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鬼藤千春の小説 「ビー玉」 短編

     ビー玉
            鬼藤千春

     (一)

 二学期の始業式が終わると、耕作は校門の傍にあるクスノキの下で、友だちが教室から出てくるのを待った。西地区の小学六年生は四人である。彼らは昭和十六年生まれで、終戦から八年が経っていた。小学校は小高い丘の上にあり、瀬戸内海がよく見渡せる。この村は海をふところに抱き込んだ、半農半漁の村である。
 耕作は視線を移して、沖の方を眺めた。東と西には牛の角のように突き出た岬があり、それが弧を描いて入江となっている。その入江に沿って、うずくまるように軒の低い家々が佇んでいた。水平線は空と海が鉛色に溶け合って、ぼうっと霞んでいる。海に浮かぶ島々は紫色に滲んでいた。陽射しをはねかえして、蝶が乱舞するように海面は輝いている。
「耕、耕ちゃん」
 と叫びながら、カバンを揺らしてやってくるのは鉄雄だった。
 耕作は振り向いて、右手を挙げ手のひらを振った。鉄雄は教室を飛び出して、一目散に駈けてくる。そのあとを追ってくるのは圭介だった。鉄雄と圭介はB組で耕作はA組だった。鉄雄は日焼けした顔を振りながらやってきた。
「耕ちゃん、早かったんじゃのう。うちのクラスは夏休みの宿題ができとらんいうてのう。ライオンが烈しく吠えて、なかなか帰らせてくれんかったんじゃ。なあ、圭ちゃん」
 圭介を振り向いて、鉄雄は言った。
 ライオンというのはB組の先生の綽名で、髪が長くて乱れており、よく怒るというところから、そう呼ばれるようになった。
「そうじゃ、工作をしてきてないのが七人もおってのう。それでガミガミうるさく言うんじゃ。たまったもんじゃないぜ」
 圭介は頬をふくらまして、口を尖らした。
「靖志はどうしたんじゃ。あの父(てて)無し(なし)子(ご)はノロマじゃからのう。何をやっとんじゃ。遅(おせ)えのう」
 鉄雄は教室の入口の方に、すばやく視線を走らせた。
 鉄雄は靖志のことを「父無し子」と呼ぶが、それは太平洋戦争で、父を亡くしているからだった。西地区の六年生は耕作と鉄雄、それに圭介と靖志の四人だった。それで耕作たちは、クスノキの下で靖志を待っているのだった。
 このクスノキは子ども六、七人が手をつないで、やっと取り囲むことができるほどの大樹である。このおばけクスは耕作たちの誇りでもあり、敬愛の念も抱いていた。ずいぶん待ったが、靖志はおばけクスの下にやってこなかった。
「圭ちゃん、靖志の教室へ呼びに行ってみようやあ。あんまりじゃ。遅すぎらあのう。耕ちゃん、ここで待ちょうてくれえ。ちょっと行ってくらあ」
 鉄雄は圭介と一緒に駈け出して行った。
 しばらくして、鉄雄と圭介は息を弾ませながら帰ってきた。
「耕ちゃん、靖志はとっくに帰ったらしいぞ。C組は最初にホームルームが終わったということじゃ。靖志の奴はわしらをほっといて、一人で帰ったんじゃのう」
 頬を紅潮させて、鉄雄は言った。
「そうか、もう帰っとんか。鉄ちゃん、なんか急ぐ用があったんかも知れんなあ。仕方がねえじゃろう。じゃあ、ぼくらも帰るとしようやあ」
 鉄雄をとりなすように、耕作は言った。
「チェッ、あいつは勝手なことをする奴じゃのう」
 鉄雄は怒ったように、足元の小石を蹴った。
 西地区の三人は、おばけクスに祀られている祠に向かって、手のひらを二回打ち帰って行った。彼らは入江のほとりを走る県道ではなく、山道を通って帰ることにした。赤松の林をぬけたり、田圃の畦道を駈けたりしながら帰った。
 彼らは西地区の地蔵堂まで帰り着いて、そこでひと休みすることにした。地蔵堂の中を覗くと、線香の煙がただよい、その匂いが鼻を突いてくる。地蔵堂はなにかしら神秘的で、畏怖すべき対象だった。濡れ縁に坐って沖の方に視線を投げると、四国山脈の稜線がかすかに望まれた。
「耕ちゃん、これからビーダンをやろうやあ。家に帰りカバンを置いて、神社の境内に集まろうやあ」
 いきなり鉄雄が声を挙げた。
 ビーダンというのはビー玉のことで、山陽方面ではそう呼ばれていた。
「うーん、そうじゃなあ。家で仕事を言い付けられるか分からんけど、やることにしようかのう」
 耕作は一瞬考えて、うなずいた。
「耕ちゃん、靖志を誘って来てくれんか。神社に来るときに、家に寄ってみてくれえ」
 耕作の顔を覗き込んで、鉄雄は言った。
「そうじゃなあ、靖ちゃんが家にいたら誘って神社にいかあ」
 了解という意味を込めて、耕作は右手の親指を立てた。
「よーし。それじゃ、圭ちゃんもカバンを置いたら、すぐに神社へ来てくれえ。ええのう」
 鉄雄は念を押すように、圭介の顔を見た。
 耕作はカバンを置いて家を出ようとすると、母とひと悶着あった。庭の掃き掃除や風呂の水汲みを言い付けられたのである。
「遊びほうけてばかりおって、ちいたあ、家の手伝いをせにゃいけまあが――」
 母はかん高い声を挙げた。
「友だちとの約束じゃけん、手伝いは帰ってするけん」
 その言葉を残して、耕作は家を出ようとした。
「耕作、そりゃ逆さまじゃ。きちんと自分の仕事をしてから遊ぶんじゃ。遊びはあとにせえ」
 麦わら真田編みの内職の手を止めて、母は耕作を睨んだ。
「明日からそうするけん、今日はいかにゃおえんのじゃ」
 耕作はそう言い捨てて、玄関を飛び出した。
「耕、耕作ッ」
 母の叫び声が耕作の背中の方でした。
 耕作は靖志の家に寄って行くことにして、坂道を上って行った。この村は坂道の多い村である。背後の山のゆるやかな斜面が、海まで続いているのだった。靖志の家は坂道のなかほどの、家々が軒を連ねた一角にあった。
 靖志のうちはほんに小さな家だった。それがうずくまるように建っていた。東西と南は隣家の軒が迫っていて、陽がほとんど射さない家である。
「靖ちゃん」
 耕作は北側の路地から玄関の方に回り、声をかけた。
 が、返事がなかった。玄関の右の柱には、「英霊の家」という札が貼りつけられていた。
「靖ちゃん、靖ちゃんいる?」
 耕作は立て付けの悪い、玄関の引き戸を軋ませながら呼んだ。
 耕作は玄関に入って部屋を覗いたが、誰もいる様子はなかった。玄関の右手が六畳とその奥が納戸、そしてその左手に台所と便所という造りの家だった。何度か遊びに来ていたので、耕作はだいたい分かっていた。六畳間の畳は色褪せてほつれている。薄暗い家である。
「靖、靖ちゃん」
 耕作はいらだって、大きな声を挙げた。
「耕ちゃん、どうしたん」
 靖志は納戸の方から、怪訝そうな顔をして出てきた。
「どうしたんじゃなかろうが。それはこっちの言う科白じゃ。みんなおばけクスの下で待ちょうたんで。教室まで迎えに行ったら、とっくに帰ったということじゃったんじゃ」
 不満な気持ちをあらわにして、耕作は靖志を睨んだ。
「……」
 靖志は眼をそらして、うつむいた。
「靖ちゃん、これから神社の境内でビーダンをやるんじゃ。一緒にやろうやあ。それでぼくが迎えに来たんじゃ」
「……」
 靖志は沈黙して、うつむいたままだった。
「靖ちゃん、どうしたんじゃ。黙ってしもうて。なんかあるんか」
「うーん、なんでもねえ。潮が満ちて海にゃいけんから、いまストロー巻きの仕事をしとんじゃ。じゃから、学校から早う帰ったんじゃ」
 心持ち顔を上げて、靖志はぼそぼそと言った。
「じゃったら、ビーダンはもう駄目か? 遊びから帰ってからじゃおえんのか」
「……」
 靖志はまた沈黙して、眼を宙に泳がせていた。
「耕ちゃん、そうじゃなあ。じゃ、そうしょうか。夜にストローを巻くけん、ビーダンをしにいかあ」
 靖志はそう言って、納戸に入りビー玉を持って出てきた。
 神社に着くと、鉄雄と圭介が待っていた。
「なにゅうしょうたんなら、遅えのう。えっと待たされたぞ。のう圭ちゃん」
 鉄雄は圭介の方へ振り向いた。
「そりゃ悪かったのう。おかあに叱られて、すぐに出られんかったんじゃ。鉄ちゃん、わりいのう」
 両手を合わせる仕草をして、耕作は謝った。
「耕ちゃん、今日は三角出しというゲームをやろうやあ」
 耕作の顔を覗き込んで、鉄雄は言った。
 三角出しというのは、三メートルほど先の地面に、一辺が三、四十センチの三角形を描き、その中に自分のビー玉をそれぞれ一個ずつ置いてゆく。それが自分の持ち玉である。こちら側の仕切り線から、相手のビー玉を狙って玉を投げて、三角形から玉を出せば、相手のビー玉が貰えるのである。
「圭ちゃん、靖ちゃん、三角出しでええかのう」
 耕作は二人の顔を交互に見て、様子をうかがった。
「耕ちゃん、三角出しでええよ。早うやろうやあ」
 圭介は両手でビー玉をくるんで打ち鳴らし、靖志は白い歯をこぼしてうなずいていた。
 鉄雄はさっそく仕切り線と三角形を描いて、ビー玉を置くように言った。みんなは玉を一個ずつ三角形の枠の中に並べた。
「ようし、それじゃ、順番を決めよう。ジャンケンじゃ」
 鉄雄の周りにみんな集まって、
「じゃあいくぞ、ええなァ、ジャンケンポン」
 みんなの大きな声が弾けた。
 ジャンケンに勝ったのは、靖志である。最初に彼が投げたが、的をはずして失敗だった。
「靖志、何をやっとんじゃ。どんくせえのう。眼をつむっとっても当たろうがあ」
 鉄雄が鋭いヤジを飛ばした。
「よおし、見とけえ。ええか」
 狙いを定めて、鉄雄は勢いよく投げた。
 すると、靖志の玉が弾かれて、三角形の枠から飛び出ていった。
「靖志、よう見たか。このようにやるんじゃ」
 靖志を振り向いて、鉄雄はにやりと笑みを浮かべた。鉄雄は靖志のビー玉を拾って、ポケットにねじ込んだ。
 持ち玉を失った靖志は、新しい玉を追加するか、もしくはこのゲームの終了まで休むか選択する。靖志はためらわずに持ち玉を三角形の最も遠い場所に置いた。
「靖志のビー玉は目障りじゃ。もうひとつ、いただくことにするかのう」
 成功すれば、続けて投げることができる。
鉄雄は二回目も靖志のビー玉を狙って投げたが、今度は失敗した。鉄雄は靖志のビー玉を標的にしているのだった。次は圭介の番である。
「鉄ちゃん、残念じゃったのう。その敵はぼくが討っちゃろう」
 勇ましく、圭介は仕切り線に立った。
 圭介は腕をまっすぐ伸ばして、片目をつむり、狙いを定めて慎重に投げた。カチンと音を立てて、靖志のビー玉が三角形の枠から弾き飛ばされた。
「あーあ、可哀相に、靖志のビー玉がまたやられたのう。靖志どうするんじゃ。」
 靖志をちらっと見て、鉄雄は厭味たっぷりの顔をした。
 靖志は今度は新しい玉を追加せず、休みを宣言した。靖志のビー玉は鉄雄と圭介の標的にされ、ふたりに二個とも三角形から弾き出されてしまった。靖志はしょんぼりとうなだれた。
「靖ちゃん、口惜しいじゃろう。よーし、靖ちゃんの敵討ちじゃ」
 ビー玉を持って、耕作は立ち上がった。
 耕作は鉄雄のビー玉に狙いを定めて、思い切り腕を振った。鉄雄のビー玉は弾かれて、三角形から飛び出していった。
「鉄ちゃん、一丁あがりじゃ。悪いけえど、このビー玉はいただきじゃ」
 鉄雄のビー玉を摑んで、耕作は言った。
「耕ちゃん、覚えとけえよ。敵はきっと討つからのう」
 鉄雄は唇を硬く結んで耕作を睨んだ。
 こうして、一ゲームを終えて、最もビー玉を獲得したのは鉄雄だった。
「よーし、耕ちゃん、もう一回やろう」
 鉄雄は仕切り線と三角形をもう一度地面に描いた。
「圭ちゃん、靖志のビー玉を狙えェ。わしらを待たせて、ひとり勝手に帰るような奴じゃけんのう。こらしめとかにゃおえん。父無し子のくせに、なまいきじゃ」
 鉄雄はあからさまに囃し立てた。
 二ゲーム目も、標的にされたのは、やはり靖志のビー玉だった。鉄雄と圭介によって、靖志のビー玉はあっけなく、三角形の枠から弾き飛ばされて、手持ちのビー玉を奪われてしまった。
「インチキじゃ。みんなしてぼくのビー玉を狙い撃ちにするんじゃのう。もう厭じゃ。もうやめじゃ」
 靖志はいきなり、かん高い声を挙げた。
 靖志は勢いよく神社の境内を駈けぬけて、軒を連ねた路地へ向かった。
「靖ちゃん、靖ちゃんッ」
 耕作は靖志の背中に向かって叫んだ。
「耕ちゃん、ほっとけ。あいつは変わりもんじゃけえ。ちいたあ、痛い目に合わせとかにゃおえんのじゃ」
 路地の方に視線を投げて、鉄雄は言った。
 靖志は振り向くこともなく、路地の奥へ消えていった。

