鬼藤千春の小説 「鈴とアマリリス」 長編

 鈴とアマリリス

           鬼藤 千春


     (一)

 染矢英司が屋内の展示場を掃除していると、ラジオ体操のメロディーが流れ始めた。花壇に水遣りをしたり、屋外展示場を掃除していた社員は、慌てて店内に駈け込んでくる。これから朝礼が始まるのだ。
 ラジオ体操が終わると、壁の正面に掲げられた社是、企業理念が唱和される。そして当番が前に進み出て、「総員八名、藤原さん工事立会い、高野さん休日、現在員六名、以上です。店長よろしくお願い致します」と、軍隊式のような報告が行われた。これは経営コンサルタントの指導を、無批判に取り入れたものだった。
 店長はおもむろに前に進み出て、訓示を行い、一人ひとりの社員が今日の営業活動の予定を報告してゆく。最後に、「いらっしゃいませ! お世話になります! 有り難うございます! 有り難うございました! 失礼致します!」という接客五大用語を唱和して、朝礼が終った。
 その直後に、
「染矢さん、ちょっと……」
 と言って、店長が楕円形の接客用テーブルの方に歩いて行った。
 この店舗は墓石販売店であり、屋内の半分はコの字形に墓石が展示されている。その中央にテーブルが据え付けられていた。接客用であったが、ミーティングなどにも使われている。店長は奥の椅子に腰を掛け、分厚い手帳を開いて覗き込んでいた。眉間に皺を刻んで、眼を細めている。
「店長、なんでしょうか」
 椅子を引きながら、英司は怪訝そうな声を挙げた。
 顔を上げた店長の眼鏡が、天井の照明を跳ね返してきらりと光った。
「どうですか、染矢さん。まもなく上半期が終ろうとしていますが、営業実績の方はいかがですか」
 店長は四十八歳、英司は七つ上の五十五歳だったので、いくぶん控え目な口振りだった。
「まずまず、といったところですね。でも会社全体の平均よりは、少しだけいいでしょうか」
 英司も手帳を開いて、数字を眺めていた。
「まあ、この街は葬儀屋と仏壇屋のメッカですからね。競合が烈しいですから、営業がやりにくいんですよ。ところで、染矢さん。明後日、本社に行って貰えませんか。総務部長が、話があるそうですよ」
 店長は手帳を開いたまま、机に両肘を立てて、身を乗り出してきた。
「店長、どういうことですか。総務部長がいったいどんな話なんでしょうか」
 英司は手帳を畳んで、腑に落ちないといった様子で訊いた。
「私も、何も聞いてないんですよ。ただ、明後日の、十一時に来てくれというだけなんですよ」
 店長はしきりに眼をまばたいていたが、落ち着いた様子で言った。
「店長、そんなことはないでしょう。何か聞いてるんじゃないんですか」
 店長は話の内容を知っている、知ってるに違いない、と英司は思った。
「染矢さん、嘘じゃありません。本当に何も聞いてないんですよ。じゃあ、染矢さん。明後日十一時、遅れないように頼みます」
 店長は念を押すように言ってから、席を立った。
 ――いずれにしても、いい話じゃないな、そうに違いない、と英司は心の内で呟いていた。そんな予感が、彼の心に棘のように刺さった。
 英司は足早に自分の席に戻って、営業活動の準備をした。新聞の「お悔み」欄から、死亡者の氏名、年齢、住所のリストを作成し、それを住宅地図にマーキングをしてゆく。パソコンを起動させ、何種類かのチラシを印刷して、クリアブックに綴じる。
 この店舗は営業社員五名、女子事務員が二名、そして店長を含めて八名の支店である。営業社員は慌しく営業活動の準備を終えると、「行って来まーす」と誰にともなく声を挙げて、店を出てゆくのだった。一人、二人と店舗から消えてゆくのである。
 英司も営業ツールの詰め込まれた、重い鞄と住宅地図を提げ、挨拶をして店舗を出た。
店舗の裏手にある駐車場にゆくと、フェンス脇の花壇が偶然、眼に留まった。緋色をした花が数本、鮮やかに咲いていた。いつもの駐車場所はふさがっていて、初めて停めたところだった。英司は心を惹かれて花壇に近づいて行った。
 英司にとっては名も知らぬ、初めて見る花だった。四、五十センチの高さで、茎は太くその頂きに百合のような花弁をつけている。すっと立ち、六弁の大輪は燃えるような緋色をしていた。濃緑で長くて幅が広い葉は、帯状の形をして群れている。彼はしばらく立ち尽くして、その花を凝視していた。緋色の花弁は光を浴びて艶やかに輝いている。昨日まで雲が低く垂れ込めていたのに、今日は強い陽射しが降り注いでいた。
 しばらく緋色の花を見詰めていたが、英司は軽自動車に乗り込んだ。助手席に鞄と住宅地図を載せ、アクセルをゆっくり踏んで、駐車場を後にした。その時、ちらっと花壇の方に眼をやったが、心に残る魅惑的な花だった。梅雨晴れの陽射しは容赦なく照りつけ、街がきらめいて眩しかった。その街の光景が後ろへ後ろへと流されてゆくのだった。
 ――なんの因果でこんな仕事に就いたのだろうか、と車を運転しながら、不意にそんな想いが英司の心に湧いてきた。
 墓石店というだけで、眉をひそめる人々もいた。女子事務員の中には、近所や友人に勤め先を告げることを、ためらっている人もいる。英司が訪問外交で事務員の近所へ行くというと、「私が勤めているということは、絶対喋らないようにしてね。絶対よ」と、釘をさされることがあった。他人に知られないように、心に秘めているのである。
 営業社員は原則として社有車で通勤することになっているのだが、それをためらう人もいた。それは車に、「石のトータルプランナー・山陽石材工芸社」と社名が刷り込まれているからだった。そういう人は家に駐車場がないと偽って、自家用車での通勤を許可して貰っていた。
 人間の死と関わりのある仕事ということで、世間で忌み嫌う人もいるのである。社員の中にも、それを気にしている人が少なからずいるのだった。
 が、英司はそうした想いに囚われたことはなかった。顧客にとって、墓石の建立ということは、生涯のうちでも滅多にないことだった。だからこそ、この仕事は顧客の心に寄り添い、その悩みに応えてゆくものである。彼はそう信じて、仕事に取り組んできたのだった。
 しかし死者の家を訪問するということについては、いっこうに慣れるということはなかった。英司は四十歳の時この仕事に就いて、かれこれ十五年も営業活動をしているが、忌中札の貼ってある家の玄関に立つと、やはり厳粛な気持になり、緊張しないというわけにはいかなかった。
 何かの縁だったとしか言いようがない。職業安定所を訪ね、色々と求人票を眺めていて、心に留まったのが今の会社だったのだ。もともと営業という職種が好きだった訳でもなく、むしろ避けたい部類に属する職種だった。
 が、この仕事を十五年も続けてこられたのは、やはりそこに遣り甲斐もあり、働く魅力もあったということなのだろう。
 そんな想いで車を走らせているうちに、K市の南部の街に入ってきた。店舗から約七キロほど先にあるこの街が、英司の担当地域である。車を道路の端に停め「お悔みリスト」で住所を確かめ、住宅地図にマーキングされた家を探して、道順を頭に描いてゆく。彼は死亡者名、死亡月日、年齢、性別を把握して、お悔み訪問の準備を整えるのだった。
「ごめん下さい、山陽石材と申します。このたびは大変でございました。お悔み申し上げます。ご仏前にお供えをお持ち致しましたので、仏間に上がらせていただいてよろしいでしょうか」
 英司は深く腰を折って、挨拶をした。
「話があれば玄関の方がいいんですが……、家の中はまだ片付いていないんですよ」
 中年の婦人が、玄関ホールに坐って答えた。
「そうでしょうね。葬儀を終えたばかりで大変だと思いますが、仏様に線香をお供えさせて下さい」
 英司は線香とローソクがセットになった、小箱を示して言った。
「そうですか。それじゃ、散らかしていますが、どうぞお上がり下さい」
 婦人は立ち上がり、仏間の方に入って行った。
「それじゃ、失礼致します」
 と言って、英司は祭壇の前に進んだ。
 英司は祭壇の前に正座して、まず座布団を脇に寄せた。業者が座布団を使うのは失礼にあたるからだと言われていた。そして、祭壇に寄ってローソクに火を点け、その火を線香に移して香炉に挿した。
「黒川さん、ご宗旨は天台宗でしょうか。ああ、そうですか。真言宗ですか。分かりました」
 振り向いて、英司は婦人に訊いた。
 英司はリンを二つ打ち、合掌をして頭を深く下げた。
「かんじーざいぼーさつ。ぎょうじんはんにゃはーらーみったー。じーしょうけんごーうんかいくうどー。いっさいくーやく。しゃりーしー。しきふーいーくう。くうふーいーしき。しきそくぜーくう。くうそくぜーしき……」
 英司は般若心経を唱えて、リンを一つ打ち合掌をした。
「有り難うございました。どうぞ、これを当てて下さい」
 婦人は座布団を、そっと寄越した。
「ああ、どうもすみません。それでは失礼致します。亡くなられた方は七十五歳でしたか。残念でしたね。七十五歳といえばまだまだですからね。失礼ですがお義父さんですか」
 英司は祭壇から離れて、座布団に正座した。
「ええ、義父です。でも、癌でしたからね。仕方ありません。まあ、煙草が好きでしたからねえ。肺癌でした」
 婦人は静かな低い声で言った。
「でも、淋しくなられましたね。さて、私は山陽石材の染矢といいます。よろしくお願い致します。そこで、四十九日のご法事には、お骨はどのようにお祀りされる予定ですか。お墓があればそれに納骨するようになりますし、なければご法事までに建墓するか、仮納骨ということになります」
 英司はパンフレットを鞄から取り出して、婦人の前に開いた。
「うちは初仏ですからお墓はないんですよ。墓地は求めていましたから、お墓をしなければなりません。主人とも話しているんですが、四十九日の法事までになんとかしたい、と思っているんです」
 婦人はパンフレットを眺めながら言った。
「そうですか。四十九日までにお考えですか。それでご法事の日取りはもう決められていますか。ああ、そうですか。七月の最終の日曜日ですね。それでは準備を急がなければなりませんね」
 英司は手帳を出して、メモをした。
「黒川さん、それで墓地はどちらにお持ちでしょうか」
「K市営墓地です。あ、ちょっと待って下さいね。墓地番号を調べてみます」
 婦人は立って、奥の部屋に入って行った。
「十二区の九十七番となっています」
 婦人は書類を見ながら、戻ってきた。
「ああ、そうですか。市営墓地の頂上の区画ですね。見晴らしのいいところをお持ちですね。それでは、墓地を測量させていただいて、何パターンかCAD図面を作成しておきますので、是非うちの店舗にお越し下さい」
 英司は店舗所在地の地図を、婦人に渡しながら言った。
「でも、染矢さん。まだどこでするか分からないんですよ。色んな石屋さんも言ってきているし、葬儀屋さんや仏壇屋さんも墓石を取り扱っていますからね。主人と相談して、よく検討させていただきますので、墓石の資料を貰えますか」
 婦人は慎重な言葉遣いで言った。
 英司は鞄の中から、チラシやパンフレットや冊子を出して、婦人に渡した。
「黒川さん、それじゃ、ご主人とよくご相談なさって、いちど店舗の方にお越し下さい。それではお疲れを出されないように、お気をつけ下さい。それでは私はこれで失礼致します。有り難うございました」
 深く頭を下げて、英司は立ち上がった。
 英司は車に乗り込み、予定を変更して市営墓地にゆくことにした。彼にとって、こうした顧客に出合うことは滅多にないことだった。お悔み訪問しても、まだ考えてないとか、主人がやってるから分からないとか、知り合いの石屋があるとか、若い者がいないから年寄りでは分からない、というような返事が殆どなのである。
 英司は車を走らせながら、まず市営墓地に行って測量をし、店に帰ってCAD図面を作成しようと考えていた。こうした話は稀なので、彼の心は明るく膨らんでくるようであった。ハンドルさばきも自然に軽くなってくる。
 だが一方で、朝の本社ゆきの話が不意に思い出されてくる。電話で済まされぬ用件とはいったいなんなのだろう。そんな疑問が湧いてきて、英司の心に黒い影を落とすのだった。彼は複雑な心を抱いて、市営墓地のある曲がりくねった山道を登って行った。

     (二)

 英司が本社に着いたのは、十一時より三十分以上も前だった。玄関のホールに入ってゆくと、北村が壁際のテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「おお、北村君久しぶりじゃなあ。元気でやってるか。営業速報をみると、なかなか頑張ってるようじゃなあ。それで今日はまたどうしたんじゃ。君も呼び出されているんか」
 彼のテーブルの傍に近づき、英司は声をかけた。
「ああ染矢さん。お世話になっています。ええ、私もちょっと……。先輩こそどうされたんですか」
 立ち上がって、北村は挨拶をした。
 北村は入社して五年余で、年齢は四十三歳であった。T支店に配属されている。彼は結婚式場の司会などもやったことがあるというので、なるほど喋りには長けていたが、設計や製図は苦手で苦労していた。
 英司は湯沸室でコーヒーをつくって、北村のテーブルに戻った。
「染矢さん、私はこれから面談なんですけど、
若手三人組も呼ばれて、二人はもう帰ったんですが、いま一人が面談中です。彼等は何も喋らずに帰って行ったんですが、一人は眼を赤く染めていました。染矢さん、何かあったんでしょうか」
 声をひそめて北村は言った。
 三人組というのは、三年前大卒でこの会社に入ってきた若手である。彼等は営業成績が芳しくなくて、苦労していた。
 若手の佐藤が二階から下りてきた。眼は潤んでいなかったけれど、光を失って蒼白の顔をしていた。
「北村さん、部長が呼んでますよ。早く上がって来て下さい、と言っていました」
 心なしか、佐藤は悄然としていた。
 北村はそそくさと上がってゆき、佐藤はぼんやりと立ち竦んでいる様子だった。
「佐藤君、まあ、ここへ坐れよ。どんな話があったんじゃ。まあ話してみい」
 彼を見上げて、英司は言った。
 英司の前の席に、佐藤は静かに坐った。
「染矢さん。今の話は誰にも言っちゃいけんと言われてるんです。口止めされてるんですよ」
 佐藤は弱々しい声を出した。彼はそう言って、焦点の定まらない眼を宙に泳がせていた。
「そうか、口外無用か。秘密にしとかにゃおえんような、話じゃったんじゃなあ」
 英司はうーむと言って、腕を組んだ。
「染矢さん、ぼくは昼から納骨の手伝いがあるんです。いったん店に帰ります。それじゃ失礼します」
 佐藤は声を落として挨拶すると、玄関を出て行った。その後ろ姿はどこか、侘しさが漂っている。
「佐藤君、何かあったら携帯に電話してこいよ。相談に乗るよ。あんまりいい話じゃなさそうだからなあ」
 玄関のドアを開け放し、英司は彼を追ってゆき駐車場で声をかけた。佐藤は力なく肯いた。
 英司が玄関ホールに戻ってしばらくすると、北村が二階から下りてきた。彼はいくぶん顔を紅潮させていたが、決して憂えているというところはなかった。かえって、無理に肩をいからせているように見受けられた。
「染矢さん、呼んでますよ。じゃ、私はこれで失礼します」
 北村は右手を上げ、乱暴に玄関のドアを開けて出て行った。どこか、わだかまる怒りをぶつけるような勢いだった。
 面談は二階の応接室で行われていた。ドアを軽くノックして室に入ると、英司は一瞬たじろいだ。総務部長だけだと思っていたが、正面のソファーに坐っていたのは、専務と営業部長を加えた三人だった。
「染矢さん、どうぞお掛け下さい」
 総務部長が右手を差し出して、坐るように促した。
「染矢さん、どうですか。営業活動をしていて、市場の動向はいかがですか」
 咳払いをひとつして、営業部長が両手を組みながら言った。
「うーむ、そうですねえ。なかなか市場は厳しいんですよ。墓石業界に葬儀社や仏壇屋といった他の業種が参入してきていますからねえ。異業種との垣根がなくなっているんです。競合は烈しいですねえ」
 英司は身を乗り出して答えた。
「染矢さん、目標対比の実績表がここにあるんですが、九十パーセントにも達していませんねえ。これは由々しき問題ですよ。ただ、市場が厳しい厳しいと言っていたのでは、どうにもなりませんよ。そういう外部環境の中で、君たち営業社員がどうするかだろうねえ。そこが今、一人ひとりの営業社員に、問われているんですよ」
 腕を組んでじっと聞いていた専務が、腕をほどいて鋭い眼をして言った。
 ――いや、決してそうではないだろう。外部環境が様変わりしているのは、はっきりしている。したがって、その変化に会社がどう対応してゆくか、そこが問われているのではないだろうか。葬儀社が墓石業界に参入してきているのは、明らかである。それを手をこまぬいて、見ているだけでは駄目だろう。高齢化社会なんだし、今は会館葬が主流になってきているのだから、葬儀部門を立ち上げるという方向も、考える必要があるだろう。
 ――また、墓地事情が悪いのだから、墓地の開発ということも、視野に入れて対策が打たれなければならないだろう。会社は事あるごとに、営業社員の事細かな行動をうんぬんするけれど、問題は市場を大局的にとらえるかどうかということではないだろうか。うちの首脳部は、蚤が跳んでいるのはよく見えるけれど、馬が跳んでいるのはよく見えない、という情況に陥っているのではないだろうか。
 英司は唇を嚙んで、そんな想いを巡らせていた。
「染矢さん、時間を取らせてもなんですから、結論を先に申し上げましょう」
 不意に総務部長が声を挙げた。
「あのね、染矢さん。誠に言いにくいことですが、あなたには七月末をもって、しりぞいて貰いたいと思っているんですよ」
 総務部長が、眼鏡のフレームを少し押し上げて言った。
 英司は一瞬呆然として、言葉を失った。
 ――何故だ、何故なんだろう。それは職を、仕事を失うということではないか。顧客の精神に寄り添い、心の満足を提供する仕事と位置づけてやってきた。それはとりもなおさず、私の悦びともなり働き甲斐ともなってきたのだった。
 ――住宅ローンがまだ七年も残っているし、年金受給は十年先のことである。働いて生きてゆかなければならない。それが私のおかれた厳しい生活の現実なのだ。五十五歳の年齢で働き口があるというのだろうか。二十代、三十代の青年でも正規社員の求人が少ないというのに、いったいどういうことなんだろう。
 英司はしばらくそんな想いに囚われていた。
「部長、それは辞めてくれということですか。いったいどういうことなんでしょうか。どんな理由でそんなことを言われるんですか」
 語気を強めて言い、英司は総務部長を睨んだ。
「ご存知のように、うちの会社も厳しくってねえ。会社の再構築をしなければ、やってゆけないんですよ。五十五歳以上の方に、無理を承知でお願いしてるんです。誠に辛い選択ですが、そこのところをよくご理解していただいて、よろしくお願いします」
 総務部長は丁寧な口調で懇願した。
「部長、それは会社の言い分ですよねえ。会社が厳しい、だから辞めて欲しいというのは、あまりにも一方的だと思いませんか。社員の働く悦びや生き甲斐はどうなるんでしょう。また、社員一人ひとりにも生活があるんですよ。その配慮がないんじゃないですか」
 胸に突き上げてくるものを抑えて、英司は静かに言った。
「染矢さん、ここは議論をする場じゃありませんからねえ。これは会社の方針です。会社を潰すようなことがあったら、それこそ家族を含めれば数百人という人に影響が及ぶんですからねえ。それを避ける意味で、会社の再構築を考えているんですよ。そこで手続きの問題ですが、今月末までに退職願を出して貰いたいと思ってるんです。これはあくまで形式的なもので、ハローワークへの書類が必要なら、会社都合という処理をさせていただきます」
 専務が鋭く睨んで、圧するように言った。
「……」
 英司はうーむと唸って、しばらく黙っていた。
「専務、社員や家族の多数に影響が及ぶ、だから、特定の社員の詰腹を切るというのは、矛盾してますね。そう思いませんか。一人ひとりの社員への気配りがいるんじゃないですか。専務、まあいいでしょう。だけど、今すぐに結論は出せません。少し考えさせて下さい」
 俯いていた顔を上げて、英司は言った。
「いやあ、私も今にいま、返事を貰おうと思っているわけではありません。六月末までに退職願を出して貰って、七月は有給休暇で休んで貰って結構です。そして、七月末をもって退職というふうに考えています。したがって、あなたは、八月からこの会社での居場所がなくなります。そのことだけは認識しておいて下さい。やあ、染矢さん、遠いところご苦労さまでした」
 唇を歪めて、専務は白い歯を覗かせた。
 英司は玄関ホールに下りていったが、そこには誰もいなかった。彼は車に乗り込み、アクセルを強く踏んで会社を後にした。ハンドルを持つ手がかすかに震えていた。
 ――退職勧奨を受けたのは、若手の三人と北村、そして私の五人ということなのだろうか。実際、この会社を辞めさせられたらどうしたらいいのだろう。この齢で正規社員として雇ってくれるところがあるだろうか。年金を貰える齢ではもちろんないし、住宅ローンも残っている。
 ――そして、何よりも十五年もこの仕事を続けてきて、それなりに働き甲斐もあったし、生き甲斐もあったのだ。他の商品を販売するのと違って、人の心に深く関わる仕事なので、感謝されることも少なくない。顧客にとって、近しい人の死についての思い入れは、決して軽いものではない。顧客がその遺骨を祀る墓石を建立することは、近しい人へ深く心を寄せることである。したがって、その仕事に携わる英司などに対して、親愛の情をもって接してくれるのだ。そして工事の後、感謝の気持をしたためた手紙が、少なからず届けられるのだった。
 英司は車を運転しながら、この仕事を失いたくない、という想いが強くなってくるのを感じていた。

     (三)

