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鬼藤千春の批評 「麦秋」

秀作・有坂初江「麦秋」を読む  鬼藤千春
2007年1月「まがね」第45号
 キッチンでガラスコップの曇りを磨いていると、次子の背後で電話が鳴った。夫の久が受話器をとり、「やめたんか」という声が聞こえてきた。長男の克人からの電話だった。
 「克人がまた仕事を辞めたそうや。次の仕事は、決めとるそうや」と久が言った。「14年間に、4へん目の失業や」、「どうなっとんかなあ」
 克人は高等専門学校電子工学科を卒業し、東京のソフトウェア会社に就職した。現在33歳で独身である。
 次子は15年前の今頃、克人が就職試験を受けたことを思い出していた。田んぼが麦秋の季節を迎えている頃だった。
 「面接の時、父親が勤める会社の名前を訊かれたんや。父ちゃんが共産党員やということが分かったら、内定しても取り消しになるかも分からん」
 「今頃でも、そんなことあるんかな」
 「あるんだよ。父ちゃんも母ちゃんも甘すぎるんだよ。内定が取り消されるようなことにでもなったら、恨んでやる」
 「父ちゃんが何をしたというの。組合の大会でいつも発言することが、そんなに嫌われねばならないことなの」
 「そんな理屈、聞きとうない。あんたたちには、子どもの幸せを願う気持ちがないんか」
 克人は大学へ行きたいという希望を持っていた。しかし、中学校卒の共産党員の父親と、パートパートを繋ぐようにして働いている母親だった。3人の子どもが皆大学へ進学できるなんて、夢でも無理だと思い至ったようだった。大学進学の夢を絶たれ、希望する就職先の夢まで絶たれてたまるかという苛立ちが、そうした言葉を発しているのではないかと次子は思った。
 しかし、就職の内定取り消しということはなく、無事就職できた。が、克人は最初の就職先を4年で辞めた。〈長時間労働がたまらん〉と克人は言った。てもいいが、次子にはその実態がよく分からない。しかし、克人をとおして、あまりにも過酷な職場が多い、ということだけは分かっていた。
 電話があった2日後に克人は丸亀の実家に帰ってきた。克人は2階に荷物を置いて1階に下りてきた。「おやっさんは」と訊いた。久は他家の掃除にバイトに出かけているのだった。次子も一緒にいくところだったけど、克人が帰って来るというので、待っていたのだった。
 「あんさんたちは、そんなことまでしよりますんか」
 「年金は削られるし、健康保険、税金などの支払いも、大変なんよ。年金で足りないのなら、働けってことでしょうね」
 翌朝、克人は山に登ってくると言った。「香川県の山」という本を持っており、彼は出かけていった。次子は部屋の掃除でもしてやろうと思って、2階へ上がった。布団も上げており、思ったより片付いていた。次子は部屋の隅に2つの瓶を見つけた。ひとつはサプリメントの茶色い瓶と、もうひとつは白い錠剤の入った瓶である。
 白い錠剤は胃薬である。33歳という若さで胃が悪いのだ。医者に行くと、不規則な労働が原因だと言われたそうだ。次子は掃除の手を休め、その場に座り込んだ。克人の、きつい労働と生活ぶりが透けてくる気がした。働きながら命を削られている。克人が4回も仕事を辞めたのは、自分でブレーキをかけたということなのかと次子は考えていた。
 翌朝、克人はまた東京へと旅立って行った。麦刈りはもう終わっていた。次子は、麦秋の光景に、克人の自立する日を重ねて、想像した日があったことをまた思い出していた。

 これは、2007年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。共産党員を父親にもつ息子の生き方を掬いとった佳作である。貧しくも慎ましく暮らす共産党員家族の在りようを描くとともに、息子を通して生き難い社会と時代の相を写し取っている。何よりも主人公次子の、息子に注ぐ眼差しが温かくて、しかもその視座は広くて深いところが優れている。
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鬼藤千春の批評 「遠ざかる灯」

