鬼藤千春の小説 「汐を汲む女」 中篇

   汐を汲む女

          鬼藤 千春

 百舌が、鋭い鳴き声をあげて静寂を破り、北の山へ飛んでいった。百舌は蛙やねずみを捕らえ、木の小枝などに串刺しにし、生け贄にするといわれている。キェーッと、あとに尾を引く、不気味な悲鳴だった。周平は網の修理の手を止めて、空を睨んだ。むろん、百舌の鳥影はすでになく、山々の峰は闇に溶けようとしていた。西の空だけが、かすかな茜色に染まり、いっそう闇を浮き立たせているのだった。
「あんた、あんた」
 不意に妻の、高い声が響いた。
「あんた、お婆さんがいないんよ」
 エプロンで手を拭きながら、妻が玄関から飛び出して来た。
「また、ヨネ婆さんのところで、お茶でも飲んどんじゃろう」
 それをしおに周平は立ち上がり、繕いのすんだ網を片付け始めた。
 数年前まで網の修理は、母、夏江の仕事だった。漁師として周平の腕がいいといわれてきたのも、母の網繕いに負うところが大きかった。それは網が破れるのを恐れることなく、岩場近くに網を入れることができたからだ。が、母の目が急に衰えて、こまかい網繕いはかなわなくなった。それからは、妻の葉子と周平が手分けしてやるようになった。
「それが、ヨネ婆さんのところへ電話しても、来てないというんよ」
 葉子は網の片付けを手伝いながら、周平の顔を覗き込んだ。
 夕暮れのこの時間にはきまって、母は台所にいた。もう何もしてくれなくてよかったが、なにくれとなく、台所仕事を手伝った。しかし、ガスの火を付け放して忘れてしまい、鍋を焦がすことなどが時々あった。
「おかしいなぁ、分家にでもいっとりゃせんかのう」
 周平は網を倉庫に押し込みながら、首を傾げた。
 山も海も、海辺の町の、軒の低い家並みも、すっかり闇に溶けてしまった。空には玉ねぎをスライスしたような鋭く尖った月が、弱い光を放っていた。その細い月を流れる雲がよぎって、消えたり浮かんだりして明滅した。
 周平はコップに冷酒をついでグイと飲んだ。冷酒が喉を熱くやき、胃に広がって身体がほてった。彼は電話のコードを食卓まで延ばし、分家や知り合いの家に何ヶ所かダイヤルした。
「何処へ行ったんじゃろうかのう」
 彼はコップを傾けて酒を一息に飲んだ。
 母は何処にもいなかった。すでに八時を回っており、いつもの食事の時間だった。二階から長男夫婦と、二人の孫たちが降りてきた。
「婆ちゃんは?」
 長男の茂樹が孫を揺すり上げながら、訊いた。
「それが分からんのじゃ、何処にも居ないんじゃ」
 周平は、めんどくさそうに、突き放して答えた。
 ガスの火をカチッと切って、妻が慌てて茶の間に駆け込んできた。
「あんた、あんた」
 菜箸を握り、それを振りながら、妻が甲高い声を挙げた。
「あんた、今日はお義父さんの月命日よ。だったら大変よ。海よ、海だわ」
 葉子は語尾を挙げて、「海よ、海だわ」と叫んだ。
 周平たちは、防波堤の階段をくだって、一段下の踊り場の上に降り立った。周平夫婦と茂樹の三人は、懐中電灯を照らしながら、海岸線を行き交った。海面はかすかな月の光を浴びて、激しく揺れていた。長く延びた懐中電灯の光は、せわしげに交錯して海面やコンクリートを照らし出した。「お義母さーん」と葉子の声がし、「お婆さーん」と茂樹の声が沸いて、闇にまぎれて消えていった。
 父の月命日には決まって母はここへ来た。
海水を汲みにやってくるのだった。父の月命日は二十日である。が、本当は父がいつ、どこで、どのように死んだのかは、誰もしらなかった。終戦の年の五月に戦死の公報が届いたが、詳しいことは何ひとつ分からなかった。ただ、明らかなことは、三月に南方に向かっていた輸送船が、空からの攻撃で沈没したということだけである。それに父は乗っていたというのだ。
 終戦の翌年の月命日から、母は今日まで欠かすことなく、墓参りをして、海水を捧げてきた。むろん、仏壇にも海水をお供えした。
 父のお骨だけでなく、何ひとつ遺品は家に還らなかった。この瀬戸内海と南方の海はつながっていて、父のお骨を洗う汐が、この海辺の町に辿り着くと、母は信じていた。
 周平は懐中電灯の光を沖に投げた。しかし、光は闇に吸い込まれて、遠くまで照射することができなかった。茂樹は防波堤を行きつ戻りつした。葉子は、「お義母さーん、お義母さーん」と、闇に向かって悲痛な声を挙げた。
 見つからない、周平は防波堤をよじ登り、漁業組合の事務所に駆け込んだ。四人の男たちが、奥の座敷でコップ酒を飲みながら、将棋盤を囲んでいた。二人は胡坐を組み、差し向かいで将棋を打ち、あとの二人は寝転んで赤い目で、将棋盤を睨んでいた。
「大変じゃ、うちの婆さんがおらんのじゃ」
 周平は息せき切って言った。
「おそらく、汐を汲みにやって来て、足を滑らしたんじゃねえかと思うんじゃ」
 上がり框にへたり込んで、周平はみんなの顔を見回した。
「そうか、そりゃえらいことじゃ。よし、組合長に連絡をとって船を出そう。いま、引き潮じゃけんのう。台風が近づいとるし、海はだんだん荒ろうなる」
 二人は持ち駒を将棋盤の上に投げ出し、立ち上がった。
 港はにわかに慌ただしくなった。けたたましいエンジン音と、サーチライトが闇を切り裂いた。苛立ちながら、周平はもやい綱をほどき、船を漕ぎ出した。
 終戦の年の、三年前に周平は生まれ、三つの春に父は死んだ。中学を終えると、父のやっていた漁師を継ぐことになった。
 周平の船には葉子と茂樹が乗り、二人は舳先から身を乗り出して、海面を睨んでいた。周平は舵を握り、ゆっくりと海岸線を辿った。船は海面を裂きながら進んだ。波が白く砕け、サーチライトに照らされた海面は、万華鏡のようにきらめいた。
 決して海では死ぬな、周平は舵を巧みにあやつりながら、小さく呟いていた。父もはるかな南方の海に沈み、遺骨さえ還っていないのだった。父の遺骨はいまも南方の海底で、黒潮に洗われているに違いない。いや、もはや遺骨は小さく砕けて、海の藻屑と化しているやも知れぬ、きっとそうだろう。
