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夢日記 「表紙カバーの撮影」

‘13(H25)年10月31日(木) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ディサービス〝解体〟 生活支援は廃止
 介護保険総費用に上限 厚労省方針〝介護難民〟増やす

    タイトル 「表紙カバーの撮影」

 「鬼藤千春短編小説集」のカバー写真撮影に、印刷屋のカメラマンに来て貰った。本のタイトルが、「磯の光景」なので、我がふるさとの磯を、表紙にしたいと思ったからである。

 インターネットで、「磯」を検索すれば、何千、何万という写真を拾うことができる。私は根気強く、それらの写真を一枚一枚見ていったが、途中であきらめた。私のイメージに合う写真がないのだ。そこで、印刷屋に相談したら、「うちにセミプロがいる」というので、ふるさとの磯を撮って貰うことにした。

 ふるさとには、三郎島というところがあって、砂浜が200メートルくらい続いており、とても綺麗な磯がある。昨日、私はその砂浜に足を運んで、撮影ポイントをあらかじめ探していた。両手で画家のやるように長方形をつくって、構図を色々と試してみた。

 それで、撮影ポイントを数カ所探し出し、カメラマンをそこへ案内した。私の希望は、海、砂浜、島、空をカメラに収めるということだ。それをカメラマンに伝えて、いろんな角度から撮って貰った。

 絶好の撮影日和で、砂浜には波が打ち寄せ、島は常緑樹の緑に彩られ、空は青く澄み渡っていた。カメラマンは、何枚も何枚もシャッターを切っていたので、おそらくいい「磯の光景」が撮れたのではないか、と思っている。

 作品をふたつ追加して、原稿用紙で411枚、本のページ数は、約280頁になる予定だ。本のページ数も不足はないし、表紙の写真撮りも終えたし、あとは完成を待つばかりだ。クリスマス前の完成をめざして、作業をすすめるということなので、いい新年が迎えられるに違いない。
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夢日記 「竜太はどうなってゆくのか」

‘13(H25)年10月30日(水) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 カジノ誘致 あおる自民 小樽で推進サミット
 「総理の意思」「後れとるな

     タイトル 「竜太はどうなってゆくのか」

 三浦綾子の長編小説「銃口」がおもしろい。まだ四分の一くらいしか読んでいないのだが、読み始めたらもうやめられない。竜太の小学三年生から物語は始まる。今読んでいるところは、彼が中学三年生になった頃の話である。

 今まで登場した主要な人物は、竜太、楠夫、芳子、坂部先生と、竜太の家族たちである。時代は1928年から1930年という、日本が15年戦争に突き進んでゆく頃を時代背景としている。「冬の時代」ではあるが、魅力的な時代を物語の背景としている。

 この物語が、日本の敗戦までで終わるのか、それとも戦後まで描かれるのか、私にはまったく分からない。分からないからこそ、小説を読んでゆく愉しみもあるというものだ。

 竜太が青年になるまで描かれるのか、それとも大人になるまで話が進んでゆくのか、も分からない。しかし、「銃口」という題名から察するところによると、敗戦後まで書き綴られることはないように思われる。敗戦までなら、竜太の青年時代がこの物語のクライマックスになっていくに違いない。

 坂部先生は、竜太の4、5、6年生の担任で、自由主義的、民主主義的な先生である。奉安殿の掃除をするにしても、天皇の写真に尻を向けたらいけないという指示を受けて、竜太たちはそれに携わるというような時代である。坂部先生も苦悩しながら、生徒たちに精一杯、自由で民主的な教育をしようと務めている。

 坂部先生は、人間はみな平等であることを教え、貧しくて納豆売りをし、学校へ遅刻してやってくる芳子を非難する生徒たちを戒める。貧しい生徒たち、弱い者たちに、いじめをする子どもたちを決して許さない。そんな先生である。

 竜太は、坂部先生から大きな影響を受け、「先生になりたい」という希望をもつことになる。この先生の教えは、竜太の生涯を決めることになるのだろう、と思われる。

 竜太は芳子が好きだ。しかし、竜太はその想いを素直に表現できない、それどころか、その反対の言動をするのだった。竜太と芳子の甘い感情、幼い愛情はこれからどのように進展してゆくのか、その興味も尽きない。

 竜太はどんな人生を歩んでゆくのだろうか。芳子との関係はどうなってゆくのだろうか。竜太は魅力的な人物像として設定されている。「果たして、竜太はどうなってゆくのか」、これが小説のおもしろさである。

夢日記 「まがね文学会の例会」

‘13(H25)年10月29日(火) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 秘密保護法案 研究者271氏「反対」
 憲法・メディア法、刑事法

     タイトル 「まがね文学会の例会」

 まがね文学会の例会が、岡山市民会館の会議室で行われた。同人誌を定期的に発行している文学同人会でも、月一回の例会がきちんと開かれているところは、そう多くないと聞いている。が、まがね文学会は創立以来、月一回の例会を軸にして運営されている。

 その10月例会を開き、さまざまなことが確認され、必要なことが決められた。まず、開会に先立って、「まがね」55号の再校正が行われ、11月20日頃に発行できる目処がついた。再校正が遅れていたので心配していたが、予定通り完成できる見通しとなった。

 中国地区文学研究集会の決算と反省、感想を出し合い、成功裏に終えたことが確認された。12月の忘年会は、いつものように倉敷の「蔵ぷぅーら」で行うことを決めた。11月9日(土)に「まがね」の編集会議を開いて、編集・レイアウトをして印刷に回すことが決められた。

 これらのことを決めたうえで、「民主文学」10月号の合評に入った。取り上げた作品は、東喜啓の「長池ちゃんのこと」と、須藤みゆきの「秋ゆく街で」のふたつである。

 「長池ちゃんのこと」は、労働組合のことを描いているのだが、今までにない創作方法で書かれていて、刺激的な作品であった。比較的若い新人で「民主文学」初登場である。参加者の批評もだいたい好評で、独創的な作品として評価された。こうした作品が「民主文学」にもっともっと発表されることを望む声があった。

 「秋ゆく街で」も好評で、内容がいくらか暗い印象を与えるけれど、文章、文体が優れているという評価がなされた。ただ、この作者の題材が、新聞配達を懸命にする母がよく登場して、読者としてはやや食傷気味であるという意見も出された。が、この作品は、その地点から新たな世界へ羽ばたこうとするものだ、という評価もなされた。

 この例会は、決めることや確認事項が沢山あって、合評が駆け足になったけれど、いい話し合いができたと思っている。これだけ作品の評価が一致するというのは珍しく、ふたつの合評作品の出来が良かったからだろうと思う。

夢日記 「三浦綾子の『母』」

‘13(H25)年10月28日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 政治考 与党からも「自共対決国会」の声
 〝遠慮なく本質突く〟

     タイトル 「三浦綾子の『母』」

 三浦綾子の「母」を読んだ。私は小説を読んでも感動や感銘を受けるということがあまりないけれど、この「母」はいささか違っていた。母というのはご存知の通り、小林多喜二の母、セキさんのことである。

 この「母」を読み進んでゆくと、作者にセキさんが、その問いに答えるような形で、あるいは「問わず語り」のように物語が進行してゆく。しかし、それはまったく私の誤解だった。

 セキさんが他界したのは1961年であり、この小説が書かれたのは、1992年である。この作品が書かれる30年も前にセキさんは鬼籍に入っているのだ。したがって、三浦綾子とセキさんの接点はなかったのである。

 この作品が生まれたのは、三浦綾子の夫、光世さんに「小林多喜二の母を書いて欲しい」と頼まれてからである。しかし、すぐには書けなかった。それから、かれこれ10年以上もの歳月が流れた。三浦綾子は戸惑っていた。多喜二のこともよく知らないし、共産主義にもまことにうとい、として足を踏み出せないでいた。

 だが、彼女の心を動かしたのは、「多喜二の母は受洗した人だそうだね」という、光世の言葉だった。「共産主義者の母親を書くのはむずかしいかも知れないが、キリスト信者となった人のことなら何とか書けるかも知れない」と、こうして取材が始まったのである。

 しかし、実際は多喜二の母は受洗していなかった。それで三浦綾子は書く気を失ったことがあった。が、更によく調べた結果、多喜二の母は、キリスト教で自分の葬式をしてもらうことを決めていて、それに触れて三浦綾子は、その挫折感を振り払うことができたといっている。

 そのような、いきさつで「母」は書かれたのである。私はこの小説「母」に感動した。心が洗われるような思いで読み進むことができた。この小説の優れているところは、何よりも多喜二と母をはじめとした、登場人物が生き生きとリアルに描かれていることである。

 そして、もうひとつ、母の問わず語りという創作方法に成功している。実にみごとなセキさんの語りを描出している。多喜二と母、それを取り巻く人間像が浮き彫りにされている。それがこの作品の特質だろうと思う。

 三浦綾子は好きな作家のひとりであったが、まだ読めていない「銃口」を読んでみたいと思っている。

夢日記 「自分史の会」

‘13(H25)年10月27日(日) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 日米安保の闇 より深く 許すな! 秘密保護法案
 「密約の暴露・追及」犯罪に 今でも秘密だらけなのに