 七月に入ってまもなくのことだった。英司はその日、炎暑といわれる厳しい暑さの中で、営業活動をして店舗に帰ってきた。汗を拭きながら店舗に入ると、店長からいきなり声がかかった。
「染矢さん、ご苦労さまでした。ちょっとこちらに来て貰えませんか」
 衝立の向うから、甲高い声がした。
「染矢さん、まあ、そこの椅子に坐って下さい。今日は暑かったでしょう。今年の夏は異常ですからね」
 店長は立ち上がって、前の椅子を指差した。
「染矢さん、この店に配属になって何年になりますかね。三年と六ヶ月というところですか。お世話になりましたが、いよいよお別れです。明日、机の片付けをして、明後日からM店に入って貰うことになりました。はい、ここに辞令が届いていますので、お渡ししておきます」
 丁寧な言葉遣いで、店長は言った。
「店長、M店ですか。それはあんまりじゃないんですか。通勤に片道二時間はゆうにかかりますよ。往復四、五時間ですからね。無茶ですよ。店長何とかならないんですか」
 店長の顔をまっすぐ見て、英司は言った。
「染矢さん、もう辞令が出てしまったんですからね。それに私には何の権限もありません。本社サイドで決めてきたのですから、よろしくお願いします。それじゃ急なことですが、明日はこちらの店に出て、片付けをして下さい。M店には明後日からということで――」
 店長はそう言って、席を立った。
「……」
 英司は言いたいこと、言わなければならないことはいくらもあったが、本社の判断なので、店長に言っても駄目だと思い、言葉を呑み込んだ。彼は自分の席に戻り、営業日報を書いて早々に退社した。
 店を出ると、西日が射るように斜めに射し込んでいた。英司は駐車場にゆき車に乗り込んで、エアコンのスイッチを入れた。彼はサンバイザーを下げて、西日に向かって車を走らせた。六月初旬の、本社での面談からの経緯が、不意に甦ってきた。
 六月下旬になると、総務部長から二度、三度と退職願を出すように、英司の携帯電話にかかってきた。しかし彼は、自身にこれといった非はないし、自ら退職願を出すつもりがないことを告げてきた。また、専務が電話をしてきて、媚びるような懇願とあるいは恫喝によって、彼を説得しようとした。
「染矢さん、社長とも相談して、退職金規程の五割増しを考えているんです。これはきわめて稀な特例です。その選択の方がお得だと思うんですが、いかがですか」
 専務はそんな取引条件も出してきた。
 けれど、英司は一時的な優遇措置に応えることはできない、と思った。それよりも何よりも、仕事を失うことが耐えられなかったのだ。
「染矢さん、もし退職願を出してもらえないようだったら、会社としても考えがありますから、よく認識しておいて下さい」
 専務は脅すような口振りで言った。が、英司はその言葉にも肯くことをしなかった。
 結局六月末になっても、英司は退職願を提出せずに、いままで通りの店舗に出勤してきたのである。北村も退職願を提出しなかった。
 若手の三人は退職願を提出させられ、七月は有給休暇を使って、七月末をもって退職することになっていた。佐藤は所属する店舗の店長に、辞めさせないで欲しい、と泣きながら懇願したという。しかし、受け入れて貰えなかったということである。
 若手の三人は入社時の面接で、
「将来、うちの幹部社員になって欲しい。そのために、当面営業部に所属して、色んなことを勉強して欲しい」
 と、言われて入社してきたのである。
 それなのに、三年余営業として使って、実績が芳しくないということで、辞めさせるというのは決して道理に合っているとは思えない。営業の仕事がふさわしくないというのであれば、他の部門へ配属させるということもできる筈である。
 そもそも、この墓石業界の営業に、新卒の青年たちは向いていない。だいたい墓石の顧客というのは、中高年層が多いのである。そういう人たちとコミュニケーションをとってゆくのは、それなりの年齢を経た社員がふさわしいのである。
 そうした配慮を会社はしないでおいて、営業実績が悪いからといって辞めさせるのは、入社時の約束とも違っている。泣いて店長に訴えたという佐藤の気持を察する時、英司の
胸は痛むのだった。
 英司は本社での面談のあと、しばらく心がふさいでいた。そして、北村の家を訪ねたのだった。降りしきる雨の夜だった。北村の玄関には、オレンジ色の灯がぼんやりと霞んでいた。チャイムを押すと、玄関の引き戸が開いて北村が出てきた。
「こんばんは。夜分済みません。ちょっと話があって寄せて貰いました。いいですか」
 少し恐縮して、英司は言った。
「やあ染矢さん、いいですよ。上がって下さい。雨の降る中を、しかも遠いのに、大変だったでしょう」
 北村はどうぞ、どうぞと言って、玄関脇の六畳間に案内した。
「北村君、いい家じゃなあ。まだ建てていくらも経ってないじゃろう」
 部屋を見廻しながら英司は言った。
 そのうち奥さんがコーヒーを淹れて、持ってきた。
「うちのがいつもお世話になっています。どうぞこれからもよろしくお願い致します」
 奥さんはコーヒーを差し出し、深くお辞儀をして部屋を出て行った。
「染矢さん、建ってから五年ちょっとになります。だけど、ローンで大変なんですよ。女房もパートで働いていますが、今でもかつかつの生活ですからね。それなのに、会社は辞めてくれというんですからね。無茶ですよ」
 北村はそう言って、コーヒーを飲んだ。
「北村君、それで退職願はどうするつもりなんじゃ。期限まで一週間もないじゃろう。私は辞められんと思うとったんじゃが、会社がうるさく催促してきてのう、心が少し揺れとんじゃ」
 英司は心の内を吐露して、北村を見つめた。
「染矢さん、私たちには何も非はありませんよ。業績不振というのだったら、その責任は会社の首脳部にこそあるんじゃないんでしょうか。会社の経営方針や戦略のまずさが、業績不振を生んだんですよ。首脳陣が泥をかぶらずに、私たちだけに一方的にそのしわ寄せを押し付けてくるのは、理不尽ですよ。染矢さん、私は退職願は出しませんからね」
 北村は毅然として言った。
「北村君、その通りじゃ。私も会社のアメとムチに負けんようにせにゃおえんなあ」
 北村に背中を押されるような気がした。
「それに、染矢さん。うちの会社は三店舗で、営業の求人をしてるんですよ。休みの日にハローワークに寄って、パソコン検索してみたんです。すると、S店、F店、H店でそれぞれ営業を一人から二人ずつ求人してるんですよ。だから、染矢さん。業績不振のためにリストラするというのは、偽りですよ」
 顔を紅潮させて北村は言った。
「そうか、そりゃひどいなあ。北村君、裏でそんな卑劣なことをしとるんか。そうか、会社のやり方がよう分かったよ」
 英司はそれで悩みが吹っ切れたように思った。
 それで英司も退職願を出さなかったのである。だが、彼はM店への配属となり、北村は工場へと配転させられた。
 英司がM店へ初めて出勤した日のことである。彼が出社すると、店長が指示した席は、社員が机を並べているフロアーではなく、四畳半くらいの物置のような室だった。スコップやつるはし、測量用のポールやバケツが散乱していた。そこに一つスチールの事務机が置かれていた。これが英司の席だった。
 M店は営業社員が四名、女子事務員が二名、そして店長を含めて七名で、そこに英司が配属になって、八名の支店になった。
「染矢さん、ちょっと話がありますから、こちらにきて下さい」
 応接間の方から店長の声が挙がった。
「店長、お世話になります。M市は初めてで、市場もよく分かりませんので、ご指導よろしくお願いします」
 応接間に入って、英司は深く頭を下げた。
「染矢さん、まあどうぞ、そこへ掛けて下さい。色々説明しておきたいと思いますので、ノートに記しておいて下さい」
 店長は顎をしゃくって、ソファーに坐るように言った。
「まず、染矢さんのテリトリーですが、この店舗より東部で、旧国道より南のエリアを受け持って貰います。そして、来店、TEL受けの件ですが、呼び込んだお客さんについては、もちろん染矢さんの担当になります。しかし、フリーのお客さんについては、染矢さんの担当にはなりません。原則として店長が担当することになりますので、十分認識しておいて下さい。また、営業の実績は目標通り確実に上げて下さい。そうでないと、染矢さんの存在の意味がありませんからね」
 湯呑みに手を伸ばして、店長はごくりと茶を飲んだ。
「それから、これも大事なことなのですが、本社やM店が催す四季ごとのレクリエーション、忘年会などには参加できませんので心得ていて下さい」
 眼をしきりにまばたきながら、店長は言った。
「店長、来店、TEL受け客は担当地域の社員が関わるというのが、この会社の慣例でしょう。それを私の場合に限って担当からはずすというのは、ひどいんじゃないんですか。そして、催事に参加させないというのは、どういうことなんでしょうか。納得できませんねえ」
 ソファーから身を乗り出して、英司は言った。
「染矢さん、それはあなたが一番よくご存知の筈です。これは本社と相談のうえ決められたことなので、ご了解下さい。そういうことですから、染矢さん。しっかり営業の実績を上げるようにして下さい。くれぐれもしっかり頑張って下さい。頼みますよ」
 いいですね、と念を押して店長は席を立った。
 英司はしばらくソファーを立ち上がることができずにいた。フリー来店、TEL受けの扱い、催事への参加の件などについて、あれこれと想いが駈けめぐるのだった。彼の心は、それを容易に受け入れることができなかった。
 その日英司は、電話外交をすることにした。初めての街なので、市場と見込み客の情況を把握するためである。早く、より多くの情報を得るためには、電話外交は有効だった。それは彼の十五年の営業経験から、実際身体で覚えたものであった。
 英司は倉庫のような室に入り、担当地域の見込み客票のファイルを、何冊か事務員に出して貰って、一枚、一枚眼を通していった。そして、一周忌、三回忌、七回忌という具合に見込み客票を整理していった。
「もしもし、お世話になっています。山陽石材と申します。今年の暮れには、三回忌をお迎えになると思うんですが、そろそろお墓の方、お考えではないでしょうか。ああ、そうですか。お金の方がねえ。確かに高額ですからね。でも、比較的手頃なお値段のお墓もありますからね。九寸角の先祖墓で三十八万くらいからありますよ。また、墓石ローンもご利用いただけますからね。それでは、また家族の皆さんとご相談なさってみて下さい。それでは失礼致します」
 英司は電話を切って、見込み客票に内容を記した。
「もしもし、お世話になっています。山陽石材と申します。奥さん、年が明けたらさっそく一周忌ですね。年末までにお墓のお考えはありませんか。ああ、そうですか。お墓の考えがおありになるんですか。それじゃ一周忌までにということですね。うちでお手伝いさせていただけませんか。ああ、そうですか。農業をやっているので、農協さんという心づもりをされているんですか。それじゃ、奥さん。カタログやチラシをお持ちしますので、農協さんと比較検討してみて下さい。それじゃ、また資料をお届けに上がりますので、よろしくお願いします。長い電話で失礼致しました。どうも有り難うございました」
 英司は農協という競合はあるけれど、お墓を考えているという人と話ができて、心が明るくなった。
 その日、英司は終日電話外交をした。予算がないとか、親戚が石屋を紹介してくれているとか、主人がいないので分からない、とかというのが大半であった。考えているという人は、何社もの競合というのが多かった。しかし、考えているという情報を得たことは前進なのである。そういう家には資料を持って訪問するということになる。
 六月初旬のお悔み訪問で、四十九日の法事までに先祖墓を考えていると言っていた、黒川さんとは無事契約することができた。
 お悔み訪問の日に市営墓地の測量をして、翌日設計しCAD図面を作成した。英司はその日に再び黒川さんの家を訪問した。
「黒川さん、図面ができましたのでお持ち致しました。二種類のデザインで図面を作成してみましたので、ご主人とよくご相談なさって下さい」
 玄関ホールにCAD図面を開いて、英司は言った。
「ああ、そうですか。もうできたんですか。早いですね。わあ、こんなふうになるんですか。なかなかいいデザインですね。でも私が一人で決めるわけにはいきませんからね。次の日曜日に主人と店舗の方に寄せて貰いますので、よろしくお願いします」
 黒川さんは、図面を眺めながら言った。
「奥さん、そうして下さい。これはあくまでイメージ図ですから、展示品を実際ご覧になって下さい」
「でも、これだけのお墓をするとなると、かなりかかるんでしょうねえ。それが心配です。染矢さん、しっかり勉強して下さいね」
 黒川さんは笑みを浮かべて言った。
「黒川さん、お墓のお値段は、大きさ、デザイン、石種によってだいたい決まってくるんです。それを決めていただければ、すぐに値段をはじくことができます。まあ、黒川さん、そう心配なさらずに、日曜日にご来店下さい。お待ちしていますので、どうかよろしくお願い致します」
 英司はそう言って、立ち上がった。
 黒川さんは次の日曜日に、主人と一緒に店舗にやってきた。展示品を色々見て廻って、墓の大きさ、デザイン、石種を決めて貰った。だいたいCAD図面のイメージを基本にして、お墓づくりをすることになった。そして、英司は見積書をすぐ作成した。いくらか値段の交渉はあったが、お互いに譲り合って合意することができ、無事契約することができた。
 英司は契約から四十九日の法事までの流れを、一覧表にして渡し説明をした。まず、K市に工事許可申請書を提出し、工事が竣工したら工事完了届を提出する必要がある。それらの事務手続きは、彼が代行して行うこととする。そして、墓石に彫る文字の打ち合わせをすること、工事日には立ち会って欲しい旨を話した。
「工事日は四十九日のご法事の前の、日曜日にさせて貰っていいですか。私が現場監督として立ち会います。その時、お清めの酒と塩をご用意下さい。簡単な儀式を行います。そして、ご法事の納骨には私がお手伝いに上がりますから、ご安心下さい」
 英司は黒川さん夫婦の顔を覗き込みながら言った。
「それでは、あとは染矢さんにお任せしますので、くれぐれもよろしくお願いします。染矢さん、手抜きのないようにしっかり頼みますよ」
 主人は白い歯を見せて言った。
「黒川さん、あとはお任せ下さい。私が責任を持って進めていきますので、ご心配はいりません。あと何回か打ち合わせがありますので、家の方へまた寄せていただきます。今日は誠に有り難うございました」
 店舗前の駐車場から車が見えなくなるまで、英司は見送っていた。
 黒川さんの工事日は、七月の第三日曜日だった。梅雨も明けて朝から太陽がさんさんと照りつけていた。工事に入る前に、お清めの儀式を行った。
 まず、墓地の前に黒川さん夫婦、工事班の頭領に並んでもらって、
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛……」
 真言宗の題目を、英司は七回唱えた。
 英司は塩を墓地の中央と四隅に盛り、その塩に酒を注いで廻った。彼と同じ要領で、黒川さんと工事班の頭領にして貰った。
 そして、英司は頭領と工事の打ち合わせをした。市営墓地にはいくつかの規則があり、違反したら遣り直しがあるので、綿密な打ち合わせが必要だった。市営墓地の工事管理には細心の注意が求められた。
 十時の休憩の時、
「染矢さん、M店に転勤になったそうじゃのう。通勤が大変じゃなあ。片道二時間はゆうにかかるじゃろう。じゃが、ご栄転じゃから、ちょっとは我慢せにゃいけまあ」
 頭領が冗談を言って笑った。
「でも、染矢さん。そんなことで負けょうたらおえんぞ。頑張れよ」
 屈託なく笑いながら、頭領は言った。
 もう工事班にも、ことの経緯が知れ渡っているのだな、と英司は思った。けれども、頭領の冗談めいた励ましは嬉しかった。
「まあ頭領、やけにならずに今まで通りに、仕事をやるつもりじゃけん、よろしゅう頼まあ。頭領、しっかり契約を取るけん、仕事が忙しい言うて音を上げんようになあ」
 微笑みながら、英司は言った。
「黒川さん、あとは私が工事管理をしますので、暑いですからまた完成した頃にきて下さい。三時頃には上がりますから、その頃お願いします」
 黒川さんに近寄って、英司は言った。
「それじゃ、そうさして貰います。これはジュースやコーヒーが入っています。どうぞ飲んで下さい。それに、これはほんの気持だけですが、受け取って下さい」
 黒川さんは、大きなクーラーボックスと祝儀袋を渡しながら言った。
「黒川さん、そんなに気を使われなくても良かったのに、済みません。それじゃ、気持ちよく頂戴致します。誠に恐縮です」
 英司は深く腰を折って、言った。
 黒川さんは、三時頃また墓地にやってきた。もう仕上げの段階で、シンナーで外柵や墓石を磨いていた。
「わあ、立派なのができましたね。こんなふうになるとは想像できませんでした。図面で見るのと随分感じが違って見えますね。染矢さん、有り難うございます。感謝致します」
 奥さんが甲高い声を挙げた。
「黒川さん、何のトラブルもなく無事に工事を終えることができました。四十九日建墓ですからねえ。仏様も喜んでいらっしゃることと思います。あと仕上げと片付けをして、帰らせていただきます。どうも有り難うございました」
 英司は喜んでもらえて、ほっと安堵した。
 十一月の初旬、北村の噂が英司の耳にも入ってくるようになった。北村が体調不良で休み勝ちだというのである。その原因が精神的なものだと聞いて英司は心を痛めていた。早いうちに北村の家に行ってみようと思った。いったい、北村はどうしたというのだろうか。あれだけ元気だったのに、何があったというのだろうか。
 英司は工場が休みの日を狙って、北村の家を訪問することにした。小春日和の爽やかな日であった。山の木々も少しずつ色づき始めていた。山の頂上辺りが赤や黄色に染まりつつあった。
 チャイムを押すと、奥さんが出てきた。
「ごめんください。突然に失礼致します」
 英司は軽く会釈をした。
「あ、染矢さん。いらっしゃい。うちの人はいま体調が悪いといって、横になってるんですよ。まあ、どうぞお上がり下さい」
 奥さんは英司を玄関脇の部屋へ案内して、奥の方へ戻って行った。
 英司は座卓の前に坐って、北村の体調を心配していた。果たして出てこれるのだろうか、という不安が過ぎった。北村はなかなか出てこなかった。
「染矢さん、ちょっと待って下さいね。体調が悪いらしくて、蒲団の中でぐずぐずしているんですよ」
 奥さんは部屋に入って、膝を折って言った。
「いいですよ。こちらが連絡もしないでやってきたのですから、気にしないで下さい。それで奥さんどうなんですか。具合の方はいかがですか」
 奥さんを見つめて、英司は言った。
「それが、夜、よく眠れないんです。寝つきは悪いですし、眠ってもすぐ眼が覚めるんですよ。浅い眠りでしきりに寝返りを打っています。染矢さん、夜眠れないというのが、辛くて大変なんです。それに、食欲がなくてあまり食べられないんでねえ。ご飯を少しと惣菜にちょっと手をつけるくらいなんです。本当に心配してるんですよ。どうなっているんでしょうかねえ」
 奥さんはいかにも心細げに言った。
「奥さん、病院には行かれてるんですか。眠れない、食欲がないというのは、身体の異変ですからねえ。気をつけなければいけませんよ」
 奥さんを見つめて、英司は言った。
「それが、病院嫌いですからね。私も勧めているんですが、言うことを聞かないんですよ。染矢さん、私も困ってるんです」
 困惑したように、奥さんは言った。
 その時、北村が部屋に入ってきた。頼りなげな足取りで歩いてきて、座卓の前に坐った。髭も剃られていないし、ブラシの当てられない髪は乱れたままで、蒼白な顔をしていた。そして、何よりも眼がどんよりと曇って、光がなかった。
「北村君、体調はどうなんじゃ。少し痩せたようじゃなあ。いま奥さんから聞いたんじゃが、よく眠れんし、食欲がないんじゃそうななあ。仕事も仕事じゃけえど、健康が一番じゃけえなあ。それで仕事の方はどうなっとんじゃ」
 北村の光のない眼を見て、英司は言った。
「染矢さん、仕事は時々休みをもらっているんですよ。身体が怠くて怠くてしようがないんですわ。一日中、倦怠感に包まれているという感じですね。それに耳鳴りがして困ってるんです。今もじぃーと、耳の奥で虫が鳴いているようなんです。染矢さん、原因は分かってるんですよ。工場に配転になってから、こんなになってしまったんですからねえ」
 眼を宙に泳がせるようにして、北村は言った。
「どんな仕事をやらされとるんじゃ。営業から工場の現場に廻されて、大変じゃとは思っとったんじゃ」
 英司は身を乗り出して訊いた。
「工場でもどこでもいいんですが、染矢さん、私は村八分扱いですからね。工場では独りだけ、どぶさらいをさせられたり、中国製品の木枠を解体させられたりの、雑用ばかりです。それだけならまだいいんです。秋の焼肉パーティにも誘って貰えなかったり、昼飯も私一人だけ除け者ですよ。工場の隅で独り昼飯を食べているんです。それはたまらんですよ」
 北村の濁った眼が哀しそうだった。
「北村君、私も同じような目にあってるんじゃ。M店では彼岸明けに、瀬戸内海のN諸島へ観光漁船を頼んで、底引き網漁にでかけたんじゃ。ところが、私は蚊帳の外、店の留守番をさせられたんじゃ。また、忘年会の回覧板がいま廻っているんじゃけえど、私の欄には勝手に『欠』という字が書かれている。これは北村君、弱い立場の人間を痛め苦しめるいじめじゃなあ。私はなんとか頑張っているけえど、君はいま頑張るというより、病院へいくことが先決じゃろう」
 まっすぐ北村の眼を見つめて、英司は言った。
「染矢さん、ぼくは病院が嫌いですから、いままで行かなかったんですが、考えてみます。こんな状態が続くようなら、この家も手放さなければならないかも分かりませんからね。この家はなんとしても守ってゆきたいと思ってるんです」
 部屋を見廻しながら、北村は言った。
「奥さん、ご主人が病院へゆく時は、一緒に行った方がいいと思いますよ。家族で支えあいながら、やってゆく必要があると思います。奥さん、いかがでしょうか」
 俯いて聞いていた奥さんに向かって、英司は言った。
「ええ、そうします。このままだと主人が可哀相です。主人は今まで仕事のことは、話したことがなかったんですけど、染矢さん、会社の仕打ちはひどいんですね。独りでどぶさらいをさせられたり、独りで昼飯を摂ってるなんて、ちっとも知りませんでした。あんまりです。これからは、少しでも主人の力になれるように、私も頑張ります。今日はどうも有り難うございました」
 奥さんは眼を赤く染めていた。

     (四)

 英司が開発部の辞令を受け取ったのは、新年が明けた五日の年始式であった。年始式は新年度の会社の方針と、各部の指針を発表する恒例の行事であった。その式で昇進、昇格者や配転の辞令が交付されるのである。
 年始式では百名前後の全社員が集合し、神主を招いて祝詞を上げて貰い、無病息災と会社繁栄の儀式も執り行われた。
 だが、北村の顔を見ることはなかった。彼は英司が訪問したあと、病院にいって診察して貰ったらしい。内科や耳鼻科での診察では異状が認められず、精神科に廻された。脳波や心臓の検査もおこなわれたが、内科的な異状は認められなかったのだ。精神科での診察の結果は、鬱病ということであった。
 北村は精神科の医師に処方して貰って、薬を飲みながら仕事に出ていた。いくらか改善の方向に向かっていたが、十二月に入ってまた休み勝ちになって、だんだん休日が増えていった。英司も心配で何回か電話をかけ、様子を伺ってきた。
「奥さん、どんな具合なんでしょうか。工場で訊いたら、休みが多くなってきたということでした。体調の方はいかがですか」
 北村は電話口に出てこなかった。
「染矢さん、ほんとに困ってるんですよ。今までは、身体が怠いといって、朝、蒲団のなかでぐずぐずしていても、起きだして来ていたんです。ところが十二月に入って、もう起き出すことができない日が多くなってきました。どうしたらいいんでしょうか」
 か細い声で、奥さんは言った。
「奥さん、病院の先生はどんなふうにいっているんですか。いったんは症状が改善してきたのに、また元のような状態に戻ったのでしょう」
 英司は受話器を強く握り直した。
「先生は少し仕事を休んだ方がいいと言ってるんですよ。先生には職場の情況も話したんです。すると、仕事と人間関係のストレスが大きすぎて、受けとめる器の容量を超えているというんです」
 奥さんは口ごもりながら話した。
「奥さん、どうでしょう。やはり先生のいう通りにした方が、いいんじゃないんでしょうか。何よりも健康を優先して、考える必要があると思いますよ」
 英司は訴えるような心持ちだった。
「そうですね。そのように、主人に言ってみます。染矢さん、気を使っていただいて、本当に有り難うございます。今後とも主人のことをよろしくお願いします」
 いくらか張りのある声で、奥さんは言った。
 北村はそれから休みをとるようになったが、しかし、十二月末をもって会社を退職したのだった。英司はそれを聞いて、驚いてしまった。これから先、北村はどのように生き、働いてゆくというのだろうか。同じような境遇におかれた友人が失われたことで、英司の気持は落ち込んでゆくようであった。
 開発部というと、何か夢や希望のある部署のようだが、この会社では閑職だと言われていた。そこに英司は配属されることになったのである。
 開発部には、部長の他二名の社員と女性事務員が一名いたが、この三名の社員は墓石のフランチャイズ・チェーンの組織作りに関わっていた。しかし、もう三年にもなるのに、加盟店はまだ一社に過ぎなかった。決して芳しいとはいえない業績が続いていた。会社のお荷物だという噂が囁かれていて、冷たい視線が注がれていた。
 そこに、英司は配属になったのだが、彼の仕事は、寺院や葬儀社、仏壇店やギフト店と提携することであった。墓石をはじめとした石材の仕事を紹介して貰うパイプをつくる、という役割が与えられたのである。
 英司はまず寺院巡りをしてゆくことを考えた。しかし、寺院との提携、協力関係を築くという仕事は、決して簡単に成功するものではなかった。それは今までの彼の経験から知り得ていることであった。だから、いまさら寺院や葬儀社との提携といっても、決して展望が開けているわけではない、ということが彼にはよく分かっていた。
 が、会社がそういう方針でやるというなら、英司も従わざるを得ない。けれども、開発部長は彼に対して、
「染矢君、ここでそれなりの実績を残さなければ、もう後がないと思っていてくれ」
 と、告げてきた。それは解雇を匂わすものだった。
 開発部の所属といっても、英司には席さえ与えられず、机も椅子もなかった。だから、彼は書き物や資料の整理などは、車でやることになった。軽自動車の内が文字通り、彼の事務所となり席となった。
 やはり、英司は四月の花見にも誘われなかった。彼等が花見に興じている時、彼は独り寺巡りをさせられていた。それは彼にとって、このうえない屈辱であった。そんな処遇に彼の心は揺れるのだった。
 しかし、今ひるんで、辞めるようなことをしたら、自分が、自分という人間が、崩れてしまいそうな気がするのである。だから英司は、ここで働きぬくという願いを果たしてゆきたいと思うのだった。
 英司は春になって、北村の家を訪ねたことがあった。しかし、北村はもうそこにはいなかった。表札がはずされ、「売家」という不動産屋の立て看板が、門柱にくくり付けられていた。彼はしばらく呆然と、そこに立ち尽くしていた。北村はどうなってしまったというのだろうか。北村は誰にもその行動を告げず、行方知れずになってしまった。
 英司は家の周りを、悄然とした足取りで廻ってみた。木造二階建ての洒落た建物であった。子ども部屋にしていたのだろうか、二階に二部屋あるように見受けられた。中学二年生の男と子と、小学六年生の女の子がいると聞いていた。その部屋は外界を遮断するように、厚いカーテンに閉ざされている。一階にはおそらく北村とその妻が、起居していたのだろう。
 そのごく普通な、日常の平和な幸せがこわされてしまったのだ。それは庭の伸び放題の草や、庭木に張った蜘蛛の巣などが、如実に物語っていた。
 英司は来る日も来る日も、寺巡りを続けていた。寺院名簿で寺の名前、宗旨、僧侶の氏名を確認し、住宅地図をたよりに寺院を探して、訪問するのである。
 六月のある朝のことであった。英司が車の中で寺院の住所を地図で調べていた時、運転席の窓硝子をこつこつと叩く音がした。そこに立っていたのは、開発部の女性事務員の奈津子だった。彼女は四十七歳で、若い頃保育士をしていたが、十二年ほど前にこの会社に入って、最初支店の事務員をしていたのだった。
 英司が怪訝そうに見上げると、奈津子は窓硝子の向うで微笑んでいた。彼が窓硝子を下げると、
「染矢さん、ご苦労さま。これからお出かけですか。これをお渡ししておきますので、あとで開いてみて下さい。いま私はゆっくりしておれませんので、これで失礼します。お気をつけて行ってらっしゃい」
 奈津子は笑みをこぼしながら、白い紙包みを渡して、そそくさと去って行った。
 英司が包みを開いてみると、中からキーホルダーと交通安全のお守りが出てきた。そして、手紙が入っていた。
 手紙にはこんなふうに書かれていた。
 ――染矢さん、毎日、ご苦労さまです。染矢さんに対する会社の処遇は、眼にあまるものがあります。私たちは陰ながら心より応援しています。しかし、それは染矢さんだけの問題ではありません。例えば、サービス残業の強要や朝、定時より三十分前に出勤せよという指示、そして退職勧奨や理不尽な配転などなどの問題があります。さらに営業部では、ご存知のように営業社員に不利になるような、一方的な報奨金制度の改定などの問題があります。
 ――これらの社員の悩みや要求を実現するために、いま労働組合を立ち上げる準備を進めているところです。また時機がきましたら、染矢さんのお力を借りたいと思っています。北村さんのような悲劇を二度と起こしてはなりません。染矢さん、どうかそれまで頑張っていて下さい。キーホルダーは、連帯の鈴です。そして、お守りはいつも車に乗っている染矢さんの、交通安全を祈ってのものです。どうか、お受け取り下さい。ではまた、失礼致します。
 英司はこの手紙を読んで、呆然と立ちすくむ想いだった。しばらく梅雨の晴れ間の空を見上げて、身じろぎもできなかった。ただ、青く広がる空に眼を泳がせていた。そして、やさしい言葉に触れて、胸が熱くなってくるのだった。
 キーホルダーを手に取ってみると、その先には鈴が二つついていた。振ってみると、りんりんと鈴が鳴った。英司は早速キーホルダーに鍵をつけた。お守りはフロントガラスの右隅に吊り下げた。彼はエンジンをかけ、アクセルをゆっくり踏んで、寺巡りに向かった。車が震え、鈴が心地よく鳴り響いた。
 英司は山門をくぐって境内を見渡した。正面に本堂があって、瓦屋根が鈍く光っている。山門の右手、塀の近くに銀杏の大木が枝を広げ、萌黄色の葉が風にさわさわと揺れている。本堂の横に庫裏が見える。彼は飛び石を踏んで玄関まで歩を進め、その脇のインターホンを押した。すると、
「どちらさまでしょうか」
 婦人の声が返ってきた。
「ああ、ごめん下さいませ。山陽石材と申します。ご住職はいらっしゃいますか。ちょっとお願いがあって、お邪魔させていただいたんですが、よろしくお願い致します」
 いくらか緊張して、英司は言った。
「ああ、そうですか。少しお待ち下さい」
 インターホンで婦人の声がした。
「さあ、どうぞお入り下さい」
 しばらくして、玄関で野太い男の声がした。
「いつもお世話になっています。山陽石材の染矢と申します。ご住職、ちょっとお願いがあってお邪魔させていただきました。よろしくお願い致します」
 深く腰を折って、英司は頭を下げた。
「ああ、そうですか。それじゃ、ちょっとお上がり下さい」
 住職は先にたって、部屋へ案内した。
 英司は住職の後についてゆくと、そこは応接間だった。住職はソファーに手を伸ばして、どうぞお掛け下さいと言って、奥の方に戻っていった。奥さんと何やら話している様子だった。
 英司はソファーに坐り、応接間の内をぼんやりと眺めていた。すると、正面左の壁に一枚の絵が掛けられているのが見えた。浅緑と淡い水色を基調にした山林の絵だった。彼は絵が好きだったので、誰の絵かだいたいの見当がついた。東山魁夷の絵のようだった。霧に霞んだような林だったが、その絵からは、風とそれに揺れる木々のざわめきが、聴こえてくるようであった。やがて住職が応接間に入ってきた。
「ご住職、いい絵ですね。東山魁夷の絵でしょうか」
 住職の顔を覗き込みながら、英司は言った。
「そうです。魁夷の絵ですよ。よくご存知ですね。これは檀家の方からの贈り物です。リトグラフですがね。私も魁夷の絵は好きなんですよ」
 絵の方へ振り向いて、住職は言った。
「山陽さん、どうですか。景気の方は、忙しくされているんでしょう。お宅は手広くやっていますからね。いま、何店舗出しているんですか。車で走っていてもよく看板を見掛けますよ」
 玉露を淹れながら、住職は言った。
「ええそうですね、いま九店舗です。岡山県と広島県にかけて展開しています。ご住職、看板はあれでも随分はぶきました。かなり少なくなっています」
 英司は会社案内のパンフレットを出し、住職に渡した。
「さて、今日お邪魔させていただいたのは、他でもございません。このお寺に灯籠や石工事などのご計画はないかと思いまして、伺ったような次第です。また、檀家さんで、墓石などのご相談がおありになると思うのですが、その節には、弊社にご紹介いただけないかと思いまして、お願いにまいりました。ご住職いかがでしょうか」
 住職の眼をまっすぐに見て、英司は言った。
「山陽さん、残念ですが今のところ、寺で石工事などの計画はありません。また、檀家の墓石建立にあたっては、色々な弊害が出てきますから、こちらが口を挟むようなことはしていません。檀家の方々がそれぞれ自由に、墓石店を選ぶように申しております。檀家を紹介して、マージンなど貰っているような寺もあるようですが、私はそのようなやり方を良しとしていません。まあ、山陽さん、そのようなことで、何のお役にも立ちませんが、今後ともよろしくお願いします」
 住職は英司の申し入れを、さりげなく断った。
「ところで、染矢さん。商売の話とは別ですが、この寺はご存知のように禅宗ですから、日曜日、午前六時より坐禅を行っていますから、良かったらお越し下さい」
 住職は澄んだ目で、英司を見つめた。
「ああ、そうですか。坐禅をやってらっしゃるんですね。また機会を見つけて、寄せて貰ったらと思います。今日は貴重なお時間をとらせまして、大変失礼致しました。どうぞ、これからもよろしくお願い致します」
 深く頭を下げて、英司は言った。
 英司は禅寺を辞して、空を見上げた。梅雨の晴れ間の空は蒼く澄み渡り、太陽は西に傾いていた。彼はもう一ヶ所寺を廻って、会社へ帰ろうと思った。
 車を駐車場に停めて、英司は石段の下に立って山門を見上げた。急な石段が山門まで続いている。彼はゆっくりと、その石段をのぼって行った。のぼり詰めるとそこは板石が敷設されていて、いくらか広い空間となっている。
 英司は振り向いて、今のぼってきた石段を見下ろした。人があまり踏みしめない石段の両側は苔むしていた。視線を上げると、瀬戸内海が広がっているのが見渡せた。水平線は空と海が溶け合ってぼんやりと霞んでいた。蝶が乱舞するように海は光り輝いている。貨物船が浮んで、ゆっくりと過ぎってゆくのが見えた。
 山門をくぐって、英司は本堂の前まで進み、合掌をして深く頭を下げた。庫裏は本堂の右手にひっそりと佇んでいた。彼は飛び石を渡って、庫裏の方に向かって進んだ。
 庫裏の玄関ポーチ横には花壇がしつらえられていて、花が植わっていた。鮮やかな緋色をした花弁であった。英司は、あっと声を挙げそうになった。昨年の今頃、店舗の裏手の駐車場に咲いていたのと同じ花であった。やはり太い茎がまっすぐ伸び、その頂きに六枚の花弁をつけている。凛とした趣きが彼の心に触れてきた。
「ごめん下さい」
 英司は引き戸を少し開けて、声をかけた。
「ああ、いらっしゃい。どちらさまでしょうか」
 と言いながら、婦人が奥から出てきた。
「失礼致します。山陽石材と申します。ご住職はいらっしゃいますでしょうか。ちょっとお願いがあって、お邪魔させていただいたのですが、よろしくお願い致します」
 引き戸を開いて、英司は玄関の中に入った。
「あいにくですが、住職はいま出かけております。どんなご用件ですか。私に分かれば伺っておきます」
 婦人は玄関ホールの床に坐って、丁寧な言葉で答えた。婦人は住職の奥様なのだろうと思われた。和服を着てつつましやかだった。
「ええ、石材関係のお願いに伺ったんですが、それじゃ、また住職のいらっしゃる時に、もう一度お邪魔させていただきます。ところで奥様、ポーチ脇の花壇の花はなんという花でしょうか。恥ずかしいことに名前を知らないんですよ。綺麗な花ですねえ」
 英司は奥さんのやさしい眼をみて言った。
「ああ、あれですか。綺麗でしょう。あの花はアマリリスというんですよ。私も好きで毎年咲かせているんです。それに、花言葉が気に入っててね。花言葉は誇り、というんですよ」
 微笑みながら、奥さんは言った。
「ああ、そうですか。アマリリスというんですね。誇り――ですか。奥様どうも有り難うございました。また、お邪魔できたらと思っていますので、よろしくお願い致します」
 深く一礼して、英司は玄関を出た。
 英司は花壇の前に坐って、アマリリスを凝視していた。昨年六月からのことが走馬灯のように甦ってくるのだった。彼は自身のおかれた境遇に想いを馳せるとき、一瞬辛くて哀しくなった。だが、凛としたアマリリスに接して、込み上げる感動を抑えることができなかった。涙がにじんで、周りが霞んで見えた。
 陽は西に大きく傾いて、山影に落ちようとしている。斜めに射し込む光は、アマリリスを黄金色に染めていた。
 英司は、
「誇り――。尊厳――」
 と呟いて、立ち上がった。
 英司は軽自動車に乗り込んでエンジンをかけ、アクセルを心持ち強く踏み込んだ。すると、車が少し揺れて、鈴が軽やかに鳴った。
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鬼藤千春の小説 「風花の中へ」 短編

