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長編小説 「潮騒の村 前篇」

 潮騒の村ー前篇

            鬼藤 千春


    (一)

 M臨海工業地帯の、紅白に彩色された高い煙突が林立している。空を刺す煙突は、沈黙したまま立ち尽くしていた。が、高い煙突の吐き出す煤煙は、揺らめきながら絶えず立ち昇っている。煤煙、有毒ガスによる大気汚染によって、多くの住民に辛酸を嘗めさせた煙突である。
 その彼方の島影から朝日がゆっくり昇り、工業地帯はようやく深い眠りから醒めようとしていた。島影の背後の空は、火焔を放ったように深紅に染まっている。島々はシルエットとなって、いっそう黒ずんで見えるのだった。
 片桐恭平は、その風景に深く心を動かされて、乗用車を道の端に停め、サイドブレーキをゆっくり引いた。黒い島々の背後より、鋭い爪の形から、三日月、半円と形を変えてゆきながら、音もなく太陽が昇ってゆく。空は深い闇から解き放たれて、鮮やかに染め上げられてゆくのだった。
 刻一刻と展開する、黎明の有りように感動し、恭平はじっと眼を凝らして、しばらく見詰めていた。――紅白の高い煙突が噴き上げる煤煙、黒い島々、昇りくる深紅の太陽、虹のように染め上げられる空――。恭平はこの風景を見るのも今日が最後だと思うと、感慨も一入だった。
 恭平は週二回、「しんぶん赤旗」を配達する役目を引き受けていた。まだ明けきらぬ四時頃起床し、身支度をして家を出る。通りには、時折ヘッドライトを煌めかせてゆき過ぎる車がいるだけである。「赤旗」出張所に着くと必要部数を受け取り、配達に出かけるのだった。
 辛いと思う日もないわけではなかった。雨降りの日や凍てつく寒い日、そして、夜が遅く睡眠不足の朝などは、厭だという思いが湧くことがある。だが、路地を曲がった角の家から匂いたつ金木犀の香りや、このような黎明の、ダイナミズムな展開に遭遇する幸運もあり、恭平を励まし背中を押した。また、何よりもこの新聞は、日本の良心と知性であり、方位および緯度の指針となる、北極星のような存在であることを、恭平はひそかに信じていた。しかし、恭平はM砂漠と呼ばれる煤煙の街から、今日限りで引っ越すのである。
 M砂漠――、と揶揄されるこの街は、それなりの理由があった。工業地帯の建設中には、豊かな海や緑なす田畑が埋め立てられ、ダンプカーが砂塵を巻き上げて、引きも切らず疾駆した。パイプライン建設の職人たちが全国から呼び寄せられ、夜にはキャバレーやスナックが原色のネオンサインを点滅させた。埃っぽくて、文化的な潤いのない街へと変貌していったのだ。
 工業地帯が稼動を始めてからは、工場排水、
廃液によって、大量の魚が白い腹を浮かべて死んだ。漁師たちはその魚を掬いとって、トラックで乗り付け、排出工場の門前へぶちまけたりした。大気汚染によって、稲やイグサや松が枯れるだけでなく、人間の喉や胸を蝕んでいった。瀬戸内海に面した穏やかな気候風土の地は、見る見るうちに煤煙と異臭の街となり、手で掬うとはらはらと落ちる、砂漠にも形容されるのだった。
 また、M商店街はかつての賑やかさを忘れたように、人の行き交いがめっきり少なくなった。人気のない通りを犬や猫がゆっくり横切ってゆくのを見ると、いっそう淋しさが募るのだった。このように、工業地帯の建設中から今日に至るまで、この街は一貫してM砂漠と言われ続けてきたのだった。恭平はそのM砂漠の街で短くない歳月を過ごし、「赤旗」を配達してきた。
 恭平が日本共産党に入ったのは、十八歳の時である。高校の卒業を目前にした二月、凍えるような寒い夜だった。長い坂道を上りつめた友人の家に招かれた。友人の家では別の友人一人と、養護施設に勤める二十五、六歳の女性の、三人が恭平を迎えた。その女性は、文芸部顧問の尾形先生の友人で、ベトナム反戦集会などで二、三回会い、顔見知りだった。
 彼女は自身の生き方を語り、親に棄てられ、身寄りのない子どもたちがなぜ生み出されるのか、諄々と説いた。養護施設は社会の縮図であり、そこで働いていたら、時代と社会が鋭い形で見えてくる、というのだった。恭平自身の生き方を、世界と日本の未来に結びつけてゆくように、彼女は熱くそして優しく、真摯に語り掛けてきた。
「さァ――」
 と言って、彼女は立ち上がり、黙って手を差し伸べてきた。
「……」
 恭平も立ち上がって、黙って手を差し出した。
 彼女は恭平の手を握り、両手で優しく包んだ。窓から洩れる光は、前庭のサザンカを浮かび上がらせている。風花が舞い降りていたが、サザンカの花びらは風に震えながら、凛とした淡紅色を放っていた。
 友人と養護施設の女性が見守るなかで、恭平は入党申込書に一字一句刻むように、自身の想いを書き綴ったのを憶えている。ペンを握る指先がかすかに震えていた。それから四十二年、決して平坦な道ではなかったが、党とともに歩み「赤旗」も配達してきたのである。だが、恭平は三月末でこの街の市役所を定年退職した。そして、煤煙の街から郷里へと帰ってゆくのである。
 市役所では、悔しくて、唇を嚙むようなことが度々あった。恭平は入所後、しばらくして労働組合に関わるようになった。青年部の役員や執行委員を務めてきた。職員の労働条件や賃金の改善だけでなく、市民の命や暮らし、平和を守る活動に携わってきたのだった。
 そのために、昇進は殆んどなかった。退職時には、同期に入った同僚は建設部の部長になっていたが、恭平は建築課の係長に過ぎなかった。同僚が昇格する度に、彼は苦い想いを嚙み殺してきたのである。が、恭平は労働組合の仕事も党活動もやめなかった。
 移りゆく自然のドラマに眼を凝らしながら、恭平は自身の生きた来し方を想い出していた。太陽はいつしか島々を離れ、深紅から黄金色に変わり、煤煙の街を金色に染めている。新聞はまだ幾らか残っていた。恭平は車のエンジンをかけ、アクセルを静かに踏んだ。すると、煤煙の街はゆっくりと動き出した。
 家はもうすっかり片付いている。三十五歳の折、造成された住宅団地の一角を求め、新築した家である。それは小高い丘の上にあって、コンビナートとその街が一望できる。部屋には数個の段ボール箱と、恭平の寝具があるのみだった。
 コーヒーを淹れ、恭平はリビングのフローリングにゆったりと胡坐をかいた。さきほど配達した新聞をめくりながら、ほろ苦いコーヒーを呑んでいると、なぜかひと時の仕合わせを感じるのだった。カーテンが剥ぎとられた窓からは、四月の陽光が斜めに射し込んできていた。前庭に植えたハナミズキの白い花弁は、光を反射して艶やかに輝いている。
 ふと恭平は、がらんとした家の中に視線を走らせた。一階にはリビングと二つの和室、そして、ダイニングキッチン、浴室とトイレがある。階段をトントンと上がると、二階には洋風の子ども部屋が三つあった。
 恭平は思わず溜息を洩らした。この家にも小さくない事件や物語があった。
 長男が中学生の時、不良グループに加わり、万引きや喧嘩騒ぎを起こし、警察に補導されるというようなこともあった。その度に、恭平はスーパーマーケットの事務所や警察署へ呼び出された。恭平が入ってゆくと、悄然とうなだれた長男の背中があって、その横に坐らされた。署員は長男を睨みながら、ことの経緯を恭平に語って聞かせた。ひとしきり署員の説教が終わると、恭平はただただ頭を下げるばかりで、長男を伴って外へ出てゆくのだった。
 恭平の心は棘が刺さったように痛んだ。長男の頬を張り飛ばしたい衝動に駆られたが、あえてそれを抑えた。自身でも解らぬ迷い道に踏み込んでいる、思春期の長男を思う時、頬を殴っても決して問題が解けないような気がした。けれど、長男と会話が成立するということもなかった。家に帰ると、彼は自室のドアをバタンと閉めたきり、出てこなかった。恭平は付かず離れず、長男を見守ることしかできなかった。
 二女の多重債務事件もあった。
 建築課の会議をしている時である。マナーモード設定の携帯電話が、ブレザーの内ポケットで震えているのを感じた。恭平は議長に軽く手を上げて、会議室を抜け出した。
「あ、亜希子さんのお父さんですか」
 ワンルームマンションの管理人だった。
 数年前、亜希子が短大を卒業し、F市のカナリア保育園へ就職が決まった時、部屋探しで世話になった人だ。五十代の美しく優しい女性だったが、声が潰れたように太く低い声である。
「あの、亜希子さんの先月の家賃が入らないんですが……。会って催促しても、もう少し待ってくれと言うばかりで……」
 困惑した様子が伝わってきた。
 ――家賃が払えないなんて。なぜ、そんなことが……。就職して初めての正月に帰った時、いくらか化粧が濃くなっていたのを感じたが、亜希子は甥や姪と神社や寺を巡り、とても楽しそうに見えた。訊ねると、少しはにかんで三十万円貯まった、と言っていた。だから、保育士になって三年目の春、今ではもう五十万円以上の預貯金があるだろう、くらいに恭平は考えていたのだった。
「あ、それは申し訳ありません。娘に連絡をとってみますので、少し待って下さい」
 恭平は暗澹たる気持ちになって、携帯電話のスイッチを切った。
 その夜、恭平は半導体を製造する会社に勤務するようになっていた、長男の直樹を伴ってF市へ飛んだ。F市は県庁所在地の中都市で、恭平の住む街から車で四十分ほどのところにある。亜希子のマンションは国道の脇を走る側道に面して建っている。駐車場から見上げると、黒いコンクリートの建物が屹立していた。亜希子の部屋は四階の東端である。その部屋からは、カーテンを透かして淡い光が洩れていた。
 四階に停まったエレベーターのすぐ前が亜希子の部屋である。チャイムを押す。呼び出しのメロディがかすかに外に響いてくる。反応がない。下から見上げた時、部屋の明かりはついていた。もう一度チャイムを押した。メロディが流れてくる。やはり反応がない。息を殺したような気色である。いらだって恭平は二度、三度とチャイムを押して、
「亜希子!」
 と、尖った声で叫んだ。
「待って――」
 しばらくして、慌てたような亜希子の声が聞こえた。
 ロックが解除され、ドアはわずかに開き、亜希子の怪訝そうな顔が覗いた。恭平はドアを大きく開いて中に入ろうとしたが、亜希子の抵抗にあった。内側から懸命にノブを引いている。恭平は、
「亜希!」
 と怒鳴って、強引にドアを開いた。
 部屋は幾分乱れていた。パソコンからはテレビ放送の画像が流れている。亜希子は上がり框に佇んでいた。部屋の奥に眼を遣ると、若い男がベッドの隅に腰掛けている。恭平は不意を衝かれてどぎまぎした。男は身体を小さく折って、
「どうも……」
 と、照れくさそうに頭を下げた。
 若い男がいるので、恭平は亜希子を外に連れ出した。午後十時を過ぎたファミリーレストランは、照明ばかりが眩くて人影はまばらだった。恭平はできるだけ人目につき難い、奥まった席を探した。恭平と直樹が並んで席をとり、亜希子とは対面する恰好になった。
急に雨が降り出したようだ。道路を走りぬける車のヘッドライトに照射され、雨粒が煌めきながら落ちてゆくのが恭平の視線の先に映った。
 亜希子はただ黙って俯いていた。時折、雨に濡れぼうっと霞んだ夜の街に視線を投げ、不機嫌な横顔を見せている。二人が訪ねた理由が解っているのか、いないのか、亜希子の様子からは判断できなかった。ただ、硬い表情を顔に刻んでいる。ジーパンを穿き、赤と黒のチェックのシャツを腰のところで結んでいた。唇を紅く染め、付け睫毛が異様に長く、厚化粧の亜希子の顔が醜い、と恭平は思った。
「管理人から……、管理人のおばさんから、デ、デンワがあったんだ」
 恭平はおもむろに、口を開いた。
「亜希子、なぜだか解る? 思い当たるフシは?」
 回りくどい、と恭平は話しながら思った。もっと率直に言えないものか、と自問していた。
「亜希、家賃はどうなっているんだ。先月分のをまだ払ってないんだろ。家賃は引き落としだな、ということは、つまり、預金残高がないということだろう。どうなっているんだ、いったい」
 直樹は逡巡している恭平に異を唱えるというふうに、直截に言った。
 恭平は直樹を連れてきて良かった、と思った。恭平は亜希子の生活の有りようや生き方、家賃滞納の背景などに想いをめぐらせ、あるいは、彼女を傷つけないようになどと心を配るあまり、率直な言葉にならないのだった。が、やはり兄妹である。直樹は兄として、遠慮なく核心に迫ってゆくことができるのだ。
「……」
 亜希子の眼が一瞬光り、紅い唇が歪んだ。
「……」
 亜希子は唇を硬く嚙み、身じろぎもしない。
「保母になって初めての正月、帰ってきて三十万貯まった、と言ってたな。なのに、家賃が払えなくなるなんて、何に使ったんだ」
 直樹は亜希子を睨んで言った。
「……」
 亜希子は何も答えず、視線を外に投げた。
 車がザァー、ザァーと水しぶきを上げて走りぬける音がやけに響いてくる。その後、深い静寂が訪れる。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ。亜希、いったい何に使ったんだ!」
 直樹はテーブルに身を乗り出して、声を荒げた。
「……」
 奈落の底のような沈黙、そのあと、亜希子の瞳がうるんで、ひと粒の涙が頬を伝って落ちた。しばらくして、
「……エ、エステ!」
 亜希子は吐き捨てるように言った。
「何、エステ? それで家賃が払えなくなったのか」
 と、問いかける直樹の隣で、恭平は頭が白濁してゆくのを感じていた。
「……」
 亜希子は横を向き、雨に濡れた街を睨んでいた。
 もう涙は乾き、二人を寄せ付けない、かたくなな表情を顔に刻んでいる。時間が静止したような沈黙が、重くそして深く流れていった。
「もう駄目だ、なんにも言わないんだから……、亜希、自分でカタがつけられるんだな。もう子どもじゃないんだ。しっかりしろ!」
 直樹は、椅子をガタゴトいわせて立ち上がった。
「亜、亜希子、お父さんは、もう帰るよ。生活が乱れたら、いい保育はできないよ。な、解るだろう」
 恭平は立ち上がりながら、言った。
 亜希子はフンと軽くあしらうように、眼をそらした。このままでは駄目だ、亜希子の心の闇、閉ざされたままの心、恭平は深い虚しさに包まれて、降りしきる雨の中へ走り出て行った。
 家賃の滞納は氷山の一角であった。それから恭平は、亜希子のマンションへ何度か通うことになった。ある夜、亜希子は渋っていた預金通帳をベッドの抽斗から取り出し、机の上に投げ出した。恭平はその通帳に釘付けになり、心が凍ってゆく思いだった。通帳にはローン会社の名前が四社も載り、毎月の支払額が印字されていた。さらに、テレビCMなどで見聞きする、消費者金融の名前も刻まれている。亜希子の生活の有りように、恭平は愕然とした。
 恭平は立ち上がって、亜希子の部屋の中を見廻した。パソコンは新しく求めたようである。エステの美容器具は、部屋の隅でほこりを被っていた。ブランドもののバッグは、高い棚の上で眠っている。それに、軽自動車を買い換えたのだろう。あと、何に使ったというのだろうか。これでは、亜希子の生活は成り立たない。何よりも、生活の破綻をきたした人間にいい保育はできないだろう、という想いがした。
 恭平は亜希子を信頼し、愛してきた。しかし、恭平は亜希子に裏切られ、夜も眠れない日々が続いた。彼女の生活のあり方、生き方に想いを馳せる時、恭平の心は痛んだ。亜希子の債務をどうするか、恭平はその回答を自分自身に迫られていた。
 苦しい決断であった。が、その決断は正しいのかどうか、皆目解らなかった。それが亜希子の救出になるのか、いや、かえって、彼女の自立の阻害になるのではないか、とも思われた。だが、恭平の決断は、亜希子の債務をすべて消すことだった。まずは、亜希子の肩にかかっている重荷を、とりのぞくことが求められているように思えた。
 ローン会社とサラ金の支店は、すべてF市にあり、その所在地はあらかじめ恭平が調べていた。一つひとつ訪ね、借入残高と一括弁済の額を訊き、支払いを済ませていった。が、最後の額は持ち合わせた金額ではとうてい足りなかった。最寄りの郵便局で借り入れを起こし、またローン会社に取って返した。
 ローン会社とサラ金の一括弁済の額は、ゆうに三百万円を超えていた。予想をはるかに超えた金額に恭平は唖然とし、嘆息を洩らして空を見上げた。陽はすでに山の向こうに落ち、西の空は紅く燃え、中空に浮かんだ雲は橙色に染め上げられていた。暮色が街に降りようとしている。恭平は亜希子の利用する銀行にゆき、生活再建費としてATMで十万円を預け入れ、通帳を渡してやった。
 これからだ――、亜希子と生活と生き方について語り合うのは、そう思っていた矢先、通帳を受け取ると、彼女は黄昏の街へ足早に立ち去ろうとした。
「亜希!」
 と叫んだが、彼女はすぐに夕闇のなかに溶けていった。恭平は呆然と立ち竦んだままだった。
 甘い――、と恭平は自責の念に駆られざるを得なかった。亜希子はもう成人である。短大を卒業し、保育士になって三度目の春なのだ。彼女自身に決着をつけさせるべきではなかったのだろうか。
 別に彼女が、助けてくれと懇願してきたわけではないのだ。だが、彼女の生活は破綻している。そこから、這い出す気力も知恵も方法も知らないとしたら、恭平はどうすればいいというのだろう。恭平が肩代わりした金は、亜希子が年二回、ボーナス時に支払うということを約束させていた。しかし、それはとても難しく、恭平はなかば信じてはいなかった。
 西の空は紺碧に変容し、それを睨みながら、恭平は亜希子を心底憎いと思った。そして、切なさと哀しさが、暮色とともに這い上がってくるのだった。
 亜希子は今、街も保育所も変わり、家とのゆききは殆んどなく、恭平の心を思いがけず憂鬱にさせることがある。亜希子の多重債務は何だったのか、いまだに恭平の内側では納得がゆかず、解明されたとは言い難かった。新社会人の陥りやすい金の魔力にいたぶられたのか、あるいは仕事の辛さストレスを、物を買うという行為で解き放とうとしたのか、その解答は封印されたままなのである。
 亜希子はどうしているのだろう――、時空を超えて、不意にそんな思いが恭平の心を捉えることがある。ショッピングセンターや街の通りで、偶然、亜希子と同世代の女性に遭うと、思わず彼女たちを眼で追っていることがあった。彼女たちの笑顔に触れると、いちように仕合わせそうに見えるのだった。その雑踏の中で恭平は、無意識のうちに亜希子を捜していた。憎しみと哀しさと慈しみの渾沌とした心持ちで、恭平は呆然と立ち尽くすのである。
 特に、亜希子の部屋のピアノは、決して恭平の心を平静に保つことを許さない。亜希子が短大を卒業して家を去ったあとも、部屋はそのままで変わることはなかった。不意に帰ることがあったとしても、亜希子はその夜、安らかに眠ることが出来るのだ。亜希子の部屋に入ると、壁際にベッドがあり窓に向かって机と本棚が置かれている。そして、部屋の奥に亜希子の愛用していたピアノがあった。その鳴らないピアノは、白と黒の鍵盤を亜希子の両手が叩くのを待っているかのように、深く沈黙している。そのピアノは、いつも物悲しそうに黒く光っていた。
 長女は、自身と同じ看護師と結婚し、二人の子どもを育てていた。妻とよく気が合い、何くれとなく電話で話し合うことが多かった。盆と正月には帰省して、楽しく賑やかなひと時を過ごしてゆくのだった。長男の直樹は、いっときぐれたけれど、今では半導体を製造する会社に勤め、家を建てて一つの家庭を持っている。
 ともあれ、子どもたちはみな巣立ち、あとに残されたのは恭平と妻の二人だけだった。
妻は三日前に恭平の郷里に帰って、新しい家の整理や片付けをしている。恭平はこの街で世話になった人たちへの挨拶廻りや、雑事を片付けるために一人残っていた。
 今日、新聞の配達を済まし、ひとまずこの街でやるべきことは、つつがなく終えることができた。恭平は二階の窓を開き、コンビナートと煤煙の街を眼を細めて眺めた。
 瀬戸内海が黒い海と化した、重油流出事件を引き起こした製油所のタンクが幾つも立ち並び、朝の陽射しを浴びて、不気味に光っていた。眼を転じると、K自動車の広大な敷地と工場が広がっている。ミニチュアのような自動車が、絨毯を敷き詰めたようにびっしり並んでいた。T川の河口には、幾つかの溶鉱炉をもつ製鉄所が、威容を誇って坐している。そこは、やや黒みをおびた茶色の工場群に占められており、不夜城のように夜でも眠ることはなかった。
 M臨海工業地帯は、背後地を含め東西約十km、南北約八kmに渉り、紅白の高い煙突が林立して、煤煙を噴き上げている。瀬戸の海を濁らせ、空を煤煙で穢し、緑の田畑をブルドーザーで潰して構築された工業地帯である。漁場を奪われた漁師たちは海から追われ、田畑を投げ出すことになった農民たちは、途方に暮れたのだった。そして、大気汚染によって喉と胸を蝕まれ、少なくない人が命を奪われた。
 しかし、住民はただ黙って手をこまねいているだけではなかった。漁民は大漁旗をかざし、工場廃液で死んだ魚を工場の門前にぶちまけて、抗議行動を起こした。喉や胸を蝕まれた公害患者たちは、煤煙の放出をやめるように、工場や行政機関に抗議行動を起こすとともに、裁判所に訴訟を起こして法廷闘争を繰り広げた。
 苛烈な苦しみをもたらしたコンビナートは、住民の、命や暮らしを守る意識を高め、連帯してゆくことの重要性を知らしめることになった。そしてこの街から、共産党の県議会議員と市議会議員を生み出すことになったのである。議員の誕生は、不毛の地といわれたM砂漠にオアシスを生み出し、青い芽が吹き出す象徴的な出来事であった。けれども、それは決して偶然なことではなく、住民の民意が花開いたのである。
 だが、この街での暮らしも今日で終わりだ。この家とも訣別である。二階の窓から手を伸ばせば、ハナミズキの枝に触れることができる。ハナミズキはこの家と街を、黙って見続けてきたのだった。家を新築した折、造園業をしている妻の兄が、植えてくれたものだった。春には白い花が開き、夏には涼しげに緑の葉を茂らせ、秋には紅葉と紅い実をつけた。ハナミズキの白い花が、不意に舞う風に烈しく揺れた。恭平は白い花をつけた小枝を折って、二階から下りていった。
 車に段ボール箱と寝具を詰め込むと、恭平はカチャリと玄関の錠を閉めた。短くない歳月と、決して軽くない生活との訣別であった。それを家のなかに閉じ込めてゆく想いは、恭平の心をいささか神妙にさせた。恭平は玄関のドアの前で一瞬立ち止まって、後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。

    (二)

 恭平はぼうっと薄くかすんだ、煤煙の街をぬけ、T川を渡って郷里へ向かった。T川の河口の両岸には、鷲が翼を広げて降り立ったように、製鉄所、火力発電所などの工場群が貼りついている。河口の浅瀬が埋め立てられて、工場用地になったのである。
 郷里を発ち、電車に長く揺られて、あの街に降り立ったのは四十二年前である。希望と不安で胸は張り詰めていた。紆余曲折はあったけれども、初めの志を棄てずに生きてきたような気がする。
 あの街に向かったのは電車だったが、今、郷里への道をたどるのは乗用車である。車の窓を開けると、爽やかな四月の風が心地よかった。西の上空は透けるような青い空が広がっている。東の空から西に向かって、飛行機雲がぐんぐん伸びてゆくのが見える。青い画布をナイフで裂いたような白い鋭い線が、真っ直ぐに伸びてゆく。それは恭平の心を清冽な感覚で捉えた。
 郷里がしだいに近づいてきた。国道二号線を左に折れて、龍城院という古刹のある峠を越えれば、恭平の生まれ育った村である。恭平は煤煙の街から、潮騒の村に帰ってきたのである。
 恭平は国道二号線から車のハンドルを大きく左に切って、交差点を曲がり、県道へとすすんだ。正面には蒼い山の稜線が聳えて、澄んだ空を切り取っている。周りの山々で、もっとも高い竜王山である。それがフロントガラスの窓枠のなかで、ハンドルを切るたびに大きく揺れ動いた。竜王山の手前は田園地帯で、その向こうは海を抱きこんだ潮騒の村である。
 県道に入って少し進むと、右手に赤い屋根の大きい建物が見えてきた。それは屋根がドーム状になっていて、体育館か講堂のようだった。広い敷地には、三階建の校舎がいくつも建ち並んでいる。恭平の母校である。彼が三年間通った高校であった。恭平は急に思い立って、ハンドルを右に切った。校門に向かう道である。高校は小高い丘の上にあり、恭平はアクセルを強く踏んで坂道を上った。恭平が毎日、自転車のペダルを蹴って上った坂道である。
 高校の全景がズームインされたように迫ってきた。緑色の鉄製の門扉は、恭平を拒むように固く閉ざされていた。恭平は車を降り、門扉の前に立って校内を覗き込んだ。
 恭平は永い歳月の流れを思い知らされた。建物はすべて改築されて、当時を偲ばせるものは何もなかった。木造校舎だったものが、すべて鉄骨や鉄筋コンクリートの建物になっている。ただ、校舎の南に広がるグラウンドは、やや狭くなってはいたが、昔の面影をとどめていた。南の塀に沿ったポプラ並木も、当時を偲ばせるものの一つだった。
 息を弾ませて走り抜けたグラウンドは、いま白く乾いて光っていた。二年生の時退部したが、恭平はそれまで長距離走の選手だったのだ。中学生の時、郡内の駅伝競走で区間賞をとり、担任の先生から、人間機関車と呼ばれた、チェコのザトペックにたとえられたりした。高校に上がってからも、自ら陸上部の部室を訪ね入部したのだった。汗をしたたらせ、砂ぼこりを巻き上げて走ったグラウンドが、眼前に広がっていた。
 ポプラ並木の新緑は、中天の陽に映えて美しく輝いていた。この樹の下では、文芸部の仲間とよく談笑したものだった。突然、風が吹き迷い、ポプラの葉が震えてざわざわと鳴った。
 グラウンドとポプラ並木に眼を凝らしていると、不意に恭平の心に学園生活が甦ってくるのだった。恭平は、心を弾ませ駆け抜けた青春時代の世界にいざなわれていった。