 母は、その父の遺骨を洗って辿り着いた汐を汲みに、この海岸にやって来たのだ。終戦の翌年の父の月命日から欠かさず、ここへ来ていたから、汐を汲む女として、海辺の町では噂されていた。防波堤の階段の側壁につかまりながら、足を踏み外さないように、一段、一段慎重に、母は階段を降りてゆくのだった。そして、階段下の踊り場に降り立ち、南方の海に向かって呪文を唱え合掌をする。そして、おもむろにバケツをくくりつけた縄を、海に放り投げるのだった。
 海から上がると、母はまず父の墓に参った。父の墓は山の中腹にあり、つづら折りの山道を腰を折って、登らなければならなかった。墓地に上がると、南は瀬戸内海が大きく開けていた、南方につながる海が……。母は墓地の草取りと、墓石の水洗いをして塩を撒き、聖地を清めて、先ほど汲んできたばかりの汐を、コップについでお供えした。そして、長い長い呪文を唱えるのだった。
 墓参りを終えると、母は細くて急坂な山道を、雑草に足をとられながら、降りてきた。そして家に帰り、仏壇に果物やお菓子をお供えして、汐を小さなコップについで捧げるのだった。仏壇の前で母は、呪文ではなく、般若心経を、いつ果てるともなく読経した。それが母の、父の月命日の日課だった。
 父だけでなく、母までも海に呑まれてはならない、と周平の心臓は早鐘のように鳴っていた。舵を握る手が汗を吹いた。周平の船は海岸線を何回か旋回したが、母の影を見つけることは出来なかった。仲間の三隻の船も、沖合いをゆっくりと旋回して、母の影を追っていた。
 空は黒い雲が割れて、鋭利な三日月が不気味に光っていた。周平は空を睨みつけながら、迂闊だった、と呟いた。葉子の、「海よ、海だわ」という言葉になんの疑問もなく、船を漕ぎ出してでたが、あの墓地のある山かも知れなかった。
 周平はいったん、おかに上がり、地域の消防団長のところへ駆け込んだ。消防団には、あの山道を捜索してもらうことにした。あの細い山道から、崖下に転がり落ちていないとは言えなかった。
 半鐘が打ち鳴らされた。火事のときのそれとは違った、異変を報せる半鐘の音が高く、低く響いた。すっかり闇に溶けた山々にぶつかり、はじき返されて、半鐘の音はこだました。
 再び、周平は船にもどり、もやい綱をほどいた。三隻の船はサーチライトを煌々と照らして、捜索の輪を広げていた。周平は沖に出て汽笛を鳴らして、仲間の船を呼んだ。
「山かもしれんので、消防団に頼んだ。海のほうは、これだけ探してもおらんのじゃけえ、網を曳いたらどうじゃろう」
 周平は、仲間の船に飛び移って、一人ひとりに声をかけた。
 皆、いちように、疲れの色を漂わせていたが、同意してくれた。周平は一升瓶の口をあけ、葉子に、仲間たちにコップを配らせて、ついで回った。
 この漁師町では、死人が網に掛かることを、決して恐れず、怖がらなかった。時々、死人が上がったが、むしろ縁起がよいこととして、受け止められていた。吉凶の前兆だとすれば、吉の招来を占うものと信じられていた。それは、板子一枚下は地獄という船乗りの、人の命の尊さと重さを知る者たちに、自然に身に染み付いたことだったのだ。
 四隻の船は放射状に広がって、網を海に投げ入れた。周平は底引き網を降ろして、エンジンをふかした。船は大きく身震いして、しだいに小刻みに震えだし、暗い海を波立たせた。
 周平は暗然として声を失ない、舵を硬く握っていた。もし母が海に沈んでいるとしたら、それはもう絶望的であった。しかし周平は、決して海では死ぬな、と心のなかで叫んでいた。葉子と茂樹は舳先からともに移り、網が長く延びた先を、じっと目を凝らして見ている。スクリューが、海をかきまぜ波を白く泡立たせながら、ゆっくりゆっくりと進んだ。
 終戦になって母は、周平と、いま北海道にいる弟の直樹を育てるために、魚市場に勤めるようになった。周平は一途な母の働く姿が瞼に焼き付いている。と同時に、貧しい暮らしぶりが、甦ってくるのだった。
 周平が小学校六年生の折、京都への修学旅行があったが、その願いは叶わなかった。周平はまだ汽車に乗ったことがなかった。海辺
の町から山ひとつ越えたところに、西から東へ、東から西へと線路は延びていた。周平はこの町の、最も高い竜王山という山によく登った。その頂きに立つと、線路が銀色に光って、蛇のように長く延びているのが見渡せた。時々、白い煙を吐き出しながら、玩具のような汽車が田んぼのなかを東へ、西へと行き交った。周平は汽車をめざとく見つけると、赤松の木に上り、胸をわくわくさせながら、視野から消えるまで見送った。
 周平は、その汽車に何かを託していたように思う。この閉鎖的な海の町のその先にあるもの、そう、都会の空気に憧れていたのだった。京都の修学旅行は、周平の心をときめかせ、夢を大きく広げるものだった。
 しかし、周平は旅行費用を集金日までに、担任の先生に渡すことが出来なかった。母に何度催促しても用立ててくれなかったし、用立てられもしなかった。明日京都行きだという晩、周平は激しく、強く母を責めた。周平は布団にもぐって号泣した。母は唇を固くむすび、黙って内職の帽子を織っていた。周平は激しく母をののしり、しばらく泣き続けた。周平はそのまま深い眠りに落ちていった。
 重い網を曳いている船は、低く鈍いエンジン音をさせて、体を震わせていた。周平は右手で舵を握ったまま、振り返って山の中腹を見上げた。闇に溶けた山のなかで、懐中電灯は蛍火のように揺れていた。墓地のある辺りから、それに続くつづら折りの道を探しているのだろう。犬の遠吠えが闇を切り裂き、それに連鎖して、村々の犬が吠えるのが聞こえる。まるで鋭く尖った三日月に向かって、吠えているようだった。
 母はいったい何処にいるのだろう、海なのか、山なのか、母はまだ見つからなかった。死ぬな、父の月命日には死ぬな、周平は網を曳きながら、呪文のように呟いていた。父のいない生活は、周平の生き方にも影を落としてきたのだった。
 周平が中学生にあがったばかりの時だった。周平は雨が降ると学校を休んだ。と、いうより、休まざるを得なかった、というのが当たっているだろう。