 風花の中へ
             鬼藤 千春

 立春を迎えたが、震えるような寒い日だった。哲也は二階のアトリエで、インターホンの鳴るのを聞いた。窓から覗くと、中年の女と若い女が玄関の前に立っていた。彼は受話器の内線のボタンを押して、耳に当てた。
「どちら様でしょうか」
「あのう、シャホキョウのものですけど――」
「シャホキョウ? どんな御用件ですか」
「じつは、署名のお願いに伺ったんですが、よろしくお願いします」
「署名? 関係ないよ。うちは署名なんかしない流儀なんだよ。玄関の横に札を貼ってある通りだよ。寄付、押し売り一切お断りっていう札があるでしょう」
「でも、寄付や押し売りとはちょっと違うんですが――」
「まあ、似たようなもんだよ。寒いのにご苦労さんでした。なにか資料のようなものがあれば、ポストに入れといてくれてもいいよ。気が向いたら読んでみるよ。それに暇があったらな、――」
 哲也は苛立ったような声を挙げて、受話器を置いた。
 二階から見下ろすと、チラシのようなものをポストに差し込み、二人はとなりの家に向かって歩いて行った。中年の女が哲也の玄関の方を振り返り、「チエッ」と呟いて、唇を歪めているように見えた。二人は顔を見合わせて、何か囁いていた。――偏屈な人だわね、などと言い合っているように思えて、哲也は
レースのカーテンを勢いよく引いた。
 彼は三年前に、小さな建築会社を定年退職した。その会社に中途入社して、二十年余り現場監督をしてきた。が、定年後の生活設計は何も考えていなかったから、当初は途方に暮れて、日々をもてあそんでいた。
 しばらく図書館通いに明け暮れたこともあった。午前九時の開館にきっちり間に合うように出掛け、昼食を摂って、また午後五時まで時間を潰すというふうだった。図書館では、新聞や週刊誌に眼を通したり、ソファーに座り込んで、居眠りをしたりして過ごした。
 が、哲也の心はなぜか満たされなかった。半年ばかり続いただろうか、それに飽きて彼は何か趣味を見つけたいと思うようになった。そして、ふと思いついたのが、絵を描くということだった。
 哲也は四十年以上も前、高校の時代に美術部に入って絵を描いていたのだった。卒業以来、絵筆を握ったことがなかったのだが、図書館通いに倦んで、それを思い出したのである。
 彼は何事も思いついたら前にすすむ性質(たち)なので、アトリエの手配にすぐかかった。ちょうど具合がよかったのは、長男夫婦が家を新築し、出ていったばかりだった。彼らの寝室は十二畳もあり、アトリエにするには格好の室だった。が、その室は妻が使用していたので、ひと悶着あった。
「何を言い出すの。あんたの部屋は、一階にあるじゃありませんか」
 妻はキッチンで振り向き、英治を睨んだ。
「絵をやりたいんだよ。和室で絵というわけにもいかないじゃないか」
 哲也はカップのコーヒーをかき混ぜながら、妻の方に視線を投げた。
「あんたは、思い立ったが吉日とばかり突っ走るけど、三日坊主が殆どよ。ウオーキング・マシン然り、釣り然りだわ。それらの道具は、倉庫でほこりを被って眠っているのよ。絵だってそうに決まってるわ」
 妻は苛立つように、食器をぶつける音をさせている。その背中は明らかに怒りの感情が表れていた。
 しばらく妻の愚痴を聞いていたが、結局哲也は二階の室に移ることになった。その室を彼はアトリエにすることにした。
 それからというもの、哲也は絵にはまってしまった。妻の心配していた三日坊主になることもなく、三月(みつき)たち一年が過ぎて、まもなく三年になろうとしている。
 しかし、彼は近所付き合いをまったくしなくなったばかりか、アトリエから出るということも殆どなくなってしまった。彼が家を出るといえば、週に二日、朝食のパンと牛乳を買いに、町のコンビニに行くくらいのことである。そして、月に一度、所属する美術会の会合と二月(ふたつき)に一度、病院へ胃腸の薬を貰いに行くだけだ。
 彼はいつのまにか、周りの人々から「寄島の仙人」と揶揄されるようになっていた。寄島というのは、彼の暮らす小さな町のことである。
「哲ちゃんは、何をしよんじゃ。定年になって、仕事もやめたんじゃから、もっと町内のことをしてもらわにゃおえん。町内の草刈やゴミステーションの清掃にも、まったく出てこんのう。草刈や清掃ならまだええけど、裏の銀次郎さんが死んだいうても顔も覗けんのじゃからのう。ちいたあ、町内のことも手伝うように、よう言うといてくれえ」
 そういう苦情を、妻は聞いて帰るのだった。
「そりゃ、一軒のうちから一人出りゃええいうても、わたしばかりじゃなく、お父さんも時々ゃ顔を覗けてくれにゃあ。わたしも白い眼で見られて、辛いんよ」
 妻が草刈から帰るなり、アトリエに上がってきて哲也を睨むのだった。
 彼はアトリエにいて、音楽を聴きながら絵を描いたり、本を読んだりする時間が至福の時だった。近所の人たちのところへ出て行って、人々や町の噂話などするのは、てんで苦手だった。そんな厄介なことに関わりたくなかったのだ。
「わたしは寄島の仙人でいい」と彼は思っていた。七時に起床して午後九時頃まで、終日家の内におり、その殆どをアトリエで過ごす生活は彼によく合っており、捨て難いものだった。
 哲也はきりのついたところで、キャンバスを眺め、絵筆を置いて、アトリエを出て行った。
「シャホキョウ? 天理教、黒住教、シャホキョウ――。どんな宗教なのだろうか。宗教団体が署名を集めるものだろうか」
 哲也は呟きながら、階段を下りて行った。
 彼は玄関のドアを開き、ポストを覗き込んだ。ポストにはパンフやチラシが丁寧に差し込まれていた。ポストの蓋を開きそれらの資料を摑んで、ざっと眼を通した。
 哲也はアトリエに戻って、コーヒーを沸かして淹れた。それを飲みながら、デスクの椅子に座って資料を眺めていると、彼はとんだ誤解をしていることに気づかされた。
「シャホキョウ」というのは、宗教でもなんでもなく、「社保協」のことであり、正式には社会保障推進協議会だということを初めて知った。還暦を過ぎて、「社保協」という団体に初めて御眼にかかった。署名というのは、「社会保障と税の一体改革」に反対する署名であった。
 いくら「寄島の仙人」と言えども、「社会保障と税の一体改革」という言葉を知らないというわけではなかった。テレビをつければ、決まってそのことが話題になっており、心の片隅に引っ掛かっているのだった。が、その中味については、殆ど分かっていなかった。パンフを読んでゆくうちに、哲也は背中をさっと、寒気がつらぬいてゆくのを感ずるのだった。
 ――政府・民主党政権は、二〇一五年までに消費税を五%から十%に増税するとしている。夫婦二人の世帯で月二十万の年金の場合、現在十万の税金が二十万になる、というのである。年金は、二〇一五年までに、七万三千円の減額となり、介護保険料は二〇一二年十月より、一万五千八百円の増額になる、というものだった。
 パンフには、棒グラフを使って分かりやすく示されていた。
 哲也は思い立ってパソコンを立ち上げた。彼は家計簿をパソコンで作成しており、家の経済状況がひと眼で分かるようになっていた。データファイルを開くと、収入の部と支出の部のページが表示された。
 それを覗き込んで彼は、「うっ」と一瞬声を挙げそうになった。我が家の家計が「社保協」のグラフと殆ど一致しているからだった。年金収入は夫婦合わせて二百八十万、この中から国民健康保健税が三十万と固定資産税が十万で、可処分所得は二百四十万で月二十万ということになる。
 彼はパソコンの前で腕を組み、ひとしきり唸っていた。二百四十万から年金の減額七万三千円、消費税十万、介護保険料一万五千八百円の増額になったら、我が家の経済はピンチである。今でさえ我が家の収支のバランスはとんとんなのだ。これが実施されたら赤字になってしまうことは明らかである。何が「社会保障と税の一体改革」だというのだろうか。社会保障を削り、消費税を増税するというシナリオに過ぎないのではないだろうか。
 哲也はしばらく考えていたが、このアトリエに引きこもっている場合ではないような気がしてきた。いつか「社保協」の署名用紙をもって、近所を回ってみたいと思うようになった。
 その日、北の空は鉛色に沈んでいたが、上空はいくらか青空がのぞいていた。が、冷たい北風が吹き、風花の舞う、凍えるような寒い日だった。彼は首にマフラーを巻き、コートを着込んでアトリエを出た。
 哲也は玄関を出ると、肌を刺すような風にぶるっと震えた。が、それはただ単に寒さだけのものではなかった。三年間もアトリエに引きこもり、近所付き合いもしてこなかったことが、緊張をもたらしているのだった。
 彼はそこで一瞬ためらい、足がすくんでしまって、ポーチに留まっていた。が、彼は左手のパンフとチラシ、署名用紙の入ったファイルを覗き込むと、ためらう気持ちが少しずつ溶けてゆくのが分かった。パンフの色刷りのグラフが鮮明に甦ってきたのだった。
 ――そんな生き方でいいのか、という自問が胸をせり上がってきた。いや、こんな生き方でいいわけはない、と呟いて、哲也は風花の中へ踏み出して行った。

鬼藤千春の小説 「赤い傘」 短編

  赤い傘

           鬼藤 千春


 高野哲矢は、深い眠りからふと目覚めた。となりの蒲団には兄と妹が眠っていて、軽い寝息を立てている。部屋は闇に包まれていた。が、襖の隙間からかすかな光が洩れている。彼は闇の中でぼんやりとしていたが、また眠りに引き戻されそうだった。そんな折、襖の向こうから声が聞こえてきた。
「あなた、亜希ちゃんのおっかあは、寝る時、蒲団の中に草刈鎌を持って入るそうよ」
 母のささやくような声だった。
「亜希ちゃんといやあ、哲矢の同級生の子じゃのう。そのおっかあがなんでまた、物騒な鎌なんか蒲団の中に持って入るんじゃ」
 野太い父の声が聞こえた。
「亜希ちゃんのおとうは、戦争で死んだでしょう。それで源爺が酔っ払って、嫁の蒲団にもぐり込もうとするらしいわ。おっかあは、いつも亜希ちゃんを抱いて、寝るんじゃそうよ。そして、鎌を蒲団の中に入れとくらしいわ」
 声を殺して母は言った。
「源爺はよく酒を飲むからのう。亜希子のおとうは、岡山の歩兵第十連隊じゃったんじゃ。昭和二十年の春に、ルソン島で連隊のほとんどがやられてのう。源爺は息子の戦死の公報と、遺骨も遺品もなんにも入ってない、白木の箱を役場から受け取ったんじゃ。それからおかしゅうなったらしいのう」
 咳をひとつして、父は言った。
「それに源爺は、最近出るようになった遺族年金を、亜希ちゃんのおっかあに渡さずに、みんな飲んでしまうらしいよ。おっかあは、バンコック帽子の、機織りの内職をしてるんじゃけど、満足に喰うていけんらしいわ。だから、亜希ちゃんの雨傘や雨靴も、買うてやれんそうよ」
 溜め息をつくように、母は言った。
 やがて、となりの部屋から声が途絶え、明かりが消えた。が、哲矢は眼が冴えて、なかなか眠ることができなかった。彼は闇の中でまんじりともせず、眼を見開いて天井を睨んでいた。
 銀色に光る鎌の刃が、鮮やかに哲矢の脳裡に浮かんでくる。その鎌が亜希子の蒲団の中に、ひそかに隠されているのかと思うと、鳥肌が立つ思いだった。彼女はその蒲団の中で、母に抱かれ毎夜身体を縮めて、眠っているのだろうか。彼女のおっかあはそうして、源爺から身を守っているのだろうか。
 戦争が終わって、もう八年が経とうとしていた。だが、源爺は昼間から酒を飲んで、海辺や小高い山を彷徨っているのを、哲矢は見かけることがあった。
 その源爺が亜希子のおっかあを、夜襲うというのを聞いて、哲矢は俄かに信じることができなかった。源爺は蒲団にもぐり込んで、何をしようというのだろうか。あの濁った眼を鋭く光らせて、彼女のおっかあに抱きつくのを想像すると、哲矢はぞっとするような、おぞましさを感ずるのだった。
 それに哲矢は、雨の日に亜希子が学校を欠席する理由について、初めて分かったような気がした。それが彼には深い疑問として、今まで胸にわだかまっていたのだった。彼女は雨が小降りの時は、深く帽子を被って、濡れながらでも学校にきていた。が、本降りの雨の日には、たいてい学校を欠席するのだった。小学六年生の彼女は梅雨を迎えて、学校を休むことが多くなっていた。哲矢はやっと疑問が解けたように思えた。
 いつのまに降り出したのだろうか、庇のトタンを叩く雨の音が聞こえてくる。間断なく降り注ぐ雨の音を、哲矢はしばらく聞いていた。朝までに雨が止むように、彼は祈るような心持ちだった。その雨だれは、心なしか憂いを帯びているように響いている。彼は雨音に誘われるように、また眠りに落ちていった。

 哲矢は教室に入って椅子に坐り、斜め後ろの亜希子の席を振り向いた。いつもなら、哲矢が振り向いて微笑むと、彼女も恥らうような笑みを返してくるのだった。だが、亜希子はその席にいなかった。机だけが淋しそうに、ぽつんと取り残されていた。
 窓の外に眼をやると、深夜から降り出した雨はいっこうに衰えず、斜めに降り注いでいた。台風といえばだいたい夏から初秋のもので、梅雨の季節に日本列島に近づくというのは、めずらしいことだった。その台風が梅雨前線を刺激して、猛烈な勢いで雨が降っている。
 哲矢はその雨を、恨めしい思いで眺めていた。亜希子はどんな思いで、この雨を見つめているのだろうか。それを思うと、彼の心は棘が刺さったように痛むのだった。そこへ猛雄と清志がやってきた。
「哲ちゃん、ぼんやり外を眺めて、何を考えとんじゃ。しっかりせにゃあ、元気がねえのう」
 哲矢の肩を叩いて、猛雄が言った。
「うん、なんでもねえ。流れる雲をみょうたんじゃ。すげえよ、雲がとぶように流されとるじゃろう」
 哲矢は不意を突かれたようで、どぎまぎして答えた。
「ほんまじゃなあ、黒い雲が千切れて飛んどるのう。台風の眼の方へ引き寄せられとんじゃろう」
 空を見上げて、清志は言った。
「哲ちゃん、亜希子はまたきとらんのう。よう休む奴じゃ。運動もようできて、賢けえいうてものう。これじゃマドンナも形無しじゃ。もっとしっかりせにゃ、おえんじゃろう」
 亜希子の机を振り返って、猛雄は言った。
「……」
 哲矢は鳩尾を突かれたような心持ちがした。
「風邪でも引いたんじゃろう。蒸し暑いけえのう、ちょっと油断しとったら、夏風邪にかかるんじゃ」
 とっさに思いついたことを、哲矢は言葉にした。
「そうかのう、信じられんわ。怠けとんじゃねえんか。なんか雨が降りゃ、出てこんみてえじゃのう」
 不審そうに、猛雄は言った。
「猛ちゃん、そう心配せんでもよかろう。すぐにようなって、出てくるじゃろう」
 哲矢は懸命になって言った。
 亜希子がいつものように、顔に笑窪をつくって、爽やかに登校してくるのを哲矢は願った。
「哲ちゃん、今日、放課後うちでパッチンをやろうやあ。雨も降っとるし、外じゃ遊べんじゃろう。どんなかのう」
 パッチンを投げる仕草をしながら、猛雄は言った。
 パッチンというのは、めんこのことで、小学生の間で流行って、盛んに行われていた。めんこは円形や長方形をした厚紙で作られており、地上に置かれた相手のものに打ち当てて、裏返せば勝ちとなり、それを貰えるという遊びだった。
「そうじゃなあ。雨じゃけん、外でビー玉もできんしのう。じゃあ放課後、猛ちゃんとこへ遊びに行こうか」
 猛雄を見上げて、哲矢は言った。
「それじゃ、哲ちゃんも清ちゃんも、家にカバンを置いてから、うちにすぐけえよ。じゃあな」
 猛雄は念を押すように言って、清志とともに自分の席に戻って行った。
 その日は六時限だったが、哲矢にとっては永い一日のように感じられた。強い風にあおられて、窓が軋んで鳴るし、亜希子の不在がなぜか彼の心を虚ろにしていた。授業に集中することができず、先生の話をぼんやりと聞いていたような気がする。
 哲矢は授業が終わると、猛雄や清志と途中まで一緒に帰った。彼は家に帰ってカバンを置くと、すぐに出かけようとした。
「哲矢、この雨風の中をどこへ行くんじゃ。網の修繕や片付けもあるちゅうのに、ちいたあ手伝わにゃおえんじゃろう。また、父ちゃんに叱られるよ」
 母がいきなり大きな声を挙げた。
 哲矢のうちは漁師だった。この村は瀬戸内の海を抱き込んだ入江の村である。東の岬と西の岬を結ぶように弧を描いていた。その入江に沿って、軒の低い家々がうずくまるように佇んでいる。村人は半農半漁で暮らしを立てていた。
 だから、哲矢の手伝う仕事はいくらでもあった。前の井戸から水を汲み上げて、風呂に入れることや七輪の火をおこすことは、子どもたちの仕事と決まっていた。網の片付けや土間の掃き掃除なども、彼らの仕事のうちだった。
「ちょっと、猛ちゃんのとこへ行くんじゃ。すぐに帰るけん、行ってくるわ。じゃあな」
 そう言って、哲矢は玄関を飛び出した。
「哲矢、哲矢ッ」
 背中で母の叫ぶ声がした。
 猛雄の家に行くと、もう清志は来ていて二階の子ども部屋へ入っていた。
「猛ちゃん、すげえ雨じゃ。風に傘が飛ばされそうじゃったわ。足もとの方が濡れて大変じゃ」
 部屋のドアを開けて、哲矢は言った。
「哲ちゃん、よう濡れとるのう。ほら、これでしっかり拭いとかにゃ、風邪を引くぞ」
 そう言いながら、猛雄はタオルを投げて寄越した。
「それじゃ、やるか。まずジャンケンで順番を決めようやあ。ええか、最初はグウ、ジャンケンポン」
 三人は腕を前に突き出して、大きな声を挙げた。
 小さい台の上に、それぞれ自分のめんこを置いていった。相手のめんこを裏返すか、台から落とせば勝ちとなる。めんこの表面には写真や絵が描かれていて、気にいったものを狙って投げつけるのである。プロ野球の川上哲治、大相撲の千代の山、歌手の美空ひばりなどは人気が高く、それが彼らの狙い目だった。
「哲ちゃん、この美空ひばりはいただきじゃ。ええか、いくぞ。えいッ」
 猛雄は勢いよくめんこを叩きつけた。
 すると、哲矢の美空ひばりは、難なく引っ繰り返ってしまった。猛雄はめんこでもビー玉でも、ほとんど負けるということがなかった。喧嘩は強いし、運動でも鉄棒や徒競走など、なんでも得意だった。
「猛ちゃん、そう旨いことばあはないぜ。この川上哲治は、有り難うさんじゃ」
 猛雄のめんこをめがけて、清志は思いっ切り投げつけた。が、清志のめんこは空を切り、
台の上から落下した。
「清ちゃん、なにゅうやっとんじゃ。しっかりせにゃ、自滅じゃのう。可哀相にご愁傷さまじゃのう」
 清志の顔を覗き込んで、哲矢は笑った。
「よし、今度はぼくの番じゃのう。猛ちゃん、もうこのめんこはお陀仏じゃ。覚悟をしとかにゃおえんよ」
 哲矢は力まかせではなく、より風圧が強く働くように心がけて投げた。すると、猛雄のめんこがふわりと宙に浮き、気持ちよく裏返った。
「わあ、やられてしもうたのう。この川上哲治は、わしの助っ人じゃったけえなあ。打撃の神様じゃいうだけあって、よう稼いでくれたんじゃ。残念じゃけえど、献上じゃのう」
 猛雄はさも口惜しそうに、めんこを哲矢に渡した。
「哲ちゃん、明日は天気はどんなかのう。台風一過で、からりと晴れりゃええんじゃけえどなあ。雨のようだったら、亜希子があやしいもんじゃ。また怠けて学校を休むんじゃろう。いい加減な奴じゃけえのう。学級委員の名がすたるじゃろう」
 めんこの道具を片付けながら、猛雄は言った。
「今夜、四国沖を通過するいう話じゃけえなあ。たぶん大丈夫じゃ。明日にゃ、雨も上がるじゃろう。猛ちゃん、外が薄暗うなったけえ、もう帰らにゃおえんわ。また遊ぼうやあ。今度晴れたら、浜辺へ潮干狩りにゆこう。亜希ちゃんも、誘うちゃろうやあ」
 亜希子の名前を出して、哲矢は心臓がどきどき打つのを感じていた。
「亜希子かあ。潮干狩りはええけど、おなごはどうも厭じゃのう。亜希子が来るいうじゃろうか。まあ、わしは知らんけえど、哲ちゃんにまかさあ」
 気乗りしない様子で、猛雄は渋々肯いた。