 恭平が文芸部に出合ったのは、三年生の春で、桜の花片が光のかけらのように舞い降りていた季節であった。
 その頃、彼は深刻に悩んでいた。自身が生まれてきたこと、生きてあることについて自問していた。人間とは何か、人間は何のために生きるのか、自らの心に問い、眠れぬ長い夜を過ごしていた。
 恭平は、両手両足に茶褐色、濃褐色の斑紋をもって生まれた。生まれつきのものだった。
思春期、つまり中学生の頃から、彼は随分悩むようになった。友達に、というより人に見られるということが、このうえもなく恥ずかしかったのだ。
 夏でも恭平は、醜い手を友達に見られないように、ポケットに両手を突っ込み、そっと隠していた。体育の鉄棒の時間などはもっとも厭だった。懸垂にしても、さかあがりにしても、両手で鉄棒を握ることになる。級友の眼前に、防ぎようもなく両手を晒すことになるからだった。だから、恭平はいつも逃げてばかりいたし、自身の力を出し切らずに途中で、故意に鉄棒から落下したりしていた。
 また、学校の行事で、裸足で校庭に出ることも少なからずあった。そんな時、恭平は両足を見られるのが厭で、校庭の砂を足に塗り付けて斑紋を隠したのだった。恭平の心は傷つき、自身を卑しめ、いじけた生き方に心を痛めていた。それは翼を傷つけた小鳥が、広い空を飛翔できずに地上でもがいている、そんな姿に似ていた。
 ある夜、恭平は屋根裏部屋にこもり、日記に自身の悩みを綴っていると、不意に込み上げるものがあり、涙が溢れて紙面をぬらしたことがある。恭平はいたたまらなくなって立ち上がり、道具箱から彫刻刀を取り出してきたのだった。机上に左手を広げ、右手に彫刻刀を握って、怨めしい斑紋をじっと凝視していた。左手を彫刻刀で刺し抜こうとしたのだったが、それは叶わず嗚咽が漏れて、硬く摑んでいた彫刻刀は右手からぽとりと落ちて、机の上を転がった。
 また、ある時は、灯油を浸したタオルで、両手の斑紋を焼き尽くすことを真剣に思い描いたこともあった。それだけ手足の斑紋は、心を鉛のように重く、そして暗くし、深刻な悩みとなって恭平の心を捉えていた。
 恭平は高校生活のなかでも、両手の斑紋が心に影を落として、鬱屈した心情で日々を送っていた。生まれてきたこと、宿命ともいえるその存在を、疎ましく感じていたのだった。劣等感にさいなまれ、卑屈な生き方を余儀なくされた自身の有りようが、このうえもなく厭だった。そんな時に文芸部と出合うことになったのだった。

「片桐――、放課後、俺の下宿へ遊びに来ないか?」
 世界史担当の尾形先生は、講義を終え机に近づいてきて、言った。
 恭平は怪訝に思って先生の顔を見上げた。尾形先生は二十七、八歳であったが、年齢よりも若く見える。背丈は普通よりやや高く、少し太っていた。長く髪を伸ばし、濃い眉の下の眼は大きかった。瞳は鋭く光り、よく動くのが印象的である。
 先生は長い髪を右手で掻き上げながら笑っていた。額にかかる髪を掻き上げるのは、先生の癖であった。
「いいな、駅のすぐ裏だから寄って行け。な、いいだろう」
 先生は下宿への案内図を書き、肩を叩いてざわつく教室を出て行った。
 恭平はその後の授業に身が入らず、
「なんだろう、なんで僕に……」
 という言葉を反芻していた。不安が霧のように広がってきた。
 だが、不安とともに興味も膨らんでくるのだった。恭平にとって先生は、今まで近くて遠い存在であった。それまで話し合う機会もなかったし、なぜか避けてきたようにも思える。しかし、遠い存在でありながら、いつも恭平の内側に深く刻印されていた。
 それは三年前、恭平がS高へ進学することを決めた秋のことである。尾形先生は新聞の地方版で大きく報道された。労働組合づくりを進めたということで、解雇されたのである。大学を卒業してS高に赴任した尾形先生は、同じ新卒の先生たちとともに、組合を結成したのだった。
「S高じゃ、大変なことが起きとるぞ」
 父は夕食のテーブルの上に新聞を開いて、記事を指差した。
 来春に恭平はその高校に入学する予定なのだった。恭平は父から新聞を奪うように取って、畳の上に広げて食い入るように記事を追った。まだ見たことのないS高の全景写真が載っている。写真には、波紋のように幾重にも白い円が描かれていた。その時は、あまり深い疑問も広がらずにいたが、新聞の出来事は脳裡にはっきりと刻まれていた。その後、学校当局は社会的な非難を浴び、解雇撤回を余儀なくされ、尾形先生は復職したとのことだった。しかし、学校当局は第二組合をつくり、ことごとく尾形先生たちに対抗していた。第一組合の先生たちはさまざまな差別を受け、担任や部活動の顧問から外されていたのだった。
 恭平の通うS高は、土木、建築、商業、女生徒だけの普通科、という四部門をもった私立高校であった。S高は県下でも有数の、悪評高い学校である。事実そうであった。新聞ダネになることも多く、オートバイで百キロを超える猛スピードで電柱に激突し、死亡した二人の男子生徒。他高校生との集団乱闘事件。女子生徒の妊娠による自殺事件などであった。
 学内の頽廃は、生徒の側だけの問題ではなかった。恭平は学校や先生たちの姿勢や態度にも、疑問を持っていた。講義や生徒指導にも無気力であった。講義に集中しない騒がしい生徒を残して、
「もう授業はこれで終わり――、あとは勝手にしなさい」
 と言いながら、教科書を閉じ授業をやめて、職員室へ帰る先生もいた。
 逆に、厳しい校則を生徒の側に押し付けて、それに従わなければ体罰をもって事に当たる先生もいた。問題を起こした生徒を一人、あるいは数人を整列させ、往復ビンタを浴びせたりする。事あるごとに厳罰で臨み、退学、停学、謹慎処分のカードをすぐ切る、という風潮だった。
 けれども、尾形先生をはじめ、数人の先生たちは、頽廃にみちた学園に活気を甦らせようと、努力しているのが窺えた。講義でも工夫がなされ、生徒に勉学の意欲を起こさせるように授業を進めた。
 物理の朝倉先生は、教室に入ってくるといきなり、
「今日は面白い話があるので、それをしたい。もう、教科書とノートは仕舞ってもいいぞ」
 と言って、教壇にのぼって腰を掛け、足をぶらぶらと揺すった。
 朝倉先生は、つい最近観たという前進座の、「阿部一族」の物語を語った。教鞭を振りながら、時に科白を交えて熱っぽく演じた。
「よういいぞ、迷役者!」
 生徒の野次が飛び、拍手が沸いた。
「武家社会の非情の論理の前に、阿部一族が崩壊し、滅んでゆくという物語だ――」
 と、結んで教壇から飛び降りた。
 朝倉先生の周りには、いつも生徒たちがいた。休憩時間や放課後に、ノートや教科書を持った生徒が先生を訪ね、理解できない問題を解いて貰ったりするのだった。それだけではなく、先生を生徒が囲んで、その輪の中からはいつも笑い声が弾けていた。そこには、先生と生徒をへだてる深い溝などは存在しなかった。
 ある日、番長グループと言われている生徒たちが、休憩時間にクラス委員の恭平の席を取り巻いた。
「おい、今日は尾形に、ベトナムの話をさせようじゃないか」
 煙草を吹かしながら、机に腰を掛けて言った。陽射しを浴びた煙は、紫煙となってたゆたいながら天井へと昇ってゆく。
「どがんなっとんか、さっぱり解らんけえのう」
「教科書よりおもしれえわァ」
「他の授業で退屈しとるとこじゃけえ、よかろう、のう」
 口々に大きな声で喋った。
 学生服のボタンをなかほどまで外して、ピンクやブルーのカッターシャツを覗かしている。
「どうじゃ、片桐――」
 と、恭平の気持ちを促した。
 恭平はためらって、みんなの意向を窺うように教室を見渡した。
「ええぞ、ええぞ――、ベトナム戦争は世界史じゃ、ちょうどよかろう。なァ」
 後ろの席の方で高い声が上がり、みんなは笑いながら肯いていた。
 授業開始を告げるチャイムが鳴った。恭平は急いで黒板に大きな字を書いた。
 ――今日の授業は、ベトナム戦争の話をして下さい。生徒一同――
 生徒たちは尾形先生の来るのを待った。
 番長グループは窓を開け放し、セルロイドの下敷きを振って煙草の煙を消そうとしていた。
 尾形先生は教室に入ってくると、黒板をみて立ち止まり、微笑みながら黙って字を消していった。先生は振り向いて、
「これをやってもいいのかな?」
 額にかかった長い髪を右手で掻き上げながら、言った。
 拍手が一斉に起こり、机をガタガタと鳴らした。尾形先生は、天井から大きな世界地図を吊り下げて、ベトナムの苦難の歴史やベトナム戦争の性格などについて話した。特に、ベトナム戦争と日本の関わりについて詳細に述べた。わが国の米軍基地が、ベトナムへの出撃、補給、修理、治療、通信などの拠点になっていること、そして、ベトナム特需については、品目と関係会社の一覧表を黒板に書いて示した。
「ほう、ジャングルシューズやトランシーバーまで、日本の製品が使われとんじゃなァ」
 生徒は驚いて、思わず声を上げた。
「先生、ベトコン、ベトコンいうけえど、ありゃなんじゃろうか?」
「それでも、アメリカがいうには、北からの侵略を守るというとるけえど、どうなんじゃろう」
 こういった質問もよく出された。
 尾形先生は、その一つひとつに丁寧に答えてゆき、生徒の顔にも真剣な表情があらわれ、反応も確かなようであった。

 放課後、恭平は尾形先生の下宿を訪ねた。先生のメモした地図を片手に下宿を捜しながら、期待と不安で胸の鼓動が早く打つのを覚えていた。
 恭平はドアの前で逡巡し、
「尾形先生――」
 と言ってドアを叩いた。部屋からはレコード音楽が流れていた。
「よう、片桐か、遠慮せんと上がれ」
 部屋の奥からくぐもった声がした。
 洗濯でもしているのだろうか、器具の軽やかに廻る音が聞こえてくる。恭平は部屋に上がってテーブルの前に坐り、部屋を見廻した。八畳ばかりの部屋に机と椅子、それにステレオと本棚が三つ、整然と配されている。鴨居の上には棚が取り付けてあり、本が並べられていた。
 机の上には本が積み上げられ、前の壁には大きな写真が一枚貼ってあった。黄金の稲穂の中に立って、微笑んでいる乙女の写真である。ヘルメットを被って、肩から小銃を提げていた。恭平は不審に思って写真に近づき、小さく刷り込まれた説明文に眼を走らせた。それはベトナムの収穫の光景であった。あどけない顔の瞳は輝き、恭平に向かって微笑みかけているように思えた。
 恭平はレコードのジャケットを取り上げて見た。ムソルグスキーの「展覧会の絵」であった。恭平が初めて聴く楽曲である。彼はなぜか落ち着かず、ジャケットの解説を読みながら、音楽を聴いていた。静かに聴いていると、心が解きほぐされてゆくようだった。音楽のハーモニーに合わせて、膝を軽く指で叩きながらリズムをとっていた。
「待たせたな、三日分の洗濯じゃ」
 と言って、尾形先生はコーヒーセットを持って出てきた。カジュアルウエアを身につけ、ズボンは膝まで折り上げていた。
「片桐、君は大学には進まないのか?」
 サイフォンを用意し、アルコールランプの火をつけながら、先生は訊いた。
「ええ、僕は進学しないつもりです。そりゃ、もっと専門的に建築の勉強をしたいけど、学費のこともあるし……」
 眼を落としていたジャケットからゆっくりと顔を上げ、静かに答えた。
「建築の勉強はどうじゃ、面白いか」
「ええ、建築には創造性があって、魅力があります。大変面白いですね」
「俺は専門が違うんで、建築のことはよく解らんが、建築家というのは、いま流れているこの音楽の指揮者と同じように思えるんじゃ」
 先生は髪を掻き上げ、ステレオの方に顎をしゃくった。
「タクトを振って、多様な楽器の音色をうまく引き出し、ひとつの音楽世界を創るという――」
 濃い眉の下の眼が、光っていた。
 恭平は、何も言わず心の中で深く肯いていた。ひとつの建築物を創るためには、多種多様の業種の分野を把握しなければならない。建築家は、それを一つのハーモニーに統一し総合してゆく仕事なのだ、と納得することができた。
「片桐、読書はどうじゃ、本は好きか?」
 立ち上がって、先生は本棚のカーテンを引いた。
「好きな本があったら、持っていっても構わないぞ」
 先生は振り向き、恭平の顔を覗き込んで言った。
 恭平は眼を瞠って棚の本を見詰めた。世界史の専門書や教授学の本、文学書もぎっしりと詰まっている。恭平は本棚の前で立ち竦んでいた。
「この本を読んだことがあるか」
 先生は一冊引き抜き、差し出してきた。漱石の『こころ』であった。
「僕は建築の専門書以外の本を、殆んど読んだことがないんです。じつはこれらの本に驚いています」
 恭平は本を受け取りながら、答えた。
 そして、恭平はもう一冊本棚から抜き取った。葉山嘉樹の『海に生くる人々』だった。坐って二冊の本に眼を落とし、パラパラと頁をめくっていた。
「片桐、お前文芸部に入らないか。昨年の秋始めたばかりだけど、活気が出て来たところなんだよ。いま、秋の文化祭までに、文集を作ろうと、みんな張り切ってるところなんだ。もっとも学校は、部として公式には認めていないけれども――」
 サイフォンからコーヒーを淹れながら、張りのある声で言った。
「毎週土曜日に、ここで例会を開いているん
だよ。君のクラスの杉浦も卓也も入って、中心になってやっているんだ」
 先生の声は熱気を帯びて聞こえたが、恭平は少しとまどっていた。
 その時、玄関のチャイムが鳴り、「こんにちは!」と明るい声がしてドアが開いた。玄関に立ったのは、チェックのスカートにグレーのベストを着て、ワインレッドのネクタイを締めた女生徒であった。顔の表情にはまだ幼さが残り、おさげ髪に結ってその先に、ネクタイと同じワインレッドのリボンを結んでいた。
「よう、サッコか、ちょうどいい。上がってコーヒーでも呑んでゆけよ」
 そう言って、先生は手招きをした。
「ううん、それが駄目なの、友達を駅に待たせてあるのよ。今日はこの前借りた本を返しに寄っただけなの。先生これありがとう、面白かったわ」
 女生徒は微笑んで、そっと畳の上に本を置いた。
「そりゃ残念だ。いま、彼に文芸部に入るように奨めてるところなんだよ。建築科三年の片桐というんだ」
 先生は手のひらを恭平に向けて紹介した。
「私は、普通科三年の津村紗知子です。通称サッコです。よろしくね。ぜひ文芸部に入って欲しいわ。みんな楽しくやっているのよ」
 紗知子は瞳をくるくる動かして、微笑みかけてきた。眩しくて恭平は軽く会釈して眼を伏せた。
「じゃ先生、私帰ります。土曜日には参加する予定ですから。さようなら」
 慌てている様子で、紗知子は手を振ってドアを閉めた。
 恭平は畳の上の文庫本に手を伸ばした。イプセンの『人形の家』だった。
「先生、この本借りてもいいですか。文芸部の加入については、もう少し考えさせて下さい」
「ああ、持ってゆけ。まァ気が向いたら土曜日に遊びに来い。みんな集まってるからな」
 恭平は三冊の本を借りて、尾形先生の下宿を出た。彼はいま会ったばかりの、津村紗知子の顔を思い浮かべようとしていた。恭平は自転車を漕ぎながら、焦点を絞るように遠い山の稜線を睨んでいた。すると、先生の下宿の机の前に貼ってあった、ベトナムの写真がくっきりと浮かび上がってきた。小銃を肩に提げ、微笑みかけてくる乙女の姿であった。紗知子とベトナムの乙女の、微笑と曇りのない瞳が重なってくるのだった。恭平は紗知子が、「面白かったわ――」と言った、『人形の家』を早く読んでみたいと思った。
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長編小説 「潮騒の村 後篇」

 潮騒の村ー後篇

            鬼藤 千春


 文化祭の前夜であった。文集の作製もあと僅かで完成である。文芸部の中心メンバーの杉浦、耕ちゃん、卓ちゃん、サッコと恭平の五人は尾形先生の下宿に泊まり込んで、製本の最後の作業に取り掛かっていた。文芸部の仲間は耕治のことを耕ちゃん、卓也のことを卓ちゃん、紗知子をサッコと愛称で呼んでいた。
 文集はガリ版印刷のB5判の大きさで、四十八ページのものだった。内容は、童話、詩、短歌、俳句、川柳、非行問題の小論文、ベトナム問題の論考、部落問題の考察などが掲載されていた。
 恭平は、「さわらび」と刷り込まれた、萌黄色の表紙を大型のホッチキスで留めながら、胸が高鳴ってくるのを覚えていた。欺瞞と卑屈な劣等感にさいなまれ、挫折感に囚われてきた。その呪縛から解き放たれる思いであった。みんなの顔も生き生きと輝いていた。無気力で意欲のないように思ってきた、生徒の一人ひとりの個性が文集作りに発揮され、いま鮮やかに結実しようとしている。
 恭平は尾形先生に入部を奨められてから、次週の土曜日に下宿を訪ねた。それからは欠かさず、例会に出るようになった。例会では、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、チェーホフ、シェークスピア、ゴーリキーなどの読書会、非行や部落差別などのテーマで話し合われた。恭平は文芸部に深く関わるようになり、昼の休憩時間や放課後に、職員室の尾形先生を訪ねたり、文芸部の仲間とポプラの樹の下に集まって、談笑したりした。文化祭の一ヶ月前からは、毎日のように尾形先生の下宿に集まって、編集、ガリ切り、印刷が行われた。
  ヘイ! この若者よ
  ヘイ! 前へ進め
  さあ、みんな前へ進め
 歌の好きな卓ちゃんが、ロシア民謡の「仕事の歌」をハミングしだすと、みんなそのメロディにのって、陽気に唄いながら作業を進めた。卓ちゃんは背丈が低く、浅黒い顔をしている。その顔に小さな眼が窪んでいた。茶色がかった髪は天然パーマで波打っている。家が貧しいために、幼い頃から家事労働をしてきたせいか、両手は節くれだっていた。その右手をタクトのように振って、調子をとっていた。
  死んだ親が後に残す
  宝物は何ぞ
  力強く男らしい 
  それは仕事の歌
 すでに午前二時を廻っていた。疲れが身体の底から這い上がって眠気を誘っていたが、みんな笑顔で唄っていた。
「よーし、出来たぞ! これでもうお仕舞いじゃ」
 耕ちゃんは最後の表紙を綴じながら、声を上げた。
 五人のうち、二年生は耕ちゃんだけである。年齢は他の四人と同じであったが、他の私立高校を退学処分になり、一年遅れて転入してきた生徒である。背丈は恭平の方が少し高かったが、耕ちゃんは骨格が太く、いかにも逞しい身体付きをしている。頬骨も張り鼻筋の通った、利発そうな顔立ちだった。
「ヤッホー、ついにやったぞ」
 耕ちゃんは、天井に向かって文集を放り投げ、叫び声を上げた。全身で喜びの感情を表し、みんなの顔に視線を走らせた。
「さァ、疲れたろう、一息いれろ」
 と言って、尾形先生はコーヒーセットを持って部屋に顔を出した。
「先生やっと出来ましたよ。どうです、出来映えは――」
 耕ちゃんは、製本出来たばかりの文集を渡した。
 尾形先生は文集を手にとって、しばらく見詰めていたが、
「ほう、渋いじゃないか。ここまでよく頑張ったなァ」
 尾形先生は、褒めたり感動した時などは、「渋い!」という言葉で表現する。反対に失敗したり不味い時などは、「愚しい!」と言うのだった。文芸部の仲間たちは先生の口癖をまねて、「渋い! 愚しい!」という言葉をよく使った。
「結局、二十三人から原稿がよせられたんだな。文化祭にふさわしい文集だよ」
 髪を掻き上げながら、尾形先生は「渋い!   
 しぶい!」を連発した。
「先生、この学校の歴史のうえでも、初めてなんじゃないの。今まで生徒の一人ひとりが、個性や表情をもたない人間のように思えていたけれど、驚いたなァ。一人ひとりが、彫りの深い生活をもって、悩み考えていたんだなァ。そのことがよく解るよ」
 杉浦は口を尖らせ、早口で喋った。
 杉浦は気管支炎に苦しめられており、蒼白な身体で痩せている。活発な運動が出来なくて、いつも本を持ち歩いて読んでいた。生徒の間で、少し理屈っぽいと言われて煙たがられていたが、文芸部の中では理論的なよりどころであった。
「まったくその通りだ。俺もじつは驚いているんだよ。生徒の見方を変えさせられたよ。ほんとに渋い! 一人ひとりの人格がくっきりと表されているね。――期待される人間像によって、画一的な人間をめざすなんてナンセンスだよ」
 先生は文集の頁を繰りながら、言った。
「この文集の反響が楽しみだね」
「これを機会に一年と二年の生徒を増やしたいなァ」
 耕ちゃんや卓ちゃんが、口々に言った。
「それに私は、女生徒にもっと入って欲しいの」
 サッコは、文芸部で唯一の女生徒だった。大きい瞳を動かしながら、弾むような声で言った。胸の昂ぶりを抑えきれないようで、頬は紅潮していた。
 恭平は、サッコの生き生きとした表情をまばゆく感じていた。はじめて下宿で会った時、写真で見たベトナムの乙女の瞳と微笑みかけてくる姿が、サッコに重なり印象的であった。恭平はその夜、『人形の家』を一気に読んだ。サッコの、「面白かったわ――」という言葉が甦り、あの微笑が浮かんでは消えた。恭平は自身の内側に、サッコへの淡くほのかな感情が静かに広がってゆくのを覚えていた。
 その夜は徹夜で話し明かした。東の空が白みはじめると、尾形先生と恭平たちは裏山へ登った。裏山はすでに淡い光に包まれており、駅周辺の街並みも、暗い闇の底から浮かび上がろうとしていた。牛乳配達のガチャガチャという瓶の触れ合う音が、朝の気配を心地よく伝えてくる。朝の静寂を破って、貨物列車が走り抜けてゆく。
 尾形先生と生徒たちは、腕を組み肩を抱き合って、ロシア民謡の「ともしび」や「黒い瞳」、「ヴォルガの舟唄」などを唄った。恭平は仲間の肌のぬくもりと絆を感じ、熱いものが込み上げてくるのを抑えることが出来なかった。
 山から下りて五人の生徒は、先生を残して登校した。恭平の身体の芯は疲れていたが、充実した心持ちであった。雲ひとつなく晴れ渡り、青い空はどこまでも深く感じられた。校舎に朝の柔らかい陽射しが降り注ぎ、ポプラ並木や学校の佇まいがいつもより新鮮に感じられた。
 恭平たちは、刷り上ったばかりの文集を抱え、入部の呼びかけ文を添えて各教室へと配布した。恭平はサッコと二人で廻った。サッコは、「仕事の歌」をハミングしながら、跳ねるような足どりであった。恭平はこの溢れ出すような息吹を、多くの人が汲みとって欲しいと願った。
 恭平の心はときめいていた。廊下をゆっくり走りながら、サッコのハミングが背中から聞こえてくる。振り返ると、ステップを踏んだサッコが近づいてきた。微笑を浮かべ白い歯がこぼれた。
「もう、これで終わりね」
 息を弾ませて恭平に寄り添い、最後の教室の前に立って、サッコが言った。肩が触れ合いサッコのほのかな匂いが漂った。恭平は肯いて教室へと入った。

