鬼藤千春の小説 「汐を汲む女」 中篇
汐を汲む女
鬼藤 千春
百舌が、鋭い鳴き声をあげて静寂を破り、北の山へ飛んでいった。百舌は蛙やねずみを捕らえ、木の小枝などに串刺しにし、生け贄にするといわれている。キェーッと、あとに尾を引く、不気味な悲鳴だった。周平は網の修理の手を止めて、空を睨んだ。むろん、百舌の鳥影はすでになく、山々の峰は闇に溶けようとしていた。西の空だけが、かすかな茜色に染まり、いっそう闇を浮き立たせているのだった。
「あんた、あんた」
不意に妻の、高い声が響いた。
「あんた、お婆さんがいないんよ」
エプロンで手を拭きながら、妻が玄関から飛び出して来た。
「また、ヨネ婆さんのところで、お茶でも飲んどんじゃろう」
それをしおに周平は立ち上がり、繕いのすんだ網を片付け始めた。
数年前まで網の修理は、母、夏江の仕事だった。漁師として周平の腕がいいといわれてきたのも、母の網繕いに負うところが大きかった。それは網が破れるのを恐れることなく、岩場近くに網を入れることができたからだ。が、母の目が急に衰えて、こまかい網繕いはかなわなくなった。それからは、妻の葉子と周平が手分けしてやるようになった。
「それが、ヨネ婆さんのところへ電話しても、来てないというんよ」
葉子は網の片付けを手伝いながら、周平の顔を覗き込んだ。
夕暮れのこの時間にはきまって、母は台所にいた。もう何もしてくれなくてよかったが、なにくれとなく、台所仕事を手伝った。しかし、ガスの火を付け放して忘れてしまい、鍋を焦がすことなどが時々あった。
「おかしいなぁ、分家にでもいっとりゃせんかのう」
周平は網を倉庫に押し込みながら、首を傾げた。
山も海も、海辺の町の、軒の低い家並みも、すっかり闇に溶けてしまった。空には玉ねぎをスライスしたような鋭く尖った月が、弱い光を放っていた。その細い月を流れる雲がよぎって、消えたり浮かんだりして明滅した。
周平はコップに冷酒をついでグイと飲んだ。冷酒が喉を熱くやき、胃に広がって身体がほてった。彼は電話のコードを食卓まで延ばし、分家や知り合いの家に何ヶ所かダイヤルした。
「何処へ行ったんじゃろうかのう」
彼はコップを傾けて酒を一息に飲んだ。
母は何処にもいなかった。すでに八時を回っており、いつもの食事の時間だった。二階から長男夫婦と、二人の孫たちが降りてきた。
「婆ちゃんは?」
長男の茂樹が孫を揺すり上げながら、訊いた。
「それが分からんのじゃ、何処にも居ないんじゃ」
周平は、めんどくさそうに、突き放して答えた。
ガスの火をカチッと切って、妻が慌てて茶の間に駆け込んできた。
「あんた、あんた」
菜箸を握り、それを振りながら、妻が甲高い声を挙げた。
「あんた、今日はお義父さんの月命日よ。だったら大変よ。海よ、海だわ」
葉子は語尾を挙げて、「海よ、海だわ」と叫んだ。
周平たちは、防波堤の階段をくだって、一段下の踊り場の上に降り立った。周平夫婦と茂樹の三人は、懐中電灯を照らしながら、海岸線を行き交った。海面はかすかな月の光を浴びて、激しく揺れていた。長く延びた懐中電灯の光は、せわしげに交錯して海面やコンクリートを照らし出した。「お義母さーん」と葉子の声がし、「お婆さーん」と茂樹の声が沸いて、闇にまぎれて消えていった。
父の月命日には決まって母はここへ来た。
海水を汲みにやってくるのだった。父の月命日は二十日である。が、本当は父がいつ、どこで、どのように死んだのかは、誰もしらなかった。終戦の年の五月に戦死の公報が届いたが、詳しいことは何ひとつ分からなかった。ただ、明らかなことは、三月に南方に向かっていた輸送船が、空からの攻撃で沈没したということだけである。それに父は乗っていたというのだ。
終戦の翌年の月命日から、母は今日まで欠かすことなく、墓参りをして、海水を捧げてきた。むろん、仏壇にも海水をお供えした。
父のお骨だけでなく、何ひとつ遺品は家に還らなかった。この瀬戸内海と南方の海はつながっていて、父のお骨を洗う汐が、この海辺の町に辿り着くと、母は信じていた。
周平は懐中電灯の光を沖に投げた。しかし、光は闇に吸い込まれて、遠くまで照射することができなかった。茂樹は防波堤を行きつ戻りつした。葉子は、「お義母さーん、お義母さーん」と、闇に向かって悲痛な声を挙げた。
見つからない、周平は防波堤をよじ登り、漁業組合の事務所に駆け込んだ。四人の男たちが、奥の座敷でコップ酒を飲みながら、将棋盤を囲んでいた。二人は胡坐を組み、差し向かいで将棋を打ち、あとの二人は寝転んで赤い目で、将棋盤を睨んでいた。
「大変じゃ、うちの婆さんがおらんのじゃ」
周平は息せき切って言った。
「おそらく、汐を汲みにやって来て、足を滑らしたんじゃねえかと思うんじゃ」
上がり框にへたり込んで、周平はみんなの顔を見回した。
「そうか、そりゃえらいことじゃ。よし、組合長に連絡をとって船を出そう。いま、引き潮じゃけんのう。台風が近づいとるし、海はだんだん荒ろうなる」
二人は持ち駒を将棋盤の上に投げ出し、立ち上がった。
港はにわかに慌ただしくなった。けたたましいエンジン音と、サーチライトが闇を切り裂いた。苛立ちながら、周平はもやい綱をほどき、船を漕ぎ出した。
終戦の年の、三年前に周平は生まれ、三つの春に父は死んだ。中学を終えると、父のやっていた漁師を継ぐことになった。
周平の船には葉子と茂樹が乗り、二人は舳先から身を乗り出して、海面を睨んでいた。周平は舵を握り、ゆっくりと海岸線を辿った。船は海面を裂きながら進んだ。波が白く砕け、サーチライトに照らされた海面は、万華鏡のようにきらめいた。
決して海では死ぬな、周平は舵を巧みにあやつりながら、小さく呟いていた。父もはるかな南方の海に沈み、遺骨さえ還っていないのだった。父の遺骨はいまも南方の海底で、黒潮に洗われているに違いない。いや、もはや遺骨は小さく砕けて、海の藻屑と化しているやも知れぬ、きっとそうだろう。
母は、その父の遺骨を洗って辿り着いた汐を汲みに、この海岸にやって来たのだ。終戦の翌年の父の月命日から欠かさず、ここへ来ていたから、汐を汲む女として、海辺の町では噂されていた。防波堤の階段の側壁につかまりながら、足を踏み外さないように、一段、一段慎重に、母は階段を降りてゆくのだった。そして、階段下の踊り場に降り立ち、南方の海に向かって呪文を唱え合掌をする。そして、おもむろにバケツをくくりつけた縄を、海に放り投げるのだった。