     タイトル 「自分史の会」

 自分史の会の佐藤先生から「自分史の会の交流会」へのお誘いがあった。11月9日(土)に倉敷市の山陽ハイツで催されるとのことだ。

 佐藤先生は講座を四つもっておられるそうで、それらの会員たちの交流会だそうだ。私は即座に出席させて貰うと承諾した。文章で自分の人生を綴る人たちに会えるというのは、このうえもなく楽しみである。

 私は現在66歳だけれど、多分「自分史の会員」たちは、私よりも先輩の方たちが多いように見受けられる。先輩たちの生きざまを聞いたり、文章を読んだりするというのは、心おどるような心持である。戦中に生まれた人もかなりいるように思う。

 私は戦後生まれということになっているけれど、戦中と戦後を結ぶ結節点の頃に生まれた。私の幼・少年期はいやおうなく、戦争の影に色濃く染められていたのである。ただ、戦中とは違って、軍国主義教育は受けてないし、天皇に対する考え方もずいぶん隔たりがあったのは間違いない。

 いずれにしても「ものを書く」という仲間が魅力で、そういう人たちに会えるというは待ち遠しい限りである。「ものを書く」ということは、なんと魅力的なことだろうか。「ものを書く」ということに出会えた私は、幸せというほかはない。

夢日記 「児童文学は深い」

‘13(H25)年10月26日(土) 曇りのち晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 消費税 共産党が増税中止法案
 各党に共同提案よびかけ 4月実施反対の一点で

    タイトル「児童文学は深い」

 児童文学は深い!のだ!!(竹永みつえさんのブログより)

 西大寺アートプログラム西郷竹彦先生の国語の授業を受けました。西郷先生は文芸教育理論の体系化をめざし活動をされています。児童文化や民話を豊かに深く読み取る豊かな世界を展開されます。

 今日の授業は、国語の教科書にでてくる「ごんぎつね」――ちょっとお話を要約。

 「これは、ひとりぼっちのイタズラ好きのごんぎつねがある日、村の男、兵十の釣ったうなぎを盗むというイタズラをしました。

 その次の日に兵十のお母さんの葬儀に遭遇。ごん狐は兵十がおかあさんのために釣ったうなぎを取ってしまったとおもい罪滅ぼしに兵十の家に毎日、栗やまったけをとどけます。

 兵十は不思議に思い友達に話すと友達は神様の仕業だと言う。その会話を隠れて聞いていたごんぎつね、次の日も栗やマツタケを届けます。

 しかしその後ろ姿を兵十に見られ、イタズラ好きの狐が入ってきたと思って銃で撃たれ、ごんきつねは死んでしまう……あとで、もって来てくれたものを見た兵十は、おまえだったのか……と」
 というお話です。

 これ娘が小学校のときの授業参観では、「いくら良いことをしても日ごろの行いが……」みたいなまとめだったのに……、

 西郷先生は。これは悲劇だと言われ……
 こういう結末になったのは、ごんぎつねのせいでも、兵十のせいでもない。まずどういう社会でどういう状況で二人は生きていたのか……

 お城の中山様と言うお殿様の下、封建社会の中で身分が違う者同士のコミュニケーション不足の結果起きた悲劇ではないか……と社会背景の話をされました。

 そして最初からどこを、だれを視角(視点)に置く手法をとっているのかと文法的なことも言われました。最初はごんぎつね……そして最後は兵十からの視角(視点)、一瞬だけ視角(視点)がかわるところも……

 と、読みながら解説してくださいました。西郷先生に早く会っていたらもっと文学の世界が好きになっていたのでしょうね!

 今日は親子授業を私たちが傍聴すると言う形で行われたのですが、参加した子どもたちも、学校では習わない!との感想。

 ほんとうに児童文学は深い!

 上記の文章は私のものではない。共産党の岡山市会議員の竹永みつえさんのものだ。彼女のブログから勝手に拝借したものである。

 私はこの文章を読んで、目からウロコが落ちるような気持になった。学校の授業参観での読み方とずいぶん違っている。この文章には「文学」の真実や本質に鋭く触れている。

 こういう観点で文学は書かれているし、書かれなければならないということを、痛感させられた文章である。

夢日記 「8時間労働?」

‘13(H25)年10月25日(金) 雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 消費税増税 貧困・格差を拡大 増税中止が一番の景気対策
 内部留保活用 首相「私からもお願い」 参院予算委で小池副委員長

     タイトル 「8時間労働?」

 私の日々の暮らしは、午前、午後、夜という風に、1日を三つに分けて過ごしている。

 午前は、新聞に目を通すことと、ウォーキングだけで、その他のことは殆どできない。別に夜型人間というわけではない。午前0時に床に就き、6時には起床するのだから、ごく普通の日常生活をしているつもりだ。しかし、基本的に先に上げたふたつのことしかできない。それは自分でも不思議なことだが、それが習慣となっている。

 午後は自由な時間が2時から6時まで、4時間とれる。4時間をどのように活用しているか、というと非常に心許ない状態だ。大抵は2階の書斎で過ごしている。だいたい本を読んでいるか、ものを書いているかだけれど、インターネットもやって時間を潰している? 私は共産党のムービーは殆ど観るようにしているので、それなりの時間が求められるというわけだ。

 夜の自由時間は、8時から12時までの4時間である。午後の4時間と合わせて都合8時間となり、これが私の労働時間? というわけである。夜の4時間も殆ど書斎にいて、ものを書いたり、読んだりしている。しかし、そんなに読書や執筆ができるわけではない。書斎でだらだらと過ごすことも少なくない。

 したがって、1日のうちで外へ出るというのは、ウォーキングのときだけである。そのついでに、朝食のパンや牛乳、ヨーグルトを買ってくる。朝食は自身で段取りするが、昼食と夕食の準備は妻の仕事である。だから、大方私は2階の書斎で過ごしている。

 が、真夏と真冬は室内でウォーキングマシンを使って運動をするので、1日のうちでまったく外に出ないという日も少なからずある。パンは3日分準備しておくからである。

 こういう単調な生活だけれど、自身の人生の中で、もっとも平和で平穏な日々を送っている。いい小説を書くことができればいいと、それを強く願って過ごしている。

夢日記 「山をひとつ越したけれど」

‘13(H25)年10月24日(木) 雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 汚染水問題 東電の対応 規制委が批判
 「柏崎から福島に人回せ」

     タイトル「山をひとつ越したけれど」

 鬼藤千春短編小説集は、原稿用紙305枚、本のページ数が200頁ということを、印刷屋から聞いた。それで、本棚にある単行本を何冊も引き抜き、それに該当する本を手にとって眺めてみた。しかし、200頁ではどうも貧弱なのだ。悩ましい問題が起こったというわけである。

 それが原因かどうか知らないが、朝4時前に目が覚めた。本のことが気になってもう眠ることはできない。眼と頭が冴えてくるばかりだった。それで、このままではいけないという思いに達したのである。すぐに床から起き出し、洗顔を済ませて2階の書斎に上がった。

 パソコンのスイッチを入れ、床の中で考えていた作品を開いてみた。「潮騒の村」と「ゴム長靴」という作品である。前者は原稿用紙100枚ちょうど、後者は6枚だ。これを追加すれば、原稿用紙411枚、本のページは273頁となる。

 「潮騒の村」は、私の好きな作品ではないけれど、呉支部の、今は亡き小栗勉支部長が評価してくれた作品である。その声を思い出して掲載することに決めたのだった。「ゴム長靴」は、青年時代に労働組合運動をともにした、先輩をモデルにした小品である。

 これで、本の体裁は随分よくなるに違いない。が、体裁や装丁のことよりも何よりも、このふたつの作品を追加することによって、私の文学生活の集大成となるということである。これからの文学の歩みは、新しい境地、世界を切り拓いてゆくことになるだろう。新しい地平に向かって足を踏み出すということである。

夢日記 「山をひとつ越えた」

‘13(H25)年10月23日(水) 曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 東電まかせを改め国の責任で実行を
 原発汚染水 衆院予算委で笠井議員

     タイトル「山をひとつ越えた」

 印刷屋が短編小説集の見積りを持って来てくれた。思ったより随分安かった。それは多分原稿のデータを使うからだろうと思う。作品は10編、原稿用紙にして300枚、本のページ数は200頁余になる予定だ。

 作品の10編のデータが殆どあったので、それをすべて送信するということにしたので、安価になったに違いない。原稿用紙300枚をパソコンに打ち込むという作業は大変なことだ。だから、あとはフォントの大きさ、文字数と行数を決めて編集すればいいだけである。

 ただ、原稿用紙300枚では、本の厚さが少し薄いような気がする。原稿用紙400枚くらいあれば、申し分のない本ができる。私の手持ちの作品はまだ300枚くらいあるけれど、自身の納得できる作品だけを掲載することにした。