 恭平は文集「さわらび」に詩を書いた。

    遥かなるベトナム

             片桐 恭平

  わたしの住む村に連なる
  日本のどこかから
  ベトナムへと重戦車が送られ
  B が飛び立つという

  わたしの住む村の海に連なる
  ベトナムの豊かな大地を
  重戦車のキャタピラが
  嚙むという

  わたしの住む村の空に連なる
  ベトナムの澄んだ青空で
  B の砲弾が
  炸裂するという

  わたしの住む村の子どもたちに連なる
  ベトナムの子どもの悲鳴が
  野山に
  こだまするという

  わたしの住む村の娘に連なる
  たたかうベトナムの乙女の
  瞳は輝き
  微笑みは永遠であるという

 恭平は最後の教室で自身の詩を読み、文集をそっと閉じた。楽しくはあったが、緊張の日々が続いてきた。緊張を解きほぐすように天井を仰ぎ、口を膨らませて大きく息を吐いた。みんなの心がさまざまな音色を奏でながら、文集へと結実されていった。それを思う時、身体の奥深くから充実感が湧き上がり、身体をすっぽりと包み込んでくる。恭平は感慨にふけっていた。
「片桐君どうしたの?」
 窓を開け放って外を眺めていたサッコは、振り向いて訊いた。
「いや、なんでもない。ただ、ここまでよくやれたなァと思うと、熱いものが込み上げてくるんじゃ」
 恭平は窓の方へと歩み寄りながら、静かに答えた。
「そうね、ほんとうにそうよ。みんなよく頑張ったわ」
 そう言ってサッコは、感嘆したという表情で両腕を広げた。
「サッコ、疲れたろう。この一ヶ月慌しかったもんなァ。それに今日は徹夜じゃしなァ」
「ううん、なんともないわ。心はとても満たされた日々だったわ。いい文集が出来てほんとによかったわね。それに片桐君の詩、素敵ね。私、好きよ」
 サッコは恭平の顔を覗き込んで、微笑んだ。
 恭平は、ベトナムの乙女の写真と、サッコの曇りのない瞳と微笑が重なり、それに触発されて詩を書いたのだった。書き進みながら、幾度となくサッコの姿が浮かび上がってきた。その度に、ペンを置き瀬戸の海に眼を移して、揺れる漁火を茫然と眺めていた。
「そうかなあ、僕はなんだか恥ずかしい気持ちがするんじゃ。それよりサッコの『人形の家』の感想文、ありゃいいと思うなァ」
「あれは、自分の身の丈に余るものを、精一杯書いたつもりなの。でも、もっと時代の背景なんか、勉強しなきゃ駄目だと思うわ」
 サッコは背伸びをし、手を頭の上方にやって、まだまだ届かないという仕草をして、おどけて見せた。
 サッコは窓から身体を乗り出して、なだらかに連なる山々へ視線を移した。恭平も窓枠にもたれてサッコの視線を追った。
「もう秋ね、ほら、山の上の方から段々に染まってきているわ。木々の葉が滅びる前の一瞬、焔のように燃え上がっているという感じだわ。きれいね」
 そういって右手で指差し、恭平の方に寄り添ってきた。
 恭平は胸の鼓動が高まってくるのを覚えた。朝日を浴びて、紅葉は鮮やかな色合いを織りなしていた。
「おーい、そっちはどうじゃ、終わったか――」
 杉浦たち三人は校庭の塀に沿った、ポプラ並木の下で手を振っている。恭平とサッコは、まだインクの匂いがする文集を壁に吊り下げ、教室を後にした。

 文化祭が終わって三日後、恭平は担任の梅原先生に呼ばれた。僕になんだろう、という疑問が湧いた。職員室に通じる廊下を歩きながら、就職指導かクラスの運営についてだろうか、と考えていた。
 授業を終えた生徒が一斉に教室から吐き出され、下駄箱附近は喧騒の渦となって、高声が飛び交っていた。廊下を走り抜けてゆく生徒を、三、四人の生徒がわめきながら追っている。その肩が触れ恭平は思わず後ろを振り返った。
 職員室に入ると、三、四人の先生が輪をつくり、お茶を飲みながら談笑していた。放課後のくつろいだ雰囲気があった。梅原先生は、残務整理をしているらしく、机に向かっている。肩を丸め、蒼白い神経質そうな顔をして、ペンを走らせていた。
「先生、なんでしょうか」
 恭平は机まで歩み寄って、長身の身体を折って軽く頭を下げた。
「よう、片桐か、待ってたんじゃ」
 梅原先生はペンを置き、回転椅子を廻して見上げた。
 煙草に火をつけ大きく煙を吐き出した。先生は煙草好きで、右手の人差し指と中指はニコチンで褐色に染まっている。パイプという渾名がつけられていた。
「教頭先生が、話があるそうだよ」
「えっ、教頭先生が、どうして僕に……」    
 梅原先生はそれには答えず、席を立ち校長室の方に向かって歩き出した。背が高く痩せた先生の、肩の辺りに視線をやりながら後にしたがったが、ますます疑問を深くした。
 校長室には教頭がいた。教頭は生徒たちから、こって牛と呼ばれ、校長の娘婿であった。実質的には、学校の長としての責務を担っている。
 こって牛という渾名は、牡牛のことで、重荷を負うだけでどんくさい、というところからきているらしい。しかし、実際も牛のような身体つきをしている。ずんぐりとして背は低く小肥りであった。柔道をやっていたらしく、筋肉は牛のように隆起し力が漲っている。
 教頭は柔らかそうなソファに腰を沈め、眼鏡を鼻の上にずらして新聞を読んでいた。恭平が入ると眼鏡をはずして、
「ああ、片桐君か、さあ、掛けなさい」
 と言って、手で合図をした。
 恭平は緊張してソファに坐り、校長室を見廻した。壁には静物画の重厚な額が掛かっており、執務机とソファがあるだけで簡素な部屋だった。机の上には盆栽が据えられ、正面の壁の上方には、校長の肖像画が掛けられており、それに並んで表彰状や感謝状の額がある。
「君のことは、梅原先生からよく聞いている。よく出来るそうじゃないか」
 教頭は鷹揚な動作で玉露を淹れながら、言った。梅原先生は、教頭の隣で煙草を吹かしている。
「就職はどうかね。希望するところは見つかったかね」
 玉露の湯呑みを差し出しながら、見詰めてきた。
「いいえ、まだです。いちど失敗し、今どうしようか迷っているところです」
 抑揚のない声で、恭平は緊張して言った。
 教頭の真意が摑めないのだった。通常一人の生徒の進路に教頭が関わるということはなかった。
「それなら、Y市役所はどうかね。いま募集が来ていて、試験も間近に迫っている。君なら大丈夫だと思うんだがね」
 教頭は、梅原先生から募集要項を受け取り、ペラペラとめくった。
 恭平の心は少し動き、要項を受け取って黙って眼を通していた。
「そこを受けてみないか。いいじゃないか、なによりも安定してる職場じゃ」
 梅原先生が口を挟んだ。煙草を灰皿に揉み消しながら言った。
「考えてみます。この書類お借りしてもいいでしょうか」
 鈍く光っている、教頭の眼を見上げて言った。
 級友たちの就職は、次々と決まり始めており、少し焦る気持ちがあったが、就職への希望が少し広がってくるように恭平は思った。
「ところで片桐君、君は尾形先生のやっている、文芸部に入っているそうだね」
 教頭は足を組み、ソファの背にもたれ込みながら薄く笑った。
 左手をソファの上部の縁に沿って伸ばし、玉露を呑んだ。厚い胸が突き出てワイシャツは張り、窮屈そうだった。
「ええ、そうですが……」
「楽しいかね。今度出した文集も読ませてもらったよ」
 立ち上がって、机の抽斗から文集を取り出してきた。テーブルの上に、
「これだよ!」
 と言って、投げ出した。
 萌黄色の表紙に、「さわらび」と記された文集であった。教頭は文集を手に取って、頁を繰る仕草をした。
「あまり熱を入れないほうがいいよ。今、就職前で大事な時だからな」
 終始薄笑いを浮かべていたが、眼鏡の奥の眼は笑ってはいなかった。
 頬骨の張った顔に赤味が差してきた。それは教頭の、心の動きの反映であるように思えた。
「尾形先生はアカだよ、共産党だ。あまり深入りしないほうがいいぞ」
 梅原先生は、テーブルに身体を乗り出して、尖った声を低く抑えて言った。
 恭平は驚いて、神経質そうな梅原先生の顔を凝視した。眉間に立て皺を浮かべ、膝を細かく動かして貧乏揺すりをしている。
「君の詩も尾形先生の影響だろう。君は真面目な生徒だと聞いている。あんな考えをするのは、文芸部の中で感化を受けているんだよ。それに学校としては、まだ文芸部を認めていないんだよ。尾形先生が勝手に作った、たんなるグループに過ぎない――」
 教頭の顔からは笑いが消え、語気を強めて言った。眼鏡の奥の眼は、猜疑に満ちた眼であった。
「文芸部は、もう、よしたほうが賢明だよ。アカに染まらないうちに……。就職のためにも良くないしなァ」
 教頭は文集を丸め、テーブルを軽く叩いた。
「片桐、教頭先生のおっしゃる通りだ。よく考えたほうがいいぞ」
 梅原先生が駄目を押すように言った。
「文芸部は楽しいし、今では僕にとって、かけがえのないものなんです」
 恭平の声はうわずり、掠れていた。
 怒りの言葉は喉まで突き上げてくるが、震える声をして、それだけ話すのがやっとであった。
「まァ、よーく考えるんだな。就職のこともあるしなァ」
 教頭は薄く笑い膝に両手をついて、腰を揺するように持ち上げ、ソファから立ち上がった。
 夕陽はすでに西の山に落ち、空は夕焼けが広がっていた。校舎や校庭がほんのりと赤味を帯びている。秋風が渡っていた。校庭は練習を終えた陸上部の生徒がグラウンドの整備をしているだけで、閑散としていた。恭平は自転車に乗って、独り校門を出た。
「アカに染まらないうちに、やめとくんだな」
 教頭の薄笑いを浮かべた顔と、猜疑に満ちた眼が浮かんでくる。
「あの、こって牛!」
 恭平が呟くと、怒りが自然に湧き上がってくるのだった。恭平は力を込めて自転車のペダルを蹴った。

 次の朝、授業の始まる前に、杉浦と耕ちゃんが教室へ駆け込んできた。
「片桐、どうじゃった。教頭の呼び出しはなかったか」
 耕ちゃんは声を低く抑え、周りを窺うようにして言った。
「あァ、昨日の放課後、校長室に呼ばれたんじゃ」
「うーん、やっぱりそうか」
 杉浦は悔しそうに腕を振り、指を鳴らした。
「俺と卓ちゃんだろ、それにサッコが呼び出されたんじゃ。杉浦にはなかったらしい」
 耕ちゃんは鋭い眼を光らせて、一人、二人と数えて指を四本折った。
「放課後、駅前の喫茶店に集まろうと思うとんじゃ。どんなかのう」
「僕はそのことでよう眠れなんだんじゃ。喫茶店には行くよ。まだ頭が重いんじゃ」
 恭平は拳で頭を軽く叩きながら答えた。
 始業のチャイムが鳴ると、       「じゃァな、喫茶店で――」
 と言って、二人は慌てて教室を出て行った。「サッコもか……」
 恭平は呟いて、窓外の山々の風景に視線を泳がせた。
 放課後、恭平たちは駅前の喫茶店に集まった。紫やオレンジ色のライトが点されていたが、薄暗い喫茶店である。壁や天井のクロスは色褪せ、映画音楽の「鉄道員」のメロディが哀調を帯びて流れていた。
「俺にも尾形先生はアカじゃから、あまり接触するな、というんじゃ」
 耕ちゃんは濃い眉を眉間に寄せ、身体に怒りを表して喋った。
「私には普通科の女生徒は入部を禁止するって。男生徒との交際は学校として認めていないっていうのよ。やんなっちゃう」
 サッコは頬を膨らませて、顔を曇らせた。
「学校はなんでこんなに、神経をとがらすんかのう」
 コーヒーカップに角砂糖を入れて、スプーンをくるくる廻しながら、耕ちゃんは言った。
「尾形先生を批難するけえど、生徒に対する姿勢や態度がどうなんか、いうのを見にゃおえん。なァ、そうだろう」
 と言って、杉浦はみんなの顔を覗き込んだ。
 恭平は強く肯いていた。自身にたぐり寄せて考えてみても、尾形先生たちは、生徒の内側に埋もれている、鉱脈ともいえるものを何とかして探り当てようと、努力しているように思えるのだった。
「こんな出来事は、うちの学校だけじゃないらしい。神奈川では生徒会を作ろうとした生徒が、全員処分されたそうじゃ。大阪では新入生歓迎のハイキングを計画した、六名の生徒が停学処分にされとるし……」
 杉浦は熱っぽく、高い声で話した。いつもの蒼白な顔が少し紅潮している。
「そりゃひどいのう、無茶じゃ」
 みんなの間から溜息が洩れた。
「いや、それだけではない。ある県では、原水爆禁止の署名をした生徒を処分したり、遅刻の生徒を八ミリで撮影して、他の生徒への見せしめにしとるそうじゃ」
 ほらと言って、杉浦は新聞の切り抜き帳をテーブルの上に広げた。「民青新聞」のスクラップブックである。
「そうねえ、私たちの学校だけじゃないのね」
 サッコはスクラップブックを手にして、頁を繰りながら肯いている。
「俺は文芸部の活動で、やっと何かが摑めそうなんだ」
 耕ちゃんは悔しそうに右の拳で、左の手のひらを打った。
「自主的な活動への干渉じゃ。このままじゃ駄目だと思うんじゃ。教頭と交渉したらどうじゃろうか」
 杉浦は冷めたコーヒーを呑み干して、張りのある声で言った。
「しかし……」
 卓ちゃんが呟いた。
 今まで、ひっそりと俯き、黙っていた卓ちゃんがはじめて口を開いた。歌が好きで、いつも陽気な卓ちゃんの様子に、恭平は先程から懸念を抱いていた。みんなの視線が卓ちゃんに注がれた。
「……しかし、就職にひびかないじゃろうか? 僕はそれが心配なんじゃ」
 身体を小さくして、みんなの視線を窺うように上目づかいで卓ちゃんは話した。
「そりゃ脅かしだよ、卓ちゃん。それで文芸部の活動に水を差そうという魂胆じゃから……。こんなことで動揺してたら駄目じゃ。日和見じゃ」
 卓ちゃんを覗き込んで、すかさず杉浦はなじるように言った。
「しかし……」
 と恭平は口の中で呟き、杉浦はなぜもっと相手の気持ちを汲み、包み込もうとしないのだろうか、と思った。
「そりゃ、よう解るけえど……」
 卓ちゃんは眼を伏せて呟いた。
 恭平たちは卓ちゃんの切実な声に沈黙した。相変わらず喫茶店には色んな映画音楽が流れていた。恭平たちのテーブルの沈黙は深くなってゆき、尾形先生に相談するということにして、五人は喫茶店を出た。

 その後の文芸部の活動は、急速に衰えていった。尾形先生から、教頭に対して申し入れがなされたが、学校側の干渉は執拗に繰り返された。三年生に対しては、まもなく卒業するということもあってか、比較的緩やかに接してきた。だが、一、二年生と女生徒に対しては厳しく行われた。文集に投稿しただけの生徒も一人ひとり呼び出され、水をさしていった。
 文芸部の例会には、一人、二人と遠ざかり、三学期に入ると、四、五人の生徒が集まるに過ぎなかった。恭平は文化祭に向けて大きく高揚した勢いが、引き潮となってゆく淋しさを感じていた。しかし、毎土曜日の例会は、卒業の日まで続けられた。例会では文学だけにとどまらず、哲学書や人生論の著書をテキストにして話し合われた。
 駅前の喫茶店で眼を伏せ、身体を小さくして坐っていた卓ちゃんも、就職が決まってからは、いつもの陽気さを取り戻して参加するようになった。卓ちゃんが再び参加するようになってからは、例会ごとに歌を唄うようになった。それは引き潮となってゆく文芸部の活動と、みんなの気持ちを盛り上げてゆくのに恰好のものだった。
 文芸部は学校側の干渉に対して、それに対抗するように、第二号の文集を卒業式までに出すことにして取り組んできた。しかし、原稿集めは難航し、創刊号に寄せた人たちも容易に応じてはくれず、学校側の影響力の深さを肌で感じるのであった。結局、卒業式までに発行することが出来ず、二年生へと引き継がれることになった。

 恭平の深い悩みは、文芸部の活動を通じて溶解したのだろうか――。手足の褐色の斑紋によって、内へ内へと内向してゆく心の有りようは、その呪縛から解き放たれたのだろうか――。
 恭平の悩みは溶解したのでも、解き放たれたのでもなかった。卑屈な生き方やその悩みや劣等感は、氷のようにたやすく溶解するというものではなく、まさに呪縛そのものであった。
 恭平はその呪縛から自由になるために、怯えながら友人の前に手を晒すということも、試みたのだった。が、それは裸身で街の中を歩くような恥辱であり、身体から火が燃え立つような火照りを覚えないではいられなかった。それに恭平は耐えることが出来なかった。いつのまにか恭平は、他人の前からひそかに手を引いていた。
 また恭平は、さまざまな本をひもといて、心のよりどころにすべく試みたのだった。エンゲルスの「猿が人間になるについての労働の役割」などを、食い入るように読んだ。  
 ――猿の直立歩行は、猿が人間になる為の決定的な一歩であった。そして、猿の前足は自由になり「手」となって、狩猟や採集に道具を使うようになった。つまり、恭平は「猿が人間になるについての『手』の役割」として読んだのだった。だから、手の斑紋が恥ずかしいといってうじうじ悩むのは、取るに足りないことに自分自身が囚われているに過ぎない、と思ったりした。
 が、それらの心のよりどころも、恭平の心を解き放つには至らなかった。恭平は高校を卒業しても、その問題と対峙して生きてゆくこととなるのである。しかし、手の悩みを抱えながらも、恭平はただそれだけに囚われることなく、心は外へ向かって動き出すようになったのだった。
 その後、悩みが溶解し、他人の眼の前に自然に手を差し出すことが出来るようになるためには、まだ十年余の歳月を要することになるのだった。
 
 チャイムが鳴って、教室が急にざわついてきた。恭平は時空をさかのぼり、高校時代に想いを馳せていたが、夢から醒めたようにたちまち現実に引き戻された。弾けたように教室から生徒がグラウンドに飛び出してきて、ボールを蹴っている。彼等は屈託がないように見えるけれども、一人ひとりの胸の奥には、希望とともに、恭平がそうであったように深い悩みを抱え込んでいるのかも知れない。文芸部はその後どうなったのだろう、と思いながら、恭平は車に乗り込み、学校に別れを告げた。

    (三)

 車窓の風景はあまり変わっていないようだったが、それでも新しい道や住宅団地が出来ている。ひっそりとした、古里に続く道を走りながら、恭平は心が騒いでくるのを覚えていた。恭平はしばらく車を走らせて、峠に差し掛かった。峠を越えると、恭平の古里だった。峠には龍城院という古刹がある。
 恭平は古刹に心を惹かれて、龍城院に立ち寄ることにした。恭平は駐車場に車を停めて、古刹の石段をゆっくりと上っていった。山門まで上りつめて、恭平は思わず後ろを振り向いた。恭平の眼の前には瀬戸内海が広がっている。たゆたう海には紫の島々が浮かび、霞んでいた。海面はまるで蝶が舞っているように、揺らめきながら煌めいている。
 寺は静かな佇まいを見せていた。山門の正面には、本堂が威厳を持った様子で鎮座している。西に傾いた陽を反射し、本堂の鈍色のいらかが光っていた。その少し左には庫裏があり、やはりひっそりとした佇まいであった。その横のこんもりと盛り上がった丘の上には、石張りの築造物があり、その上で仏像が手を合わせている。本堂の右手奥には、地、水、火、風、空の五大にかたどった五重塔が、身じろぎもせずに聳えていた。
 寺は身を潜めるように沈黙している。恭平は寺の境内に入り、本堂の前で合掌し、深く頭を下げた。不審に思っていた左の丘にある築造物に足を運ぶと、それは納骨堂だった。納骨堂の平屋根の上には、極楽浄土に導くといわれる、阿弥陀如来が微笑している。ぶらりと境内を歩いていると、銀杏の大木に出合い、思わず見上げた。翼のように広げた枝は新緑に燃え、大地に黒い影を落としている。
 その影を踏んで、寺の境内を巡っていると、東の塀の傍らに、ひとつの標示板が西日を受けて光っている。それは忠魂碑への案内だった。恭平は標示板に導かれて、東の小高い山に歩を進めた。つづら折りの山道の脇には、草むらにうずくまるように点々と石仏が並んで、それぞれかすかに笑みがこぼれている。雑木林のトンネルに遮られ日蔭となって、山道は不気味に静まり返っている。時折、木洩れ日が妖しく揺れていた。
 その道を抜けると、急に視界がひらけて広場が現れた。緑の絨毯のように、短い芝生が敷き詰められている。手入れがゆき届いていることを感じさせる広場だった。恭平は広場に二、三歩足を踏み入れて、一瞬立ち竦んだ。正面に三、四メートルの高さの自然石が、石垣の舞台の上に屹立している。恭平はその自然石に近づいて見上げた。それには、太く深い字で「忠魂碑」と彫り込まれていた。その右手には、大きな長方形の黒御影の石碑が数枚、森の木々の前に重々しく立っている。石碑には夥しい数の名前が刻まれていた。満州事変から太平洋戦争に至る十五年戦争で、戦禍をこうむった人々である。
 この村にも戦争があったのだ。空襲はうけなかったけれども、三百余名の人々が先の戦争で、命を落としたことを碑文は語っていた。当時この村は、六千人に満たない人口だった。人口の二十人に一人、男性の十人に一人、若者の何人に一人が犠牲になったというのだろうか。忠魂碑と刻まれてはいるが、果して真実忠魂だったのか、という想いが湧いた。半農半漁のこの村で、農民や漁民が畑から引き立てられ、船から無理やり降ろされて、出征させられたのではないだろうか。恭平は忠魂碑に手を合わせ、芝生の広場を沈鬱な心で歩いた。
 恭平はつづら折りの道を辿って小高い山を下り、ふたたび山門に立った。恭平には先程とは違って、瀬戸の海が灰色の海に見えた。この海の、この海に連なる大陸や南方の島々、あるいは南方の海で屍となった、この村の若者の鬼哭が聴こえるように想えた。
 恭平は龍城院を後にして峠を下り、瀬戸内海の入江の村に車を進めた。峠を下って、西の地区にすすめば、恭平の生家がある。恭平は海岸線に突き当たり、右にハンドルを切って生家の方に向かった。昔、民家の軒先をかすめるように、バスが通っていた道である。
 恭平は生家の前に車を停めた。が、生家はもうなかった。ただ、古井戸と、それに寄り添うように植わっている松の木が、終焉を迎えた生家の面影を留めている。古井戸は、水が涸れることはなかったが、塩分を含んでいた。今は埋め立てられているが、生家から十メートル先には漁港があったのだ。
 古井戸と松の脇を通って玄関へ入る。その右手に六畳間が二間あった。北側に台所と納戸があるきりだった。そして、屋根裏部屋を子どもたちのために父が拵えた。風呂はなく、便所は外だった。それに小さな前庭と裏庭があった。ここで両親と、四人兄弟の六人が暮らしてきたのだった。が、父も母も他界し、その家も果てて、いまはもう何もない。
 だが、恭平の高校時代が母の面影とともに甦ってくるのだった。セピア色をしたその情景は今、くっきりとした色彩を帯びて、浮かび上がってくる。それは恭平の心から消え失せることはなく、逆にますますはっきりとした形と色をともなって、恭平の胸の奥底で息づいていた。

 初冬の陽は西に傾いて、軒の低い家を柔らかい光が包んでいる。恭平は古井戸と松の木の傍らをすり抜けるようにして、玄関に向かった。軋む玄関の戸を引いて、恭平は家のなかに足を踏み入れた。
「ただいま――」
 いつものように恭平は、誰にともいうことなく、玄関で声を上げた。
 縁側で母が内職の帽子を編んでいたが、顔を上げて恭平を一瞥しただけだった。
「……」
 母は何か言いたそうだったが、また眼を帽子の上に落として、手を動かしている。
「……」
 恭平も黙って、二階の屋根裏部屋へ上がっていった。
 恭平はカバンを机の上に投げ出し、ビートルズのレコードをかけて、畳の上に寝転び虚空に眼を泳がせていた。
 階段の踏み板が、軋む音が聞こえてきた。その音が上ってくる。部屋の板戸が開く。母だった。母は部屋をゆっくりと見廻していたようだったが、おもむろに口を開いた。
「恭平、なんじゃ、こりゃ」
 母は本棚の前に立って、顎をしゃくった。
「……」
 恭平は黙っていた。
 本棚には、葉山嘉樹の『海に生くる人々』や「セメント樽の中の手紙」黒島伝治の「渦巻ける烏の群」や「二銭銅貨」などが編まれた本が並んでいる。マルクスやエンゲルスなどの著作も、無造作に突っ込まれていた。
 物思いにふけるように、母はその場に佇んでいる。しばらく沈黙が流れた。恭平はレコードのスイッチを切った。海が鳴っている。潮騒である。
「昔――、昔といっても、三十年ほど前のことじゃ」
 母が振り向いて言った。
「東の地区の漁師が捕まったんじゃ。こんな本を持っていたそうじゃ」
「……」
 恭平は頭の下で手を組んで、黙って天井を睨んでいた。
「恭平、誰にもいうんじゃないぞ。そりゃ、いまの時代じゃから、もっとるだけで、捕まるようなことはねえじゃろうけど……」
 母は遠くを見るような眼差しをして言った。
「……」
「就職も決まったんじゃし、上の人に嫌われんようにせにゃいけんからなァ」
 母の言葉にさからうように、恭平は寝返りを打って母に背を向けた。
 母が二十歳の頃、この半農半漁の田舎の村で、こんな本を持っていた漁師がいたことに恭平は驚いた。そして、なぜか心が騒ぎ、熱くなってゆくのを覚えていた。
 ――検挙されたのは、治安維持法に基づくものだったのだろう。その漁師たちの持っていた良心や知性が窒息させられ、戦争と破滅への道を歩むことになったのではないだろうか、恭平は心のなかでそう呟いて、母に反発していた。
 プロレタリア文学やコミュニズムの本に触れるようになったのは、恭平が高校三年の早春に、文芸部に入ってからだった。友人と尾形先生に奨められて読むようになったのだが、その頃、いかに生くべきかで悩んでいた恭平の心に、清冽な泉のような言葉が沁みこんでいった。
 来春、恭平は高校を卒業して、市役所に就職することが決まっていた。
「よかったなァ、恭ちゃんは……、ええとこへ入れて――」
 親戚や近所の人々は、挨拶がわりに母にこういうのだった。
 母はそれがたとえお世辞だとしても、悪い気はしなかったに違いない。しかし、恭平の心は平静で、特別の感慨はなかった。
「恭平、上の人に厭がられることのないようにせにゃいけんぞ」
 母は恭平の背中に声を投げて、階段を下りていった。
 恭平の家は貧しい暮らしを余儀なくされてきた。小学生の頃、税金が納められなくて、家のタンスや机、自転車まで差し押さえの札が貼られていったのを憶えている。恭平は小学校の修学旅行に行けなかったし、成績の良かった兄も、高校に行かせてもらえなかった。
 ――大工を殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい、と揶揄される仕事をしていたのは父である。父は真面目で、飲む、打つ、買う、という放蕩をしたことはなかったが、なぜか恭平の家は貧しかった。だから、安定した仕事に就くことになった恭平の本棚が、母には気にかかっていたのだろう。
 初冬の陽が畳の上に斜めに落ちて、恭平の部屋を朱色に染めていた。