海から上がると、母はまず父の墓に参った。父の墓は山の中腹にあり、つづら折りの山道を腰を折って、登らなければならなかった。墓地に上がると、南は瀬戸内海が大きく開けていた、南方につながる海が……。母は墓地の草取りと、墓石の水洗いをして塩を撒き、聖地を清めて、先ほど汲んできたばかりの汐を、コップについでお供えした。そして、長い長い呪文を唱えるのだった。
墓参りを終えると、母は細くて急坂な山道を、雑草に足をとられながら、降りてきた。そして家に帰り、仏壇に果物やお菓子をお供えして、汐を小さなコップについで捧げるのだった。仏壇の前で母は、呪文ではなく、般若心経を、いつ果てるともなく読経した。それが母の、父の月命日の日課だった。
父だけでなく、母までも海に呑まれてはならない、と周平の心臓は早鐘のように鳴っていた。舵を握る手が汗を吹いた。周平の船は海岸線を何回か旋回したが、母の影を見つけることは出来なかった。仲間の三隻の船も、沖合いをゆっくりと旋回して、母の影を追っていた。
空は黒い雲が割れて、鋭利な三日月が不気味に光っていた。周平は空を睨みつけながら、迂闊だった、と呟いた。葉子の、「海よ、海だわ」という言葉になんの疑問もなく、船を漕ぎ出してでたが、あの墓地のある山かも知れなかった。
周平はいったん、おかに上がり、地域の消防団長のところへ駆け込んだ。消防団には、あの山道を捜索してもらうことにした。あの細い山道から、崖下に転がり落ちていないとは言えなかった。
半鐘が打ち鳴らされた。火事のときのそれとは違った、異変を報せる半鐘の音が高く、低く響いた。すっかり闇に溶けた山々にぶつかり、はじき返されて、半鐘の音はこだました。
再び、周平は船にもどり、もやい綱をほどいた。三隻の船はサーチライトを煌々と照らして、捜索の輪を広げていた。周平は沖に出て汽笛を鳴らして、仲間の船を呼んだ。
「山かもしれんので、消防団に頼んだ。海のほうは、これだけ探してもおらんのじゃけえ、網を曳いたらどうじゃろう」
周平は、仲間の船に飛び移って、一人ひとりに声をかけた。
皆、いちように、疲れの色を漂わせていたが、同意してくれた。周平は一升瓶の口をあけ、葉子に、仲間たちにコップを配らせて、ついで回った。
この漁師町では、死人が網に掛かることを、決して恐れず、怖がらなかった。時々、死人が上がったが、むしろ縁起がよいこととして、受け止められていた。吉凶の前兆だとすれば、吉の招来を占うものと信じられていた。それは、板子一枚下は地獄という船乗りの、人の命の尊さと重さを知る者たちに、自然に身に染み付いたことだったのだ。
四隻の船は放射状に広がって、網を海に投げ入れた。周平は底引き網を降ろして、エンジンをふかした。船は大きく身震いして、しだいに小刻みに震えだし、暗い海を波立たせた。
周平は暗然として声を失ない、舵を硬く握っていた。もし母が海に沈んでいるとしたら、それはもう絶望的であった。しかし周平は、決して海では死ぬな、と心のなかで叫んでいた。葉子と茂樹は舳先からともに移り、網が長く延びた先を、じっと目を凝らして見ている。スクリューが、海をかきまぜ波を白く泡立たせながら、ゆっくりゆっくりと進んだ。
終戦になって母は、周平と、いま北海道にいる弟の直樹を育てるために、魚市場に勤めるようになった。周平は一途な母の働く姿が瞼に焼き付いている。と同時に、貧しい暮らしぶりが、甦ってくるのだった。
周平が小学校六年生の折、京都への修学旅行があったが、その願いは叶わなかった。周平はまだ汽車に乗ったことがなかった。海辺
の町から山ひとつ越えたところに、西から東へ、東から西へと線路は延びていた。周平はこの町の、最も高い竜王山という山によく登った。その頂きに立つと、線路が銀色に光って、蛇のように長く延びているのが見渡せた。時々、白い煙を吐き出しながら、玩具のような汽車が田んぼのなかを東へ、西へと行き交った。周平は汽車をめざとく見つけると、赤松の木に上り、胸をわくわくさせながら、視野から消えるまで見送った。
周平は、その汽車に何かを託していたように思う。この閉鎖的な海の町のその先にあるもの、そう、都会の空気に憧れていたのだった。京都の修学旅行は、周平の心をときめかせ、夢を大きく広げるものだった。
しかし、周平は旅行費用を集金日までに、担任の先生に渡すことが出来なかった。母に何度催促しても用立ててくれなかったし、用立てられもしなかった。明日京都行きだという晩、周平は激しく、強く母を責めた。周平は布団にもぐって号泣した。母は唇を固くむすび、黙って内職の帽子を織っていた。周平は激しく母をののしり、しばらく泣き続けた。周平はそのまま深い眠りに落ちていった。
重い網を曳いている船は、低く鈍いエンジン音をさせて、体を震わせていた。周平は右手で舵を握ったまま、振り返って山の中腹を見上げた。闇に溶けた山のなかで、懐中電灯は蛍火のように揺れていた。墓地のある辺りから、それに続くつづら折りの道を探しているのだろう。犬の遠吠えが闇を切り裂き、それに連鎖して、村々の犬が吠えるのが聞こえる。まるで鋭く尖った三日月に向かって、吠えているようだった。
母はいったい何処にいるのだろう、海なのか、山なのか、母はまだ見つからなかった。死ぬな、父の月命日には死ぬな、周平は網を曳きながら、呪文のように呟いていた。父のいない生活は、周平の生き方にも影を落としてきたのだった。
周平が中学生にあがったばかりの時だった。周平は雨が降ると学校を休んだ。と、いうより、休まざるを得なかった、というのが当たっているだろう。
周平は夜明け前のまどろみの中で、かすかな音がしたように思った。それは遥かに遠いようにも、すぐ耳元でする音のようにも感じられた。夢なのかも知れない、心もとないものだった。周平はその音を振り払うように寝返りをうち、再び浅い眠りに落ちた。
その音は遠くのほうから、ひたひたと近づいてきた。周平は浅い眠りの中で、今度は、はっきりとその音を捉えることができた。下屋のトタン屋根を激しく叩く雨と、雨だれの音だった。
周平は布団を蹴って上体を起こし、その雨音を確かめながら、身体が硬く凍ってゆくのを感じた。周平には雨具がなかったのである。
雨具、つまり傘と長靴である。中学校は周平の家から約一キロ先にあった。
