エッセー【啄 木 の 歌 集】

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2018年2月22日(木)晴れ時々曇り

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  啄木の
   歌に魅せられ
   図書館に
   足を運びて
   歌集を開く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 「あなたの好きな歌人を上げよ!」と言われれば、わたしはためらうことなく「石川啄木です !」と答えることでしょう。彼の歌とは青春時代に出会い、今でも繰り返し触れています。

 彼の歌は「一握の砂」、「悲しき玩具」という歌集に収められていますが、その中で特にわたしの胸を打つ歌を上げてみたいと思います。


  たはむれに
   母を背負いてそのあまり
   軽(かろ)きに泣きて三歩あゆまず

♪  友がみな
   われよりえらく見ゆる日よ
   花を買い来て妻としたしむ

  はたらけど
   はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
   楽にならざりぢっと手を見る


 これらの歌は、わたしの心情に深く触れてきます。つまりこころの琴線に触れて、わたしの心を震わします。わたしはその歌を前にすると、しばらく立ち止まってその感動に浸ります。

 そして吾が母を想い、周りの友人に想いを馳せます。さらに、楽にならないわたしの暮らしが甦(よみがえ)ってきます。これは啄木の歌でありながら、わたしのことを詠っているように思うのです。

 それだけ彼の歌は、普遍性をもっており多くの読者の心を捉(とら)えて離さないのだと思います。今もなお彼の歌は多くの人に愛されつづけています。

 わたしは折に触れて町の図書館に足を運びますが、海の見える図書館の勉強机に座って、啄木の歌集を開きます。彼の歌はわたしの心を深く打ち、わたしの心を豊かにさせてくれます。



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エッセー【がんと真向かう】

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2018年2月21日(水)曇り

 ご訪問いただき誠に有り難うございます。

♪  弟は
   がんと真向かい
   たたかいて
   生きてゆかんと
   手紙をくるる 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしと弟を称するとすれば、「愚兄賢弟」ということになります。わたしは何をやっても弟にはかないませんでした。

 まず勉強の方ですが、弟はわたしと比べてよくできたものです。わたしの通信簿にはカモメが群れだって飛んでいましたが、弟は上位の数字が並んでいたのです。

 カモメというのは、5段階評価で3ということです。良くもなく特別悪くもない平凡な成績でした。俳人の夏井いつきさんに言わせれば、「凡人」ということになるでしょう。

 ところが弟は殆んどの科目に優れていました。弟は勉強だけにとどまらず、あらゆることにわたしより抜きん出ていました。3つ上のわたしでしたが相撲をとっても負かされてばかりでした。

 また、いま藤井聡太で話題になっている将棋をしても、弟の方が強かったのです。つまり弟は、文武両道ということが言えると思います。

 その弟はいま北海道にいます。高校を卒業して彼はゼネコンに入社します。そして数年して、北海道に転勤になったのです。それからずっと北海道です。

 したがって彼に会ったのは、ちちははの葬儀のときくらいです。その彼がいま北海道で病とたたかっています。

 その病というのは肺がんです。もう手術ができないくらい進行しているそうです。抗がん剤治療や放射線治療をしているようですが、その副作用に苦しんでいるようです。

 「愚兄賢弟」のおとうとは、がんと真向いたたかっています。わたしにはどうすることも出来ませんが、ただただ遠くの地、岡山で彼の治癒を祈るのみです。元気でもう一度会えることを願っているところです。


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エッセー【草原にゆく】

シクラメン・11~3月



2018年2月20日(火)晴れ

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  憂うつな
   痔疾になりて
   コスモスの
   風にゆれいる
   草原にゆく 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしには持病が幾つかありますが、そのひとつが痔疾です。わたしは今までに3回も痔疾の手術をしてきました。3回も入院して苦労しました。

 わたしの痔疾は便秘と大いに関係があります。わたしは30代になって便秘に悩まされるようになります。便秘が解消されれば、「人生が変わる」と言われるように、便秘というのは厄介なものです。

 私の場合は便秘によって痔疾になったようです。それが原因です。便秘というのはほんとうに、わたしの人生のうえに大きく影を落としています。

 わたしの便秘には原因があるようです。それはメンタルのくすりの副作用だと思われます。わたしは30歳前後に、不可解な病気になり、メンタルのくすりを呑むようになります。

 そのくすりがわたしの便秘をもたらしているようです。メンタルのくすりをやめれば便秘は解消されるのでしょうが、そういうわけにもいかず、今も呑みつづけています。

 まさに、「あちらを立てればこちらが立たず」という情況なのです。メンタルのくすりも呑まなければならず、それを呑めば便秘を引き起こすのです。

 そして、つまるところ痔疾になるというわけです。痔疾もまた厄介なもので、「生き死に」に関係ないようだけれど、これもまた人生に暗い影を落としています。

 痔疾で困るのは下血の症状が出ることです。下血を起こせば、一日憂うつな気分に悩まされます。この下血はいつやってくるか分かりません。油断していると、不意に下血を引き起こすのです。わたしは痔疾の憂うつな気分を癒すために、海を見にいったり、コスモスの咲く草原に出かけていったりするのです。


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エッセー【花を手向けて】

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2018年2月19日(月)曇り

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  ちちははの
   静かに眠る
   奥津城に
   花を手向けて
   坂道くだる


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの人生はまだまだこれからだという思いが強いのですが、これまでの人生を振り返ったとき、倖せな人生だったような気がします。

 吾が人生はそれぞれの時代、局面を見れば負の部分が決して少なくはないのです。少なくないばかりではなく、小さくもありません。

 幼少期の極限の貧しさは、わたしの心身に深く深く刻まれています。米のめしを食べることが出来ず、メリケン粉を溶かしたものをフライパンで焼いて食べていました。

 家は雨漏りがして、雨が降る日には家の中には洗面器、バケツなどが並べられて、それらで雨だれを受けてそれを凌いでいました。

 そして決して忘れることができないのは、税金が納められなくて、自転車やタンスに差し押さえの紙を貼られたことです。その自転車に乗ろうとして、母にたしなめられたことをよく覚えています。

 青春期になれば、手にヤケドあとが残っていて、それのコンプレックスはわたしを悩まして、卑屈に生きていたように思います。

 その手をポケットに隠して、人に見られないように生きてきたのです。このような生き方は、わたしを小さな小さな世界へと押し込んできたのです。

 このような生き方をしてきたわたしでしたが、ちちははの生き方はわたしの人生の根っこに深く刻まれています。ちちははの貧しさとたたかう生き方は、わたしの人生に大きな影響を与えています。