秀作・諸山立「遠ざかる灯」を読む  鬼藤千春
2003年10月「まがね」第40号
 20年ぶりの中学校同窓会が2週間後にせまっていた。直樹が洗顔をすませて部屋に戻るとき、脈がとんだのが判った。朝食のとき、妻に脈のとんだことを言った。「気にしすぎよ」と、頭からとり合ってくれない。
 この夫婦の会話が軽妙で面白い。
 「死ぬかと思うから、心配になるのよ。死んでもいいと思っておれば、別に恐れることないんじゃない」
 「その、死んでもいいと思えんから問題なんだ。そんなに簡単なことじゃあない」直樹は台所で食器を洗っている妻の背を睨みつけた。
 「死んでもいいんじゃあない? もう俺は役目が済んだって、自分でいつも言ってるじゃないの。それに、これから大仕事を始める訳でもないでしょう」
 「それだったら、お前も同じじゃないか。お前、死んでもいいと思っているのか?」
 「私? 私はあなたより若いもん。まだまだ死ねないわ」と言い、
 死ねない理由は? 「それはねえ、あなたのこと。私がいなかったら、あなた独りで生きていけないじゃない」
 今回の同窓会は北陸の海沿いの温泉で開かれる。その不安が脈をとばしているのかも知れないし、何かの悪い兆候かも知れぬ、と思った。
 同窓会は盛会だった。50年ぶりという初参加者が7人もいた。直樹は、病院で24時間心電図までとった。が、どこも悪くないという診断と、軽い精神安定剤をもらった。とくに身体の変調はみられなかった。
 宴会をお開きにして、会場をラウンジに移して2次会が盛り上がっている時、妻から電話があった。「あのね、町内の小西さんが亡くなられたの。夕方に気分が悪いと言ってご飯も食べずに横になったというの。それで――そのままってことらしい」
 直樹はラウンジへ戻ったが、急に気持ちが冷えて仲間たちと一緒には騒げなくなった。〈こんな時に――いやな電話だ。朝すればよいものを〉妻を恨んだ。トッと脈がとんだ気がした。脈拍を計ってみたが異常はない。が、不安がどっと押し寄せてきて、心を締めつける。
 安定剤をとりに部屋に戻ろうと立ち上がった。ラウンジの入口で理子に出会った。中学生のとき、好意を寄せていた女性だ。横をすり抜けようとしたが、腕をしっかり掴まれた。少し酔っているようだ。
 「どこにいたのよ。ちっとも話をしてないじゃないの」
 「やめろ。部屋に用があるんだから」
 「あら酔ったの? 苦しいの? だったら部屋に行こう。私介抱するから」
 理子は結局部屋までついてきた。
 「大事にしてよね。1人じゃ不安でしょ。私少しの間、傍にいるから横になったら」理子は手を引いてソファに座らせた。母親が病気の子どもの世話をやくような感じだ。
 「理子、お前宴会ですごくはしゃいでいたから、幸せいっぱいというところなんだろうな」
 「はしゃいでいるように見えた? 自然にしとこうと思ってたんだけど、だめねえ。知らないうちに突っ張ってたのね、私」
 「主人が死んじゃったの、春。まだ半年にもならないの。誰にも言ってないからみんな知らないわ。だから、直ちゃん。奥さん大事にしてよ。生きているっていうことが、どれだけ大事で、素晴らしいことかって。生きていてほしかった」理子は何か宣言でもするようにきっぱりと言った。
 習慣とはおそろしいもので、翌朝5時半きっかりにいつものように目が覚めた。吉沢と2人、11階の部屋に戻ったのは1時を過ぎていたように思う。身を起こし、枕許の水差しの水をゴクゴクと飲んだ。
 「起きたのか」吉沢が声をかける。暫く2人は蒲団に入ったまま、暗いなかで『死』について言葉を交わした。それは、直樹が小西さんの死亡のことを話してから、自然にそういう流れになった。自分たちはあと何年永らえるのだろうかと、2人とも長いため息をついた。
 「俺はもう、いつ死んでもいいと思ってる」吉沢がニヤリと笑って言った。
 「もうそんな台詞はやめようぜ。もっと、生きる意味をもって生きるんだよ。やることは結構さがせばいっぱいある筈だぞ」
 直樹は自分に言い聞かせるつもりも含めて強く言った。
 直樹は起き上がり電燈をつけ、窓のカーテンを引いた。夜はまだ明けてなかった。岬に続く道なのであろう、ヘッドライトが連なってふたつ、ゆっくりと遠ざかっていく。冷たく硬いその光は、魂が天上に昇ってゆく姿にも思えた。
 〈ふたつ同時とは、行かないものだ〉
 振り返ると、吉沢はひどく深刻な表情をして正座をし、天井を睨んでいた。指にはさんだ煙草の灰が長くなり、今にも蒲団の上に落ちそうだった。