布団から抜け出て、周平は立て付けの悪い雨戸を開けて、空を仰いだ。鉛色の空が低く垂れこめ、銀色の雨が糸を引いていた。トタン屋根を叩く雨音は、高く響き、周平の心を憂鬱にさせるばかりだった。
周平は母を恨んだ。布団にもぐりこんで周平は泣いた。母は暗いうちから魚市場に出ており、家には弟の直樹がまだ眠りを貪っているだけだった。周平は、父の不在を呪った。
家の前の県道は通学路になっていた。そこから、子供たちのはしゃいだ声が、周平の耳に突き刺さってくる。雨戸を少しだけ開けて、外の様子をうかがった。小学生や中学生たちは、黒い雨傘をくるくる回しながら、泥んこの道をゆくのだった。長靴で水溜りの中に入り、水とたわむれ、雨とたわむれていた。
子供たちが明るく弾んだ声で、はしゃげばはしゃぐほど、周平の心は閉ざされ、塞がれていった。この雨戸の内と外は、たった一枚の板で仕切られているだけだったが、暗くて深い溝のような、大きな隔たりがあった。いってみれば、光と闇の世界ほどに違っていた。
学校に行けない、この貧しさと惨めさと劣等感が、周平をさいなんだ。彼は母と、そして、遠い父を恨み憎んだ。握り潰してしまうほどに、こぶしをぎゅっと固めて、母の枕を殴りつづけた。母と父が、この薄暗い雨戸の内側に、周平を閉じ込めているように、感じないわけにはいかなかった。
不意に一隻の船が汽笛を鳴らして、サーチライトを点滅させた。周平は、母だ、母が見つかったのだ、と叫んで、葉子と茂樹に網を上げるように怒鳴った。
鋭い月は流れる暗雲に呑み込まれて、空は漆黒の闇だった。山の中腹では蛍火のようなかぼそい光が、幽かに揺れていた。周平は仲間の船にぶつかるような勢いで近づき、もやい綱を投げた。他の船も一隻の船を包み込むように取り囲んだ。波の揺れに擦れ合う船は、ギイー、ギイーと悲鳴を上げていた。
母は底引き網の中で、まるで子宮のなかの胎児のように、身体をくの字に折っていた。周平は、「おかァー」とひとつ叫んで、網をほどいた。母は腹をふくらませ、蒼白な顔をしていた。首をガクッと横に折って、手足をだらんと、伸ばしている。しかし、眼はカッと見開き、遠くを睨みつけていた。周平は、「おかァー」と叫びながら、腹部を強く押した。母は口をわずかに開き、水を吐き出し、泡を吹いた。
周平は母の胸に耳を押し付け、手の脈をとった。もう心臓の鼓動もなく、脈も打っていなかった。 「お義母さーん、起きて、起きてッ」
葉子は、母の肩を抱き、揺さぶり続けた。
母が死んだ、父と同じ海で死んだ。父の骨を洗った南の海水を大量に飲んで、母は死んだ。父が死んで五十三年が経っていた。爾来、ほとんど欠かすことなく、父の月命日にはこの海に、汐を汲みに来たのだった。
半鐘が打ち鳴らされ、母が見つかったことが、知らされた。犬の遠吠えが、闇のなかでこだまとなって反響した。怖れおののくように犬は吠え続けた。雲が裂けて三日月が輝いていた。消防団の人たちは、山から降りてきた。
床の間で母を浴衣に着替えさせようとしたとき、何か小さなものが、音もなく転がり落ちた。母の首にはくすんだ緋色のお守りが巻かれ、吊り下がっていた。どうやらお守りから転げ落ちたようだった。三日月のような形をしていた。
「あんた、なにかしら」
葉子は怪訝そうに、その小さなものを拾い上げて言った。
周平はその欠けたものを、葉子からもぎとり、しげしげと眺めていたが、
「ボタンじゃ、欠けとるけぇどボタンに違やぁせん」
周平はそれを掌に乗せ、くるくると回しながら言った。
彼はお守りを母の首からはずし、緩んだ紐をほどいた。内から二個のボタン、それに欠けたボタンがぽとりと落ちた。
「このボタンはなんじゃろうかのう」
周平は畳の上にボタンをふたつ並べ、もうひとつの、欠けたボタンを組み合わせながら言った。
周平は心当たりがなく、何も思いつかなかった。しかし、母が肌身離さず、首から提げていたお守りの内に、秘められていたボタンとはいったいなんだろうか。
「あんた、これは、お義父さんの形見のボタンじゃないかしら」
葉子はボタンをひとつ摘まみ上げて、高い声を挙げた。
そのボタンは海老茶色の、プラスチックで出来ており、中ほどによっつの目が開いている。それは背広のボタンに違いなかった。
「親父の形見のボタンか……」
そうかも知れない、と思いながら、周平は小さく呟いた。
「お墓のなかに、このボタンとお守りを入れちゃろうやぁ」
周平はボタンを、手に硬く握り締めた。
母を浴衣に着替えさせると、周平は一升瓶を母の枕元に据えて、コップになみなみと酒をついだ。何の因果か知らないが、父の月命日に死ぬるなんて、と呟きながら、周平はコップ酒を一気に飲み干した。線香の煙がひとすじ揺れながら立ち昇り、天井にぶつかって、たなびいていた。線香は紅く先を染め、紫を帯びた白い煙が、絶え間なく湧き出ていた。線香のにおいが部屋に溢れ、周平の心をいくらか落ち着かせた。
周平は母の顔から白布を剥ぎとって、しきみの葉をコップ酒に浸して、母の唇を湿らせてやった。普通は水でやるのだが、嫌というほどに水は飲んだのだから、酒のほうがふさわしいと、周平は思った。母の唇は乾き、濃紺に染まっていた。
明日、いや、もう深夜もとうに過ぎたのだから、今日が通夜で、明日が葬儀であった。
「あんた、横になったらどう、疲れを出しますよ」
いきなり葉子の声が、上から降ってきた。
「お前こそ、ひと眠りしたらどうじゃ、これからなにやかやと、ぎょうさんすることがあるでぇ」
周平はコップ酒をひと口舐めた。
彼は今夜、眠るつもりはなかった。母はもう口を開くことはないが、彼は酒を舐めながら、夜明けまで母と、語り尽くすつもりだったのだ。
「それじゃ、わたしは少し横にならしてもらうから、何かあったら呼んでちょうだい」
葉子は鉦をひとつ打ち、線香を一本突き刺して、次の間に消えた。
周平は冷酒のコップを舐めながら、母の顔を覗き込んだ。けっしておだやかで、安らかな眠りとはいえなかった。蒼白な顔で唇を歪め、もし目を開ければ、周平を睨みつけてくるような気がした。鬼気迫るような光景で、周平は一瞬たじろぎ、怖いと思った。
彼は母の顔に白布をそっと乗せて、酒を一気に飲んだ。なぜ母は安らかな眠りにつけないのか、周平はそう思いながら、あせた緋色のお守りを手にとって眺めていた。その折、お守りから何かが舞い落ちた。紙を小さく折り畳んだもののように見えた。