 そして、掲載の基準にしたのは、作家の右遠俊郎さんや及川和男さんが評価してくれた作品を選んだ。また、「民主文学」に掲載された作品は、躊躇なく載せることにした。さらに、「民主文学」の支部誌・同人誌評に取り上げられた作品を選んだ。

 したがって、手前味噌になるけれども、箸にも棒にもかからない作品はないはずだと思っている。しかし、再読、再々読してみると、その作品の欠点が如実に分かって、顔を赤らめるということも少なくなかった。

 なにはともあれ、「山をひとつ越え」ることができ、印刷屋に本の作製をお願いした。年内には完成するということなので、新しい気持で新年を迎えることができるだろう。

 ただ、「山をひとつ越えた」だけなので、表紙づくり、紙の質、色決め、校正などの仕事が残っている。それらのハードルを越えて、いい本づくりをしたいと思っている。

夢日記 「鬼藤千春短編小説集」

‘13(H25)年10月22日(火) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 生活保護基準下げ 51制度に連動
 帯広市民3/4利用 住宅家賃減免 住民税非課税 就学援助

    タイトル 「鬼藤千春短編小説集」

 短編小説集に向けて、発行の準備を進めている。掲載する小説のピックアップを終え、その原稿の見直しにかかっている。見直しはなかなか大変な作業である。初出の文芸誌は手元にあるので、それを印刷屋に渡せば済むことなのだけれど、発行経費を低く抑えようと思えば、パソコンのデータを使わなければならない。

 そのパソコンのデータを使うのが厄介なのである。というのは、データを打ち出して原稿を送ったり、そのままメールで送ったりしているので、それがそのまま使えると思うけれど、そうはいかない。それは、校正の段階で手直しをして、データを直していないからである。だから、データと初出誌の内容が変わっているのだ。

 したがって、その見直しに手がかかっている。が、ほとんどそれを終えることができた。あと2編残っているがまもなく終わる予定である。しかし、印刷屋にデータを送信するときは、もう一度念のために目を通さなければならない。できるだけ校正をスムーズにおこなうためである。

 掲載予定の作品は、①磯の光景 ②文学教室 ③炎立つ ④みかん ⑤父の納骨 ⑥カミソリ ⑦鈴とアマリリス ⑧赤い傘 ⑨父 ⑩母の潮汲み の10編である。原稿用紙にして、305枚なので短編集を編むことはできるだろう。

 編集は、書き上げた順番に掲載しようと思っている。自身の文学の歩みがよく分かるので、そういう方針に決めた。ここまで準備を進めたのだから、是非、発行までこぎつけたい。と思うけれど、印刷屋の見積り次第である。私の思っている予算内に収まってくれることを、祈るばかりである。

夢日記 「酒それとも肴」

‘13(H25)年10月21日(月) 晴れ 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 まともな仕事 人間らしい生活
 声上げ社会変えよう 強雨の中 青年大集会に1500人

     タイトル 「酒それとも肴」

 私は週1回酒を飲むことにしている。だいたい火曜日の夕と決めている。酒といっても、私の場合はビールである。缶ビール1本、火曜日に飲む。病院に行って、煙草は? 酒は? と看護師に訊かれるが、煙草は吸わない、酒は週1回と答えると、「よく節制されてますね」と言われる。

 しかし、節制でもなんでもない。私は酒が好きな方ではないし、別に飲まなくても一向に構わない。体質なのだろうか、あるいは父が好きだったので、それが反面教師になっているのかも知れない。

 私が小学生、中学生の頃、酒がもとで父と母が絶えず諍いを起こしていたから、「大人になっても酒は決して飲まないぞ」という心持になっていたのは確かである。それが、あるいは作用しているかも分からない。

 だから、週1回のビールを飲まなくても構わないのだが、しかし飲む時の肴が魅力なのだ。わが町は漁師町なので、酒の肴に恰好な、新鮮な魚介類が豊富である。したがって、酒のために肴があるのか、肴のために酒を飲むのか、微妙なところだ。

 息子は「柿の種やピーナッツ」だけでも酒が飲めるが、私はとてもそれはできない。肴としては、カニ、シャコ、タイラギの貝柱、カキ、ミルガイなどである。もっとも好きなのは、ヒラメの刺身だけれど、高くて手が出せない。

 これらの魚介類はまことに美味である。だから、私は肴のために酒を飲むのか、酒のために肴があるのか、よく分からない。ただ言えることは、これらの肴がなければ酒を飲まないということだけは、はっきりしている。

夢日記 「ささやかな庶民の努力」

‘13(H25)年10月20日(日) 雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 迫る豪雨 伊豆大島厳戒 1200世帯に非難勧告
 救援・復興へ要望聞く 共産党 笠井・吉良氏ら

    タイトル 「ささやかな庶民の努力」

 我が家では月1回、ドラッグストアへ行く。まとめて1カ月分の日用品を求めるためである。しかも、土曜か日曜日に限られている。土、日は7ポイントのサービスが受けられるからだ。7ポイントといえば、7%の割引ということになる。

 消費税が来年4月から8%になるというのだから、ほぼそれに匹敵する値引きである。このドラッグストアは、土、日にはお客で大変賑わう。我が家だけでなく、多くの庶民がこの日を狙って、店に足を運ぶというわけである。

 また、この日には灯油18リットルを5缶求めた。こちらはホームセンターである。ガソリンスタンドよりもいくらか安価なのだ。私は主婦ではないが、わが町の周辺の「安いお店」というのを、ほとんど知っている。

 これらの「安いお店」というのは、みんな知っていて、よく賑わっている。庶民の涙ぐましい努力と工夫である。給料は下がりつづけ、社会保障の負担は増えつづけ、給付は削減されるという状況の中で、庶民は必死に生活を守ろうとしている。

 しかし、台所と政治は直結しているにもかかわらず、選挙を棄権したり、悪政を推進している政権与党に投票したりする庶民にも、注文をつけたいところである。ディスカウントショップに足を運ぶのもいいけれど、消費税の増税などの悪政にも声を挙げる必要があるのではないだろうか。

 が、実は私も消費税増税ストップの、署名すらできていない。もちろん、学習会や集会にも参加できないでいる。「注文をつけたい」というけれど、自身こそが、庶民のひとりとして切実な声を、挙げなければならないだろう。

夢日記 「アッケシソウ」

‘13(H25)年10月19日(土) 雨

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 「秘密保護法案」阻止へ共同を 志位委員長が会見
 共産党、断固反対の声明 「何が秘密かも秘密」で重罰

     タイトル「アッケシソウ」

 「我がふるさと」にアッケシソウの群生地がある。アッケシソウは、非常にめずらしく、北半球に広く分布しているが、日本では北海道・岡山県・香川県で生育が確認されているだけである。

 岡山県浅口市寄島町が、本州唯一の自生地といわれている。アッケシソウは、絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険性が増大している種)に指定されている。寄島町では守る会をつくって、懸命に保護の活動がつづけられている。

 アッケシソウというのは、1891年に北海道の厚岸町で発見され、その町名をとって命名されたものである。アッケシソウが生育するのは、海水の流入する塩湿地である。寄島町でそれが見られるのは、その場所が干拓地で、いまでも海水の流入があり、湿地となっているためである。

 アッケシソウの見ごろは、ちょうど今の季節である。他の木々の紅葉よりも一足早く色づく。群生地に出かけてみたが、鮮やかに色づいていた。アッケシソウの紅葉である。茎から枝全体が紅色に染まっている。まさに「サンゴソウ」といわれる所以である。一口で説明するとしたら、「さんご」によく似ていると言ったらいいだろう。

 アッケシソウの草丈は、10から40センチだが、だいたい30センチ前後である。それが一面に広がっている。紅葉期には岡山県の各地から観賞にやってくる。しかし、今夏は異常気象で名も知れぬ「ガ」が発生して、アッケシソウに食いついて枯死しているものも少なくない。

 アッケシソウの生育は、「我がふるさと」を象徴するものである。私の暮らす町は瀬戸内海の入江にできた集落である。私の子どもの頃は、典型的な半農半漁の町だった。入江に沿って、軒の低い家々がうずくまるように肩を寄せ合っていた。いつも瀬戸内海の汐に洗われているような町だった。

 今年はかなり「ガ」のために枯死したアッケシソウだったが、来年また勢いよく芽を吹き出すことを祈らずにはいられない。

夢日記 「短編小説集発行?」

‘13(H25)年10月18日(金) 曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 対案掲げ政治の根本転換迫る
 衆院本会議 志位委員長が代表質問

     タイトル 「短編小説集発行?」

 鬼藤千春短編小説集を発行したい、と思っている。が、値段しだいである。印刷屋さんに見積りを頼んだので、週明けにはその内容が分かる筈だ。

 私の胸の内では、予算というのを弾いている。それ以内なら、短編小説集を上梓する予定だ。10編の作品で、原稿用紙約300枚の分量である。私の第一作品集となる。見積りを待たずに私の気持はその方向で動いている。