 これは、2004年度「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。人間の根源的問題である「死」について考えさせる一編で、派手ではないが、深く「死と生」について迫っている優れた小説である。

鬼藤千春の批評 「英ちゃん」

秀作・実盛和子「英ちゃん」を読む  鬼藤千春
1992年8月「まがね」第24号
 敏子の姉の夫、義兄の葬式のあとの打ち上げでのことである。喪の客も次第に立ち上がって、午後5時に始まった酒盛りも大分下火になってきた。もう9時になっていた。が、居残った人たちは足を投げ出したり、立てひざをしたりして行儀が悪いことおびただしい。喪の家の者が酒席をもてなし、燗の番から酒の酌までやらされるのである。
 敏子はそれがたまらない。独り台所にいると、「一寸きて酌でもせんかや。積もる話もあるでのう」と、幼な友達の英一(英ちゃん)が来て言った。敏子が燗をして座敷に入ってゆくと、英一は大胡座をかいている。「ま、ええから一杯飲めや。わしにも酌をさせてくれえや」敏子にコップを持たせ、ビールを注いだ。そして敏子の顔をしげしげと見た。
 「あんたも偉うなったのう。で、今は共産党の幹部か。子どものころ泣き虫じゃったあんたがのう」、「いや私は幹部でも何でもありゃしません。ただ『赤旗』を配ったり、ビラを撒いたりしとる位です」それから英一は、葬式の電報のことで、からんできた。共産党の参議院議員候補と町会議員候補の弔電は、お前が打たせたのかというのだった。
 「共産党も厚かましいのう。明日は町議選挙の告示ぞ。わしは同級の中山京一を応援しょうるんじゃ。この村で票がよそへ逃げるようなことはわしが許さん」英一はよほど腹に据えかねているようだった。「じゃからわしは共産党が大嫌いなんじゃ」と憤慨している。
 「共産党がむつかしゅういうから、まとまるもんもまとまらん。皆とおなじことをしょうりゃあええんじゃ。電報までよこしても此処の票は何ぼも出りゃあせん」敏子は呆気にとられてしまった。何時の間に英一はこんなにわからずやになったのか。こんな支離滅裂な論理が通るとでも思っているのだろうか。
 「あれ、もう10時じゃが、そろそろ迎えの電話を入れようか」と姪の益美が言って、英一の家に電話をした。ものの5分もすると英一の息子はやってきた。40歳くらいの背丈の高い息子に半ば担がれるようにして、英一は玄関を出て行った。
 それを見てから敏子はそっと裏口へ回った。「英ちゃん、そこまで送ろうか」、「あ、送ってくれるいうんか、嬉しいのう」と言って、英一は息子を先に帰らせた。夜風が肌をなぶるような4月の夜である。「ここで蛍とってよう遊んだなあ」、「よう遊んだのう。あの頃はよかったのう。敏ちゃん、あっという間の50年じゃ」
 「英ちゃん、今日座敷で共産党のことを大嫌いというたけど、あれは本気でいうたん」敏子は一寸きつい調子で言った。「英ちゃん、あんたずっと以前に共産党に入っとったことがあったなあ。どうしてやめたん?」英一は立ち止まったまま、煙草をふかく吸い、吐き出した。「ひと口にはいえんのう。戦後のどさくさ紛れにやったことじゃ」
 「原因は矢張りレッドパージかなあ。ある日、突然わしの目の前から党が無くなってしまったんじゃ。それで途方にくれてのう。寄ってゆくところもないし、やめたも同然よ」
 「では共産党を嫌いというわけではないんじゃね」敏子は、この点だけははっきりさせないと気が済まない。「英ちゃん、私は共産党に入って20年になるけど、いつも胸を張っとるよ。それはしんどいことは一杯あるわ。でも世の中を変えるんじゃから当然のことじゃ。だからこそしんどくてもやり甲斐があるんじゃない」英一は何もいわずに聞いていた。解った、解ったというように頷いていた。
 「敏ちゃん、一寸待っとれや。苺が熟れとるで」英一はハウスの中に入っていった。暫くごそごそ動いていたが、両手いっぱいの苺を摘んで出て来た。「食べえや。今年は出来が良うてのう」敏子はひとつ摘まんで口に含んだ。ツンと甘酸っぱい味と芳香が口の中に広がった。英一は敏子の白いエプロンを広げさせて、その中に苺を入れた。
 エプロンの中の苺はさわやかに匂った。