 今あるわたしの人生の倖せ感をもたらしているのは、少なからずちちははの生き方を引き継いでいるからです。それ故、感謝の気持をいだいてちちははのお墓に参り、花を手向けて坂道を下るのです。



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エッセー【コスモス】

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2018年2月18日(日)曇り時々晴れ

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  コスモスを
   烈しく揺らし
   明けぐれに
   君の乗りたる
   電車は去りぬ 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 ここに出てくる「君」というのは、わたしの青春時代に付き合っていた恋人のことです。わたしの人生の中で最も輝き、深く結ばれていたのはこの「君」です。

 この彼女とはある青年運動のなかで、偶然に出会うことになります。わたしが住んでいた街に、彼女は大学を卒業して小学校の養護教諭としてやってきます。

 彼女も学生時代に青年運動をやっていて、それでわたしと出会うことになります。わたしはその街の市役所で組合の青年部活動をやったり、うたごえ運動をやったりしていました。

 彼女と出会ったのは、わたしが市役所を辞めた頃と重なっていたように思います。わたしは市役所を辞めて民間の建築会社に勤めていました。その会社でわたしは現場監督をしていたのです。

 その頃、ふたりは近くのアパートにそれぞれ住んでいて、仕事を終えてはよく会ったものです。お互いのアパートによく行き来するようになりました。

 わたしのアパートの横丁に銭湯がありました。時々、わたしたちはその銭湯に一緒に出かけました。それはまるで、南こうせつの「神田川」の世界です。

 そんな青春時代を送っていましたが、やがてふたりに別れの時がやってきます。わたしのアパートは、線路沿いに建つ古ぼけたアパートでした。

 六畳ひと間のアパートで、電車が通るたびに大きく揺れるような部屋でした。やがて彼女は、小学校を変わってわたしの住む街を去っていったのです。線路沿いのコスモスを烈しくゆらして、列車は明けぐれに遠くの街へと消えてゆきました。それはわたしのひとつの青春の終りともいうべきものです。



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エッセー【海 を 裂 く】

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2018年2月17日(土)晴れ時々曇り

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  図書館の
   前に広ごる
   蒼き海(み)を
   切り裂きすすむ
   漁船なりけり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしは図書館をよく利用します。むかしは、本代に毎月1万円くらい支出していましたが、今は殆んど本を求めるということがありません。

 読みたい本を思いつくと、まず図書館にあるかどうかをネットで調べます。岡山県のすべての図書館の検索ができますから、ネットは非常に便利です。あればネットで申し込めば、最寄りの図書館に届くようになっています。

 最寄りの図書館は、我が家から1キロほどのところにありますから、とても便利です。その図書館では、本を読んだり短歌を創ったり、エッセーを書いたりしています。

 図書館は冷暖房がついているので、暑さ寒さをしのぐことができます。快適に色んなことができるのです。わたしの町の図書館は、海辺に建っているので、瀬戸内海を見渡すことができます。

 「海の見える図書館」として町はピーアールしており、来館を促しています。まさに閲覧する机は、海の見える窓辺にしつらえられており、素敵なところです。

 わたしは読書などに疲れると、本を閉じて海を眺めます。図書館のすぐ前をカモメが群れて飛翔したり、堤防に降り立って羽根を休めたりしています。

 沖に目を投げると、蒼い海が広がっています。蝶が乱舞するように、陽射しを受けて海は光輝いており目を奪われます。いつまでも目を細めて眺めることがあります。

 そんな海を漁船が行き交っています。海を切り裂き、白いしぶきを上げてゆきます。まさに滑るように、瀬戸の海をゆくのです。わたしはいつまでもその漁船を目で追って、岬の先に消えるまで眺めるのです。そんな海の見える図書館は、わたしの心地よい居場所となっています。



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エッセー【深 き 白】

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2018年2月16日(金)曇りのち晴れ

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  見上ぐれば
   水平線の
   上空に
   深き白なる
   雲湧き出ずる


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの住んでいる町は、瀬戸内海をふところに抱く「海を抱く村」です。町の東と西の端にちょっと突き出た岬があって、ちょうど海を抱くように、入り江になっているのです。

 そんな町にわたしは住んでいるのですが、その町の前には瀬戸内海がゆったりと広がっています。瀬戸内海は多島美で有名ですが、わたしの前の海も多くの島が浮かんでいます。

 その町からは四国山脈も望めますし、瀬戸大橋も望めます。町の広報などでは、瀬戸大橋の見える町として、ピーアールしているくらいです。

 海辺に立って瀬戸内海を眺めると、瀬戸大橋が白く輝いて、島々を縫い岡山県から四国へと延びているのがよく見えます。海辺に建つ喫茶店に入ると、「あっ、瀬戸大橋!」と声を上げている、町外の人をよく見かけます。

 そして瀬戸内海の水平線が、弧を描いて水島灘(なだ)から笠岡諸島へと延びているのがくっきりと見えます。オレンジ色のフェリーボートが笠岡諸島を行き交っています。

 その水平線の上空に、折々に白い雲が湧くことがあります。それは殆んど夏に見られる光景ですが、目を奪われるような白い雲です。盛り上がるように白い雲は「湧き出ずる」のです。

 わたしが感動するのは、その雲の色です。単なる白い雲ではないのです。その雲は「深い白」なのです。深い白というのはどういう色なのだろうかと思うのですが、言うなれば乳色をした白色です。

 その深い白色をした雲を眺める時、深い感動に包まれます。しばらく海辺に立ち尽くして、その雲を眺めている自分がいるのです。それはまさに、自然と人間との深い交流です。



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エッセー【認 知 症】

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2018年2月15日(木)曇り時々晴れ

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  ご主人の
   ことをぽつりと
   主婦が言う
   「わたしのことが
   分からなくなった」と


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしのごく親しい人が、軽度の認知症になり、今施設に入っているのですが、軽度でも大変なようです。軽度ですから、積極的に何でもやりたがるそうです。

 しかし施設の人の言うには、何でも積極的に手をつけるのはいいのですが、後始末ができなくてその後の処理で、困っているということでした。

 先日、ある集会があって、それに参加するかどうかでひと波乱ありました。当初は、娘に送迎して貰うということでしたが、もう3日後にはそのことを忘れて、自分で歩いてゆくというのです。

 さらに、その集会への参加を親せきや友人に呼びかけるので、チラシを持ってきてくれというのです。わたしの隣町に施設はあり、少々時間もかかるし、「もう周りの人は誘わなくてもいいよ!」というのですが、しつこくチラシを要求するのです。