 本の装丁もレイアウトも私の内ではもうだいたい決まっている。本のタイトルは「磯の光景」だ。営業の人にはもう伝えているが、上梓すると決まったら、まずやることは、表紙の写真をとることである。タイトルにふさわしいように、磯の写真を撮って貰いたいと思っている。

 パソコンで、「磯の風景」と打ち込めば、何千、何万という写真が表示される。私はかなり辛抱強くその写真をチェックしていったが、これといった写真がなかった。小説集にふさわしい写真となれば、やはり「我がふるさと」の磯の風景ということになる。その風景をうまく写真に収めることができれば、「磯の光景」という作品集の表紙には使える。

 この短編小説集がうまくことが運べば、次は自分史の発行も考えている。自分史はまだ書けてないが、原稿用紙で250枚から300枚書くことができれば、発行まで進むことができるだろう。自分史のイメージはだいたいできているが、11月から「自分史講座」に出かけて少し教えを乞いたい、と思っている。

 まずは、短編小説集を上梓したい。見積りのOKが出れば、すぐに動き出したい。原稿はパソコンのなかに保存されているので、一度見直せばいいだろう。週明けに結論が出れば、年内には完成するということだ。2014年1月発行という風にしたい、というのが私の願いである。

夢日記 「おしん」

‘13(H25)年10月17日(木) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 伊豆大島 16人死亡 台風26号
 土砂崩れ 40人以上不明

     タイトル「おしん」

 映画「おしん」のことについて書こうと思って、映画を観にいった。しかし、書くことが何もない。私の心にまったく触れてこなかった。

 テレビの「おしん」少女編は非常にできのいい作品だった。私はそのDVDを求めて、テレビの脇の本棚に大切に保管している。これは毎年、正月に観ることに決めている。ただし、「少女編」だけである。それ以後の「おしん」の生き方・歩みにはそれほど共感を覚えない。

 この少女編は、NHKのどの連続テレビ小説といえども、他の追随を許さないものである。この少女編では、小作人が4、5割の小作料を取り立てられていて、子どもたちが奉公に出されたり、紡績工場へ遣られたりする場面が描かれている。明治40年代の時代が鋭く切り取られており、「おしん」の時代背景を余さず描写している。

 そして、日露戦争で負傷し、脱走兵となった「あんちゃん」が、奉公先から逃げる「おしん」を助け、山小屋でともに暮らす場面は特筆すべきものである。「おしん」は雪に埋もれ、「あんちゃん」に助けられなければ死んでいたのだ。そこで「おしん」は、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を教えられる。橋田壽賀子がよくここまで書いたと感心する。

 この少女編に思い入れがあるのは、実は父が日露戦争のあった明治37年生まれであることだ。「おしん」は明治40年に7歳だから、父よりも4歳うえなのである。つまり同時代を生きてきたのだ。父も「おしん」と同じような窮乏のなかを生きてきたのである。

 ただ、父は「おしん」と違って、尋常高等小学校までは行かせて貰ったようである。が、父は田圃もなく小学校を出ると、大工の奉公に出されたのだ。その後の父の窮乏と戦争の日々へ思いを馳せると、胸がつまる。

 だが、映画「おしん」のなんとつまらないことか。この映画は「おしん」の、できの悪いダイジェスト版だという気がする。おそらくこの映画を観ただけでは、誰もテレビの「おしん」まで足を踏み入れようとは思わないだろう。ダイジェスト版としても、失敗しているのである。ひと言でいえば、ディテールがぞんざいで、リアリティがない映画となっている。

 私は‘14年の正月に「おしん」のDVDを観ることになるだろう。妻のいないときを狙らい、ハンカチを握って、テレビの前の椅子に座ることになると思う。神社や寺に行くよりも、それが私の正月のならわしである。

夢日記 「肺年齢86歳」

‘13(H25)年10月16日(水) 曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 ブラック企業規制へ法案 志位委員長が会見
 共産党 公約実践第1号 参院提出

    タイトル 「肺年齢86歳」

 わが町の1キロほど沖合に三郎島という島があったのだが、今はそこまでの海が埋め立てられている。その干拓地に「三つ山公園」が作られている。私はその公園の周辺約3キロを毎日ウォーキングする。時には三郎島に登ることもある。

 三郎島は海抜40メートルほどの高さで、周囲が約4キロだといわれている。時折私はこの島に登る。島の稜線は散策路になっていて、瀬戸の海が一望できる。絶景である。しかし、問題はその島に登る散策路があって、その坂道をゆくと烈しい息切れがするのだ。

 おそらく小学生でも、こんな息切れは起こさないに違いない。青年時代、北アルプスの槍ヶ岳にも登ったことがあるが、こんなに苦しんだことはない。また、公園の周辺のウォーキングを早足ですると、息切れがして胸が痛むのである。そして、時々咳が出て痰がよく喉にからむ。

 それらの症状に、私は不審をいだき異変を感じてきた。しかし、病院へ行くという発想は思いつかなかった。ただ単に運動不足からきているものと思っていたのだ。そして、なんの拍子か急に思いついて病院へ行ってみようということになった。

 病院では、肺機能検査と肺のCT検査をして貰った。医師はその検査結果をみて、肺の病気としては「軽症」の部類に入ると言った。処方することもできるが、あえてする必要もない、というので、私は処方しない方を選んだ。医師は「じゃ、1年後に経過を診てみよう」と言った。私は納得して頷いた。

 しかし、私の肺年齢は86歳だということだ。だから、小学生でも登れるような島の坂道で、息切れがして休まざるを得ないのだろう。20歳から60歳までの40年間、煙草を2箱ずつ吸ってきたのだから、この結果は無理からぬことである。肺がんの心配もしてきていたが、その所見は示されなかった。それで少し安堵したというのが正直な気持だ。

 運動は一向に構わないというので、原因も分かったことだし、これからも「三つ山公園」の周辺を歩いたり、三郎島へ登ったりして、少し健康にいいことをしたい、と思っている。

夢日記 「右遠俊郎さん逝く」

‘13(H25)年10月15日(火) 雨 

『しんぶん赤旗』TOPニュース  休刊日

     タイトル 「右遠俊郎さん逝く」

 10月13日(日)、3キロの散歩を終えて、車に乗って家路につこうとしたとき、突然携帯電話が鳴った。余談だが、「突然携帯電話が鳴った」という表現は、日本語の用法としてふさわしくない、という意見もある。電話というのは、予測もなく「突然鳴るものだ」、というわけである。

 それはともかく「突然、電話が鳴った」のだ。文学会の仲間からだった。彼女は「右遠さんが亡くなった」と言った。私はとくに驚くようなことはなかった。やはりそうだったのか、という冷静な気持で受けとめた。それは彼が脳梗塞で倒れて2、3年寝たきりだというのを聞いていたからだった。

 だから、折々に右遠さんは「いま、どんな状態なのだろうか」、ということを思いやっていたからである。が、冷静に受けとめることはできても、「惜しい人を亡くした、残念でならない」という気持が静かに広がってゆくのを感じずにはいられなかった。

 彼は日本の文学者の中でも、私の内で十指に入る好きな作家のひとりである。ウィキペディアによると、このように記されている。右遠俊郎は1926年9月1日生まれ、日本の作家・文芸評論家。岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。

 戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。

 これによると、享年87歳である。私は右遠さんと直接話をする機会には恵まれなかったが、日本民主主義文学会の大会で遠目に眺めていた。彼の発言は他の人と違って、一味違った趣があり、惹きつけられたものである。お会いすることは叶わなかったが、「まがね」に作品を発表すると、その都度辛辣な批評をしていただいた。

 ファイルを捜していたら、右遠さんの自筆の批評のコピーが出てきたので、ここで紹介させていただくことにする。「何だかみんな、小説を書きなれてきた感じに見えます。上手になったともいえるでしょうが、文章に丁寧さが、薄れています」とやんわり、しかし手厳しい指摘がなされています。

 「読み甲斐があったのは、鬼藤千春さんの『炎立つ』と、長瀬佳代子さんの『村でくらせば』の二つ。前者は、短くなっても寺と紅葉にしぼった方がいいと思いました」と記されています。

 また、次のような批評をしていただいている。「鬼藤千春さんの『文学教室』、若いとき文学を志してその道に進めず、還暦をまえにして、恐れながら文学に戻ろうとする心、その間の悩み、崩れかけ。文章もしっかりしているし、共感を誘うものがありました。が、『文学教室』が余分でした」

 このように、右遠さんは「まがね文学会」をいつも心にかけていて下さいました。私のつたない作品にも温かい、しかし的を射た批評をしてくれました。「巨星墜つ」と言えば、右遠さんは顔を歪めて、睨み返してくるに違いないが、惜しい人を喪った悲しみは、ひたひたと押し寄せてくる。

 「右遠さん――」、今までのご指導ご鞭撻に深く感謝いたします。ご冥福を心からお祈り申し上げます。安らかにお眠り下さい。

夢日記 「海の見える図書館」

‘13(H25)年10月14日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 決して再稼動させない 原発ゼロ☆統一行動
 国会へ 全国から4万人