 チ、チ、チッ、チーッ、チ、――
 雀のさえずりで恭平は眼を覚ました。カーテンを引くと、まだ明けきらぬ闇がそこにあった。
 チーッ、チッ、チ、チ、チ、――
 東の空はようやく白みはじめ、軒先で雀が鳴き交わしている。
 恭平が階段を下りてゆくと、母は台所に立って、俎板をトントンと叩いていた。食卓の前には作業衣をつけた父が坐っている。
「おはよう――」
 母に向かって、恭平は声をかけた。
 母は唇を嚙んで、恭平を無視するように黙って包丁で何かを刻んでいた。その音は母の意思が込められているようで、棘々しく聞こえてくる。思いわずらう心を切り刻むように、それは高く響いた。母が口を利かなくなって二日が経っている。朝夕の挨拶をしても黙ったままである。
 それは恭平が、母にゼッケンを縫うように頼んでからである。ゼッケンといっても母には判らないだろうから、集会の写真を見せたのだった。
「そりゃ、世の中が悪いかも知れん。じゃがのう、お前が何も先に立って、そんな活動をせんでもよかろう……」
 母は写真を突き返してきた。
「でも、こういうことは、気付いたもんからやらにゃいけんじゃろう。僕もそれに気付いたから、始めるだけなんじゃから――」
 恭平は、頭に白いものが目立つようになった、母の顔を覗き込むようにして言った。
「でものう、そんな活動をしょうたら、後ろ指をさされるようになるんじゃ。よう考えてみい……」
 母はそういって恭平を睨んだ。
 恭平は次の日曜日に、ベトナム反戦と暮らしを守る集会に参加する予定なのだった。労働者と市民の集会だったが、高校生もいくつかの学校から参加することになっていた。恭平の高校からは、三名の学友が出るというので、彼がゼッケンを引き受けたのだった。
 恭平にとっては、たんなる集会参加にとどまるものではなかった。恭平の今までの人生というのは、自己肯定感の持てぬ、劣等感にとらわれた卑屈な日々だったような気がする。
 昼食の時間に、弁当の中身を見られないように、新聞紙で囲いをつくって食べたその卑屈さを思い出すと、いたたまらなくなる。放課後、中学校の友人と一緒に帰りながら、自分の古ぼけた家を見られるのが厭で、家が近づくと、独り遠回りして帰ることもあった。
 恭平はそういう自分が厭だった。内へ内へと内向してゆく自分を、外に向かって飛翔させたかったのだ。この集会は恭平にとって、自身の生き方と深く結びついている。
 母の来し方はどうだったのだろうか。家の貧しさを一身にひきうけて、心が休まることがなかったような気がする。
 父が膝を痛めてしばらく仕事にゆけなかったことがある。父の収入がなくなり、母の内職だけでは生活できないようになった。それで治療費と生活費を村の有力者に借りたのだった。しかし、期限までに返済することができなくて、畑を手放さなければならなくなった。もう少し待ってくれ――、と言って母は頼んだが、容赦のない取立てで、病人の布団を引き剥がすように畑が奪われていった。母はその夜、タオルをかたく握り締めて、暗い部屋に身じろぎもしないで坐っていた。
 恭平は洗面所から出て、二階へ上がっていった。母はいつ眠っているのだろうか。恭平が床に就こうと屋根裏部屋に上がってゆく時も、決まって母は内職の帽子を編んでいた。朝は誰よりも早く床をぬけだし、裏山の畑にゆくか台所で立ち働いていた。

 ふと、恭平は目覚めた。カーテンの隙間から、朝の陽射しが洩れている。耳を澄ませば、潮騒が聞こえてくる。恭平は布団のなかで、潮の差してくる波立つ音をしばらく聴いていた。
 母が口を利かないようになって、三日経ち、四日経った。母と恭平の間は、緊張した空気が張り詰めていた。恭平も口を利かなくなった。集会は明日である。恭平は母を少し憎んだ。
 恭平は布団を蹴って、起き上がった。すると、枕元に白布が畳んで置かれていた。手にとって広げてみると、それはゼッケンだった。
恭平がカーテンを強く引き放つと、部屋に明るい光が満ち溢れた。
 母のゼッケンは、淡いとき色に染まっていた。

 不意に静かな空気を引き裂いて、百舌が啼いた。恭平は遠い過去の想いから急に呼び戻された。百舌は松の枝をしっかり足で蹴って、キェーッと、あとに尾を引く不気味な悲鳴を上げて、北の山のほうに飛んでいった。

    (四)

 ――ここにも、胸が疼くような物語があった。戦後二年を経て生まれた恭平は、高校卒業までこの地で暮らして来たのだった。貧しくて諍いの絶えない呪わしい家に、心を痛める日々を送らなければならなかった。哀しい思い出が走馬灯のように駆け巡ってゆく。立ち去り難い生家の跡地を後にして、恭平はこの村の果てにある岬に向かった。蛇のように曲がりくねった海岸線は、左手に山が迫り、右手は急峻な崖となって、海に落ち込んでいる。
 恭平は車を停めて、東の岬に降り立った。
この村は東と西の果てに、牛の角のように突き出た岬がある。西の岬は遠くぼうっと霞んでいた。その岬と岬を結ぶ海が陸地に食い込んで、ゆるやかな弧を描いている。軒の低い家々が入江に沿って、肩を寄せ合うように佇んでいた。
 入江の沖には四国まで延びた瀬戸の海があった。この海が、昔からこの村に恵みをもたらしてきたのである。だが、この海はときおり狂気をおこし、幾多の漁師を海に沈め、命を奪ってきた。瀬戸の海はふだん狂気を呑み込んで、平静を装っているのだった。港には今、鳥が翼を休めるように、漁船が岸に繋がれている。夜が紫色に明けてくると、漁船は身体を震わせ海面を裂きながら、一斉に豊かな海に出てゆくのだった。
 この村は背後の山々の裾野が、海になだれ込むように緩やかに落ち込んでいる。その傾斜地を耕して、昔から大地の豊かな実りを得て来たのだった。それが、半農半漁と言われて来た所以である。軒の低い家々は、浜辺から緩やかな坂に沿って、背伸びするように上へ上へと延びていた。路地は狭く入り組んだ、坂道の多い村である。
 この村にも良心と知性があった。が、治安維持法などの悪辣な手段によって、それが窒息させられ、戦争と破滅への道を歩むのである。先の戦争で奪われた命は、余程の忍耐なくして指折り数えることは出来ない。三百名を超える人々が、惨禍をこうむっていたのである。けれども、この村の良心と知性は、永遠に眠りについたわけではなかった。
 ――苦難の歴史を経て、戦後数年のちには共産党員が誕生し、安保闘争のあと細胞(支部)が生まれたのである。そして、いま七部の「赤旗」日刊紙と、数十部の日曜版読者がいた。さらに、村議会議員も誕生して、村民の暮らしと平和を守る活動を展開している――、転籍の手続きで地区委員会を訪ねたとき、恭平はそう知らされたのだった。
 夕日が西の島々の彼方に落ちようとしている。朝日よりもいっそう紅く、大きく燃え立つ夕日だった。恭平は岬の地面に足を踏み締めて、落日のドラマをじっと眼を凝らして見ていた。妖しいほどに美しく、紅く染め上げられた空に、島々は黒い影絵のように映し出されている。光と影がくっきりと刻まれていた。
 村の家々には、大地より夕闇が立ち昇っていたが、まだ仄かな橙色に包まれている。家家の窓には、ぽつりぽつりと電燈がともり始めていた。一つひとつの家には違った形の哀しみや喜びが、ひっそりと匿くされているように想えた。あの電燈の下に、辛くて哀しくて、絹を裂くような悲鳴がひそんでいるかも知れない。あるいは、悲鳴も笑い声も上がらず、深い沈黙に沈んでいる家があるかも知れない、と恭平はぼんやり家々の明かりを見ていた。だとするなら、恭平はこの村の辛さや哀しみに寄り添って、生きてゆかなければならないだろう、とひそかに想った。
 海は夕日を浴びて、万華鏡のように揺らめき輝いていた。その潮が差して来る。上げ潮である。紅い帯が流されたような波が、勢いよく岸辺に打ち付けて、紅の波が白く砕けるのだった。
 海が哭いている。潮騒である。恭平は耳を澄まし、眼下に広がる瀬戸の海を望んだ。岬の崖下には侵蝕された岩場に、潮が打ち寄せ波の花となって砕けていた。恭平は古里の、潮騒の村に還ってきたことを、しみじみと感じるのだった。
 今朝、煤煙の街に昇った太陽は、今まさに西の島影に呑み込まれようとしていた。だが、明日また東の島影から、ふたたび太陽は立ち昇ってくるだろう。風景は変わっても、恭平はまた、「しんぶん赤旗」を、この潮騒の村で配達することになるのだろう。それは今も、母のゼッケンを剥ぎとることなく、胸に貼りつけて生きてゆくことなのだ、と想った。この潮騒の村で新しい人生が始まる――、恭平は、祈りにも似た想いに打たれていた。
 不意に海が吼えるのが聴こえた。恭平は思わず、岬の突端に向かって踏み出していた。

鬼藤千春の小説 「母の潮汲み」 長編


  母の潮汲み



        鬼藤 千春


     (一)

 モズが鋭い鳴き声をあげて静寂を破り、北の山へ飛んでいった。キェーッと、あとに尾を曳く不気味な悲鳴だった。モズの高鳴きである。庭に植わっている、丈の高い松の枝から飛び立っていった。
 周平は網の修理の手を止めて、空を睨んだ。むろん、モズの鳥影はすでになく、山々の峰は夕暮れの闇に溶けようとしていた。西の空だけがかすかな茜色に染まり、いっそう薄墨色の風景を浮き立たせているのだった。
「あんた、あんたッ」
 不意に妻の葉子が、甲高い声を挙げた。
「あんたッ、お義母(かあ)さんがいないんよ」
 エプロンで手を拭きながら、葉子が玄関から飛び出してきた。
 周平は振り向いて、なにげなさそうに言った。
「また、ヨネ婆(ばあ)さんのところで、お茶でも飲んどんじゃろう」
 それをしおに周平は立ち上がり、繕いの済んだ網を片付け始めた。
 数年前まで網の修理は、母、夏江の仕事だった。漁師として周平の腕がいいと言われてきたのも、彼女の網繕いに負うところが大きかった。それは網が破れるのを恐れることなく、岩場近くに網を入れることができたからだ。岩場には餌も多く、避難場所ともなるところから、魚の棲み家となり魚が多く集まってくる。それを狙って彼は網を投げ入れてきたのだ。が、彼女の眼が急に衰えて、こまかい網繕いは叶わなくなった。それからは、葉子と周平が手分けしてやるようになった。
「それが、ヨネ婆さんのところへ電話しても、来てないと言うんよ」
 葉子は網の片付けを手伝いながら、眼をこらして周平の顔を見つめた。
 夕暮れのこの時間は決まって、夏江は台所にいた。もう何もしてくれなくてよかったが、なにくれとなく台所仕事を手伝った。しかし、ガスの火をつけっ放して忘れ、鍋を焦がすことなどが時々あった。
「おかしいのう、本家にでもいっとりゃせんのか」
 周平は網を倉庫に押し込みながら、首をかしげた。山も海も、海辺の村もすっかり闇に呑み込まれてしまった。空には鋭く尖った月が、弱い光を放っていた。流れる雲がよぎって、その細い月は消えたり浮かんだりして明滅した。
 周平は茶の間に入り、湯呑みに冷酒をついでグイと飲んだ。冷酒が喉を熱くやき、胃に広がって身体がほてった。彼はコードを食卓まで延ばし、本家や知り合いの家に電話を掛けた。
「何処へ行ったんじゃろうかのう」
 周平は湯呑みを傾けて冷酒を舐めた。
 その後、何カ所か電話をしたが、夏江の消息はまったく分からなかった。すでに八時を回っており、いつもの食事の時間だった。二階から長男夫婦と、保育園に通う孫が下りてきた。
「婆ちゃんは?」
 長男の直樹が茶の間を覗いて、訊いた。
「それがわからんのじゃ。どこにもおらんのじゃ」
 周平はめんどくさそうに、やや突き放して答えた。
 ガスの火をカチッと切って、葉子が慌てて茶の間に駈け込んできた。
「あんた、あんたッ」
 菜箸を振りながら、葉子が甲高い声を挙げた。
「あんた、今日はお義父(とう)さんの月命日よ。だったら大変よ。海よ、海だわ」
 葉子は語尾を上げて、「海よ、海だわ」と叫んだ。
 確かに、今日は九月二十三日で、父の月命日であり、夏江が海へ行く日だった。彼女が七十五歳を過ぎてから、周平はことあるごとに、危ないから海へ行かないようにと、懇願したり叱責したりしてきた。烈しい言い争いになることも少なくなかった。が、彼女は主張を曲げることなく、かたくなに自身の想いをゆずらなかった。
 この村は瀬戸の海をふところに抱き込んだ入江の村である。東と西に牛の角のような岬が突き出しており、それが弓のような線を描いて入江となっている。入江に沿って、軒の低い家々がうずくまるように佇んでいた。周平は半信半疑の気持ちをいだいたまま、海岸まで駈けつけた。
 東と西の岬の灯はぼうっと霞んで滲んでいる。磯の香が立ちこめて周平を包み込んでくる。潮が海岸に打ち寄せて、波が砕ける音がざわめいていた。瀬戸の海に浮かぶ島々は、やがて眠りに就こうと息をひそめている。
 周平たちは防波堤の階段をくだって、踊り場に下り立った。周平と葉子、そして直樹の三人は、手分けをして懐中電灯を照らしながら、海岸線を捜した。長く延びた懐中電灯の光はせわしげに揺れて、海面や捨て石を照らし出した。海面はかすかな月の光を受けて、烈しく揺れていた。
「お義母さーん」
 葉子の声が高く響いた。
「お婆さーん」
 直樹の叫ぶような声がした。
 父の月命日には決まって、夏江はここへ来た。潮を汲みにやって来るのだった。終戦の翌年の祥月命日から始めて、今日まで欠かすことがなかった。墓参りをして潮を墓石に手向け、家の仏壇にも、湯呑み茶碗にたっぷりと潮をそそいで供えるのだ。
 父は太平洋戦争で命を落とした。輸送船でフィリピンのルソン島へ上陸目前に、米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて、沈没したのだった。
 父の骨だけでなく、何ひとつ父の遺品は還らなかった。役場の職員が「英霊 高野重雄」という札の入った、白木の箱と公報を届けにやって来ただけである。敗戦の年の春のことだった。その時は詳しいことは何ひとつ知らされなかった。ただ、南方の海で、輸送船が沈没したということだけが伝えられた。
 夏江はこの瀬戸の海と南方の海はつながっていて、父の骨を洗う潮が、この海辺の村にたどりつくと信じていた。だから、月命日のこの日もきっと彼女が、潮を汲みに海へやって来たに違いないと思われるのだった。
 周平は懐中電灯の光を沖に投げた。しかし、光は闇に呑まれて、遠くまで照らし出すことができなかった。直樹は防波堤へ上がり、その上を行きつ戻りつして、夏江の姿を捜している。葉子は、「お義母さーん、お義母さーんッ」と、悲痛な声を挙げていた。が、返事はなく、夏江の姿を捜し出すことはできなかった。

     (二)

 戦後四十年の区切りに、周平と夏江はフィリピンの慰霊の旅に参加して、ルソン島へ行った。父と同じ輸送船に乗っていた岡山の杉原辰治が、何くれとなく世話を焼いてくれた。周平が四十三、夏江が六十八の時で、今から十年前のことだった。
 父の乗っていた輸送船が撃沈されたという島の西岸、北サンフェルナンドの海は瑠璃色に輝いていた。眼の前に果てしなく広がるのは、南シナ海である。強い陽射しを受けてきらめいていた。はるか彼方の水平線は、空と海が溶け合って、ぼんやりと霞んでいる。紺碧の空には、綿菓子のような白い雲がふんわりと浮かんでいた。
 北サンフェルナンドの岸辺近くには、椰子の木が群生しており、時折り強く吹きつける風に大きな葉が揺れていた。ルソンの海はザ、ザーッと岸辺に打ちつけて、波は白く砕けている。夏江は眼をしっかり見開いて、沖合いを眺めていた。
「ほら、そこだよ、夏江さん。椰子の木がはっきりと見えていたんじゃ」
 辰治は岸辺からほど近い海を指差した。
「わしらはルソンの椰子の木を見つめ、台湾よりの長い船旅から開放されるのを喜んでいたんじゃ」
 椰子の木の方に視線を移して、辰治は言った。
「南方をめざす多くの日本の船が、米軍の潜水艦に沈められたという、魔のバシー海峡も渡ってきたからのう」
 辰治は遠くを見る眼差しをして、眼を細めた。
「辰治さん、父の乗った輸送船は、ほんにすぐそこじゃったんじゃなあ」
 周平は驚いたように辰治の顔を見た。
「そうじゃ。わしらはみんな上陸の準備をしょうたとこじゃったんじゃ。ほら、すぐそこじゃ」
 顎をしゃくって、辰治は眼の前の海を指し示した。
「わしらの乗せられた輸送船は、老朽化しておってのう。機関が故障を繰り返しながら、やっとの思いでここまで辿り着いたんじゃ」
 安堵するような口振りだった。
「わしはこのルソン島が、われわれの戦場となることを考えて、胸の高鳴りを抑えることができなんだのう」
 辰治の背後には、ルソン島の豊かな緑が広がっていた。
「ここへ着いたのは、昭和十九年、十二月二十三日の朝じゃったんじゃ。ところが突如、耳をつんざくような爆発音が三、四回起こってのう。足元を揺るがす強力な振動と爆風で、身体は宙に跳んだんじゃ。わしはやられた、米軍の潜水艦の魚雷攻撃じゃ、と直感した」
 辰治の視線の先には、ルソンの海がたゆたっていた。
「たちまち船は大きく右に傾いてのう。左の船腹が露呈したんじゃ。船の中はもう蜂の巣をつついたようなもんじゃったのう。わしはもう必死じゃった。着の身着のままで左舷を力いっぱい蹴って、海に跳びこんだんじゃ」
 辰治の表情は幾分こわばっていた。
「海面に浮かび上がって振り向くと、輸送船は船首を高(たこ)うしてのう。船体のおおかたは海に沈んどったんじゃ」
 沖合いを眺めて、辰治は言った。
 周平は辰治の話に肯(うなず)きながら、聞き漏らさないように耳をそばだてていた。彼は海を凝視していたが、瞳がぼんやり霞んでいた。夏江は沈黙したままで、唇を硬く嚙んで海をじっと睨んでいるだけだった。が、硬く握ったこぶしがかすかに震えていた。
 実は辰治からこの話を聞くのは、初めてではなかった。彼がフィリピンでの捕虜生活を終えて帰還したのは、終戦の翌年の初夏だった。そして、わが家を捜してやってきたのは、その年の晩秋だった。その折り、父の乗っていた輸送船の悲劇を聞いたのだった。夏江の潮汲みが始まったのは、その年の祥月命日からである。が、辰治の話はルソンの海の、波の砕ける音を耳にしながら聞くと、実に臨場感があり、真に迫ってくるのだった。
「周ちゃんのおとうは魚雷を受けたとき、その衝撃で遣られたんか、あるいは沈没する船もろとも海に呑み込まれたんかは、誰も分からんのじゃ」
 周平を見つめて、辰治は言った。
「わしは海岸に向かい、無我夢中で泳いだんじゃ。生きた心地はしなかったのう。珊瑚礁の海辺は、太陽がやけに照りつけていたのを憶えとる。わしがやっと泳ぎ着いたのは、あの辺じゃったのう」
 椰子の木が群生する方へ向かって、辰治は身体をひねった。
「われわれは傷ついた仲間を救いあげ、漂着した遺体を次から次に、引き揚げたんじゃ。輸送船には二百五十人乗り込んでいたんじゃけど、半数近くの人が亡くなってのう。遺体は所属部隊ごとに分別していったんじゃが、周ちゃんのおとうは分からず仕舞いじゃったのう」
 辰治は激することもなく、坦々と語っていた。
「太陽が沈むと、気温が急に下がってのう。生き残った者たちが、暗闇の海岸のあちこちで、焚き火をして暖をとったんじゃ。闇の中で赫い炎が点々と燃え上がっていたのう」
 辰治は振り返って、あたりを見回した。
「ルソン島上陸の第一夜は不気味でのう。喰うもんもなく、眠ることもできずに、夜を過ごしたんじゃ。周ちゃんのおとうは、おそらくその先の海底に、いまも眠っとんじゃろう。確かにそうじゃ、周ちゃん」
 手のひらを合わせて、辰治は深く頭を下げた。
「そうか、親父はこんな南方まで送り込まれて、命を落としたんか。わしとお袋を残して――」
 周平も辰治と同じように合掌をした。
 夏江は押し寄せる波打ち際に座って、手のひらを合わせ、いつ果てるともなく、般若心経を唱えていた。周平は花束をそっと瑠璃色の海に流した。やがて読経を終えた彼女は、小さな酒瓶を出して海にそそいだ。そして、彼女は小瓶にルソンの海の潮を掬いとり、再び合掌をして深く頭を下げた。
 北サンフェルナンドの、海との別れも近づいてきた。周平は南シナ海に視線を移し、どこまでもつづく海原を眺めて、亡き父の面影に想いを馳せていた。が、彼は父を知らなかった。産まれたときには、父はもう出征しており、抱いて貰ったこともないのだった。彼は写真の中の父を知っているだけである。
 ルソン島を目前にして、父は逝ってしまったのである。この遥か南方まで遣ってきて、どんなに無念だったことだろうか。彼方の水平線はわずかに弧を描いて、紺碧の空と瑠璃色の海が溶け合っている。遠い世界の果てに眠る父を想うと、周平の心は決して穏やかではいられなかった。
 夏江は終始無言だった。涙さえ洩らすことはなかった。言葉も涙も封印して、それを嚙み殺しているようだった。おそらく彼女の内側では、言葉や涙では表せられない何かが支配していたに違いない。最後に彼女は岸辺にしゃがんで、両手で潮を掬い口にふくんだ。そして、輸送船が沈んだ海をいつまでも睨んでいた。
 次に辰治が案内したのは、バレテ峠である。バレテ峠には「戦没者追悼之碑」が建っていた。峠から見渡す山々はぼうっと霧に霞んでいる。雲も低く垂れ込めていた。標高七百メートル以上あり、米軍との熾烈な戦いが繰り広げられたところである。周平は碑の前に佇んで、周りの山々を眺めていた。
「岡山の歩兵第十連隊が配置されたのは、このバレテ峠じゃったんじゃ。ここは米軍の北上を食い止めるために、死守すべき要衝でのう。持久戦を有利にすべく、この峠に陣地を築いたんじゃ」
 辰治は千メートルを超える山々を見渡した。
「じゃがのう、この険しい山脈(やまなみ)も、身を守る盾にゃならなかったんじゃ。制空権を握っている米軍は、われわれの塹壕をよく把握していて、正確に爆撃してきてのう。われわれは塹壕の中で、空と地上からの烈しい攻撃に耐えるしかなかったんじゃ」
 周平の顔を覗き込んで、辰治は言った。
「ルソン島の戦いは、米軍の日本本土への進攻を遅らせるためじゃいうてのう。兵士たちの命を盾にして行われた、持久戦じゃったんじゃ。じゃが、日本軍は武器、弾薬が欠乏してしもうてのう」
 辰治はそこで言葉をつまらせて、深い嘆息をした。彼の眼は虚ろで宙を泳いでいた。
「周ちゃん、われわれにどんな命令が下ったと思やあ。それはひどいもんじゃったのう。兵士たちに命じられたのは、斬り込みじゃったんじゃ。それは手榴弾や爆薬を抱えて、敵に突っ込む決死の攻撃なんじゃ。陸の特攻隊みたいなもんじゃのう」
 何か思い出したようで、辰治の顔は青ざめていた。
「そして、ついにわしに命令が下った。『おい、明日、兎狩りだ』と言うんじゃ。斬り込みのことを兎狩りと呼び、兵士たちの恐怖心を紛らわせようというんじゃ。じゃが、いくら兎狩りといったところで、足はすくんで震えていたのう」
 辰治は唇を結んで、眉間に皺を寄せた。
「……」
 辰治は言葉を失って、しばらくぼうっとしていた。
「その夜、兵士十名と敵のいる陣地に斬り込みをしたんじゃ。稜線の草原を匍匐前進してのう、そこを越えたんじゃ。息を殺して匍匐をつづけ、敵陣地に接近してのう」
 辰治はふうっと、深い溜め息をついた。
「そこで突入命令が出て、一斉に斬り込みを決行したんじゃ。じゃが、敵に気づかれて、猛烈な反撃を受けてのう。わしは左足に銃弾を受けて、倒れてしもうたんじゃ。それで昏睡状態になってしもうてのう」
 ズボンをたくしあげて、辰治は左足の傷痕を見せた。
 辰治のふらはぎの皮膚は醜くちぢれていた。このときの銃弾が、いままで彼の足を不自由にしてきたのを、周平は不憫に思った。彼は歩くとき、左足を引き摺るようにして歩くのだった。
「じゃが、わしは運がよかったんじゃのう。それはもう奇蹟というよりほかにないのう。仲間の兵士が野戦病院まで運んでくれたんじゃ。この斬り込みで、七人の兵士が亡くなってのう。無惨なもんじゃった」
 鼓動が高まるのだろうか、辰治は肩で息をしていた。
 しばらく辰治は息を鎮めていたが、やがて「戦没者追悼之碑」の前にひざまずいて、手のひらを合わせ深く頭を下げた。周平も夏江もそのあとにつづいて、合掌をした。
 改めて周平はバレテ峠を見渡した。霧は前よりもさらに深くなり、険しい山々は白っぽく濁っていた。バレテ峠の戦いで敗れた兵士たちは、敗走を余儀なくされ、ルソン島の密林を彷徨(さまよ)うことになった。
 辰治の語るところによると、兵士たちは食料もなく、草や蛙、蛇まで捕らえて食べることを強いられた。彼らは飢餓と病気のために、次々に倒れていったということだ。岡山歩兵第十連隊は三千名だったが、そのほとんどが命を落として、郷里岡山の土を踏んだのはわずかであった。たとえ、周平の父が輸送船の撃沈に遭わなかったとしても、生きて周平と夏江のもとに還れたかどうかは分からない。
 周平は辰治の話を聞いて、息苦しくなった。彼は水筒を出しコップがわりの蓋に水をそそいで、喉をうるおした。彼ら一行は、霧でけぶるバレテ峠をあとにした。そして、「歩兵第十連隊比島戦没者追悼之碑」やプンカンにある慰霊碑に祈りを捧げ、戦後四十年の慰霊の旅を終えたのだった。