 仕方なくチラシは届けたのですが、結局誰も誘ったようすはなく、わたしの行為は無駄だったようです。それは初めから分かっていたのですが、これが軽度の認知症の方の実際の姿のようです。

 それでも軽度の認知症の方はまだいいほうです。我が家の隣の奥さんが散歩をしているのに出会って、立ち話をしました。ご主人は介護施設に入所しているのです。

 「ご主人はどうですか?」と訊くと、「わたしのことが分からなくなった!」とポツリというのです。奥さんは落胆してそうわたしに言いました。奥さんのことが分からなくなったのですから、もうほんとうの認知症でしょう。

 認知症は増えつづけています。さらに高齢化が進むともっと認知症の方は増えてゆくように思います。それは決して他人事(ひとごと)ではなく、自身の問題でもあります。今から、認知症をさける生活習慣をしてゆくようにしたいと思っています。



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エッセー【燃える父】

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2018年2月14日(水)晴れのち曇り

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  ぼうぼうと
   燃えゆく父の
   罐(かま)の音
   唇噛んで
   立ち尽くすなり


 この短歌は、不意に父のことが甦(よみがえ)り、最近詠んだものです。

 父が亡くなったのは、もう十数年前のことになるでしょうか。しかし今でも晩年の父の姿が、脳裏に浮かび上がってきて懐かしく思い出されます。

 父は明治37年生まれで92歳でなくなりました。今年は明治維新より150年として、無条件に祝う向きもあるようですが、それはほんとうの歴史というものを正視していないように思います。

 明治150年の前半は、おおよそ他国への侵略戦争が断続的に実行されてきたのです。明治維新は1868年ですが、良く知られた戦争を上げただけでもそれはよく分かります。

 1894年、日清戦争。1904年、日露戦争。1914年、第一次世界大戦に参戦。1918年、ロシア革命への干渉戦争。1931年、満州事変。1937年盧溝橋事件。1941年真珠湾攻撃。

 このように、次から次へと他国への侵略を繰り返してきた歴史が浮き彫りになってきます。したがって、無条件に明治150年を祝えないと思えるのです。

 父はそれらの戦争に3度も徴兵され、銃弾の飛び交う戦地に赴いていったのです。それは父の生涯にとって、痛ましい過去として身体に刻まれているように思います。

 父が戦争と貧しさから解放されたのは、晩年になってからです。ようやく父の笑顔が見られるようになったのは、その頃だったように思います。そんな小さな倖せも束の間で92歳で亡くなったのです。

 わたしはその父を斎場に見送りにゆきました。すると、焼却の罐がボッと燃えて、ぼうぼうという音が聞こえてくるのです。父が燃えているのです。わたしは唇を噛んで、立ち尽くしていました。
 


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エッセー【玉葱とニンジン】

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2018年2月13日(火)晴れ時々曇り

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  「しんぶん」の
   紙代とともに
   玉葱を
   届けてくるる
   人のありけり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 集金の仕事をされた方はどなたでもわかるでしょうが、これはなかなか大変なものです。どんな仕事でも集金を終えて、ようやくその仕事が完了したといえるのです。

 仕事にはクレームはつきもので、集金の際に指摘されることが多く、すんなりと集金するというわけにはいかないものです。わたしも石材関係の営業をしていたので、その苦労は身に染みています。

 わたしの今日の話は、「しんぶん」の集金についてですが、これも厄介なものです。「しんぶん」の場合は、クレームということは殆んどありませんが、無言のクレームというものがあります。

 それは購読中止という形で表れますから、集金の際はハラハラドキドキです。集金に伺って、購読中止を言われないかと、いつも心は緊張しています。簡単な業務のようですが、それがそうではないのです。

 そして「しんぶん」の集金の苦労は、留守のお宅が多いことです。ひどい時には集金件数の約半分が留守ということもあります。そして時間をおいてまた行くのですが、その留守宅のその半分がまた留守ということもあります。

 また、集金時に金の都合のつかない人もあり、残念に思いながらそのお宅を後にすることもあります。庶民の生活の実態を目の当たりにすることもあり、痛々しく感ずることもあります。

 そんな人は心の優しい人が多いようで、その人はある日わたしの家を訪ねてきて、「しんぶん」代を持ってきてくれました。金とともに、玉葱、ニンジンなどを袋に入れて、訪ねてきてくれたのです。なんて心のこもった野菜でしょうか。わたしの心をほんとうに温かくしてくれました。集金にはこんなドラマもひそんでいます。



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エッセー【贈られし言葉】

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2018年2月12日(月)晴れ時々曇り

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  「新しき
   変革の道へ
   歩み出でよ」
   高校の師の
   贈りし言葉


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 永い人生の中で人は出会いと別れを繰り返すことになります。その出会いの中で自分の一生を決定づけるような出会いもあります。

 その出会いがわたしに訪れたのは、高校時代のことです。わたしはその時代に世界史の教師と出会ったのです。その高校はとても荒れていました。

 生徒ももちろん悪かったのですが、それに対して一部の先生たちは、暴力をもって対処していました。横一列に生徒を並ばせて、顔面を次々に殴ってゆくようなこともありました。

 退学処分や自宅謹慎などを乱発し、制裁によって生徒を抑え込もうとしていたのです。暴力や制裁は決していい解決方法ではありません。負の連鎖となって、ますます生徒は荒れるようになり、先生の目の届かないところで、非行に走るようになります。

 ところが、世界史の教師を始めとして、組合の先生方は生徒との交流を重視して、率先して生徒の中に入ってゆきます。授業なども工夫して、生徒の興味を惹きつけるようにやっていました。

 物理の先生は、「今日は教科書を閉じていい。先日観た演劇の話をしよう!」と言って、「阿部一族」の物語を語ってくれました。先生は教卓に座って、「阿部一族」の話を熱く語ったのです。

 世界史の教師は、ベトナム戦争について、その本質を分かりやすく話してくれました。そして日本が如何にこの戦争にかかわっているか、ということなども詳しく語ってくれたのです。

 そしてその教師は「新しき変革の道へ歩み出でよ!」と、わたしたちに語り、高校を送り出してくれました。それが先生の「贈る言葉」だったのです。その言葉は今もわたしの心に深く刻まれています。



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エッセー【父の日】

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2018年2月11日(日)曇り時々晴れ

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  父の日に
   養女となして
   育てたる
   嫁ぎし子より
   枕が届く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの兄は36歳の若さで亡くなり、3人の子どもが残されました。わたしは3人の子どもを養子、養女として育てることになります。