     (二)

 耕作たちは神社の境内で、しばらく缶けり遊びをしていた。次に圭介が鬼になって、鉄雄が勢いよく缶を蹴った。
「それ、逃げろ。わーッ」
 一斉に歓声が挙がった。
 それと同時にみんなは駈けだし、樹木や塀の蔭、そして小川の中に飛び込んで、身を隠した。圭介は遠くまで蹴られた缶を拾って、地面に描かれた丸印の中に置くと、みんなを捜しにかかった。
 耕作は塀の蔭に隠れて、圭介の動きをさぐっていた。鉄雄は小川の中に飛び込んで、身をひそめている。靖志はカイヅカイブキの蔭に隠れていた。最初に見つかったのは、靖志だった。カイヅカに寄り添いすぎて、枝が揺れていたのである。
「靖ちゃん、みっけ」
 圭介は大きな声を張り上げた。
 靖志はカイヅカの蔭から身体を現して、すごすごと缶の傍に引き返していった。圭介が捜しに行っている間に、缶を蹴れば靖志は助かる。が、誰も缶を蹴ることなく全員が見つかれば、次の鬼は靖志になる。
「耕ちゃん、靖志が最初に見つかったら、助けに行くなよ。あいつを鬼にしてやろうぜ」
 鉄雄は逃げるとき、耕作にささやいた。
 小川の土手から顔を覗けた鉄雄は、あっけなく見つかった。
「鉄ちゃん、みっけ、みっけ」
 小川まで駈けてゆき、圭介は叫んだ。
 耕作はそのすきに、缶を蹴りに行こうと思えば、行けた筈だった。が、鉄雄に指示されていたので、彼はためらっていた。そんな卑怯なことは許されないと思った。耕作の心は、遣り切れない気持でいっぱいだった。
「耕ちゃん、みっけ。やったあ」
 圭介は全員見つけて、嬉々とした声を挙げた。
 靖志は最初に見つかり捕らえられたが、誰も助けに行かなかったので、次の鬼になった。
「靖志、おまえが鬼じゃ。みんな見つかりにくいところに隠れるから、しっかり捜せえよ。耕ちゃん、缶を思い切り蹴ってくれえ」
 鉄雄は振り向いて、缶を蹴る仕草をしてみせた。
 そして、鉄雄は「ちょっとタイム」と言って、耕作と圭介を呼び寄せた。
「ええか。もう缶けりも終わりじゃ。耕ちゃんが缶を蹴ったら、靖志の奴をほっといて、海岸へ逃げるんじゃ。あいつは誰もいないのに、捜し回るじゃろう。おもしれえぞ、ええな」
 ふたりの顔を交互に見ながら、鉄雄は念を押した。
「鉄ちゃん、そりゃ無茶じゃ。靖ちゃんが可哀相じゃ」
 鉄雄の顔を見つめて、耕作は首を振った。
「靖志は風呂にも入らず、不潔な奴じゃけんのう。仲間はずれにされてもしようがねかろうが――」
 鉄雄はクサイッと言って、鼻に手をやった。
「でも、靖ちゃんは誰も見つからんで、途方に暮れるじゃろう。鉄ちゃん、もう一回ちゃんとやろうやあ。それで終わりにしようやあ」
 耕作は、ちょっと反発して鉄雄を睨んだ。
「それじゃ、耕ちゃん。ひとりだけ残ってやるか。靖志の肩を持つんじゃったら、それでもええ。じゃけえど、あとのことは知らんぞ。どうなってもええいうんじゃったら、ここへ残りゃええぞ」
「……」
 耕作はしばらく沈黙して、言葉が出なかった。
 棘が刺さったように、きりりと心が痛んだが、耕作は鉄雄の言葉に従うほかなかった。心ならずも耕作はうなずいていた。
「よっしゃ、耕ちゃん。思い切り遠くへ缶を蹴飛ばしてくれえ。圭ちゃんええか、始まりじゃ」
 四人は缶の周りに集まってきた。
 耕作が助走をつけて缶を勢いよく蹴り、みんなは脇目もふらずに駈けだした。缶は高い響きをたて、からころと転がっていった。振り向くと、靖志があわてて缶を拾う仕草をしていた。
 耕作たち三人は息を弾ませて、神社の境内から海岸の堤防まで走ってきた。堤防は彼らの胸くらいまでの高さがあって、それを背にしてみんな神社の方角に眼を注いだ。
 靖志が誰もいない神社の周りを捜し回っているのかと思うと、耕作は哀れでならなかった。なぜ、彼がこんな仕打ちをされなければならないのか、耕作には理解できなかった。鉄雄は父無し子といって、彼を疎んじているけれど、それは不条理のように思えて仕方なかった。
 が、そうは思っていても、鉄雄の言うことに逆らえず、それに従っている自分が情けなかった。それは鉄雄よりも貧しい心のように思えて胸が疼いた。
 振り向くと、瀬戸の海は西に傾いた陽を斜めに受けて、橙色に染まっていた。磯の香りがただよって、耕作を柔らかく包み込んでくる。沖の方では貨物船がゆっくりと視界をよぎってゆく。潮はひたひたと岸辺に押し寄せてきていた。時折ザッ、ザーッと潮が捨て石に打ちつけ、波が白く砕けて泡だっている。
 なんとなく入江に眼を巡らせていると、危なっかしく捨て石の上を渡っている女の人がいた。捨て石にはノリが付着していて、滑りやすいのだが、左手にバケツを提げて海面に近づいてゆく。女はもんぺを穿いてそろりそろりと、裸足で捨て石を歩いている。
「耕ちゃん、ありゃ、靖志のおかあじゃないんか」
 腕を突き出して、鉄雄が言った。
「……」
 眼を凝らしてみたが、耕作にはよく分からなかった。
「ほんまか、靖ちゃんのおかあじゃろうか」
 圭介は堤防の上にのぼりながら、息を弾ませていた。
「耕ちゃん、ほんまじゃ。靖ちゃんのおかあに間違いねえ」
 圭介は堤防の上に立ち、右手を庇のようにしてじっと見つめていた。
「そうじゃなあ、靖ちゃんのおかあのようじゃのう。じゃけえど、おかあは何をしにいきょんじゃろうか。ノリが濡れていて滑りやすいのにのう」
 怪訝そうに、耕作は沖を眺めていた。
 いつのまにか、近所の小父さんが耕作たちの傍にやってきて、やはり捨て石を渡る女を眺めていた。小父さんは、みんなから銀爺といわれている漁師だった。いつも酒を飲んでおり、赫い顔をして無精ひげをはやしていた。彼の本当の名前は銀次郎だった。
「耕ちゃん、靖志のおかあはアサリの潮でも汲みにいきょんじゃろう」
 鉄雄は爪先立ち、靖志のおかあを見つめていた。
 靖志のおかあは、リヤカーを曳いて魚売りの行商をしていた。それで、鉄雄は靖志のおかあがアサリの潮を汲みにいっているものと、思いついたのだろう。
「違う、そうじゃねえ。お前らはなんにも知らんのじゃのう。まだまだひよっこじゃのう。人生の甘いも辛いもよう分かっとらんのう。今日は九月二十三日じゃろう。二十三日は、靖志のおとうの月命日なんじゃ。それで、おかあが潮を汲みにきとんじゃ」
 すかさず銀爺が、鋭く眼を光らせて言った。
「小父さん、靖ちゃんのおかあは潮を汲んでなにゅうするん。あんな危ないとこまで行って――」
 耕作は銀爺の顔を見上げた。
「そりゃのう、仏壇に潮をお供えするためなんじゃ。潮を汲んで帰ってのう、仏壇にお供えして、般若心経を唱えるんじゃ」
 銀爺の吐く息は、酒の匂いがした。
「昭和十九年じゃったのう。靖志のおとうは十二月二十三日、ルソン島に輸送船で上陸直前じゃったんじゃ。それがアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて、沈没したんじゃ」
 銀爺は三人の顔を見渡した。
「……」
 耕作は息を呑んで、銀爺の話に耳を傾けていた。
 鉄雄や圭介も言葉を失って、神妙な顔をして聞いていた。
「その折りにのう、靖志のおとうは死んだんじゃ。骨はまだその海に眠ったままなんじゃ。その海と瀬戸の海はつながっとるいうてのう。靖志のおかあは、おとうの骨が洗われた潮を汲みにくるんじゃ」
 銀爺は煙草を出して火を点け、煙をふーっと吐き出した。銀爺の黄色に染まった歯が見えた。
「小父さん、ルソン島いうたらどこにあるん。ぼくらあ、さっぱりわからん。九州よりずっと遠いんじゃろう」
 耕作は背伸びをして、銀爺を見上げた。
「そうよ、ずっとずっと遠いんじゃ。フィリピン諸島の北の大きな島でのう。沖縄、台湾のずっと南の方じゃ」
 銀爺は遠くを見るような眼つきをした。
「ルソン島でおとうが死んだばあにのう。靖志も苦労せにゃおえんのじゃ。おかあも月命日にゃ、ああしてせっせと潮汲みじゃけんのう」
 銀爺は靖志のおかあの方を見つめて、顎をしゃくった。
「靖志は漁の名人じゃけえのう。遠浅の海が三郎島の方まで引いたら、必ず海に入ってのう。シャコや蟹、カレイや蛸をぎょうさん取ってくるんじゃ」
 沖の方に視線を投げて、銀爺は言った。
「……」
 鉄雄は靖志のことを、ノロマだと烙印を押しているけれど、いったん海に入れば彼は生き生きと振舞うことを、耕作も知っている。しかし、靖志はソフトボールや鉄棒、徒競走など苦手で、運動は何をさせてもうまくやれなかった。それで、鉄雄は靖志のことをノロマと呼ぶのだった。
「それでのう。靖志が取ってきた魚は、翌日おかあが他の魚と一緒に売りに行くんじゃ。靖志はお前らみたいに、遊ぶばあしとるわけじゃないんぞ」
 銀爺はゆっくり身体をひねって、西の空を見上げた。
 島影に陽がかかり、耕作の足元から夕闇がかすかに立ち昇ってくるようになった。靖志のおかあは、紐をくくりつけたバケツを沖に投げ込んだ。バケツはくるっと回って、海に落ちていった。しばらく浮かんでいたが、靖志のおかあは紐を上手にあやつってバケツを沈め、その紐をたぐり寄せた。
 捨て石の上で足を踏ん張り、潮を汲み上げた靖志のおかあは、バケツを脇に置いた。そして、沖に向かい手のひらを合わせて、深く頭を下げている。何かを唱えているように、しばらく動かなかった。そこだけに光が集まったように、靖志のおかあは淡い橙色に染まっていた。
 ようやく靖志のおかあは、バケツを持って捨て石の上をゆっくり渡り、堤防の下までやってきた。堤防の階段をのぼると、靖志のおかあは、バケツを提げてそそくさと帰途についた。やがて、靖志のおかあは夕闇の中に溶けていった。

     (三)