     (三)

 周平は懐中電灯の光を放ちながら、海岸線を行きつ戻りつして、夏江の影を追い求めた。が、彼女の姿はいっこうに捜し出すことができなかった。闇の中で、三つの光だけが怪しげに揺れていた。
「あんた、お義母さんは、どうしたんじゃろうか。見つからんねえ」
 周平の顔に、葉子は懐中電灯の光を当てた。
「うーん、そうじゃのう」
 腕で光をさえぎるようにして、周平は言った。
「……」
 周平は沈黙して、しばらくぼんやりとしていた。
「よーし、ちょっと待っとけ」
 周平は、いきなり甲高い声を挙げて、そこを立ち去ろうとした。
「あんた、どうしたの」
 葉子は訝しげな声で訊いた。
「ちょっと考えがあるんじゃ。わしは漁業組合に行ってくるけん、ここで待っとけ」
 周平は振り向いて、ちらっと葉子の顔を見た。
「あんた、わたしも行くわ。待ってッ」
 葉子は慌てて周平のあとを追ってきた。
 周平は防波堤の階段をのぼり、漁業組合の事務所に駈け込んだ。事務所では四人の男たちが奥の座敷でコップ酒を飲みながら、将棋盤を囲んでいた。朝の早い男たちは通常なら、この刻にはもう寝床に入って、夢でもみている頃である。が、台風が北上しつつある状況なので、明日は漁が休みなのだった。二人は胡座を組んで、差し向かいで将棋を指している。あとの二人は寝転んで、濁った赫い眼をして将棋盤を睨んでいた。
「大変じゃ、うちのお袋がおらんのじゃ」
 周平は息を大きく弾ませていた。
「おそらく、潮を汲みにやってきて、足を滑らしたんじゃねえかと思うんじゃ」
 上がり框にへたり込んで、周平はみんなの顔を見回した。
「そうか、そりゃえらいことじゃ。よし、組合長に連絡をとって船を出そう。いま、引き潮じゃけんのう。台風が近づいとるし、海はだんだん荒(あろ)うなる」
 二人は持ち駒を将棋盤の上に投げ出して、立ち上がった。
 港はにわかに慌しくなった。けたたましいエンジン音と、サーチライトが闇を切り裂いた。周平は苛立ちながら、もやい綱をほどいて、船を出す準備にかかった。台風は沖縄近辺にあって、北上してくる気配を見せていた。瀬戸内の海も時折り強く風が舞い、波がうねっている。三隻の船はその波にもまれながら、夏江の姿を追って岸をあとにした。
 周平の船には葉子と直樹が乗り、二人は舳先から身を乗り出して、海面を睨んでいた。周平は舵を握り、ゆっくりと海岸線をたどった。船は海面を裂きながら進んだ。波が白く砕け、サーチライトに照射された海面は、万華鏡のようにきらめいた。
 決して海では死ぬな――、周平は舵を巧みにあやつりながら、呟いていた。父も遥か南方の海に沈み、遺骨さえ還っていないのだ。父の遺骨はいまも南方の海底で、潮に洗われているに違いない。いや、もはや遺骨は小さく砕けて、海の藻屑と化しているかも知れないのだ。
 夏江は、その父の遺骨を洗ってたどり着いた潮を汲みに、この海岸にやって来たのだろう。終戦の翌年の祥月命日から、月命日ごとに欠かさずここへ来ていた。防波堤の階段の側壁につかまりながら、足を踏み外さないように、一段、一段慎重に階段を下りてゆくのだった。
 そして、海苔の付着した捨て石の上を渡り、海面に近いところまで踏み出してゆくのだ。そこで手のひらを合わせ、南方の海に向かって呪文を唱える。それが終わるとおもむろに、縄をくくりつけたバケツを、海に放り投げるのだ。バケツはくるっと回転して海面に浮かぶ。夏江は縄をあやつってバケツを沈め、それを引き揚げるのである。
 海から上がると、夏江はまず父の墓へと足を運んだ。墓は山の中腹にあり、つづら折りの山道を、腰を折って登らなければならなかった。墓地の南には瀬戸の海が大きく開けていた。視界をさえぎるものがなく、墓地に立つと四国山脈の稜線を見渡すことができた。大小さまざまな島が、くっきりと浮かんでいるのも眺められた。瀬戸の海を貨物船や漁船が、白い尾を曳いて往き交っている。
 夏江は眼を細めて海を眺めるのだった。――南方につながる海だ。この海の果てには、夫の眠る、瑠璃色のルソンの海がきらめいているのだ。
 夏江は一心に墓地の草取りをして、墓石をなでるように水洗いする。墓石の内には父の骨はむろんなく、眼鏡や万年筆などの遺品が納められているだけだった。彼女は墓石の周りに塩をまき聖地を清めて、先ほど汲んできたばかりの潮を、コップになみなみと注いで手向ける。最後に墓石の前にひざまずいて、長い長い呪文を唱えるのだった。
 墓参りを終えると、夏江は細くて急坂な道を、雑草に足をとられながら降りてくるのだった。家に帰って仏壇に果物や饅頭を供え、潮を湯呑みにそそいで捧げるのである。仏壇の前では般若心経を、いつ果てるともなく読経した。それが夏江の、父の月命日の日課だった。
 父だけでなく、母までも海に呑まれてはならない――、周平の心臓は早鐘のように鳴っていた。舵を握る手は震えている。額には汗が吹き出し、頬を伝って流れ落ちた。周平の船は海岸線を幾度か旋回したが、夏江の姿を見つけることは出来なかった。仲間の二隻の船も、沖合いをゆっくりと旋回して、夏江の影を追っていた。
 疾く流れゆく黒い雲の切れ間に、細い月が不気味に光っていた。周平は空を睨みつけながら、迂闊だった――、と呟いた。葉子の海よ、海だわ、という言葉に、なんの疑問もなく海にやってきたが、あの墓地のある山かも知れないと思った。
 周平はいったん陸(おか)に上がり、地区の消防団長のところへ駈け込んだ。消防団には、山を捜索して貰うことにした。あの細いつづら折りの山道から、崖下に転がり落ちていないとは言えなかったからだ。
 村の半鐘が打ち鳴らされた。火事のときのそれとは違った、異変を報せる半鐘の音(ね)が高く、低く響いた。すっかり闇に溶けた山々にぶつかって、半鐘の音はこだました。
 ふたたび周平は船にもどり、もやい綱をほどいた。二隻の船は煌々とサーチライトを照らして、捜索の輪を広げている。周平は沖に出て汽笛を鳴らし、仲間の船を呼んだ。
「山かも知れんので、そっちは消防団に頼んできた。海の方はこれだけ捜してもおらんのじゃけえ、網を曳いたらどうじゃろうかのう」
 周平は仲間の船に飛び移って、一人ひとりに声をかけた。
 皆、いちように疲れの色を濃くしていたが、――それしか手がねえのう、と同意してくれた。周平は一升瓶の口をあけ、葉子にコップを配らせて、酒を注いで回った。
 この漁村の村では、死人が網に掛かることを決して恐れず、怖がらなかった。まれに死人が上がったが、むしろ縁起のよいこととして受けとめられていた。吉凶の前兆だとすれば、むしろ吉兆を占うものとして信じられていた。それは、板子一枚下は地獄という船乗りの、人の命の尊さと重みを知る者たちに、自然に身に染みついたことだったのだ。
 三隻の船は放射状に広がって、網を海に投げ入れた。周平は底引き網を降ろして、エンジンをふかした。船は一瞬大きく身震いして、しだいに小刻みに震えだし、暗い海を波立たせた。船は台風によってざわめく海面を切り裂いて進んだ。
 周平は暗然として声を失い、哀しみを抑えて舵を握っていた。もし夏江が海に沈んでいるとしたら、それはもう絶望的であった。しかし彼は、――決して海では命を落とすな、と心の中で叫んでいた。葉子と直樹は舳先から艫(とも)に移り、長く延びた網の先をじっと眼を凝らして見ている。スクリューが、波を白く泡立たせながら、ゆっくりゆっくりと進んだ。

     (四)

 終戦になって、夏江は生活を成り立たせ、周平を育てるために、魚市場に勤めるようになった。周平は一途な彼女の働く姿が、瞼に焼き付いている。
 夏江は朝、周平がまだ睡眠をむさぼっている暗いうちから、魚市場へ出掛けた。夜は、彼が床に入って眠りに就くまで、内職に余念がなかった。だから、彼は夏江がいつ眠るのか、それが不思議でならなかった。
 と同時に、貧しい暮らしぶりが、周平の脳裡に甦ってくるのだった。小学校六年生の折り、京都への修学旅行があったが、彼の願いが叶うということはなかった。
 周平はまだ汽車に乗ったことがなかった。海辺の周平の村から山ひとつ越えたところに、東から西へ、西から東へと線路は延びていた。
 彼はこの村の、最も高い竜王山という山によく登った。その頂上に立つと、東西南北さえぎるものがなく、周辺の村々をはっきりと見渡すことができた。瀬戸の海の果てにある四国山脈も、威容を誇って悠然と聳えているのが見える。
 竜王山からは、北の村をつらぬく線路が見渡せた。線路は蛇のように長く延び、銀色に光っていた。時々、灰色の煙を吐き出しながら、玩具のような汽車が田圃の中を東へ、西へと往き交った。周平はめざとく汽車を見つけると、赤松の木に登り、胸をわくわくさせながら、視界から消えるまで見送った。
 周平はその汽車に、何かを託していたように思う。閉鎖的な海辺の村のその先にあるもの、――そう、未知の世界に憧れていたのだった。京都の修学旅行は、未知の世界に触れるまたとない機会だった。彼の心はときめき、夢を大きく広げるものだった。
 しかし、周平は旅行の費用を集金日までに、担任の先生に渡すことが出来なかった。夏江に何度催促しても用立ててくれなかったし、用立てられもしなかった。
「なんで、わしだけ旅行にいけんのじゃ。西地区の和彦や康男や忠志や、みんな行くというのに、なんでなんじゃ」
 明日京都行きだという晩、周平は烈しく夏江を責めた。
「周平、ようく考えてみい。うちにゃ父ちゃんがおらんのぞ。おまえが辛いいうのは、母ちゃんもよう分かる。じゃがのう、我慢せにゃいけん時もあるんじゃ」
 夏江は内職のバンコック帽子を織りながら言った。
「我慢せえいうて、ぼかあ今までえっと我慢してきたろうが。めしは芋が沢山入ったお粥や麦飯ばかりじゃ。それに、夏は行水を浴びればいいけど、冬にゃ何日も風呂屋にいかして貰えんじゃろう。それに旅行にいかんいうて、ぼかあ仲間はずれにされとんじゃ。なんで貧乏な家にわしを生んだんじゃ。運命じゃいうても我慢できん」
 周平は口を尖らして言った。
「おまえは、分からん子じゃのう。人間、歯を喰いしばって堪えにゃいけん時というのがあるんじゃ。もうええ、分からん子は勝手にすりゃええ。もう黙って寝ろッ――」
 夏江は傍にあったハサミを勢いよく投げた。
 ハサミは畳に突き刺さって、小刻みに揺れていた。夏江は唇を硬く嚙んで、身体を震わせている。周平は蒲団にもぐって号泣した。しばらくして、彼は眠りに落ちていった。
 周平が中学校に上がったばかりの時だった。彼は雨が降ると学校を休んだ。というより、休まざるを得なかったのである。
 周平は夜明け前のまどろみの中で、かすかな音を聴いたように思った。それは遥かに遠いようにも、すぐ耳元でする音のようにも感じられた。夢なのかも知れない、心もとないものだった。彼はその音を振り払うように寝返りをうち、ふたたび夢の世界へといざなわれていった。
 その音は遠くの方からひたひたと近づいてきた。周平は浅い眠りの中で、今度ははっきりとその音を捉えることができた。下屋のトタン屋根を打つ雨の音だった。
 周平は蒲団を蹴って上体を起こし、その雨音を確かめながら、身体が硬く凍ってゆくのを感じた。彼には雨具がなかったのだ。雨具、つまり雨傘と長靴である。中学校は彼の家から約一キロ先にあった。
 蒲団から抜け出て、周平は立て付けの悪い雨戸を開け、空を仰いだ。灰色の空が低く垂れ込め、銀色の雨が糸を引いていた。トタン屋根を叩く雨音は高く響き、彼の心を憂鬱にさせるばかりだった。
 周平は夏江を恨んだ。が、彼女は暗いうちから魚市場に出ており、家にはいなかった。蒲団にもぐり込んで、悲しみを押し殺そうとしたが、嗚咽が洩れてどうしようもなかった。抑えようとしても抑えがたく、その口惜しさは彼の胸を突き上げてくるのだった。彼は父の不在も呪わずにはいられなかった。不幸の一切を、父がもたらしているように思えるのだった。
 家の前の村道は通学路になっていた。そこから子どもたちの賑やかな声が、周平の耳に突き刺さるように響いてくる。雨戸を少しだけ開けて、外の様子をうかがった。小学生や中学生たちは、雨傘をくるくる回しながら、泥んこの道をゆくのだった。長靴で水溜りの中に入り、水とたわむれ、雨とたわむれていた。
 子どもたちが明るく弾んだ声で、はしゃぐたびに周平の心は塞がれていった。顔がさっと曇ってゆくのを感じないわけにはいかなかった。この雨戸の内と外は、たった一枚の板で仕切られているだけだったが、暗くて深い溝のような隔たりがあった。光と闇のような異質な世界がそこにはあったのだ。
 学校に行けないこの貧しさと惨めさ、そして劣等感が周平をさいなまずにはおかなかった。彼は夏江と、そして遠い父を恨み憎まずにはおれなかった。夏江と父がこの薄暗い雨戸の内側に、彼を閉じ込めているように思えてならなかった。
 中学三年生の三学期を迎えて、まだ日が浅い頃である。各家々に電灯が点されるようになった夕暮れであった。担任の先生が周平の家を訪ねてきた。雪の舞う、震えるような寒い日だった。
 昼の休憩時間に周平は職員室に呼ばれた。
「周平、今日夕方、君の家を訪問しようと思っているので、お母さんによろしく伝えといてくれ」
 先生は煙草の煙を吐き出しながら言った。
 周平は訝しがって、きょとんとしていた。なんだろう、何があったのだろう、と彼の内をさまざまな想いがよぎっていった。彼は立ち竦んで、言葉も出てこなかった。身体を硬くして先生の前にじっと立っていた。
「周平、なんでそんなに硬(かと)うなっとんじゃ。なんも悪い話じゃないけん、そんなに心配するな」
 先生は黄色い歯を覗かせて笑った。
「よし周平、もう教室へ帰れ。お母さんによろしく言っといてくれ。相談したいことがあるんじゃ。お前は何も心配せんでいい」
 先生は煙草を灰皿に押し付けながら、微笑を浮かべていた。
 魚市場から帰った夏江に言うと、彼女は驚いた様子だった。
「そりゃ大変じゃ。周平、学校で何かあったんか。先生が家にやってくるというのは、尋常じゃねえ」
 夏江は周平を見つめて言った。
「なんもありゃせんよ。ぼかあ、なにも悪(わり)いことはしとらんよ。悪い話じゃねえと、先生も言うとったよ。お母さんになんか相談したいことがあるらしんじゃ」
 周平は夏江を睨み返すように、瞳に力を込めた。
 夏江は白いエプロンを腰に巻いて、慌てて掃除を始めた。雑然とした部屋を片付けたり、箪笥やテーブルの上の小物類を奥の部屋に持ち出したりした。勢いよく箒でゴミを掃き出し、箪笥やテーブルを慌しく拭いていった。
 周平は七輪の火を熾し、湯を沸かす準備をするように、夏江に言われた。彼は紙切れに火を点け、山で掻き集めてきた木の枝を小さく折って燃やした。枝が燃え上がると、木炭をその上に載せて、団扇であおぐのだった。
「こんばんは。遅くなって誠にすみません」
 先生は引き戸をちょっと開いて、玄関の前に立っていた。
 夏江は慌てて玄関に出ていって、腰を深く折り先生を迎えた。
「まあ、先生、こんな時間にわざわざ来ていただいて、申し訳ありません。さあ、先生、むさくるしい所ですが、お上がり下さい」
 夏江はずいぶん恐縮している様子で、幾度も頭を下げていた。
「さあ、どうぞ、これを当てて下さい。先生、雪が降る中をお越しいただいて、まことに恐れ入ります」
 夏江は床の間のある座敷に先生を案内し、座蒲団を差し出した。
「いやあ、お母さん、突然なことでまことに済みません。ちょっとご相談したいことがありますので、お邪魔させていただきました」
 先生は夏江に丁寧に挨拶をして、座蒲団に座った。
「先生、お茶の用意をして参りますので、ちょっと失礼します」
 そそくさと座敷を出て、夏江は台所へ入って行った。
「周平、あれは誰の写真じゃ。軍服をきちっと着て写っとるが、お父さんか」
 北側の壁の上を見上げて、先生は言った。
 鴨居の上の壁には三枚の写真が額に収められていた。馬にまたがって颯爽と写っているのや、十人くらいの兵士たちと一緒に写っているのがあった。そしてもう一枚は、椅子に座って口を真一文字に結び、こちらを睨んでいるような軍服姿の写真である。それらの写真は、いずれも茶褐色に変色していた。
「ええ、父の写真だそうです。ぼくは父の顔を見たことがないので、よく分からないんです」
 周平は壁の方へ振り向いて言った。
 そのうち、夏江が湯呑みを盆に載せて、座敷に入ってきた。
「先生、何もございませんが、召し上がって下さい」
 座卓の前で膝を折って、夏江は湯呑みを差し出した。
「やあ、これは誠に恐縮です。お母さん、お気を遣わないようにして下さい。ちょっと、周平くんの進学のことで、伺っただけですから――」
 先生は夏江の顔を覗き込んで、頭を下げた。
 周平は自分の進学のことだと聞いて、奥の部屋に引っ込んだ。このことはもう彼の内では、決着のついている問題だった。冬休みに結論を出して、三学期の始業式に進路希望書の提出を済ませていた。
 周平は高校への進学を希望していた。が、夏江は決して首を縦に振らなかった。
「周平、母さんも行かして遣りたい気持ちでいっぱいなんじゃ。お前は勉強が好きだし、父さんみたいに銀行員か公務員になれればいいなあ、と思ってきたんじゃ。じゃがのう、色々思案してみたが、どうしても遣り繰りがつかんのじゃ」
 夏江は卓袱台の前に座って、しんみりと言った。
「ぼかあ、いやじゃ。どうしても高校へ行きたいんじゃ。もっともっと勉強をしたいんじゃ」
 食べかけている芋粥の箸を置いて、周平は言った。
「周平、無理をいうたらおえん。母さんだけの収入ではとても高校へ行かしてやれんのじゃ。授業料や学用品の費用を工面できんのじゃ」
 夏江は卓袱台に身を乗り出して言った。
「ぼかあ、父さんと同じ銀行員になりたい思よんじゃ。背広を着て、ネクタイをきちっと結んだ銀行員に憧れとんじゃ。父さんもきっと応援してくれるに違いない。だから、上の学校に行きたいんじゃ」
 父の写真を見上げて、周平は眼を細めた。
「周平、それは反対じゃろう。自分のことばかり言い張って、母さんを困らせとるのを見たら、父さんはきっと哀しむに違やあせん。周平、中学を出たら、伯父さんの船に乗せて貰うように、もうお願いしとんじゃ」
 夏江は持っていた箸を前に置いて、背すじを伸ばした。
「ぼかあ、漁師になるつもりはないんじゃ。漁師は昼でも酒を飲んだり喧嘩をしたり、ぼかあ、あんな荒くれになりとうはないんじゃ」
 周平は芋粥を乱暴に啜りながら言った。
「周平、そんな漁師も中にはおるかも知れん。じゃが、真面目にこつこつやっとる人もおるじゃろう。うちの裏の芳夫さんや海べりの啓伍さんなんかもそうじゃ。周平、伯父さんについてええ漁師になってくれえ、頼むから――」
 夏江は膝の上で、両こぶしを握っていた。
「ぼかあ、厭じゃ。漁師なんかにゃなりとうはねえ。高校へ行って勉強したいんじゃ。勉強したい、いう子がいるのに、それをなんとかするのが親というもんじゃろう。甲斐性なしの親じゃ」
 周平は夏江を睨んで、頬をふくらました。
 しばらく夏江は沈黙していたが、いきなり両のこぶしで、卓袱台を鋭く叩きつけた。卓袱台の皿や茶碗が音を立てて転んだり、落ちたりした。
「もう、勝手にせえ」
 夏江はこぶしを幾度も卓袱台に打ちつけて叫んだ。
「もう、聞き分けの悪い子じゃのう。うちにはどうしようもないんじゃ」
 夏江はうつむいて、必死に涙をこらえているふうだった。
 周平は殺気だった夏江の前にいることができなくなった。何かの拍子に茶碗や皿が飛んでくるような気配を感じて、彼は卓袱台を離れ、家を飛び出した。家を出て海岸まで懸命に駈けて行った。
 堤防の傍に立つと、ザ、ザーッという波の砕ける音がした。海苔と潮の匂いが周平の身体を優しく包み込んできた。振り向くと、瞳が濡れて家々の灯りがぼんやりと霞んで見えた。彼はしばらくそこに立ち尽くしていた。
 周平は襖を少し曳いて、座敷を覗いてみると、先生は腕を組んで首をかしげていた。夏江はハンカチをぎゅっと握ってうつむいている。もう先生と夏江の話は終わったようだった。沈黙がふたりを包み込んで、座敷はひっそりと静まり返っていた。
「周平、先生が帰られますよ。こちらに出てきなさい」
 夏江が振り向いて言った。
 周平は重い気持ちを引き摺って、うつむき加減に座敷へ出て行った。
「周平、進学しなくても最後まで投げちゃいかんぞ。もう少しで卒業だから、いままで通りに頑張るんだぞ、いいな」
 先生は周平の肩を二、三度軽く叩いて玄関に出て行った。
 玄関の引き戸を曳くと、肌を刺すような風が吹きつけてきた。玄関の弱い光に照らされて、風花が舞っているのが見えた。先生はちらほらと降る雪の中に出てゆき、闇の中に消えて行った。

     (五)