 わたしの兄は、勉強は出来なかったけれど、とても人のいい好人物でした。兄は父の仕事を継いで、型枠の大工をしていましたが、酒が入ると人が変わったようになります。

 ある時、長兄と喧嘩をして、実家の土間や玄関先に灯油をまいて、「火をつけるぞ!」と脅したことがあります。すると母は、その灯油の上に座り「火をつけてくれ!」と言って、まさに修羅場となったのです。

 しかし普段は、仕事仲間などにも慕われていました。子どもたちもよく可愛がり、よく面倒を見、あちこちに連れていったようです。

 死因は肝臓の衰弱という診断がなされましたが、わたしは洗面所で倒れて、手洗いの陶器に頭をぶつけて亡くなったと思っています。トイレにいってよろけて頭をぶつけたのが真相のようです。

 そんな兄が、双子の兄弟と娘を残して亡くなったために、わたしが3人の子どもを養子、養女としたのです。つまり、わたしは兄嫁と結婚したというわけです。

 3人の子どもは、グレルこともなく順調に育ってくれたと思っています。それぞれ家を新築し、独立して新しい家庭を築いています。

 3人の子どものうち、養女は看護師となり、看護師の夫とともにいい家庭を営んでいます。その養女から、父の日に贈り物が届きました。開けてみると、珍しいイグサの枕だったのです。わたしは彼女に感謝しつつ、夏用として愛用しています。



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エッセー【海峡を渡る蝶】

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2018年2月10日(土)雨時々曇り

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  海峡を
   黄色き蝶が
   渡りゆく
   風に真向かい
   羽震わせて


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの町は村と言ってもいいような、小さな集落ですが、背後には竜王山をはじめとした小高い山々が連なっています。その山の南には瀬戸内海がゆったりと広がっています。

 地場産業と言えば漁業ですが、みっつの港に漁船が係留されたり、出たり入ったりして、せわしなくしています。また、以前はバンコック帽子などが盛んに作られていました。今もなごりの帽子が産業のひとつになっています。

 漁師がいれば当然それを販売する魚売りもいます。わたしの町を出て、近くの町へと魚を売って歩くのです。また、わたしの町はカキの養殖で知られており、テレビなどの取材も少なからずあります。

 そうした町の突端に、今は埋め立てられている三郎島というところがあります。その三郎島の先に、三ツ山というみっつの島が浮かんでいます。以前はみっつの山にそれぞれ松の木が生えていたのですが、今はなくなっています。

 とても景観のいいところですが、三郎島と三ツ山の間にちょっとした海峡があります。その三ツ山を撮りにカメラマンがよくやってきます。三ツ山と日の出を撮りにくるのです。

 わたしも折に触れて、その場所にゆくのですがある時、黄色き蝶が海峡を渡っているのに出会いました。三郎島から飛び立った蝶が、三ツ山をめざしてゆきます。

 風の舞う中を、風に真向い懸命に黄色い翅(はね)を震わしているのです。海峡を渡る黄色き蝶のけなげさは感動的です。小さな小さな蝶ですが、わたしには大きくクローズアップされて迫ってきます。その小さな蝶の生命(いのち)は輝いており、わたしの胸を打ちます。



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エッセー【じっと見上ぐる】

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2018年2月9日(金)晴れ

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  図書館に
   陳列さるる
   吾が歌集
   棚の前にて
   じっと見上ぐる


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしは高校時代に文芸部に入り、それから詩、随想を書くようになりました。これがわたしの大きな人生の転換期だったように思います。

 それまでのわたしの人生は惨めだったように思います。小、中学時代は貧窮の底にあって、殆んど米の飯を食べることがなかったのです。麦ごはんだったり、メリケン粉を溶かして、フライパンで焼いたりしたものを食べて、貧しさというものを痛感してきました。

 思春期になると、幼い頃に右手にやけどを負った傷跡を、コンプレックスに思うようになります。級友たちにはその手を隠して卑屈な生き方をしてきました。絶えずポケットに手を入れて、人に見られないようにしてきたのです。

 ソロバンの時間や建築の製図の時間などは、右手を人前にさらすようになるのでとても厭でした。だから、その授業はよくサボったものです。教室の机には座っていましたが、まともに授業に取り組まなかったのです。

 そんなわたしに転換期をもたらしたのが、高校時代の文芸部だったのです。文芸部の活動のなかで、コンプレックスから逃れようとの葛藤が始まったのです。そして、詩や随想を書くようになりました。

 社会に出ると小説を書くようになります。そして短歌です。小説は数年前に「磯の光景」という、鬼藤千春短編小説集を出版し、短歌とエッセーは昨年、「海を抱く村」という本を出すことができました。

 図書館にゆくと、わたしの2冊の本が陳列されています。その前に立ってわたしは本棚を見上げるのです。「これがわたしの生きてきた証だなあ!」 という感慨をもって立ち尽くし、その2冊の本を眺めている自分がいます。



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エッセー【吾が思想】

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2018年2月8日(木)晴れ時々曇り

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  人生に
   紆余曲折が
   あろうとも
   吾のいだきし
   思想はゆるがず


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの人生には色々なことがあったように思います。初めて社会に巣立っていった時に就いた仕事は、市役所の職員でした。ところが、3、4年で市役所を辞めてしまいます。

 近所の人や母などは「安定した職場にようつけたなあ!」といって、喜んでくれたものです。しかし、さまざまな悩みがあって、誰に相談することもなく、「退職願」を提出してしまいます。

 わたしは組合の役員をしていたこともあって、それはその日にうちに受理されます。その処理は、例外というほどに早かったことを覚えています。

 市役所を辞めて、それからいくつかの職を転々とし、定年の時に就いていたのは、石材関係の仕事です。これは20年続き、わたしの最も充実した仕事人生となっています。

 そして不可解な病気になったり、20歳の娘が多額の借金を作って、自己破産寸前までいったりしました。その処理のために、わたしは奔走したりしました。

 このように、わたしの人生は紆余曲折の波乱に満ちた人生だったように思います。ただ、人生とは決して真っ直ぐに進むものではない、ということが言えると思います。

 そうした波乱に満ちた人生だったけれど、高校時代に抱いた想い、思想は一度たりともゆるがず、ぶれずにひとすじの道を歩んできたように思います。

 多くの仲間がその道から離れてゆきましたが、わたしは何故かその道からそれることはありませんでした。それは偶然のように思えるのですが、必然のようにも思えるのです。真理にふれた時、人間はあくまでそれを追い求めるもののように思います。


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エッセー【山門に立つ】

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2018年2月7日(水)晴れのち曇り

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  きざはしを
   上り上りて
   疲れたる
   心をいだき
   山門に立つ