     タイトル 「海の見える図書館」

 10月13日(日)は、とても爽やかな一日だった。いつものように午前10時ごろ家を出て、「三つ山公園」に向かった。車は最寄りのコンビニに駐車して、それから周囲3キロの公園周辺を散歩するのである。

 歩きながら空を見上げると、雲ひとつない秋空が広がっている。どんなに天気がよくても、なにがしかの雲は浮かんでいるものだ。しかし、360度見渡しても雲ひとつない、こんな日はとてもめずらしい。北に目をやると、緑の山々がくっきりと稜線を描いている。南に目を転じると、青い海が秋の陽射しを照り返して光っている。

 公園では、町内運動会が開かれている。地区ごとのテントが張られ、応援が繰り広がれていた。場内では幼児から高齢者までが、玉ころがしやパン食い競争などに興じている。参加者の一人ひとりが声を挙げ、笑いを弾けさせて、運動会を満喫している。

 私は運動会を横目でみながら先を急ぐ。公園の最後のコーナーを曲がると、右手に海が広がり、正面には山の稜線が青い空を切り取っているのが見える。視線を下の方に移すと、三階建ての建築物が立っている。我が「ふるさと」の図書館である。この建物は、一階が市役所の支所、二階が銀行、三階が図書館となっている。

 我が「ふるさと」の図書館は、「海の見える図書館」である。海が見える……というよりも、県道を一本越えれば海なので、「海のほとりの図書館」である。だから窓を開ければ、潮の香が匂ってくる。窓を大きく切ってあるから、瀬戸内海が一望できる。天気がよければ、四国山脈も望める。

 私はこの図書館をよく利用する。定年退職した頃は、朝9時の開館と同時に入り、5時の閉館まで本を読んでいたものだ。ただ、人の話し声や物音が気になり出して、自然に足は遠のいた。今では県立図書館の図書の受け渡し館として利用することが多い。県立図書館は、新刊書の7割は購入するということなので、大抵の図書は揃っている。

 それをインターネットで申し込むのである。すると一週間後くらいには、この図書館に届くのである。したがって、私はここ10年くらいほとんど本を買ったことがない。買うとすれば、手元に置いておきたい資料のようなものとか、県立図書館にない書籍である。

 この図書館は所蔵している図書は少ないが、閲覧室が広く、海を見ながら読書ができるという恰好の場所である。全国的にも海のほとりに立つ図書館はめずらしいと思う。我が「ふるさと」が好ましいと思うのは、豊かな自然とこの図書館があるからである。

 私は公園の最後のコーナーを曲がって、「海の見える図書館」をめざして、歩いてゆく。その図書館までゆくと、私のウォーキングもそろそろ終点である。

掌編小説 「桜」

   桜
             鬼藤千春

 朝礼を終え、祥三は墓石のパンフやチラシを揃えて、営業に出る準備をしているところだった。まだ頭に靄がかかっているようで、身体も倦怠感に包まれていた。そこへ室の空気を震わすような、音質の高い電話のベルが鳴った。
「有り難うございます。姫井石材でございます」
 祥三は受話器をさっと持ち上げて、爽やかな声で答えた。
「あのう、ちょっと相談があるんですが。四十九日までに、お墓はできるでしょうか」
 低く、くぐもった女の人の声だった。
「ええ、石種とかデザインとかによって違うんですが、たいていは間に合わすことができますよ」
 祥三は不謹慎にも、声が弾んでいた。
「それじゃ、ご無理を言いますが、お墓の資料を持ってきていただけますか」
 いくらか明るい声だった。
「はい、承知しました。何時ごろ伺ったらいいでしょうか。あ、そうですか。十時頃ですね。それではこれから出かけます」
 祥三は受話器を置くと、自然に顔がほころんだ。
 こういう話は滅多にないのだ。祥三は、しめた、と思った。
「どうぞ、お上がり下さい」
 五十代だろうか、女の人が祭壇のある部屋へ案内してくれた。
 祥三は祭壇の前に座って、まずローソクに火をつけた。ぼうっとオレンジ色の炎が上がった。ローソクから線香に火を移して、香炉に二本挿した。線香から白い煙が湧き出すように、立ち昇っている。リンをふたつ打ち、合掌をして深く頭を下げた。
「このたびは大変でございました。お悔やみ申しあげます。失礼ですが、ご主人様ですか」
 祭壇から座卓の方に席を移して、祥三は言った。
「ええ、私の連れ合いです。まもなく定年という時に、残念です。でも、これも仕方ありません。この人の寿命だったのでしょう。それで、四十九日までにできますか」
 奥さんは、白いハンカチを右手に持っていた。
 祥三はパンフを出して、座卓の上に広げた。「墓石選びは、まず大きさ、デザイン、石種によって、決めていただくことになります」
 祥三はパンフを指差しながら、丁寧に説明していった。
「あ、そうですか。九寸角の先祖墓ですね。こ、このデザインでよろしいですか。石種はこだわらないんですね。でしたら、中国の黒龍江省で採掘される石をお奨めしますよ。この石は、硬い、吸水性が低い、変質しにくいという、三拍子揃った石ですからね」
 祥三は石見本を出して説明した。
「それでは、これでお願いします。主人を仮埋葬で、土の中に眠らせるわけにはいきません」
 奥さんは、ハンカチで口を押さえた。
 祥三は契約書を書いて、捺印して貰い奥さんの家を後にした。車を道の路肩に停め、祥三は煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。旨かった。契約した後、喫む煙草は格別なのだ。
 祥三は昼食をコンビニで摂って、事務所に帰った。彼はⅤサインをして見せた。自分でも、顔つきがやわらいでいるのが判る。凱旋である。
「星川さん、大変よ。さっき鈴木さんの奥さんから電話があって、キャンセルさせてくれと言ってきたのよ」
 女の事務員が、慌てて言った。
「なに、キャンセル?」
 祥三はあっけにとられて、言葉も出なかった。
「うるう年だから、建ててはいけんいうて、親戚のものが言うそうよ」
「うるう年?」
 来るものがきた、と祥三は思った。
 祥三は折り返し鈴木さんの家に向かった。彼は、うるう年と建墓についての説明を反芻していた。
 江戸時代のことである。もうかれこれ二、三百年も前のことだ。陰暦の時代、うるう年は一年十三カ月だった。だから、同じ年額給金で十三カ月暮らさなければならないので、ときの大名が布令を出し、仏壇や墓石の購入をやめさせたのだ。
 それが迷信となって、今も生きているのだ。祥三はどう説明したところで、どうせ駄目なことは判っていた。
「親戚の反対を押し切って、もし何か不吉なことが起こったら困るので、このたびはやめときます」
 ほとんど、こういう返事が返ってくるのだ。
 祥三は、思わず溜め息をついた。人間の心というものは厄介なものだな、と思った。
 祥三は車のスピードを上げながら、戦前の非合法政党のことが不意に頭をよぎった。まもなく百年が経とうとしている。が、いまも怖いという迷信がつきまとっているのだ。それを払拭するためには、どうしたらいいのだろうか。
 祥三は墓石の契約よりも、自分も所属するその政党のことが、頭から離れなかった。一陣の風が吹いた。木々の枝が揺れている。桜の花びらがひらひらと舞い降りていた。

夢日記 「新聞が読めない」

‘13(H25)年10月13日(日) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース 
 京都議定書目標 温室効果ガス削減
 EUが超過達成へ 日本は逆に増加

     タイトル 「新聞が読めない」

 新聞がある朝突然読めなくなったのは、私が30歳過ぎの時だった。仕事に出かける前、朝食を摂って新聞を広げて読み始めたのだが、新聞が読めないのである。正確には3行までは読むことができる、しかしそれ以上読み進むことができないのだ。

 3行読むと、頭は白い霧に包まれたようになり、脇の下から冷や汗が流れ落ちるのである。耳鳴りがし、身体は鉛のように重く、倦怠感に襲われるのだった。それはなんの前触れもなく、不意に訪れたのである。

 しかし、しばらく今まで通り仕事をつづけていたが、その症状は一向に改善しないので、病院へいくことにした。内科で心電図を撮ったり、血液検査をしたり、脳波の検査をしたりした。耳鼻科にも行った。耳鳴りの検査をしてもらったのである。が、内科的にはどこにも異常がないということだった。

 私はもうお手上げだった。新聞が読めない、もちろん本も読めない。身体は鉛のように重い。倦怠感に包まれて、身体がだるい。日中でも横になっていたいという状態がつづいていた。

 そこで、思いついたのが精神科の受診だった。その時倉敷に住んでいたが、岡山の病院まで出かけていって、診てもらった。簡単な問診だけで、薬を処方されて帰ってきた。2、3日薬を服用してみると、ずいぶん身体が楽になった。倦怠感もうすれ、身体も軽くなったようである。

 しかし、新聞が読めるようになるまでには、しばらくの時間が必要だった。なぜ、こんな奇妙な病気に罹ったのだろうか。新聞が3行までしか読めないということは、脳が外部からの情報を受けつけないということである。新聞だけの情報だけでなく、人の話も充分聴くことができなくなっていたのである。