それを周平は拾い上げ、用心深く紙の襞を広げてゆき、畳の上にのばした。何か字が書かれているが、字はにじみ掠れて、ほとんど判読できないものだった。しかも、周平はいささか酔っており、見るものが白いベールにかかったようで、かすんで見えていた。
周平は隣の部屋で横になっている、葉子に声をかけた。葉子は両手で髪をなおしながら、怪訝な顔をして入ってきた。
「これはなんじゃろうかのう。おかァのお守りから、でてきたんじゃ。何か書いとるようなんじゃけえど、さっぱりわからんのじゃ」
周平は畳の上の紙片をのばしながら言った。
葉子は周平のそばに坐り、紙片を覗き込みながら、手にとった。
「あんた、やっぱり何が書いてあるか判らないわ。でも、これは詩のようだわ。ルーペを持ってきてみるわ」
葉子は納戸のほうへ、小走りで出て行った。
周平は紙片に懐中電灯をあてて、執拗に読み取ろうと試みたが、字は浮かび上がってこなかった。紙片の折り目は裂け、字はにじんでいた。
納戸から戻った葉子は、紙片を自分のほうに用心深く引き寄せ、ルーペをかざして紙片を睨んでいた。しばらくたって、
「あっ」
と、葉子は息を呑むような声を挙げた。
「あ・ゝ・を・と・う・と・よ、」
葉子は一字一字、句切りながら、読み上げた。
「君・を・泣・く、」
一字ずつ、字を掬い上げていった。
「君・死・に・た・ま・ふ・こ・と・な・かれ、」
葉子は、ふーっと、大きくため息をついて肩の力をぬいた。
「あんた、晶子よ、与謝野晶子よ、中学校の教科書に出ていたでしょ」
葉子は周平の顔を覗き込んだ。
周平は詩も人も、まったく覚えていなかった。とうに忘れさっており、習ったかどうかも分からなかった。ただ、母がこの詩をいつから身につけていたのか、父が出征した時からなのか、それとも戦後になってからなのか、あるいは、魚市場を定年退職して短歌を始めてからなのか、それを知りたいと思った。しかし、今となっては、それは叶わぬことだった。
「おかァー」
周平は白布をとって叫んだ。
その時、鐘が鳴った。低く鈍い鐘の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。峠にある寺の、鐘楼で打たれる鐘の音だった。毎日欠かさず、夜明けの六時に打たれるのだった。もう夜の眠りから覚めて、窓外は白んでいた。もうひとつ鐘がなり、空気を震わしながら、その波動が周平の耳を打った。
「おい、墓参りをするぞ」
周平は急に立ち上がって、葉子に声をかけた。
父の月命日に、汐をお墓にお供えしようという、母の想いは断ち切られたままだ。周平と葉子は、まず海に向かった。
台風が近づいているという海は、白い波が泡立ち岸辺を洗っていた。小船は木の葉のように、荒くれた波にもまれていた。空は低く垂れ込め、雲は千切れるように飛んでいた。周平は防波堤の階段を降りて、下の踊り場に立ち、さらにすすんで捨て石の上に降りた。足元に白い波が牙をむいて押し寄せ、砕けていた。
周平は遠い空を仰ぎ、海に向かって神妙に合掌をし、「南無阿弥陀仏」を七回繰り返した。そして、縄をくくりつけたバケツを、海に放り込んだ。バケツはくるっと一回転して、海に突き刺さった。汐を汲み上げ、周平はバケツを持ち、葉子は新聞紙にくるんだ花束を抱えて、海岸を後にした。
低い軒を寄せ合った、家々のあいだの細い路地をゆくと、急に開けて畑があらわれ、それに続いて、山々の峰が見渡せた。まだ眠りから覚めぬ山々の稜線は、鉛色の空をくっきりと切り取っていた。
そこから急に坂道になる。しばらく登ってゆくと、他の村から登ってくる道と交差するところに、お堂が建てられていた。お地蔵様をお祀りしているお堂である。
周平はお地蔵様に、線香と汐をお供えして手を合わした。線香の煙は強い風にあおられ、直角にへし折られたように、揺れながら飛んでいった。墓地へと続く道は、雑草におおわれ、幾重にも折れ曲がっていた。
道の土手には、真紅の曼珠沙華が点々と咲き乱れていた。それが墓地まで、まるで地獄への水先案内のように続いていた。周平と葉子はそのつづら折りの道を、草を分けながら登っていった。山の中腹に切り開かれた墓地の斜面には、曼珠沙華が強い風にあおられて乱舞していた。曼珠沙華は天上の花というより、毒々しく、あまりにも強烈な、死の影のする深い紅色だった。
遠くで海鳴りがし、すぐそばの山は吼えている。明日にも紀伊半島に台風が上陸するといわれていた。強い風が周平の頬を激しく打った。
周平は、父の墓の納骨室の入り口をこじ開けた。ぽっかりと暗い穴が口を開いた。目を凝らして内を覗くと、蜘蛛の巣が張られ、その糸は絹のように輝いていた。納骨室にはなんにもなかった。父の遺骨は還って来なかったのだ。ただ、父の形見の望遠鏡だけが眠っていた。この墓をつくった時、周平は数少ない形見の中から、父が漁師の仕事で使っていた、望遠鏡を納めたのだった。
この墓に母は眠るのだ。満中陰の法要の日には、母のお骨がつづら折りの道を、鉦の音とともに登ってくる。蛇のように長く黒い列が、登ってくるのだ。周平と葉子は、納骨室の蜘蛛の巣を払い、お墓を洗浄して、花と汐をお供えした。そうして、父の形見のボタンと、あの詩の入ったお守りを、望遠鏡のかたわらに寄り添わせて納めた。
「あんた、これからは、父と母の月命日には、私たちが汐を汲んで、墓参りをしなければ駄目ね」
葉子は花に水を注ぎながら言った。
「…………」
周平は、唇を固く噛んで黙っていた。
もう、いいだろう、充分すぎるほど父の供養はしてきたではないか。それに、母を憎み恨んで、父を呪ってきた周平であった。もうこれで終止符を打つべきではないか、と周平はにがにがしく思うのだった。
周平は墓地の土手に降りて、固い蕾みの曼珠沙華を二本折って、上がってきた。彼はお墓の左右の花立に、一本づつ曼珠沙華を投げ入れた。その時、風が激しく舞い、曼珠沙華は大きく揺れた。
周平は杓で汐を汲み、荒々しく曼珠沙華の上に雨を降らした。 ∧これが、父の骨を洗い、母が大量に飲んだ南方の汐だ。曼珠沙華よ、この汐をお前も飲め、そして、もっともっと、赤く赤く、限りなく黒に近い花びらを咲かせてみろ、∨ 周平は心の内で叫んでいたが、声にならなかった。激しい怒りが胸を突き上げてきた。その時はじめて、周平の瞳に涙が溢れた。
「そうだな、――」
周平は短くそして強く、そう言って、葉子を振り返った。
その時、ごうーっと火を噴くように、裏山がまた牙をむいて吼えた。
鬼藤 千春