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 「きざはし」というのは階段のことですが、我が家の近くに峠の寺があります。その寺の鐘はあかつきと夕刻に、厳(おごそ)かに打ち鳴らされます。

 日常生活の折々に、わたしはその鐘の音(ね)を聴きながら暮らしています。気ぜわしい日々を送っているわたしにとっては、とても心が癒されます。

 もう仕事から離れ、自由な時間があり、気ままに暮らしているようでも、悩みがないというわけではありません。人間が生きるということは、大変なことのようです。

 悩みや喜びは絶えず起こり、心はいつも振り子のように揺れています。例えば、辺野古の基地をめぐってたたかわれた名護市長選挙。わたしの応援していた候補者が敗れてしまい、わたしの心を暗くしてしまいます。

 また将棋の藤井聡太棋士が、4段から5段に昇段すれば、喜びもひとしおです。2月17日に羽生善治竜王と対局が決まり、いまからウキウキしてしています。その日は生中継があるので、朝から深夜まで視聴する予定です。

 このように、悩みや喜びはわたしの暮らしの中で絶えず生起しています。そして心が疲れると、峠の寺へと足を運ぶことがあります。心の安らぎを求めて訪ねてゆくのです。

 「きざはし」を登ってゆけば大きな山門があります。「きざはし」を上り上りて山門に立つのです。山門に立って振り向けば、瀬戸の海が青く青く輝いています。もうそれだけで、心の疲れが溶けてゆくような気になります。

 そして足を踏み出して、境内を巡るのです。大イチョウを見上げたり、赤く染まったモミジを眺めたりします。わたしはこのように、折に触れて古刹(こさつ)を訪ね、心のバランスをとっています。



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エッセー【黎明を待つ】

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2018年2月6日(火)晴れ時々曇り

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  午前二時
   不眠症なる
   この吾は
   歌をつくりて
   黎明を待つ


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの睡眠が、医学的に不眠症かどうかはよく分からないのですが、正常ではないことは確かなようです。医師に相談して眠剤を処方して貰ったこともありますが、副作用に悩まされて、すぐにやめてしまいました。

 正常でない睡眠は、30代の頃から今も続いています。永い永い期間、悩まされてきたというわけです。その悩みとはおそらく生涯にわたって、付き合うことになると思われます。

 異常な睡眠はとても辛いものがあります。床に就いて眠っていても、不意に目覚めてしまい、また眠ろうとしてもなかなか眠りにつけないのです。無理に眠ろうとするとかえって、苦しむことになります。

 目覚めは、いつとはなしにやってきます。午前2時だったり4時だったりするのです。そこで寝返りを打って、もう一度眠ろうとするのですが、ふたたび眠りに入ってゆくことができないのです。

 そうなると、わたしは思い切って起き出すようにしています。起きている方が眠りに入ろうとする苦しみよりもはるかに軽いのです。起き出して、短歌を創ったり書き物をしたりする方が、ずっと楽なのです。

 たとえば短歌を創るとすると、57577の原稿紙に向かい、想像力を働かしてそれを埋めてゆきます。今はパソコンにそういうフォームを作成して、それに打ち込んでゆきます。

 先の短歌はそうしてできたものです。短歌を創りながら、外が明るんでくるのを待っているのです。つまり、黎明を待つことになります。そうすれば、不眠も決して辛いばかりではなく、得るものもあるのです。このように、不眠とも上手に付き合えば収穫を手にすることができます。




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エッセー【花を手向けて】

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2018年2月5日(月)晴れ時々曇り

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  ちちははの
   眠る奥津城
   雨にぬれ
   花を手向けて
   山道くだる


♪ この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 父は戦前3度徴兵され, 戦地に赴(おもむ)いています。今年は明治維新から150年ということで、各地で催しも計画され、お祝いのムードもあるようです。

 しかし、150年のうち負の遺産も少なからずあります。他国への侵略という歴史を、決して忘れてはならないと思います。また国内においても、平和と民主主義がないがしろにされてきた歴史もあります。

 父はそういう歴史の、負の遺産の時代に青春時代を送ってきたのです。それは自ずと我が家の暮らしをも過酷にしてきたように思います。我が家の戦前戦後は、厳しい貧窮を余儀なくされてきたのです。

 父は木造大工でしたが、戦後30年代になって、鉄筋コンクリートの建築物が多くなり、型枠の大工に転身することになります。型枠の大工というのは、鋳型(いがた)と同じように、コンクリートの枠をつくることです。

 わたしも父の仕事を手伝ったことがありますが、設計書を見ながらその枠を造るのは、それなりの知識と経験が求められます。父は岡山県の著名な建物の仕事に、棟梁として携わってきたようです。

 母は一時期、助教をしていたようですが、大半は農業、内職をして家計を助けていたようです。父も母も働きづめの一生を送ってきたように思います。その姿はわたしの人生にも少なからずよき影響を与えています。

 その父と母のお墓は、菩提寺の墓苑のなかにあります。わたしは折に触れて、ちちははのお墓を訪ねてゆきます。お墓に手を合わせれば、生前のちちははの姿が鮮やかに甦(よみがえ)ってきます。

 ちちははの生涯はいったい幸せだったのだろうか、という思いが不意に湧いてくることがありますが、4人の子どもを育て孫やひ孫へと命を繋(つな)いできたのですから、それは意味ある生涯だったということができるのではないでしょうか。



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エッセー【「貧乏の歌」】

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2018年2月4日(日)曇り時々晴れ

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  順三の
   「貧乏の歌」を
   読みにけり
   しんしんと雪の
   降りゆく夜に

  戦争に
   あまたの歌人は
   協力し
   非戦つらぬく
   順三、妙二


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 順三というのは、渡辺順三のことで1894年に生を受け、1972年に亡くなっています。初めてこの名前を聞く方も多いと思いますが、わたしの好きな歌人のひとりです。

 彼は富山中学中退後、上京して家具屋の小僧となります。その仕事に10数年携わりますが、その時代のことを詠んだすぐれた短歌があります。わたしの好きな歌のひとつです。ここにそれをご紹介します。

 手のひらに
  堅きタコあり
  あはれわが
  十六年の
  錐(きり)もむ仕事


 この歌は貧しく、家具屋の仕事を営んできた彼のようすをリアルに表現しており、読む者の胸を強く打ちます。この歌は彼の歌集「貧乏の歌」に収められています。

 その歌集をわたしは、雪のしんしんと降る夜に2階の書斎で読み、大いに惹かれたものです。わたしの心に深く刻みこまれた順三の歌集です。

 彼は後年、プロレタリア短歌運動の推進者として活躍しています。そして何よりも彼のことをたたえたいと思うのは、戦争賛美の歌を一切作らなかったということです。

 多くの歌人が戦前、時流に流され戦争賛美の歌を詠んだものですが、渡辺順三、佐々木妙二らは、非戦をつらぬいて、戦前の過酷な社会を生き抜いてきました。それもまた、わたしの心を惹きつけることになっています。彼はわたしの心の師です。