 十月に入って、修学旅行の説明会の日だった。耕作は神社の石段に坐って、みんなが来るのを待っていた。旅行は三週間先で、説明会では行き先や注意事項、小遣いの額や旅行代金などの話があるというのを聞いていた。
 最初にやってきたのは圭介だった。
「耕ちゃん、早いんじゃのう。ぼかあ、おかあに起こされて、やっと眼が醒めたとこじゃ」
 圭介は石段に近づいてきて言った。
 次にやってきたのは鉄雄だった。家の角を曲がって、勢いよく飛び出してきた。
「わりい、わりい。遅うなってしもうたのう。親父が網の片付けを手伝えいうて、それで遅うなったんじゃ。じゃが、靖志の顔も見えんのう。あいつはどうしたんじゃろうか。いっつも遅えのう。ノロマな奴じゃ」
 鉄雄は靖志の家の方角に、視線を鋭く走らせた。
 耕作もそちらに向かって、眼を凝らしたが人の気配はなかった。みんなは石けりなどしてしばらく待っていたが、やはり靖志はこなかった。
「耕ちゃん、もう行かにゃ遅刻になるでえ。靖志の奴はもうほっときゃえかろうが。会(お)うたらゲンコツじゃ」
 鉄雄は左の手のひらを右のコブシで二、三度叩いた。
「鉄ちゃん、ぼかあ、もうちょっと待って見るけん、先に行っといてくれんか」
 耕作は石段から立ち上がり、鉄雄を見つめて言った。
「おまえも辛抱のええ奴じゃのう。あいつはひとりで学校へ行っとるかもしれんぞ。莫迦をみるのは耕ちゃんじゃけえのう。遅れるけん、わしらは先に行っとくぞ」
 カバンを揺すり上げながら、鉄雄は足を一歩踏み出した。
 靖志の家の方角を見遣りながら、耕作は神社の石段に坐って待っていた。しばらく待っていたが靖志はこなかった。が、村道をリヤカーを曳いてゆく、靖志のおかあの姿が見えた。これから魚の行商にゆくのだろう。
 靖志のおかあは、唇を嚙みうつむき加減に歩いて、黙々とリヤカーを曳いている。朝日が斜めに射し込んで、彼女を光が包んでいたが、なんとなく覇気がないように見えた。村道の東の角から出てきて、西の家の角へ消えて行った。耕作は彼女が消えるのを見届けてから、慌てて石段から立ち上がり、学校へ向かった。
 授業を終えるといつものように、耕作はおばけクスの下で鉄雄と圭介を待っていた。
「耕、耕ちゃん」
 鉄雄がかん高い声を挙げながら、駈けてくる。
 圭介もそのあとを追ってきていた。鉄雄が息を弾ませながら、おばけクスまでやってきた。
「耕ちゃん、靖志の奴はやっぱり学校を休んどるのう。休憩時間にあいつのクラスに行ってみたけえど、おらんかったんじゃ。大事な日に休むんじゃけんのう。しようがねえ奴じゃ」
 鉄雄は肩で息をしていた。
「鉄ちゃん、ぼくも気になって、靖ちゃんのクラスを覗いたんじゃ。やはりいなかったのう。どうしたんじゃろうか」
「耕ちゃん、あいつのことはもうほっとけ。あいつはちょっとへそ曲がりじゃけんのう。まともに相手にできん」
 おばけクスに背中をあずけて、鉄雄は耕作を見つめた。
「じゃけえど、修学旅行が楽しみじゃのう。去年とだいたい同じとこらしいのう。金閣寺と銀閣寺、それに清水寺と知恩院、そして嵐山じゃ」
 圭介が話題を変えて、旅行の話をした。
「そうじゃのう。汽車に乗ることもめったにねえし、旅館も楽しみじゃ。旅館じゃ枕投げなんかやって騒ぐらしいぞ」
 鉄雄は枕投げに興味を示して、心を弾ませているようだった。
「旅行代金は一週間後に集金じゃのう。またうちのおかあが愚痴をこぼすじゃろうのう。鉄ちゃんとこは漁師じゃけえ、心配いらんじゃろう。圭ちゃんとこは役場へ勤めとるけんえかろう。うちは大工じゃけんのう、仕事がのうて大変なんじゃ」
 耕作は嘆息して言った。
「戦争が終わって、まだ八年じゃもんのう。旅行代金じゃいうて莫迦にならんけえのう。靖志の奴は明日出てくるじゃろうか。あてにならんのう。耕ちゃん、もう帰ろうやあ」
 鉄雄はおばけクスから離れて、耕作と圭介に帰るように促した。
 靖志は次の日に学校を休まなかったが、しかし耕作たちと行動をともにすることを、拒んでいるようだった。登下校も一緒でなく、ひとりで行動していた。放課後も耕作たちの遊びの輪に加わることがなかった。
 耕作は放課後、風呂の焚き木を取りに山に入ろうと思って家を出た。彼の家は県道に面した所にあって、家を出て少し東へ歩くと、坂道になっている細い道がある。彼はノコギリや斧を持って、その道を上って行った。
 家が立て込んでいる辺りまでは、比較的なだらかな坂道だったが、そこを抜けると急に勾配がきつくなる。耕作は息を弾ませながら坂道を上り、地蔵堂までたどりついた。彼は地蔵堂の外の板敷きに坐って、休憩をとることにした。
 地蔵堂からの眺めは絶景だった。耕作の眼前に瀬戸の海が大きく広がっていた。遠く四国山脈が霞んで見え、その手前には島々が浮かんでいる。漁船が白い波の尾を曳いて、往き交っていた。
 ふと地蔵堂の左手の墓地に眼をやると、女の人と男児が墓標の前に坐っているのが見えた。眼を凝らして見ると、墓標の前で合掌しているのは靖志のおかあだった。その後ろで手を合わせているのは靖志である。
 靖志のおかあの読経が風に乗って耕作の耳まで届いてくる。おとうの墓標はまだ新しく、木肌はまだつやつやとしていた。以前の墓標は灰色に朽ちていたので、最近遣り変えたようだった。この墓地には幾本もの墓標が風雨に晒されており、斜めの西日を浴びている。どれも先の戦争で亡くなった人の墓標である。靖志のおかあの読経は、いつ果てるともなく続いていた。
 靖志の家には風呂もなく、首の辺りに垢をつけたまま、学校に来ることもある。めったに風呂屋に行くということがなかったのだ。みんなに「クサイ、不潔じゃ」と厭がられることもあった。おかあの行商だけで靖志は修学旅行へ行くことができるのだろうか。そんな思いをいだきながら、耕作は山に入って行った。
 耕作が焚き木を背負って、地蔵堂まで来ると、もう靖志もおかあもいなかった。耕作は四国山脈の方に眼をやって、遠くを眺めていた。靖志のおとうが死んだというルソン島はどの辺りなのだろう、と耕作は遠い世界に思いを馳せた。

 修学旅行の帰途の汽車の中だった。耕作はなんとなく憂鬱な気持ちで車窓を眺めていた。やはり靖志は修学旅行へこなかった。
 靖志はどんな気持ちでこの二日間を家で過ごしていたのだろうか。ひとり海に入って、得意な漁でもしていたのだろうか。それとも、京都の観光名所に思いを馳せていただろうか。そんな思いにふけっていた折り、鉄雄と圭介がやってきた。
「耕ちゃん、何をやっとんじゃ。渋い顔をして、なんかつまらなさそうじゃのう。耕ちゃん、ちょっとデッキへ出てこんか。この車両にわしらは入れんけんのう」
 鉄雄のかん高い声が降ってきた。
「そうじゃなあ。いま退屈しとるとこじゃったんじゃ。先に行っといてくれえ。あとから行くけん」
 耕作は顔を横に向けて答えた。
 耕作はリュックサックの中から土産を取り出して、汽車の揺れに足をとられながら、デッキまで出て行った。
「耕ちゃん、修学旅行は楽しかったのう。まあ、一番は旅館じゃったのう。うちのクラスは枕投げでえろう盛り上がったんじゃ。そのかわりライオンにぼっこう絞られたけどのう」
 鉄雄は苦笑いをしながら、耕作と圭介の顔に視線を走らせた。
「ぼかあ、知恩院のうぐいす張りがえかったのう。キュ、キュッという音が響いて、不思議じゃったのう」
 圭介はキュ、キュッと唇を鳴らした。
「ぼかあ、清水の舞台じゃったのう。舞台は一本も釘を使わず造られていて、下を覗き込むとちょっと怖かったのう」
 耕作は上から下を覗き込むような恰好をした。
「耕ちゃん、それで土産に何を買(こ)うたんじゃ。小遣いが少ねえけえ、ろくなもんは買えんかったろう」
「ぼくはめんこと八つ橋じゃ」
 耕作は握っていた手のひらを開いて、めんこを出した。
「鉄ちゃん、このめんこを見てみい。ホームラン王の藤村富美男じゃ。それに大関の栃錦じゃ。かっこよかろう」
 耕作はめんこを広げて見せた。
「圭ちゃんは、何を買うたんじゃ」
 鉄雄は圭介を見つめて言った。
「ぼかあ、これじゃ」
 そう言って、圭介は短刀を出して、耕作の腹を突いた。
 すると、刃が引っ込んで、まるで身体に突き刺さったように見えた。
「圭ちゃん、びっくりしたのう。ほんまに刃が身体に刺さったんかと思うたが。おもしれえものをみつけたのう」
 鉄雄は口を開けて、びっくりしたような表情をした。
「鉄ちゃんは土産に何を買うたんじゃ。見せてくれえ。ええもんがあったんか」
 耕作は鉄雄の顔を覗き込んで言った。
「わしはのう、これじゃ。やっぱり都会じゃのう。ええのがあったんじゃ」
 鉄雄がポケットから取り出したのは、ビー玉だった。
 そのビー玉は網の袋に入っており、鉄雄はいくつか取り出して、手のひらを開いて転がした。ビー玉の中に立体の星が入っていたり、バラの花が埋め込まれていた。
「鉄ちゃん、めずらしいビー玉じゃのう。田舎にゃ、ねえようなものばかりじゃのう。鉄ちゃん、ええのう見つけたのう。さすがじゃ」
 耕作は鉄雄の手のひらを、食い入るように見つめていた。
「よかろうがのう。耕ちゃん、このビー玉は靖志の土産に買うたんじゃ。あいつはたぶん、淋しい思いをしとるからのう。わしも銀爺の話を聞いてから、ちょっと考えたんじゃ。おとうが戦争で死んで、あいつも辛い思いをしとんじゃ思うてのう。それがわしにもようわかったんじゃ。靖志にゃ悪いことばあしてきたからのう。せめてもの罪ほろぼしじゃ」
 耕作を覗き込んで、鉄雄は言った。
「……」
 耕作は鉄雄の顔をちらっと見て、言葉を失ってしまった。鉄雄の心の在りように耕作の胸は強く打たれ、呆然と立ち尽くしていた。
 耕作は鉄雄の手のひらからビー玉を摑みとって、手のひらの上に載せた。すると、ビー玉は一瞬きらめいて、鋭く光を放った。
 汽車は烈しく汽笛を鳴らして、一路岡山に向かって走り続けていた。
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鬼藤千春の小説 「文学教室」 短編

文学教室
        鬼藤 千春

 岡山駅に新幹線「ひかり」が滑り込んできた。その時風が舞った。緑の風だった。あの二月の裸木を吹き抜ける乾いた風でなく、潤いのある風だった。
 緒方雄介は、ホームに投げ出していたバッグを拾い上げ、大きく息を吸い込んだ。「ひかり」の乗降口から人が吐き出されると、蛇のように延びた列は、生き返ったかのように動き出した。
 自由席の箱は人で埋め尽くされ、雄介はかろうじて自分の席を探し当ててもぐりこんだ。
まもなく「ひかり」はぶるっと身体を震わせて、窓外の風景をゆっくりと後ろへ捨てていった。
 しばらく雄介は四角に切り取られた外の風景に目を泳がせていた。市街地を抜けると、朝もやに霞んだ山々や田畑が、千切れるように後方に飛んでいった。おそらくあの山の桜の木は、乳首のような硬い蕾をつけ始めた頃だろう。
 ようやく落ち着いた雄介は、バッグを開き一冊の単行本を引き抜き、膝の上にのせた。しかし、開かなかった。と、いうより開けなかったというほうが、当たっているだろう。雄介はその単行本をぎゅっと両手で硬く握り締めて、静かに目を閉じた。