 脳が外部からの情報を受容できなくなったのはなぜだろうか。その頃私は、慶応大学の通信部に在籍していて、猛烈に勉強していた。スクーリングにも出席して、三田キャンパスにも通ったものである。仕事が終わってから、午前2時、3時頃まで教科書を開いていた。

 身体に異変が起こったのは、その頃なのである。独学でフランス語なども学んでいた。私の診断によると、脳が自身のキャパシティーを超える情報量に、耐えられなかったのだろうと思っている。本で見る絵などによると、脳というのは細かい襞が無数にあって、とてもしなやかのように感じられる。

 ところが、私の脳は鉄カブトのようになって、外部からの情報を受け入れることができなくて、その情報を跳ね返すのである。それは脳が脳自身を守る自己防御だったのではないだろうか。脳だけではなくて、私の心身を守るために、外部からの情報をシャットアウトしたように思う。だから、新聞を3行以上読めなくしてしまったのだろう。

 いまは、その症状はほとんど解消されたが、しかしその後遺症はまだ残っている。新聞や本を読むのも気軽にというわけにはいかない。それなりの集中力をもって読まなければ、情報を受容できないのである。いまも、向精神薬が欠かせない。

 が、本は昨年80冊くらい読むことができたし、映画も60本ほど鑑賞することができた。まだ完全に治癒したという訳ではないけれど、やっと外部の情報を受容することができるようになったのである。

 「新聞が読めなくなった」、という後遺症をかかえつつ、これからも脳と相談しながら、無理をせず自然体で生きてゆきたいと思っている。

鬼藤千春の小説

   桜雨
             鬼藤千春

 法廷は静まり返っていた。いよいよ判決が言い渡されるのだ。原告席に座っている耕治は、喉が渇いて、脇の下から冷や汗が落ちるのを感じていた。
 耕治は裁判長をじっと見つめていたが、靄がかかったように、ぼうっとかすんでいた。裁判を起してちょうど四年である。いろんなことが、走馬灯のように駆け巡っていった。
 大手自動車メーカーから、派遣切りをされたのは年末だった。宿舎を明け渡すように言われ、寒空にまるでモノのように投げ出された。耕治は途方に暮れた。たいした蓄えはなく、下手をすれば路上生活者になりかねなかった。
 耕治は当面の生活のために、父の年金に頼らざるをえなかった。四十歳を超えた男が、父の僅かな年金を、宛てにすることに耐えられなかった。悔しくて、悔しくて、恥辱に身を焼く思いだった。
 たった一枚の紙切れで、労働者をクビにするというは、受け入れ難かった。耕治はこの職場で五年三カ月働いてきた。労働者派遣法では、三年を超えて働かせる場合には、雇用契約の申し込みをする必要がある。
 が、このメーカーは、三年が経過する直前に、「サポート社員」として、三カ月と一日だけ直接雇用とした。そして、また派遣社員に戻すのである。これが、この裁判の大きな争点であった。
 耕治は、トランスミッション関連の職場に配属されていた。彼はモノづくりの喜び、愉しさを、次第に味わうことが出来るようになっていた。その労働者としての誇りを、傷つけられたのである。
 彼は他の派遣で働きながら、この四年間の日々を生きてきた。が、月十万ほどの収入だったから、不足分は生活保護を受給して、しのいできた。
 裁判をたたかうなかで、いろんな支援が広がってきた。労働組合はもちろん、名も無き人々から、声が掛けられた。
「ねえ、うちに空き家があるから、誰か使ってちょうだい」
 六十代に見える婦人からの申し出だった。
 駅前で裁判支援の訴えと、署名のお願いをしている時に、駆け寄ってきて、微笑みかけてくれたのだった。
 もう一人は、年配の紳士だった。
「うちには、みかん農園があるんだが、それを譲るから、自由にして貰っていいよ」
 紳士は署名簿に記入して、握手を求めてきた。
 婦人の空き家には、原告の二人がアパートを引き払って移り住んだ。年末にはみかん農園に入り、収穫をして原告団十五名の家に、みかんと餅を届けた。正月用の格好の贈り物となった。
 裁判長がゆっくりと、判決文を読み始めた。
「原告○○、同○○、同○○……および同○○」と、十三名の原告の名前が読み上げられた。その後、
「被告に対し、被告正社員としての労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する」
 裁判長はたんたんと、判決文を読み上げた。
 耕治はその文面が、何を言っているのか理解できないでいた。それは耕治だけでなく、他の原告も傍聴者も同じであった。法廷は一瞬、海の底のように暗く静かになった。
 が、原告側の席に座っていた、国会でもこの問題を取り上げて追及した弁護士が、
「よしっ!」
 と、力強い声で叫んだ。
 それでやっと、原告や傍聴席の人が、この裁判は原告側の勝利だということが、理解できたのだった。
 閉廷直後、傍聴席から、
「よっしゃー!」
 という、歓声と拍手が沸き上がった。
 大手自動車メーカー側の弁護士が、憮然とした表情で、法廷を出ていく姿が印象的だった。派遣十三名が正社員と認定されたのだ。
 裁判所前には、傍聴席に入りきれなかった、支持者の人々が待っていた。傍聴席の支持者が、「勝訴」という紙片を掲げて仲間のところに駆け寄って行った。「勝訴」という字は、骨太で力強く刻まれていた。
 原告団と支持者たちは、お互いに肩を抱き合い、叩き合って、勝利の感触を確かめ合っていた。原告団はじめ、支持者の多くの人々は、眼を紅く染めていた。ただ、二名は「サポート社員」の経験がなかったため、残念ながら認定はされなかった。
 耕治は、これで四年間の苦労が報われた想いがした。が、相手もしたたかだから、控訴の可能性は十分考えられる。しかし、今日は、今日だけは、この勝利に酔ってもいいように思った。それに自身の身を委ねたい想いだった。
「サクラアメ!」
 誰かが、そう叫んだ。
 福岡では、今日桜の開花宣言がなされたのだ。そして、雨である。
 銀色の雨は、糸を引いて静かに降っていた。

鬼藤千春の小説


   駅  鬼藤千春

 駅には風花が舞っていた。
 耕一が、ほとんど使うことのなくなった駅である。駅はずいぶんさびれていた。駅前の雑貨品を取り扱う煙草屋も、そのとなりのパン屋もシャッターを下ろしている。広場にはタクシーが停まっており、運転手は車から降りて、両腕を高く上げ欠伸をしていた。
 駅の売店も閉じられ、ひところは十人近くいた駅員も、一人か二人になっていた。耕一は窓口で、名古屋までの乗車券と岡山からの新幹線の切符を求めた。彼はこれから出向で名古屋まで行くのだった。
 耕一は地元の半導体メーカーに勤めていたが、そこが不況に見舞われたのだ。高校を卒業してちょうど二十年である。その間、多少の景気の波はあったが、なんとか無事にしのいできた。が、今回の不況は、小手先の遣り繰りで乗り切れるというものではなかった。
 四十歳までの社員、三十名が業務命令で出向になったのだ。それは、有無を言わさぬものだった。それに従わなければ、ベトナムへの派遣か、もしくは退職を迫るというものである。やむなく、耕一は名古屋への出向を受け入れた。
 出向先は、半導体の製造とは縁もゆかりもない、自動車のメーカーだった。仕事の内容も現地へ行ってみなければ分からない、という曖昧なものである。
 見送りには、妻と小学六年の亜希子と四年の詩織がやってきた。家から駅までの車の中で、二人の子どもは自分たちが旅行にでもいくかのように、はしゃいでいた。耕一は車を運転しながら、出向先での仕事の不安に囚われていた。怒ったように唇を嚙んで、前方をじっと睨んでいる。時折、振り向いて子どもたちを叱った。
「父ちゃんがいない方がええよ。父ちゃんはガミガミうるさいばあじゃもん」
 負けん気の強い詩織が、口を尖らして言った。
「父ちゃんは酒を飲んで、からんでくるから厭じゃ。ずっと、名古屋へいっときゃええんじゃ」
 亜希子が後部座席から、運転席の方に身体を乗り出してきた。
「そんなことを言ったらいけません。これから七ヶ月、父ちゃんは独り暮らしになるんよ。それが分からんの。あんたらも淋しくなるんよ」
 助手席の妻が甲高い声を挙げて、二人をたしなめた。
 が、二人の子どもは、相変わらずもつれ合って騒いでいた。耕一は怒りが突き上げてきて、二人を殴りつけたい衝動に駆られた。やっとの思いで彼はそれを抑えていた。
 四人は陸橋を渡って、上りのプラットホームに降り立った。構内には北の方から雪が降り注いでいた。空を仰ぐと、北の空は鉛色に曇っていたが、南の空は青く透きとおっていた。やがて、山口百恵の「いい日旅立ち」という曲が流れてきた。下り方面の線路の先を望むと、グリーンとオレンジ色の列車が、朝日を浴びて疾駆してきている。まもなく列車は、ホームに車体を揺らしながら、滑り込んできた。
 耕一は、二つの大きなバッグを持って、列車に乗り込んだ。車内は比較的すいていたので、彼は窓際の席に座って窓を開けた。肌を刺すような風が、彼の頬を打った。
「母ちゃんの言うことをよく聞いて、しっかりやれよ」
 耕一は、二人の顔を交互に見ながら言った。
 ガタンと列車はひとつ身震いして、ゆっくりと動き出した。その時だった。亜希子が不意に号泣し、それにつれて、詩織も嗚咽を洩らし、膝を折って泣き崩れた。耕一は不意をつかれて狼狽し、厳粛な気持ちが胸を駆けぬけた。別れを告げる手が震えて、止まらなかった。
 列車は風花を切り裂いて、小さな駅をあとにした。