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エッセー【亡き母の言葉】

シクラメン・11~3月



2018年2月3日(土)曇りのち晴れ

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  亡き母は
   晩成なれと
   吾に言い
   何時も励まし
   くれし杳(とお)き日


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 今になって思えば、わたしは小、中、高と、家で勉強をしたことが殆んどありません。では図書館で? と思われるかも知れませんが、それもまったくないのです。

 では勉強が嫌いだったのかと言えば、そうとも言えないのです。だいたい勉強がどういうものか、ということも分かってなかったのですから、好きだ! 嫌いだ! という意識もなかったように思います。

 わたしの小、中の成績は、通信簿にカモメが群れになって飛んでいました。つまり、5段階評価で殆どが3ということです。ごくごく普通な、良くもなく悪くもない、なんとも面白くもない成績でした。

 わたしが勉強に目覚めたのは、高校3年の頃からだったように思います。その頃、文芸部に入って文学や社会に対して、関心が向くようになったのです。それから意識的に勉強を始め、面白くなったように思います。

 小、中学生の頃、成績が芳(かんば)しくなかったのですが、両親は殆んどそのことに触れなかったように思います。たぶん子どもの勉強どころではなかったのではないでしょうか。

 子どもの勉強よりも何よりも、一家6人が食べてゆくのに腐心していたように思います。戦後の生活の困窮にあえいでいたからでしょう。日々の暮らしを営むのに精いっぱいだったようです。

 ところが、母は折に触れてわたしにこんなことを言って励ましてくれました。「千春は、大器晩成だから頑張れよ!」という言葉を掛けてくれたのです。その言葉はそれからずっと今まで、わたしの中で生き続けています。

 大器とはなれなかったけれど、ひとすじの道は歩んでこられたように思います。言葉というものの大切さを痛感しています。



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エッセー【旗ふる乙女】

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2018年2月2日(金)晴れのち曇り

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  暑かろう
   寒かろうにと
   思いけり
   道路で赤き
   旗ふる乙女


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 昔はあまり見られなかった光景ですが、今では道路工事や電線工事、樹木の枝切りなどをする時は、必ずガードマンがついて交通整理をしています。

 道路占用許可申請を警察署に提出する時、それが義務付けられているからです。わたしも道路に車を停めて工事をした経験がありますが、ガードマンの配置を求められたものです。

 少し前までは交通整理員といえば、殆んどが男性だったようですが、今では女性の方も結構見かけるようになりました。警備員の仕事も男性、女性の垣根がなくなってきたように思います。

 この仕事も楽なように見えて結構大変なようです。それは警備員の顔をみればよく分かります。どの人もどの人も赤銅(しゃくどう)色に焼けて痛々しいようです。

 車で走っていて、警備員によく会いますが、冬は丸々と衣服を着用して、寒さ対策をしています。夏には汗を垂らし、目を光らせながら旗を振っています。

 わたしは夏には「暑いだろうなあ!」と思いつつ、彼らの横をすり抜けて車を走らせてゆきます。赤銅色の顔の目だけが鋭く光っています。一日、単純な作業をするというのは、思いのほか辛いように思います。

 冬には北風が吹き、雪が舞うような中に立って仕事をしています。その痛々しさが伝わってきます。それは決して楽な仕事ではないように思います。

 そんな仕事に、最近では乙女が携わっていることがあります。乙女が懸命に赤い旗を振っているのです。わたしは「暑かろうに、寒かろうにと」思いつつ、その乙女に同情しつつ、ひそかに声援を送っています。



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エッセー【佳き便り】

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2018年2月1日(木)曇り時々雪

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  佳き便り
   届く気がせし
   郵便の
   バイクの音に
   耳澄ましおり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 日本郵政の民営化によって、我が家はずいぶん不便になりました。以前の配達は、午前中になされていましたが、今は午後5時前後になったのです。

 それはただ単に、配達順路が変更になったのかも知れませんが、しかし配達員の労働強化や利潤追求による配達拠点の閉鎖、縮小なども考えられます。

 我が家への配達はまさに「夕刊」です。うっかりすると、その日の郵便物を取り忘れて、翌朝に気づくことがあります。民営化の弊害と言えなくもないでしょう。

 わたしはたいてい家にいることが多く、普段は2階の書斎で過ごしています。孤独というわけではありませんが、淋しさを感ずることがないわけではありません。

 書斎で本を読んだり、書き物をしたりして日々を送っています。そんな日々なので、時には外部からの情報を求めていたりします。それが電話であったり、郵便物であったりするのです。

 しかし電話は、リフォームの営業だったり、生命保険の紹介だったりすることが多く、昼寝などしていると腹立たしくなります。滅多にいい情報は届いてきません。

 郵便物も然りです。洋服のバーゲンセールや通販のカタログなどが届くことが多いのが実情です。「またか!」と、封を開けることもなく、ゴミ箱へ直行することが多くなっています。

 ところが、わたしは2階の書斎にいて、郵便のバイクの音に耳を澄ましています。「佳き便り」が届くような気がして、バイクが我が家の前で停まるのを待っているのです。「佳き便り」を待って、日々を過ごすのも、これもまたいいものです。



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エッセー【ジャズを聴く】

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2018年1月31日(水)曇り

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  夕さりて
   介護疲れの
   吾ひとり
   喫茶店にて
   ジャズを聴きおり


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 妻が左手首を骨折して手術をし、入院しました。入院はわずかな日数だったのですが、退院してからが大変でした。家に帰ったからといっても、何も出来ないのですから、介護や家事はわたしにすべてかかってきたのです。

 わたしは殆んど家事というものをしたことがありません。いわゆる亭主関白というのに当たっています。ですから妻が何もできなくなって、家のことはすべてわたしにかかってきたのです。

 買い物、炊事、洗濯などがいきなりわたしの仕事になってしまい、うろたえてしまいました。しかし、今までしたことがないといっても、放っておくことは出来ません。

 生きてゆくためには、それなりのことをしなければなりません。買い物、炊事、洗濯、妻の介護と一気にわたしの仕事は増えてゆきました。もともと家事に疎(うと)いわたしはお手上げです。