百舌が、鋭い鳴き声をあげて静寂を破り、北の山へ飛んでいった。百舌は蛙やねずみを捕らえ、木の小枝などに串刺しにし、生け贄にするといわれている。キェーッと、あとに尾を引く、不気味な悲鳴だった。周平は網の修理の手を止めて、空を睨んだ。むろん、百舌の鳥影はすでになく、山々の峰は闇に溶けようとしていた。西の空だけが、かすかな茜色に染まり、いっそう闇を浮き立たせているのだった。
「あんた、あんた」
不意に妻の、高い声が響いた。
「あんた、お婆さんがいないんよ」
エプロンで手を拭きながら、妻が玄関から飛び出して来た。
「また、ヨネ婆さんのところで、お茶でも飲んどんじゃろう」
それをしおに周平は立ち上がり、繕いのすんだ網を片付け始めた。
数年前まで網の修理は、母、夏江の仕事だった。漁師として周平の腕がいいといわれてきたのも、母の網繕いに負うところが大きかった。それは網が破れるのを恐れることなく、岩場近くに網を入れることができたからだ。が、母の目が急に衰えて、こまかい網繕いはかなわなくなった。それからは、妻の葉子と周平が手分けしてやるようになった。
「それが、ヨネ婆さんのところへ電話しても、来てないというんよ」
葉子は網の片付けを手伝いながら、周平の顔を覗き込んだ。
夕暮れのこの時間にはきまって、母は台所にいた。もう何もしてくれなくてよかったが、なにくれとなく、台所仕事を手伝った。しかし、ガスの火を付け放して忘れてしまい、鍋を焦がすことなどが時々あった。
「おかしいなぁ、分家にでもいっとりゃせんかのう」
周平は網を倉庫に押し込みながら、首を傾げた。
山も海も、海辺の町の、軒の低い家並みも、すっかり闇に溶けてしまった。空には玉ねぎをスライスしたような鋭く尖った月が、弱い光を放っていた。その細い月を流れる雲がよぎって、消えたり浮かんだりして明滅した。
周平はコップに冷酒をついでグイと飲んだ。冷酒が喉を熱くやき、胃に広がって身体がほてった。彼は電話のコードを食卓まで延ばし、分家や知り合いの家に何ヶ所かダイヤルした。
「何処へ行ったんじゃろうかのう」
彼はコップを傾けて酒を一息に飲んだ。
母は何処にもいなかった。すでに八時を回っており、いつもの食事の時間だった。二階から長男夫婦と、二人の孫たちが降りてきた。
「婆ちゃんは?」
長男の茂樹が孫を揺すり上げながら、訊いた。
「それが分からんのじゃ、何処にも居ないんじゃ」
周平は、めんどくさそうに、突き放して答えた。
ガスの火をカチッと切って、妻が慌てて茶の間に駆け込んできた。
「あんた、あんた」
菜箸を握り、それを振りながら、妻が甲高い声を挙げた。
「あんた、今日はお義父さんの月命日よ。だったら大変よ。海よ、海だわ」
葉子は語尾を挙げて、「海よ、海だわ」と叫んだ。
周平たちは、防波堤の階段をくだって、一段下の踊り場の上に降り立った。周平夫婦と茂樹の三人は、懐中電灯を照らしながら、海岸線を行き交った。海面はかすかな月の光を浴びて、激しく揺れていた。長く延びた懐中電灯の光は、せわしげに交錯して海面やコンクリートを照らし出した。「お義母さーん」と葉子の声がし、「お婆さーん」と茂樹の声が沸いて、闇にまぎれて消えていった。
父の月命日には決まって母はここへ来た。
海水を汲みにやってくるのだった。父の月命日は二十日である。が、本当は父がいつ、どこで、どのように死んだのかは、誰もしらなかった。終戦の年の五月に戦死の公報が届いたが、詳しいことは何ひとつ分からなかった。ただ、明らかなことは、三月に南方に向かっていた輸送船が、空からの攻撃で沈没したということだけである。それに父は乗っていたというのだ。
終戦の翌年の月命日から、母は今日まで欠かすことなく、墓参りをして、海水を捧げてきた。むろん、仏壇にも海水をお供えした。
父のお骨だけでなく、何ひとつ遺品は家に還らなかった。この瀬戸内海と南方の海はつながっていて、父のお骨を洗う汐が、この海辺の町に辿り着くと、母は信じていた。
周平は懐中電灯の光を沖に投げた。しかし、光は闇に吸い込まれて、遠くまで照射することができなかった。茂樹は防波堤を行きつ戻りつした。葉子は、「お義母さーん、お義母さーん」と、闇に向かって悲痛な声を挙げた。
見つからない、周平は防波堤をよじ登り、漁業組合の事務所に駆け込んだ。四人の男たちが、奥の座敷でコップ酒を飲みながら、将棋盤を囲んでいた。二人は胡坐を組み、差し向かいで将棋を打ち、あとの二人は寝転んで赤い目で、将棋盤を睨んでいた。
「大変じゃ、うちの婆さんがおらんのじゃ」
周平は息せき切って言った。
「おそらく、汐を汲みにやって来て、足を滑らしたんじゃねえかと思うんじゃ」
上がり框にへたり込んで、周平はみんなの顔を見回した。
「そうか、そりゃえらいことじゃ。よし、組合長に連絡をとって船を出そう。いま、引き潮じゃけんのう。台風が近づいとるし、海はだんだん荒ろうなる」
二人は持ち駒を将棋盤の上に投げ出し、立ち上がった。
港はにわかに慌ただしくなった。けたたましいエンジン音と、サーチライトが闇を切り裂いた。苛立ちながら、周平はもやい綱をほどき、船を漕ぎ出した。
終戦の年の、三年前に周平は生まれ、三つの春に父は死んだ。中学を終えると、父のやっていた漁師を継ぐことになった。
周平の船には葉子と茂樹が乗り、二人は舳先から身を乗り出して、海面を睨んでいた。周平は舵を握り、ゆっくりと海岸線を辿った。船は海面を裂きながら進んだ。波が白く砕け、サーチライトに照らされた海面は、万華鏡のようにきらめいた。
決して海では死ぬな、周平は舵を巧みにあやつりながら、小さく呟いていた。父もはるかな南方の海に沈み、遺骨さえ還っていないのだった。父の遺骨はいまも南方の海底で、黒潮に洗われているに違いない。いや、もはや遺骨は小さく砕けて、海の藻屑と化しているやも知れぬ、きっとそうだろう。
母は、その父の遺骨を洗って辿り着いた汐を汲みに、この海岸にやって来たのだ。終戦の翌年の父の月命日から欠かさず、ここへ来ていたから、汐を汲む女として、海辺の町では噂されていた。防波堤の階段の側壁につかまりながら、足を踏み外さないように、一段、一段慎重に、母は階段を降りてゆくのだった。そして、階段下の踊り場に降り立ち、南方の海に向かって呪文を唱え合掌をする。そして、おもむろにバケツをくくりつけた縄を、海に放り投げるのだった。