 重い網を曳いている船は、低く鈍いエンジン音をさせて、身体を震わせていた。周平は右手で舵を強く握り、振り向いて山の中腹を見上げた。
 闇に溶けた山の中で、かすかな光が蛍火のように揺れていた。墓地周辺からそれに続くつづら折りの道に、光が点々と連なっている。村の消防団の人々が懸命に捜索をしている様子だった。犬の遠吠えが山にこだまし、それに連鎖して吠える、犬の甲高い鳴き声が響いていた。
 夏江はいったい何処にいるというのだろうか。海なのか、山なのか、彼女はまだ見つからなかった。死ぬな、父の月命日に死ぬな――、周平は網を曳きながら、呪文のように呟いていた。
 不意に一隻の船が鋭く汽笛を鳴らして、サーチライトを点滅させた。
「母だ、――」
 胸を突き上げてくるものがある。が、言葉にはならなかった。
「おい、網を上げろ」
 艫にいる葉子と直樹に向かって、周平は叫んだ。
 鋭く細い月は、流れる暗雲に呑みこまれて、空は漆黒の闇だった。三隻の漁船のサーチライトだけが、闇を切り裂いて煌々と光を放っている。周平は仲間の船にぶつかるような勢いで近づき、もやい綱を投げた。他の船も一隻の船を包み込むようにぴたりと横につけた。波の揺れに擦れ合う船は、ギイ、ギイーと悲鳴を上げていた。
 周平たちは仲間の船に乗り込んで、艫へ駈け寄った。夏江は底引き網の中で、まるで子宮の内の胎児のように、身体をくの字に折っていた。
「お、おかぁー」
 周平はひとつ叫んで、網をほどいた。
 夏江は腹をふくらませ、蒼白な顔をしていた。首を横にねじって、手足をだらんと伸ばしている。しかし、鈍く光を放つ濁った眼は睨みつけているようだった。周平はその眼を見て一瞬立ち竦んでしまった。
「お、おかぁー」
 周平は甲高い声を挙げ、腹部に両手を押し当てて、強く押した。
 夏江は口をわずかに開き、水を吐き出し、泡を吹いていた。周平は彼女の胸に耳を押しつけ、手の脈をとった。が、もう心臓の鼓動もなく、脈も打っていなかった。みんなは夏江を取り囲んで、覗き込んでいた。
「もう、駄目じゃ、――」
 周平はへたり込んで、放心したようにみんなの顔を見回した。
「お義母さーん、眠っちゃあおえんよ。起きてッ」
 葉子は夏江の肩を抱いて、揺さぶりつづけていた。
 ――夏江が死んだ。父と同じ海で死んだ。父の骨を洗った潮を大量に飲んで、夏江は死んだ。父が戦死して五十一年が経っていた。爾来、彼女は父の月命日に、ほとんど欠かすことなく、この海に潮を汲みに来たのだった。
 ――無念だった。
 周平は力が抜けて、しばらく立ち上がることができなかった。両手を組んで合掌をし、一心に念仏を唱えていた。
「周、周ちゃん」
 漁師仲間が声を掛けたが、周平は念仏をやめなかった。
「周ちゃんッ。このままじゃ、夏江さんも冷たかろう。早う、温(ぬき)い蒲団に寝かしてやろうやあ」
 仲間が周平の肩を抱いて、言った。
 周平はようやく肯いて、よろよろと立ち上がった。
 半鐘が打ち鳴らされ、夏江が発見されたことが知らされた。犬の遠吠えが、闇の中でこだまとなって反響した。恐れおののくように、犬は吠えつづけた。雲が裂けて、鋭く細い月が光を放っていた。消防団の人たちが山から降りてきた。
 夏江を家に連れて帰ると、村の医者がやってきて、聴診器を当てたり脈をとったりした。最後に眼を開いてペンライトを点し、瞳孔に光を当てた。
「ご臨終です。九月二十三日、十時四十七分です。ご愁傷さまです。死亡診断書は書いておきますので、病院まで取りに来て下さい」
 医者は合掌をして、聴診器やペンライトを鞄の中に仕舞った。
 漁師仲間や消防団の人たちが次々弔問にやって来た。近所や親戚の人たちも入れ替り立ち替わり来訪して、悔やみを言って帰った。周平はその対応に追われていた。ひとしきり来訪がつづいたあと、周平と葉子は、夏江の眠る座敷に入った。
 葉子や親戚の人たちの手で、浴衣に着替えた夏江は、蒲団の上で眠っていた。彼女の首には緋色の御守りが巻かれ、吊り下げられたままだった。御守りを彼女の首からはずし、取り上げようとしたとき、ぽとりと小さな音を立てて、何かが畳の上に落ちた。周平は「あっ」と声を挙げ、葉子がそれを拾い上げた。
「あんた、これは何かしら」
 葉子は怪訝そうに眼を細めて言った。
 周平は葉子から受け取って、しげしげと眺めていた。
「うーん、こりゃネクタイピンじゃ」
 周平は手のひらに載せて、裏返したりつまんだりしていた。
 ネクタイピンは真鍮製で、緑色に錆びており、永い歳月を感じさせるものであった。
「あんた、お義母さんはどうしてこれを、――。何か意味があるのかしら」
 葉子はネクタイピンを手にとって、首をかしげていた。
「そりゃ、たぶん親父のネクタイピンじゃろう。親父の形見じゃ。出征するまで、親父は銀行員じゃったいうからのう。いつも背広を着て、ネクタイを締めとったんじゃろう。そのネクタイピンじゃ。それを大切に、御守りの中にひそませていたんじゃろう。お袋の想いがこもったネクタイピンじゃ」
 葉子の手のひらのネクタイピンを、周平は凝視していた。
 周平の心の奥深いところから込み上げるものがあった。それを抑えようと、彼は身じろぎもしなかった。が、込み上げてくるものを抑えることはできなかった。ネクタイピンは、涙でぼうっと霞んでいた。
「葉子、骨壷の中に、このネクタイピンと御守りを入れてやろう」
 周平は葉子の手からネクタイピンを取って、御守りの中にそうっと収めた。緋色の御守りは光彩を放っていた。夏江が新年を迎えるたびに、村の神社で求めてくる御守りだった。
 御守りを夏江の枕元に丁寧に置くと、周平は一升瓶を蒲団の横に据えて、コップになみなみと酒を注いだ。なんの因果か知らないが、父の月命日に死ぬなんて――、と呟きながら、彼はコップ酒をごくりと飲んだ。線香は朱く先を染め、紫を帯びた煙が絶え間なく湧き出ている。線香の匂いが彼を包み、いくらか心を落ち着かせた。
 周平は夏江の顔から白布を取り、綿棒を使って唇を湿らせてやった。大量に海水を飲んだというのに、彼女の唇は乾き色艶は消え失せていた。
「あんた、横になったらどう、疲れを出しますよ」
 いきなり葉子の声が降ってきた。
「わしは、ええ。お前こそ、ひと眠りしたらどうじゃ。これからなにやかやと、ぎょうさんすることがあるけえのう。通夜と葬儀を無事にやろうと思やあ、しんどいけんのう。休めるときに休んどけ、――」
 周平は振り向いて、葉子の顔をちらっと見た。
 周平は今夜、眠ることなど考えてはいなかった。夏江はもう口を開くことはない。が、彼は酒を舐めながら、夜明けまで彼女と語り尽くすつもりだったのだ。
「それじゃ、わたしは少し横にならして貰うから、何かあったら呼んでちょうだいね」
 葉子は線香に火を点け、鉦をふたつ打って奥の部屋に消えた。
 周平はコップの酒を舐めながら、夏江の顔を覗き込んだ。決しておだやかで、安らかな眠りとはいえなかった。唇を歪め眉間に皺を刻み、血の気は失せて青ざめていた。もし眼を開ければ、何かに向かって睨みつけるような、そんな気配が漂っていた。
 なぜ夏江は安らかな眠りにつけないのか――、鬼気迫るような情景で、周平は一瞬たじろぎ怖いと思った。彼は身じろぎをして、コップ酒を勢いよく飲んだ。飲まずにはいられなかった。夜を徹して、彼女の口説きを聞かなければならないような気がした。そうでなければ、決して彼女の心は鎮まることがないに違いないのだ。
 周平は線香を絶やすことなく、火を継いでいった。彼は夜明けまで線香の火を守るつもりでいた。線香の煙は天井の辺りをたなびいている。彼は物言わぬ夏江の声に耳を傾けるのだった。

     (六)

 葬儀の日は、夜明け前から断続的に雨が降っていた。強い雨が急にやんだり、不意に降り出したりしている。風も突然強く吹き抜けていったり、穏やかに静まったりと、不安定な空模様である。それは台風が近づいているからであった。台風は四国沖にあって、北東に向かい紀伊半島を目指している、という予報がなされていた。
 周平は様子を見に海岸まで出かけた。いったん雨はやんでいたが、低く垂れこめた濃い鉛色の雲が、東から南西の方角に跳ぶように流れている。夏江を呑み込んだ灰色の海は、三角波が立ち泡立っていた。押しよせる波は、防波堤にぶつかって白く砕けている。風にあおられ電線や樹木は、悲鳴を上げるように唸っていた。
 葬儀は十時からである。親戚の者や近所の人たちは、もう集まって準備に余念がなかった。台所では隣組の人々が買出しに走ったり、食事の準備をしたりしている。白い割烹着を身につけた人たちが、あわただしく立ち働いていた。
 二間(ふたま)続きの六畳の襖は取り払われ、鯨幕が張り巡らされていた。部屋の正面に祭壇がしつらえられて、両脇には花々が添えられている。夏江は柩に納められ静かに眠っていた。葉子が死化粧をほどこしたので、彼女はおだやかな顔をしているように見える。おしろいをつけ、唇には紅が引かれていた。
 辰治は朝早くからやってきて、柩の夏江を見守っている。昨夜の通夜でも、最後までローソクを替えたり、線香を新しく継ぎ足したりしていた。
「夏江さん、永い永い戦後じゃったのう。夏江さんの内じゃ、まだ戦争は終わってなかったんじゃろうなあ。重雄さんが死んで、もう半世紀じゃもんのう。その間、欠かさず潮を汲んで、供養をしてきたんじゃからなあ。村の人々から潮を汲む女――、と言われてきたんじゃったのう。夏江さん、ここでひとまず幕を降ろしたということじゃのう」
 辰治は柩の小窓を覗き込んで、優しく語りかけていた。
「夏江さんは心残りじゃろうけど――。安らかに眠ってくれえよ。あとのことは周ちゃんにまかしときゃええ。安心して重雄さんのところへ行きゃええんじゃ」
 夏江の顔に向かって、辰治は手のひらを合わした。
 座敷は親戚の者たちによって埋まっていった。前庭から道路にかけて、参列者がつめかけている。斜めに降り注ぐ雨の中を、傘を差し喪服を着た黒い列が続いていた。
 やがて、僧侶が少し遅れてやってきた。周平は玄関まで迎えに出て、僧侶を縁側から祭壇の前まで案内した。しばらく準備をしていた僧侶は、ローソクに火を点け、香を焚いた。ローソクの炎は揺らめき、香は白い煙を上げて立ち昇っている。僧侶は振り向いて、「おつとめ」の冊子を周平に渡し、参列者に配るように言った。
 まもなく、僧侶の読経が始まった。時折り、鉦を打ち鳴らしたり、木魚を叩いたりしながら、経が唱えられている。野太い僧侶の声が高く、低く部屋に流れていた。
 周平は僧侶の読経を遠くからの声のように、ぼんやりと聴いていた。読経に精神が集中できなくて、他のことに心は奪われている。それは夏江のことであった。彼はじっと眼を閉じて、彼女の来し方に想いを馳せていた。
 柩の上には新しい鎌が載せられている。鋭い刃は天井の照明を返して、冷たい光を放っていた。夏江は逝ってしまった――。柩の中で彼女はどんな想いで眠っているのだろうか。それは、彼女のひとつの生き方、ひとつの生涯の終焉であった。
 夏江の心の内実に触れようと、瞑想しているうちに僧侶の読経も終わり、いよいよ出棺のときを迎えた。
 柩が台の上に載せられ、参列者が菊や百合の花をその中に入れていった。二歳で保育園児の詩織は母親に抱かれ、菊を握ったまま唇を硬く結んで柩の中を凝視していた。あちこちで嗚咽が洩れ、次々に花が供えられていった。夏江は花々で埋まって、顔だけがわずかに覗いている。
 柩の蓋を打ち付ける槌の音が響くと、部屋の片隅で慟哭する女性が肩を震わせていた。夏江の柩は思いのほか軽かった。周平は直樹や伯父たちと、柩を霊柩車に乗せた。
 周平は霊柩車の助手席に遺影を持って乗り込んだ。後部座席には骨壷の入った白木の箱を抱えて、直樹が神妙な顔をしていた。出棺の長いクラクションが鳴らされ、霊柩車はゆっくりと動き出していった。長く黒い列が夏江の出棺を見送っていた。
 降りしきる雨と烈しく吹きつける風の中を、霊柩車は火葬場に向かって進んだ。雲は跳ぶように流され、山の木々も大きく揺さぶられている。親戚の者や近所の人たちを乗せたバスも、追走してきていた。やがて火葬場に着いて、みんなは雨と風を避けるように、慌てて建物の中に駈け込んだ。
 受付を済まして、小さな祭壇に、夏江の遺影と白木の位牌を祀った。火葬場まで別れにきた人たちが祭壇の前に集まると、僧侶の読経が流れだした。女の人たちはハンカチで目頭を押さえていた。
 位牌には「新海夏順大姉」と、墨で黒々と書かれている。縁の深い「海」と、名前の「夏」という字が、戒名の中に取り込まれていた。菩提寺の僧侶が夏江の人となりを熟慮したうえでつけた戒名のように思われた。夏江にふさわしい戒名だ、と周平は思った。
 読経が終わると、近しい人だけが、硝子で隔てられた窯のある部屋に通された。周平と葉子、伯父と直樹、そして辰治が中に入った。係りの人が来て、窯の鋼鉄製の厚い扉が開けられた。黒い空洞がぽっかりと口を開いていた。夏江の柩がその空洞の中に吸い込まれるように、滑っていった。みんなは合掌をして、深く頭を下げた。周平は瞳が濡れて、周りの光景が滲んで見えた。
「いいですか、扉を閉めますよ」
 係りの人が事務的に言った。
「ええ、お願いします」
 周平の声はかすれ、うわずっていた。
 硬く厚い扉がギィーとかすかに鳴った。葉子が不意に嗚咽を洩らして、口をハンカチで押さえている。振り向くと、硝子の仕切りを隔てて、参列者が手のひらを合わせじっと内を覗き込んでいた。黒い一群の中にハンカチがちらほらと見えた。
 骨揚げまでには一時間ほどかかる。窯のある部屋に入った人は、火葬場の喫茶室で待つことにした。それぞれ飲み物を注文して、椅子に座った。周平の横の席に辰治がやってきた。
「周ちゃん、疲れたじゃろう。夏江さんが海に呑まれて、三日目じゃからのう。二晩(ふたばん)よう寝とらんじゃろう」
 周平の眼を見つめて、辰治が言った。
「いや、疲れたという感じはないんじゃ。たぶん気が張りつめとるからじゃろう。お袋をきちんと送らにゃあ、という気持ちがいっぱいでなあ。疲れとる暇がないんじゃ」
 周平はそう言って、珈琲カップのスプーンをくるくる回した。
「重雄さんが戦死して五十一年。それから始まった夏江さんの潮汲み。これでやっと夏江さんの戦争も終わりじゃなあ。永い歳月じゃったのう。じゃが、周ちゃんはこれからどうするつもりなんじゃ。夏江さんの潮汲みを引き継いでゆくんか――」
 辰治は周平の顔を覗き込んだ。
「うーん、そうじゃなあ。いま迷うとるとこじゃ。これでもう終わりにしたい、という思いもあるんじゃ。そうせにゃ、きりがないけんなあ」
 周平は遠くを見る眼つきをして、クリーム色の壁に視線を投げた。
「そうか、周ちゃんの気持ちも分からんじゃねえのう。夏江さんが、ああいう死に方をしてしもうたからなあ。じゃがのう、わしの戦争はまだ終わっちゃいないんじゃ。わしが死ぬまで戦争は終わらんわのう」
 辰治は身体を寄せてきて言った。
「周ちゃん、わしは戦後五十年、百姓をしながら、ひっそり暮らしてきたんじゃ。外へ出たということは、ほとんどないんじゃ。息子が家を建てたいうても、医院を開業したいうても、絶対いかなんだんじゃ。温泉に行ったり、町内会の旅行に誘われたりしても、行ったことがないんじゃ」
 辰治は長い嘆息を洩らした。
「あのルソン島で、第十連隊の兵士のほとんどがやられたんじゃ。魚雷や烈しい空爆にさらされてのう。地上戦で戦車の攻撃を受けたり、敗走の途中で病気になったり、餓死したりしたんじゃ。わしらわずかな者(もん)しか生きて還れんかった。じゃけえ、生き残ったことが罪のように思えるんじゃ。なんか楽しむことが悪いような気がしてのう。戦後、心から遊び楽しんだということはないんじゃ。まだ、わしの胸の奥底には、あの戦争が鉛のように重く沈んどんじゃ。まだまだ、わしの戦争は終わりゃせんのじゃ」
 辰治はぽつりぽつりと、問わず語りに話した。
 周平は戦後半世紀経っても、辰治の心の傷が癒されていないことを思い知らされた。いまも辰治がひっそりと、身をひそめるように暮らしているのを知って愕然とする思いだった。辰治の心の内では、まだ戦争が生きたものとしてあるのを、周平は知らされたのだった。
 やがて館内放送が流れて、夏江の骨揚げの報せがあった。周平たちは喫茶室をあとにして、骨揚げの室へ向かった。室には係員がいて、夏江の骨の前に立っていた。室に入ると骨の熱気がかすかに感じられた。
「どうぞ、身体の下部の方から順次、骨を拾ってあげて下さい」
 係員が竹の長い箸を、周平と葉子に差し出した。
 そこには窯から引き出されたばかりの、夏江の骨があった。夏江の骨は全体が小さく、か細かった。白い骨は仰臥した恰好で横たわっている。さっきまで長い髪があり、眼や耳そして鼻や口があり、肉をつけていたというのに、無惨に変わり果てていた。
 人間の死とはこういうことなのか――、周平は夏江の骨を目の当たりにして、それを思い知らされた。彼の背中をさっと、寒けが駆けぬけてゆくのが分かった。
 周平と葉子、伯父と直樹はふたり一組の箸渡しで、そして辰治はひとりで骨を拾っていった。葉子は涙ぐんで、口をハンカチで押さえている。
「夏江さんも苦労したんじゃのう。箸でつまんだら、崩れそうじゃ」
 直樹と腕の骨を摑んで、伯父が言った。
「骨も細うてすかすかじゃのう。これがお袋の生きてきた証じゃ。これがお袋の一生じゃ。これがお袋の終焉の姿じゃ。ああ、無念じゃ」
 周平は夏江の骨を凝視して、突き上げてくる言葉を抑えることができなかった。
 骨揚げはほぼ終わり、あと頭蓋骨と喉仏だけが残っていた。周平と葉子が頭蓋骨を箸でつまんで骨壷に納めた。葉子の手がかすかに震えていた。周平はポケットから緋色の御守りと、緑色に錆びたネクタイピンを、おもむろに取り出した。御守りにネクタイピンを収め、骨壷の内に入れた。最後に周平が喉仏を摑んで、別の小さな骨壷に納めた。五人は合掌をし深く頭を下げて、「南無阿弥陀仏」を唱え、骨揚げを終えた。
 周平は事務所で埋葬許可証を受け取り、直樹の運転する伯父の車に乗った。周平が桐の箱に納めた骨壷を持ち、遺影を葉子が抱いていた。
「周ちゃん、お疲れさまでした。これで夏江さんも仏さんになって、重雄さんのとこへ旅立ちじゃのう。じゃが、心残りなく彼(あ)の世(よ)へ逝ったんじゃろうか――」
 身を乗り出して助手席の周平に、辰治は言った。
「いやあ、みなさんこそお疲れでしょう。大変お世話になりました。有り難うございます。辰治さん、お袋はあとに心を残して、逝ったんじゃないんじゃろうか。こうして骨壷を抱いておったら、お袋の口惜しさが思われてならんのじゃ」
 後部座席を振り向いて、周平は言った。
「そうじゃのう。夏江さんは此の世(こよ)に想いを残して逝ったんじゃろうのう。重雄さんの潮汲みに出て、命を絶たれたんじゃもんのう」
 辰治は思わず溜め息をついた。
「辰治さん、じゃからのう。わしも色々考えたんじゃが、お袋の想いを継がにゃおえんと思うんじゃ。愚かな戦争で親父は海に沈められ、その親父を想いつづけたお袋もまた、海に呑まれてしもうてのう。じゃけん、ふたりの月命日に、お墓と仏壇に潮を汲んで、お供えしようと思うとんじゃ。わしにはそれが、お袋の遺言のように思えてきたんじゃ」
 周平は夏江の骨壷を強く抱きしめた。
 台風が近づいて、雨と風はますます烈しくなっている。山の中腹にある火葬場から、つづら折りの坂道を車はくだっていた。疲れたのか、ほっと安堵したのか、車中の誰もが沈黙して窓外を眺めている。それぞれの深い想いを心の中に描いているようだった。
 車が大きくカーブして、前の視界が不意に開け、川の土手が眼前に拡がった。土手には一面に深紅の曼殊沙華が風に烈しく揺れている。周平はその花々に心を奪われていた。そのとき車が揺れ、彼の抱いた骨壷の内で、母の骨が意外に大きく鳴った。それは切なく乾いた音だった。

鬼藤千春の小説 「鈴とアマリリス」 長編

 鈴とアマリリス

           鬼藤 千春


     (一)

 染矢英司が屋内の展示場を掃除していると、ラジオ体操のメロディーが流れ始めた。花壇に水遣りをしたり、屋外展示場を掃除していた社員は、慌てて店内に駈け込んでくる。これから朝礼が始まるのだ。
 ラジオ体操が終わると、壁の正面に掲げられた社是、企業理念が唱和される。そして当番が前に進み出て、「総員八名、藤原さん工事立会い、高野さん休日、現在員六名、以上です。店長よろしくお願い致します」と、軍隊式のような報告が行われた。これは経営コンサルタントの指導を、無批判に取り入れたものだった。
 店長はおもむろに前に進み出て、訓示を行い、一人ひとりの社員が今日の営業活動の予定を報告してゆく。最後に、「いらっしゃいませ! お世話になります! 有り難うございます! 有り難うございました! 失礼致します!」という接客五大用語を唱和して、朝礼が終った。
 その直後に、
「染矢さん、ちょっと……」
 と言って、店長が楕円形の接客用テーブルの方に歩いて行った。
 この店舗は墓石販売店であり、屋内の半分はコの字形に墓石が展示されている。その中央にテーブルが据え付けられていた。接客用であったが、ミーティングなどにも使われている。店長は奥の椅子に腰を掛け、分厚い手帳を開いて覗き込んでいた。眉間に皺を刻んで、眼を細めている。
「店長、なんでしょうか」
 椅子を引きながら、英司は怪訝そうな声を挙げた。
 顔を上げた店長の眼鏡が、天井の照明を跳ね返してきらりと光った。
「どうですか、染矢さん。まもなく上半期が終ろうとしていますが、営業実績の方はいかがですか」
 店長は四十八歳、英司は七つ上の五十五歳だったので、いくぶん控え目な口振りだった。
「まずまず、といったところですね。でも会社全体の平均よりは、少しだけいいでしょうか」
 英司も手帳を開いて、数字を眺めていた。
「まあ、この街は葬儀屋と仏壇屋のメッカですからね。競合が烈しいですから、営業がやりにくいんですよ。ところで、染矢さん。明後日、本社に行って貰えませんか。総務部長が、話があるそうですよ」
 店長は手帳を開いたまま、机に両肘を立てて、身を乗り出してきた。
「店長、どういうことですか。総務部長がいったいどんな話なんでしょうか」
 英司は手帳を畳んで、腑に落ちないといった様子で訊いた。
「私も、何も聞いてないんですよ。ただ、明後日の、十一時に来てくれというだけなんですよ」
 店長はしきりに眼をまばたいていたが、落ち着いた様子で言った。
「店長、そんなことはないでしょう。何か聞いてるんじゃないんですか」
 店長は話の内容を知っている、知ってるに違いない、と英司は思った。
「染矢さん、嘘じゃありません。本当に何も聞いてないんですよ。じゃあ、染矢さん。明後日十一時、遅れないように頼みます」
 店長は念を押すように言ってから、席を立った。
 ――いずれにしても、いい話じゃないな、そうに違いない、と英司は心の内で呟いていた。そんな予感が、彼の心に棘のように刺さった。
 英司は足早に自分の席に戻って、営業活動の準備をした。新聞の「お悔み」欄から、死亡者の氏名、年齢、住所のリストを作成し、それを住宅地図にマーキングをしてゆく。パソコンを起動させ、何種類かのチラシを印刷して、クリアブックに綴じる。
 この店舗は営業社員五名、女子事務員が二名、そして店長を含めて八名の支店である。営業社員は慌しく営業活動の準備を終えると、「行って来まーす」と誰にともなく声を挙げて、店を出てゆくのだった。一人、二人と店舗から消えてゆくのである。
 英司も営業ツールの詰め込まれた、重い鞄と住宅地図を提げ、挨拶をして店舗を出た。
店舗の裏手にある駐車場にゆくと、フェンス脇の花壇が偶然、眼に留まった。緋色をした花が数本、鮮やかに咲いていた。いつもの駐車場所はふさがっていて、初めて停めたところだった。英司は心を惹かれて花壇に近づいて行った。
 英司にとっては名も知らぬ、初めて見る花だった。四、五十センチの高さで、茎は太くその頂きに百合のような花弁をつけている。すっと立ち、六弁の大輪は燃えるような緋色をしていた。濃緑で長くて幅が広い葉は、帯状の形をして群れている。彼はしばらく立ち尽くして、その花を凝視していた。緋色の花弁は光を浴びて艶やかに輝いている。昨日まで雲が低く垂れ込めていたのに、今日は強い陽射しが降り注いでいた。
 しばらく緋色の花を見詰めていたが、英司は軽自動車に乗り込んだ。助手席に鞄と住宅地図を載せ、アクセルをゆっくり踏んで、駐車場を後にした。その時、ちらっと花壇の方に眼をやったが、心に残る魅惑的な花だった。梅雨晴れの陽射しは容赦なく照りつけ、街がきらめいて眩しかった。その街の光景が後ろへ後ろへと流されてゆくのだった。
 ――なんの因果でこんな仕事に就いたのだろうか、と車を運転しながら、不意にそんな想いが英司の心に湧いてきた。
 墓石店というだけで、眉をひそめる人々もいた。女子事務員の中には、近所や友人に勤め先を告げることを、ためらっている人もいる。英司が訪問外交で事務員の近所へ行くというと、「私が勤めているということは、絶対喋らないようにしてね。絶対よ」と、釘をさされることがあった。他人に知られないように、心に秘めているのである。
 営業社員は原則として社有車で通勤することになっているのだが、それをためらう人もいた。それは車に、「石のトータルプランナー・山陽石材工芸社」と社名が刷り込まれているからだった。そういう人は家に駐車場がないと偽って、自家用車での通勤を許可して貰っていた。
 人間の死と関わりのある仕事ということで、世間で忌み嫌う人もいるのである。社員の中にも、それを気にしている人が少なからずいるのだった。
 が、英司はそうした想いに囚われたことはなかった。顧客にとって、墓石の建立ということは、生涯のうちでも滅多にないことだった。だからこそ、この仕事は顧客の心に寄り添い、その悩みに応えてゆくものである。彼はそう信じて、仕事に取り組んできたのだった。
 しかし死者の家を訪問するということについては、いっこうに慣れるということはなかった。英司は四十歳の時この仕事に就いて、かれこれ十五年も営業活動をしているが、忌中札の貼ってある家の玄関に立つと、やはり厳粛な気持になり、緊張しないというわけにはいかなかった。
 何かの縁だったとしか言いようがない。職業安定所を訪ね、色々と求人票を眺めていて、心に留まったのが今の会社だったのだ。もともと営業という職種が好きだった訳でもなく、むしろ避けたい部類に属する職種だった。
 が、この仕事を十五年も続けてこられたのは、やはりそこに遣り甲斐もあり、働く魅力もあったということなのだろう。
 そんな想いで車を走らせているうちに、K市の南部の街に入ってきた。店舗から約七キロほど先にあるこの街が、英司の担当地域である。車を道路の端に停め「お悔みリスト」で住所を確かめ、住宅地図にマーキングされた家を探して、道順を頭に描いてゆく。彼は死亡者名、死亡月日、年齢、性別を把握して、お悔み訪問の準備を整えるのだった。
「ごめん下さい、山陽石材と申します。このたびは大変でございました。お悔み申し上げます。ご仏前にお供えをお持ち致しましたので、仏間に上がらせていただいてよろしいでしょうか」
 英司は深く腰を折って、挨拶をした。
「話があれば玄関の方がいいんですが……、家の中はまだ片付いていないんですよ」
 中年の婦人が、玄関ホールに坐って答えた。
「そうでしょうね。葬儀を終えたばかりで大変だと思いますが、仏様に線香をお供えさせて下さい」
 英司は線香とローソクがセットになった、小箱を示して言った。
「そうですか。それじゃ、散らかしていますが、どうぞお上がり下さい」
 婦人は立ち上がり、仏間の方に入って行った。
「それじゃ、失礼致します」
 と言って、英司は祭壇の前に進んだ。
 英司は祭壇の前に正座して、まず座布団を脇に寄せた。業者が座布団を使うのは失礼にあたるからだと言われていた。そして、祭壇に寄ってローソクに火を点け、その火を線香に移して香炉に挿した。
「黒川さん、ご宗旨は天台宗でしょうか。ああ、そうですか。真言宗ですか。分かりました」
 振り向いて、英司は婦人に訊いた。
 英司はリンを二つ打ち、合掌をして頭を深く下げた。
「かんじーざいぼーさつ。ぎょうじんはんにゃはーらーみったー。じーしょうけんごーうんかいくうどー。いっさいくーやく。しゃりーしー。しきふーいーくう。くうふーいーしき。しきそくぜーくう。くうそくぜーしき……」
 英司は般若心経を唱えて、リンを一つ打ち合掌をした。
「有り難うございました。どうぞ、これを当てて下さい」
 婦人は座布団を、そっと寄越した。
「ああ、どうもすみません。それでは失礼致します。亡くなられた方は七十五歳でしたか。残念でしたね。七十五歳といえばまだまだですからね。失礼ですがお義父さんですか」
 英司は祭壇から離れて、座布団に正座した。
「ええ、義父です。でも、癌でしたからね。仕方ありません。まあ、煙草が好きでしたからねえ。肺癌でした」
 婦人は静かな低い声で言った。
「でも、淋しくなられましたね。さて、私は山陽石材の染矢といいます。よろしくお願い致します。そこで、四十九日のご法事には、お骨はどのようにお祀りされる予定ですか。お墓があればそれに納骨するようになりますし、なければご法事までに建墓するか、仮納骨ということになります」
 英司はパンフレットを鞄から取り出して、婦人の前に開いた。
「うちは初仏ですからお墓はないんですよ。墓地は求めていましたから、お墓をしなければなりません。主人とも話しているんですが、四十九日の法事までになんとかしたい、と思っているんです」
 婦人はパンフレットを眺めながら言った。
「そうですか。四十九日までにお考えですか。それでご法事の日取りはもう決められていますか。ああ、そうですか。七月の最終の日曜日ですね。それでは準備を急がなければなりませんね」
 英司は手帳を出して、メモをした。
「黒川さん、それで墓地はどちらにお持ちでしょうか」
「K市営墓地です。あ、ちょっと待って下さいね。墓地番号を調べてみます」
 婦人は立って、奥の部屋に入って行った。
「十二区の九十七番となっています」
 婦人は書類を見ながら、戻ってきた。
「ああ、そうですか。市営墓地の頂上の区画ですね。見晴らしのいいところをお持ちですね。それでは、墓地を測量させていただいて、何パターンかCAD図面を作成しておきますので、是非うちの店舗にお越し下さい」
 英司は店舗所在地の地図を、婦人に渡しながら言った。
「でも、染矢さん。まだどこでするか分からないんですよ。色んな石屋さんも言ってきているし、葬儀屋さんや仏壇屋さんも墓石を取り扱っていますからね。主人と相談して、よく検討させていただきますので、墓石の資料を貰えますか」
 婦人は慎重な言葉遣いで言った。
 英司は鞄の中から、チラシやパンフレットや冊子を出して、婦人に渡した。
「黒川さん、それじゃ、ご主人とよくご相談なさって、いちど店舗の方にお越し下さい。それではお疲れを出されないように、お気をつけ下さい。それでは私はこれで失礼致します。有り難うございました」
 深く頭を下げて、英司は立ち上がった。
 英司は車に乗り込み、予定を変更して市営墓地にゆくことにした。彼にとって、こうした顧客に出合うことは滅多にないことだった。お悔み訪問しても、まだ考えてないとか、主人がやってるから分からないとか、知り合いの石屋があるとか、若い者がいないから年寄りでは分からない、というような返事が殆どなのである。
 英司は車を走らせながら、まず市営墓地に行って測量をし、店に帰ってCAD図面を作成しようと考えていた。こうした話は稀なので、彼の心は明るく膨らんでくるようであった。ハンドルさばきも自然に軽くなってくる。
 だが一方で、朝の本社ゆきの話が不意に思い出されてくる。電話で済まされぬ用件とはいったいなんなのだろう。そんな疑問が湧いてきて、英司の心に黒い影を落とすのだった。彼は複雑な心を抱いて、市営墓地のある曲がりくねった山道を登って行った。