 本を開くのが怖かった――。そんな時があり、そんな時代がかれこれ二十数年続いてきた。気がつくと、六十歳の定年まであと四年というところに、差し掛かっている。
「いまさら文学なんて……」という想いがなくはない。その想いは、文学の扉の前で逡巡し、戸惑い、荒波にもまれる木の葉のように揺れた。しかしまた、文学の扉を叩こうとしているのだった。未踏の地が甘い人間を寄せ付けないように、その道は険しく、厳しいものだと知らない訳ではないけれど……。
 なんとなく、正月休みに、ある文学雑誌をめくっていると、「文学教室」の案内の記事が目に留まった。何ページか遣り過ごし、また案内の記事に戻った。日程、場所、講師陣、参加費など、ひととおり目を通して雑誌を閉じた。心がすこし騒いだ。
「行ってみようかな……」
 雄介は小さく呟いた。
「いや、そんなことが出来るか、出来る訳がない。いまさら文学なんて……」
 すぐさま、それを否定した。
 一ヶ月に一回、三月から十二月まで計十回の講座である。しかも日曜日である。石材会社の次長である彼は、土、日、祝日は休めないことになっている。
 最大の問題は開催地が名古屋ということだ。行き来にそれなりの金がかかる。妻にお伺いを立てるということは、とうてい出来そうもない。論外だ、として一蹴されることはまず間違いない。
 会社と家庭に高いハードルがあり、それを越えなければ名古屋は月よりも遠い。雄介は文学雑誌を取り上げ本棚の隅に押し込んだ。
 しかし、忘れようとしても「文学教室」のことは、ふっと頭をよぎるのだった。その度ごとに、その思いをねじ伏せて、遣り過ごそうとするのだが、またふっと、時、所を構わず頭をもたげてくる。
 雄介は思い立って、香川県の友人に電話をかけた。昔、一緒に同人誌をやったことのある女性である。彼女は今でも小説を書いているらしい。お互いに近況報告を済ませて、
「『文学教室』のことで迷っているのだが……」
 と、雄介は声を落として言った。
「あら、それだったら私も行ったことがあるわ」
 弾んだ彼女の声が受話器に響いた。
「その時は京都だった。とっても良かったわ。ぜひ行ったらどう……」
 と、迷っている雄介の背中を押してくれた。
「ああ、そう。だったら考えてみようかな……」
 雄介はその時、行くとは言わなかったけれども、心の内ではもうなかば決まっていた。

 翌日彼は、三月から月一回、日曜日に休みを取らせてくれるように部長に頼んだ。あれこれ訊かれたが、私用でどうしても休暇が欲しい旨を告げて、ようやくの思いで許可をもらった。じっとりと冷や汗が脇の下に滲み出ていた。
 次は金だった。手ごわい妻を説得するために、彼は煙草を止めることにした。三十六年間、喫い続けた煙草であり、一度ならず禁煙の挫折を重ねていたが、やむをえない。そして、「ツキイチ」、つまり月に一度のゴルフを半分にすることに決めた。これでだいたい「文学教室」の資金は捻出することが出来るはずだ。
「煙草、本当に止められるの」
 妻は台所で食器を洗いながら、やや高い声を挙げた。振り向きもせず、食器を荒々しくぶつけていた。
「ゴルフだって、言うだけなら風呂屋の湯よ。
湯(言う)だけなんだから」
 硬い背中は明らかに雄介の打診を拒否していた。
「まあいいわ。二つの約束を破ったら、そこで尾張(終わり)名古屋ね。これは私からの約束よ」
 いきなり振り向いて、きっと雄介を睨んだ。

 雄介はそっと目を開け、ぼんやりと視線を窓外に投げた。四角に切り取られた風景は、色彩さえ消して急流のように流れていく。近いほどその流れは速かった。遠くになればなるほど、ゆっくり回転するように動いてゆくのだった。飛行機が鋭角に四角のスクリーンを上昇してゆく。飛行機雲が青いキャンバスに筆をさっと引いたように、長く尾を延ばしていた。「ひかり」は新大阪を過ぎたところだった。
「なぜ私はここに居るのか、なぜ私はこの『
ひかり』に乗っているのか、私はどこへ向かおうとしているのか」
 一瞬、自分の存在が現実でなく、夢のように危ういものに感じられた。雄介は身体をひねって座席に坐りなおした。現実という座席に自分を鉄の鎖で縛りつけるように……。
 そしてまた雄介は、目を閉じ遠い日々に想いを馳せた。

 朝、目覚めると、何かしら耳がおかしい。違和感があり、ふと左手で耳を押さえた。ジィーと耳の奥が鳴っている。掌で耳を包んでやると、ジィー、 ジィー、ジィーとよけいに反響した。耳の内からというよりも、遠いところから聞こえてくるような感じだった。潮騒のような耳鳴りだった。
 布団を蹴って雄介は、出勤の身支度をそそくさとやり、コーヒーを沸かした。そしてトースト、それが彼の朝食だった。部屋を見渡してみた。大きなオーディオセットが、南の掃きだし窓を塞ぐように置かれている。ここへ来てから、一度も干されたことのない、万年床が乱れていた。北側には、鴨居まで届く背の高い本棚がふたつ、襖をさえぎっていた。
 彼は雇用促進住宅にひとりで住んでいた。そこから、峠をひとつ越えたところにある、K市の建築会社に勤めている。設計や工事管理を担当していた。
 相変わらず耳は鳴っている。彼は郵便受けから新聞を引き抜いてきて、机の前に坐った。
机の上は乱雑きわまりなかった。大学の通信教育部から送られてくる、テキストが積まれている。読みさしの小説が投げ出され、新聞やカップラーメンが転がっていた。
 トーストをかじりながら、新聞の社会面を開き、記事の文字を拾おうとしたが、
「あっ、新聞が読めない……」
 雄介は小さく声を挙げた。
 いや、読める、三行までは読める。しかし、そこから先に進むことが出来ない。三行まで読み進むと頭が混濁し、くらくらした。少し休み、また新聞を開いて、今度は意識的に挑戦してみた、やはり三行までだった。脇の下から冷たい液が流れ落ちた。ジィー、ジィーと間断なく耳は鳴っていた。何故だ、雄介は立ち竦み、凍りついた。
 身体がだるく、鉛のように重かった。休みたいと思った、しかし今日は休めない、休めない日だった。墨出しの日である。昨日、二階のコンクリートを打ち、今日は三階の墨出しをしなければならなかった。
 雄介は三階のフロアに駆け登り、トランシットのレンズを覗き込んだ。十字に刻まれたレンズの、黒い目盛りが揺れているように見えた。向こうで定規を持った男に、彼は右手を振って合図を送った。なかなかレンズの十字と定規が、ぴたりと合わなかった。次に彼は左手を大きく振った。「もっと左だ――」と怒鳴っていた。「もっともっと左だ――」と、怒鳴りながらレンズから目を離し、男のそばに行こうとした。
 真っ直ぐに歩けない。コンクリートのフロアが揺れているのか、自分が揺れているのか分からなかった。しかし彼は、「もっとしっかりしろ」と、男を睨んできつく叱った。男は怪訝そうな顔で、雄介を見上げていた。屈んでいた男は立ち上がり、「緒方さん、顔色が良くないですよ。どこか悪いんじゃないんですか」と訊いてきた。いや、と彼は答えたが、耳鳴りがして、頭は混濁していた。
 雄介は仕事を投げ出し、アパートへ帰り、作業着のままで布団にもぐりこんだ。全身倦怠感に包まれている。鉛のように重い身体は、布団を破って、地の底に落ちてゆくような錯覚に囚われた。彼はそのまま深い眠りに落ちた。
 それから、病院通いが始まった、まず耳鼻科だった。いくつかの検査をした。しかし、耳鳴りに結びつくような原因は見つからなかった。頭が重く曇っている状態で、新聞を読むと頭がくらくらした。脳神経外科へ回され、CTスキャンや脳波をとられた。内科的にはどこも異常はない、と言われた。
 新聞が三行しか読めない、そんな病気は聞いたことがない。もちろんビジネス書でも文学書でも新聞と同じで三行までだった。活字を拾って読むということは、けっして嫌いではなかった。高校時代は文芸部に入り詩を書き、文集づくりに夢中だった。それから十数年間、仕事の合間に書物を読んだり、数編の小説も同人誌に発表したりした。
 読むことと同時に、話すということも、自然にできなくなってしまった。そして、夜眠れなくなり、身体がだるく、その倦怠感は雄介の全身包み込んでいた。いくつかの病院を巡ってみたが、内科的にはどこにも異常は認められない、とのことだった。処方がないということで薬さえ貰えなかった。えたいの知れない、奇異な病気としか言いようがなかった。
 たとえ、えたいの知れない病気だとしても、それを放置しておくわけには行かなかった。抵抗はなくはなかったが、最後に思いついたのは精神病院だった。もしかしたら、自律神経失調症か、メニエール症候群かもしれない、と思ったりした。
 精神病院で雄介は、執拗に医師に病名を訊いたが、それには答えてもらえなかった。
「診断するのは、病名をつけるのが目的ではないんですよ。具体的な症状に対して、具体的な処置をするのが医師の役目なんです」
 白髪の医師は、真っ直ぐに雄介を見つめて、優しくそう言った。帰りに、ピンクとグリーンの錠剤を渡された。三十一歳の時だった。
 あれから二十五年が経つ、雄介はもう五十六歳になっていた。随分、遠回りして来たように思う。しかし、彼はまだ精神病院の門をくぐり続けている。なんと頑固な病気なのだろうか、二十五年経った今でも月一回、ピンクとグリーンの錠剤を貰いに行っている。前世に呪われているのかもしれない、という思いもなくはないが、それは違うだろうと思う。
彼自身の行きこし方の如実な、まぎれもない反映に過ぎない、と雄介は思っている。これもひとりの人間の有りようであり、ひとつの人生に違いなかった。
 しかし今では、日常生活や社会生活を営むうえで、何ら支障をきたすことはなくなっている。数年前からは本も少しずつ読めるようになってきた。それはおもに仕事に関するビジネス書のたぐいのものだった。感情移入が求められ、状況描写をイメージしながら読み進む小説は、やっと昨年の夏頃から手にすることが出来るようになった。
 あの、えたいのしれない病気に罹ってから、雄介は郷里の海の町へ帰ってきた。
 あの閉鎖的で保守的な、やけに沈鬱な雰囲気になじめず、高校を卒業すると同時に、いたたまれず漁師町を捨てて都会へ出た。自分が生まれ育ったあの忌まわしい、そして呪わしいあの家も捨てたのだった。
 彼は郷里に帰って二、三ヶ月何もしないでぶらぶらと過ごした。ぶらぶら、というと暢気で気楽そうに思えるけれど、鬼畜なごとき日々にさいなまれた。相変わらず不眠は続き、鉛をひこずっているような身体と倦怠感に、もがき苦しんだ。むろん本を読めるというような「しあわせ」はなかった。
 その後、雄介は仕事を探すことになった。
 新聞も書物も読めない、まして、人と関わって喋ることが出来ない。いったいどんな仕事があるというのか。彼は職業安定所にいくたびか足を運び、新聞の求人広告やチラシをなんとなく眺めたりした。
 雄介が選択したのはガス屋だった。プロパンガスのボンベを家庭や商店に届ける仕事である。この仕事なら、ガスの容器置き場に黙ってゆき、カラのボンベと新しい奴を交換してくればそれでよかった。この仕事を数年やり、腰を痛めて今の仕事に入ったのだった。
 まず、食わねばならぬ、子供たちを育て、自身も生き抜かなければならぬ。そのためには、意に染まない仕事であっても、たとえ、泣きながらでも、飯の糧を稼がなければならなかった。
 本を読めないということが、そしてものが書けないということが、どんなに辛いことだったろう。しかし、本に触れなくても、ものが書けなくても生活は出来る、何が不満で何が不足だというのだろう。が、彼にはその生活が我慢ならなかった。けれど、思い通りに、望んだ通りに生きられないのもまた、まぎれもない現実であり、その葛藤こそが人生であるともいえた。しかし彼は、読むこと、書くことに渇望していた。このままでは自分が駄目になる――。
 雄介はひとりで、ふらりと夜の街を彷徨うことがある。淋しい、無性に淋しい、荒涼とした原野にひとり置き去りにされて、木枯らしに吹き煽られている、そんな心の風景だ。
 極彩色のネオンがきらめく夜の街を、なんのあてもなく彷徨い歩く。するといきなり辻から厚化粧の女が、雄介の前を横切ったりする。作業着のまま酔い潰れた男が、道の傍らに雑巾のように転がったりしている。また、年取った男の腕にしがみついて、若い女が何か悲鳴を挙げながら、暗い闇に消えていく。
 ネオンの残影が幽かに届く場末の通りをゆくと、ふいに雄介の前に男が現れて、「お兄さん、いい娘がいるよ。これでどう?」と、二本の指を立てて見せた。雄介は素っ気なく右手を振って通り過ぎた。振り向くと、男は所在なげに建物の陰に立ち、闇に溶けていた。
 また雄介は原色のネオンの街に戻り、そぞろ歩いた。突然、救急車とパトカーが甲高いサイレンを鳴らして街に入ってきた。大通りの交差点あたりが騒然としている。喧嘩だった。彼は人だかりのする輪を割って、女の肩越しに内を覗き込んだ。どす黒い血がアスファルトを濡らし、傾斜に沿って流れている。下腹部を刺された男は、口から泡を吹いていた。救急隊員が人の輪を崩して内にはいり、泡を吹いている男を担架に転がした。
 サイレンがしだいに遠のいていくのを聞きながら、雄介はもう一度場末の通りを彷徨った。闇からすっと男が出てきて、「お兄さん、いい娘がいるよ。これでどう?」と、同じせりふで、やはり二本の指を立てた。雄介はうなずいた。男はホテルの名前とありかを教え、背伸びまでして、あっちの方角だと指を差した。
 雄介はホテルで待つことにした。十七号室、と呟きながら、扉に刻まれた部屋番号を探した。廊下の突き当たりのふたつ手前の部屋だった。重い扉を開き、内に入るとそこは闇だった。かすかな光をたよりに、電燈のスイッチを押すと、思いがけず部屋は広く明るかった。
 まずソファに坐り彼は煙草に火をつけた。少し緊張しているな、と呟いた。そして部屋をおもむろに見回した。玄関、ソファ、洗面所、広い曇りガラスの浴室、そして大きなベッド、赤い絨毯。ベッドの側面の壁は総ガラス張りで、鏡になっており、天井のシャンデリアの光を怪しく跳ね返していた。
 しばらくしてチャイムが鳴った。「こんばんは」と言って女が入ってきた。女と目が合い、雄介は少したじろいだ、そしてちょっぴり安心した。若い、健康そうな女だった。
「ちょっと待ったァ?」
 女はソファに身を投げ出しながら、少し鼻にかかった声で訊いた。
「ちょっとじゃないよ。火星に行って帰れるくらい待ったさ」
 雄介は煙草のけむりを、天井に向かって吹き出しながら、物憂げに答えた。
「またァ、そんなことをいってェ。これが鳴ってすぐ支度をしてきたのよォ」
 女は携帯を取り出して見せた。
「ところで、あんた何歳?あたしは二十一になったばかりってとこ。あたしいくつにみえるゥ?」
 女は雄介のソファに移ってきて、肩にもたれ掛かってきた。
 彼は上半身を捻って、女の頭をかわした。
「あらァ、冷たいのねェ、お兄さん」
 女は左の腕に抱きついてきた。
「お風呂に入ってきたらどォ?」
 女は煙草のけむりを、雄介の耳元に優しく吹きかけながら、言った。
 馴れなれしい奴だ、そしてよく喋る女だなと思いながら、雄介はシャワーを浴びた。だいたい、こんなところではキャバクラみたいに、愛想はいらないのだ。だいたいこちらが白けて、ついていけやぁしない。しかし、あれも女の、哀しく淋しい演技なのかもしれない。
 雄介は風呂から上がり、バスタオルを腰に巻きつけてベッドに横たわった。
「ちょっと待ってて、すぐ上がるからネ」
 女は掌をひらひらさせて浴室に消えた。
 雄介はベッド横の鏡にカーテンを引き、ベッドにもぐり込んだ。
「なぜ私はここにいるのか、なぜ私はこのホテルのベッドにいるのか」
 雄介は自問しながら、天井を睨んでいた。
「あらまァ、怖い顔、どうしたのォ」
 と言って、女がベッドに滑り込んできた。
 そして短く、そして長い、そして炎のように熱く燃え上がった、ひとつの世界は終わった。
 女は「じゃァねェ――」と言って、また掌をひらひらさせて、扉の向こうに消えた。
 淋しい、淋しい、この虚しさはいったい何なのか、胸を吹き抜けてゆく風。雄介は頭を枕に沈めて慟哭した。なぜ本が読めないのか、
なぜものが書けないのか、雄介はこの病気を呪い、シーツを掴んでまた激しく慟哭した。無性に虚しく淋しい思いは、より深くより強く、彼を呑み込み、ぽっかりと開いた、暗闇の地底に逆さまに落ちていった。
 このままでは自分が駄目になる――。