鬼藤千春の小説

  父
             鬼藤千春

 父が他界してかれこれ十五、六年になる。九十二年の生涯だった。父の生年は一九〇四(明治三十七)年である。日露戦争開始の年に生を受けたのだ。その年の九月には、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が『明星』に発表されている。
 太平洋戦争の終結をみる一九四五(昭和二十)年まで、父の生きた時代は、まさに戦争につぐ戦争の時代だった。いつどこへ赴いたかは聞いてないが、父はこの間三回に渉って徴兵されている。
 父は大工だった。戦前と戦後の十年くらいは、日本家屋の棟梁として働いていた。が、この期間はまともに大工の仕事があったようには思えない。私は一九四七(昭和二十二)年生まれだが、幼少年期と思春期は、わが家の経済は貧窮の底にあった。
 タンスやその他の家具、自転車なども差し押さえられた。主食はほとんど麦飯であった。若しくは芋粥だった。長兄は小、中学校と首席であったが、高校へ上げて貰うことはできなかった。風呂もなく私は首のあたりに垢をつけて、学校に通ったものである。友達からそれを指摘されて、よく囃し立てられたものだ。
 昭和三十年代になると、都会では鉄筋コンクリートづくりの建築物が、建てられるようになった。それで父は日本家屋の棟梁をやめて、型枠大工となって岡山市へと働きに出ていた。それで長兄も次兄も、父について働きに出るようになった。
 父は極端に寡黙な人であった。父が六十を超えて第一線を退くまで、ほとんど私は話したことがない。どんなに悪戯をしようが、友達と喧嘩をしようが、いつも鷹揚に構えていた。それはまったく母と対照的であった。父は婿養子であったが、寡黙なのはそれが原因ではなく、生来のものだった。
 父はこのうえなく、酒が好きだった。しかし、酒を飲んで酩酊するということは、ほとんどなかった。毎日二、三合の酒を、舐めるように飲むのだ。夕食の座卓の前に座っている時間は、たいてい二時間前後であった。飲んでも父は喋らなかった。ただ、頬をゆるめて、微笑を洩らしているだけだった。
「もう、いい加減にせにゃ。子どもの修学旅行へいく金がないというのに、何を考えとんじゃろうか」
 母が台所から口を出す。
「……」
 父はただ黙っているだけだ。
「酒ばっかり飲んで、少しは家計のことを考えてくれにゃ。税金を納めるために、畑を手放さにゃならんいうのに、もう酒飲みは嫌いじゃ」
 母の愚痴は果てしなく続くのだった。
「……」
 が、父も限界点があるようで、時折り座卓をひっくり返すことがあった。
「……」
 父は怒号を挙げるわけでもなく、平然と振る舞っていた。
 茶碗や皿や徳利が、座敷に乱れ飛んだ。母は狂ったような声を挙げて、闇に包まれた外へ出てゆくのだ。出て行ったら母はしばらく家に帰らなかった。消防団の捜索は一度や二度ではない。
 だが、父は慌てるようすは微塵もなく、悠然と酒を飲んでいた。私たち子どもは、いたたまれず席を立って、他の部屋へ逃げてゆくのだ。弟は押入れに潜り込んで、声を押し殺して泣いていた。貧しさと諍いと、出口のない暗闇の中に、わが家は佇んでいるようだった。
 しかしそんな父であったが、村人の噂によると、戦前父は警察に連れて行かれたことがあるとのことだ。東地区の漁師と寄合いを持って、「戦旗」やマルクスの研究会をしていたらしい。治安維持法違反ということだ。
 家にはそれらしき書籍は何もなかった。私は訊くこともできず、じっと見守っているだけだった。が、父は時折り仕事から帰ると、夜、酒も飲まずに出かけることがあった。酒以外、煙草も賭けごともしない父であったので、それはひとつの謎だった。
 私が高校で社研部に入って、部落問題やベトナム問題に首を突っ込むようになっても、父は何も言わなかった。ほとんど、無視をするような態度を崩さなかった。
「浩平、なにゅうしょんなら。社研部? そんなもんはやめとけ。社会に出ても、後ろ指をさされるだけじゃ。絶対に許さんけえのう」
 母は金切り声を挙げた。
「父ちゃんをみてみい。むかし、警察に引っ張られたんぞ。もう一度、そんなことをしたら、出ていって貰う約束なんじゃ」
 母の鋭い眼が光っていた。
 ある日、父が縁側に座っていた。私はそうっと近づいて父の横に座った。二人ともしばらく黙ったままだった。
 遠くを見るような眼をして、父はおもむろに言った。
「浩平、自分の、思うように、生きりゃ、ええんぞ」
 一字一句噛みしめるように、父は言った。
 浩平は、初めて父の声を聞いたように思った。その言葉は、浩平の胸を打たずにはおかなかった。

夢日記 「ふたつの講座」

‘13(H25)年10月12日(土) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 生活保護引き下げに反撃 〝これでは生きられない〟
 不服審査請求1万件超

     タイトル 「ふたつの講座」

 偶然は重なるものだ。ふたつの講座に同時に参加することになった。ひとつは倉敷公民館グループの「自分史の会」である。もうひとつは、労働者学習協会の「ものの見方・考え方講座」だ。

 「自分史の会」は、自身が自分史を書いてみたいというのがあって、本を図書館から取り寄せて読んでいるところだった。関鑑子の生涯を綴った「グレート・ラブ」、多喜二の母セキを描いた三浦綾子の「母」などを読んだ。そして、上田七加子の「道ひとすじ」や中里富美雄の「自分史を読む」に目を通してみた。

 これらの本を読んで、だいたい自分史というもののイメージが湧いてきた。だから、あえて「自分史の会」に入会しなくても書けるような気がしないでもない。が、そういう会があるなら、教えを乞うてみるのもいいだろう、と思った次第である。

 「ものの見方・考え方講座」は、もう45年も前に学んだものであるが、講座の内容が今日的なものになっているのを感じたからである。第1回は「人間とは何か―労働と知性」、第2回は「人間とは何か―社会と文化」という内容である。そして、5回まで講座が開かれるというので、申し込んだというわけだ。

 この講座は、小説や随想、自分史を書いてゆくうえで、なんらかの糧になるような気がしている。もちろん、ものを書くうえで直接役立つわけではないが、自身の視野を広げることができるように思う。初心にかえって、学んでみるのも決して悪いことではない。

 自分史の会と講座は11月から参加することになる。自身の単調な日々に、刺激を与えることになると思うと、心が少し浮き立っている。

夢日記 「快適な朝」

‘13(H25)年10月11日(金) 曇り

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 安倍内閣が税金で育成 リストラ請負会社の実態
 ルネサスでは 5社の担当者 社内に常駐 退職強要受けた社員に「決断」促す

     タイトル 「快適な朝」

 「便秘が解消されれば、人生が変わる」、と言われるくらい便秘は悩ましいものである。その便秘に私は30年来、悩まされてきた。30歳過ぎから65歳くらいまでである。

 毎朝、トイレにゆくのが憂うつだった。毎日のことだから尚更のことである。トイレで15分も20分も座っているということは、ごく普通のことだった。ただ座るだけでなく、息むことになるので、その時間というものは苦痛というほかないものだった。

 私が便秘になったのは、向精神薬を服用するようになってからである。その薬には副作用というものがあって、説明書に便秘と眠気を誘うということがうたわれていた。この副作用は厄介なもので、ずっと悩まされてきた。

 いってみれば、「便秘になるための薬」を飲むわけだから、便秘を避けることはできないのである。向精神薬をやめれば、胸が苦しくなるし、飲めば便秘になるし、まさに「あちらを立てればこちらが立たぬ」という情況に陥ってしまったのである。

 便秘になるということは、痔疾を引き起こすという副作用をともなうものである。この間私は3回の入院をして痔疾の手術をしなければならなかった。この痔疾というのも便秘からきているので、便秘を解消することなくして、根本的な原因の除去にはならない。

 私は便秘解消の手立てを決して打たなかったわけではない。テレビCMの薬をいくつか試したけれど、腸の具合が悪くなったり、体調が悪くなったりして、いつのまにかやめるということが繰り返されてきた。病院へいっても、対症療法しかなく根本的な治療はなされないままだった。