     (二)

 英司が本社に着いたのは、十一時より三十分以上も前だった。玄関のホールに入ってゆくと、北村が壁際のテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「おお、北村君久しぶりじゃなあ。元気でやってるか。営業速報をみると、なかなか頑張ってるようじゃなあ。それで今日はまたどうしたんじゃ。君も呼び出されているんか」
 彼のテーブルの傍に近づき、英司は声をかけた。
「ああ染矢さん。お世話になっています。ええ、私もちょっと……。先輩こそどうされたんですか」
 立ち上がって、北村は挨拶をした。
 北村は入社して五年余で、年齢は四十三歳であった。T支店に配属されている。彼は結婚式場の司会などもやったことがあるというので、なるほど喋りには長けていたが、設計や製図は苦手で苦労していた。
 英司は湯沸室でコーヒーをつくって、北村のテーブルに戻った。
「染矢さん、私はこれから面談なんですけど、
若手三人組も呼ばれて、二人はもう帰ったんですが、いま一人が面談中です。彼等は何も喋らずに帰って行ったんですが、一人は眼を赤く染めていました。染矢さん、何かあったんでしょうか」
 声をひそめて北村は言った。
 三人組というのは、三年前大卒でこの会社に入ってきた若手である。彼等は営業成績が芳しくなくて、苦労していた。
 若手の佐藤が二階から下りてきた。眼は潤んでいなかったけれど、光を失って蒼白の顔をしていた。
「北村さん、部長が呼んでますよ。早く上がって来て下さい、と言っていました」
 心なしか、佐藤は悄然としていた。
 北村はそそくさと上がってゆき、佐藤はぼんやりと立ち竦んでいる様子だった。
「佐藤君、まあ、ここへ坐れよ。どんな話があったんじゃ。まあ話してみい」
 彼を見上げて、英司は言った。
 英司の前の席に、佐藤は静かに坐った。
「染矢さん。今の話は誰にも言っちゃいけんと言われてるんです。口止めされてるんですよ」
 佐藤は弱々しい声を出した。彼はそう言って、焦点の定まらない眼を宙に泳がせていた。
「そうか、口外無用か。秘密にしとかにゃおえんような、話じゃったんじゃなあ」
 英司はうーむと言って、腕を組んだ。
「染矢さん、ぼくは昼から納骨の手伝いがあるんです。いったん店に帰ります。それじゃ失礼します」
 佐藤は声を落として挨拶すると、玄関を出て行った。その後ろ姿はどこか、侘しさが漂っている。
「佐藤君、何かあったら携帯に電話してこいよ。相談に乗るよ。あんまりいい話じゃなさそうだからなあ」
 玄関のドアを開け放し、英司は彼を追ってゆき駐車場で声をかけた。佐藤は力なく肯いた。
 英司が玄関ホールに戻ってしばらくすると、北村が二階から下りてきた。彼はいくぶん顔を紅潮させていたが、決して憂えているというところはなかった。かえって、無理に肩をいからせているように見受けられた。
「染矢さん、呼んでますよ。じゃ、私はこれで失礼します」
 北村は右手を上げ、乱暴に玄関のドアを開けて出て行った。どこか、わだかまる怒りをぶつけるような勢いだった。
 面談は二階の応接室で行われていた。ドアを軽くノックして室に入ると、英司は一瞬たじろいだ。総務部長だけだと思っていたが、正面のソファーに坐っていたのは、専務と営業部長を加えた三人だった。
「染矢さん、どうぞお掛け下さい」
 総務部長が右手を差し出して、坐るように促した。
「染矢さん、どうですか。営業活動をしていて、市場の動向はいかがですか」
 咳払いをひとつして、営業部長が両手を組みながら言った。
「うーむ、そうですねえ。なかなか市場は厳しいんですよ。墓石業界に葬儀社や仏壇屋といった他の業種が参入してきていますからねえ。異業種との垣根がなくなっているんです。競合は烈しいですねえ」
 英司は身を乗り出して答えた。
「染矢さん、目標対比の実績表がここにあるんですが、九十パーセントにも達していませんねえ。これは由々しき問題ですよ。ただ、市場が厳しい厳しいと言っていたのでは、どうにもなりませんよ。そういう外部環境の中で、君たち営業社員がどうするかだろうねえ。そこが今、一人ひとりの営業社員に、問われているんですよ」
 腕を組んでじっと聞いていた専務が、腕をほどいて鋭い眼をして言った。
 ――いや、決してそうではないだろう。外部環境が様変わりしているのは、はっきりしている。したがって、その変化に会社がどう対応してゆくか、そこが問われているのではないだろうか。葬儀社が墓石業界に参入してきているのは、明らかである。それを手をこまぬいて、見ているだけでは駄目だろう。高齢化社会なんだし、今は会館葬が主流になってきているのだから、葬儀部門を立ち上げるという方向も、考える必要があるだろう。
 ――また、墓地事情が悪いのだから、墓地の開発ということも、視野に入れて対策が打たれなければならないだろう。会社は事あるごとに、営業社員の事細かな行動をうんぬんするけれど、問題は市場を大局的にとらえるかどうかということではないだろうか。うちの首脳部は、蚤が跳んでいるのはよく見えるけれど、馬が跳んでいるのはよく見えない、という情況に陥っているのではないだろうか。
 英司は唇を嚙んで、そんな想いを巡らせていた。
「染矢さん、時間を取らせてもなんですから、結論を先に申し上げましょう」
 不意に総務部長が声を挙げた。
「あのね、染矢さん。誠に言いにくいことですが、あなたには七月末をもって、しりぞいて貰いたいと思っているんですよ」
 総務部長が、眼鏡のフレームを少し押し上げて言った。
 英司は一瞬呆然として、言葉を失った。
 ――何故だ、何故なんだろう。それは職を、仕事を失うということではないか。顧客の精神に寄り添い、心の満足を提供する仕事と位置づけてやってきた。それはとりもなおさず、私の悦びともなり働き甲斐ともなってきたのだった。
 ――住宅ローンがまだ七年も残っているし、年金受給は十年先のことである。働いて生きてゆかなければならない。それが私のおかれた厳しい生活の現実なのだ。五十五歳の年齢で働き口があるというのだろうか。二十代、三十代の青年でも正規社員の求人が少ないというのに、いったいどういうことなんだろう。
 英司はしばらくそんな想いに囚われていた。
「部長、それは辞めてくれということですか。いったいどういうことなんでしょうか。どんな理由でそんなことを言われるんですか」
 語気を強めて言い、英司は総務部長を睨んだ。
「ご存知のように、うちの会社も厳しくってねえ。会社の再構築をしなければ、やってゆけないんですよ。五十五歳以上の方に、無理を承知でお願いしてるんです。誠に辛い選択ですが、そこのところをよくご理解していただいて、よろしくお願いします」
 総務部長は丁寧な口調で懇願した。
「部長、それは会社の言い分ですよねえ。会社が厳しい、だから辞めて欲しいというのは、あまりにも一方的だと思いませんか。社員の働く悦びや生き甲斐はどうなるんでしょう。また、社員一人ひとりにも生活があるんですよ。その配慮がないんじゃないですか」
 胸に突き上げてくるものを抑えて、英司は静かに言った。
「染矢さん、ここは議論をする場じゃありませんからねえ。これは会社の方針です。会社を潰すようなことがあったら、それこそ家族を含めれば数百人という人に影響が及ぶんですからねえ。それを避ける意味で、会社の再構築を考えているんですよ。そこで手続きの問題ですが、今月末までに退職願を出して貰いたいと思ってるんです。これはあくまで形式的なもので、ハローワークへの書類が必要なら、会社都合という処理をさせていただきます」
 専務が鋭く睨んで、圧するように言った。
「……」
 英司はうーむと唸って、しばらく黙っていた。
「専務、社員や家族の多数に影響が及ぶ、だから、特定の社員の詰腹を切るというのは、矛盾してますね。そう思いませんか。一人ひとりの社員への気配りがいるんじゃないですか。専務、まあいいでしょう。だけど、今すぐに結論は出せません。少し考えさせて下さい」
 俯いていた顔を上げて、英司は言った。
「いやあ、私も今にいま、返事を貰おうと思っているわけではありません。六月末までに退職願を出して貰って、七月は有給休暇で休んで貰って結構です。そして、七月末をもって退職というふうに考えています。したがって、あなたは、八月からこの会社での居場所がなくなります。そのことだけは認識しておいて下さい。やあ、染矢さん、遠いところご苦労さまでした」
 唇を歪めて、専務は白い歯を覗かせた。
 英司は玄関ホールに下りていったが、そこには誰もいなかった。彼は車に乗り込み、アクセルを強く踏んで会社を後にした。ハンドルを持つ手がかすかに震えていた。
 ――退職勧奨を受けたのは、若手の三人と北村、そして私の五人ということなのだろうか。実際、この会社を辞めさせられたらどうしたらいいのだろう。この齢で正規社員として雇ってくれるところがあるだろうか。年金を貰える齢ではもちろんないし、住宅ローンも残っている。
 ――そして、何よりも十五年もこの仕事を続けてきて、それなりに働き甲斐もあったし、生き甲斐もあったのだ。他の商品を販売するのと違って、人の心に深く関わる仕事なので、感謝されることも少なくない。顧客にとって、近しい人の死についての思い入れは、決して軽いものではない。顧客がその遺骨を祀る墓石を建立することは、近しい人へ深く心を寄せることである。したがって、その仕事に携わる英司などに対して、親愛の情をもって接してくれるのだ。そして工事の後、感謝の気持をしたためた手紙が、少なからず届けられるのだった。
 英司は車を運転しながら、この仕事を失いたくない、という想いが強くなってくるのを感じていた。

     (三)

 七月に入ってまもなくのことだった。英司はその日、炎暑といわれる厳しい暑さの中で、営業活動をして店舗に帰ってきた。汗を拭きながら店舗に入ると、店長からいきなり声がかかった。
「染矢さん、ご苦労さまでした。ちょっとこちらに来て貰えませんか」
 衝立の向うから、甲高い声がした。
「染矢さん、まあ、そこの椅子に坐って下さい。今日は暑かったでしょう。今年の夏は異常ですからね」
 店長は立ち上がって、前の椅子を指差した。
「染矢さん、この店に配属になって何年になりますかね。三年と六ヶ月というところですか。お世話になりましたが、いよいよお別れです。明日、机の片付けをして、明後日からM店に入って貰うことになりました。はい、ここに辞令が届いていますので、お渡ししておきます」
 丁寧な言葉遣いで、店長は言った。
「店長、M店ですか。それはあんまりじゃないんですか。通勤に片道二時間はゆうにかかりますよ。往復四、五時間ですからね。無茶ですよ。店長何とかならないんですか」
 店長の顔をまっすぐ見て、英司は言った。
「染矢さん、もう辞令が出てしまったんですからね。それに私には何の権限もありません。本社サイドで決めてきたのですから、よろしくお願いします。それじゃ急なことですが、明日はこちらの店に出て、片付けをして下さい。M店には明後日からということで――」
 店長はそう言って、席を立った。
「……」
 英司は言いたいこと、言わなければならないことはいくらもあったが、本社の判断なので、店長に言っても駄目だと思い、言葉を呑み込んだ。彼は自分の席に戻り、営業日報を書いて早々に退社した。
 店を出ると、西日が射るように斜めに射し込んでいた。英司は駐車場にゆき車に乗り込んで、エアコンのスイッチを入れた。彼はサンバイザーを下げて、西日に向かって車を走らせた。六月初旬の、本社での面談からの経緯が、不意に甦ってきた。
 六月下旬になると、総務部長から二度、三度と退職願を出すように、英司の携帯電話にかかってきた。しかし彼は、自身にこれといった非はないし、自ら退職願を出すつもりがないことを告げてきた。また、専務が電話をしてきて、媚びるような懇願とあるいは恫喝によって、彼を説得しようとした。
「染矢さん、社長とも相談して、退職金規程の五割増しを考えているんです。これはきわめて稀な特例です。その選択の方がお得だと思うんですが、いかがですか」
 専務はそんな取引条件も出してきた。
 けれど、英司は一時的な優遇措置に応えることはできない、と思った。それよりも何よりも、仕事を失うことが耐えられなかったのだ。
「染矢さん、もし退職願を出してもらえないようだったら、会社としても考えがありますから、よく認識しておいて下さい」
 専務は脅すような口振りで言った。が、英司はその言葉にも肯くことをしなかった。
 結局六月末になっても、英司は退職願を提出せずに、いままで通りの店舗に出勤してきたのである。北村も退職願を提出しなかった。
 若手の三人は退職願を提出させられ、七月は有給休暇を使って、七月末をもって退職することになっていた。佐藤は所属する店舗の店長に、辞めさせないで欲しい、と泣きながら懇願したという。しかし、受け入れて貰えなかったということである。
 若手の三人は入社時の面接で、
「将来、うちの幹部社員になって欲しい。そのために、当面営業部に所属して、色んなことを勉強して欲しい」
 と、言われて入社してきたのである。
 それなのに、三年余営業として使って、実績が芳しくないということで、辞めさせるというのは決して道理に合っているとは思えない。営業の仕事がふさわしくないというのであれば、他の部門へ配属させるということもできる筈である。
 そもそも、この墓石業界の営業に、新卒の青年たちは向いていない。だいたい墓石の顧客というのは、中高年層が多いのである。そういう人たちとコミュニケーションをとってゆくのは、それなりの年齢を経た社員がふさわしいのである。
 そうした配慮を会社はしないでおいて、営業実績が悪いからといって辞めさせるのは、入社時の約束とも違っている。泣いて店長に訴えたという佐藤の気持を察する時、英司の
胸は痛むのだった。
 英司は本社での面談のあと、しばらく心がふさいでいた。そして、北村の家を訪ねたのだった。降りしきる雨の夜だった。北村の玄関には、オレンジ色の灯がぼんやりと霞んでいた。チャイムを押すと、玄関の引き戸が開いて北村が出てきた。
「こんばんは。夜分済みません。ちょっと話があって寄せて貰いました。いいですか」
 少し恐縮して、英司は言った。
「やあ染矢さん、いいですよ。上がって下さい。雨の降る中を、しかも遠いのに、大変だったでしょう」
 北村はどうぞ、どうぞと言って、玄関脇の六畳間に案内した。
「北村君、いい家じゃなあ。まだ建てていくらも経ってないじゃろう」
 部屋を見廻しながら英司は言った。
 そのうち奥さんがコーヒーを淹れて、持ってきた。
「うちのがいつもお世話になっています。どうぞこれからもよろしくお願い致します」
 奥さんはコーヒーを差し出し、深くお辞儀をして部屋を出て行った。
「染矢さん、建ってから五年ちょっとになります。だけど、ローンで大変なんですよ。女房もパートで働いていますが、今でもかつかつの生活ですからね。それなのに、会社は辞めてくれというんですからね。無茶ですよ」
 北村はそう言って、コーヒーを飲んだ。
「北村君、それで退職願はどうするつもりなんじゃ。期限まで一週間もないじゃろう。私は辞められんと思うとったんじゃが、会社がうるさく催促してきてのう、心が少し揺れとんじゃ」
 英司は心の内を吐露して、北村を見つめた。
「染矢さん、私たちには何も非はありませんよ。業績不振というのだったら、その責任は会社の首脳部にこそあるんじゃないんでしょうか。会社の経営方針や戦略のまずさが、業績不振を生んだんですよ。首脳陣が泥をかぶらずに、私たちだけに一方的にそのしわ寄せを押し付けてくるのは、理不尽ですよ。染矢さん、私は退職願は出しませんからね」
 北村は毅然として言った。
「北村君、その通りじゃ。私も会社のアメとムチに負けんようにせにゃおえんなあ」
 北村に背中を押されるような気がした。
「それに、染矢さん。うちの会社は三店舗で、営業の求人をしてるんですよ。休みの日にハローワークに寄って、パソコン検索してみたんです。すると、S店、F店、H店でそれぞれ営業を一人から二人ずつ求人してるんですよ。だから、染矢さん。業績不振のためにリストラするというのは、偽りですよ」
 顔を紅潮させて北村は言った。
「そうか、そりゃひどいなあ。北村君、裏でそんな卑劣なことをしとるんか。そうか、会社のやり方がよう分かったよ」
 英司はそれで悩みが吹っ切れたように思った。
 それで英司も退職願を出さなかったのである。だが、彼はM店への配属となり、北村は工場へと配転させられた。
 英司がM店へ初めて出勤した日のことである。彼が出社すると、店長が指示した席は、社員が机を並べているフロアーではなく、四畳半くらいの物置のような室だった。スコップやつるはし、測量用のポールやバケツが散乱していた。そこに一つスチールの事務机が置かれていた。これが英司の席だった。
 M店は営業社員が四名、女子事務員が二名、そして店長を含めて七名で、そこに英司が配属になって、八名の支店になった。
「染矢さん、ちょっと話がありますから、こちらにきて下さい」
 応接間の方から店長の声が挙がった。
「店長、お世話になります。M市は初めてで、市場もよく分かりませんので、ご指導よろしくお願いします」
 応接間に入って、英司は深く頭を下げた。
「染矢さん、まあどうぞ、そこへ掛けて下さい。色々説明しておきたいと思いますので、ノートに記しておいて下さい」
 店長は顎をしゃくって、ソファーに坐るように言った。
「まず、染矢さんのテリトリーですが、この店舗より東部で、旧国道より南のエリアを受け持って貰います。そして、来店、TEL受けの件ですが、呼び込んだお客さんについては、もちろん染矢さんの担当になります。しかし、フリーのお客さんについては、染矢さんの担当にはなりません。原則として店長が担当することになりますので、十分認識しておいて下さい。また、営業の実績は目標通り確実に上げて下さい。そうでないと、染矢さんの存在の意味がありませんからね」
 湯呑みに手を伸ばして、店長はごくりと茶を飲んだ。
「それから、これも大事なことなのですが、本社やM店が催す四季ごとのレクリエーション、忘年会などには参加できませんので心得ていて下さい」
 眼をしきりにまばたきながら、店長は言った。
「店長、来店、TEL受け客は担当地域の社員が関わるというのが、この会社の慣例でしょう。それを私の場合に限って担当からはずすというのは、ひどいんじゃないんですか。そして、催事に参加させないというのは、どういうことなんでしょうか。納得できませんねえ」
 ソファーから身を乗り出して、英司は言った。
「染矢さん、それはあなたが一番よくご存知の筈です。これは本社と相談のうえ決められたことなので、ご了解下さい。そういうことですから、染矢さん。しっかり営業の実績を上げるようにして下さい。くれぐれもしっかり頑張って下さい。頼みますよ」
 いいですね、と念を押して店長は席を立った。
 英司はしばらくソファーを立ち上がることができずにいた。フリー来店、TEL受けの扱い、催事への参加の件などについて、あれこれと想いが駈けめぐるのだった。彼の心は、それを容易に受け入れることができなかった。
 その日英司は、電話外交をすることにした。初めての街なので、市場と見込み客の情況を把握するためである。早く、より多くの情報を得るためには、電話外交は有効だった。それは彼の十五年の営業経験から、実際身体で覚えたものであった。
 英司は倉庫のような室に入り、担当地域の見込み客票のファイルを、何冊か事務員に出して貰って、一枚、一枚眼を通していった。そして、一周忌、三回忌、七回忌という具合に見込み客票を整理していった。
「もしもし、お世話になっています。山陽石材と申します。今年の暮れには、三回忌をお迎えになると思うんですが、そろそろお墓の方、お考えではないでしょうか。ああ、そうですか。お金の方がねえ。確かに高額ですからね。でも、比較的手頃なお値段のお墓もありますからね。九寸角の先祖墓で三十八万くらいからありますよ。また、墓石ローンもご利用いただけますからね。それでは、また家族の皆さんとご相談なさってみて下さい。それでは失礼致します」
 英司は電話を切って、見込み客票に内容を記した。
「もしもし、お世話になっています。山陽石材と申します。奥さん、年が明けたらさっそく一周忌ですね。年末までにお墓のお考えはありませんか。ああ、そうですか。お墓の考えがおありになるんですか。それじゃ一周忌までにということですね。うちでお手伝いさせていただけませんか。ああ、そうですか。農業をやっているので、農協さんという心づもりをされているんですか。それじゃ、奥さん。カタログやチラシをお持ちしますので、農協さんと比較検討してみて下さい。それじゃ、また資料をお届けに上がりますので、よろしくお願いします。長い電話で失礼致しました。どうも有り難うございました」
 英司は農協という競合はあるけれど、お墓を考えているという人と話ができて、心が明るくなった。
 その日、英司は終日電話外交をした。予算がないとか、親戚が石屋を紹介してくれているとか、主人がいないので分からない、とかというのが大半であった。考えているという人は、何社もの競合というのが多かった。しかし、考えているという情報を得たことは前進なのである。そういう家には資料を持って訪問するということになる。
 六月初旬のお悔み訪問で、四十九日の法事までに先祖墓を考えていると言っていた、黒川さんとは無事契約することができた。
 お悔み訪問の日に市営墓地の測量をして、翌日設計しCAD図面を作成した。英司はその日に再び黒川さんの家を訪問した。
「黒川さん、図面ができましたのでお持ち致しました。二種類のデザインで図面を作成してみましたので、ご主人とよくご相談なさって下さい」
 玄関ホールにCAD図面を開いて、英司は言った。
「ああ、そうですか。もうできたんですか。早いですね。わあ、こんなふうになるんですか。なかなかいいデザインですね。でも私が一人で決めるわけにはいきませんからね。次の日曜日に主人と店舗の方に寄せて貰いますので、よろしくお願いします」
 黒川さんは、図面を眺めながら言った。
「奥さん、そうして下さい。これはあくまでイメージ図ですから、展示品を実際ご覧になって下さい」
「でも、これだけのお墓をするとなると、かなりかかるんでしょうねえ。それが心配です。染矢さん、しっかり勉強して下さいね」
 黒川さんは笑みを浮かべて言った。
「黒川さん、お墓のお値段は、大きさ、デザイン、石種によってだいたい決まってくるんです。それを決めていただければ、すぐに値段をはじくことができます。まあ、黒川さん、そう心配なさらずに、日曜日にご来店下さい。お待ちしていますので、どうかよろしくお願い致します」
 英司はそう言って、立ち上がった。
 黒川さんは次の日曜日に、主人と一緒に店舗にやってきた。展示品を色々見て廻って、墓の大きさ、デザイン、石種を決めて貰った。だいたいCAD図面のイメージを基本にして、お墓づくりをすることになった。そして、英司は見積書をすぐ作成した。いくらか値段の交渉はあったが、お互いに譲り合って合意することができ、無事契約することができた。
 英司は契約から四十九日の法事までの流れを、一覧表にして渡し説明をした。まず、K市に工事許可申請書を提出し、工事が竣工したら工事完了届を提出する必要がある。それらの事務手続きは、彼が代行して行うこととする。そして、墓石に彫る文字の打ち合わせをすること、工事日には立ち会って欲しい旨を話した。
「工事日は四十九日のご法事の前の、日曜日にさせて貰っていいですか。私が現場監督として立ち会います。その時、お清めの酒と塩をご用意下さい。簡単な儀式を行います。そして、ご法事の納骨には私がお手伝いに上がりますから、ご安心下さい」
 英司は黒川さん夫婦の顔を覗き込みながら言った。
「それでは、あとは染矢さんにお任せしますので、くれぐれもよろしくお願いします。染矢さん、手抜きのないようにしっかり頼みますよ」
 主人は白い歯を見せて言った。
「黒川さん、あとはお任せ下さい。私が責任を持って進めていきますので、ご心配はいりません。あと何回か打ち合わせがありますので、家の方へまた寄せていただきます。今日は誠に有り難うございました」
 店舗前の駐車場から車が見えなくなるまで、英司は見送っていた。
 黒川さんの工事日は、七月の第三日曜日だった。梅雨も明けて朝から太陽がさんさんと照りつけていた。工事に入る前に、お清めの儀式を行った。
 まず、墓地の前に黒川さん夫婦、工事班の頭領に並んでもらって、
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛……」
 真言宗の題目を、英司は七回唱えた。
 英司は塩を墓地の中央と四隅に盛り、その塩に酒を注いで廻った。彼と同じ要領で、黒川さんと工事班の頭領にして貰った。
 そして、英司は頭領と工事の打ち合わせをした。市営墓地にはいくつかの規則があり、違反したら遣り直しがあるので、綿密な打ち合わせが必要だった。市営墓地の工事管理には細心の注意が求められた。
 十時の休憩の時、
「染矢さん、M店に転勤になったそうじゃのう。通勤が大変じゃなあ。片道二時間はゆうにかかるじゃろう。じゃが、ご栄転じゃから、ちょっとは我慢せにゃいけまあ」
 頭領が冗談を言って笑った。
「でも、染矢さん。そんなことで負けょうたらおえんぞ。頑張れよ」
 屈託なく笑いながら、頭領は言った。
 もう工事班にも、ことの経緯が知れ渡っているのだな、と英司は思った。けれども、頭領の冗談めいた励ましは嬉しかった。
「まあ頭領、やけにならずに今まで通りに、仕事をやるつもりじゃけん、よろしゅう頼まあ。頭領、しっかり契約を取るけん、仕事が忙しい言うて音を上げんようになあ」
 微笑みながら、英司は言った。
「黒川さん、あとは私が工事管理をしますので、暑いですからまた完成した頃にきて下さい。三時頃には上がりますから、その頃お願いします」
 黒川さんに近寄って、英司は言った。
「それじゃ、そうさして貰います。これはジュースやコーヒーが入っています。どうぞ飲んで下さい。それに、これはほんの気持だけですが、受け取って下さい」
 黒川さんは、大きなクーラーボックスと祝儀袋を渡しながら言った。
「黒川さん、そんなに気を使われなくても良かったのに、済みません。それじゃ、気持ちよく頂戴致します。誠に恐縮です」
 英司は深く腰を折って、言った。
 黒川さんは、三時頃また墓地にやってきた。もう仕上げの段階で、シンナーで外柵や墓石を磨いていた。
「わあ、立派なのができましたね。こんなふうになるとは想像できませんでした。図面で見るのと随分感じが違って見えますね。染矢さん、有り難うございます。感謝致します」
 奥さんが甲高い声を挙げた。
「黒川さん、何のトラブルもなく無事に工事を終えることができました。四十九日建墓ですからねえ。仏様も喜んでいらっしゃることと思います。あと仕上げと片付けをして、帰らせていただきます。どうも有り難うございました」
 英司は喜んでもらえて、ほっと安堵した。
 十一月の初旬、北村の噂が英司の耳にも入ってくるようになった。北村が体調不良で休み勝ちだというのである。その原因が精神的なものだと聞いて英司は心を痛めていた。早いうちに北村の家に行ってみようと思った。いったい、北村はどうしたというのだろうか。あれだけ元気だったのに、何があったというのだろうか。
 英司は工場が休みの日を狙って、北村の家を訪問することにした。小春日和の爽やかな日であった。山の木々も少しずつ色づき始めていた。山の頂上辺りが赤や黄色に染まりつつあった。
 チャイムを押すと、奥さんが出てきた。
「ごめんください。突然に失礼致します」
 英司は軽く会釈をした。
「あ、染矢さん。いらっしゃい。うちの人はいま体調が悪いといって、横になってるんですよ。まあ、どうぞお上がり下さい」
 奥さんは英司を玄関脇の部屋へ案内して、奥の方へ戻って行った。
 英司は座卓の前に坐って、北村の体調を心配していた。果たして出てこれるのだろうか、という不安が過ぎった。北村はなかなか出てこなかった。
「染矢さん、ちょっと待って下さいね。体調が悪いらしくて、蒲団の中でぐずぐずしているんですよ」
 奥さんは部屋に入って、膝を折って言った。
「いいですよ。こちらが連絡もしないでやってきたのですから、気にしないで下さい。それで奥さんどうなんですか。具合の方はいかがですか」
 奥さんを見つめて、英司は言った。
「それが、夜、よく眠れないんです。寝つきは悪いですし、眠ってもすぐ眼が覚めるんですよ。浅い眠りでしきりに寝返りを打っています。染矢さん、夜眠れないというのが、辛くて大変なんです。それに、食欲がなくてあまり食べられないんでねえ。ご飯を少しと惣菜にちょっと手をつけるくらいなんです。本当に心配してるんですよ。どうなっているんでしょうかねえ」
 奥さんはいかにも心細げに言った。
「奥さん、病院には行かれてるんですか。眠れない、食欲がないというのは、身体の異変ですからねえ。気をつけなければいけませんよ」
 奥さんを見つめて、英司は言った。
「それが、病院嫌いですからね。私も勧めているんですが、言うことを聞かないんですよ。染矢さん、私も困ってるんです」
 困惑したように、奥さんは言った。
 その時、北村が部屋に入ってきた。頼りなげな足取りで歩いてきて、座卓の前に坐った。髭も剃られていないし、ブラシの当てられない髪は乱れたままで、蒼白な顔をしていた。そして、何よりも眼がどんよりと曇って、光がなかった。
「北村君、体調はどうなんじゃ。少し痩せたようじゃなあ。いま奥さんから聞いたんじゃが、よく眠れんし、食欲がないんじゃそうななあ。仕事も仕事じゃけえど、健康が一番じゃけえなあ。それで仕事の方はどうなっとんじゃ」
 北村の光のない眼を見て、英司は言った。
「染矢さん、仕事は時々休みをもらっているんですよ。身体が怠くて怠くてしようがないんですわ。一日中、倦怠感に包まれているという感じですね。それに耳鳴りがして困ってるんです。今もじぃーと、耳の奥で虫が鳴いているようなんです。染矢さん、原因は分かってるんですよ。工場に配転になってから、こんなになってしまったんですからねえ」
 眼を宙に泳がせるようにして、北村は言った。
「どんな仕事をやらされとるんじゃ。営業から工場の現場に廻されて、大変じゃとは思っとったんじゃ」
 英司は身を乗り出して訊いた。
「工場でもどこでもいいんですが、染矢さん、私は村八分扱いですからね。工場では独りだけ、どぶさらいをさせられたり、中国製品の木枠を解体させられたりの、雑用ばかりです。それだけならまだいいんです。秋の焼肉パーティにも誘って貰えなかったり、昼飯も私一人だけ除け者ですよ。工場の隅で独り昼飯を食べているんです。それはたまらんですよ」
 北村の濁った眼が哀しそうだった。
「北村君、私も同じような目にあってるんじゃ。M店では彼岸明けに、瀬戸内海のN諸島へ観光漁船を頼んで、底引き網漁にでかけたんじゃ。ところが、私は蚊帳の外、店の留守番をさせられたんじゃ。また、忘年会の回覧板がいま廻っているんじゃけえど、私の欄には勝手に『欠』という字が書かれている。これは北村君、弱い立場の人間を痛め苦しめるいじめじゃなあ。私はなんとか頑張っているけえど、君はいま頑張るというより、病院へいくことが先決じゃろう」
 まっすぐ北村の眼を見つめて、英司は言った。
「染矢さん、ぼくは病院が嫌いですから、いままで行かなかったんですが、考えてみます。こんな状態が続くようなら、この家も手放さなければならないかも分かりませんからね。この家はなんとしても守ってゆきたいと思ってるんです」
 部屋を見廻しながら、北村は言った。
「奥さん、ご主人が病院へゆく時は、一緒に行った方がいいと思いますよ。家族で支えあいながら、やってゆく必要があると思います。奥さん、いかがでしょうか」
 俯いて聞いていた奥さんに向かって、英司は言った。
「ええ、そうします。このままだと主人が可哀相です。主人は今まで仕事のことは、話したことがなかったんですけど、染矢さん、会社の仕打ちはひどいんですね。独りでどぶさらいをさせられたり、独りで昼飯を摂ってるなんて、ちっとも知りませんでした。あんまりです。これからは、少しでも主人の力になれるように、私も頑張ります。今日はどうも有り難うございました」
 奥さんは眼を赤く染めていた。