 一週間ほどのちのことだった。また本降りの雨で、亜希子はやはり学校を欠席した。ぽっかり穴の開いたような心持ちで、哲矢は一日を過ごした。
「哲矢くん。悪いけれど、これを亜希子さんのところに届けてくれる。宿題と連絡事項のプリントが入っているのよ。よろしく頼むわね」
 哲矢の席に近づいてきて、おなご先生は大きな茶封筒を差し出した。
「は、はい。亜希ちゃんのとこですね。帰り道ですからいいですよ」
 先生を見上げて、哲矢は言った。
 哲矢の家からは、すぐ近くの路地を上りつめたところに、亜希子の家がある。哲矢は急ぎ足で坂道を上って行った。
 哲矢は門の前に立って、亜希子の家を見回した。板塀は少し傾いて、羽目板が朽ち剥がれ落ちているところもある。庭の隅には井戸があり、そのほとりに大きい松の木が植わっていた。穴のあいた板塀の傍には、紫陽花の花弁が雨に打たれ、艶やかに光を放っている。家は平屋でうずくまるように建っていた。
 哲矢は玄関の引き戸を開いて、
「こんにちは。亜希ちゃんはいますか」
 と、そっと声をかけた。
 すると、何か黒い影が動いて、奥の方に消えてゆくのが分かった。玄関の土間右手に六畳間があり、次の部屋の襖は開け放たれていた。その部屋も六畳間のようであった。所々に洗面器や薬缶が置かれている。時折雫がぽつりぽつりと落ちてくる。小母さんは縁側で巧みに織機をあやつり、バンコック帽子を編んでいた。
「あら、哲ちゃん。いらっしゃい。こう雨が降ったんじゃ、たまんないわ。哲ちゃん、この通りよ。雨漏りがしてねえ。困っているのよ」
 小母さんは機織りの手を止めて、部屋を見回した。
「小母さん、亜希ちゃんはいますか。先生からの預かり物があるので、渡したいんです」
 哲矢は茶封筒をカバンから出した。
「ああ、そうなの。朝は頭が痛いと言って蒲団の中にいたんじゃけど、今は起きているのよ。奥の部屋じゃから、呼んできて上げようね」
 糸くずのついた前掛けを払って、小母さんは奥の部屋へ入っていった。
 小母さんはなかなか戻ってこなかった。奥の部屋で、何やら言い争っているような声が、途切れとぎれに聞こえていた。しばらくすると、押し殺したような、亜希子の嗚咽が洩れてくる。やがて小母さんが戻ってきた。
「強情なんだからもう。哲ちゃん、亜希子は厭じゃと言って出てこんわ。じゃ、小母さんが受け取っとくわ」
 奥の部屋を振り返って、小母さんは言った。
「はい、それじゃ、これが先生からの預かり物です。亜希ちゃんに渡して下さい。それと……」
 哲矢は言いよどんで、次の言葉が出てこなかった。
「……それと、今度晴れたら、潮干狩りに行こうと、亜希ちゃんに伝えて下さい。いま、アサリがよく取れるらしいんです。よろしくお願いします」
 はにかんで、哲矢は頭を下げた。
「潮干狩りねえ。亜希子は外で遊ぶのが好きじゃけど、どうするかねえ。まあ、伝えておくわ。哲ちゃん、行くと言ったら、仲良くしてやってちょうだい」
 小母さんは白い歯を見せて言った。

 次の土曜日の午後であった。朝から晴れたり曇ったりしていたが、雨の降る様子はなかった。哲矢と亜希子が浜辺に着いた時には、もう猛雄と清志は来ていた。
「なんじゃ哲ちゃん、おせえのう。早うせにゃあ、すぐに満ち潮に変わってしまうんじゃが」
 猛雄は頬をふくらませて、哲矢を睨んだ。
「わりい、わりい。待たせてしもうて、すまんかったのう。猛ちゃん、こらえてくれえ」
 合掌の恰好をして、哲矢は謝った。
「哲ちゃんも亜希ちゃんも、どうしたんじゃ。海へ入るっちゅうのに、二人とも長靴じゃないんか」
 二人の足もとをしげしげと眺めながら、猛雄は言った。
「猛ちゃん、二人は裸足のつもりじゃ。長靴じゃねえけえ、水の入る心配もいらんけえのう。それに裸足も気持ちがええもんじゃ」
 そう言いながら、哲矢は運動靴を脱いだ。
「哲ちゃん、気をつけにゃ危ねえぞ。ときにゃ、瓶の破片などもあるけえのう」
 優しい心遣いを示して、清志は言った。
「それじゃ、哲ちゃん。ぼくらは先に行っとくけえ、準備ができたら来いのう」
 バケツと鍬を持って、猛雄はすたすたと歩いて行った。
 アサリの棲み家は、砂地のところでもなく、泥地のところでもなかった。いないというわけではなかったが、多く生息しているのは、砂地と泥地のちょうど交わる辺りである。潮干狩りの人々が、その辺りで腰をかがめて懸命に掘っていた。
 猛雄と清志はもうその場所にたどり着いて、掘り始めている。哲矢と亜希子はズボンをたくしあげて、ゆっくりと彼らの方に向かった。二人はふざけることもなく、黙々と掘り進んでいる。猛雄のバケツの中には、もう幾つものアサリが転がって、時折潮を噴き上げていた。
「猛ちゃん、もうこんなに掘ったの。どうしてアサリのいるところが分かるの」
 猛雄のバケツを覗き込んで、亜希子が言った。
「亜希ちゃん、どこでもいいんじゃ。手当たり次第に掘ってゆくことじゃのう。そうすりゃ、アサリがころんと出てくるんじゃ。犬も歩けば棒に当る、いうことじゃのう」
 猛雄は手を止めて、にやりと笑った。
「猛ちゃん、ほんとう? どこでも掘ったらいいの。わたしでも取れるかしら」
 亜希子が怪訝そうに、猛雄の顔を見つめた。
「亜希ちゃん、嘘じゃよ。やみくもに掘っても、取れるなあ、たかが知れとんじゃ。まず、アサリの眼を捜すことじゃのう。ちょっと、やってみようか。最初に表面の土をさらうんじゃ、こうしてのう。そうしたら、眼が出てくるんじゃ。ほら、亜希ちゃん。これがアサリの眼じゃ。細くて小さい穴が見えるじゃろう。ここを掘りゃ確実にアサリがおるんじゃ。ほら、この通りじゃ」
 猛雄は得意そうにアサリを摑んで、亜希子の眼の前で手のひらを広げた。
「わあ、ほんとうだわ。猛ちゃん、上手いんだね。わたしもやってみるわ」
 猛雄の手のひらのアサリをつまんで、亜希子は言った。
 亜希子は猛雄から教わったように、まず表面の土を三、四センチ鍬で掘って、眼をこらしていた。
「ほら、亜希ちゃん。ここにも、あそこにも、小さな細い穴が見えるじゃろう。それがアサリの眼じゃ、掘ってごらん」
 長細い穴を指差しながら、哲矢は言った。
「わあ、アサリだわ。アサリが取れたわ。わあい、やったあ」
 手のひらにアサリを載せて、亜希子は嬉々とした声を挙げた。
 しばらく四人は、夢中になってアサリを掘っていた。その周りから、時々驚きの声や歓声が挙がって、楽しい潮干狩りだった。それぞれバケツに三分の一くらいずつ、アサリが取れた。哲矢は立ち上がって腰を伸ばし、四囲を見渡していたが、砂浜の向うに源爺がいるのに気がついた。
「清ちゃん、亜希ちゃんとここで掘りょうてくれんか。猛ちゃんとちょっと、行くとこがあるけえ」
 腰をかがめて鍬を動かしている清志に向かって、哲矢は言った。
 哲矢と猛雄は砂浜の端にいる、源爺の方に向かって歩いた。太陽は西に傾き、二人の影は長く伸びている。その影を踏みながら、二人は足早に砂浜を蹴って進んだ。
 西の空と海面は茜色に染まり、やがて西の島影に夕陽が落ちようとしていた。瀬戸内の島々は、黄金色に染まって浮かんでいる。
 源爺は砂浜にへたり込んでいた。また酒を飲んでいるのだろうか、赤く顔を染め濁った虚ろな眼をしている。彼はぼんやりと、宙を見つめているふうだった。焦点のぼけた源爺の眼は、尋常ではない異様な雰囲気を放っている。
「源さん、なにゅうしょうるん。遠くを眺めて、なにゅう考えとん」
 こわごわと源爺に近づいて、哲矢は言った。
「わりゃ、どこの倅じゃ。なにゅうしに来たんじゃ。早う帰らにゃあ、陽がじきに落ちるぞ」
 源爺は濁った眼を哲矢に向けて言った。
「ぼかあ、漁師の高野の息子でなあ。源さんとこの亜希ちゃんと同級生じゃ。潮干狩りに一緒にきて、もうそろそろ帰ろうと思うとんじゃ」
 源さんの傍に坐って、哲矢は言った。
「わりゃ、運が良かったのう。おとうは支那じゃったろう。よう助かって帰ってきたもんじゃのう。亜希子は不憫な子じゃ。おとうが死んでしもうてのう」
 源爺は視線を宙に泳がせた。
「亜希ちゃんのおとうはどこで死んだん。そのおとうは、源さんの息子じゃろう」
 源爺の顔を見つめて、哲矢が言った。
「そうよ。わしの一人息子で跡継ぎじゃったんじゃ。わしと一緒に漁に出とったけんのう。生きて帰っとりゃ、おめえのとこと同じ漁師じゃ。わしは跡継ぎが死んでしもうて、さっぱり駄目になってのう。身体も心も萎えてしもうてのう、なんもする気がおきんのじゃ」
 鼻を啜って、源爺は言った。
 夕陽が島影に落ちて、西空に浮ぶ雲は鮮やかな紅色に染まっていた。西の島々はシルエットとなって、黒々と浮かび上がっている。
「わしの倅はフィリピンのルソン島じゃ。昭和二十年の一月に、アメリカが上陸してきてのう。春ごろにゃ、もう追いつめられてなあ。倅は敵の陣地への斬り込み隊にさせられてのう。爆薬を身体にくくりつけて、突撃したんじゃ。陣地に突っ込む前に、機関銃でやられてしもうてのう。むごいことじゃ」
 源爺は小石を摑んで、怒ったように沖へ投げた。
 哲矢と猛雄は息を呑んで、源爺の話を聞いていた。
「わしはのう、時々ここへ来るんじゃ。酒を飲んでのう。村のもんは、わしを大酒飲みじゃいうて、相手にせんけえどのう。じゃけえど、酒を飲まずにここへ来られるもんじゃねえ。わしの眼と心は、ここにゃありゃせん。あの四国山脈の彼方、遠いとおい世界じゃ。ルソン島の空の下に倅はまだ眠っとんじゃけえのう。遺骨もまだ還っとらんしのう」
 虚空を見つめるように、源爺は顔を上げた。
「そうじゃったん。哀しいことじゃのう。じゃけえど、源さん。亜希ちゃんも辛い目におうとんじゃけえなあ。雨傘や雨靴がのうて、雨の日にゃ、亜希ちゃんは学校を休んどるんよ。死んだおとうは、きっとあの世で悲しんどるじゃろうなあ」
 恐るおそる哲矢は言った。
「哲ちゃん、そうじゃったんか。雨の日にばあ休むけん、おかしいなあと思ようたんじゃ
 驚いたように哲矢を見つめて、猛雄は言った。
「そうなんか。そりゃ知らんかったのう。雨の日にゃ、頭がいてえ、腹がいてえゆうとったけえ、そうなんじゃろうとばあ、思うとったんじゃ」
 哲矢の顔を見つめて、源爺は言った。
「どうにかならんのかのう。亜希ちゃんが可哀相じゃ」
 猛雄は勢いよく立ち上がって、砂浜を蹴った。
「もうすぐ暗うなるけんのう。気をつけて帰れえよ。まあ、これからも亜希子と仲ようしてやってくれえのう」
 哲矢と猛雄を交互に見ながら、源爺は言った。その時、源爺の濁った眼がかすかに光ったように思えた。
 清志と亜希子は黄昏の浜辺で、アサリを綺麗に洗っていた。清志は腰を伸ばして、
「二人ともなにゅうしょうたん。遅かったのう。あれから、亜希ちゃんとぎょうさん掘ったんじゃから。こりょう見てみい」
 清志はバケツを傾けて見せた。
「悪かったのう。えろう待たしたなあ。清ちゃん、アサリを同じように分けて、バケツに潮を汲んで帰ろうやあ」
 アサリを等分にしながら、猛雄が言った。
「さあ、帰ろうぜ。大漁じゃ。また潮干狩りにこようなあ。亜希ちゃん、どうじゃった」
 振り向いて、哲矢が訊いた。
「うん、とっても楽しかったわ。こんなにアサリを取ったのは初めてよ。アサリの眼も教えて貰ったしね」
 亜希子はそう言って、にっこり笑った。

 潮干狩りから四、五日のちのことであった。哲矢は早く床に就いたが、蒸し暑くてなかなか眠れずにいた。床の中でぐずぐずしていると、外からかすかな音が響いてくる。その気配に耳を澄ますと、それは雨だれの音だった。九州南部はもう梅雨が明けていたが、瀬戸内はまだすっきりしない空模様がつづいていた。
 哲矢は雨の気配に心が塞がれてゆくようだった。潮干狩りでの亜希子の笑顔が甦ってくる。この雨は明日の朝までに止むだろうか。降りつづくようなら、また亜希子の笑顔は曇ってしまうだろう。あの雨漏りのする家で、終日切ない想いで過ごさなければならないのだ。
 源爺はどうしているのだろうか。今も亜希子のおっかあは、蒲団の中に鎌をひそましているのだろうか。もしそうなら、源爺の生き方は赦しがたく醜い、そして憎い、と哲矢は思った。そんな想いをめぐらせているうちに、哲矢はいつのまにか眠りに落ちていた。
 哲矢が目覚めた時、しらじらと夜は明けていた。とっさに耳を澄ませてみたが、やはり雨だれの音が響いている。哲矢は暗澹とした思いに包まれた。
 哲矢は黒い雨傘をさして家を出た。学校へとつづく道を東へ向かって歩いていた。右手には瀬戸の海が広がり、島影は雨にぼうっと霞んでいる。水平線は空と海が溶け合って、鉛色にぼやけていた。
 猛雄と清志の家へ寄って、哲矢は行くことにしていた。猛雄の家は県道から少し坂道を上ったところにあった。猛雄の家は大工をしていて、倉庫には柱や梁の材料が窮屈に立て掛けられていた。哲矢が玄関の前で呼びかけると、猛雄はすぐに玄関から出てきた。
「哲ちゃん、お早う。また雨じゃなあ、よう降ってかなわんのう。亜希子は今日も駄目じゃろうか」
 傘を開きながら、猛雄は言った。
「今日は修学旅行の説明会じゃけんのう。出てくりゃええんじゃが、心配じゃ。猛ちゃん、今年の旅行はどこへ行くんじゃろうか」
 猛雄の傘の中を、哲矢は覗き込んだ。
「哲ちゃん、そりゃもう決まっとるじゃろう。去年とおんなじじゃ。京都の金閣寺と銀閣寺、それに嵐山と清水寺じゃろう」
 自信ありげに猛雄は言った。
「そうじゃろうか。まあぼくらあ、どこでもええんじゃ。修学旅行は旅館が一番楽しい、言うからのう。じゃが亜希ちゃんが心配じゃ。雨具も買うて貰えんのじゃけん、旅行などとても無理じゃのう」
 猛雄の横に並んで、哲矢は不安そうに言った。
 二人は県道に出て、追いかけっこをしたり、水溜りに入って遊んだりしながら、学校に向かっていた。雨は勢いよく降って、止む気配はいっこうになかった。
 ふと前方を見ると、白い雨靴を履き、真っ赤な雨傘をさした少女がいた。哲矢は、はっと息を呑んで立ち尽くした。
 少女は雨傘をくるくると回しながら、跳ねるような軽快なリズムで駈けて行った。厚い雲が垂れ込めて、村は灰色の風景の中に沈み込んでいたが、亜希子の赤い雨傘がきらりと光った。

鬼藤千春の小説 「父の納骨」 中篇

 父の納骨
     鬼藤千春

 道雄はリビングから黄昏の小さな庭を、ぼんやりと見つめていた。部屋の照明がやわらかく届いて、白い水仙の花が浮かび上がっている。風がふいて小さく震えていた。
 夕方になって急に冷え込んで、雪が降りはじめた。雪は音もなくひたすら舞い降りている。水仙の花は降りかかる雪片に向かって、凛と背すじを伸ばしていた。
「もう、よしたら、謙吾さんのところへ行くのは――」
 不意に妻、早苗の声がした。
「……」
 道雄は黙って水仙を見ていた。
「だって、謙吾さんは、直樹や奈津子の結婚式にも出席しなかったのよ」
 早苗はリビングの入口に立って、エプロンで手を拭きながら言った。
「……」
 道雄は早苗の言葉を無視するように、窓の外の雪を見ていた。
「しかも、謙吾さんは去年のお義母さんのお葬式にも顔を出さなかったわ。親戚の人たちは何を言ってるか、あなた知ってるの」
 早苗が詰問するように言った。
「……」
 道雄は黙って唇を噛んだ。
「謙吾は親戚うちの厄介者で、落ちこぼれだって噂してるわよ。だってそうじゃない。親戚に祝い事や病人や死者が出たって、寄りつこうとしないんだもの。わたしが実家に帰ったら、必ず嫌味を言われるわ」
 早苗はいくぶん声を高くして、早口で喋った。
「……」
 分かってるさ、と道雄は心のなかで叫んだが、言葉にならなかった。
 弟の謙吾とうまくゆかなくなったのは、いつからだろう。かれこれ二十年にもなるだろうか。謙吾が女房に逃げられてからのような気がする。
 謙吾は腕のいい大工だった。酒もたしなむ程度で、分別をわきまえていた。ところが女房が外に男をつくり、二人の子どもまで置き去りにして、姿をくらましたのである。
 謙吾の暮らしが一変したのはそれからである。酒と競艇にはまり、仕事も休み勝ちとなり、金にも困るようになった。
 道雄も一度金を貸したが、期限が過ぎてもいっこうに音沙汰がなかった。なのに謙吾は、またも金を無心してきた。道雄はそれをけった。
 すると謙吾は、酔っ払って道雄の家に押しかけてきた。玄関をはじめ家の周りに灯油を撒いて、「火をつけるぞ!」とライターをポケットから取り出し、ちらつかせた。家族の者は驚いて家の中を右往左往するだけだった。だが、母の梅子が玄関のタイルに撒かれた灯油の上に坐り込んで、「さあ、火をつけてわしを焼いておくれ!」と叫んだ。鬼気迫る母の姿に、謙吾も後退りしたのだった。
 それから謙吾は、道雄の家とも親戚とも疎遠になった。親戚付き合いもなくなり、謙吾のよくない噂が、ちらりほらりと聞えてくるだけになっていた。
 行け、と言われれば行かなかったに違いない。が、行くな、と早苗に言われて、迷っていた道雄の心はふんぎりがついた。「行こう、行かなければならない!」と道雄は心のなかで呟いた。道雄はハーフコートを握り締めて、ふりしきる雪の中に飛び出して行った。
 謙吾は、となりの街の市営住宅に独りで住んでいる。車で三十分ばかりのところだった。結婚した頃自分の家をもったが、女房がいなくなって生活が乱れ、家を手放すことになったのである。
 道雄が謙吾の家を訪ねるのは、実に二十年ぶりのことだった。そして、謙吾に会うのはあの灯油事件以来なのである。直樹や奈津子の結婚式の案内や、母の死の報せも電話であった。が、今回はそうはいかない、直接会って謙吾に伝えなければならない、と道雄は心の中で決めたのである。
 車のヘッドライトが闇を裂き、白い雪を照らし出している。その雪が尽きることなく、フロントガラスに吹きつけていた。

 父が死んだのは、あの夜、六十五年前、終戦の年の六月二十九日だった。そう、岡山空襲だった。道雄七歳、謙吾三歳だった。
 道雄は深い眠りに落ちていた。父と母は一階、道雄と謙吾は二階だった。「空襲、空襲じゃあ―」という母の叫び声で、道雄は深い眠りから眼を醒ました。道雄は窓のカーテンを引きちぎるように開けた。窓の外は朱色に染まっていた。ザ、ザ、ザ、ザーという空気を引き裂くような音とパン、パン、パンというような音が聞えてくる。
 階段をバタバタと駆け上ってくる足音とともに、「空襲じゃ、空襲じゃあー」という母の甲高い声がした。謙吾はびっくりして、布団のなかで泣きじゃくっている。母は襖を開けて、「道雄、早う支度をせぇー」といいながら、謙吾にズボンを穿かせ、防空頭巾を被らせた。
 父は謙吾を抱き、母は道雄の手を引いて家を飛び出し、旭川の方に向かって走り出した。道は逃げ惑う人たちでごった返していた。道が燃えている。焼夷弾の破裂で油脂が付着して道が燃えているのだ。道雄たち一家四人はその火を避けながら、旭川の方へ、旭川の方へと逃げていた。
 空は焼夷弾が朱色の光を放ちながら、しだれ柳のように落下している。岡山市街はまさに火の海と化していた。走り抜ける道も熱風が吹きつけている。防火用水に布団を浸して、それを頭から被って走り抜ける人たちを何人もみかけた。
 岡山上空は戦闘機が飛び交い轟音をとどろかせて、焼夷弾をバラバラと落としている。街の家々は炎をまきあげて、メラメラと焼け崩れている。謙吾は父の腕のなかで泣きじゃくりながら、熱風の中を駆け抜けてゆくのだった。道雄は母にぎゅっと左手を摑まれて、父を見失うまいと必死で後を追っている。
 焼夷弾が父の後方で破裂したのが見えた。一瞬のうちに炎が舞い上がり、道が燃えている。道雄と母は、「父ちゃん!」と叫びながら後を追った。父は謙吾を抱きしめたまま道に倒れ、背中は鮮血に染まっていた。母は謙吾を抱き取って道雄に預け、「あ、あなたっ――」と、絹を引き裂くような声で叫んでいる。父は一瞬顔を上げて、「う、う、うっ、――」と呻いたが、がくんと倒れこんでしまった。母は父の顔を抱き上げて、「あ、あなた、あなたっ、しっかりしてぇ、――」と、しばらく叫んでいた。
 母はどこかからリヤカーを借りてきて、父を乗せ大学病院に連れて行った。しかし、父はもう息絶えていた。
 夜明けになって黒い雨が降った。道雄と謙吾、そして母は、逃れていた旭川からその雨の中を大学病院に向かった。街は焼け野が原になっている。旭川の方から岡山駅が見渡せるほどだった。道雄は道すがら、防空壕から足を突き出して死んでいる人や、黒こげになって電信柱に寄りかかっている人や、防火水槽に頭を突っ込んで、動かなくなっている人たちの悲惨さを見たが、不思議と怖いと感じることがなかった。それほどに道雄にとっては、恐怖を突き抜けた光景で言葉にならなかった。が、それはおそらく生涯にわたって、忘れ難い光景となってゆくに違いないのだ。
 翌日、道雄と謙吾、そして母は、親戚の人たちとともに、小高い山の中腹に登って行った。父を土葬にするためである。リヤカーに焼夷弾の破片が食い込んだ父を乗せ、その上にムシロをかけて、岡山市街を通り抜けてゆくのだった。街には赤十字病院、中国銀行、日本銀行、天満屋、岡山郵便局、岡山電話局などのコンクリートの建物が焼け残っているだけで、街はまさに廃墟となっていた。
 山に差しかかったところで、父をリヤカーから降ろし、二本の棒に毛布を張った手作りの担架に乗せた。親戚のおとな四人が棒の端を提げて、つづらおりの山道を汗を噴き出しながら登った。道雄の家の墓地へ着くと、親戚の人たちは、かわるがわるツルハシやスコップで穴を掘ってゆく。父の身体がすっぽりと入るくらいの穴を掘り上げて、みんなは父の遺体に手を合わせた。「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」と唱えてから、父の遺体を穴のなかへ納めた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ。おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 低く抑えたお経が流れてゆく。
 まず最初に母が小さなシャベルで、父の遺体に土をかける。母は嗚咽を洩らしながら、シャベルの震えが止むことはなかった。道雄は溢れそうになる涙を瞳にためて、土をシャベルで掬い、穴の中にそっと注いだ。泣き虫の謙吾はなぜか唇をぎゅっと嚙んで、穴の中を睨み父の遺体に土をかけた。謙吾の土はさらさらと乾いた音がして父の遺体に降り注いだ。それが終わると、親戚の人たちがスコップで穴を埋めていった。
 母は盛り上げた土のうえに、紫陽花の花を数本挿し、線香に火をつけて親戚の人たちに二本ずつ渡していった。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 お経を唱えながら、父の遺体で盛り上がった土に線香を差して、手を合わせた。線香の白い煙はかすかな風に揺れながら、真っ直ぐ昇っていった。線香の匂いがやわらかく包み、遣り切れぬ想いが襲ってきて、道雄は身じろぎもしないで、立ち尽くしていた。

 道雄は市営住宅の駐車場に車を停め、雪の舞う中へ降り立った。地面はうっすらと雪が積もり、天空から静かに雪は舞い降りている。謙吾の家をみると、ひとつの部屋に灯りがぽつんと点っている。
 玄関の鍵は掛かっていなかった。謙吾は上がれとはいわなかった。玄関には、古新聞が乱雑に積まれ、今にも崩れ落ちそうだった。灯油用の赤いポリ容器がふたつ置かれ、玄関は灯油の臭いが充満している。道雄は上がり框に坐って、謙吾の部屋に眼をやった。
 謙吾は電気炬燵に足を突っ込んで、酒を呑んでいた。炬燵の上は新聞や雑誌、カップラーメンが雑然と占領している。謙吾の横には残り少なくなっている一升瓶が、でんと坐っている。観ている様子もないテレビの音が高く響いている。謙吾は道雄を無視して視線を宙に泳がせている。
「なんじゃ、突然、寝込みを襲うようにやってきて――」
 謙吾が不意に振り向いて、高い声を上げた。
道雄をにごった眼で睨んでいた。
「もう、とっくに親戚づきあいは止めてるはずじゃ。おふくろの葬儀にも出なかった俺に、何事じゃ」
 謙吾はコップの酒をぐいと呑んだ。
「それはよくわかっている。が、実はおふくろの一周忌の法要を二週間後の日曜日にするんじゃ。その前に墓石を建立する。その墓に親父の土葬掘りをして、おふくろと一緒にお祀りしてやりたいんじゃ。だから、お前に土葬掘りの手伝いをしてほしいんじゃ。来週の日曜日じゃ、ぜひきてくれんか」
 道雄は框から身を乗り出して、懇願するように言った。
 謙吾は一升瓶を傾けて、コップに酒を注いだ。彼はしばらく沈黙して、酒を舐めるように呑んでいる。
「いまさら静かに眠ってる親父を起こすこともなかろうが――。静かにしてやっとけ。小さいけれども、親父の墓がないわけじゃなし――」
 謙吾は、テレビの画面に視線を投げて言った。
「それに、わしらがすることもなかろうが――。今じゃ、土葬骨上げは、石屋に頼めばやってくれるんじゃ。どうしてもというんなら、そうすりゃええ――」
 謙吾が振り向いた。にごった眼がすわっている。その瞳が刺すように道雄を射る。
「そういうわけにはいかんじゃろう。親父の骨じゃ、わしらが骨上げせにゃならんのじゃ。そうじゃろう」
 身体を少し謙吾の方に寄せて道雄は言った。
「そうしたいんなら、そうしたらええ。じゃが、わしはいかんぞ。勝手にすりゃええ。どうせわしは親戚うちの厄介もんじゃ。わしのことはほっといてくれ。もういい、旨い酒が不味うなってしもうた。もう帰ってくれ」
 謙吾はそう言って、居間のドアを烈しく閉めた。道雄はしばらく玄関に佇んでいたが、そっと玄関の戸を開いて外へ出た。
 雪がやわらかく道雄の身体を包んだ。やはり、早苗のいうとおりだった。謙吾はもう私たち親戚の輪のなかに戻り、寄り添うことはないように道雄は感じた。孤独で淋しい人生を謙吾に感じて、道雄は哀しかった。