海から上がると、母はまず父の墓に参った。父の墓は山の中腹にあり、つづら折りの山道を腰を折って、登らなければならなかった。墓地に上がると、南は瀬戸内海が大きく開けていた、南方につながる海が……。母は墓地の草取りと、墓石の水洗いをして塩を撒き、聖地を清めて、先ほど汲んできたばかりの汐を、コップについでお供えした。そして、長い長い呪文を唱えるのだった。
墓参りを終えると、母は細くて急坂な山道を、雑草に足をとられながら、降りてきた。そして家に帰り、仏壇に果物やお菓子をお供えして、汐を小さなコップについで捧げるのだった。仏壇の前で母は、呪文ではなく、般若心経を、いつ果てるともなく読経した。それが母の、父の月命日の日課だった。
父だけでなく、母までも海に呑まれてはならない、と周平の心臓は早鐘のように鳴っていた。舵を握る手が汗を吹いた。周平の船は海岸線を何回か旋回したが、母の影を見つけることは出来なかった。仲間の三隻の船も、沖合いをゆっくりと旋回して、母の影を追っていた。
空は黒い雲が割れて、鋭利な三日月が不気味に光っていた。周平は空を睨みつけながら、迂闊だった、と呟いた。葉子の、「海よ、海だわ」という言葉になんの疑問もなく、船を漕ぎ出してでたが、あの墓地のある山かも知れなかった。
周平はいったん、おかに上がり、地域の消防団長のところへ駆け込んだ。消防団には、あの山道を捜索してもらうことにした。あの細い山道から、崖下に転がり落ちていないとは言えなかった。
半鐘が打ち鳴らされた。火事のときのそれとは違った、異変を報せる半鐘の音が高く、低く響いた。すっかり闇に溶けた山々にぶつかり、はじき返されて、半鐘の音はこだました。
再び、周平は船にもどり、もやい綱をほどいた。三隻の船はサーチライトを煌々と照らして、捜索の輪を広げていた。周平は沖に出て汽笛を鳴らして、仲間の船を呼んだ。
「山かもしれんので、消防団に頼んだ。海のほうは、これだけ探してもおらんのじゃけえ、網を曳いたらどうじゃろう」
周平は、仲間の船に飛び移って、一人ひとりに声をかけた。
皆、いちように、疲れの色を漂わせていたが、同意してくれた。周平は一升瓶の口をあけ、葉子に、仲間たちにコップを配らせて、ついで回った。
この漁師町では、死人が網に掛かることを、決して恐れず、怖がらなかった。時々、死人が上がったが、むしろ縁起がよいこととして、受け止められていた。吉凶の前兆だとすれば、吉の招来を占うものと信じられていた。それは、板子一枚下は地獄という船乗りの、人の命の尊さと重さを知る者たちに、自然に身に染み付いたことだったのだ。
四隻の船は放射状に広がって、網を海に投げ入れた。周平は底引き網を降ろして、エンジンをふかした。船は大きく身震いして、しだいに小刻みに震えだし、暗い海を波立たせた。
周平は暗然として声を失ない、舵を硬く握っていた。もし母が海に沈んでいるとしたら、それはもう絶望的であった。しかし周平は、決して海では死ぬな、と心のなかで叫んでいた。葉子と茂樹は舳先からともに移り、網が長く延びた先を、じっと目を凝らして見ている。スクリューが、海をかきまぜ波を白く泡立たせながら、ゆっくりゆっくりと進んだ。
終戦になって母は、周平と、いま北海道にいる弟の直樹を育てるために、魚市場に勤めるようになった。周平は一途な母の働く姿が瞼に焼き付いている。と同時に、貧しい暮らしぶりが、甦ってくるのだった。
周平が小学校六年生の折、京都への修学旅行があったが、その願いは叶わなかった。周平はまだ汽車に乗ったことがなかった。海辺
の町から山ひとつ越えたところに、西から東へ、東から西へと線路は延びていた。周平はこの町の、最も高い竜王山という山によく登った。その頂きに立つと、線路が銀色に光って、蛇のように長く延びているのが見渡せた。時々、白い煙を吐き出しながら、玩具のような汽車が田んぼのなかを東へ、西へと行き交った。周平は汽車をめざとく見つけると、赤松の木に上り、胸をわくわくさせながら、視野から消えるまで見送った。
周平は、その汽車に何かを託していたように思う。この閉鎖的な海の町のその先にあるもの、そう、都会の空気に憧れていたのだった。京都の修学旅行は、周平の心をときめかせ、夢を大きく広げるものだった。
しかし、周平は旅行費用を集金日までに、担任の先生に渡すことが出来なかった。母に何度催促しても用立ててくれなかったし、用立てられもしなかった。明日京都行きだという晩、周平は激しく、強く母を責めた。周平は布団にもぐって号泣した。母は唇を固くむすび、黙って内職の帽子を織っていた。周平は激しく母をののしり、しばらく泣き続けた。周平はそのまま深い眠りに落ちていった。
重い網を曳いている船は、低く鈍いエンジン音をさせて、体を震わせていた。周平は右手で舵を握ったまま、振り返って山の中腹を見上げた。闇に溶けた山のなかで、懐中電灯は蛍火のように揺れていた。墓地のある辺りから、それに続くつづら折りの道を探しているのだろう。犬の遠吠えが闇を切り裂き、それに連鎖して、村々の犬が吠えるのが聞こえる。まるで鋭く尖った三日月に向かって、吠えているようだった。
母はいったい何処にいるのだろう、海なのか、山なのか、母はまだ見つからなかった。死ぬな、父の月命日には死ぬな、周平は網を曳きながら、呪文のように呟いていた。父のいない生活は、周平の生き方にも影を落としてきたのだった。
周平が中学生にあがったばかりの時だった。周平は雨が降ると学校を休んだ。と、いうより、休まざるを得なかった、というのが当たっているだろう。
周平は夜明け前のまどろみの中で、かすかな音がしたように思った。それは遥かに遠いようにも、すぐ耳元でする音のようにも感じられた。夢なのかも知れない、心もとないものだった。周平はその音を振り払うように寝返りをうち、再び浅い眠りに落ちた。
その音は遠くのほうから、ひたひたと近づいてきた。周平は浅い眠りの中で、今度は、はっきりとその音を捉えることができた。下屋のトタン屋根を激しく叩く雨と、雨だれの音だった。
周平は布団を蹴って上体を起こし、その雨音を確かめながら、身体が硬く凍ってゆくのを感じた。周平には雨具がなかったのである。
雨具、つまり傘と長靴である。中学校は周平の家から約一キロ先にあった。
布団から抜け出て、周平は立て付けの悪い雨戸を開けて、空を仰いだ。鉛色の空が低く垂れこめ、銀色の雨が糸を引いていた。トタン屋根を叩く雨音は、高く響き、周平の心を憂鬱にさせるばかりだった。