「まもなく名古屋、名古屋、お降りの方はご支度ねがいます」
 車内にアナウンスが流れた。
 雄介は遠い日々の想いから、一瞬のうちに現実に引き戻された。しばたいて目を開けると、車窓の風景が飛び込んできた。田園風景から次第に建物が乱立しだし、だんだんと高いコンクリートが屹立した街に、変わっていった。あのしっとりと、ゆたかな三月の風のおもむきはなく、埃っぽい灰色の街が窓外に流れていた。
 彼は読もうとして読めなかった単行本を手にして、バッグの中に押し込んだ。パスカルの『パンセ』だった。彼は今になっても人間というものがよく分からなかった。そしてまた、人間が「ものを書く」ということも、よく分からないのだった。
 ただ、雄介にとっては「ものが読めなくて、ものが書けないこと」は、ただただ虚しく、ただただ淋しいことだった。それが、くる日もくる日も濁流のように彼を呑み込んで、かれこれ二十五年になる。もし、「ものを読み、ものを書くこと」が、雄介の虚しさや淋しさを、解き放つことになるならば、パスカルの『パンセ』も焼却場に送り込まれることは、まず間違いないだろう。
 新幹線「ひかり」は滑るように名古屋駅に乗り入れた。「文学教室」は、午後二時からだったな、と雄介は呟いて、床を蹴って起ち上がった
。                               

鬼藤千春の小説 「母のゼッケン」 短編

 母のゼッケン

            鬼藤 千春

 晩秋の陽は西に傾いて、軒の低い家をやわらかい光が包んでいる。圭三はきしむ玄関の戸を引いて、家のなかに足を踏み入れた。
「ただいま、――」
 いつものように圭三は、誰にともいうことなく、玄関で声を挙げた。
 縁側で母が内職の帽子を編んでいたが、顔を上げて圭三を一瞥しただけだった。
「…………」
 母は何かいいたそうだったが、また眼を帽子の上に落として手を動かしている。
「…………」
 圭三も黙って二階の屋根裏部屋へ上がっていった。
 圭三はカバンを机の上に投げ出し、ビートルズのレコードをかけて、畳の上に寝転び、虚空に眼を泳がせていた。
 階段の踏み板がきしむ音が聴こえてきた。その音が登ってくる。部屋の板戸が開く。母だった。母は部屋をゆっくりと見回していたようだったが、おもむろに口をひらいた。
「圭三、なんじゃ、こりゃ―」
 母は本棚の前に立って、あごをしゃくった。
「…………」
 圭三は黙っていた。
 本棚には、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、「淫売婦」や黒島伝治の「渦巻ける烏の群」、
「二銭銅貨」などが並んでいる。マルクスやエンゲルスなどの著作も、無造作に突っ込まれていた。
 物思いにふけるように、母はその場に佇んでいる。しばらく沈黙が流れた。圭三はレコードのスイッチをきった。海が鳴っている。潮騒である。
「むかし――、むかしといっても、三十年ほどまえのことじゃ」
 母が振り向いていった。
「東の地区の漁師が捕まったんじゃ。こんな本を持っていたそうじゃ」
「…………」
 圭三は頭の下で手を組んで、黙って天井を睨んでいた。
「圭三、誰にもいうんじゃないぞ。そりゃ、いまの時代じゃから、もっとるだけで、捕まるようなことはねえじゃろうけど、――」
 母は遠くを見るような眼をしていった。
「…………」
「就職も決まったんじゃし、上の人に嫌われんようにせにゃいけんからなあ、――」
 母の言葉にさからうように、圭三は寝返りを打って母に背を向けた。
 母が二十歳の頃、この半農半漁の田舎の村で、こんな本を持っていた漁師がいたことに圭三はおどろいた。そして、なぜか心が騒ぎ熱くなってゆくのを感じていた。
 ――検挙されたのは、治安維持法だったのだろう。その漁師たちのもっていた良心や知性が窒息させられ、戦争と破滅への道を歩むことになったのではないのだろうか、圭三は心のなかでそう呟いて、母に反発していた。
 プロレタリア文学やコミュニズムの本に触れるようになったのは、圭三が高校二年の初夏に文芸部に入ってからだった。友人に奨められて読むようになったのだが、その頃、いかに生くべきかで悩んでいた圭三の心に、清流のように沁みこんでいった。
 来春、圭三は高校を卒業して、K市役所に就職することが決まっていた。
「よかったなあ、圭ちゃんは……、ええとこへ入れて、――」
 親戚や近所の人々は、挨拶がわりに母にこういうのだった。
 母はそれがたとえ世辞だとしても、悪い気はしなかったに違いない。しかし、圭三の心は平静で、特別の感慨はなかった。
「圭三、上の人にいやがられることのないようにせにゃいけんぞ、――」
 母は圭三の背中に声をかけて、階段を下りていった。
 圭三の家は貧しい暮らしを余儀なくされてきた。小学生のころ、家のタンスや机、自転車まで差し押さえの札が貼られていったのを憶えている。圭三は小学校の修学旅行にいけなかったし、成績のよかった兄が高校にいかせてもらえなかった。そうした貧しさを受け止めて、もっとも心を痛めていたのは母だったような気がする。
 ――大工を殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい、と揶揄される仕事をしていたのは父である。父は真面目で、飲む、打つ、買う、という放蕩をしたことはなかったが、なぜか圭三の家は貧しかった。だから、安定した仕事に就くことになった圭三の本棚が、母は気にかかっていたに違いないのだ。
 秋の陽が斜めに射しこんで、圭三の部屋を金色に染めていた。

 チ、チ、チッ、チーッ、チ、――
 雀のさえずりで圭三は眼を覚ました。カーテンを引くと、まだ明けきらぬ闇がそこにあった。
 チーッ、チッ、チ、チ、チ、――
 東の空はようやく白みはじめ、軒先で雀が鳴き交わしている。
 圭三が階段を下りてゆくと、母は台所に立って俎板をトントンと叩いていた。食卓の前には作業衣を着た父が坐っている。
「おはよう、――」
 母に向かって、圭三は声をかけた。
 母は唇を噛んで、圭三を無視するように黙って包丁で何かを刻んでいた。その音は母の意思が込められているようで、とげとげしく聞えてくる。思いわずらうこころを切り刻むようにそれは高く響いた。
 母が口を利かなくなって二日が経っている。朝夕の挨拶をしても黙ったままである。
 それは圭三が、母にゼッケンを縫うように頼んでからである。ゼッケンといっても母には判らないだろうから、集会の写真を見せたのだった。
「そりゃ、世の中が悪いかも知れん。じゃがのう、お前が何もそんな活動をせんでもよかろう、……」
 母は写真を突き返してきた。
「でも、気づいたもんから、やらにゃいけんじゃろう。ぼくもそれに気づいたから、始めるだけなんじゃから、――」
 圭三は、頭に白いものが目立つようになった、母の顔を覗き込むようにしていった。
「でものう、そんな活動をしょうたら、後ろ指をさされるようになるんじゃ。よう考えてみい、……」
 母はそういって圭三を睨んだ。
 圭三は次の日曜日に、ベトナム反戦と暮らしを守る集会に参加する予定なのだった。労働者と市民の集会だったが、高校生もいくつかの学校から参加することになっていた。圭三の高校からは、三名の学友が出るというので、圭三がゼッケンを引き受けたのだった。
 圭三にとっては、たんなる集会参加にとどまるものではなかった。圭三の今までの人生というのは、自己肯定感の持てぬ、劣等感にとらわれた卑屈な日々だったような気がする。
 昼食の時間に、弁当の中身を見られないように、新聞紙で囲いをつくって食べたその卑屈さを思い出すといたたまれなくなる。放課後、中学校の友人と一緒に帰りながら、自分の古ぼけた家を見られるのが厭で、家が近づくとひとり遠回りして帰ることもあった。
 圭三はそういう自分が厭だった。内へ内へと内向してゆく自分を、外に向かって飛翔させたかったのだ。この集会は圭三にとって、自身の生き方と深く結びついている。
 母の来し方はどうだったのだろうか。家の貧しさを一身にひきうけて、心がやすまることがなかったような気がする。
 父が膝を痛めてしばらく仕事にゆけなかったことがある。父の収入がなくなり、母の内職だけでは生活できないようになった。それで治療費と生活費を村の有力者に借りたのだった。しかし、期限までに返済することができなくて、畑を手放さなければならなくなった。もう少し待ってくれ、といって母は頼んだが、容赦のない取立てで、病人の布団を引き剥がすように畑が奪われていった。母はその夜、タオルをかたく握り締めて、暗い部屋に身じろぎもしないで坐っていた。
 圭三は洗面所から出て二階へ上がっていった。母はいつ眠っているのだろうか。圭三が床に就こうと屋根裏部屋に上がってゆくときも、決まって母は内職の帽子を編んでいた。朝は誰よりも早く床をぬけだし、裏山の畑にゆくか台所で立ち働いていた。

 ふと、圭三は目覚めた。カーテンの隙間から、朝の陽射しが洩れている。耳を澄ませば、潮騒が聞こえてくる。圭三は布団のなかで、潮のさしてくる波立つ音を、しばらく聞いていた。
 母が口を利かないようになって、三日経ち、四日経った。母と圭三のあいだは、緊張した空気が張りつめていた。圭三も口を利かなくなった。集会は明日である。圭三は母を少し憎んだ。
 圭三は布団を蹴って、起き上がった。すると、枕元に白布が畳んで置かれていた。手にとって広げてみると、それはゼッケンだった。
圭三がカーテンを強く引き放つと、部屋に明るい光が満ち溢れた。
 母のゼッケンは、淡い朱色に染まっていた。