 しかし妻に教えられながら、家事、介護をやってきたのです。今更ながら主婦の仕事の大変さが実感できました。そんな日々が長い間続きました。わたしもいい加減疲れてしまいました。

 そうして思いついたのが喫茶店です。家の仕事をして、夕刻に喫茶店に行ってのんびりすることにしたのです。家のことをすっかり忘れて、ひとときを過ごします。

 コーヒーを飲みながら、雑誌に目を通しているとジャズが聴こえてきます。なんて心を癒してくれることでしょう。コーヒーの香りが漂い、ジャズが流れる喫茶店、心の疲れが溶けてゆくようです。

 一杯のコーヒーは決して安くはありませんが、喫茶店の何とも言えない空間は、人の心を癒してくれるのです。わたしはこれからも、日々の生活に疲れたら、喫茶店へと足を運ぶことになるでしょう。



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エッセー【寺 の 鐘】

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2018年1月30日(火)晴れ時々曇り

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  夕さりて
   峠の寺の
   鐘が鳴る
   少年少女が
   家路を急ぐ


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの家の近くに小さな峠があります。不思議なものでこの峠のこちら側と、その向こうとでは気象がずいぶん違います。こちら側は瀬戸内海に面した南の村落です。その向こうは内陸側になっています。

 峠の向こうは雪が降ったり、霜がおりたりしていても、こちら側は何ともないのですから不思議なものです。わたしの家は瀬戸の海側にありますから、冬はとても助かっています。

 その峠に寺があります。ずいぶん檀家の多い寺で、檀家は1500軒近くあるでしょうか。わたしの書斎から寺の本堂や大イチョウなども、望むことができます。大イチョウの黄葉に染まった大木は見事です。

 その寺の朝6時と夕刻の6時に、鐘が厳(おごそ)かに打ち鳴らされます。わたしはその寺の鐘を聞くと、なぜか心が落ち着き癒されます。どことなく心の奥深くに染(しみ)みわたってゆくようです。

 いまの時期はもう夕刻の5時といえば、薄暗くなって子どもたちは、外で遊んでいるということは殆んどありません。しかし、春から秋にかけては、6時から7時といえば子どもたちは外遊びをしています。

 寺の境内で遊んでいることもあれば、近くの公園で遊んでいることもあります。そして、夕さりて寺の鐘が打ち鳴らされると、少年少女は遊びを切り上げて、家路へと急ぐのです。

 こういう光景は都会では見ることはできないでしょうが、わたしの村ではまだまだ残っているのです。峠の鐘が鳴り、少年少女が遊びを切り上げ「また明日!」と言って家路を急ぐ光景は、どことなく郷愁を誘います。



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エッセー【カーテンを開く】

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2018年1月29日(月)晴れ時々曇り

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 目覚ましの
  時計が鳴りて
  二度とない
  今日が始まり
  カーテン開く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 考えてみればわたしたちは、絶えず未知なる時間を生きているのですね。一秒経(た)てばそれはもう過去の時間です。一秒一秒が未知の時間であると同時に、一秒一秒が流れゆく過去のものです。

 ところがわたしたちは、普通そのように考えて生活をしているわけではありませんね。たいていの場合、のんべんだらりと過ごすことが多いと思います。わたしはもう仕事に就いていませんから、ずいぶんいい加減な時間の使い方をしています。

 ドブに捨てるように、時間が無駄に流れてゆき過去になっている情況です。部屋の時計がコチ、コチとなって、時間が過ぎてゆきます。よく考えれば怖ろしいことですね。自身の命の時間が消えていっているわけですからね。

 しかしそんなことを真面目に考えていては生きていけませんね。一秒一秒が貴重な時間だとは分かりますが、それに囚われることはないように思います。一日を大雑把に捉(とら)えることも必要です。

 よく言われるように、教育、教養が必要です。教育とは「今日行く」ところがあるということ。そして教養とは「今日用」があるということです。若い人たちには当てはまりませんが、お年寄りにはこの言葉がとりわけ求められているように思います。

 朝目覚めたら教育、教養の言葉を思い出して欲しいものです。わたしは、「しんぶん」の配達のない時は、だいたい午前7時に起床するのですが、パジャマを脱いで着替えたら、一番にカーテンを開きます。

 そして空を見上げて、空模様を確認します。そうして新しい一日が始まります。二度とやってこない新しい朝です。カーテンを開いて、「さあ! 今日も生きるぞ」という思いが湧いてきます。新しい一日の始まりです。



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エッセー【儚(はかな)い恋】

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2018年1月28日(日)曇り

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  海に降る
   雪のごとくに
   消えてゆく
   儚い恋よ
   晩鐘が鳴る


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 いくつになっても人は異性に対して好意を寄せるもののようです。わたしにも折々にそんな経験があります。それはあるいは人間の普遍的なものかも知れません。

 誰でもそうでしょうが、わたしもいくつかの恋を経験して今日に至っています。小、中学生の頃の淡い異性への憧れ、青春時代のいくつかの烈(はげ)しい恋、そして出逢いと別れがあったのです。

 それはとても片手では足らないような出逢いと別れでした。普段は思い出すことは殆んどありませんが、不意に甦(よみがえ)ってくることがあります。

 一緒にクラシック音楽を聴きにいったり、演劇を観に行ったりしたことが思い出されます。または、コンビナートの夜景を見にスカイラインを走ったり、横丁の風呂屋へ一緒に出かけたりもしたものです。

 それはまるで南こうせつの「神田川」の世界でした。わたしは6畳ひと間の、階段がギシギシいうような古ぼけたアパートに住んでいたのです。そして夜になると彼女が訪ねてきました。それはもっとも輝いていた青春のひとコマだと言えるかも知れません。

 ところが今になっても異性への憧れは断ちがたいものがあります。それはある意味自然な人間の感情だと言えるでしょう。市民道徳や社会的な道義に反しない限り、それは許されるものでしょう。

 しかし、そんな淡い憧れは海に降る雪のように、とても儚いものです。海に降る雪は、降れども降れども積もるということはありません。儚く消えてゆきます。そんな折、寺の晩鐘が淋しく鳴って、儚い恋の終りを告げるのです。



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エッセー【懸命に生く】

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2018年1月27日(土)晴れ時々曇り

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 ♪ いつしかに
   心を病みし
   吾なれど
   錠剤呑みつつ
   懸命に生く


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしは30歳前後に不可解な病気にかかりました。耳鳴りがしたり、鉛のようなひどい倦怠感がしたり、新聞や本が3行と読めないような状態になったのです。