 これは、1992年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。英ちゃんの人間像がくっきりと活写されている佳編である。「苺」という題名にしてもいいような、苺の甘酸っぱい味と香りが英ちゃんの「人となり」を象徴的に表している。

鬼藤千春の批評 「四十年目の夏」

秀作・妹尾倫良「四十年目の夏」を読む  鬼藤千春
   1986年3月「まがね」第15号
 被爆40周年を迎えたこの夏、広島で被爆した100人近いジャーナリストの「不戦」の碑が建立された。その機会に、被爆したジャーナリスト関係者と家族の消息を調査し、聞き書きなどして平和の尊さを世に伝える企画がなされた。
 「私」は津山に被爆者の家族がいるというのを聞いて、そこを訪ねた。そして、広島の原爆に遭った家族に会い、その様子を聞かせてもらったのである。その人は、主人を原爆で喪った未亡人で、気持ちよくその模様を話してくれた。
 主人は津山新聞(のち岡山新聞に吸収合併される)の記者をしていた。20年の5月に広島へ赴任することになった。8月になって広島が大変なことになったということが伝わってきた。主人から速達がきたのは終戦の翌日16日だった。その手紙は代筆でした。「広島の戦災にて重傷致し、国民学校講堂に伏床中なれど、板の上にそのままでフトンもなく困りはてておられる」というものだった。
 そして、姉の婿が広島へ行ってくれたんです。顔と腰以外は全身火傷で床に寝かされており、歩くこともできなかった。姉婿は担架を都合して、津山まで連れて帰ってくれた。主人はすぐに入院しました。「背中がむずむずする、見てくれ」と主人は言いました。見ると蛆がわいていました。生きとる人間に蛆ですよ。
 「手に針が立っとる。カミソリが立っとる、取ってくれ」と主人は言うんです。ひりひりして痛かったんでしょうな。そんなことがあって、やがて主人は亡くなってしまいました。8月24日、年齢は34歳でした。
 私は30歳で未亡人になったんです。考えてみれば、結婚生活は7年間でした。それからはとにかく働くばかりでした。5人も子がおれば、私が頑張る以外道がないでしょう。行商、失対事業、寮の管理人、とにかくよう働きました。生活保護も末っ子の奈津ちゃんが中学に入ってから、初めてもらえることになったんです。子どもが幼い時は、生活も苦しかったし、何度一緒に死のうと思ったか知れません。話が終わったのは2時近かった。朝の9時からの聞き書きだった。
 最後に奥さんは言った。
 「今はええです。戦争はもういやですな」

 これは、1986年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。「まがね文学会」としては、三宅陽介の「山男と弥ァやん」の優秀作につぐ、2人目の受賞である。
 奥さんの話が被爆の情況、残された家族の生活の在りようをリアルに伝えている作品である。妹尾倫良の作家活動のひとつの一里塚であるとともに、それ以後の作家としての歩みの起点ともなったものである。