鬼藤千春の小説 「炎立つ」 短編

 炎 立 つ

           鬼藤 千春

 哲也は、日々の仕事に辟易していた。
 彼の仕事は寺めぐりである。この仕事に就いて、かれこれ四ヶ月半が経つ。上半期を終えた七月一日に辞令が交付され、営業部から開発部に異動させられた。
 哲也の会社は、西日本では比較的大きい石材会社である。墓石販売を中心に灯篭などの庭物や建築物などの石材を取り扱っていた。彼は営業部の次長をしていたが、リストラのターゲットにされ、開発部に廻されたのである。
 彼は五十八歳、定年まであと二年である。会社は世代交代を理由に、中高年に対して厳しい処遇をしていた。ある五十六歳の店長は、業績不振を理由に一般営業社員に降格させられた。またある店長は哲也と同様、開発部に配属させられ、三ヶ月で退職を余儀なくされたのである。
 哲也は日々の仕事に辟易するだけでなく、薄氷を踏む思いで日々を過ごしていた。会社は開発部の成果が上がらなければ、退職勧奨へと舵をきるのは眼にみえていた。彼は薄氷がいつ裂けて水中に落ち込むか、頼りなく心細い心持ちであった。
 開発部の仕事というのは、霊園の開発や寺院や葬儀社、ギフト店との提携などをめざしていた。寺院等との提携をしてゆき、そこから墓石等のニーズを持った檀家を紹介していただくということである。寺めぐりとは、そういうことなのだ。が、寺院との提携は決してたやすいことではなかった。寺院には檀家のなかに石屋がいたり、すでに昔から提携先があったりするのが常だった。また、石材店との提携などといった世俗的なことには関知しない、というスタンスをとっている寺院も少なからずある。
 寺院との提携は砂山からダイヤを探り当てるようなものである。砂山を崩しても崩しても、いっこうに煌めくダイヤは姿をあらわさない。それと同じように、哲也は徒労だと思う。
 朝、鏡を覗いても顔色が日一日と暗くなってゆくように感じる。仕事に対するやり甲斐や充実感がまったく感じられないのだった。身体は鉛のように重く、倦怠感に包まれている。耳鳴りがする。ジ、ジ、ジィーとどこか遠くで響いているように思っていると、すぐ近くの左耳の内奥で鳴っているのを知らされるのだ。

 ジ、ジ、ジィーと左耳の内奥で虫が鳴いているような、耳鳴りがしていた。
 哲也は市街地からやや外れた所にある寺院を訪ねようとして、車を空き地に停めた。その広場は一種異様な光景に包まれていた。真っ黒に塗りつぶされた、窓のない大型車両が数台駐車していた。車の周りには黒ずくめの服で身を固めた男たちがたむろし、煙草を吹かしている。高い鳥居の先には石畳が続き、神殿が遠くに佇んで見えた。護国神社である。
 哲也は運転席で住宅地図を広げ、寺の所在地を確認した。そこから三、四百メートルのところに寺院はある筈だった。日蓮宗、妙浄寺である。彼はいつものように気乗りしなかった。仕事への意欲はもう萎えていた。
 車を降りて、だらだらとした坂道をくだっていった。その坂道の右手、山すそには忠魂碑やシベリヤ抑留碑などの碑が秋の陽射しを照り返している。左手には野球場やグラウンドがあって、白球を追って走り回る姿がなぜかテレビの画面のように映し出されていた。
 坂道を降りてゆくと、小高い丘に色鮮やかに染まったもみじが、自身の存在を知らしめるように、何かを主張するように、枝を広げていた。哲也はふと足を止めて、その木を見上げる。秋も深まったな、と想う。その静寂を破って不意にスピーカーから高音量の軍歌が流れ、あの広場に停まっていた黒塗りの車が県道へと出て行った。紅く染まったもみじの葉が震えていた。
 哲也は黒塗りの車を疎ましく思いながら、小高い丘を右に曲がり、川沿いの道に出た。
彼ははじめ川沿いのだらだらとした坂道を降りていった。小川の畔には銀杏並木があり、黄金色の葉が風に揺れながら輝いている。舞い落ちた葉がゆるやかな小川の流れに乗って、滑るように遠ざかってゆく。彼は佇んで、その流れをしばらく見送っていた。晩秋の光景に、自身の生き方を顧みるのだった。ひとひら、またひとひらと、銀杏の葉が音もなく舞い落ちていく。
 川沿いの道は行き止まりになっていて、そこから左に折れている。小川沿いの道は時折車が走りすぎていったが、左に折れた道は小路であった。小路の両側には民家が軒を連ねている。幅の狭い通りをすすんでゆくと、その一角に寺院があった。妙浄寺である。寺は狭い通りに面しており、民家に挟まれて窮屈そうな佇まいであった。
 哲也は山門をくぐりぬけようとして、いくらか神妙な心持でその前に立った。山門の前に立つと、いつもそんな心持ちになるのだった。それは神仏にたいする敬虔な想いというよりも、厭な仕事で寺を訪ねるという重圧が、神妙な心持にさせるらしかった。
 哲也は深く息を吸って、なにげなく山門を見上げた。彼の眼はおもわず山門の梁に釘付けになった。山門の梁はところどころ黒く焼けただれて、炭状になっている。梁だけではなかった。太い柱や桁もあちこちに黒く焼けただれた傷痕がある。
 彼は不思議に思って二、三歩下がり、眼を細くして山門を眺めた。両脇に太い柱がグィと力強く伸び、桁と梁を支えている。その上に屋根が乗り、日本瓦が黒く沈んだ光を放っていた。山門のところどころが炭化しているのは、向かって左側の面である。
 ふと気付くと、山門の脇に標示板がしつらえられていた。哲也はその白い標示板を覗き込んだ。彼はハッとして、一歩前にすすみでた。標示板にはこの山門が、一九四五年六月二九日未明の岡山大空襲の戦禍である旨が綴られている。彼はその文章を繰り返し読み、山門の前でしばし立ち尽くしていた。
 ちょうど六十年前の出来事である。もちろん哲也は知らない。彼が生まれたのはその二年後のことなのである。が彼は、岡山大空襲によって、市街地の大半が火の海となり、二千名にものぼる死者が出た惨状について、書物や人から聞き及んでいた。けれども、山門の黒く焼けただれた傷痕は、書物や伝聞をはるかに超えて、哲也の胸を強くついた。
 哲也は山門をくぐって境内に入り、仏殿の前で姿勢をただし合掌をした。庫裡が右手の奥まったところにあるのが見えた。庫裡の玄関脇には、分厚い丸い板が吊り下げられている。来客を告げる板である。彼は木槌でその板を三、四回打ち鳴らし、玄関の引き違い戸を引いた。板はクゥワーン、クゥワーンと乾いた音が高く鳴り響いた。
 庫裡の玄関は比較的広く、土間になっている。その土間は左手がそのまま通路になり、奥につながっているらしかった。上がり框につづく空間は畳が敷き込まれており、奥の部屋の襖が開いて、老女が出てきた。が、もうかなり高齢に見受けられたが顔の色艶もよく、気品が漂っていた。
 哲也は名刺を差し出して、ご挨拶をした。
「お上人はいらっしゃいますか」
 哲也は、名刺を覗き込んでいる老女に向かって訊ねた。
「あいにく出掛けておりますが、何か?」
 老女は顔を上げて哲也を見つめた。
「いや、あの、奥様でしょうか、他でもないんですが、こちらのお寺さまで、観音さまとかお地蔵さま、そして石工事など、何かお手伝いすることはございませんか」
 哲也はさりげなく訊いた。
「お上人からそういう話は全然きいておりません。わたしでは何も判りませんし、またお上人がいる時にお見えになったらいかがですか……」
 奥さんは少し微笑んで、応えた。
 しばし沈黙が流れた。その後で、
「あ、あのぅ……」
 哲也は言い淀んだ。
「あ、あのぅ、こちらの山門なんですが、岡山大空襲の……」
 哲也は奥さんの顔を覗き込みながら、訊いた。
「ええ、そうなんですよ……」
 白髪の頭を押さえながら、奥さんはぽつりと言った。
「山門は焼けずによく耐えましたね」
 哲也がそう言うと、
「まあ、お掛けなさい」
 と言って、座布団を差し出してくれた。そうして、奥さんはいったん部屋を出て、盆に茶と和菓子を載せて戻ってきた。
「あの日はほんとうに大変でした。山門の前の小路から西の街は、焼夷弾によってほとんど焼き尽くされました。その火がこの寺にも迫ってきて、山門に飛び火しあちこちから火の手が上がり出しました。お上人は棒の先に縄状のものを取り付けた火たたきで、その火を懸命に消したのです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えながら、火たたきを柱や梁や桁に打ちつけていました。わたしは、バケツで何度も水を運びました。しかし、西からの火勢はいよいよ強くなってきて、身の危険を感じ、本尊を布に包んでこの寺を脱出したのです」
 遠くを見るような眼差しで、奥さんはゆっくりと語った。
「お上人とわたしは、数キロ先の同じ日蓮宗の寺に身を寄せたのです。行く道々で逃げ惑う人々に出遭いました。泣き叫ぶ子供の手を引いてゆく者たち、背中に負ぶさり手足をだらんと垂らした物言わぬ者たちが、ひしめいていました。振り返ると、岡山の街は赤く染まっていました。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて合掌をしたものでした。身を寄せた寺では、ご本尊に向かって朝まで読経しておりました。長い夜が明けて、ふたりは帰って来たのです」
 そこまで話して、奥さんは嘆息した。
「もう諦めていましたが、寺は無事でした。寺より西の街はほとんど消失してしまったというのに、寺の一角だけは焼け残っていました。たぶん、ご本尊さまがお守り下さったのでしょう。しかし、悲しいことがこの寺の境内で起こっていました。兄ちゃん、まだええかのぅ」
 と言って、奥さんは土間に降り、庫裡を出てゆくのだった。哲也はそれに従った。
 奥さんは朱の鼻緒をつけた下駄を履き、境内の奥の方へと進んでいった。境内の一角には墓所があり、墓石が乱立している。珍しい形をした宝篋印塔や五輪塔も屹立していた。さらに進むと、ゆるやかな小高い丘になっている。その丘は、まるで錦絵を見るように鮮やかに染まっていた。哲也は息を呑んだ。
「奥さん、見事な紅葉ですね」
 哲也は思わず、声を上げた。
「ええ、ここの紅葉はよく知られていますよ。
昨日も、テレビ局の方がカメラをもって取材に来られました」
 振り向いて、奥さんは応えた。
「でも本当は、そぅっとしておいてやりたいんです」
 奥さんは二、三歩進んで、丘の下の二本のもみじの前にしゃがみ込み、静かに合掌をした。
 そのもみじの一本は、高く天を突き翼のように枝を広げていた。それに寄り添うように小さいもう一本のもみじが風に震えている。二本のもみじは、深紅に燃えていた。いや、それを突き抜けたような、異様な色合いだった。
 哲也がそのもみじに見入っていると、
「この二本のもみじは、どこか違っているじゃろぅ……」
 と、奥さんが振り向いた。
「ええ、何か……」
 哲也は奥さんの顔を覗き込んだ。
「あの日、ここに母娘が倒れていたんです。市街の火勢も衰えた頃、朝方私たちは逃げ出した先から戻って来たんです。山門はもちろん、仏殿も焼失したものと思っていたんですが、奇跡でした。寺は無事でした。が、ここへ逃げ延びてきた母娘は、ここに倒れ息絶えていたんです。焼夷弾の破片が身体に突き刺さり、血が溢れていました」
 そう言って、奥さんは声をつまらせた。
「やがて終戦になって、供養のためお上人がここにもみじを二本植えたんです。これが、そのもみじです」
 奥さんは立ち上がって、もみじを見上げた。
 その時、風が舞い、もみじの葉がさわさわと揺れていた。
 哲也は奥さんに挨拶をし、帰り際にもう一度後ろを振り向いた。炎立つ――、二本のもみじが血で染まっているように見えた。