 周平は夜明け前のまどろみの中で、かすかな音がしたように思った。それは遥かに遠いようにも、すぐ耳元でする音のようにも感じられた。夢なのかも知れない、心もとないものだった。周平はその音を振り払うように寝返りをうち、再び浅い眠りに落ちた。
 その音は遠くのほうから、ひたひたと近づいてきた。周平は浅い眠りの中で、今度は、はっきりとその音を捉えることができた。下屋のトタン屋根を激しく叩く雨と、雨だれの音だった。
 周平は布団を蹴って上体を起こし、その雨音を確かめながら、身体が硬く凍ってゆくのを感じた。周平には雨具がなかったのである。
雨具、つまり傘と長靴である。中学校は周平の家から約一キロ先にあった。
 布団から抜け出て、周平は立て付けの悪い雨戸を開けて、空を仰いだ。鉛色の空が低く垂れこめ、銀色の雨が糸を引いていた。トタン屋根を叩く雨音は、高く響き、周平の心を憂鬱にさせるばかりだった。
 周平は母を恨んだ。布団にもぐりこんで周平は泣いた。母は暗いうちから魚市場に出ており、家には弟の直樹がまだ眠りを貪っているだけだった。周平は、父の不在を呪った。
 家の前の県道は通学路になっていた。そこから、子供たちのはしゃいだ声が、周平の耳に突き刺さってくる。雨戸を少しだけ開けて、外の様子をうかがった。小学生や中学生たちは、黒い雨傘をくるくる回しながら、泥んこの道をゆくのだった。長靴で水溜りの中に入り、水とたわむれ、雨とたわむれていた。
 子供たちが明るく弾んだ声で、はしゃげばはしゃぐほど、周平の心は閉ざされ、塞がれていった。この雨戸の内と外は、たった一枚の板で仕切られているだけだったが、暗くて深い溝のような、大きな隔たりがあった。いってみれば、光と闇の世界ほどに違っていた。
 学校に行けない、この貧しさと惨めさと劣等感が、周平をさいなんだ。彼は母と、そして、遠い父を恨み憎んだ。握り潰してしまうほどに、こぶしをぎゅっと固めて、母の枕を殴りつづけた。母と父が、この薄暗い雨戸の内側に、周平を閉じ込めているように、感じないわけにはいかなかった。
 不意に一隻の船が汽笛を鳴らして、サーチライトを点滅させた。周平は、母だ、母が見つかったのだ、と叫んで、葉子と茂樹に網を上げるように怒鳴った。
 鋭い月は流れる暗雲に呑み込まれて、空は漆黒の闇だった。山の中腹では蛍火のようなかぼそい光が、幽かに揺れていた。周平は仲間の船にぶつかるような勢いで近づき、もやい綱を投げた。他の船も一隻の船を包み込むように取り囲んだ。波の揺れに擦れ合う船は、ギイー、ギイーと悲鳴を上げていた。
 母は底引き網の中で、まるで子宮のなかの胎児のように、身体をくの字に折っていた。周平は、「おかァー」とひとつ叫んで、網をほどいた。母は腹をふくらませ、蒼白な顔をしていた。首をガクッと横に折って、手足をだらんと、伸ばしている。しかし、眼はカッと見開き、遠くを睨みつけていた。周平は、「おかァー」と叫びながら、腹部を強く押した。母は口をわずかに開き、水を吐き出し、泡を吹いた。
 周平は母の胸に耳を押し付け、手の脈をとった。もう心臓の鼓動もなく、脈も打っていなかった。              「お義母さーん、起きて、起きてッ」      
 葉子は、母の肩を抱き、揺さぶり続けた。
 母が死んだ、父と同じ海で死んだ。父の骨を洗った南の海水を大量に飲んで、母は死んだ。父が死んで五十三年が経っていた。爾来、ほとんど欠かすことなく、父の月命日にはこの海に、汐を汲みに来たのだった。
 半鐘が打ち鳴らされ、母が見つかったことが、知らされた。犬の遠吠えが、闇のなかでこだまとなって反響した。怖れおののくように犬は吠え続けた。雲が裂けて三日月が輝いていた。消防団の人たちは、山から降りてきた。
 床の間で母を浴衣に着替えさせようとしたとき、何か小さなものが、音もなく転がり落ちた。母の首にはくすんだ緋色のお守りが巻かれ、吊り下がっていた。どうやらお守りから転げ落ちたようだった。三日月のような形をしていた。
「あんた、なにかしら」
 葉子は怪訝そうに、その小さなものを拾い上げて言った。
 周平はその欠けたものを、葉子からもぎとり、しげしげと眺めていたが、
「ボタンじゃ、欠けとるけぇどボタンに違やぁせん」
 周平はそれを掌に乗せ、くるくると回しながら言った。
 彼はお守りを母の首からはずし、緩んだ紐をほどいた。内から二個のボタン、それに欠けたボタンがぽとりと落ちた。
「このボタンはなんじゃろうかのう」
 周平は畳の上にボタンをふたつ並べ、もうひとつの、欠けたボタンを組み合わせながら言った。
 周平は心当たりがなく、何も思いつかなかった。しかし、母が肌身離さず、首から提げていたお守りの内に、秘められていたボタンとはいったいなんだろうか。
「あんた、これは、お義父さんの形見のボタンじゃないかしら」
 葉子はボタンをひとつ摘まみ上げて、高い声を挙げた。
 そのボタンは海老茶色の、プラスチックで出来ており、中ほどによっつの目が開いている。それは背広のボタンに違いなかった。
「親父の形見のボタンか……」
 そうかも知れない、と思いながら、周平は小さく呟いた。
「お墓のなかに、このボタンとお守りを入れちゃろうやぁ」
 周平はボタンを、手に硬く握り締めた。
 母を浴衣に着替えさせると、周平は一升瓶を母の枕元に据えて、コップになみなみと酒をついだ。何の因果か知らないが、父の月命日に死ぬるなんて、と呟きながら、周平はコップ酒を一気に飲み干した。線香の煙がひとすじ揺れながら立ち昇り、天井にぶつかって、たなびいていた。線香は紅く先を染め、紫を帯びた白い煙が、絶え間なく湧き出ていた。線香のにおいが部屋に溢れ、周平の心をいくらか落ち着かせた。
 周平は母の顔から白布を剥ぎとって、しきみの葉をコップ酒に浸して、母の唇を湿らせてやった。普通は水でやるのだが、嫌というほどに水は飲んだのだから、酒のほうがふさわしいと、周平は思った。母の唇は乾き、濃紺に染まっていた。
 明日、いや、もう深夜もとうに過ぎたのだから、今日が通夜で、明日が葬儀であった。
「あんた、横になったらどう、疲れを出しますよ」
 いきなり葉子の声が、上から降ってきた。