周平は母を恨んだ。布団にもぐりこんで周平は泣いた。母は暗いうちから魚市場に出ており、家には弟の直樹がまだ眠りを貪っているだけだった。周平は、父の不在を呪った。
家の前の県道は通学路になっていた。そこから、子供たちのはしゃいだ声が、周平の耳に突き刺さってくる。雨戸を少しだけ開けて、外の様子をうかがった。小学生や中学生たちは、黒い雨傘をくるくる回しながら、泥んこの道をゆくのだった。長靴で水溜りの中に入り、水とたわむれ、雨とたわむれていた。
子供たちが明るく弾んだ声で、はしゃげばはしゃぐほど、周平の心は閉ざされ、塞がれていった。この雨戸の内と外は、たった一枚の板で仕切られているだけだったが、暗くて深い溝のような、大きな隔たりがあった。いってみれば、光と闇の世界ほどに違っていた。
学校に行けない、この貧しさと惨めさと劣等感が、周平をさいなんだ。彼は母と、そして、遠い父を恨み憎んだ。握り潰してしまうほどに、こぶしをぎゅっと固めて、母の枕を殴りつづけた。母と父が、この薄暗い雨戸の内側に、周平を閉じ込めているように、感じないわけにはいかなかった。
不意に一隻の船が汽笛を鳴らして、サーチライトを点滅させた。周平は、母だ、母が見つかったのだ、と叫んで、葉子と茂樹に網を上げるように怒鳴った。
鋭い月は流れる暗雲に呑み込まれて、空は漆黒の闇だった。山の中腹では蛍火のようなかぼそい光が、幽かに揺れていた。周平は仲間の船にぶつかるような勢いで近づき、もやい綱を投げた。他の船も一隻の船を包み込むように取り囲んだ。波の揺れに擦れ合う船は、ギイー、ギイーと悲鳴を上げていた。
母は底引き網の中で、まるで子宮のなかの胎児のように、身体をくの字に折っていた。周平は、「おかァー」とひとつ叫んで、網をほどいた。母は腹をふくらませ、蒼白な顔をしていた。首をガクッと横に折って、手足をだらんと、伸ばしている。しかし、眼はカッと見開き、遠くを睨みつけていた。周平は、「おかァー」と叫びながら、腹部を強く押した。母は口をわずかに開き、水を吐き出し、泡を吹いた。
周平は母の胸に耳を押し付け、手の脈をとった。もう心臓の鼓動もなく、脈も打っていなかった。 「お義母さーん、起きて、起きてッ」
葉子は、母の肩を抱き、揺さぶり続けた。
母が死んだ、父と同じ海で死んだ。父の骨を洗った南の海水を大量に飲んで、母は死んだ。父が死んで五十三年が経っていた。爾来、ほとんど欠かすことなく、父の月命日にはこの海に、汐を汲みに来たのだった。
半鐘が打ち鳴らされ、母が見つかったことが、知らされた。犬の遠吠えが、闇のなかでこだまとなって反響した。怖れおののくように犬は吠え続けた。雲が裂けて三日月が輝いていた。消防団の人たちは、山から降りてきた。
床の間で母を浴衣に着替えさせようとしたとき、何か小さなものが、音もなく転がり落ちた。母の首にはくすんだ緋色のお守りが巻かれ、吊り下がっていた。どうやらお守りから転げ落ちたようだった。三日月のような形をしていた。
「あんた、なにかしら」
葉子は怪訝そうに、その小さなものを拾い上げて言った。
周平はその欠けたものを、葉子からもぎとり、しげしげと眺めていたが、
「ボタンじゃ、欠けとるけぇどボタンに違やぁせん」
周平はそれを掌に乗せ、くるくると回しながら言った。
彼はお守りを母の首からはずし、緩んだ紐をほどいた。内から二個のボタン、それに欠けたボタンがぽとりと落ちた。
「このボタンはなんじゃろうかのう」
周平は畳の上にボタンをふたつ並べ、もうひとつの、欠けたボタンを組み合わせながら言った。
周平は心当たりがなく、何も思いつかなかった。しかし、母が肌身離さず、首から提げていたお守りの内に、秘められていたボタンとはいったいなんだろうか。
「あんた、これは、お義父さんの形見のボタンじゃないかしら」
葉子はボタンをひとつ摘まみ上げて、高い声を挙げた。
そのボタンは海老茶色の、プラスチックで出来ており、中ほどによっつの目が開いている。それは背広のボタンに違いなかった。
「親父の形見のボタンか……」
そうかも知れない、と思いながら、周平は小さく呟いた。
「お墓のなかに、このボタンとお守りを入れちゃろうやぁ」
周平はボタンを、手に硬く握り締めた。
母を浴衣に着替えさせると、周平は一升瓶を母の枕元に据えて、コップになみなみと酒をついだ。何の因果か知らないが、父の月命日に死ぬるなんて、と呟きながら、周平はコップ酒を一気に飲み干した。線香の煙がひとすじ揺れながら立ち昇り、天井にぶつかって、たなびいていた。線香は紅く先を染め、紫を帯びた白い煙が、絶え間なく湧き出ていた。線香のにおいが部屋に溢れ、周平の心をいくらか落ち着かせた。
周平は母の顔から白布を剥ぎとって、しきみの葉をコップ酒に浸して、母の唇を湿らせてやった。普通は水でやるのだが、嫌というほどに水は飲んだのだから、酒のほうがふさわしいと、周平は思った。母の唇は乾き、濃紺に染まっていた。
明日、いや、もう深夜もとうに過ぎたのだから、今日が通夜で、明日が葬儀であった。
「あんた、横になったらどう、疲れを出しますよ」
いきなり葉子の声が、上から降ってきた。
「お前こそ、ひと眠りしたらどうじゃ、これからなにやかやと、ぎょうさんすることがあるでぇ」
周平はコップ酒をひと口舐めた。
彼は今夜、眠るつもりはなかった。母はもう口を開くことはないが、彼は酒を舐めながら、夜明けまで母と、語り尽くすつもりだったのだ。
「それじゃ、わたしは少し横にならしてもらうから、何かあったら呼んでちょうだい」
葉子は鉦をひとつ打ち、線香を一本突き刺して、次の間に消えた。
周平は冷酒のコップを舐めながら、母の顔を覗き込んだ。けっしておだやかで、安らかな眠りとはいえなかった。蒼白な顔で唇を歪め、もし目を開ければ、周平を睨みつけてくるような気がした。鬼気迫るような光景で、周平は一瞬たじろぎ、怖いと思った。
彼は母の顔に白布をそっと乗せて、酒を一気に飲んだ。なぜ母は安らかな眠りにつけないのか、周平はそう思いながら、あせた緋色のお守りを手にとって眺めていた。その折、お守りから何かが舞い落ちた。紙を小さく折り畳んだもののように見えた。
それを周平は拾い上げ、用心深く紙の襞を広げてゆき、畳の上にのばした。何か字が書かれているが、字はにじみ掠れて、ほとんど判読できないものだった。しかも、周平はいささか酔っており、見るものが白いベールにかかったようで、かすんで見えていた。