鬼藤千春の小説 「チューリップの花束」 短編

チューリップの花束

          鬼藤千春


 花曇りだった。外の風景が四角いブラウンの窓枠によって、切り取られている。山の稜線は牛の背のように、ゆったりと逞しく流れていた。空はうすぼんやりと霞んでいる。山の中腹には、山桜が綿菓子のようにふんわりと、いくつも浮かんでいる。哲也は、あの山の向こうに広がる海を、連絡線が白い波の尾を引いて、ゆききしている情景を思い浮かべていた。
 ここは、石材会社の本社三階の会議室である。各地にある十一の支店の責任者が集う、店長会議であった。哲也は会議に倦んでぼんやりと窓外の風景を眺めていた。その時である。マナーモード設定の携帯電話がいきなり震えだし、机の上でカタカタと小さく鳴った。彼は議長に軽く手を上げて、会議室を抜け出した。
「あ、沙知子さんのお父さんですか」
 ワンルームマンションの管理人だった。
 二年前、沙知子が短大を卒業し、M市のカナリア保育園へ就職が決まった折、部屋探しで世話になった人だ。五十代の美しく優しい女性だったが、声が潰れたように太く低い声である。
「あの、沙知子さんの先月の家賃が入らないんですが――。会って催促しても、もう少し待ってくれというばかりで――」
 困惑した様子が伝わってきた。
 哲也は階段の踊り場で、外の景色を見遣りながら聞いていたが、緑色の山並みが急に色を失くしてゆくように思った。
 家賃が払えない――。なぜ、そんなことが
――。哲也は冷静さを装うように、階段をゆっくり降りていったが、いささか狼狽していた。階段を踏み外しそうになり、足元がふらついた。彼は沙知子の生活の異変を感じた。
 就職して初めての正月に帰った時、いくらか化粧が濃くなっていたのを感じたが、沙知子は甥や姪と神社や寺を巡り、とても楽しそうに見えた。訊ねると、少しはにかんで、六十万円貯まった、といっていた。だから、保育士になって三年目の春、今ではもう百万円くらいの預貯金があるだろう、くらいに哲也は考えていたのだった。
「あ、そうですか。それは申し訳ありません。沙知子に連絡をとってみますので、少し待って下さい――」
 哲也は沈んだ気持ちになって、携帯電話のスイッチを切った。
 彼は階段を一段、一段昇っていったが、暗澹たる気持ちだった。

 その夜、哲也は長男の直樹を伴ってM市へ飛んだ。M市は県庁所在地の中都市で、彼の住む町から車で一時間ほどのところにある。沙知子のマンションは国道の脇を走る側道に面して建っている。駐車場から見上げると黒いコンクリートの塊が屹立していた。沙知子の部屋は四階の西端である。その部屋からはカーテンを透かして淡い光が洩れていた。
 エレベーターが体を震わして、四階に停まった。すぐ前が沙知子の部屋である。エレベーターの前から東に廊下が延びており、蛍光灯がぼんやりと照らしていた。
 チャイムを押す。呼び出しのメロディがかすかに外に響いてくる。反応がない。下から見上げたとき、部屋の灯りは点いていた。もう一度チャイムを押した。メロディが流れてくる。やはり反応がない。息を殺したような気色である。いらだって哲也は二度、三度、強く押して、「沙知子!」と叫んだ。
「待って――」
 しばらくして、慌てたような沙知子の声が聞こえた。
 ロックが解除され、ドアはわずかに開き、沙知子の怪訝そうな顔が覗いた。哲也はドアを大きく開いて中に入ろうとしたが、沙知子の抵抗にあった。内側からノブを懸命に引いている。哲也は「沙知子!」と怒鳴って、強引にドアを開いた。
 部屋はいくぶん、乱れていた。パソコンからテレビの画面が流れている。沙知子は上がり框に佇んでいた。部屋の奥に眼を遣ると、若い男がベッドの隅に腰掛けている。哲也は不意をつかれたように、どぎまぎした。男は身体を小さく折って「どうも――」と、頭をさげた。哲也は醜悪なものを見たように思った。この部屋に、けがれた不浄な空気が漂っているのを感じた。
 哲也はここで沙知子と話すつもりだった。が、男がいる。ここでという訳にはいかない。直樹が、
「外に行こう。近くにファミレスがあるから
――」
 と、哲也にも沙知子にも受け取れるような
言い方をした。
 直樹は子どもを連れてよく来ていたから、
この街のことは詳しいようだ。最初、沙知子は外に出てゆくのを渋った。「行きたくない
」と、框に突っ立ったままだった。
「沙知子、早く支度をしろ」
 直樹が鋭い声でいった。
 沙知子は、身体を揺すって後退りをした。
「沙知! ぐずぐずするな!」
 直樹は前に一歩進んで、叫んだ。
 午後十時を過ぎたファミリーレストランは、
照明ばかりが眩くて、人影はまばらだった。
哲也はできるだけ人目につき難い、奥まった席を探した。哲也と直樹が並んで席をとり、沙知子とは対面する恰好になった。       
 雨が急に降り出したようだ。道路を走りぬける車のヘッドライトに照射され、雨粒がきらめきながら落ちてゆく。
 沙知子はただ黙って俯いていた。時折、雨に濡れた街に視線を投げ、不機嫌な横顔を見せている。二人が訪ねた理由が解っているのか、いないのか、沙知子の様子からは判断できなかった。ただ、硬い表情を顔に刻んでいる。ジーパンを穿き、赤と黒のチェックのシャツを、腰のところで結んでいた。唇を紅く染め、付け睫毛が異様に長く、厚化粧の沙知子の顔が醜い、と哲也は思った。
「管理人から……、管理人のおばさんから……、デ、デンワがあったんだ」
 哲也はおもむろに、口を開いた。
「沙知子、何故だか解る? 思い当たるフシは?」
 回りくどい、と哲也は話しながら思った。もっと率直に言えないものか、と自問していた。
「沙知、家賃はどうなっているんだ。先月のをまだ払ってないんだろ。家賃は引き落としだな、ということは、つまり、預金残高がないということだ。どうなっているんだ、いったい」
 直樹は、逡巡している哲也に異を唱えるというふうに、直截にいった。
 哲也は直樹を連れてきて良かった、と思った。哲也は沙知子の生活のありようや生き方、家賃滞納の背景などに想いをめぐらせ、あるいは、彼女を傷つけないように、などと腐心するあまり、率直な言葉にならないのだった。が、やはり兄妹である。直樹は兄として、遠慮なく核心に迫ってゆくことができるのだ。直樹は沙知子より十一歳上だった。
「………」
 沙知子の眼が一瞬光り、紅い唇が歪んだ。
「………」
 沙知子は唇をかたく噛み、身じろぎもしない。
「保母になって初めての正月、帰ってきて六十万円貯まった、と言ってたな。なのに、家賃が払えなくなるなんて、何に使ったんだ」
 直樹は沙知子を睨んでいった。
「………」
 沙知子は何も応えず、視線を外に投げた。
 車がザァー、ザァーと水しぶきを上げて走り抜ける音が、やけに響いてくる。その後、深い静寂が訪れる。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ。
沙知、いったい何に使ったんだ!」
 直樹はテーブルに身を乗り出して、怒鳴った。
「………」
 奈落の底のような沈黙、そのあと、沙知子の瞳がうるんで、ひと粒の涙が頬を伝って落ちた。
「……エ、エステ!」
 沙知子は吐き捨てるようにいった。
「何、エステ? エステにいくら使ったんだ。それで家賃が払えなくなったのか!」
 哲也は、頭に血が昇るのを感じていた。
「………」
 沙知子は、横を向き雨に濡れた街を睨んでいた。   
 もう涙は乾き、二人を寄せ付けない、かたくなな表情を顔に刻んでいた。しばらく沈黙した、無意味な時間が流れた。
「もう駄目だ。なんにも言わないんだから……、沙知、自分でカタがつけられるんだな。
もう、子どもじゃないんだ。しっかりしろ!

 直樹は、椅子をガタゴトいわせて立ち上がった。
「沙、沙知子、お父さんは、もう帰るよ。生活が乱れたら、いい保育はできないよ、な、解るだろう」
 哲也は立ち上がりながら、いった。
「………」
 沙知子はフンと軽くあしらうように、眼を逸らした。
 このままでは駄目だ、沙知子の心の闇、閉ざされたままの心、哲也は深い虚しさに包まれて、降りしきる雨の中へ走り出た。

 一週間ほどのちに、また管理人から電話があった。まだ家賃が入らない、と言ってきた。
哲也は賃貸契約の保証人である。管理人から連絡があるのは当然といえば、当然のことなのだ。が、哲也は家賃そのものよりも、沙知子の生活のありようが案じられて仕方がない。
 あの日から、哲也は夜、眠れなくなった。日頃から、自律神経失調症の薬を飲んでいる哲也にとっては、決して軽くない事件として
自身に突き付けられたのである。だから、深い眠りに落ちることがなく、浅い眠りに悩まされるのだ。雀のチ、チ、チィッというさえずりにも神経が敏感に反応して、朝早く目覚める。
 これは、何かのサインだ、と哲也は感じないわけにはいかなかった。管理人がそれを発している。いや、管理人を介して沙知子が、絹を裂くような悲鳴を挙げているのかも知れなかった。
 沙知子は無口な子だった。恐ろしく無口な子である。今まで哲也と、会話らしい会話を交わしたことがない。会話ではなく単語を呟いて、意思の疎通がかろうじてはかられてきたのだった。その無口は、沙知子の祖父に通じるものがある。祖父は、腕のいい大工の職人であった。必要なこと以外喋らない。嘘のつけない誠実で実直な祖父だった。                   
 哲也は、俗受けする人間よりも、貧しくて無口な沙知子の祖父、つまり、哲也の父に畏敬の念をいだいていた。その血を沙知子は否応なく受け継いでいるように思われた。濃い祖父の血が沙知子の内に流れている。が、沙知子の無口を好ましい、とは哲也は考えていなかった。けれども、沙知子は真面目で健気だった。
 小学校から高校まで、そして、短大卒業まで、彼女が休んだという記憶は、哲也にはない。ひたすらにというよりか、たんたんと日日を過ごしてきたように思う。喜怒哀楽もほとんど表さない。可愛くない、それでいて、いとおしいといった子どもであった。勉学ができるというふうではなかったが、問題らしい問題を起こしたことがなかった。哲也はそれが問題だと感じていた。         
 哲也は沙知子の他に三人の子どもを育ててきていたから、それがよく解った。長男は高校の折、万引きで補導され、二男は中学校で授業中に火災報知器を鳴らすという、大胆ないたずらをしたことがある。長女は家で数学の問題集をやらしていたら、哲也の眼を盗んで回答集を丸写しにしたことがあった。
 思春期の三人の子どもは、それぞれに悩み、葛藤し、揺れながら生きてきていた。問題を引き起こすことで、より自身の生と濃密に向き合い、成長への糧となってきたような気がするのだった。
 沙知子にはそれがなかった。問題を起こせ、とは思わなかったけれども、中学、高校、短大を通じて、もっと遊べ、と願わずにはいられなかった。沙知子は世間で言われるところの、いい子であったような気がする。哲也は決してそれを求めたことがない、と思うけれども、果たして沙知子にとっては、どうだったのだろうか。
 その夜、哲也は、妻と長女の葉子を伴ってふたたび、沙知子のマンションを訪ねた。
 葉子は沙知子よりも八歳上で、看護師をしていた。三人の子どももいて、沙知子はその甥や姪たちと盆休みや正月休みには、楽しく過ごすのだった。沙知子は甥や姪たちから慕われ「サッちゃん、サッちゃん」と、まつわりつかれるのである。葉子は屈託がなく、おおらかな性格で、沙知子にとっても気心の知れた姉である。
「サッちゃん元気?」
 玄関のドアを開けると、葉子は明るい声で呼びかけた。
 沙知子は苦笑いを浮かべて、葉子たちを招き入れた。彼女はテーブルの上で、書き物をしていたようだった。保育園の資料をテーブルの上にいっぱい広げている。沙知子はそれらを片隅に押しやって、ベッドに腰掛けた。
 電子ピアノの表面がうっすらとほこりで白く汚れている。洗濯機の上には、男物の衣類が乱雑に投げ出されていた。ベッドの横のカラーボックスの上では、ハムスターがせわしなく動き廻っている。
「サッちゃん、管理人さんから、電話があったそうよ。家賃どうなってんの」
 葉子がハムスターの籠に手を延ばしながらいった。
「………」
 沙知子は何も言わなかったが、苦渋に満ちた顔をした。
 バルコニーの南の空に、星が貼りつき、冴え冴えとした光りを放っていた。
「沙知子、この前、ファミレスで話したけれど、あれから何にも変わっていない。家賃が払えないなんて、どうなっているんだ」
 哲也は俯いている沙知子に、鋭く、大きな声でいった。
「………」
 沙知子は、しばらく黙っていたが、不意に立ち上がって、カーテンを苛立たしく引いた。
瞬いていた星影が見えなくなった。
「………」
 また、しんとした淋しさが訪れた。
 夜のしじまを引き裂いて、救急車のサイレンが不気味に響いてきた。遠くからだんだんと近づいてきて、また遠ざかっていった。前よりも深い静寂が訪れた。
「こんな乱れた生活をしていたら、子どもたちに信頼されるような、いい保育はできないよ。沙知子、真面目にやってるのか!」
 哲也は尖った、刺すような声でいった。
 沙知子はいきなり、ベッドの上にあった週刊誌を、思いきり床に叩きつけ、
「きちんと仕事はしてるし、子どもたちにも好かれているわッ」
 といって、瞳に涙をいっぱいためて、部屋の外に出て行った。
 妻と葉子はすぐに沙知子を追った。また、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響き、近づき、遠ざかっていった。その音は哲也の心をいっそう不安にした。生活については、彼女自身それを認めざるを得ないのだ。が、保育という仕事については、いくばくかの自信と誇りをもっているのだろう。だから、その自尊心を傷つけられたと思って、他人の干渉を排除しようとして、いたたまれず部屋の外に飛び出したのだろう、と思われた。しばらくして、妻と葉子が帰ってきた。暗くて沙知子を見失ってしまった、ということだった。妻は沙知子の行動におろおろしていた。
 三人は沙知子を待つことにした。が、沙知子は帰ってこなかった。長い夜となった。哲也はひどい疲労におそわれていた。ハムスターだけが、何事もなかったように、輪をくるくる廻して遊んでいる。
 哲也はテーブルの隅に押しやられた、保育園の資料をなにげなく手にとって、眺めていた。沙知子の保育日誌や職員会議のレポートである。それは寡黙な沙知子の心のありようを知る上で、ひとつの大切な材料のように思われた。                 
 この落差は何だろう、と哲也は思った。家賃が払えずきゅうきゅうとし、いま、哲也たちの前から姿を消し、夜の街を彷徨している沙知子である。が、彼女のレポートには眼を瞠るものがあった。哲也はそれを食い入るように見詰めた。字は丁寧で文章も内容も優れたものであった。この落差、つまり、仕事と私生活の落差、これはいったい何だろう、と哲也を悩ますのである。
 ほこりを被った電子ピアノの上に、無造作に投げ出された紙片をみつけた。手にとって見ると、ガス代の請求書である。三ヶ月の滞納をしている。滞納はまだあった。インターネットの接続料二ヶ月分と、自動車税などである。
 沙知子の私生活、それは闇に包まれている。
請求書の紙片をみても、何も感じないのだろうか。その感覚は麻痺しているのか、あるいは無視しているのだろうか。
 沙知子は一向に帰る気配がない。カーテンを引き、外を見遣ると、家々は闇に溶けている。空にはちりばめられた星が瞬いていた。沙知子は星の下をさまよっているのか、あるいは、うずくまっているのだろうか。
 哲也はベッドのサイドボードの引き出しから、沙知子の預金通帳をみつけた。六ヶ月ほど前の記帳だったが、哲也はその通帳に釘付けになり、心が凍ってゆくのが解った。なんと、ローン会社の名前が四社も載り、毎月の支払い額が印字されていた。しかも、テレビコマーシャルなどでよく見聞きする、消費者金融の名前も刻まれており、哲也は怖くなった。沙知子は多重債務者ではないか、まぎれもなくそうである。
 家賃の滞納は、氷山の一角であった。その心配をしないわけではなかったけれども、その思いをはるかに超えていた。借り入れ残高がどのくらいになるのか、通帳から推し量ることはできなかった。いったい何に使ったというのだろうか。
 哲也は立ち上がって、沙知子の部屋の中を見回した。パソコンは新しく求めたようである。エステの美容器具は、部屋の隅でほこりを被っていた。ブランドもののバッグは高い棚の上で眠っている。それに軽四の新車だ。あと、何に使ったのだろう。
 沙知子は、いままで欲しいと思ったものはほとんど手に入っていた。ピアノ、振袖、車、
パソコンなどを要求されても、哲也はほとんど異議を唱えたことはなかったのだ。沙知子は、欲しいと思うものは簡単に手に入ると考えてきたのだろう。忍耐と我慢が沙知子の内に育ってないのは、哲也自身の問題なのだ。が、そうだとしても、収支のバランスは解る筈ではないか、哲也は沙知子への信頼と愛情が音を立てて崩れてゆくのを感じていた。けれども、子どもに、耐えしのぶことを体験させなかったことは、哲也にとって不覚だった、と思わざるを得なかった。
 深夜を過ぎても、沙知子は帰ってこなかった。妻はなすすべもなく、何かに憑かれたように、部屋の片付けに余念がなかった。葉子は時々、外へ出て沙知子を捜しにいった。哲也は、沙知子の私生活がぼんやりと解りかけてきた。が、それはまだ、生活の現実が仄白く浮かび上がってきたに過ぎないものだった。沙知子の心のありようは、依然として闇に閉ざされたままである。
 哲也と妻、そして葉子の三人は、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、マンションを引き上げることにした。照明は沙知子のために、点けておくことにしたが、返り際になって、ハムスターが烈しく鳴き、床に敷かれた藁がしきりに弾き飛ばされていた。
 三人は疲れきっていた。ぐったり車のシートにもたれ込んで、無言だった。
「流れ星だ!」
 哲也は不意に叫んだ。
 西の空に斜めに走る流れ星を見つけて、哲也は沙知子の幸せを祈らずにはいられなかった。不意に込み上げるものがあって、哲也の頬を涙が伝って落ちた。沙知子が不憫だった。