「お前こそ、ひと眠りしたらどうじゃ、これからなにやかやと、ぎょうさんすることがあるでぇ」
 周平はコップ酒をひと口舐めた。
 彼は今夜、眠るつもりはなかった。母はもう口を開くことはないが、彼は酒を舐めながら、夜明けまで母と、語り尽くすつもりだったのだ。
「それじゃ、わたしは少し横にならしてもらうから、何かあったら呼んでちょうだい」
 葉子は鉦をひとつ打ち、線香を一本突き刺して、次の間に消えた。
 周平は冷酒のコップを舐めながら、母の顔を覗き込んだ。けっしておだやかで、安らかな眠りとはいえなかった。蒼白な顔で唇を歪め、もし目を開ければ、周平を睨みつけてくるような気がした。鬼気迫るような光景で、周平は一瞬たじろぎ、怖いと思った。
 彼は母の顔に白布をそっと乗せて、酒を一気に飲んだ。なぜ母は安らかな眠りにつけないのか、周平はそう思いながら、あせた緋色のお守りを手にとって眺めていた。その折、お守りから何かが舞い落ちた。紙を小さく折り畳んだもののように見えた。
 それを周平は拾い上げ、用心深く紙の襞を広げてゆき、畳の上にのばした。何か字が書かれているが、字はにじみ掠れて、ほとんど判読できないものだった。しかも、周平はいささか酔っており、見るものが白いベールにかかったようで、かすんで見えていた。
 周平は隣の部屋で横になっている、葉子に声をかけた。葉子は両手で髪をなおしながら、怪訝な顔をして入ってきた。
「これはなんじゃろうかのう。おかァのお守りから、でてきたんじゃ。何か書いとるようなんじゃけえど、さっぱりわからんのじゃ」
 周平は畳の上の紙片をのばしながら言った。
 葉子は周平のそばに坐り、紙片を覗き込みながら、手にとった。
「あんた、やっぱり何が書いてあるか判らないわ。でも、これは詩のようだわ。ルーペを持ってきてみるわ」
 葉子は納戸のほうへ、小走りで出て行った。
 周平は紙片に懐中電灯をあてて、執拗に読み取ろうと試みたが、字は浮かび上がってこなかった。紙片の折り目は裂け、字はにじんでいた。
 納戸から戻った葉子は、紙片を自分のほうに用心深く引き寄せ、ルーペをかざして紙片を睨んでいた。しばらくたって、
「あっ」
 と、葉子は息を呑むような声を挙げた。
「あ・ゝ・を・と・う・と・よ、」
 葉子は一字一字、句切りながら、読み上げた。
「君・を・泣・く、」
 一字ずつ、字を掬い上げていった。
「君・死・に・た・ま・ふ・こ・と・な・かれ、」
 葉子は、ふーっと、大きくため息をついて肩の力をぬいた。 
「あんた、晶子よ、与謝野晶子よ、中学校の教科書に出ていたでしょ」
 葉子は周平の顔を覗き込んだ。
 周平は詩も人も、まったく覚えていなかった。とうに忘れさっており、習ったかどうかも分からなかった。ただ、母がこの詩をいつから身につけていたのか、父が出征した時からなのか、それとも戦後になってからなのか、あるいは、魚市場を定年退職して短歌を始めてからなのか、それを知りたいと思った。しかし、今となっては、それは叶わぬことだった。
「おかァー」
 周平は白布をとって叫んだ。
 その時、鐘が鳴った。低く鈍い鐘の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。峠にある寺の、鐘楼で打たれる鐘の音だった。毎日欠かさず、夜明けの六時に打たれるのだった。もう夜の眠りから覚めて、窓外は白んでいた。もうひとつ鐘がなり、空気を震わしながら、その波動が周平の耳を打った。
「おい、墓参りをするぞ」
 周平は急に立ち上がって、葉子に声をかけた。
 父の月命日に、汐をお墓にお供えしようという、母の想いは断ち切られたままだ。周平と葉子は、まず海に向かった。
 台風が近づいているという海は、白い波が泡立ち岸辺を洗っていた。小船は木の葉のように、荒くれた波にもまれていた。空は低く垂れ込め、雲は千切れるように飛んでいた。周平は防波堤の階段を降りて、下の踊り場に立ち、さらにすすんで捨て石の上に降りた。足元に白い波が牙をむいて押し寄せ、砕けていた。
 周平は遠い空を仰ぎ、海に向かって神妙に合掌をし、「南無阿弥陀仏」を七回繰り返した。そして、縄をくくりつけたバケツを、海に放り込んだ。バケツはくるっと一回転して、海に突き刺さった。汐を汲み上げ、周平はバケツを持ち、葉子は新聞紙にくるんだ花束を抱えて、海岸を後にした。
 低い軒を寄せ合った、家々のあいだの細い路地をゆくと、急に開けて畑があらわれ、それに続いて、山々の峰が見渡せた。まだ眠りから覚めぬ山々の稜線は、鉛色の空をくっきりと切り取っていた。
 そこから急に坂道になる。しばらく登ってゆくと、他の村から登ってくる道と交差するところに、お堂が建てられていた。お地蔵様をお祀りしているお堂である。
 周平はお地蔵様に、線香と汐をお供えして手を合わした。線香の煙は強い風にあおられ、直角にへし折られたように、揺れながら飛んでいった。墓地へと続く道は、雑草におおわれ、幾重にも折れ曲がっていた。
 道の土手には、真紅の曼珠沙華が点々と咲き乱れていた。それが墓地まで、まるで地獄への水先案内のように続いていた。周平と葉子はそのつづら折りの道を、草を分けながら登っていった。山の中腹に切り開かれた墓地の斜面には、曼珠沙華が強い風にあおられて乱舞していた。曼珠沙華は天上の花というより、毒々しく、あまりにも強烈な、死の影のする深い紅色だった。
 遠くで海鳴りがし、すぐそばの山は吼えている。明日にも紀伊半島に台風が上陸するといわれていた。強い風が周平の頬を激しく打った。
 周平は、父の墓の納骨室の入り口をこじ開けた。ぽっかりと暗い穴が口を開いた。目を凝らして内を覗くと、蜘蛛の巣が張られ、その糸は絹のように輝いていた。納骨室にはなんにもなかった。父の遺骨は還って来なかったのだ。ただ、父の形見の望遠鏡だけが眠っていた。この墓をつくった時、周平は数少ない形見の中から、父が漁師の仕事で使っていた、望遠鏡を納めたのだった。