 そして、インターネットで調べることになった。いくつかあたっているうちに、「薬で便秘は治らない、薬はやめなさい」という言葉に出会ったのである。私は直感的にこれだ! と思った。そこですぐ電話連絡をして詳しく訊いた。

 その漢方薬の薬局は、「食物繊維を摂ることと、整腸薬を飲むこと」を奨めた。すぐに取り寄せて2、3日試してみたら、顕著にその効用はあらわれた。その処方にしたがって、まもなく1年になる。便秘は解消され、痔疾も治癒して快調な日々を送っている。

 「便秘が解消されれば、人生が変わる」、というのは大袈裟でもなんでもなく真実である。いまは毎日、快適な朝を迎えている。

夢日記 「母の潮汲み」校正

‘13(H25)年10月10日(木) 晴れ 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
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 タイム工芸よりゲラ刷りが届いた。まがね文学会の文芸誌「まがね」55号用のものである。11月末発行にもっていきたいと思っているが、それはいささか微妙だ。今回のゲラは著者校正用のもので、まだ、第2回目の校正を経て、そして最終校正という過程を経なければならないからである。

 「まがね」55号は、小説9編、随想6編、そして詩が幾編か寄せられている。おそらく、120頁くらいの文芸誌になるだろう。今回の号から、字を大きくするとともに、随想のフォントも小説と同じ大きさにした。ずいぶん、読みやすくなるように思う。

 私は「母の潮汲み」というタイトルで67枚書いている。比較的長いものだが、これは若い頃から持っていたモチーフを作品化したものだ。この題材で今まで2編書いてきたが、これはその集大成である。自己批評では、まずまずのものが出来たと思っているが、読者の批評を待たないとなんともいえない。

 「まがね」55号は、12月発行は間違いないので、次の56号は‘14年8月の発行予定となる。入稿して完成するまでに3カ月かかるとすれば、4月か5月末の原稿締め切りとなる。私としては、年明けから30枚くらいの短編をめざして書いてゆくつもりだ。

 私がまがね文学会に復帰したのは、‘04年で復帰第1作は「まがね」第41号の「文学教室」という作品であった。それ以来、55号まで15編(ひとつは連載)の小説を書いてきた。この間、一度も休むことなく小説を発表することができた。

 これからも、「まがね」が続く限り書いてゆきたいと思っているが、それは容易いことではない。いい題材に巡り合わないので、うん、うんと唸りながら書いてゆくことになると思う。

夢日記 「病院へ」

‘13(H25)年10月9日(水) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
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 列島各地に怒り広がる 交渉から即時撤退せよ 紙智子参院議員の話

 昨日、水島の協同病院へいった。受診のためである。ウォーキングで速歩になると、胸に違和感がして少し痛むという自覚症状が出る。また、山道を100メートルも登ってゆくと、息が切れ、胸が痛むということに悩まされている。

 そこで、病院へいったというわけである。病院では心電図と胸部のレントゲンを撮った。先生に診てもらったら、心電図もレントゲンも異常がないということだった。もっと詳しく調べるためには、肺機能検査とCT、そして呼吸器科での受診が必要であるとのことだ。私はその予約をして帰った。

 再度検査しても、多分異常はないに違いない。けれども、私は肺の検査を詳しくする必要性を感じている。いままで、肺の健康にいいことは何一つしてこなかったからだ。20歳から60歳まで、40年間煙草を吸い続けてきたから、その代償は大きいはずである。簡易検査をしてもらったら、私の肺年齢は91歳だということだった。

 実年齢と26歳も差異があるのだ。それで驚いて詳しい検査を受けるということを即決したのである。肺年齢91歳というのが、どれだけ信憑性があるかどうかは分からない。むしろ、簡易検査の方の妥当性を疑ってみる必要もあると思う。

 けれども、煙草を40年間毎日40本吸い続けてきたのだから、この辺で精密検査を受けておくというのも決して悪くはないと思った、という次第である。

 でき得るならば、健康で長生きをしたいと思っている。今まで苦労多き人生だったから、後半生は穏やかで、豊かな実りある人生を送りたいと願っている。

夢日記 「浜野博さん」

‘13(H25)年10月8日(火) 曇り 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
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 私の知人に浜野博という人がいる。彼は50年以上前、高校3年生の時に体育祭で首の骨を折って、寝たきり状態になってしまった。寝たきり状態ではあるが、今でも週3回か4回は車椅子に乗って、福祉施設の内を「散歩」することができる。

 彼とは若い時に、同じ「文学の会」に所属していて、いろんなことを教えられた仲である。東京で「文学の会」の大会があったりすると、私が車椅子を押して行ったこともあった。

 彼は多彩な才能を持っていて、小説、詩、短歌を創るとともに、郷里の日生の方言を研究したりしている。今は私たちの「文学の会」をはなれて、札幌の同人会に加入して、小説や短歌を発表している。

 浜野博はみずからブログを開設していて、毎日欠かすことなく更新している。私も毎日彼のブログを訪問して、彼の日々の暮らしぶりを知らされている。

 しかし、最近彼のブログを読むと、痛ましいことが綴られていて胸が痛む。それは日本の福祉の後退が、この施設にも顕著にあらわれているのがよくわかる。介護職員や看護師の人員の削減などによって、施設利用者との心の通いあったコミュニケーションなどがとれなくなっている。

 その中で彼は必死になって、「人間の尊厳を守ろう」と、苦闘している。いくら下半身不随で、上半身も思うに任せずといった情況のなかでも、「僕は、ひとりの人間である」という声を挙げつづけている。まさにそれは、自身との烈しいたたかいでもある。

 そこで人間であることを諦めてしまったら、坂道を転げ落ちるように、「もの言わぬ人間、ただ飼われるだけの人間」に陥ってしまいかねない。これからも人間としての、心からの叫びを挙げつづけて欲しいと、願うばかりである。

夢日記 「中国地区文学研究集会」

‘13(H25)年10月7日(月) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
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 10月5日(土)6日(日)と2日間にわたって、岡山市で「中国地区文学研究集会」が開催された。

 この研究集会は1974年に第1回が開かれ、1年飛んで1976年から2013年まで、中国地区の各県を持ち回りされてきた。したがって、今回が第38回ということになる。ただ、この間2年度だけ、開催県と参加人数が不明なので、断定はできない。

 1974年といえば、39年前である。それからずっと連綿と研究集会が開催されてきた。岡山の三宅陽介、鳥取の小原、呉の小栗、山口の松山支部長などがさきがけとなって、今日まで引き継がれてきている。

 その営為の中で、すぐれた作家たちを生み出してきたということができるだろう。先にあげた支部長をはじめ、岡山の長瀬佳代子、実盛和子、妹尾倫良、諸山立の面々だ。呉では中西柚香、本藤修(評論家)などである。

 その後を追って、岡山の野中秋子、笹本敦史、鬼藤千春などが活躍するようになっている。今回の研究集会は、さらに創造の輪を広げて、新しい書き手を育成するという側面をもっていた。

 講師に日本民主文学会の常任幹事、青木陽子を迎え創造と批評のふたつの質的向上を掲げて開かれた。参加者からは、いちように講師の講演や助言が好評で「ああ、参加して良かった」という声が数多く聞かれた。

 これを契機にして、創造の質的向上の発展を願って、各地、各所での奮闘を願うものである。新しい作家の誕生が期待される「中国地区文学研究集会」であった。

夢日記 「夢日記について」

‘13(H25)年10月6日(日) 晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
 Q「秘密保護法」の対象になる「秘密」ってなんですか?
 秘密保護法案Q&A 「秘密」範囲 歯止めなし

 ブログを始めて一週間ほどが経った。しかし、取り立てて生活の変化はない。毎日更新していくつもりであるが、それは特別困難なことではないと思っている。

 ブログのタイトルは「鬼藤千春の小説」となっているが、小説や批評、そして随想が毎日書けるわけではない。毎日、更新してゆくのは日記のことである。これは、今年になってからも欠かさずワードに打ち込んできた。だから、「三日坊主」で終わるということはないだろう。

 私の仕事はやはり創作なので、小説や批評、随想を書き上げることができたら、その都度発表したいと思っている。しかし、それは年に数回のことに限られている。したがって毎日更新してゆくのは、「夢日記」だ。

 「夢日記」というのは、以前から使っているタイトルであるが、なぜそうしたかというと、体験や経験をしたことだけを書くのではないということだ。私が毎日体験するといったら、ごく限られたものである。一日のうちで「外へ出る」といったら、一時間の散歩くらいのものだ。あとは終日書斎にこもっているという状態である。

 それゆえ、「在ったこと」を日記に書こうとしたら、まさに「三日坊主」で終わることは間違いない。そこで、「日記」に「夢」を冠したのである。つまり、在ったことを書くのではなく、「こうしたい、ああしたい」ということや生活の中で感じたことを、想いのまま綴るのが「夢日記」である。

 その「夢日記」をブログで発表するようになったという具合なのだ。日記がおおやけになるので、いくらか言葉を選びつつ書いてゆくことになると思う。
プロフィール

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Author:FC2USER634322BTA
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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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