は不明である。逢って珈琲でも飲みたいと思うけれど、それは叶いそうにない。私もまた切ない思いでいる。



‘14年夢日記 「書くということ」

2014(H26)年3月2日(日) 曇り時々晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 シリーズ 働き方を問う 1日12時間労働で低賃金 夜勤固定も―― 
 若者立つ 労組結成 「みんなが安心できる職場を」

     タイトル 「書くということ」

 しんぶん「赤旗」の4コマ漫画、「まんまる団地」が、2014年1月29日をもって、1万3616回になった。これは、1975年2月27日に、連載が開始されたものであり、おもに社会人を読者とする、日刊全国新聞連載の4コマ漫画で最長を記録した。

 これまでの記録は、加藤芳郎さんの「まっぴら君」で、毎日夕刊、1954年1月から2001年6月で、1万3615回であった。それに追いつき追い越したというのだから、ひとつの快挙である。

 「まんまる団地」を書いているのは、オダシゲという人で、もっとも苦労するのは何か、と問われて「アイデアを生み出すとき」というふうに答えている。そのための忍耐力、集中力が求められるときだそうである。

 それは、もの書きの真実を言い表しているように思う。漫画であろうが、その他の詩やエッセイや小説であろうが、その鍵をにぎるのは「アイデア」である。それらの芸術作品は、アイデアといわずに「モチーフ」とか「テーマ」というように呼んでいる。

 エッセイや小説にしても、漫画でいう「アイデア」であるところの、モチーフやテーマを捜し当てたり、ヒラメキに遭遇したりするのが、もっとも苦労するところである。ヒラメキというのは、何もしないで天から降ってくるというものではない。それなりの考えをめぐらすなかで、幸運に出合えるというものだ。

 石垣りんの散文集「夜の太鼓」という中で、彼女は朝日新聞がカラー写真を公募して、その入選作に詩をつけて発表するという企画について述べている。それによると、写真が決定してから詩を書いて届けるまでの期間が、2、3日だということである。

 それを聞いて、彼女はたじろいだという。出来なかったときのことを考えて、不安をかくせないでいると、担当記者は次のように言ったそうだ。

 「石垣さん、仮にも現代の詩を書こうという人がですよ、一枚の写真を見せられて、それに応えられないということがありますか」と、かなり手厳しい言葉が返ってきたというのである。彼女は、素直に「そうだなあ、と思いました」と語っている。

 このように、もの書きを志す人には、非情ともいえる要求がなされるものだ、と私はつくづく思ったものだ。私などは別にプロではないし、趣味に毛がはえたようなものだけれど、それでも「写真一枚見せられて」、ひとつのエッセイ、ひとつの掌編小説が書けないようではつまらない、と感じている。

 小説なり、エッセイなり、日記なりにしても、オダシゲがいったように、「アイデア」が命であり、芸術なら「モチーフ」、「テーマ」と言い換えることができるが、それが命である。継続して書いてゆくためには、日常の暮らしの中で、絶えずアンテナを高くして、生きてゆかなければならない。

 「書くということは」それだけ難儀なことだ。が、逆にいえば、日々の暮らしを、自然や社会と対峙して生きるということであり、それが「生き甲斐」ともなる、ということである。



プロフィール

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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
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 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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