 この墓に母は眠るのだ。満中陰の法要の日には、母のお骨がつづら折りの道を、鉦の音とともに登ってくる。蛇のように長く黒い列が、登ってくるのだ。周平と葉子は、納骨室の蜘蛛の巣を払い、お墓を洗浄して、花と汐をお供えした。そうして、父の形見のボタンと、あの詩の入ったお守りを、望遠鏡のかたわらに寄り添わせて納めた。
「あんた、これからは、父と母の月命日には、私たちが汐を汲んで、墓参りをしなければ駄目ね」
 葉子は花に水を注ぎながら言った。
「…………」
 周平は、唇を固く噛んで黙っていた。
 もう、いいだろう、充分すぎるほど父の供養はしてきたではないか。それに、母を憎み恨んで、父を呪ってきた周平であった。もうこれで終止符を打つべきではないか、と周平はにがにがしく思うのだった。
 周平は墓地の土手に降りて、固い蕾みの曼珠沙華を二本折って、上がってきた。彼はお墓の左右の花立に、一本づつ曼珠沙華を投げ入れた。その時、風が激しく舞い、曼珠沙華は大きく揺れた。
 周平は杓で汐を汲み、荒々しく曼珠沙華の上に雨を降らした。 ∧これが、父の骨を洗い、母が大量に飲んだ南方の汐だ。曼珠沙華よ、この汐をお前も飲め、そして、もっともっと、赤く赤く、限りなく黒に近い花びらを咲かせてみろ、∨ 周平は心の内で叫んでいたが、声にならなかった。激しい怒りが胸を突き上げてきた。その時はじめて、周平の瞳に涙が溢れた。
「そうだな、――」
 周平は短くそして強く、そう言って、葉子を振り返った。
 その時、ごうーっと火を噴くように、裏山がまた牙をむいて吼えた。
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鬼藤千春の小説 「父の納骨」 中篇

 父の納骨
     鬼藤千春

 道雄はリビングから黄昏の小さな庭を、ぼんやりと見つめていた。部屋の照明がやわらかく届いて、白い水仙の花が浮かび上がっている。風がふいて小さく震えていた。
 夕方になって急に冷え込んで、雪が降りはじめた。雪は音もなくひたすら舞い降りている。水仙の花は降りかかる雪片に向かって、凛と背すじを伸ばしていた。
「もう、よしたら、謙吾さんのところへ行くのは――」
 不意に妻、早苗の声がした。
「……」
 道雄は黙って水仙を見ていた。
「だって、謙吾さんは、直樹や奈津子の結婚式にも出席しなかったのよ」
 早苗はリビングの入口に立って、エプロンで手を拭きながら言った。
「……」
 道雄は早苗の言葉を無視するように、窓の外の雪を見ていた。
「しかも、謙吾さんは去年のお義母さんのお葬式にも顔を出さなかったわ。親戚の人たちは何を言ってるか、あなた知ってるの」
 早苗が詰問するように言った。
「……」
 道雄は黙って唇を噛んだ。
「謙吾は親戚うちの厄介者で、落ちこぼれだって噂してるわよ。だってそうじゃない。親戚に祝い事や病人や死者が出たって、寄りつこうとしないんだもの。わたしが実家に帰ったら、必ず嫌味を言われるわ」
 早苗はいくぶん声を高くして、早口で喋った。
「……」
 分かってるさ、と道雄は心のなかで叫んだが、言葉にならなかった。
 弟の謙吾とうまくゆかなくなったのは、いつからだろう。かれこれ二十年にもなるだろうか。謙吾が女房に逃げられてからのような気がする。
 謙吾は腕のいい大工だった。酒もたしなむ程度で、分別をわきまえていた。ところが女房が外に男をつくり、二人の子どもまで置き去りにして、姿をくらましたのである。
 謙吾の暮らしが一変したのはそれからである。酒と競艇にはまり、仕事も休み勝ちとなり、金にも困るようになった。
 道雄も一度金を貸したが、期限が過ぎてもいっこうに音沙汰がなかった。なのに謙吾は、またも金を無心してきた。道雄はそれをけった。
 すると謙吾は、酔っ払って道雄の家に押しかけてきた。玄関をはじめ家の周りに灯油を撒いて、「火をつけるぞ!」とライターをポケットから取り出し、ちらつかせた。家族の者は驚いて家の中を右往左往するだけだった。だが、母の梅子が玄関のタイルに撒かれた灯油の上に坐り込んで、「さあ、火をつけてわしを焼いておくれ!」と叫んだ。鬼気迫る母の姿に、謙吾も後退りしたのだった。
 それから謙吾は、道雄の家とも親戚とも疎遠になった。親戚付き合いもなくなり、謙吾のよくない噂が、ちらりほらりと聞えてくるだけになっていた。
 行け、と言われれば行かなかったに違いない。が、行くな、と早苗に言われて、迷っていた道雄の心はふんぎりがついた。「行こう、行かなければならない!」と道雄は心のなかで呟いた。道雄はハーフコートを握り締めて、ふりしきる雪の中に飛び出して行った。
 謙吾は、となりの街の市営住宅に独りで住んでいる。車で三十分ばかりのところだった。結婚した頃自分の家をもったが、女房がいなくなって生活が乱れ、家を手放すことになったのである。
 道雄が謙吾の家を訪ねるのは、実に二十年ぶりのことだった。そして、謙吾に会うのはあの灯油事件以来なのである。直樹や奈津子の結婚式の案内や、母の死の報せも電話であった。が、今回はそうはいかない、直接会って謙吾に伝えなければならない、と道雄は心の中で決めたのである。
 車のヘッドライトが闇を裂き、白い雪を照らし出している。その雪が尽きることなく、フロントガラスに吹きつけていた。

 父が死んだのは、あの夜、六十五年前、終戦の年の六月二十九日だった。そう、岡山空襲だった。道雄七歳、謙吾三歳だった。
 道雄は深い眠りに落ちていた。父と母は一階、道雄と謙吾は二階だった。「空襲、空襲じゃあ―」という母の叫び声で、道雄は深い眠りから眼を醒ました。道雄は窓のカーテンを引きちぎるように開けた。窓の外は朱色に染まっていた。ザ、ザ、ザ、ザーという空気を引き裂くような音とパン、パン、パンというような音が聞えてくる。
 階段をバタバタと駆け上ってくる足音とともに、「空襲じゃ、空襲じゃあー」という母の甲高い声がした。謙吾はびっくりして、布団のなかで泣きじゃくっている。母は襖を開けて、「道雄、早う支度をせぇー」といいながら、謙吾にズボンを穿かせ、防空頭巾を被らせた。