 次の日曜日だった。道雄と直樹と早苗、そして、親戚の人たちは、つづら折りの細い道を登っていった。冬の太陽が南の島影から昇り、柔らかい陽が斜めに射し込んでいる。空は蒼く晴れていたが、南の島々はぼんやりと霞んでいた。
 墓地に着くと、つるはしやスコップを片隅に置いて、道雄は線香に火をつけようとした。北風が吹きつけて、ライターの火は幾度となく消え、なかなか線香は燃えなかった。ようやく火がつくと、道雄は一人ひとりに線香を渡した。父の小さな墓石はすでに取り払われている。その墓のあとにみんなは線香を立ててゆくのだった。
 道雄の家の宗旨は、天台宗である。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
 と、まず念仏を七回唱えた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 線香を供えながら、繰り返しお経を唱えてゆくのだった。風に乗ってお経は流されてゆく。
 塩を四隅に盛り、それに酒を注いでひと通りの儀式が終わると、道雄はスコップを手に取った。ここに六十五年前の父が眠っているのを想うと、道雄の気持ちは神妙になってゆくのだった。合掌をして道雄はスコップを父が眠っている場所に突き刺そうとしたが、硬くてなんなく跳ね返された。それを幾度か繰り返したが、まったく歯が立たなかった。
 親戚の人が、
「そりゃ無理じゃ、表土は硬いから、まずつるはしで砕いてからじゃ」
 と、言ってつるはしを振り上げた。
 親戚の人がかわるがわる、つるはしを硬い表土に打ち込んでいった。それを道雄と直樹が掬い取って、掘り下げて行く。一メートルも掘り下げた頃だろうか、
「お父さん、お父さん――」
 と、早苗が声を落として、道雄に声をかけた。
「お父さん、謙吾さんよ、謙吾さんが登ってくるわよ」
 早苗は墓地の下の道を指差しながら、ほら、と言った。
 道雄は穴の中から這い上がって、墓地に連なる細い道に眼をやった。謙吾が俯きかげんに、枯れた雑草を踏んでこちらにやってくる。無精ひげを伸ばした顔はいくぶんやつれたように見える。酒を呑んでいるのだろうか、やや頬は染まっている。
 親戚の人たちは怪訝そうに顔を見合わせている。道雄は内心疎ましい気持ちが芽生えていた。――今頃になって、のこのことやってくるなんて、どんな了見をしているのだろうか、と心の中で呟いていた。道雄はチェッ、と舌打ちをして、草むらに唾を吐いた。
 謙吾の予期せぬ到来で、穴を掘るのが中断させられた。みんなはブルーシートの上で休憩をとることにした。早苗が用意したサンドイッチや菓子が出され、温かいお茶が振舞われた。謙吾は墓地の隅に立って、掘られた穴をじっと眺めていた。唇をぎゅっと硬く結んで、不機嫌そうだった。
「謙さん、まあ、こちらにこられえ。缶コーヒーや茶菓子もあるで――」
 親戚の人が振り向いて、謙吾を呼んだ。謙吾は気難しい顔を崩すこともなく、沈黙したままだった。しばらくして、謙吾はお清めに使った酒をみつけて、それを墓地の隅に持っていった。胡坐を組み、コップに酒を注いで舐めるように呑んでいる。瀬戸内海の方に虚ろな視線を向けて、謙吾は独り酒を呑んでいた。
「マリアナ諸島のティニアン島を飛び立ったB29は、淡路島の南西をかすめ小豆島を経て、旭川の河口方面から岡山市街へ侵入したんだ」
 親戚の人が旭川の河口を指差して言った。
「そうだ、そして、あのクレドビルあたりを攻撃の中心地に定めて、焼夷弾を投下したのだ」
 別の親戚の人が答えた。
「私たちは、戦火の中、大学病院に近い道を旭川に向かって逃げていたんだ。親父が謙吾を抱き、おふくろが私の手を引いていた。親父の近くに焼夷弾が落下して、その破片が親父の背中を裂いたのだ」
 道雄は岡山市街に眼をやって呟いた。
 それを潮に直樹はまた穴の中に入った。もう、つるはしはいらなかった。表土の下の土は比較的掘りやすかった。直樹はスコップで砕いた土を掬い上げて、地上に放り上げた。しばらく掘り進むと、スコップに異物が当たったようだった。直樹が道雄を見上げた。雅道は直樹に上がるようにいって、自分が穴の中に入っていった。
 道雄は慎重に掘り進んで、茶褐色の木の根っこのようなものを掘り出した。それを持ち上げて土を払うと、両端がこぶのように膨らんでいる。
「雅道さん、そりゃ、骨じゃ。大腿骨じゃ」
 親戚の人が、かん高い声を上げた。
 それを受け取った直樹は、ブルーシートに広げた布の上にそっと置いた。道雄はそれから腕や脚部の大きい骨を拾った。が、その他の骨は、もう土に還ってしまっているのか、見つけることはできなかった。六十五年の歳月が思い遣られた。
 道雄は穴の中から這い上がって、みんなで穴を埋めていった。謙吾が見えなくなっていたかと思うと、墓地の下の道をバケツを提げて、登ってくるのが見えた。唇を嚙んで確かな足取りで登ってくる。が、まだ頬は赤く染まっている。
 謙吾はバケツをシートの上まで運んでそっと下ろした。
「謙さん、なんじゃ。この水をどうするんじゃ」
 親戚の人が不審そうに訊いた。
 謙吾は、何も言わなかった。黙ったまま酒瓶を持ってきて、バケツの中に少し注いだ。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は父の骨に向かって、手を合わした。
 謙吾は骨を取り上げて、バケツのなかで骨を洗った。土を洗い落とし、慈しむように優しく骨を洗うのだった。濁った眼がいくらか光を帯びてきた。謙吾は一つひとつ丁寧に骨を洗っている。みんなはそれをそっと見ていた。骨を洗うと謙吾は、早苗の作った晒しの袋に骨を納めた。謙吾は不意に立ち上がって、黙って帰ろうとした。
「謙吾、次の日曜日の母の法要に来てくれ。それが終わったら、父と母の納骨じゃ」
 道雄は帰りかけた謙吾に声をかけた。
「そうじゃのう、まだ、はっきり解からん。行けたら行くわ」
 謙吾は振り向きもせず、山道を下りながら言った。
「謙さんは何を考えとんか、よう解からんのう。母の一周忌の法要と納骨があるというのに、親不孝の奴じゃ。行けたら行く、というのは、だいたい断り文句なんじゃ。もう好きなようにさせとかにゃ仕方なかろう」
 謙吾の背中が小さくなってゆく。その背中を睨みながら親戚の人が言った。
 みんなは、道具や荷物を片付けて山道を下りていった。道雄は父の骨を寺に預けにゆくのだった。

 寒い朝だった。今朝から降り出した小雪が、家々の屋根や地面にうっすらと積もっている。空は低く垂れ込めて、鉛色をしていた。
 母の一周忌である。道雄の家族、親戚の人たちは、祭壇をしつらえた座敷に坐り、住職の来るのを待っていた。行けたら行く、と言っていた謙吾は、まだ来ていなかった。いくらか望みをもっていた道雄は、裏切られたような心持ちで座布団に坐っていた。が、あいつのことだから、ひょっこり顔を出すかも知れない、という気持ちも一方であった。道雄はそんな思いで、家の庭の方を気にしていた。
 やってきたのは、謙吾ではなく住職だった。道雄は迎えに出て、挨拶を交わした。住職は玄関で袈裟に降りかかった雪を払い、座敷に上がってきた。住職は祭壇の前に坐り、ローソクに火を点け香を焚いた。「おつとめ」という小冊子を参列者に渡した。
 父と母の骨壷は、祭壇の上段に安置されていた。今朝早く道雄が寺に行って引き取ってきたのだった。読経は四十五分くらい唱えられた。もう法要は終わろうとしていた。が、やはり謙吾は来なかった。
「やっぱり、謙さんはこなかったのう。あてにゃしてなかったが、でも淋しいのう。次男坊じゃけえのう」
 親戚の人が、道雄にそっと話しかけてきた。
「もうあてにゃできん。親戚付き合いもこれで終わりじゃろう。みなさんに迷惑をかけて申し訳ないことじゃ」
 道雄は恐縮して言った。
 法要も終わり、これから墓地に行って、お墓の開眼供養と納骨である。それぞれ車に分乗して墓地の駐車場まで行った。住職を先頭につづら折りの山道を登っていった。道雄が父の、直樹が母の骨壷を持って、住職のあとに従った。本来なら、謙吾が父の骨を抱いてゆくべきだろう。そうでなければならぬ、と道雄は心の中で呟いていた。
 お墓は三日前に建立したばかりである。この墓にまず父と母が眠るのだった。お墓に花、米、果物、水、線香がお供えされて、開眼供養が始まった。住職が読経を上げ、参列者は神妙に合掌をしている。その時、早苗が道雄のわき腹を腕でつついている。道雄は怪訝そうに早苗を見た。
「あなた、謙吾さんよ。謙吾さんが来るわよ、ほら」
 早苗は墓地につながる山道を振り向いて言った。
 謙吾は普段着で、酒を呑んでいるのか、やはり赤い顔をしていた。下を向いてうっすらと積もった雪を踏み締めながら、謙吾は山道を登ってきていた。
「チェッ、今頃になって、のこのこやってくるなんてどうかしてるよ」
 道雄は舌打ちして呟いた。
 開眼供養が終わり、次は父と母の納骨である。道雄が納骨室の蓋を開いた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ。おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 住職のお経が再び流れ出した。
 小雪が舞う程度だったのに、先程から斜めに雪が吹き付けている。傘もささずにやってきた謙吾の頭は、白く染まっている。
「親父の骨はどっちじゃ。それを貸せ」
 と言って、謙吾は道雄の手から奪うように骨壷を受け取った。
 謙吾は骨壷を経机の上にそっと置き、蓋を取った。骨壷の中の骨は、まるで木の根っこのように茶褐色に染まっていた。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は繰り返し繰り返し、念仏を唱えている。住職も一歩下がって、その様子を見ていた。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は憑かれたように、念仏を唱えた。
 住職はその念仏に合わせるように、鉦を打ち始めた。雪が猛烈に襲ってくる。その中で、念仏と鉦の音が沸き立つように響いた。
 やがて念仏は終わり、謙吾は壷の蓋をしてお墓に納骨しようとして持ち上げた。その時道雄は、壷のなかで骨の鳴る音をかすかに聞いた。謙吾は父の納骨を済ますと、みんなにぴょこんとひとつ頭を下げた。謙吾の濁った眼が紅く染まり、瞳が濡れていた。
 謙吾は黙って立ち去ろうとした。
「謙吾、これから会食をするんじゃ。家へ寄ってくれ」
 道雄は謙吾の背に向かって声をかけた。
 謙吾は首を横に振って、山道を下りて行った。謙吾は吹雪の中をずんずんと進んで行く。
 道雄は、白い雪の中に謙吾が見えなくなるまで、墓地に立ち尽くしていた。

鬼藤千春の小説 「カミソリ」 短編

  カミソリ

            鬼藤 千春

 裏山の枯れ葉がはらはらと舞い落ちる、晩秋のある日のことである。芳雄は床の間があり、仏壇を安置している座敷に、電気ゴタツを出して、そこを書斎とすることにした。
 いつもは二階の東北に位置する、六畳の洋間を書斎として使っているのだが、寒くなってくると、一階の座敷に降りるのである。二階にはパソコンもあって便利なのだが、芳雄は異常な寒がりやなので、コタツを愛用することにしている。石油ストーブよりもコタツのほうが好きなのである。
 コタツは長方形の比較的大きめのものである。書籍や辞書、電気スタンドやラジカセなども置ける大きさが必要なのである。それを芳雄は、部屋の中央に据えつけてみる。晩秋のやわらかい陽射しが斜めに射し込み、コタツの上の書籍を、明るく浮かび上がらせている。
 芳雄は書籍を開いて、近現代日本史に眼を通していた。彼は歴史が好きで、近代国家の成立から今日までの、日本の歩みに興味をもっている。彼は今春、市役所を定年退職となり、耕す田畑もないので、たいていは書斎で過ごしていた。
 が、本に集中しようと試みると、折々に家が軋むのである。まだ新築して十二、三年なので、古くなってというわけでもないが、みしみしというような厭な音がするのである。
 おそらく、木材が収縮したり、弛緩したりする時に発生する音なのであろう。それで、芳雄の集中力は散漫になり、不審に思って、部屋の天井を見上げたり、後ろを振り向いたりするのである。そして、ひと通り部屋を見渡して、正面を向くと仏壇がある。彼は仏壇と対峙するような恰好で、座っているのだった。
 この仏壇には、次兄の恭二が祀られている。恭二はかれこれ三十年前に、三十六歳で他界した。芳雄はその兄嫁と結婚し、恭二の子どもを養子、養女として育ててきた。養子縁組をしたのは双子で、その妹を養女としたわけである。その兄嫁との間には女の子が誕生した。今ではそれぞれが独立し、この家は彼と妻の二人暮らしである。
 恭二は型枠の大工をしていた。滅法酒が強くて、仕事場へいく道中のマイクロバスの中で、朝から酒を呑んでいる。夜にはカラオケスナックへ入り浸って、呑みながら歌い、歌いながら呑んでいた。芳雄も一時期アルバイトで、兄の仕事を手伝ったことがあり、大工の労働の厳しさや、彼等の生活のありようをつぶさに見てきた。
 芳雄は少し離れた街に住み、高校を卒業し市役所の建築課に勤めていた。それでその街に移り住んでいたのである。三十を過ぎていたがまだ独身であった。
 緊急な連絡があったのは深夜だった。急いで帰ったが、その時にはもう恭二は意識がなかった。救急車がやってきたが、病院への搬送も行われなかった。隣町の医院から医師がやってきたが、それは死亡診断書を書くためであった。
 芳雄が家に着いた時には、恭二は蒲団に寝かされ、顔にはすでに白い布が掛けられていた。死亡診断書には、肝臓の衰弱による、と記されていた。恭二は死の直前まで酒を呑んでいたのである。
 秋の長雨で、しばらく仕事が休みということもあって、恭二は終日酒を呑んで過ごしていたに違いない。枕元には一升瓶があったというのだから、急に病勢は悪化したように思われるのだった。
 通夜は翌日行われた。親戚の人たちや町内会の人たちがやってきて、僧侶が読経を唱えた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんどまじーんばら。はらばりたやうむ。
おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 僧侶の低く太い声が、部屋の中に流れていった。
 襖を取り払い二間つづきにしたが、人々は廊下にまで溢れた。三十六歳という若さに、参列者は驚きを隠しきれないようすであった。死を悼んで部屋のあちこちで、人々のささやく声が聞こえていた。
 通夜の看経がようやく終わり、明日は告別式である。町内会の人たちはそれぞれに帰り、親戚の一部の人たちが残った。柩に納まった恭二は、白い経帷子に包まれていた。それだけに、いっそう顔色が青黒く見えた。肝臓を病んでいたためだろう、痛ましい顔色をしていた。
「だれか、剃刀を持ってない? 髭を剃ってやりたいんだけど――」
 親戚の人が柩から顔を上げて、周りを見渡した。親戚の人は数人残っていたが、お互いに顔を見合わせている。
「そうじゃなあ、これじゃいけんわ。綺麗に剃ってやらにゃ」
 他の親戚の人が応えた。
「節ちゃん、剃刀はない?」
 恭二の妻、節子に声をかけた。
 節子は俯いて、ただ嗚咽を洩らしているばかりで、なんの反応も示さなかった。
「これじゃ、可哀相じゃ。なんとかしてやらにゃ――」
 と、また親戚の人が声を上げた。
 しばらく沈黙がつづいた――
 そして、親戚の人はもう何も言わなくなった。親戚の人々はしきみの葉で恭二の唇を、代わるがわる水でしめらせている。
 剃刀はなかった。が、芳雄はショルダーバッグに、電気カミソリをひそませていた。数日泊まる予定で来ていたので、カミソリを準備していたのである。が、彼は沈黙したまま、親戚の人の言葉に、声を上げることはなかった。
 しかし、芳雄は決して平気でいられたわけではない。胸を衝くものがあったし、いつ声を上げようか、と考えないわけではなかったが、いつのまにか遣り過ごしてしまったのである。
 深夜になって、親戚の人たちも一人去り、二人去りして、恭二の兄弟と家族の者だけになった。芳雄はしきみの葉で恭二の唇をしめらせた。彼の顔は青黒く、やはり無精ひげが口の周りや顎に伸びて、見苦しかった。彼はバッグの底のカミソリが頭を過ぎった。しかし、それを彼は取り出そうとはしなかった。
 芳雄は線香とロウソクの火を絶やさぬように、祭壇の前に座っていた。秋彼岸も過ぎた頃で、気候のいい時だった。まだ家の前の田圃の畦には曼殊沙華が咲いている。毒々しいまでに紅い色をしていた。
 今年の夏はとても暑かった。けれど彼岸をすぎて、随分過ごしやすくなっている。彼はそんなしのぎやすい部屋の中で、恭二の遺体の傍に寄り添い、終夜見守るつもりでいた。
 線香の煙はかすかに揺れながら昇っていって、天井をたゆたっている。ロウソクの火は揺らぎながら、ちらちらと懸命に光を放っていた。
 恭二は二男で、長兄と違って勉強嫌いで成績は良くなかったが、人付き合いもよくさっぱりとした気性で、誰にでも愛された。
「恭ちゃん、恭ちゃん――」
 と、呼ばれ、仕事でも地域でも慕われていた。ただ、酒を呑むというより、酒に呑まれるほうだった。だから、それによる失敗の噂は、芳雄の耳にもちらりほらりと聞こえてきていた。
 外がしらじらと明けてきた。しかし、まだ明けきらず、しかも小雨が降っていて薄暗かった。いよいよ、恭二の告別式である。家の中には親族関係の人々でいっぱいになった。友人や知人は庭や道路まで溢れていた。喪服と黒い傘の参列者が家の周りを取り囲んだ。
 家の中では恭二の柩の前で、僧侶が経を唱え、外には焼香台がしつらえられて、次々に香を焚いてゆく参列者が跡を絶たなかった。やがて僧侶の読経も終わり、柩に花や恭二の好きだった釣道具などが納められた。花は柩を埋め尽くし、花の香りが部屋いちめんに漂っている。節子や三人の子どもたちは、柩に取りすがって、慟哭していた。
 が、花に埋もれた恭二の無精ひげは見苦しかった。もう誰もそのことを気にかける人はいなかったけれども、芳雄はそれにこだわっていた。恭二と繋がりの濃い人たちによって柩の蓋が塞がれ、釘が打ち込まれた。そして、柩は霊柩車に運び込まれ、クラクションが長く尾を引いて鳴りひびき、家を後にした。
 霊柩車は火葬場へ向かった。芳雄は長兄と一緒の車に乗り、霊柩車の後を追った。まだ小雨が降っていた。雨は小止みなく静かに降りつづけている。しとしとと降る雨は、死者を送るのにふさわしいように思われた。
 火葬場に着くと、高い煙突からかすかに鉛色をした煙が立ち昇っていた。焼香台の前で僧侶が最後の経を唱え、参列者は手を合わせた。すると、火葬場の係りの人がやってきて、恭二の柩が運ばれていった。
 鉄製の厚くて重い扉が開かれて、恭二の柩は狭い空間に滑り込んでいった。恭二の身体は、まもなく重油の熱い炎に包まれて焼かれるのだろう。無精ひげをはやしたまま恭二は焼かれるのだ。芳雄は胸が痛んだ。
 一時間ばかりのちに、アナウンスがあり親族の人々は、骨拾いにいった。芳雄は長い竹の箸を渡されて、身体の下部の方から順次骨を拾っていった。骨はまだ熱かった。顔面の骨を最後にひろい、頭蓋骨を骨壷の最上部に納めて、骨揚げは終わった。無精ひげは跡形もなく焼かれていた。が、彼はそれで、安堵するわけにはいかなかった。
 やはり、霧のような雨が静かに降っていた。芳雄は長兄の運転する車に乗って、帰途についた。
「ええ葬儀じゃったのう。これで恭二も無事あの世へいけるじゃろう」
 長兄が芳雄をちらっと見て言った。
「いや、そうじゃない。きっと恭二は、心をあとに残して、旅立ったに違いないのだ」
 芳雄は心の中で、呟いた。
 彼は押し黙ったままだった。雨に打たれた窓外の景色に眼をやっていた。景色が後ろへうしろへと飛んでゆくのを、見るともなく見ていた。
「おまえは、冷酷なのか、吝嗇なのか」
 何処かでそんな声がするのを、芳雄は聞いた。
 それは何処かではなく、芳雄の肉体の奥深くから涌き出づるものであった。しかし、彼はその声を容易に受け入れ難く、強く反発していた。
 ――わたしが冷酷? 吝嗇? と、烈しく否定する声があった。が、それなら何故、バッグの中にカミソリをひそめていたのか。そして、恭二の顔にカミソリをあて、死化粧をほどこさなかったのか――
 芳雄は火葬場から恭二の家への帰途、そんな想いにずっと囚われていた。そのうち、長兄の車は恭二の家の駐車場に乗り入れた。

 かれこれ三十年前のできごとに、芳雄の想いは深くからめとられていた。コタツの正面には、仏壇と位牌がひっそりと安置されている。金箔にほどこされた恭二の位牌は、電灯の明かりを受けて、不気味に光っていた。彼はその位牌に、心を射すくらめているように思った。やはり怖くて神妙な心持ちになるのだった。
 芳雄は神も仏も信じているわけではなかった。しかし、亡き人を悼み、亡き人への思い入れは決して小さいものではなかった。遠く霞むような歳月を経ても、彼の心の疼きは消えることがなかった。
 一瞬心を空白にして、本を取り上げ読みはじめるのだが、やはり集中して読みすすむことができない。仏壇と位牌に、鋭く睨まれているような気がするのだった。
 芳雄は歴史書を投げ出して、恭二が眠っている墓地へ出かけることにした。線香とライターを用意し、花屋に寄って純白の菊を求めた。そして、恭二が好きだった酒を忘れないように、間違いなく酒屋にも立ち寄った。
 墓地は龍城院が檀家のために造成したものだった。本堂の南にそれは広がっていた。さまざまな形や大きさの墓石が、墓地を埋め尽くしていた。晩秋で、すでに紅葉は終わったところもあったが、寺の周辺の紅葉は見ごろだった。木々は真紅や黄色に色づき、晩秋のやわらかい陽射しを受けて輝いていた。
 芳雄は恭二の眠っている、墓の納骨室の蓋をあけ、腰を折って中を覗いた。納骨室の中はやや湿っており、蜘蛛が巣を張っていた。恭二の骨壷は納骨室の右隅に、ひっそりと納められていた。白磁の骨壷が陽射しを受けてキラリと光った。
 芳雄は蜘蛛の巣を払って、恭二の骨壷を取り出した。蓋をとると、水が中ほどまで溜まっていた。骨壷はたいてい結露によって水が溜まる、ということを彼は耳にしていた。彼は骨をこぼさないように、左手で骨を押さえながら、骨壷を傾けて水を流した。
 骨壷を元の位置に戻し、納骨室の蓋をした。花や酒を供えて、芳雄は線香に火を点けた。線香の煙はたゆたいながら真っ直ぐ昇り、途中から風に吹かれて、横に流されてゆくのだった。
「かんじーざいぼーさつ。ぎょうじんはんにゃーはーらーみったじー。しょうけんごううんかいくう。どーいっさいくーやく。しゃーりーしー。しきふーいーくう。くうふーいーしきそくぜーくう……」
 芳雄は繰り返し繰り返し、懺悔するような思いで般若心経を唱えた。
 彼は墓参りを終え、帰途についた。車を運転しながら、少しだけほっとするような気持ちを覚えた。が、芳雄の心から、カミソリへのわだかまりは消えることがないだろう、と思われた。
 ――わたしは、冷酷で冷淡だった。剃刀の、鋭く尖った冷たい刃のように――
 そんな想いが涌いてきて、芳雄は思わず身震いをした。

鬼藤千春の小説 「握手」 掌編

   握手
             鬼藤千春

 ゆったりと流れる川の音が響いている。慶三はその音で目覚めた。陽はもう高く昇っているらしく、部屋の中は青く染まっている。
 啓蟄を迎えたというのに、昨夜も寒かった。慶三は身体に新聞紙を巻きつけ、寝袋の中にもぐり込んで寝たが、寒くて何度も目が覚めた。彼は蓑虫が袋から出るように、寝袋を脱ぎ捨てた。が、血圧が高いのか、すぐに立ち上がることができなかった。
 慶三は河川敷にブルーシートを張って、ネグラを作っていた。ここに住むようになったのは昨秋からだ。まもなく半年になる。決して住み心地は悪くなかったが、このままでは駄目だ、という思いがふつふつと、湧いてくるようになった。
 彼はダンボール箱の上のチラシを掴んだ。それを広げて見ると、生活相談会の案内が記されている。慶三はこれからそこへ出かける予定にしていた。相談会場は、「生活と健康を守る会」の事務所になっている。このチラシは、ホームレスの仲間から貰ったものだ。
 こんなところに引っ込んで、川を眺めながら、川の音を聴きながら暮らしてきて、しばらくシャバの空気に触れていない。少し気後れがしないでもない。「生健会」の素姓も分からない。が、落ちるところまで落ちているのだから、もう怖いものは何もない。失うべきものは何もないのだ。
 「生健会」は貧相な建物だった。安アパートのような事務所だった。「いらっしゃい、さあどうぞこちらへ」と言って、真ん中にテーブルを据え付けた、四畳半くらいの部屋に通された。五十代くらいの女性がにっこり笑って名刺を差し出した。慶三と同世代の女性のように思えた。名刺には、三浦紗知子と印字されていた。
「どうなされました? お身体の方は大丈夫ですか。痛むというようなところはないですか」
 三浦はおだやかな声で訊いた。
「うーん、別に悪いところはないんですが、血圧が二百を超えて、朝目覚めても立てないことが、時々あるんです」
 座り心地が悪そうに、慶三はもじもじと答えた。
「そうですか。血圧がねえ、それは大変ですね。ところでどこにお住まいですか」
 三浦は微笑みながら言った。
「……」
 慶三は、即座に答えることができなかった。
「……あ、あのう、河川敷です」
 慶三は俯いたまま、小さな声を出した。
「河川敷? じゃ、路上生活ですか」
 三浦は驚いたように声を挙げた。
「みんなは、ホームレスといいます。もうそれが厭になったんです。それで相談にやってきました」
 慶三は三浦の瞳を見て言った。
「千原さんといいましたね。河川敷で暮らすようになったいきさつを、教えて貰えませんか」
 三浦は真剣な眼差しで、慶三を見た。
「……でも、それは私の恥ですからね。……しかし、それを話さなければ相談になりませんね」
 大きな溜め息を、慶三はついた。
「私は小さな町で電器店をやっていたんです。が、ご存知のように、家電量販店が次から次に街にできて、みんなそちらへ流れるようになったんです。それで店が立ち行かなくなったんです」
 慶三は一息ついて、湯呑みのお茶を飲んだ。
「借金があったものですから、家と店を手放したんです。女房とは争いが絶えず離婚しました。二人の子どもはそれぞれ独立しています。それで私は死に場所を求めて、いろんなところを彷徨いましたが、死に切れずに、今の河川敷に落ち着いたのです」
 慶三は、そこまで話して眼を宙に泳がせた。
「そうですか。それは大変でしたね。千原さん、あなたは血圧が高いようですが、働けますか。働けるようなら、無理のない仕事を捜しましょう。まず、住居を確保することです。五十六歳ですか。多分非正規の働き口しかないと思います。それで賃金が低いようなら、不足分だけ、生活保護費を受けるようにしましょう」
 三浦は、机に両肘をついて身を乗り出してきた。
 慶三は明日、三浦と福祉事務所へ行くことを約束して、相談会場を後にした。彼は死に場所を求め、山や海を彷徨って、二度自殺未遂をしていた。死に切れなかったのだ。血圧は高いけれど、まだ働けないということはない。
「千原さん。人生をやり直すのに、遅いということはないのよ。必ず人生はやり直せるんですよ」
 三浦は、白いふっくらした右手を差し出した。
 慶三も右手をそうっと伸ばした。三浦はぎゅっと握って左手で包んだ。彼女の手は柔らかくて、温かかった。