周平は隣の部屋で横になっている、葉子に声をかけた。葉子は両手で髪をなおしながら、怪訝な顔をして入ってきた。
「これはなんじゃろうかのう。おかァのお守りから、でてきたんじゃ。何か書いとるようなんじゃけえど、さっぱりわからんのじゃ」
周平は畳の上の紙片をのばしながら言った。
葉子は周平のそばに坐り、紙片を覗き込みながら、手にとった。
「あんた、やっぱり何が書いてあるか判らないわ。でも、これは詩のようだわ。ルーペを持ってきてみるわ」
葉子は納戸のほうへ、小走りで出て行った。
周平は紙片に懐中電灯をあてて、執拗に読み取ろうと試みたが、字は浮かび上がってこなかった。紙片の折り目は裂け、字はにじんでいた。
納戸から戻った葉子は、紙片を自分のほうに用心深く引き寄せ、ルーペをかざして紙片を睨んでいた。しばらくたって、
「あっ」
と、葉子は息を呑むような声を挙げた。
「あ・ゝ・を・と・う・と・よ、」
葉子は一字一字、句切りながら、読み上げた。
「君・を・泣・く、」
一字ずつ、字を掬い上げていった。
「君・死・に・た・ま・ふ・こ・と・な・かれ、」
葉子は、ふーっと、大きくため息をついて肩の力をぬいた。
「あんた、晶子よ、与謝野晶子よ、中学校の教科書に出ていたでしょ」
葉子は周平の顔を覗き込んだ。
周平は詩も人も、まったく覚えていなかった。とうに忘れさっており、習ったかどうかも分からなかった。ただ、母がこの詩をいつから身につけていたのか、父が出征した時からなのか、それとも戦後になってからなのか、あるいは、魚市場を定年退職して短歌を始めてからなのか、それを知りたいと思った。しかし、今となっては、それは叶わぬことだった。
「おかァー」
周平は白布をとって叫んだ。
その時、鐘が鳴った。低く鈍い鐘の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。峠にある寺の、鐘楼で打たれる鐘の音だった。毎日欠かさず、夜明けの六時に打たれるのだった。もう夜の眠りから覚めて、窓外は白んでいた。もうひとつ鐘がなり、空気を震わしながら、その波動が周平の耳を打った。
「おい、墓参りをするぞ」
周平は急に立ち上がって、葉子に声をかけた。
父の月命日に、汐をお墓にお供えしようという、母の想いは断ち切られたままだ。周平と葉子は、まず海に向かった。
台風が近づいているという海は、白い波が泡立ち岸辺を洗っていた。小船は木の葉のように、荒くれた波にもまれていた。空は低く垂れ込め、雲は千切れるように飛んでいた。周平は防波堤の階段を降りて、下の踊り場に立ち、さらにすすんで捨て石の上に降りた。足元に白い波が牙をむいて押し寄せ、砕けていた。
周平は遠い空を仰ぎ、海に向かって神妙に合掌をし、「南無阿弥陀仏」を七回繰り返した。そして、縄をくくりつけたバケツを、海に放り込んだ。バケツはくるっと一回転して、海に突き刺さった。汐を汲み上げ、周平はバケツを持ち、葉子は新聞紙にくるんだ花束を抱えて、海岸を後にした。
低い軒を寄せ合った、家々のあいだの細い路地をゆくと、急に開けて畑があらわれ、それに続いて、山々の峰が見渡せた。まだ眠りから覚めぬ山々の稜線は、鉛色の空をくっきりと切り取っていた。
そこから急に坂道になる。しばらく登ってゆくと、他の村から登ってくる道と交差するところに、お堂が建てられていた。お地蔵様をお祀りしているお堂である。
周平はお地蔵様に、線香と汐をお供えして手を合わした。線香の煙は強い風にあおられ、直角にへし折られたように、揺れながら飛んでいった。墓地へと続く道は、雑草におおわれ、幾重にも折れ曲がっていた。
道の土手には、真紅の曼珠沙華が点々と咲き乱れていた。それが墓地まで、まるで地獄への水先案内のように続いていた。周平と葉子はそのつづら折りの道を、草を分けながら登っていった。山の中腹に切り開かれた墓地の斜面には、曼珠沙華が強い風にあおられて乱舞していた。曼珠沙華は天上の花というより、毒々しく、あまりにも強烈な、死の影のする深い紅色だった。
遠くで海鳴りがし、すぐそばの山は吼えている。明日にも紀伊半島に台風が上陸するといわれていた。強い風が周平の頬を激しく打った。
周平は、父の墓の納骨室の入り口をこじ開けた。ぽっかりと暗い穴が口を開いた。目を凝らして内を覗くと、蜘蛛の巣が張られ、その糸は絹のように輝いていた。納骨室にはなんにもなかった。父の遺骨は還って来なかったのだ。ただ、父の形見の望遠鏡だけが眠っていた。この墓をつくった時、周平は数少ない形見の中から、父が漁師の仕事で使っていた、望遠鏡を納めたのだった。
この墓に母は眠るのだ。満中陰の法要の日には、母のお骨がつづら折りの道を、鉦の音とともに登ってくる。蛇のように長く黒い列が、登ってくるのだ。周平と葉子は、納骨室の蜘蛛の巣を払い、お墓を洗浄して、花と汐をお供えした。そうして、父の形見のボタンと、あの詩の入ったお守りを、望遠鏡のかたわらに寄り添わせて納めた。
「あんた、これからは、父と母の月命日には、私たちが汐を汲んで、墓参りをしなければ駄目ね」
葉子は花に水を注ぎながら言った。
「…………」
周平は、唇を固く噛んで黙っていた。
もう、いいだろう、充分すぎるほど父の供養はしてきたではないか。それに、母を憎み恨んで、父を呪ってきた周平であった。もうこれで終止符を打つべきではないか、と周平はにがにがしく思うのだった。
周平は墓地の土手に降りて、固い蕾みの曼珠沙華を二本折って、上がってきた。彼はお墓の左右の花立に、一本づつ曼珠沙華を投げ入れた。その時、風が激しく舞い、曼珠沙華は大きく揺れた。
周平は杓で汐を汲み、荒々しく曼珠沙華の上に雨を降らした。 ∧これが、父の骨を洗い、母が大量に飲んだ南方の汐だ。曼珠沙華よ、この汐をお前も飲め、そして、もっともっと、赤く赤く、限りなく黒に近い花びらを咲かせてみろ、∨ 周平は心の内で叫んでいたが、声にならなかった。激しい怒りが胸を突き上げてきた。その時はじめて、周平の瞳に涙が溢れた。
「そうだな、――」
周平は短くそして強く、そう言って、葉子を振り返った。
その時、ごうーっと火を噴くように、裏山がまた牙をむいて吼えた。
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