 父は謙吾を抱き、母は道雄の手を引いて家を飛び出し、旭川の方に向かって走り出した。道は逃げ惑う人たちでごった返していた。道が燃えている。焼夷弾の破裂で油脂が付着して道が燃えているのだ。道雄たち一家四人はその火を避けながら、旭川の方へ、旭川の方へと逃げていた。
 空は焼夷弾が朱色の光を放ちながら、しだれ柳のように落下している。岡山市街はまさに火の海と化していた。走り抜ける道も熱風が吹きつけている。防火用水に布団を浸して、それを頭から被って走り抜ける人たちを何人もみかけた。
 岡山上空は戦闘機が飛び交い轟音をとどろかせて、焼夷弾をバラバラと落としている。街の家々は炎をまきあげて、メラメラと焼け崩れている。謙吾は父の腕のなかで泣きじゃくりながら、熱風の中を駆け抜けてゆくのだった。道雄は母にぎゅっと左手を摑まれて、父を見失うまいと必死で後を追っている。
 焼夷弾が父の後方で破裂したのが見えた。一瞬のうちに炎が舞い上がり、道が燃えている。道雄と母は、「父ちゃん!」と叫びながら後を追った。父は謙吾を抱きしめたまま道に倒れ、背中は鮮血に染まっていた。母は謙吾を抱き取って道雄に預け、「あ、あなたっ――」と、絹を引き裂くような声で叫んでいる。父は一瞬顔を上げて、「う、う、うっ、――」と呻いたが、がくんと倒れこんでしまった。母は父の顔を抱き上げて、「あ、あなた、あなたっ、しっかりしてぇ、――」と、しばらく叫んでいた。
 母はどこかからリヤカーを借りてきて、父を乗せ大学病院に連れて行った。しかし、父はもう息絶えていた。
 夜明けになって黒い雨が降った。道雄と謙吾、そして母は、逃れていた旭川からその雨の中を大学病院に向かった。街は焼け野が原になっている。旭川の方から岡山駅が見渡せるほどだった。道雄は道すがら、防空壕から足を突き出して死んでいる人や、黒こげになって電信柱に寄りかかっている人や、防火水槽に頭を突っ込んで、動かなくなっている人たちの悲惨さを見たが、不思議と怖いと感じることがなかった。それほどに道雄にとっては、恐怖を突き抜けた光景で言葉にならなかった。が、それはおそらく生涯にわたって、忘れ難い光景となってゆくに違いないのだ。
 翌日、道雄と謙吾、そして母は、親戚の人たちとともに、小高い山の中腹に登って行った。父を土葬にするためである。リヤカーに焼夷弾の破片が食い込んだ父を乗せ、その上にムシロをかけて、岡山市街を通り抜けてゆくのだった。街には赤十字病院、中国銀行、日本銀行、天満屋、岡山郵便局、岡山電話局などのコンクリートの建物が焼け残っているだけで、街はまさに廃墟となっていた。
 山に差しかかったところで、父をリヤカーから降ろし、二本の棒に毛布を張った手作りの担架に乗せた。親戚のおとな四人が棒の端を提げて、つづらおりの山道を汗を噴き出しながら登った。道雄の家の墓地へ着くと、親戚の人たちは、かわるがわるツルハシやスコップで穴を掘ってゆく。父の身体がすっぽりと入るくらいの穴を掘り上げて、みんなは父の遺体に手を合わせた。「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」と唱えてから、父の遺体を穴のなかへ納めた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ。おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 低く抑えたお経が流れてゆく。
 まず最初に母が小さなシャベルで、父の遺体に土をかける。母は嗚咽を洩らしながら、シャベルの震えが止むことはなかった。道雄は溢れそうになる涙を瞳にためて、土をシャベルで掬い、穴の中にそっと注いだ。泣き虫の謙吾はなぜか唇をぎゅっと嚙んで、穴の中を睨み父の遺体に土をかけた。謙吾の土はさらさらと乾いた音がして父の遺体に降り注いだ。それが終わると、親戚の人たちがスコップで穴を埋めていった。
 母は盛り上げた土のうえに、紫陽花の花を数本挿し、線香に火をつけて親戚の人たちに二本ずつ渡していった。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 お経を唱えながら、父の遺体で盛り上がった土に線香を差して、手を合わせた。線香の白い煙はかすかな風に揺れながら、真っ直ぐ昇っていった。線香の匂いがやわらかく包み、遣り切れぬ想いが襲ってきて、道雄は身じろぎもしないで、立ち尽くしていた。

 道雄は市営住宅の駐車場に車を停め、雪の舞う中へ降り立った。地面はうっすらと雪が積もり、天空から静かに雪は舞い降りている。謙吾の家をみると、ひとつの部屋に灯りがぽつんと点っている。
 玄関の鍵は掛かっていなかった。謙吾は上がれとはいわなかった。玄関には、古新聞が乱雑に積まれ、今にも崩れ落ちそうだった。灯油用の赤いポリ容器がふたつ置かれ、玄関は灯油の臭いが充満している。道雄は上がり框に坐って、謙吾の部屋に眼をやった。
 謙吾は電気炬燵に足を突っ込んで、酒を呑んでいた。炬燵の上は新聞や雑誌、カップラーメンが雑然と占領している。謙吾の横には残り少なくなっている一升瓶が、でんと坐っている。観ている様子もないテレビの音が高く響いている。謙吾は道雄を無視して視線を宙に泳がせている。
「なんじゃ、突然、寝込みを襲うようにやってきて――」
 謙吾が不意に振り向いて、高い声を上げた。
道雄をにごった眼で睨んでいた。
「もう、とっくに親戚づきあいは止めてるはずじゃ。おふくろの葬儀にも出なかった俺に、何事じゃ」
 謙吾はコップの酒をぐいと呑んだ。
「それはよくわかっている。が、実はおふくろの一周忌の法要を二週間後の日曜日にするんじゃ。その前に墓石を建立する。その墓に親父の土葬掘りをして、おふくろと一緒にお祀りしてやりたいんじゃ。だから、お前に土葬掘りの手伝いをしてほしいんじゃ。来週の日曜日じゃ、ぜひきてくれんか」
 道雄は框から身を乗り出して、懇願するように言った。
 謙吾は一升瓶を傾けて、コップに酒を注いだ。彼はしばらく沈黙して、酒を舐めるように呑んでいる。
「いまさら静かに眠ってる親父を起こすこともなかろうが――。静かにしてやっとけ。小さいけれども、親父の墓がないわけじゃなし――」
