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随想 「65歳からの旅立ち」



六十五歳からの旅立ち
              鬼藤千春

 六十五という年齢は、我が人生の座標軸のなかで、どんな位置を占めているのだろうか。決して若いとはいえないが、まだ死という観念がわたしの心を捉えているというわけではない。それどころか、暢気なことにいつまでも生きていられるような、そんな心の在りようである。
 わたしは六十三で仕事の現場から退いた。六十五までは、再雇用で会社に残っていてもいいことになっていたが、あえて退職の道を選んだ。仕事がつまらなくなったということもあるが、それ以上にわたしの心を捉えて放さなかったものがあった。
 それは文学である。思う存分に書いて、読書をしようという心持がふくらんできたのだった。が、その想いはこの二年間果たされたといえるのだろうか。三つの短編小説と四つの掌編小説を書いてきた。原稿用紙にして百六十枚といったところだ。読書は単行本で約百五十冊である。これでは、思う存分という想いが果たされたとは、とうてい言えるものではない。後悔の想いが募るばかりである。
 人間裁判の朝日茂は手記の中でこう書いている。
「私は、この七年間に、血を吐きながら、祈りをこめて、願いをこめて、約八千通の手紙を書いた。ベッドに寝たきりの身体では、手紙を書いて訴えるよりほかに、闘う方法がないのである。私には書くことが闘いであり、組織をつくることであると思った」
 七年間に八千通の手紙というのは、驚くばかりで、その執念には言葉もない。一年に千百四十二通、月九十五通、一日三通強というのだから、それは推して知るべしというべきである。しかも、朝日茂は苺のような血を吐きながら、書いてきたのだ。まさに、彼にとっては、「書くということは生きること、生きるということは書くこと」にほかならなかったといえるだろう。
 また、窪田精は次のように書き残している。
「私は戦争中、反戦的な活動に参加したということで逮捕され、囚人部隊として南洋トラック島に一種の流刑囚として送られた。囚人部隊の数は一千五百名をこえていたが、その多くは無惨な死にかたをした。生還できたものは、わずか数十名だった。
 私はトラック島で、生きながら人間の地獄をみた。戦争というものの実態を、まざまざとみた。私はこの島でみたものを、なんとかして書き残したい。それが死んでいったものたちにたいしての、生き残った自分の義務である。そのために文章を書くことを初歩から勉強し、これからの一生をそのためについやしても悔いはない。私は島にいたときに、そう思った。私が文学への志向に情熱をもやすようになったのは、そのころからである」
 そして、トラック島日誌という小説のなかで、
「死んでいったものたちのあの気持ちについて――自分たちのあの気持ちについて、書きのこさねばならん。十年かかっても二十年かかっても、ものを書くことを、これから勉強するんだ」
 窪田精はのちに日本民主主義文学同盟の議長をつとめた人である。
 朝日茂にしろ、窪田精にしろ、「書くということが、そのまま生きるということに深く繋がっている」ということが言えるだろう。
 わたしは昨年の年賀状に「趣味の小説を少しずつ書いて、健康で文化的な生活を送りたい」というふうに書いた。すると、ある作家から「小説は趣味で書くものではない」という指摘を受けた。むろん小説が趣味で書けるようなものでないことはわたしも承知していた。が、この賀状はいろんな人たちに出すものなので、わたしの気持をオブラートに包み込んで書いたものであった。しかし、文学に携わっている人たちには誤解を与えたようである。
 ではいったい、わたしはどんな立ち位置から文学と向き合おうとしているのだろうか。「小説が趣味で書けるわけがない」と言われるけれども、朝日茂や窪田精と同じようなモチベーションの地平に立つこと――、それはわたしにはとうていできないことだ。
 ――うしろすがたのしぐれてゆくか
 ――どうしようもない私が歩いている
 ――まっすぐな道でさみしい
 ――分け入っても分け入っても青い山
 ――生死の中の雪ふりしきる
 これは放浪の俳人、種田山頭火の句である。
「私に出来る事は二つしかない。酒を飲むこと、句を作ること。作ることが生きることである」山頭火もまたこのように述べている。では、山頭火と同じようなことができるのか。わたしは酒を飲むことも句を作ることもできない、どうしようもない人間である。「生きるために句作をする」という種田山頭火もまたたぐいまれな人である。
 わたしの人生に降り積もったもろもろなものをそぎ落とせば何が残るというのだろうか。「六十五歳からの旅立ち」にあたって、かさぶたを剥ぐように、それらのものを取りのぞかなければならないだろう。慙愧に堪えなくて、あるいは真紅の血が流れるかも知れない。
 血を流したあとに残ったものは、「ものを書くということと本を読むということ」だった。つまり、残余の生をまっとうしてゆくために、わたしに残されたものは二つだけである。ここまできて、何をためらうことがあるというのか!
 ああ、どうしようもない人生だった――。わたしの人生なんて振り返りたくもないが、もしそれをたどれば、恥じ入るばかりであろう。きっと、恥じの炎で身を焼かれるに違いないのだ。
 わたしは残余の生(自分の終焉ははるか遠くにしかみえないのだが)を、文学のためにこそ生きたいと思う。もちろん、なんといってもいい小説を書くことだ。そのためにいい本をたくさん読むことである。
 また、「まがね文学会」の発展のために尽くしたいと思っている。「まがね文学会」は、ここ二、三年で大きくさま変わりをした。ひとことでいえば、世代交代の時期を迎えたのである。幸いなことに、若い世代が新しく入会して、歴史と伝統を引き継いでゆく可能性に満ち溢れている。
 「まがね文学会」のめざす方向は、何よりもいい作品を産み出すということだ。その試みとして、二〇一三年より「実作文学教室」を開催してゆくことにした。題名を決めて、参加者全員が原稿用紙五枚以内の作品を持ち寄り、実作研究をするというものだ。
 一月には「駅」という題名で「実作文学教室」を開く予定である。三作品がわたしの手元に届いているが、すぐれた掌編小説となっている。五枚以内で「人生の断面」を鋭く切り取っているのだ。こうした修練をつんでゆくなかで、いい作品が産み出されてゆくことになると思う。
 つぎにめざす方向は、会員を増やしてゆくことである。特に、若い世代と女性を会に迎えたいと思っている。量と質は大いに連関しあっており、仲間を増やす中でいい書き手が発掘できるし、いい作品を書く中で仲間が増えてゆくという関係だ。こうして、「まがね文学会」の発展のために、つまり量と質の発展のために尽くしてゆきたいと思っている。
 わたしの人生に降り積もったもろもろのものをそぎ落とせば、あとに残ったのは文学というものだった。「書くということは生きること、生きるということは書くこと」と述べたのは、朝日茂であり、窪田精であり、種田山頭火である。わたしは彼らのようには決して生きてゆけないが、彼らの背中を見失わないように、そのあとを追って、ひたすら生きてゆきたいと願うものである。それは、「分け入っても分け入っても青い山」かもしれないが、文学という青い山のなかに、分け入ってゆきたいと祈りにも似た心持でいる。
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随想 「小説のある暮らし」 