 そこでわたしは危機感をいだいて、耳鼻科医院やいくつかの総合病院を訪ねて、診察を受けました。ところが、どこの病院も内科的な異常は認められないとのことでした。そこで思い切ってメンタルクリニックに足を運びました。

 そのクリニックでは病名は教えられませんでしたが、くすりを処方されることになったのです。わたしが病名を尋ねると、「具体的な症状に対して、具体的な処置をするのが医師の務めです」と言って、病名は告げられませんでした。

 しかし医師の言うように、わたしの症状はみるみるうちに軽くなってゆきました。倦怠感もとれ、新聞や本も読めるようになったのです。が、耳鳴りだけは今でも続いており、くすりもずっと呑んでいます。

 もう治っているように思うのですが、くすりを中断すると、ずいぶん体調が悪くなります。したがって、くすりはおそらく生涯にわたって呑み続けることになるのでしょう。

 このくすりはわたしの症状によく効くのですが、副作用をもたらしています。便秘になったり睡魔が襲ったりするのです。車の運転は気を付けなければなりません。くすりというものは副作用がつきもののようです。

 わたしは30歳前後に心を病んで、今もなおくすりが手放すことができないのです。わたしがごく普通の日常生活を送れているのも、くすりのおかげということがいえるでしょう。くすりを呑みつつわたしは毎日、懸命に生きています。



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エッセー【ちちははを想う】

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2018年1月26日(金)曇り

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  奥津城の
   白磁の壷に
   眠りたる
   ちちはは想い
   花を手向ける


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 ちちははの墓は、我が家の菩提寺の寺墓地の中にあります。山に囲まれた静かなところです。父は養子でしたから、寺のすぐとなりに生家があります。

 春には桜の花が咲き、ウグイスが鳴く山ふところに抱かれた墓地です。秋には山が色鮮やかに染まってゆきます。朝夕の6時には寺の鐘が厳(おごそ)かに鳴り響きます。

 その墓をわたしは折々に訪ねてゆきます。わたしはなぜか祖父母を知らないのですが、ちちははへの想いは深く心に刻まれています。ともに貧しい暮らしをしてきたためでしょうか、その絆はとても強いものがあります。


  ちちははよ
   坂道のぼり
   また来たよ
   お墓の中は
   寒くないかい


 お墓を訪ねてはさまざまな短歌が想い浮かびます。もう何首ちちははの歌を詠んだことでしょう。それだけちちははへの思い入れは深く強いものがあります。

 ちちははのお墓は、父が生前に建立したものです。五輪塔と先祖墓の2基を建て、大層立派なお墓がそびえています。五輪塔などは柄杓(ひしゃく)で水をやるのがやっとという感じなのです。

 墓地への坂道を登ってゆくと、夏には夾竹桃が続いており、ピンク色に染まっています。ちちははは、生前ずいぶん貧しい暮らしを余儀なくされてきましたが、それはひとえに戦争のためだったように思います。わたしはお墓の前で、二度と戦争のない世界をと願っています。



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エッセー【友人の最後の言葉】

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2018年1月25日(木)曇り

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 「う、う」という
   言葉を残し
   君は逝く
   車椅子での
   半世紀を生き 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 青春時代から一緒に文学活動を続けてきた友人が一昨年、黄泉(よみ)の国に旅立ってゆきました。誠に残念に思うしだいです。わたしは彼から文学作法など、多くのことを学んできました。

 彼は多才で、小説、エッセー、詩、短歌などを創り、それぞれに出版をしています。わたしはそれらの本から多くの刺激を受け、今日まで文学活動を続けてくることができました。

 その彼は18歳の時、体育祭のムカデ競争で将棋倒しになり、首の骨を折ったのです。それ以来、車椅子の生活となり最初は自宅で母の介護を受けていましたが、その母が弱くなり福祉施設にやむなく移ったのです。

 その施設に移ってからも、八人部屋、四人部屋と変わりながら文学活動を続けていました。しばらく彼は右手にグルグル巻きにした太い鉛筆で書いていましたが、晩年はパソコンを使うようになりました。

 彼とは東京へ文学の旅に一緒に行ったり、地方の文学集会などにも一緒に行ったりしました。駅の階段を駅員さんに手伝ってもらい、引き上げたことなどが思い出されます。彼は意欲的に外に出ることを望んでいました。

 その彼が75歳で亡くなってしまいました。18歳から亡くなるまで車椅子の生活でした。彼はブログを開設していましたが、そのブログの最後の言葉が「う、う」という言葉だけなのです。

 「う、う」というたったそれだけの言葉が、ブログに残されて彼は逝ってしまったのです。この時、彼に急変が起こったのでしょうか。わたしはそれを知る由もありませんが、「う、う」という痛切な言葉は、わたしの胸を強く打ちます。わたしは彼のご冥福をただ祈るのみです。



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エッセー【裸足の少女】

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2018年1月24日(水)曇り時々晴れ

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 砂浜を
  裸足で少女が
  駈けてゆく
  小島の果ての
  虹に向かいて 


 この短歌は「新日本歌人」という歌誌に掲載されたわたしの歌です。

 わたしの町の沖に小島があったのですが、今は埋め立てられて陸続きになっています。その小島には100人~200人の人が暮らしていて、漁を生業(なりわい)としていました。

 こちらの町にやってくるのは船を利用していました。小、中学校の友だちも船でやってきます。わたしたちはこちらの町からその小島まで泳いでゆくことが夢でした。そして島まで泳ぐことが出来れば、一人前と言われたものです。

 その島の南側には長い砂浜が続いています。100メートルもあるような綺麗な砂浜なのです。海水浴にやってくる人も少なからずいますが、砂浜からすぐに深くなっているために、あまり海水浴には適していないようです。

 今ではその小島までは埋め立てられて、車でゆくことができるのです。観光客が車でやってきて、砂浜を歩いている光景をよく目にします。渚を歩いたり貝を拾ったりして楽しんでいます。

 ある時、その砂浜を裸足の少女が腕を前に突き出して、駈けてゆくのに出くわしました。懸命に渚を駈けてゆくのです。そのようすをしばらく眺めていました。

 すると、その小島の果てに虹が立っていたのです。裸足の少女はその虹に向かって、懸命に駈けてゆくのです。その虹をつかもうとするかのように、砂浜を少女はゆきます。それはまるで映画のワンシーンのように、美しいものでした。



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 「人生七十古来稀なり」の古希です。
 日々の暮らし・想いを自由に 綴って
 ゆきたいと思います。
 住所は岡山県浅口市寄島町です。
 青い海と緑の山、青い空をもつ素敵な村です。
 名前は「千春」ですが、男性です。

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