鬼藤千春の小説 「失踪」 掌編

   失踪
              鬼藤千春

 西の空が茜色に染まっている。晩秋の落日である。紘一は民商の商工新聞を、班長の家に数部ずつおろして回っていた。車に乗り込もうとした時、携帯が鳴った。
「三沢君、大変じゃ。梅村さんが――。まあいい、話はあとじゃ。すぐ帰ってくれんか」
 事務局長が、早口で喋った。
「あ、あの、事務局長。梅村さんに何かあったんですか」
 おうむ返しに、紘一は訊いた。
「電話では、話せん。とにかく帰ってくれ」
 事務局長は一方的に電話を切った。
 紘一は渋滞した道を、苛々しながら走った。
「おう、三沢君。待ってたんじゃ。梅村さんの行方が分からん。支部長が知らせにきてくれたんじゃ」
 紘一が事務所に着くなり、事務局長は慌てたようすで言った。
「三沢君、これから支部長と一緒に、梅村さんの家に行ってくれんか」
 事務局長は、振り向いて支部長を見た。
 支部長はソファに座って、神妙な顔つきをしていた。彼は電器店を営みながら、支部長を引き受けていた。紘一は支部長を乗せて、慌しく事務所を出た。
 梅村さんは、一カ月ほど前に税務調査を受けた。任意調査であるにもかかわらず、家の事務室に上がりこんで、帳簿類を持ち帰ったのだ。その時、梅村さんはいなくて奥さんだけだった。気が動転した奥さんは、なすすべもなく、立ち竦んでいたという。翌日、梅村さんは支部の仲間と一緒に、税務署へ抗議に行ったが、面会は叶わなかった。
「奥さんの話では、おとといの晩から家に帰っていないそうじゃ。捜索願いは、わしが午後に行って、それからじゃ」
 支部長は助手席で腕を組んで、おもむろに言った。
 梅村さんには、その後過大な追徴税額が提示されたが、それを納める金がなかった。何回か督促状がきたが、電話で何回も待ってくれるように頼んだ。しかし、税務署は容赦しなかった。ついに、売掛金を差し押さえてしまったのだ。
「支部長、売掛金を押さえるというのは、無茶じゃ。従業員の給料や外注費が払えんじゃろう」
 助手席をちらっと一瞥して、紘一は言った。
「そうじゃ。本人も従業員も取引先も、お手上げじゃ」
 支部長は紅く染まった空を、睨みつけていた。
 梅村さんの家に着くと、奥さんが座卓の前に座り、青ざめていた。
「奥さん、何か手がかりになるようなものはありませんか。親戚や友人には連絡を取られましたか」
 紘一は座卓に近づいて言った。
 奥さんは、魂が抜けたように、ぼんやりしていた。虚ろな眼を宙に泳がせている。
「いろんなところに電話をかけてみたんですが、消息は分かりません。主人は今どこで何をしているんでしょうか。心配で眠れません」
 紘一の方に視線を投げて、奥さんは言った。
「そうそう、三沢さん。主人の机の上に書き置きがあるんですよ」
 奥さんは、立ち上がって事務室の方に行った。
 ――許してくれ。売掛金を差し押さえられたんじゃ、どうにもならん。心配せんでもいい。わしはちょっと出かけてくる。
 紘一は、走り書きされた便箋を、食い入るように見つめていた。サインペンで書かれたその字は乱れている。梅村さんの心の有りようが、はっきり示されていた。
「まず、梅村さんを捜し出すことが先決です。それには、奥さんが気をしっかり持つことが必要です。私たちも協力します」
 奥さんを覗き込んで、紘一は言った。
「主人は帰ってくるでしょうか。それが心配でなりません。いくらか金は持って出たようですが、着の身着のままです」
 奥さんは、目頭をハンカチで押さえていた。
「奥さん、近いうちに、売掛金の差し押さえ解除の交渉を、税務署とやりましょう。中央支部としても、全力で取り組みます」
 紘一は膝を前に進めて、声をかけた。
「みなさんにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 奥さんは、気を取り直したように、声を挙げた。
「奥さん、心配するこたあねえ。わしらがついとるんじゃから、ご主人がおらん間は、奥さんががんばらにゃ」
 支部長が、包み込むように励ました。
 陽がすっかり落ちて、街は闇に溶け込んでいた。紘一は、きっ、とフロントガラス前面の光景を睨んで、心がたぎってくるのを感じていた。

鬼藤千春の小説 「ブラウス」 掌編

   ブラウス
              鬼藤千春

 修二は駅に近い線路ぎわに建つ、二階建てのアパートに住んでいた。六畳ひと間と、一畳くらいの狭いキッチンがついている。
 修二は窓を開けて、駅の方に眼を走らせた。プラットホームには小さい人の影が動いていた。あの中に亜希子もいる筈だ。彼女はこれから郷里へ旅立つのだ。
 亜希子は小学校の教師をしていた。彼女は修二と別れるために、転勤届けを出したのだ。それが受理されて、まもなく来る列車に乗って、修二のもとから去ってゆくのだ。
 亜希子に会ったのは、彼女が大学を卒業して、この街の小学校に赴任になってからだった。修二はこの街で、建築会社の現場監督をしていた。そして、青年運動や文化活動をしていたのだ。彼女も大学で青年運動をしていて、それで彼女に会ったのだ。
 この街にやってきた亜希子は、すぐに青年運動に加わった。彼女は高校生の担当になって、勉学や活動の相談に乗る役目をおっていた。修二は地区の役員をしていたから、ときどき彼女に会って、運動の進め方などを話し合ってきたのだ。
「亜希ちゃん、高校生班の名前をつけようか。みんなと相談してみてくれないか」
 修二は亜希子を、自転車で送りながら言った。
 亜希子は修二の肩に片手をかけていた。彼は自転車のペダルを踏んで、星明りの中を進んだ。
「修二さん、みんなで考えてもうつけたんよ。高校生は三年で卒業するでしょ。だからね、その活動が絶えないようにと、火種という名前にしたのよ」
 肩にかけた手に力を込めて、亜希子は言った。
「火種か? ちょっと古臭いけど、うーん、それいいかもな」
 後ろを振り向いて、修二は言った。
「いいかもな、じゃないでしょ。もう決めちゃったんだから。それいいな、でしょ」
 亜希子は肩にかけていた手で、ぽんと修二の背中を叩いた。
 その日修二は彼女の部屋に上がって、コーヒーを淹れてもらった。このようにして、ふたりはアパートへのゆききが始まったのだ。
 亜希子のワンルーム・マンションには、もちろん風呂があったが、修二のところにはなかった。それで、夜亜希子が来ると、一緒にちょっと洒落た、近代的な浴場へ行くのだ。タオルと着替えを持って、横丁の路地をすりぬけて行った。帰るとき、亜希子の髪はシャンプーで匂い立っていた。その頭を彼女は修二の左腕に押し付けてくるのだった。
 そんな日々が少しつづいてきたとき、ふたりの間に結婚の話が持ち上がった。しかし、亜希子の両親は猛反対だった。
「拝み屋さんに、相性をみてもらったら、凶相が出ているというんじゃ。北条さん、この話はなかったことに、してもらいたいんじゃ」
 遠くから父親が出てきて、そう言った。
「拝み屋? 凶相?」
 修二は首をかしげた。
「そうじゃ、拝み屋じゃ。拝み屋を莫迦にしちゃいかんよ。ここの占いはよう当たるんじゃ」
 父親は修二を睨んで言った。
「この時代に、占いですか?」
 修二はいくぶん怒ったように言った。
「あなたと論じ合うために、来たんじゃない。とにかく、もう終わりにしてもらいたいんじゃ」
 父親はそう言い放つと、そそくさと帰っていった。
 修二は、決して拝み屋の占いだけが原因だとは思わなかった。学歴や家柄のこともないとはいえなかった。それは想像に難くなかった。亜希子は両親の猛反対に、ずいぶん動揺していた。修二も優柔不断だった。亜希子はやけぎみに結婚したい、と洩らしていたが、修二は曖昧な返事しかできなかった。
 修二は結婚に踏み切ることに、畏れをいだいていた。ずいぶん弱気になってしまった。それからふたりの間に、しだいに亀裂ができていった。そして、しばらくしてふたりは別れたのだ。
 駅にオレンジとグリーンに彩色された列車が、滑り込んできた。列車から乗客が吐き出され、人々が乗るようすが遠くに霞んでみえた。列車がゆっくり動きだして、修二のアパートの前を差し掛かった。修二はその列車を凝視していた。すると、出入り口に立った亜希子の姿が見えた。彼女は唇を噛んで、しきりに手を振っている。列車はアパートを震わせて、修二の前を通りすぎていった。
 修二は列車が消えるまで、その後を追っていた。亜希子は遠くへ去っていった。ふと、柔らかい匂いが立ち昇っていることに、修二は気づいた。振り向くと、白木蓮が純白の花々を開いているのだった。じっと見つめていると、純白の花びらが、ひとひら舞い落ちていった。
 修二は窓を閉めて、部屋を見渡した。白木蓮と同じような、純白のブラウスが鴨居に掛かっていた。北の窓からは花冷えの風が舞い込んでいる。
 亜希子のブラウスは、かすかに揺れていた。

鬼藤千春の小説 「供物」 掌編

   供 物
        鬼藤千春


 空は青く澄み渡っていた。そして、高かった。刷毛をさっと撫でたような白い雲が、空に貼りついていた。
 恭平は駐車場に車を停めて、寺院の山門をくぐり、本堂の前まで進んで行った。本堂の鉛色をした瓦は、秋の陽を斜めに受けて光っていた。彼は深く頭を下げて手のひらを合わせ、念仏を唱えた。
 境内の前には、墓苑が広がっていた。恭平は山門へ戻って、墓苑の方へと向かった。父の眠っている墓は、山門からゆるやかな坂道を上り詰めたところにある。
 恭平は滅多に墓参りをするということがなかった。盆と正月、春と秋の年四回の墓参も怪しいものだった。が、彼は今日、心が動いてやってきたのである。
 恭平の足を寺院に向かわせたのは、昨日、十月三十一日に、六十三歳で定年退職したからである。仕事の第一線から離れ、これから後半生を生きてゆくある種の、けじめにしたいと思ったのだ。
 後半生をどう生きてゆくかということを、還暦の前後から折々に考えてきた。彼は後半生を、「健康で文化的な生活」にしてゆきたいと願っていた。その新たな始まりの日に父の墓参にきたのである。
 父が死んだのは、終戦の年の前年であった。フィリピンのルソン島へ向かう輸送船が、米軍の潜水艦によって撃沈されたのである。ルソンの瑠璃色の海に父は沈み、遺骨も遺品も還ることはなかった。
 今も父の骨は、ルソンの海の波に洗われているのだった。恭平は寺院にくる前に、瀬戸の海へでかけて潮を汲んできた。そして、花屋に寄って、シキミと純白の菊を買ってきたのだった。
 父の墓の周りの雑草を残さず引き抜き、恭平は熊手でならした。そして、塩を撒いて墓地を清めた。墓石をタオルで拭き、汚れを落としていった。墓石は陽射しをはねかえして、鋭く光っていた。
 墓石の花立にシキミと真っ白な菊を、恭平は挿し込んでいった。そして、ポリ容器に汲んできた潮を湯呑みにたっぷりと注ぎ、父の墓に供えた。ルソンの海と瀬戸の海はつながっていて、父の骨を洗った潮だと彼は信じていた。不意に風が舞って、湯呑みの潮がかすかに波立った。
 恭平は火を点け、香炉に線香を挿した。白い煙が、気持ちを静めるような匂いを放ち、揺らめきながら昇っていった。彼は墓の前にしゃがみこんで、遠い海の果ての、父に想いを馳せて祈りを捧げた。
 そのとき、正午を告げる寺院の鐘が、高く、低く鳴った。

鬼藤千春の小説 「捜し物」 短編

  捜し物
              鬼藤千春

 立秋は過ぎていたけれど、炎暑の日だった。
道々、灼けつく陽射しを避けながら、恭平は岡山市へ出かけた。映画「悪人」を観るためだ。
 ビルの日蔭を見つけては小走りを繰り返して、映画館のエントランスへ入った。冷やされた心地よい風が恭平の身体を包み込んだ。上映までにはしばらくの時間があった。彼はチケットを求めて、ホールの椅子に腰を掛け、ちらほらする人影をぼんやりと眺めていた。
 一瞬、恭平の胸が騒いだ。椅子の前をよぎっていったのが、布由子のように思えたからだ。鼻梁が高く、眼が青みを帯びているように見えた。視線を走らせてあとを追ったが、人込みにまぎれて見失ってしまった。しかし、彼は椅子を立ち上がってゆく勇気を持ち合わせてはいなかった。
 布由子と別れたのは、もう三十五年も前のことだ。線路のほとりに建つ、六畳一間の二階建てアパートから、彼女の乗った電車を見送ったのである。
「煙草ひと箱も溶かして飲むなんて、何を考えているの。もう私は知らない――」
 青みを帯びた眼をうるませて、布由子は言った。そして、彼女は階段をけたたましく駆け下りて行ったのである。
 人生の前途に絶望し、恭平は急須に煙草を溶かして飲んだのだ。が、彼は深夜にそのほとんどを吐き出して、一命を取り留めたのである。布由子はその朝アパートへやってきて、立ち竦んでいた。彼女の乗った電車は、線路脇の赤いコスモスを揺らして、岡山市へ去って行った。
 布由子からは、いくつかのプレゼントを貰ったが、最も心に残っているのは、栞だった。彼女が教員の研修で京都へ赴いたときに、土産として買って帰ったものだ。その栞は人形で出来ており、緋色や藍色の着物を身にまとった、愛らしいものだった。恭平は文学書や哲学書に挟んで愛用していた。
 「悪人」が終わって、会場の照明がともされた。恭平は後ろの席に坐っていたので、立ち上がって会場を見回した。彼は退場する列に並び、少しずつ前に進みながら、前を覗いたり振り返ったりして、彼女を見つけようと懸命だった。が、ホールで見かけた布由子らしき人物は見当たらなかった。恭平の心に、もの淋しさがふっと忍びこんできた。
 家へ帰って、恭平は書斎に入り机の抽斗を開け、布由子の栞を捜そうと思った。乱雑きわまりない抽斗は、容易に手がつけられそうになかった。が、抽斗をはずし机の上に置いて、中の物をひとつずつ調べていった。上部の平たい抽斗と右側の三段の抽斗を片付け、脇机の抽斗も調べた。
 しかし、栞を見つけることはできなかった。脇机の抽斗の底には、布由子の手紙や写真が入っている筈だった。それを捜しているうちに、記憶が甦ってきた。家を建て替えた折り机を片付けて、手紙や写真を焼いたのを思い出したのである。
 布由子は恭平が初めて深く愛した女だった。彼が二十七歳、彼女が二十五歳だった。彼はその手紙と写真を暮れなずむ庭で焼いたのである。その炎は赤く燃え上がるのではなく、死骸を焼く時のような青白い炎が、風に揺れて立ち昇っていた。
 恭平は煙草から搾り取った汁を飲んで、布由子を裏切ろうとしたのだ。が、死の淵から生還した折り、彼は布由子から手厳しい答えを突きつけられた。逆に恭平は布由子から捨てられたのである。
 まだ、布由子を深く愛していたのだ。けれど、その未練を断ち切るために、手紙と写真を焼いたのである。が、青白い炎は、恭平の心のわだかまりそのものだったに違いない。その炎は不安定に大きく揺れながら、燃えていた。
 机の抽斗に栞はなかった。が、恭平はそれで諦めるということはなかった。抽斗の中にないのだったら、本棚にあるかも知れない。新築した家には比較的新しい本ばかりである。もしあるとすれば、実家の誰も住んでいない二階の部屋に違いない。古い本はその部屋に持ち込んでいるのである。
 恭平は陽の射さぬ薄暗い階段を上っていった。踊り場に立って、彼は引き戸の前で一瞬とまどった。この部屋は高校生まで彼が暮らしたところである。ここには愉しい思い出などなく、思春期の悩みのつまった修羅の世界なのだった。
 引き戸を開いて部屋を覗き込むと、小さな窓から弱い夕暮れの光が射し込んでいた。眼が慣れるまでに、しばらくの時間が必要だった。六畳間の部屋に図書館の書架のように、本棚がぎっしり並んでいた。恭平は部屋に入って、一つひとつの本棚を調べていった。
 本を引き出すたびに、降り積もった灰色のほこりが舞い上がってゆくのだった。一つ、二つ、三つと本棚を調べていったけれど、栞は見つからない。
 ――今さら、布由子の栞を捜し出してどうしようというのだろうか。どうなるものでもないではないか。手紙と写真を焼いた折り、彼女への未練は断ち切ったのではなかったのか。
 そんな思いで最後の本棚の前に立った。その棚には世界文学全集が整然と並べられていた。上段から下段まで眼を走らせていったけれど、それらしきものは見当たらない。恭平は自身の好んだ作家の本を引き出していった。ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキーなどを手にとって、ぱらぱらと頁をめくっていった。が、栞は挟まれていなかった。
 恭平はトルストイの本を引き出した。ほこりが舞い上がって、彼は思わず口を押さえた。本を繰ると「アンナ・カレーニナ」の頁が、思いがけず開かれた。
 ――幸福の家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである――
 冒頭部分のその言葉が甦ってきた。恭平はその言葉が好きだったし、なるほど現実生活の在りようは、その通りだと思われた。
 恭平は頁を少し繰ってみた。四、五頁めくると、彼はその頁に釘づけになった。布由子の栞が挟まれていたのである。
 手にとって見ると、緋色の着物をまとった人形の栞は色褪せていたが、薄暗い空間の中で、その顔はかすかに微笑んで、恭平を見つめていた。
 恭平はその布由子の優しい心を、裏切ったのである。彼は暗い部屋の中で、呆然と立ち尽くしていた。

夢日記 「堺市長選挙」

‘13(H25)年9月29日(日)晴れ

『しんぶん赤旗』TOPニュース
ASEANの経験を北東アジアに
志位委員長、インドネシア副首相と会談

大阪府堺市長選挙の投開票日だ。現職の竹山候補と維新の会の候補との一騎打ちである。中盤の選挙情勢では、竹山候補の優勢が伝えられているが、選挙はフタをあけてみるまで分からない。このたたかいは、大阪都構想をすすめるのか、また堺市の自治を守るのかが問われている選挙である。世論調査での維新の支持率は16%といわれている。全国的な支持率が5%前後に比べて、この数字はやはり高い。やはり維新の会は大阪を本拠地にしていることが分かる。そういう中で、維新の会の候補を完膚なきまでに抑えて、堺を守るという竹山候補の勝利を願うものである。この勝利は、ここ堺だけのものではなく、全国的な維新の会の凋落ぶりを示すものとなる。私としては、圧倒的な大差をつけて維新の会を打ち破ることを願っている。

鬼藤千春の批評 「麦秋」

秀作・有坂初江「麦秋」を読む  鬼藤千春
2007年1月「まがね」第45号
 キッチンでガラスコップの曇りを磨いていると、次子の背後で電話が鳴った。夫の久が受話器をとり、「やめたんか」という声が聞こえてきた。長男の克人からの電話だった。
 「克人がまた仕事を辞めたそうや。次の仕事は、決めとるそうや」と久が言った。「14年間に、4へん目の失業や」、「どうなっとんかなあ」
 克人は高等専門学校電子工学科を卒業し、東京のソフトウェア会社に就職した。現在33歳で独身である。
 次子は15年前の今頃、克人が就職試験を受けたことを思い出していた。田んぼが麦秋の季節を迎えている頃だった。
 「面接の時、父親が勤める会社の名前を訊かれたんや。父ちゃんが共産党員やということが分かったら、内定しても取り消しになるかも分からん」
 「今頃でも、そんなことあるんかな」
 「あるんだよ。父ちゃんも母ちゃんも甘すぎるんだよ。内定が取り消されるようなことにでもなったら、恨んでやる」
 「父ちゃんが何をしたというの。組合の大会でいつも発言することが、そんなに嫌われねばならないことなの」
 「そんな理屈、聞きとうない。あんたたちには、子どもの幸せを願う気持ちがないんか」
 克人は大学へ行きたいという希望を持っていた。しかし、中学校卒の共産党員の父親と、パートパートを繋ぐようにして働いている母親だった。3人の子どもが皆大学へ進学できるなんて、夢でも無理だと思い至ったようだった。大学進学の夢を絶たれ、希望する就職先の夢まで絶たれてたまるかという苛立ちが、そうした言葉を発しているのではないかと次子は思った。
 しかし、就職の内定取り消しということはなく、無事就職できた。が、克人は最初の就職先を4年で辞めた。〈長時間労働がたまらん〉と克人は言った。てもいいが、次子にはその実態がよく分からない。しかし、克人をとおして、あまりにも過酷な職場が多い、ということだけは分かっていた。
 電話があった2日後に克人は丸亀の実家に帰ってきた。克人は2階に荷物を置いて1階に下りてきた。「おやっさんは」と訊いた。久は他家の掃除にバイトに出かけているのだった。次子も一緒にいくところだったけど、克人が帰って来るというので、待っていたのだった。
 「あんさんたちは、そんなことまでしよりますんか」
 「年金は削られるし、健康保険、税金などの支払いも、大変なんよ。年金で足りないのなら、働けってことでしょうね」
 翌朝、克人は山に登ってくると言った。「香川県の山」という本を持っており、彼は出かけていった。次子は部屋の掃除でもしてやろうと思って、2階へ上がった。布団も上げており、思ったより片付いていた。次子は部屋の隅に2つの瓶を見つけた。ひとつはサプリメントの茶色い瓶と、もうひとつは白い錠剤の入った瓶である。
 白い錠剤は胃薬である。33歳という若さで胃が悪いのだ。医者に行くと、不規則な労働が原因だと言われたそうだ。次子は掃除の手を休め、その場に座り込んだ。克人の、きつい労働と生活ぶりが透けてくる気がした。働きながら命を削られている。克人が4回も仕事を辞めたのは、自分でブレーキをかけたということなのかと次子は考えていた。
 翌朝、克人はまた東京へと旅立って行った。麦刈りはもう終わっていた。次子は、麦秋の光景に、克人の自立する日を重ねて、想像した日があったことをまた思い出していた。

 これは、2007年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。共産党員を父親にもつ息子の生き方を掬いとった佳作である。貧しくも慎ましく暮らす共産党員家族の在りようを描くとともに、息子を通して生き難い社会と時代の相を写し取っている。何よりも主人公次子の、息子に注ぐ眼差しが温かくて、しかもその視座は広くて深いところが優れている。

鬼藤千春の批評 「遠ざかる灯」

秀作・諸山立「遠ざかる灯」を読む  鬼藤千春
2003年10月「まがね」第40号
 20年ぶりの中学校同窓会が2週間後にせまっていた。直樹が洗顔をすませて部屋に戻るとき、脈がとんだのが判った。朝食のとき、妻に脈のとんだことを言った。「気にしすぎよ」と、頭からとり合ってくれない。
 この夫婦の会話が軽妙で面白い。
 「死ぬかと思うから、心配になるのよ。死んでもいいと思っておれば、別に恐れることないんじゃない」
 「その、死んでもいいと思えんから問題なんだ。そんなに簡単なことじゃあない」直樹は台所で食器を洗っている妻の背を睨みつけた。
 「死んでもいいんじゃあない? もう俺は役目が済んだって、自分でいつも言ってるじゃないの。それに、これから大仕事を始める訳でもないでしょう」
 「それだったら、お前も同じじゃないか。お前、死んでもいいと思っているのか?」
 「私? 私はあなたより若いもん。まだまだ死ねないわ」と言い、
 死ねない理由は? 「それはねえ、あなたのこと。私がいなかったら、あなた独りで生きていけないじゃない」
 今回の同窓会は北陸の海沿いの温泉で開かれる。その不安が脈をとばしているのかも知れないし、何かの悪い兆候かも知れぬ、と思った。
 同窓会は盛会だった。50年ぶりという初参加者が7人もいた。直樹は、病院で24時間心電図までとった。が、どこも悪くないという診断と、軽い精神安定剤をもらった。とくに身体の変調はみられなかった。
 宴会をお開きにして、会場をラウンジに移して2次会が盛り上がっている時、妻から電話があった。「あのね、町内の小西さんが亡くなられたの。夕方に気分が悪いと言ってご飯も食べずに横になったというの。それで――そのままってことらしい」
 直樹はラウンジへ戻ったが、急に気持ちが冷えて仲間たちと一緒には騒げなくなった。〈こんな時に――いやな電話だ。朝すればよいものを〉妻を恨んだ。トッと脈がとんだ気がした。脈拍を計ってみたが異常はない。が、不安がどっと押し寄せてきて、心を締めつける。
 安定剤をとりに部屋に戻ろうと立ち上がった。ラウンジの入口で理子に出会った。中学生のとき、好意を寄せていた女性だ。横をすり抜けようとしたが、腕をしっかり掴まれた。少し酔っているようだ。
 「どこにいたのよ。ちっとも話をしてないじゃないの」
 「やめろ。部屋に用があるんだから」
 「あら酔ったの? 苦しいの? だったら部屋に行こう。私介抱するから」
 理子は結局部屋までついてきた。
 「大事にしてよね。1人じゃ不安でしょ。私少しの間、傍にいるから横になったら」理子は手を引いてソファに座らせた。母親が病気の子どもの世話をやくような感じだ。
 「理子、お前宴会ですごくはしゃいでいたから、幸せいっぱいというところなんだろうな」
 「はしゃいでいるように見えた? 自然にしとこうと思ってたんだけど、だめねえ。知らないうちに突っ張ってたのね、私」
 「主人が死んじゃったの、春。まだ半年にもならないの。誰にも言ってないからみんな知らないわ。だから、直ちゃん。奥さん大事にしてよ。生きているっていうことが、どれだけ大事で、素晴らしいことかって。生きていてほしかった」理子は何か宣言でもするようにきっぱりと言った。
 習慣とはおそろしいもので、翌朝5時半きっかりにいつものように目が覚めた。吉沢と2人、11階の部屋に戻ったのは1時を過ぎていたように思う。身を起こし、枕許の水差しの水をゴクゴクと飲んだ。
 「起きたのか」吉沢が声をかける。暫く2人は蒲団に入ったまま、暗いなかで『死』について言葉を交わした。それは、直樹が小西さんの死亡のことを話してから、自然にそういう流れになった。自分たちはあと何年永らえるのだろうかと、2人とも長いため息をついた。
 「俺はもう、いつ死んでもいいと思ってる」吉沢がニヤリと笑って言った。
 「もうそんな台詞はやめようぜ。もっと、生きる意味をもって生きるんだよ。やることは結構さがせばいっぱいある筈だぞ」
 直樹は自分に言い聞かせるつもりも含めて強く言った。
 直樹は起き上がり電燈をつけ、窓のカーテンを引いた。夜はまだ明けてなかった。岬に続く道なのであろう、ヘッドライトが連なってふたつ、ゆっくりと遠ざかっていく。冷たく硬いその光は、魂が天上に昇ってゆく姿にも思えた。
 〈ふたつ同時とは、行かないものだ〉
 振り返ると、吉沢はひどく深刻な表情をして正座をし、天井を睨んでいた。指にはさんだ煙草の灰が長くなり、今にも蒲団の上に落ちそうだった。