  小説のある暮らし
              鬼藤千春

 私の先輩に俳人がいる。その彼は次のように語っている。
「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」
 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。
 が、俳人の金原まさ子は、一日一句を実行し、自身のブログを毎日更新している。彼女は現在百二歳で、毎日五時間は俳句を詠むために、机のまえに座っているという。あっという間に時間が流れ、愉しくて仕方がないと語っている。
 翻って、創作を志している私はどうだろうか。六十五歳で仕事からはなれ、やがて一年がくる。自由な時間を豊富に手に入れることができたが、いささかそれにとまどっている。原稿用紙に向かっても、筆は思うように進まない。テーマは? モチーフは? 題材は?
などと考えて、堂々巡りするばかりだ。
 しかし、書くという営為は、なぜこうも難しいのだろうか。
「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」
 このような言葉を残しているのは、小林秀雄である。
「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」
 ある詩人の言葉だ。
「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」
 こう語るのは、竹西寛子である。
 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを想いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになる。
「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」
 ある作家の言葉である。
「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」
 これは、ある同人誌の主宰者の言葉だ。
 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く聳えていて険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶される。
 が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂がまっている。頂上に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられないのだ。
 私は向精神薬を服用しているのだが、これが厄介な薬である。便秘と白昼眠気を誘うという、副作用に悩まされている。過日、車を運転中に睡魔に襲われ、ガードレールに激突し車は大破した。幸い相手もいなかったし、私もかすり傷ひとつ負うこともなく済んだ。
 それ以来私は、食後に三十分ずつ睡眠を摂るようになった。深夜の睡眠は午前0時から六時までである。その他に朝、昼、夕食後に横になって眠る。おそらくこういう日常を送っている人は極めて稀だろう。
 午前中は海の見える公園に出かけてゆき、一時間の散歩をする。我が町には川はないが、青い海があり山があり、青い空がある。自然に恵まれた古里の公園を歩んでいると、ウグイスの啼き声やヒバリのさえずりが聴こえてきて、私は耳を澄ます。散歩を終えて帰ると、パソコンを立ち上げ「夢日記」に、日々の想いを綴ってゆく。愉しい朝の刻である。
 午後と夜はそれぞれ四時間ずつ自由な時間に恵まれている。つまり、私の自由で貴重な八時間である。これをどのように生かすか殺すかは、私の掌中に握られている。幸い食後の睡眠で、眠気に襲われることはなくなった。
 この自由な時間を私は愉しみたいと思っている。それは、「読むこと」と「書くこと」が核となるような気がする。先輩の俳人は、「一日一句」を提唱しているが、私は「一日一枚」を胸に刻んで、書いてゆきたいと思っている。
 私の隣の街に、八十六歳の作家がいる。今も尚、健筆を揮っている。その歳までに私はまだ二十年ある。一年一作書いたとしても、二十編の小説を書くことができる。その作家を見ていると、限りない励ましを受ける。最低、一年にふたつの小説を書いているのだ。
 私は薬の副作用である便秘も漢方薬で解消されたし、睡魔に襲われることもなくなった。今は良好な健康体と言えるだろう。俳人の金原まさ子のように、四時間でも五時間でも机の前に座って、瞑想にふけることが愉しくて仕方ないような、そんな日々を送りたいと思っている。
「小説が書けると、芸術を通して社会と関わり、人生を豊かに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。すぐれた作品が書ければ、この素晴らしさは何倍にも輝きます」
 作家の風見梢太郎の言葉である。
「柳行李いっぱい書いて一人前だ」
 ある作家の言葉だ。
 が、いっぱい書いたからといって、いい小説が書けるとは限らない。それほど小説を書くということは、容易でないということだ。
 だが私は、苦しいけれども愉しみながら、魅力的な「小説のある暮らし」を送りたいと願っている。
プロフィール

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Author:FC2USER634322BTA
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 1947年生まれの68歳で、
「新日本歌人協会」の会員です。
 短歌創作を通じて、平和と民主主義をめざしています。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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