 謙吾は、テレビの画面に視線を投げて言った。
「それに、わしらがすることもなかろうが――。今じゃ、土葬骨上げは、石屋に頼めばやってくれるんじゃ。どうしてもというんなら、そうすりゃええ――」
 謙吾が振り向いた。にごった眼がすわっている。その瞳が刺すように道雄を射る。
「そういうわけにはいかんじゃろう。親父の骨じゃ、わしらが骨上げせにゃならんのじゃ。そうじゃろう」
 身体を少し謙吾の方に寄せて道雄は言った。
「そうしたいんなら、そうしたらええ。じゃが、わしはいかんぞ。勝手にすりゃええ。どうせわしは親戚うちの厄介もんじゃ。わしのことはほっといてくれ。もういい、旨い酒が不味うなってしもうた。もう帰ってくれ」
 謙吾はそう言って、居間のドアを烈しく閉めた。道雄はしばらく玄関に佇んでいたが、そっと玄関の戸を開いて外へ出た。
 雪がやわらかく道雄の身体を包んだ。やはり、早苗のいうとおりだった。謙吾はもう私たち親戚の輪のなかに戻り、寄り添うことはないように道雄は感じた。孤独で淋しい人生を謙吾に感じて、道雄は哀しかった。

 次の日曜日だった。道雄と直樹と早苗、そして、親戚の人たちは、つづら折りの細い道を登っていった。冬の太陽が南の島影から昇り、柔らかい陽が斜めに射し込んでいる。空は蒼く晴れていたが、南の島々はぼんやりと霞んでいた。
 墓地に着くと、つるはしやスコップを片隅に置いて、道雄は線香に火をつけようとした。北風が吹きつけて、ライターの火は幾度となく消え、なかなか線香は燃えなかった。ようやく火がつくと、道雄は一人ひとりに線香を渡した。父の小さな墓石はすでに取り払われている。その墓のあとにみんなは線香を立ててゆくのだった。
 道雄の家の宗旨は、天台宗である。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
 と、まず念仏を七回唱えた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 線香を供えながら、繰り返しお経を唱えてゆくのだった。風に乗ってお経は流されてゆく。
 塩を四隅に盛り、それに酒を注いでひと通りの儀式が終わると、道雄はスコップを手に取った。ここに六十五年前の父が眠っているのを想うと、道雄の気持ちは神妙になってゆくのだった。合掌をして道雄はスコップを父が眠っている場所に突き刺そうとしたが、硬くてなんなく跳ね返された。それを幾度か繰り返したが、まったく歯が立たなかった。
 親戚の人が、
「そりゃ無理じゃ、表土は硬いから、まずつるはしで砕いてからじゃ」
 と、言ってつるはしを振り上げた。
 親戚の人がかわるがわる、つるはしを硬い表土に打ち込んでいった。それを道雄と直樹が掬い取って、掘り下げて行く。一メートルも掘り下げた頃だろうか、
「お父さん、お父さん――」
 と、早苗が声を落として、道雄に声をかけた。
「お父さん、謙吾さんよ、謙吾さんが登ってくるわよ」
 早苗は墓地の下の道を指差しながら、ほら、と言った。
 道雄は穴の中から這い上がって、墓地に連なる細い道に眼をやった。謙吾が俯きかげんに、枯れた雑草を踏んでこちらにやってくる。無精ひげを伸ばした顔はいくぶんやつれたように見える。酒を呑んでいるのだろうか、やや頬は染まっている。
 親戚の人たちは怪訝そうに顔を見合わせている。道雄は内心疎ましい気持ちが芽生えていた。――今頃になって、のこのことやってくるなんて、どんな了見をしているのだろうか、と心の中で呟いていた。道雄はチェッ、と舌打ちをして、草むらに唾を吐いた。
 謙吾の予期せぬ到来で、穴を掘るのが中断させられた。みんなはブルーシートの上で休憩をとることにした。早苗が用意したサンドイッチや菓子が出され、温かいお茶が振舞われた。謙吾は墓地の隅に立って、掘られた穴をじっと眺めていた。唇をぎゅっと硬く結んで、不機嫌そうだった。
「謙さん、まあ、こちらにこられえ。缶コーヒーや茶菓子もあるで――」
 親戚の人が振り向いて、謙吾を呼んだ。謙吾は気難しい顔を崩すこともなく、沈黙したままだった。しばらくして、謙吾はお清めに使った酒をみつけて、それを墓地の隅に持っていった。胡坐を組み、コップに酒を注いで舐めるように呑んでいる。瀬戸内海の方に虚ろな視線を向けて、謙吾は独り酒を呑んでいた。
「マリアナ諸島のティニアン島を飛び立ったB29は、淡路島の南西をかすめ小豆島を経て、旭川の河口方面から岡山市街へ侵入したんだ」
 親戚の人が旭川の河口を指差して言った。
「そうだ、そして、あのクレドビルあたりを攻撃の中心地に定めて、焼夷弾を投下したのだ」
 別の親戚の人が答えた。
「私たちは、戦火の中、大学病院に近い道を旭川に向かって逃げていたんだ。親父が謙吾を抱き、おふくろが私の手を引いていた。親父の近くに焼夷弾が落下して、その破片が親父の背中を裂いたのだ」
 道雄は岡山市街に眼をやって呟いた。
 それを潮に直樹はまた穴の中に入った。もう、つるはしはいらなかった。表土の下の土は比較的掘りやすかった。直樹はスコップで砕いた土を掬い上げて、地上に放り上げた。しばらく掘り進むと、スコップに異物が当たったようだった。直樹が道雄を見上げた。雅道は直樹に上がるようにいって、自分が穴の中に入っていった。
 道雄は慎重に掘り進んで、茶褐色の木の根っこのようなものを掘り出した。それを持ち上げて土を払うと、両端がこぶのように膨らんでいる。
「雅道さん、そりゃ、骨じゃ。大腿骨じゃ」
 親戚の人が、かん高い声を上げた。
 それを受け取った直樹は、ブルーシートに広げた布の上にそっと置いた。道雄はそれから腕や脚部の大きい骨を拾った。が、その他の骨は、もう土に還ってしまっているのか、見つけることはできなかった。六十五年の歳月が思い遣られた。
 道雄は穴の中から這い上がって、みんなで穴を埋めていった。謙吾が見えなくなっていたかと思うと、墓地の下の道をバケツを提げて、登ってくるのが見えた。唇を嚙んで確かな足取りで登ってくる。が、まだ頬は赤く染まっている。
 謙吾はバケツをシートの上まで運んでそっと下ろした。