鬼藤千春の批評 「山男と弥ァやん」

秀作・三宅陽介「山男と弥ァやん」を読む  鬼藤千春
     1978年9月「まがね」第3号
 この作品は、「民主文学」‘78年の支部誌・同人誌推薦作の優秀作に選ばれたものだ。また三宅陽介が、35年以上にわたる作家活動の出発点となった、記念すべき作品である。その後、彼は2つの長編とその他の単行本を上梓し、数多くの短編、そして随想を発表してきた。
 この作品の主要な登場人物は、「山男と弥ァやん」、そして視点をもった「ぼく」の3人である。この3人の人物形象が優れている。まさに、血と肉をもったリアリティのある人間として、作品の中で生きている。
 特に、弥ァやんが生き生きと描かれている。彼は終戦の日から50日ほど経った、秋の半ばに戦地から帰ってきた復員兵である。弥ァやんは25、6歳の青年で、ぼくとひと回りくらいの年の差があった。
 彼は戦地から村に帰った翌朝には田圃に出て、鍬を揮い村の衆を吃驚させた。また、彼は松茸引きの名人だった。ぼくは働き者で、松茸引きのうまい弥ァやんを敬服していた。ぼくは以前、彼に松茸引きに連れて行ってもらったことがある。
 その弥ァやんが、まだあたりが仄暗い朝、松茸引きに出かけていて、偶然、山男に出くわしたのである。山男は山兎のようにすばやく消えてしまった。その話が広まると、わしが山で逢ったのもその山男かも知れん、という目撃者が現れた。寺の住職だった。
 そして、3番目の目撃者になったのは、ぼくだった。見たのは鎮守の森から50米ほど登った天王さんだった。ひと坪ほどの祠の祭壇の前で兵隊服の男が、お供え物を食べているのだった。そして、男はぼくたちの方を見てにっと笑い、大股に歩いて山へ入って行った。
 それから、村ではさまざまなことが起こるようになった。お初っあんの台所に入り込んで、羽釜に半分以上あった麦飯が、ひと粒残さず平らげられていた。そして、留守の間に何者かに入られて飯を食われた、という家がだんだん現れるようになった。
 その頃から、山男の正体は脱走兵らしい、という噂が流れるようになった。台所の土間についてある足跡が、大きな兵隊靴だったのだ。そして、役場の人の話では、終戦のひと月ほど前、この村の駅に臨時停車した軍用列車から、ひとりの兵隊が逃げ出したことがあったという。その脱走兵が、龍王山にこもっている山男ではないかというのだった。
 ぼくのお祖母ァは、自分の息子を戦争でなくしていたが、墓参りだと言って、頻繁に墓地に行くようになった。饅頭や餅のお供え物は、お父うと山男のためのように思えた。
「ほんに死んでしもうてはつまらんのう。お国のためじゃいうて、死んでしもうたら何にもならんことよ」とお祖母ァは、お父うの墓の前で声を震わせて訴えるのだった。
 3月に入って、山男をつかまえるために、部落総出で龍王山の山狩りをすることが決まった。捜索隊は40数人集まり、弥ァやんは副隊長である。家には男手がいないので、隊員としてぼくも参加した。
 8人から10人くらいで5つの班をつくり、龍王山の5つの谷を捜索するのである。しかし、山男は見つからなかった。そして、弥ァやんが解散を宣言した。そして、みんな山を下りかけた時、忘れ物をした太一サが引返したら、石垣をよじのぼっている山男を見つけて大声を上げた。
 そして、山男は捕らえられたのである。あっけない幕切れだった。弥ァやんは役場の兵事係と駐在所の巡査に山男を突き出したのだった。お祖母ァは晩飯の時、誰にともなく言った。
「山男サは可哀そうなことをしたのう。せっかく命が助かって、ええ所に住んどったのに。ほんに弥ァやんはむごいことをしたのう」

 この作品は、詩人の土井大助や評論家の佐藤静夫などから高い評価を受け、三宅陽介が作家として歩み始めた処女作である。
プロフィール

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Author:FC2USER634322BTA
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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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