 これは、2004年度「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。人間の根源的問題である「死」について考えさせる一編で、派手ではないが、深く「死と生」について迫っている優れた小説である。

鬼藤千春の批評 「英ちゃん」

秀作・実盛和子「英ちゃん」を読む  鬼藤千春
1992年8月「まがね」第24号
 敏子の姉の夫、義兄の葬式のあとの打ち上げでのことである。喪の客も次第に立ち上がって、午後5時に始まった酒盛りも大分下火になってきた。もう9時になっていた。が、居残った人たちは足を投げ出したり、立てひざをしたりして行儀が悪いことおびただしい。喪の家の者が酒席をもてなし、燗の番から酒の酌までやらされるのである。
 敏子はそれがたまらない。独り台所にいると、「一寸きて酌でもせんかや。積もる話もあるでのう」と、幼な友達の英一(英ちゃん)が来て言った。敏子が燗をして座敷に入ってゆくと、英一は大胡座をかいている。「ま、ええから一杯飲めや。わしにも酌をさせてくれえや」敏子にコップを持たせ、ビールを注いだ。そして敏子の顔をしげしげと見た。
 「あんたも偉うなったのう。で、今は共産党の幹部か。子どものころ泣き虫じゃったあんたがのう」、「いや私は幹部でも何でもありゃしません。ただ『赤旗』を配ったり、ビラを撒いたりしとる位です」それから英一は、葬式の電報のことで、からんできた。共産党の参議院議員候補と町会議員候補の弔電は、お前が打たせたのかというのだった。
 「共産党も厚かましいのう。明日は町議選挙の告示ぞ。わしは同級の中山京一を応援しょうるんじゃ。この村で票がよそへ逃げるようなことはわしが許さん」英一はよほど腹に据えかねているようだった。「じゃからわしは共産党が大嫌いなんじゃ」と憤慨している。
 「共産党がむつかしゅういうから、まとまるもんもまとまらん。皆とおなじことをしょうりゃあええんじゃ。電報までよこしても此処の票は何ぼも出りゃあせん」敏子は呆気にとられてしまった。何時の間に英一はこんなにわからずやになったのか。こんな支離滅裂な論理が通るとでも思っているのだろうか。
 「あれ、もう10時じゃが、そろそろ迎えの電話を入れようか」と姪の益美が言って、英一の家に電話をした。ものの5分もすると英一の息子はやってきた。40歳くらいの背丈の高い息子に半ば担がれるようにして、英一は玄関を出て行った。
 それを見てから敏子はそっと裏口へ回った。「英ちゃん、そこまで送ろうか」、「あ、送ってくれるいうんか、嬉しいのう」と言って、英一は息子を先に帰らせた。夜風が肌をなぶるような4月の夜である。「ここで蛍とってよう遊んだなあ」、「よう遊んだのう。あの頃はよかったのう。敏ちゃん、あっという間の50年じゃ」
 「英ちゃん、今日座敷で共産党のことを大嫌いというたけど、あれは本気でいうたん」敏子は一寸きつい調子で言った。「英ちゃん、あんたずっと以前に共産党に入っとったことがあったなあ。どうしてやめたん?」英一は立ち止まったまま、煙草をふかく吸い、吐き出した。「ひと口にはいえんのう。戦後のどさくさ紛れにやったことじゃ」
 「原因は矢張りレッドパージかなあ。ある日、突然わしの目の前から党が無くなってしまったんじゃ。それで途方にくれてのう。寄ってゆくところもないし、やめたも同然よ」
 「では共産党を嫌いというわけではないんじゃね」敏子は、この点だけははっきりさせないと気が済まない。「英ちゃん、私は共産党に入って20年になるけど、いつも胸を張っとるよ。それはしんどいことは一杯あるわ。でも世の中を変えるんじゃから当然のことじゃ。だからこそしんどくてもやり甲斐があるんじゃない」英一は何もいわずに聞いていた。解った、解ったというように頷いていた。
 「敏ちゃん、一寸待っとれや。苺が熟れとるで」英一はハウスの中に入っていった。暫くごそごそ動いていたが、両手いっぱいの苺を摘んで出て来た。「食べえや。今年は出来が良うてのう」敏子はひとつ摘まんで口に含んだ。ツンと甘酸っぱい味と芳香が口の中に広がった。英一は敏子の白いエプロンを広げさせて、その中に苺を入れた。
 エプロンの中の苺はさわやかに匂った。

 これは、1992年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。英ちゃんの人間像がくっきりと活写されている佳編である。「苺」という題名にしてもいいような、苺の甘酸っぱい味と香りが英ちゃんの「人となり」を象徴的に表している。

鬼藤千春の批評 「四十年目の夏」

秀作・妹尾倫良「四十年目の夏」を読む  鬼藤千春
   1986年3月「まがね」第15号
 被爆40周年を迎えたこの夏、広島で被爆した100人近いジャーナリストの「不戦」の碑が建立された。その機会に、被爆したジャーナリスト関係者と家族の消息を調査し、聞き書きなどして平和の尊さを世に伝える企画がなされた。
 「私」は津山に被爆者の家族がいるというのを聞いて、そこを訪ねた。そして、広島の原爆に遭った家族に会い、その様子を聞かせてもらったのである。その人は、主人を原爆で喪った未亡人で、気持ちよくその模様を話してくれた。
 主人は津山新聞(のち岡山新聞に吸収合併される)の記者をしていた。20年の5月に広島へ赴任することになった。8月になって広島が大変なことになったということが伝わってきた。主人から速達がきたのは終戦の翌日16日だった。その手紙は代筆でした。「広島の戦災にて重傷致し、国民学校講堂に伏床中なれど、板の上にそのままでフトンもなく困りはてておられる」というものだった。
 そして、姉の婿が広島へ行ってくれたんです。顔と腰以外は全身火傷で床に寝かされており、歩くこともできなかった。姉婿は担架を都合して、津山まで連れて帰ってくれた。主人はすぐに入院しました。「背中がむずむずする、見てくれ」と主人は言いました。見ると蛆がわいていました。生きとる人間に蛆ですよ。
 「手に針が立っとる。カミソリが立っとる、取ってくれ」と主人は言うんです。ひりひりして痛かったんでしょうな。そんなことがあって、やがて主人は亡くなってしまいました。8月24日、年齢は34歳でした。
 私は30歳で未亡人になったんです。考えてみれば、結婚生活は7年間でした。それからはとにかく働くばかりでした。5人も子がおれば、私が頑張る以外道がないでしょう。行商、失対事業、寮の管理人、とにかくよう働きました。生活保護も末っ子の奈津ちゃんが中学に入ってから、初めてもらえることになったんです。子どもが幼い時は、生活も苦しかったし、何度一緒に死のうと思ったか知れません。話が終わったのは2時近かった。朝の9時からの聞き書きだった。
 最後に奥さんは言った。
 「今はええです。戦争はもういやですな」

 これは、1986年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。「まがね文学会」としては、三宅陽介の「山男と弥ァやん」の優秀作につぐ、2人目の受賞である。
 奥さんの話が被爆の情況、残された家族の生活の在りようをリアルに伝えている作品である。妹尾倫良の作家活動のひとつの一里塚であるとともに、それ以後の作家としての歩みの起点ともなったものである。

鬼藤千春の批評 「山男と弥ァやん」

秀作・三宅陽介「山男と弥ァやん」を読む  鬼藤千春
     1978年9月「まがね」第3号
 この作品は、「民主文学」‘78年の支部誌・同人誌推薦作の優秀作に選ばれたものだ。また三宅陽介が、35年以上にわたる作家活動の出発点となった、記念すべき作品である。その後、彼は2つの長編とその他の単行本を上梓し、数多くの短編、そして随想を発表してきた。
 この作品の主要な登場人物は、「山男と弥ァやん」、そして視点をもった「ぼく」の3人である。この3人の人物形象が優れている。まさに、血と肉をもったリアリティのある人間として、作品の中で生きている。
 特に、弥ァやんが生き生きと描かれている。彼は終戦の日から50日ほど経った、秋の半ばに戦地から帰ってきた復員兵である。弥ァやんは25、6歳の青年で、ぼくとひと回りくらいの年の差があった。
 彼は戦地から村に帰った翌朝には田圃に出て、鍬を揮い村の衆を吃驚させた。また、彼は松茸引きの名人だった。ぼくは働き者で、松茸引きのうまい弥ァやんを敬服していた。ぼくは以前、彼に松茸引きに連れて行ってもらったことがある。
 その弥ァやんが、まだあたりが仄暗い朝、松茸引きに出かけていて、偶然、山男に出くわしたのである。山男は山兎のようにすばやく消えてしまった。その話が広まると、わしが山で逢ったのもその山男かも知れん、という目撃者が現れた。寺の住職だった。
 そして、3番目の目撃者になったのは、ぼくだった。見たのは鎮守の森から50米ほど登った天王さんだった。ひと坪ほどの祠の祭壇の前で兵隊服の男が、お供え物を食べているのだった。そして、男はぼくたちの方を見てにっと笑い、大股に歩いて山へ入って行った。
 それから、村ではさまざまなことが起こるようになった。お初っあんの台所に入り込んで、羽釜に半分以上あった麦飯が、ひと粒残さず平らげられていた。そして、留守の間に何者かに入られて飯を食われた、という家がだんだん現れるようになった。
 その頃から、山男の正体は脱走兵らしい、という噂が流れるようになった。台所の土間についてある足跡が、大きな兵隊靴だったのだ。そして、役場の人の話では、終戦のひと月ほど前、この村の駅に臨時停車した軍用列車から、ひとりの兵隊が逃げ出したことがあったという。その脱走兵が、龍王山にこもっている山男ではないかというのだった。
 ぼくのお祖母ァは、自分の息子を戦争でなくしていたが、墓参りだと言って、頻繁に墓地に行くようになった。饅頭や餅のお供え物は、お父うと山男のためのように思えた。
「ほんに死んでしもうてはつまらんのう。お国のためじゃいうて、死んでしもうたら何にもならんことよ」とお祖母ァは、お父うの墓の前で声を震わせて訴えるのだった。
 3月に入って、山男をつかまえるために、部落総出で龍王山の山狩りをすることが決まった。捜索隊は40数人集まり、弥ァやんは副隊長である。家には男手がいないので、隊員としてぼくも参加した。
 8人から10人くらいで5つの班をつくり、龍王山の5つの谷を捜索するのである。しかし、山男は見つからなかった。そして、弥ァやんが解散を宣言した。そして、みんな山を下りかけた時、忘れ物をした太一サが引返したら、石垣をよじのぼっている山男を見つけて大声を上げた。
 そして、山男は捕らえられたのである。あっけない幕切れだった。弥ァやんは役場の兵事係と駐在所の巡査に山男を突き出したのだった。お祖母ァは晩飯の時、誰にともなく言った。
「山男サは可哀そうなことをしたのう。せっかく命が助かって、ええ所に住んどったのに。ほんに弥ァやんはむごいことをしたのう」

 この作品は、詩人の土井大助や評論家の佐藤静夫などから高い評価を受け、三宅陽介が作家として歩み始めた処女作である。

鬼藤千春の小説 「流れ星」 掌編

   流れ星
             鬼藤千春

「こんにちは。ガスの交換に参りました。失礼致します」
 恭平は弾んだ声を掛けて、ガス置き場へ行った。
「ご苦労さん。安全に頼みますよ」
 奥さんが台所の窓を開けて、顔を覗けた。
「はい、大丈夫ですよ。ご安心下さい」
 恭平は頬をゆるめて、にっこり笑った。
「有り難うございました。失礼致しました」
 ガスの交換を終えると、恭平は空きボンベを軽四に積み込んで、次の家へ向かった。
 ガスというのは、プロパンガスのことで、恭平はその配達をしているのである。この仕事に就いたのは五年前、二十八歳のときだ。
 五年ちょっと前、恭平は統合失調症に罹ったのだ。まず、夜眠れなくなった。眠りに落ちるのにずいぶん時間を要したし、眠っても浅い眠りで間をおかず覚醒した。朝目覚めても、身体は鉛のように重く、倦怠感に包まれていた。食欲は乏しく、左耳は虫が鳴くような耳鳴りがしていた。そして、失語症のようになって、人と話すのが辛いのである。声を振り絞らなければ、人と話せないのだ。さらに新聞や本が、二、三行しか読めなくなってしまった。
 内科や耳鼻科で受診しても、異常は認められず、やむなく精神科を訪ねたのである。そこで、統合失調症と診断が下されたのだ。入院は勧められなかったが、二種類の抗精神病薬が処方された。恭平はいまもその薬を服用している。
 が、このガス屋の仕事も今日で終わりだ。病気になる前、恭平は建築会社で現場監督をしていた。が、病気になって、会社を休み勝ちになり、現場管理も思うようにいかなくて、解雇されたのである。
 それで、恭平は三カ月ほどアパートで、独り悶々として暮らしていた。
「青山さん、仕事はどうしたん。あれッ、顔が蒼白いわねぇ。どこか悪いのじゃないの」
 アパートの大家さんが、恭平の顔をじろじろ見ながら言った。
「うん、ええ、ちょっと……」
 恭平は、顔をそむけ逃げるように、六畳ひと間の部屋へ身を隠した。
 恭平は死のうと思った。睡眠薬を大量に飲んだのだ。苦しむのが厭だったから、ウイスキーでほろ酔い加減になって、薬を飲んだのである。が、深夜にウイスキーとともに、薬を吐き出していた。死ねなかった。生きていたのだ。
「なに? これは。いったいどうしたというの」
 奈津子は朝やってきて、枕元に吐き出した異物を見て慌てていた。
 奈津子は小学校の教師をしていた。すぐ恭平を病院へ連れていき、胃洗浄をして貰った。が、奈津子はしだいに遠のいてゆき、恭平から逃げるように去っていった。恭平は失恋したのだ。
 恭平はそれでも仕事を探した。失語症のような自分でもできる仕事、というのが条件のひとつだった。それで選んだのが、ガスの配達という仕事だった。ボンベの交換だけなら、何も喋らなくてもいいのだ。二十キロのボンベなら担いでゆき、五十キロのボンベなら底辺を斜めにして転がしてゆくのだ。黙って交換して帰っても、何の問題もなかった。
 だが、この仕事も今日で終わりだ。もともと不本意な仕事だったのだ。恭平は建築の仕事を忘れることができなかった。五年間、毎日毎日、ボンベを担ぎ転がす仕事をしてきたのだ。腰痛に悩まされるようになったし、単調な仕事に辟易していた。が、恭平は五年間耐えて耐えてきたのだ。それは喰うためだった。生きるためだった。
 が、五年間は決して無駄な時間ではなかった。ゆっくり、ゆっくり回復していって、ようやく人と話ができるようになった。本もいくらか読めるようにもなった。病気がすっかり良くなったというわけではなかったが、以前かかえていた症状は、ほとんど溶解していった。しかし、相変わらず通院はしていたし、いくらか後遺症も残っていた。
 新しい仕事に、まったく不安がないというわけではなかった。また無理をすれば、再発の危険があるのだ。が、恭平は新しい建築会社をみつけて、また現場監督の仕事に就くことにしたのだ。
「恭平、お前を手放すのは惜しいなあ。黙々と辛抱強く遣って呉れたのになあ。まあ、建築士の資格も持っていることだし、それを生かすのも手だよなあ」
 ガス屋の社長が、料理店へ連れて行って、歓送会を催してくれた。
「ほんとうに有り難うございました。みなさんのおかげで、気持ちよく働くことができました」
 恭平は深く頭を下げた。
 食事会を終え、外へ出て空を見上げると、星々がきらめいていた。そのとき、流れ星が西の空にすうっと落ちていった。 
 恭平は、生きてゆきたい、と強く思った。

鬼藤千春の小説 「鐘」 掌編

   鐘
            鬼藤千春

 長い夜だった。源さんのことが頭をよぎって、圭介はしばしば目覚めた。
「源さんのとこへ行くのはやめとけよ。愛想を尽かして女房は逃げたんじゃから――。もうどうしようもねえ男じゃ」
 九条の会の仲間が圭介に言った。圭介は源さんの生きざまを仲間から何回も聞いていた。それで、いつも気にかかっていたのだ。
 ――源さんは、いま八十二歳である。はたちの時、レッドパージに遭ったのだ。彼は国鉄の車掌をしながら、労働組合の青年部長をしていた。一九五〇年の秋、終業の間際だった。いきなり助役に駅の応接室に呼び出された。助役は彼を認めると、おもむろにソファから立ち上がって、口を歪めて話したのだ。
「君は職務の適格性を欠くので、明日から出勤しなくてよろしい」
 助役が源さんを凝視して言った。
 それだけ告げると、助役はさっさと駅長室へ引き上げていった。源さんは助役のあとを追いながら叫んだ。――なぜだ、なぜなんだ!。助役は駅長室へ駆け込んで、ドアのロックをしてしまった。
 その日助役に呼ばれたのは三人だった。源さんたちは翌朝、労働組合の仲間の支援をえて抗議に行ったが、数人の警官が駅長室の前に立ちはだかっていた。
 ――助役を出せ! 口々に叫んだが、警官に威嚇されて引き下がざるを得なかった。結局、源さんは国鉄を解雇され、独身寮も追い出されたのだった。
 九月だというのに、残暑は厳しかった。圭介はパンとコーヒーの簡単な朝食を摂りながら、源さんを訪ねてみよう、と急に思いたった。
 圭介は家を出て、源さんの、その後について想いを馳せていた。彼は独身寮を追い出された後、職場を転々として挙句の果てに、半農半漁のこの村へ帰ってきた。そして、親戚の漁船に乗せて貰って、六十五になるまで魚を追いかけてきたのだ。
 圭介はいささか緊張して、玄関の前に立った。
「おはようございます」
 中からは、何も聞こえてこなかった。異様な静寂が立ち込めていた。
「ごめん下さい!」
 圭介は心持高く強い声で呼びかけた。
「なんじゃ、やかましいのう」
 源さんの鋭い声が飛んできた。
 圭介はゆっくり引き戸を引いた。源さんは座卓の脇に一升瓶を据えて、湯呑み茶碗で酒を飲んでいた。部屋の中は、新聞や雑誌、カップラーメンやビールの空缶が、足の踏み場もないほどに散らかっていた。
「わりゃ、誰なら」
 赤く濁った眼が鋭く睨んだ。
「わたしは、片桐というもんです。ちょっとお願いに上がりました」
「わしゃ、忙しいんじゃ、なんの用なら」
 源さんは、湯呑みを傾けて一気に酒を飲み干した。
「あのう、九条の会で、平和の鐘を打つお知らせに来たんです」
「平和? 九条の会? なんならそりゃ、わしにゃ、関係ねえ」
「九月九日九時九分に、円城院の寺の鐘を打つんです。ぜひお越し下さい」
 源さんに、チラシを渡しながら言った。
「鐘? そんなものを打って、平和になるんか。あめえのう。GHQじゃ」
「GHQ? なんですか?」
 圭介は源さんの顔を覗き込んだ。
「GHQにやられたんじゃ。わしの人生はそれで狂ってしもうたんじゃ」
 源さんは、遠くを見るような眼をして言った。
「源次郎さん、GHQのパージ、そして朝鮮戦争でしたね」
「そうじゃ。そのためにわしらは……」
 源さんは、チラシを拾い上げてじっと見ていた。
「じゃが、わしのような飲んだくれのとこへようきたのう」
 源さんの瞳にいくらか光が射してきた。
「源次郎さん、パージも戦争のためで……。いま、九条が危ないんです。自衛隊が他国へ出てゆけるようにしようという、もくろみが……」
「そうか、九条がのう。なんにも知らなんだのう。まあ、あてにはならんが、行けるようなら円城院へ覗こうかのう」
 源さんは、一升瓶のキャップをきつく締め付けながら言った。
 行けたら行くというのは、たいてい断り文句なのだ。圭介は半信半疑で帰路についた。
 九月九日がやってきた。圭介はこの行事に参加するのは初めてのことだった。彼は今春、市役所を定年になって故郷へ帰って来たばかりなのだ。
 鐘楼は円城院の西の丘にある。七、八人の人が鐘楼の前に集まっていた。談笑している時、ふと圭介が下に眼をやると、石階段を上ってくる人に気づいた。左手で手すりを掴み、右手に杖を持っていた。
 源さんだった。圭介は迎えに行って、左手を支えながら鐘楼まで案内した。まもなく九時九分である。代表者がその時間に合わせて鐘をひとつ打った。一人ひとりその後に続いた。最後に源さんが残った。彼はしばし躊躇していたが、合掌しておもむろに綱を手にし、二、三回撞木(しゅもく)を振って、釣鐘を勢いよく打ち鳴らした。
 鐘は青く澄んだ秋空に鳴り響いた。

鬼藤千春の小説 「雪」 掌編

   雪
              鬼藤千春

 三月を迎えたが、北国はまだまだ寒い。西の山に陽が落ちて、急に冷え込んできた。それでも真千子の心は、灯が点ったように温かかった。彼女は台所に立って、夕食の準備に余念がない。
 金曜日の夜には、夫、昭平が毎週やってくるからだ。昭平は福島に一人残って、建設業の仕事をしていた。真千子は、小学三年の亜由美と一年の真希とともに、新潟へ自主避難している。
 新潟の暮らしは、真千子一家にとって耐え難いものだった。福島ではごく普通の生活を営んでいたが、原発事故によって、一家の生活は一変した。
 ある日、亜由美は学校から、泣きながら帰ってきたことがあった。アパートのドアを開けると、玄関に立ち尽くして、瞼を右手の甲でしきりに拭っていた。
「亜由、おかえり。どうしたの? 転んだの」
 真千子は玄関に駆け寄って、声をかけた。
「……」
 亜由美は肩を震わせて、泣いていた。
「そーら、亜由、これを使いなさい」
 花柄模様のハンカチを、真千子は差し出した。
「……」
 亜由美は真千子の手のハンカチを、勢いよく振り払った。ハンカチは玄関に舞い落ちた。
「もう、この子は。どうしたっていうの?」
 真千子は框に膝をついて、亜由美を見上げた。
「福島軍団……」
 亜由美は声を絞り出すように言った。
 不意を衝かれて、真千子は言葉を失ってしまった。亜由美の学校には、福島からの避難者が三家族あった。その生徒たちを指して、子どもたちがからかったに違いない。亜由美は玄関を駆け上がると、ランドセルを放り投げ、コタツのなかにもぐり込んで、いつまでも泣き止まなかった。真千子は深い溜め息をついて、亜由美をじっと見つめていた。
「ただいま」
 昭平が玄関で大きな声を挙げた。
「おかえり」
 真希は小躍りしながら、玄関へ迎えに出た。
 玄関から上がると、真希は昭平に抱きついた。彼の腕の中で、キャッ、キャッと彼女は声を挙げた。
「真希、いい子をしていたか。今日は土産を買ってきたぞ」
 その言葉を聞くと、真希は昭平の腕からするりと降りた。
 昭平の土産は、お料理ごっこのセットだった。にんじん、大根、ジャガイモ、ナスなどの野菜と調理器具一式だった。野菜は何分割かにされ、接合されているのだった。
「姉ちゃん、やろう」
 宿題をしていた亜由美も、教科書とノートを投げ出して、コタツに駆け寄って行った。亜由美は調理器具を揃え、真希は野菜を包装紙から懸命に取り出していた。
 真希は、にんじんや大根を包丁で輪切りにして、亜由美の用意した鍋の中に、投げ入れていた。
「姉ちゃん、今日は肉ジャガよ。あれッ、父ちゃん、肉がないよ」
 真希は頓狂な声を挙げた。
「そうか、肉がないんか。しまったなあ。真希、また買ってきてやるよ。今日は、野菜炒めにしてくれよ」
 昭平は苦笑いを浮かべて言った。
 亜由美は、ガスコンロの上にフライパンを載せて、「さあ、どうぞ」と言った。真希は不服らしく、頬をふくらませて、フライパンに野菜を放り込んだ。亜由美はカチッと火を点けた。彼女はフライパンを上下させ、野菜を巧くひっくり返して、「ほら、一丁上がり」と嬉々とした声を挙げた。
「さあさ、こちらも出来上がりましたよ。亜由、玩具を片付けなさい」
 台所から、真千子の声が飛んできた。
「そら、今日は寒いから水炊きだよ」
 真千子は土鍋をコタツの上のカセットコンロに置いた。土鍋から湯気が立ち昇っている。
「あなた、食べてちょうだい。もう大丈夫よ」
 真千子は昭平に言った。
「寒い時は、これが一番だよ。身体の中から温まるからなあ」
 昭平は箸を取り上げて言った。
 亜由美と真希も先を争って、肉を捜していた。「あったーッ」と真希が声を挙げる。「そら、ここにも」と亜由美が応える。賑やかな食事だった。真千子は、こんな普通の生活がいつ戻ってくるのか、と思いながら野菜や肉を足していた。
「あ、雪だわ。三月だというのに、寒い筈だわ」
 真千子は窓を覗いて言った。
 すると、いきなり真希が大きな声で叫んだ。
「いやだ、いやだ、放射能が降っている。父ちゃん、怖いよう」
 真希は昭平のふところに飛び込んだ。
 雪は音もなく、しんしんと降りつづいていた。