     (四)

 英司が開発部の辞令を受け取ったのは、新年が明けた五日の年始式であった。年始式は新年度の会社の方針と、各部の指針を発表する恒例の行事であった。その式で昇進、昇格者や配転の辞令が交付されるのである。
 年始式では百名前後の全社員が集合し、神主を招いて祝詞を上げて貰い、無病息災と会社繁栄の儀式も執り行われた。
 だが、北村の顔を見ることはなかった。彼は英司が訪問したあと、病院にいって診察して貰ったらしい。内科や耳鼻科での診察では異状が認められず、精神科に廻された。脳波や心臓の検査もおこなわれたが、内科的な異状は認められなかったのだ。精神科での診察の結果は、鬱病ということであった。
 北村は精神科の医師に処方して貰って、薬を飲みながら仕事に出ていた。いくらか改善の方向に向かっていたが、十二月に入ってまた休み勝ちになって、だんだん休日が増えていった。英司も心配で何回か電話をかけ、様子を伺ってきた。
「奥さん、どんな具合なんでしょうか。工場で訊いたら、休みが多くなってきたということでした。体調の方はいかがですか」
 北村は電話口に出てこなかった。
「染矢さん、ほんとに困ってるんですよ。今までは、身体が怠いといって、朝、蒲団のなかでぐずぐずしていても、起きだして来ていたんです。ところが十二月に入って、もう起き出すことができない日が多くなってきました。どうしたらいいんでしょうか」
 か細い声で、奥さんは言った。
「奥さん、病院の先生はどんなふうにいっているんですか。いったんは症状が改善してきたのに、また元のような状態に戻ったのでしょう」
 英司は受話器を強く握り直した。
「先生は少し仕事を休んだ方がいいと言ってるんですよ。先生には職場の情況も話したんです。すると、仕事と人間関係のストレスが大きすぎて、受けとめる器の容量を超えているというんです」
 奥さんは口ごもりながら話した。
「奥さん、どうでしょう。やはり先生のいう通りにした方が、いいんじゃないんでしょうか。何よりも健康を優先して、考える必要があると思いますよ」
 英司は訴えるような心持ちだった。
「そうですね。そのように、主人に言ってみます。染矢さん、気を使っていただいて、本当に有り難うございます。今後とも主人のことをよろしくお願いします」
 いくらか張りのある声で、奥さんは言った。
 北村はそれから休みをとるようになったが、しかし、十二月末をもって会社を退職したのだった。英司はそれを聞いて、驚いてしまった。これから先、北村はどのように生き、働いてゆくというのだろうか。同じような境遇におかれた友人が失われたことで、英司の気持は落ち込んでゆくようであった。
 開発部というと、何か夢や希望のある部署のようだが、この会社では閑職だと言われていた。そこに英司は配属されることになったのである。
 開発部には、部長の他二名の社員と女性事務員が一名いたが、この三名の社員は墓石のフランチャイズ・チェーンの組織作りに関わっていた。しかし、もう三年にもなるのに、加盟店はまだ一社に過ぎなかった。決して芳しいとはいえない業績が続いていた。会社のお荷物だという噂が囁かれていて、冷たい視線が注がれていた。
 そこに、英司は配属になったのだが、彼の仕事は、寺院や葬儀社、仏壇店やギフト店と提携することであった。墓石をはじめとした石材の仕事を紹介して貰うパイプをつくる、という役割が与えられたのである。
 英司はまず寺院巡りをしてゆくことを考えた。しかし、寺院との提携、協力関係を築くという仕事は、決して簡単に成功するものではなかった。それは今までの彼の経験から知り得ていることであった。だから、いまさら寺院や葬儀社との提携といっても、決して展望が開けているわけではない、ということが彼にはよく分かっていた。
 が、会社がそういう方針でやるというなら、英司も従わざるを得ない。けれども、開発部長は彼に対して、
「染矢君、ここでそれなりの実績を残さなければ、もう後がないと思っていてくれ」
 と、告げてきた。それは解雇を匂わすものだった。
 開発部の所属といっても、英司には席さえ与えられず、机も椅子もなかった。だから、彼は書き物や資料の整理などは、車でやることになった。軽自動車の内が文字通り、彼の事務所となり席となった。
 やはり、英司は四月の花見にも誘われなかった。彼等が花見に興じている時、彼は独り寺巡りをさせられていた。それは彼にとって、このうえない屈辱であった。そんな処遇に彼の心は揺れるのだった。
 しかし、今ひるんで、辞めるようなことをしたら、自分が、自分という人間が、崩れてしまいそうな気がするのである。だから英司は、ここで働きぬくという願いを果たしてゆきたいと思うのだった。
 英司は春になって、北村の家を訪ねたことがあった。しかし、北村はもうそこにはいなかった。表札がはずされ、「売家」という不動産屋の立て看板が、門柱にくくり付けられていた。彼はしばらく呆然と、そこに立ち尽くしていた。北村はどうなってしまったというのだろうか。北村は誰にもその行動を告げず、行方知れずになってしまった。
 英司は家の周りを、悄然とした足取りで廻ってみた。木造二階建ての洒落た建物であった。子ども部屋にしていたのだろうか、二階に二部屋あるように見受けられた。中学二年生の男と子と、小学六年生の女の子がいると聞いていた。その部屋は外界を遮断するように、厚いカーテンに閉ざされている。一階にはおそらく北村とその妻が、起居していたのだろう。
 そのごく普通な、日常の平和な幸せがこわされてしまったのだ。それは庭の伸び放題の草や、庭木に張った蜘蛛の巣などが、如実に物語っていた。
 英司は来る日も来る日も、寺巡りを続けていた。寺院名簿で寺の名前、宗旨、僧侶の氏名を確認し、住宅地図をたよりに寺院を探して、訪問するのである。
 六月のある朝のことであった。英司が車の中で寺院の住所を地図で調べていた時、運転席の窓硝子をこつこつと叩く音がした。そこに立っていたのは、開発部の女性事務員の奈津子だった。彼女は四十七歳で、若い頃保育士をしていたが、十二年ほど前にこの会社に入って、最初支店の事務員をしていたのだった。
 英司が怪訝そうに見上げると、奈津子は窓硝子の向うで微笑んでいた。彼が窓硝子を下げると、
「染矢さん、ご苦労さま。これからお出かけですか。これをお渡ししておきますので、あとで開いてみて下さい。いま私はゆっくりしておれませんので、これで失礼します。お気をつけて行ってらっしゃい」
 奈津子は笑みをこぼしながら、白い紙包みを渡して、そそくさと去って行った。
 英司が包みを開いてみると、中からキーホルダーと交通安全のお守りが出てきた。そして、手紙が入っていた。
 手紙にはこんなふうに書かれていた。
 ――染矢さん、毎日、ご苦労さまです。染矢さんに対する会社の処遇は、眼にあまるものがあります。私たちは陰ながら心より応援しています。しかし、それは染矢さんだけの問題ではありません。例えば、サービス残業の強要や朝、定時より三十分前に出勤せよという指示、そして退職勧奨や理不尽な配転などなどの問題があります。さらに営業部では、ご存知のように営業社員に不利になるような、一方的な報奨金制度の改定などの問題があります。
 ――これらの社員の悩みや要求を実現するために、いま労働組合を立ち上げる準備を進めているところです。また時機がきましたら、染矢さんのお力を借りたいと思っています。北村さんのような悲劇を二度と起こしてはなりません。染矢さん、どうかそれまで頑張っていて下さい。キーホルダーは、連帯の鈴です。そして、お守りはいつも車に乗っている染矢さんの、交通安全を祈ってのものです。どうか、お受け取り下さい。ではまた、失礼致します。
 英司はこの手紙を読んで、呆然と立ちすくむ想いだった。しばらく梅雨の晴れ間の空を見上げて、身じろぎもできなかった。ただ、青く広がる空に眼を泳がせていた。そして、やさしい言葉に触れて、胸が熱くなってくるのだった。
 キーホルダーを手に取ってみると、その先には鈴が二つついていた。振ってみると、りんりんと鈴が鳴った。英司は早速キーホルダーに鍵をつけた。お守りはフロントガラスの右隅に吊り下げた。彼はエンジンをかけ、アクセルをゆっくり踏んで、寺巡りに向かった。車が震え、鈴が心地よく鳴り響いた。
 英司は山門をくぐって境内を見渡した。正面に本堂があって、瓦屋根が鈍く光っている。山門の右手、塀の近くに銀杏の大木が枝を広げ、萌黄色の葉が風にさわさわと揺れている。本堂の横に庫裏が見える。彼は飛び石を踏んで玄関まで歩を進め、その脇のインターホンを押した。すると、
「どちらさまでしょうか」
 婦人の声が返ってきた。
「ああ、ごめん下さいませ。山陽石材と申します。ご住職はいらっしゃいますか。ちょっとお願いがあって、お邪魔させていただいたんですが、よろしくお願い致します」
 いくらか緊張して、英司は言った。
「ああ、そうですか。少しお待ち下さい」
 インターホンで婦人の声がした。
「さあ、どうぞお入り下さい」
 しばらくして、玄関で野太い男の声がした。
「いつもお世話になっています。山陽石材の染矢と申します。ご住職、ちょっとお願いがあってお邪魔させていただきました。よろしくお願い致します」
 深く腰を折って、英司は頭を下げた。
「ああ、そうですか。それじゃ、ちょっとお上がり下さい」
 住職は先にたって、部屋へ案内した。
 英司は住職の後についてゆくと、そこは応接間だった。住職はソファーに手を伸ばして、どうぞお掛け下さいと言って、奥の方に戻っていった。奥さんと何やら話している様子だった。
 英司はソファーに坐り、応接間の内をぼんやりと眺めていた。すると、正面左の壁に一枚の絵が掛けられているのが見えた。浅緑と淡い水色を基調にした山林の絵だった。彼は絵が好きだったので、誰の絵かだいたいの見当がついた。東山魁夷の絵のようだった。霧に霞んだような林だったが、その絵からは、風とそれに揺れる木々のざわめきが、聴こえてくるようであった。やがて住職が応接間に入ってきた。
「ご住職、いい絵ですね。東山魁夷の絵でしょうか」
 住職の顔を覗き込みながら、英司は言った。
「そうです。魁夷の絵ですよ。よくご存知ですね。これは檀家の方からの贈り物です。リトグラフですがね。私も魁夷の絵は好きなんですよ」
 絵の方へ振り向いて、住職は言った。
「山陽さん、どうですか。景気の方は、忙しくされているんでしょう。お宅は手広くやっていますからね。いま、何店舗出しているんですか。車で走っていてもよく看板を見掛けますよ」
 玉露を淹れながら、住職は言った。
「ええそうですね、いま九店舗です。岡山県と広島県にかけて展開しています。ご住職、看板はあれでも随分はぶきました。かなり少なくなっています」
 英司は会社案内のパンフレットを出し、住職に渡した。
「さて、今日お邪魔させていただいたのは、他でもございません。このお寺に灯籠や石工事などのご計画はないかと思いまして、伺ったような次第です。また、檀家さんで、墓石などのご相談がおありになると思うのですが、その節には、弊社にご紹介いただけないかと思いまして、お願いにまいりました。ご住職いかがでしょうか」
 住職の眼をまっすぐに見て、英司は言った。
「山陽さん、残念ですが今のところ、寺で石工事などの計画はありません。また、檀家の墓石建立にあたっては、色々な弊害が出てきますから、こちらが口を挟むようなことはしていません。檀家の方々がそれぞれ自由に、墓石店を選ぶように申しております。檀家を紹介して、マージンなど貰っているような寺もあるようですが、私はそのようなやり方を良しとしていません。まあ、山陽さん、そのようなことで、何のお役にも立ちませんが、今後ともよろしくお願いします」
 住職は英司の申し入れを、さりげなく断った。
「ところで、染矢さん。商売の話とは別ですが、この寺はご存知のように禅宗ですから、日曜日、午前六時より坐禅を行っていますから、良かったらお越し下さい」
 住職は澄んだ目で、英司を見つめた。
「ああ、そうですか。坐禅をやってらっしゃるんですね。また機会を見つけて、寄せて貰ったらと思います。今日は貴重なお時間をとらせまして、大変失礼致しました。どうぞ、これからもよろしくお願い致します」
 深く頭を下げて、英司は言った。
 英司は禅寺を辞して、空を見上げた。梅雨の晴れ間の空は蒼く澄み渡り、太陽は西に傾いていた。彼はもう一ヶ所寺を廻って、会社へ帰ろうと思った。
 車を駐車場に停めて、英司は石段の下に立って山門を見上げた。急な石段が山門まで続いている。彼はゆっくりと、その石段をのぼって行った。のぼり詰めるとそこは板石が敷設されていて、いくらか広い空間となっている。
 英司は振り向いて、今のぼってきた石段を見下ろした。人があまり踏みしめない石段の両側は苔むしていた。視線を上げると、瀬戸内海が広がっているのが見渡せた。水平線は空と海が溶け合ってぼんやりと霞んでいた。蝶が乱舞するように海は光り輝いている。貨物船が浮んで、ゆっくりと過ぎってゆくのが見えた。
 山門をくぐって、英司は本堂の前まで進み、合掌をして深く頭を下げた。庫裏は本堂の右手にひっそりと佇んでいた。彼は飛び石を渡って、庫裏の方に向かって進んだ。
 庫裏の玄関ポーチ横には花壇がしつらえられていて、花が植わっていた。鮮やかな緋色をした花弁であった。英司は、あっと声を挙げそうになった。昨年の今頃、店舗の裏手の駐車場に咲いていたのと同じ花であった。やはり太い茎がまっすぐ伸び、その頂きに六枚の花弁をつけている。凛とした趣きが彼の心に触れてきた。
「ごめん下さい」
 英司は引き戸を少し開けて、声をかけた。
「ああ、いらっしゃい。どちらさまでしょうか」
 と言いながら、婦人が奥から出てきた。
「失礼致します。山陽石材と申します。ご住職はいらっしゃいますでしょうか。ちょっとお願いがあって、お邪魔させていただいたのですが、よろしくお願い致します」
 引き戸を開いて、英司は玄関の中に入った。
「あいにくですが、住職はいま出かけております。どんなご用件ですか。私に分かれば伺っておきます」
 婦人は玄関ホールの床に坐って、丁寧な言葉で答えた。婦人は住職の奥様なのだろうと思われた。和服を着てつつましやかだった。
「ええ、石材関係のお願いに伺ったんですが、それじゃ、また住職のいらっしゃる時に、もう一度お邪魔させていただきます。ところで奥様、ポーチ脇の花壇の花はなんという花でしょうか。恥ずかしいことに名前を知らないんですよ。綺麗な花ですねえ」
 英司は奥さんのやさしい眼をみて言った。
「ああ、あれですか。綺麗でしょう。あの花はアマリリスというんですよ。私も好きで毎年咲かせているんです。それに、花言葉が気に入っててね。花言葉は誇り、というんですよ」
 微笑みながら、奥さんは言った。
「ああ、そうですか。アマリリスというんですね。誇り――ですか。奥様どうも有り難うございました。また、お邪魔できたらと思っていますので、よろしくお願い致します」
 深く一礼して、英司は玄関を出た。
 英司は花壇の前に坐って、アマリリスを凝視していた。昨年六月からのことが走馬灯のように甦ってくるのだった。彼は自身のおかれた境遇に想いを馳せるとき、一瞬辛くて哀しくなった。だが、凛としたアマリリスに接して、込み上げる感動を抑えることができなかった。涙がにじんで、周りが霞んで見えた。
 陽は西に大きく傾いて、山影に落ちようとしている。斜めに射し込む光は、アマリリスを黄金色に染めていた。
 英司は、
「誇り――。尊厳――」
 と呟いて、立ち上がった。
 英司は軽自動車に乗り込んでエンジンをかけ、アクセルを心持ち強く踏み込んだ。すると、車が少し揺れて、鈴が軽やかに鳴った。
プロフィール

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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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