「謙さん、なんじゃ。この水をどうするんじゃ」
 親戚の人が不審そうに訊いた。
 謙吾は、何も言わなかった。黙ったまま酒瓶を持ってきて、バケツの中に少し注いだ。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は父の骨に向かって、手を合わした。
 謙吾は骨を取り上げて、バケツのなかで骨を洗った。土を洗い落とし、慈しむように優しく骨を洗うのだった。濁った眼がいくらか光を帯びてきた。謙吾は一つひとつ丁寧に骨を洗っている。みんなはそれをそっと見ていた。骨を洗うと謙吾は、早苗の作った晒しの袋に骨を納めた。謙吾は不意に立ち上がって、黙って帰ろうとした。
「謙吾、次の日曜日の母の法要に来てくれ。それが終わったら、父と母の納骨じゃ」
 道雄は帰りかけた謙吾に声をかけた。
「そうじゃのう、まだ、はっきり解からん。行けたら行くわ」
 謙吾は振り向きもせず、山道を下りながら言った。
「謙さんは何を考えとんか、よう解からんのう。母の一周忌の法要と納骨があるというのに、親不孝の奴じゃ。行けたら行く、というのは、だいたい断り文句なんじゃ。もう好きなようにさせとかにゃ仕方なかろう」
 謙吾の背中が小さくなってゆく。その背中を睨みながら親戚の人が言った。
 みんなは、道具や荷物を片付けて山道を下りていった。道雄は父の骨を寺に預けにゆくのだった。

 寒い朝だった。今朝から降り出した小雪が、家々の屋根や地面にうっすらと積もっている。空は低く垂れ込めて、鉛色をしていた。
 母の一周忌である。道雄の家族、親戚の人たちは、祭壇をしつらえた座敷に坐り、住職の来るのを待っていた。行けたら行く、と言っていた謙吾は、まだ来ていなかった。いくらか望みをもっていた道雄は、裏切られたような心持ちで座布団に坐っていた。が、あいつのことだから、ひょっこり顔を出すかも知れない、という気持ちも一方であった。道雄はそんな思いで、家の庭の方を気にしていた。
 やってきたのは、謙吾ではなく住職だった。道雄は迎えに出て、挨拶を交わした。住職は玄関で袈裟に降りかかった雪を払い、座敷に上がってきた。住職は祭壇の前に坐り、ローソクに火を点け香を焚いた。「おつとめ」という小冊子を参列者に渡した。
 父と母の骨壷は、祭壇の上段に安置されていた。今朝早く道雄が寺に行って引き取ってきたのだった。読経は四十五分くらい唱えられた。もう法要は終わろうとしていた。が、やはり謙吾は来なかった。
「やっぱり、謙さんはこなかったのう。あてにゃしてなかったが、でも淋しいのう。次男坊じゃけえのう」
 親戚の人が、道雄にそっと話しかけてきた。
「もうあてにゃできん。親戚付き合いもこれで終わりじゃろう。みなさんに迷惑をかけて申し訳ないことじゃ」
 道雄は恐縮して言った。
 法要も終わり、これから墓地に行って、お墓の開眼供養と納骨である。それぞれ車に分乗して墓地の駐車場まで行った。住職を先頭につづら折りの山道を登っていった。道雄が父の、直樹が母の骨壷を持って、住職のあとに従った。本来なら、謙吾が父の骨を抱いてゆくべきだろう。そうでなければならぬ、と道雄は心の中で呟いていた。
 お墓は三日前に建立したばかりである。この墓にまず父と母が眠るのだった。お墓に花、米、果物、水、線香がお供えされて、開眼供養が始まった。住職が読経を上げ、参列者は神妙に合掌をしている。その時、早苗が道雄のわき腹を腕でつついている。道雄は怪訝そうに早苗を見た。
「あなた、謙吾さんよ。謙吾さんが来るわよ、ほら」
 早苗は墓地につながる山道を振り向いて言った。
 謙吾は普段着で、酒を呑んでいるのか、やはり赤い顔をしていた。下を向いてうっすらと積もった雪を踏み締めながら、謙吾は山道を登ってきていた。
「チェッ、今頃になって、のこのこやってくるなんてどうかしてるよ」
 道雄は舌打ちして呟いた。
 開眼供養が終わり、次は父と母の納骨である。道雄が納骨室の蓋を開いた。
「おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ。おんあぼきゃーびろしゃな。まかぼだらまに。はんーどまじーんばら。はらばりたやうむ……」
 住職のお経が再び流れ出した。
 小雪が舞う程度だったのに、先程から斜めに雪が吹き付けている。傘もささずにやってきた謙吾の頭は、白く染まっている。
「親父の骨はどっちじゃ。それを貸せ」
 と言って、謙吾は道雄の手から奪うように骨壷を受け取った。
 謙吾は骨壷を経机の上にそっと置き、蓋を取った。骨壷の中の骨は、まるで木の根っこのように茶褐色に染まっていた。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は繰り返し繰り返し、念仏を唱えている。住職も一歩下がって、その様子を見ていた。
「なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ……」
 謙吾は憑かれたように、念仏を唱えた。
 住職はその念仏に合わせるように、鉦を打ち始めた。雪が猛烈に襲ってくる。その中で、念仏と鉦の音が沸き立つように響いた。
 やがて念仏は終わり、謙吾は壷の蓋をしてお墓に納骨しようとして持ち上げた。その時道雄は、壷のなかで骨の鳴る音をかすかに聞いた。謙吾は父の納骨を済ますと、みんなにぴょこんとひとつ頭を下げた。謙吾の濁った眼が紅く染まり、瞳が濡れていた。
 謙吾は黙って立ち去ろうとした。
「謙吾、これから会食をするんじゃ。家へ寄ってくれ」
 道雄は謙吾の背に向かって声をかけた。
 謙吾は首を横に振って、山道を下りて行った。謙吾は吹雪の中をずんずんと進んで行く。
 道雄は、白い雪の中に謙吾が見えなくなるまで、墓地に立ち尽くしていた。
プロフィール

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 1947年生まれの70歳で、
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