鬼藤千春の小説 「黒い絵」 掌編

   黒い絵
              鬼藤千春

 仮設住宅の周りの斜面の雪解けもすすんで、褐色の土が表われるようになった。ふきのとうが、雪を割って鋭い芽を伸ばしている。ようやく北国にも、春の兆しが感じられるようになった。あの日から二年経った。
 瑠美子は、手提げかばん作りの内職に余念がなかった。ポップスの楽曲を聴きながら、懸命に針の手を動かしていた。
「ただいま……」
 か細く弱々しい声を挙げて、麻里が玄関の戸を静かに開けた。
「おかえり。何よ、いつも元気がないわね。もうすぐ小学三年生になるのよ。もっと、ハキハキ言えないの。蚊の鳴くような声しか出せないなんて、しっかりしてよ」
 麻里は玄関に佇んでいた。
「マリッ。さあ、ぐずぐずしないで上がっておいで。おやつを出してあげからね」
 瑠美子は、台所へ立っていった。
 麻里はランドセルを投げ出して、コタツにもぐり込んだ。白熊の縫いぐるみを抱いて、頬を押し付けていた。彼女はいつもこの白熊と一緒だった。夜寝るときも、もちろん手放すことはなかった。
「ほら、マリッ。クッキーだよ。さあ、お上がり」
 麻里の身体を揺すりながら、瑠美子は言った。
「うーん、いまは欲しくない」
 麻里は疲れたようすで、起き上がろうとしなかった。
 ランドセルのほとりに、輪ゴムで留められた画用紙が一枚転んでいた。
「何よ、マリ。これは学校で描いたんだね。見てもいい?」
 丸められた画用紙を、瑠美子は取り上げた。
「いやッ、見ちゃいやッ。やめてよ!」
 麻里は身体を起こして、瑠美子を睨んだ。
「いいでしょ。母さんにみせてよ」
 瑠美子は輪ゴムをはずし、画用紙をコタツの上に広げた。
「もういやッ。母さんのバカ。よしてよ!」
 麻里はもう一度倒れ込むように、白熊の上に身体を投げ出した。彼女は頬を白熊にすり寄せて、嗚咽を洩らしていた。
 瑠美子は、その絵を観てびっくりした。小学二年生が描く絵だろうか。彼女はカンバス一面、真っ赤な画家の絵は観たことがあった。だが、麻里の絵は黒のクレヨンで、白い画用紙を塗り潰していた。
 麻里には二十四色のクレヨンセットを持たせている。赤、青、黄など多色のクレヨンがあるにもかかわらず、黒一色で画用紙は染められていた。瑠美子は狼狽の色を隠せなかった。あの日のことが甦ってきた。
 まず、地の底から、突き上げるような振動がやってきた。そして、しばらく家が揺れた。棚のものやテレビなどが落下して、部屋の中は足の踏み場もないほどに、いろんなものが散乱した。
 麻里は泣き喚いて、瑠美子にしがみついて離れなかった。彼女は麻里を抱き上げて、家の外へ飛び出していった。少しのあいだ二人は、広場にうずくまっていた。そして、瑠美子は放心状態で、しばし立ち尽くしていた。
 そのうち、消防車が高台へ避難するようにスピーカーで呼びかけた。周りの人たちは駆け足で、山の高台へと急いだ。瑠美子も麻里の手を引いて、高台へと向かった。一瞬、夫の英樹のことが頭を過ぎったが、一目散に高台を目指した。
 高台に登ってまもなくだった。海辺の潮が沖の方へずっと引いていった。その直後だった。白波を立てて、潮が盛り上がって押し寄せてきた。それはまるで龍の背中がうねっているようだった。
「たいへんだ。津波だ!」
 誰かが大きな声で叫んだ。
 津波は、船を突き上げ、家々を次から次に呑み込んでいった。瑠美子の家も一瞬にして呑まれていった。
「あッ、家、イエが――」
 瑠美子は叫んだが、声にはならなかった。
 麻里は瑠美子に抱かれて、じっと津波を睨んでいた。津波は海の色ではなかった。褐色を帯びた津波が荒れ狂っていた。高台にも蛇の舌のような波が打ち寄せてきた。麻里は瑠美子にしがみついて、震えていた。
 英樹は水産加工会社に勤めていたが、逃げ遅れて、津波に呑み込まれてしまった。瑠美子は、夫を喪い、家を呑まれて、ただ茫然とするばかりだった。
 瑠美子はコタツの上の絵を観ていたが、眼は涙で滲んで、ぼうっとかすんでいた。だが、黒一色に塗り潰した麻里の心は、はっきりと読みとることができた。
 黒一色に塗り潰された黒い絵は、コタツの上で何かを訴えていた。それは麻里の心の闇だった。
 瑠美子は思わず麻里を強く抱きしめていた。

鬼藤千春の小説 「ゴム長靴」 掌編

   ゴム長靴
              鬼藤千春

 斎場の入口で受付を済ますと、雄介は係員に案内されて、中ほどの左側の席に就いた。祭壇の中央には、桐山さんの遺影が掲げられていた。人懐っこい顔が笑っている。その左右は純白の菊で埋め尽くされていた。
 天井に埋め込まれたスピーカーからは、フォークの音楽が流れていた。生前彼の好んだ楽曲らしい。左上にはスクリーンが吊り下げられ、桐山さんの少年期や思春期の写真が映し出されていた。
 何気なく観ていると、一枚の写真がアップで映し出された。雄介はそのセピア色の画像に釘付けになった。桐山さんが青旗のポールを右手で握り、左腕は隣の男と腕を組んでいた。隣の男はなんと雄介だった。
 ベトナム反戦などを掲げた、平和友好祭の写真であった。蒜山高原で催されたものである。青い旗は市職員労働組合青年部の旗だった。雄介は身を乗り出して、写真をまじまじと見つめていた。二人とも微笑んで写っている。この時、桐山さんは青年部長、雄介は副部長だった。かれこれ、四十年ほど前の写真であった。雄介は胸を熱くして、その写真を凝視していた。
 桐山さんの訃報を知ったのは、新聞の「おくやみ欄」だった。朝、ある政党の新聞を配達していた時、脳梗塞に襲われたと伝えられていた。七十歳だった。雄介よりも五歳年上である。
 やがて映写は終わり、住職の読経が始まった。香が焚かれひとすじの煙が、立ち昇っている。香の匂いが斎場に漂っていた。雄介は退屈な読経に飽きて、眼を瞑っていると、桐山さんのことが鮮明に甦ってくるのだった。
 桐山さんは建設部の土木課、雄介は建築課だった。青年部の頃、二人が中心になって、「建設ひろば」というB五サイズの職場新聞を毎朝発行していた。
「雄介、建設部の職員は、測量や建築の現場管理に出て行くよなあ。現場には水溜りもあるし、長靴がいるよなあ。じゃが、みんな自前じゃないか。おかしいと思わんか」
 桐山さんが、雄介の顔を覗き込んで言った。
「そうですね。ぼくも長靴を自分で用意しているし、みんなもそうですよ」
 ちょっと首をかしげるようにして、雄介は桐山さんを見た。
「雄介、明日の新聞はこれでいくぞ。よし、わしが原稿書くから、お前はガリを切ってくれんか」
 桐山さんは、右腕のワイシャツの袖をまくりあげた。
 翌朝、二人は建設部のフロアに入り、机の上に「建設ひろば」を届けて回った。
「雄介、これはヒットじゃなあ。みんなの思いにぴったりじゃ」
 こういう職員の声が、あちこちから聞こえてきた。
 その日の業務を終えると、二、三人の青年部員と共に、建設部長の席を取り巻いた。
「部長、『建設ひろば』を読んでいただけましたか。建設部のみんなは、自前で長靴をそろえているんです。ぜひ支給して貰えませんか」
 青年部員は、顔を赤らめて口々に訴えた。
「きみッ、君たちの言うこともよく判る。だけど、わたしがここでいますぐ、うん、というわけにゃいかんよ。うえッ、上と相談するから、ちょっと待ってくれんか」
 部長は眼を白黒させて、戸惑ったようすだった。
 三日後だった。部長は桐山さんと雄介を呼んだ。
「上と相談したら、支給する、ということじゃ。桐山さん、ここはわたしたちが折れたんじゃから、これからは、お手柔らかに頼みますよ」
 部長は懇願するように言った。
 これほど早い対応はまれのことだった。みんなの声が、道理が通っていることと、これを無視すれば、みんなの絆がますます強くなることを畏れたに違いなかった。
 リンが大きく鳴って、住職の読経も終わりを告げた。
「桐山さん、四十年前の長靴の支給は、今も続いていますよ。市職員の被服等支給貸与規程に、しっかり盛り込まれていますよ。ゴム長靴は貸与でなく、支給で三年となっています。桐山さん、あなたのおかげです」
 雄介は合掌をして、呟いた。
 桐山さんの柩に花々がそえられ、そこここで嗚咽が洩れていた。桐山さんは、花々にうずまって、微笑が洩れているような、優しい顔をしていた。
 いよいよ出棺である。霊柩車に柩が納められ、黒い参列者はその車を取り囲んで、合掌をしていた。山の上にある火葬場へ出発である。クラクションが長い音を曳いて、鳴り響いた。
雄介は自家用車に乗って、霊柩車のあとを追った。
「桐山さん、桐山さんッ――」 
 雄介はそう叫んで、絶句した。
 胸の奥底から込み上げるものを、抑えることができなかった。
 雪がちらほらと舞い降りていた。雄介は車のスピードを上げた。

鬼藤千春の小説 「双眼鏡」 掌編

   双眼鏡
              鬼藤千春

 車から降り立つと、かすかな甘い香りが漂ってきた。史朗が振り向くと、墓地の入り口に金木犀が植わっていた。
 高台にある墓地に歩み寄ると、瀬戸内海が大きく広がっていた。太陽の光線を浴びて、海は蝶が舞っているように輝いている。水平線は空が落ち込んだあたりで、ぼうっと霞んでいた。
 墓地に視線を移して見渡すと、四角錐をした戦死墓が、いくつも屹立していた。この村で、アジア・太平洋戦争による兵士の死者は、三百三十五人にのぼる。たかだか六千人の村である。人口比でいうと約五%、男性のみだと約十%、青年、壮年期のみだといったい何%になるというのだろうか。それだけの死者がこの村から出たのだ。
 史朗は墓地へ下りて、戦死墓を一つひとつ見て回った。墓碑には死に至った土地が刻み込まれている。「満州国」、中華民国、沖縄、レイテ島、シンガポールなどで戦死していた。
 史朗は比較的大きい戦死墓の前で、老婆がへたり込んでいるのに遭遇した。彼女は膝を曲げて、腰を地べたに落としている。背中を丸め、手のひらを合わせて、口をもぐもぐと動かしている。
 史朗はそのようすを、少し離れたところから眺めていた。口を動かすのをやめたところで、彼は老婆の傍に近づいて行った。純白の菊が花立てに挿し込まれ、線香の煙が立ち昇っている。
「ご苦労様、お参りですか」
 史朗は墓地の外から声を掛けた。
「ああ、どなたですりゃ。見かけんああさんじゃなあ」
 老婆は腰を伸ばし、首をねじって史朗を見た。
「ええ、わしはこの村の西地区のもんでなあ。この東地区へはめったにこんからなあ。今日は、この地区の戦死墓を見て回りょうるんじゃ。ちょっと、戦争のことを調べょうるからなあ」
 史朗は、老婆と同じような視線の高さになるように、腰を落とした。
「戦争を? こりゃまたえらいことじゃのう」
 老婆は怪訝そうな顔をした。老婆の顔や手の甲には、褐色のしみが浮き出て貼りついている。
「ああさん、今日はのう、わしの連れ合いの月命日なんじゃ。それでこうやって、墓参りをしょうるんじゃ」
 老婆は濁った眼を史朗に向けた。
「おばあさん、連れ合いは何処へいっとったん?」
 老婆の顔を覗き込んで、史朗は訊いた。
「ルソン島のバレテ峠じゃ。そこで米軍と烈しい戦闘をやってのう」
 振り向いて、老婆は言った。
 老婆の投げた視線の先には、四国山脈の峰々が連なっていた。
「あの山の向こう、台湾から輸送船でルソン島へ送られてのう。バレテ峠の陣地へ遣られたんじゃ」
 遠くを見るような眼をして、老婆は中空を眺めていた。
「じゃがのう、空も海も米軍の支配下にあったんじゃ。陸はブルドーザーが道を切り開いてのう。そのあとを戦車がやってくるんじゃ」
 老婆は顔を紅潮させて、眼をしばたたいた。
 瀬戸の海の沖合いには、貨物船がほとんど泊まっているように見える。沿岸近くの海では、漁船が白い尾を曳いて行き交っていた。牡蠣筏が、何枚も整然と浮かんでいる。美しい光景だった。
「そんで、うちのはのう。ウサギ狩りじゃいうて、夜中に敵の陣地へ斬り込みをさせられたんじゃ。じゃが、その直前に発見されて、機関銃でやられてしもうたんじゃ」
 老婆は墓に向かって、手のひらを合わせた。
 墓の供物台には、赤飯や菓子、ビールや果物が、溢れるばかりに盛られている。
「沢山のお供えもんじゃなあ。ご主人はビールが好きだったんですか」
 史朗は供物台を凝視して言った。
「うちのは、漁師じゃったから、酒が好きでのう。漁から帰ったら、浴びるほど飲みょうたんじゃ。復員した人に聞いたら、ルソン島に上陸してからは、ろくにめしを喰わせてもらえなかったそうじゃ。じゃから、こうして、お供えしょうるんじゃ」
 老婆は供物にそうっと、手を触れて言った。
 史朗は老婆に席をゆずってもらって、墓の前で膝を折った。手のひらを合わせ、深く頭を垂れて、般若心経を唱えた。この仏は三百三十五人のうちの一人だ。この小さな平和な漁村にも、戦争はやってきたのだ。
「ああさん、ありがと。じゃが、この墓には連れ合いの骨はないんじゃ。役場から白木の箱が届けられただけで、お骨は還らなかったんじゃ。じゃから、うちの人が漁で使って、大切にしていた双眼鏡を、納めてやっとんじゃ」
 老婆は眼を赤く染めて、墓石を手のひらでやさしくさすっていた。

鬼藤千春の小説 「母」 掌編

   母
             鬼藤千春

 母が逝って、まもなく十二年になる。花冷えのする早春だった。母は九十歳で終焉を迎えた。母の生年は一九一一(明治四十四)年である。平塚らいてう、らが「青鞜」を創刊した年だ。「元始女性は太陽であった」と高らかに謳いあげたのが、この「青鞜」だった。
 太平洋戦争で日本が敗北に終わる、一九四五(昭和二十)年まで、母の生きた時代は、戦争という「冬の時代」であった。この間、夫は三回に渉って徴兵されている。母は銃後にあって、どのような生活を強いられたのか、おおよその見当がつかない筈はない。
 私は戦後生まれだが、一九六〇年代に入るまで、わが家の経済は窮乏の底にあった。それを凌ぐために、畑一枚売らざるを得なかった。板塀は傾き、雨漏りのするような家だった。母は乏しい物品を、隠すように風呂敷に包み込んで、質屋通いをしていた。質屋の当主は実兄であったが、無下に断られて帰ることも一再ならずあった。
 母は働き者だった。というより、働かなければ家族六人喰って、生きてゆけなかったのだ。夜を日に継いで、働いていた。私が目覚めているうちに、母が床に就くというようなことは決してなかった。
 夜、私が眠りに就こうとするとき、母は決まって内職をしていた。その仕事はときどきで変わっていた。バンコック帽の機織りをしたり、麦稈真田を編んだり、紙製のストロー巻きをしていた。
 朝、私が目覚めると、母の、俎板をトントンと叩く音が、いつも聞こえていた。また、裏山にある畑から、ジャガイモや南瓜などを穫り入れて、帰ってくることも少なからずあった。
 母は躾けに滅法厳しかった。国民学校で代用教員をしていたからだろうか。いや、それは母の生来のものだったようだ。私は井戸のほとりにある太い松の木に、たびたび縛り付けられた。
「もう何度言わせりゃ分かるんじゃ。よう反省してみい」
 母は狂ったような形相をして叫んでいた。
 庭掃除や七輪の火を熾す仕事を忘れて、外で遊んでいたためである。私も強情で決して涙をこぼすことはなかったが、近所の人が助けに来てくれた。
「夏ちゃん、もうええ加減許してやったらどうなん」
 が、母はそれでも、綱をほどこうとはしなかった。
 私が東小学校の仲間数人と、西小学校へ乗り込んでゆき、大喧嘩をしたことがあった。それは町内へ知れ渡ることになった。すると、母は学校までやってきて、クラスメートのいる前で、私をねじ伏せ、引き摺り回したことがある。母は子どもの躾けには、みさかいがなかった。
 夫は婿養子だった。いくらかそれが関係しているかも知れなかったが、母は家長のように振る舞っていた。父は寡黙であったから、それは尚更であった。
 父のささやかな愉しみである飲酒についても、毎日のように不平や不満を並べ立てていた。それでわが家は諍いが絶えなかった。近所にも聞こえるように父をなじるのだった。
「毎日毎日、飲まんという日がないんじゃから、ええ加減にしとかにゃおえまあが――」
 母は口を尖らせ髪を振り乱して、言い放つのだった。
 私はそんな母が厭だった。烈しい憎しみの感情が、私の中で芽生えていった。ささやかな父の愉しみ、私は自分が喰わなくても、父に酒を飲まして遣りたかった。それは、私だけでなく、ふたりの兄や弟もそうだったようだ。
 私は工業高校を卒業して、市役所へ勤めることになった。春入所して、半年ほど経った頃から、私は組合の書記局へ出入りするようになった。まもなく、組合の役員に推されてそれを引き受けた。春だった。春闘である。市役所は人事院勧告によって、賃金が決められる仕組みになっていたが、他の組合と歩調を合わせていた。
 春闘の集会で使うゼッケンをつくることになった。私は母に頼んだ。ゼッケンの写真を見せて、朝までに作ってくれと言った。
「組合? お前はそんなとこに首を突っ込んどるんか。上のもんに睨まれりゃせんのか。わしゃ、知らん。そんなものは、よう作らん」
 母は私を睨んで、鋭い声で拒否した。
 私は諦めて、床に就いた。母はやはり起きて内職をしていた。バンコック帽の機織りの、ギィー、ギィーッ、バッタンという音が、ひとつのリズムを刻んでいた。
 チッ、チチチ、チーッという小鳥の鳴き声で、私は目覚めた。おもむろに起き出して、私はカーテンを引き放った。金色の光が射し込んで、部屋を染めた。
 枕元を見ると、白い布が畳んで置かれていた。手に取って広げて見ると、それはゼッケンだった。
 台所の方を振り向くと、母はいつものように、平然と俎板を叩いていた。

鬼藤千春の小説 「カーネーション」 掌編

   カーネーション
             鬼藤千春

 三月三十一日。
 瓜生貴志の定年退職の日である。彼は机の抽斗の中を片付けていた。私物と役所の物を分けながら、苦い想いを噛みしめていた。十八歳から六十歳まで、実に四十二年間勤務してきた市役所の建築課である。
 貴志は建築課の係長だ。係長どまりだ、といった方がいい。同じ工業高校から同期入所の榊悟朗は、建築部の部長である。建築部はいくつかの課を統括する部署であり、そこのトップが榊であった。
 広いフロアの最も奥の席に榊は座っている。貴志が片付けの手を止めて、その席の方に眼をやると、榊は腕を組んで鷹揚に構えていた。その席に近づいて頭を下げている部下を見上げて、屈託のない笑顔を振りまいている。
 榊はよく仕事をする男だった。入所した当時から退勤の五時になっても、ほとんどその時間に席を立つということがなかった。課長や係長が仕事を切り上げるまで残って、よく一緒に帰っていた。そして、部長の席まで駆け上ったのである。
 貴志は仕事ができないという方ではなかった。ただ、彼は高校のとき文芸部に所属して、雑誌の発行などに携わってきた。ベトナム戦争や文部省の愛国心を育成する、「期待される人間像」などの研究会にも首を突っ込んでいた。だから、労働者に対する当局のあり方などについて、関心をもって見守ってきたのだ。
 さらに、ここの労働組合は、特定政党支持を機関決定し、その政党へのカンパも強制されていた。貴志は組合員だったけれど、それには初めから納得がいかなかった。労働組合は要求に基づいて団結するのであって、その構成員の思想、信条は守られなければならない、と考えていた。
 貴志は職場集会などで、組合の執行委員に異議を唱えてきたのだった。そのために、組合は貴志を敬遠するようになったのだ。そのうち組合のレクリエーションなどにも誘いがかからないようになった。
 貴志に対する当局の差別も露骨に行なわれた。彼が主任になった時には、榊はもう課長になっていたし、ようやく係長になった時には部長になっていたのだ。貴志はそのたびに屈辱を舐めてきたのだ。後輩が彼を次つぎと追い越していった。彼は労働組合からも当局からも睨まれながら、仕事をしてきたのだ。
 抽斗の中を整理しながら、貴志は硬く唇を噛んでいた。不意に苦い胃液がせり上がってくるような嘔吐感があった。この四十二年間は貴志にとってなんだったのか。差別と屈辱の永い時間だったのだ。
 が、貴志は外部の演劇サークルや登山の会に所属して、市役所での疎外感から開放されて、愉しく過ごすようにしてきた。そんな趣味の会に、職員を誘って入ってもらっても、当局か労働組合からの横槍が入って、すぐに去ってゆくということがずっと続いてきた。
 榊のところへは、ひっきりなしに部下たちや他の職場からも挨拶に来ていた。が、貴志のところへは誰もやって来なかった。彼は黙々と抽斗の中を片付けているのだった。
 午後から貴志は、建設部の職員に挨拶をして回った。しかし、彼らは視線をちょっと貴志の方に向けて、口を歪めて笑って見せるだけで、すぐに俯いて書きものをするのだった。
 なぜなんだ、どうしたというのだ。俺が何をしてきたというのだ。もっと胸を張って、顔を上げて生きてゆけないのか――。貴志は心の中でそう叫ばずにはおれなかった。が、当局や労働組合の眼が怖いのだ。決して彼らのせいではない。
 柱にかかった大きな時計が、五時を指しチャイムが鳴った。榊の席を多くの職員が取り囲んで、にぎやかに談笑している。ときに弾けるような笑いが起こっていた。
 そのうち、若い男が大きな花束を榊に渡し、一斉に拍手が沸きあがっていた。貴志も彼のところへ足を運んで、挨拶をした。
「おう、瓜生君か。お互いこれまでよく頑張ったなあ。君はこれからどうするんだ。元気でやれよ」
 榊は右手を伸ばしてきた。
「まだ、何も考えてないよ。しばらくゆっくりするつもりだ。部長も元気でいて下さい」
 貴志も右手を差し出した。榊の左手には大きな花束が抱えられていた。
 貴志は自分の席に戻り、ビジネスバックを手にして、ひっそりと帰ろうとした時だった。ひとりの女性が、彼のところに駆け寄ってきた。そして、花を一輪貴志に手渡して、
「永い間、ご苦労様でした」
 と声をかけ、微笑んだ。
美しい笑顔が印象的だった。そして、彼女は足早に立ち去っていった。
 それは、真紅のカーネーションだった。

夢日記 「自分史か短編か」

‘13(H25)年9月30日(月)曇り
 

『しんぶん赤旗』TOPニュース
堺市長選 竹山氏圧勝 「都構想」・維新に審判
共同広げ「堺はひとつ」守り抜く

  
‘13年の9月も終わり、あと、10、11、12月の3カ月を残すのみとなった。どんな1年だったのだろうか。考えてみれば、無闇に時間が流れていったような気がしないでもない。まあ、特筆するとすれば、東京都議選と参議院選挙で共産党が躍進したことだろう。
 私的なことに目を向けると、大きい仕事をしたようには思えない。短編ひとつも書けていないのだ。掌編小説と随想はいくつか書いたけれども、これで善しとするわけにはいかない。
 いま悩んでいるのは、自分史を書くか、それともそんなことに時間を費やさないで、短編を書くことに専念すべきではないか、ということである。この問題はもう少し熟慮してみたいと思っている。書いておくべきだという思いと創作から逃げているのではないか、という想いのせめぎあいだ。

随想 「小説のある暮らし」 

  小説のある暮らし
              鬼藤千春

 私の先輩に俳人がいる。その彼は次のように語っている。
「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」
 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。
 が、俳人の金原まさ子は、一日一句を実行し、自身のブログを毎日更新している。彼女は現在百二歳で、毎日五時間は俳句を詠むために、机のまえに座っているという。あっという間に時間が流れ、愉しくて仕方がないと語っている。
 翻って、創作を志している私はどうだろうか。六十五歳で仕事からはなれ、やがて一年がくる。自由な時間を豊富に手に入れることができたが、いささかそれにとまどっている。原稿用紙に向かっても、筆は思うように進まない。テーマは? モチーフは? 題材は?
などと考えて、堂々巡りするばかりだ。
 しかし、書くという営為は、なぜこうも難しいのだろうか。
「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」
 このような言葉を残しているのは、小林秀雄である。
「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」
 ある詩人の言葉だ。
「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」
 こう語るのは、竹西寛子である。
 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを想いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになる。
「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」
 ある作家の言葉である。
「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」
 これは、ある同人誌の主宰者の言葉だ。
 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く聳えていて険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶される。
 が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂がまっている。頂上に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられないのだ。
 私は向精神薬を服用しているのだが、これが厄介な薬である。便秘と白昼眠気を誘うという、副作用に悩まされている。過日、車を運転中に睡魔に襲われ、ガードレールに激突し車は大破した。幸い相手もいなかったし、私もかすり傷ひとつ負うこともなく済んだ。
 それ以来私は、食後に三十分ずつ睡眠を摂るようになった。深夜の睡眠は午前0時から六時までである。その他に朝、昼、夕食後に横になって眠る。おそらくこういう日常を送っている人は極めて稀だろう。
 午前中は海の見える公園に出かけてゆき、一時間の散歩をする。我が町には川はないが、青い海があり山があり、青い空がある。自然に恵まれた古里の公園を歩んでいると、ウグイスの啼き声やヒバリのさえずりが聴こえてきて、私は耳を澄ます。散歩を終えて帰ると、パソコンを立ち上げ「夢日記」に、日々の想いを綴ってゆく。愉しい朝の刻である。
 午後と夜はそれぞれ四時間ずつ自由な時間に恵まれている。つまり、私の自由で貴重な八時間である。これをどのように生かすか殺すかは、私の掌中に握られている。幸い食後の睡眠で、眠気に襲われることはなくなった。
 この自由な時間を私は愉しみたいと思っている。それは、「読むこと」と「書くこと」が核となるような気がする。先輩の俳人は、「一日一句」を提唱しているが、私は「一日一枚」を胸に刻んで、書いてゆきたいと思っている。
 私の隣の街に、八十六歳の作家がいる。今も尚、健筆を揮っている。その歳までに私はまだ二十年ある。一年一作書いたとしても、二十編の小説を書くことができる。その作家を見ていると、限りない励ましを受ける。最低、一年にふたつの小説を書いているのだ。
 私は薬の副作用である便秘も漢方薬で解消されたし、睡魔に襲われることもなくなった。今は良好な健康体と言えるだろう。俳人の金原まさ子のように、四時間でも五時間でも机の前に座って、瞑想にふけることが愉しくて仕方ないような、そんな日々を送りたいと思っている。
「小説が書けると、芸術を通して社会と関わり、人生を豊かに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。すぐれた作品が書ければ、この素晴らしさは何倍にも輝きます」
 作家の風見梢太郎の言葉である。
「柳行李いっぱい書いて一人前だ」
 ある作家の言葉だ。
 が、いっぱい書いたからといって、いい小説が書けるとは限らない。それほど小説を書くということは、容易でないということだ。
 だが私は、苦しいけれども愉しみながら、魅力的な「小説のある暮らし」を送りたいと願っている。
プロフィール

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 1947年生まれの70歳で、
 日々の暮らし・想いを自由に 綴って
 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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