 しばらくといっても、二、三日のことだったけれど、哲也にとっては気の遠くなるような時間に思えた。それは、沙知子の債務をどうするか、だけでなく、彼女の生き方、生活のあり方について、哲也は煩悶し、夜も眠れなかったのである。
 これはいったいなんだ。哲也は沙知子に自身の生き方や、価値観を押し付けたことはなかった、ように思う。いままで叱ったことも一度きりである。たしか、中学生の折、哲也の質問に対して、何の反応もなく無視したことがあった。その時、哲也は激昂し、沙知子を畳に坐らせて、烈しく叱責したのである。その一度きりなのである。が、なんと希薄な父子関係を続けてきたことだろうか。もっと叱責もし、反抗も受けて、人間臭い交流や関係を築けなかったものだろうか。むろん、沙知子は問題らしい問題を起こしたことがなかった。で、あっても、沙知子とはそれなりの濃密な父子関係を構築できたのではないだろうか。哲也は自身が汚れるのを畏れて、それを避けてきたのではないだろうか。いずれにしても、沙知子の反逆だ。洪水は牙をむいて哲也に襲いかかってきたのだ。
 苦しい決断であった。が、その決断は、真理に叶っているのかどうか、皆目解らなかった。それが、沙知子の救出になるのか、いや、かえって、彼女の自立の阻害になるのではないのか、と苦悶した。けれども、哲也の決断は、沙知子の債務をすべて消すことだった。
 哲也に金銭的余裕はなかった。彼は定年まであと三年の五十七歳である。それまでに、家のローンの一括返済をめざして、貧しい生活を送っていた。好きな本などもここ二、三年買ったことがない。それまでは、書籍代として月一万円は予算として、とっていたのである。が、いまは、町の図書館が我が書斎となっている。このような、切り詰めた生活のなかで、沙知子の債務を肩代わりすることも、ためらわれた。そのうえ、どれだけの借り入れ残高があるかも不明だった。が、彼は決断したのである。
 ある日、哲也と妻は沙知子のマンションを訪ね、まずガス会社に連絡をとって来てもらい、三ヶ月分の支払いを済ませた。ガスの使用は風呂用給湯器のみで、台所には電気こんろが備えられている。沙知子の生活の異変を知らせることになった家賃は、一階の管理人室である。謝るのは哲也と妻だけだった。沙知子は親の影で不機嫌に立っているのみだ。彼女に羞恥心はあるのか、心をきりりと刺すような痛みはないのか、哲也は財布を開きながら虚しい想いに駆られていた。
 ローン会社とサラ金の支店は、すべてM市にあり、その所在地は、あらかじめ哲也が調べていた。一軒、一軒訪ね、借入残高と一括弁済の額を訊き、支払いを済ませていった。が、最後の額は持ち合わせた金額ではとうてい足りなかった。最寄りの郵便局で借り入れを起こし、またローン会社に取って返した。
 ローン会社とサラ金の一括弁済の額は、三百万円を超えていた。予想をはるかに超えた金額に哲也は唖然とし、空を見上げた。陽はすでに落ち西の空は紅く燃え、中空に浮かんだ雲は橙色に染め上げられていた。暮色が街に降りようとしている。哲也は沙知子の銀行にゆき、生活再建費として、十万円の預け入れをし、通帳を渡してやった。
 これからだ、沙知子と生活と生き方について語り合うのは、そう思っていた矢先、通帳を受け取ると、彼女は黄昏の街へ消えていってしまった。「沙知子!」と、叫ぼうとしたが、言葉が咽喉に引っ掛かって、出てこなかった。哲也は呆然と立ち尽くしていた。
 甘い、と哲也は自問せざるを得なかった。沙知子はもう成人である。短大を卒業し保育士になって三度目の春なのだ。彼女自身に決着をつけさせるべきではなかったのだろうか。
別に彼女が、助けてくれと懇願してきたわけではないのだ。が、彼女の生活は破綻している。そこから、這い出す気力も知恵も方法も知らないとしたら、哲也はどうすればいいというのだろう。哲也が肩代わりした金は、沙知子が、年二回、ボーナス時に哲也に支払うということを約束させていた。六年は掛かる計算である。
 西の空は紺碧に変容し、哲也の足元から暮色が這い上がってくる。哲也は、沙知子を心底憎いと思った。そして、哀しさが、暮色とともに這い上がってくるのだった。

 沙知子が産まれたのは、隣町の産院だった。
台風の近づく夕方である。哲也は嵐の中、車を走らせデパートへいった。名もない我が子への誕生祝いとして、フランス人形を買い、彼女の枕元に坐らせたのである。産院の前にある高い樹木は大きく揺れ、南の窓にまるで人間の黒い手が爪を立てて襲いかかるように、不気味に映しだされていた。哲也はカーテンを引き、黒い手の爪から沙知子を守ろうとした。
 一年後の誕生日の黎明には、大きな地震に遭遇した。沙知子の誕生日には天変地異が起こる不思議さを感じた。哲也の横で彼女は安らかに眠っている。その上の壁面にはエアコンが付いており、それがガタガタ震えていた。哲也は思わず沙知子を大きな身体で包み込み、地震の揺れの収まるのを、息をつめて待った。
 それから、二十年余、哲也は沙知子がいとおしく、愛してきたといっていいだろう。哲也が三十四歳のときの、遅い子であったことや、葉子の誕生から八年も経ていたということもあったのだろう。が、哲也は沙知子に裏切られた。それがもしも、哲也への子育てへの反逆だとしても、それは許すことができない。愛の形がたとえ歪んでいたとしても、彼女にとって、その愛が大きな負荷となっていたとしても、洪水が牙をむいて襲いかかるのを、哲也は甘んじて受けるわけにはいかない。あるいは、忍耐や我慢を体験させなかった、としても、沙知子の放埓は許しがたいのだ。
 沙知子へのいとおしさや愛情、信頼といったものは、一夜にして崩れていった。まさに、音を立てて、地に堕ちたのである。
 哲也は沙知子を怨むようになり、憎むようになった。沙知子から可憐さは消えた。男の存在も、哲也を苛立たせ不愉快にさせる。仕事に対しての誇りと自信、そして、自尊心というけれど、決して仕事と私生活が区別できるわけもない。乱脈な私生活と良い保育が両立しうるはずもない。
 哲也は沙知子の勘当についても頭をよぎった。もう一切関わりたくない、縁を切りたいと思った。肩代わりした借金について、哲也の手元に戻るとは決して思えなかった。また、同じような過ちを引き起こしかねない、という憂いを払拭することができないのだ。また、胸の奥深くに沈んではいたが、沙知子へのどす黒い殺意も眠っていた。
 沙知子の借金にケリをつけたといっても、彼女の心にケリがつかなければ、なんの意味もないのだ。哲也はあれ以来眠れなくなった。精神科で睡眠薬を貰ってきて、床に就くまえに、二錠服用するようになった。
 生活も変わった。晩酌のビールもやめ、昼食は百円で済ますようになった。むろん、身体にいい事はない、と解っていても、昼食はインスタントラーメンを摂るようになったのだ。哲也は急がなければならない。定年まであと三年、その時、家のローンの一括返済をめざしているのである。沙知子の行為は哲也のそうした人生設計までも、狂わそうとするものなのだ。哲也は沙知子を怨み、憎んだ――。

 哲也は憂鬱な日々を送っていた。あれから、旬日を経た頃だったろうか、チューリップの花束が宅配便で我が家に届いた。赤、黄、白色などをあしらった、鮮やかな色彩の花束である。
 沙知子からであった。何の伝言もなかった。が、何の言葉もいらない、と哲也は思った。言葉以上にこの花束は、何かを語っているではないか、哲也の心の奥深くから、烈しく突き上げるものがあった。沙知子の心が、動き始めたのだ。哲也はそう確信した
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 1947年生まれの68歳で、
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 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
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